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2004年9月 アーカイブ

2004年9月 1日

逃したドジョウと涙の素描

8月31日(火)

一日中、研究室とマウスの飼育室を行ったり来たりしていたような気がする。

家に帰る途中、車を運転しながら面白いことを思いついた。

思いついたのだが、翌朝になってみたらどんなことだったかさっぱり思い出すことが
できない。思いついた場所は、名神高速の千里山トンネルに入るあたりで、その時の
周りの暗さとか車がまばらに通っている感じとか、「おれって冴えてるう」と考えた
ことなんかはありありと思い出せるのだが、肝心のひらめいた内容がすっぽりと記憶
から抜けてしまっている。手も足も出ない。

駄洒落みたいなものだったような気がしている。なーんだ、と思う方もいらっしゃる
かもしれないが、ちょっと気が利いていてパリのエスプリを感じさせるようなフレー
ズだった。自分で言うのもナンだがあれは素晴らしい思いつきだった。全く残念なこ
とこの上ない。

彫刻家の舟越保武氏の「巨岩と花びら」という随筆集に、大切なキリストのデッサン
を無くしてしまう話が出てくる。

氏は、キリストの顔を何度も何度もデッサンするのだが、どうしても納得いくように
書くことができない。それでも、あきらめずに何度も書き直しているうちに、一枚だ
けびっくりするくらい上手くかけたものがあった。

自分が書いたとは思えないほど上手に書けたものだから、氏はでんぐり返りをしたく
なるほど喜んだ。

二度と書けないかもしれない傑作デッサンを大事に保存するため、クレパスの粉が落
ちないようにフィクサチーフというものをスプレーした。

するとなんということか、スプレーした部分が濡れて水滴になり、キリストの顔の上
を沢山の水滴がだらだらと落ちていきそうになった。

言葉にもできないほどのショックでどうすることもできず、氏はただその水滴がした
たり落ちるデッサンを見つめていた。

すると、両目のあたりにできた水滴が下の瞼の中央に集まり、二筋の涙のように両頬
を流れ落ちていった。

かくして、フィクサチーフの水滴はそのデッサンを描きあげた時点では思いもよらな
かった効果を生みだし、それは本当に二度とは書くことができない作品となった。


その随筆は、「どこを探してもデッサンはみつからないが、そのうち見つかると信じ
ている。でも、気持ちが落ち着かないのよね」というような感じで終わっている。そ
して、その隣りのページには、キリストの顔のデッサンが載せられている。おそらく
その絵が、無くしたデッサンなのだろう。

僕はその随筆が好きで何度も何度も読み返しているのだが、文章を読み終えた後でそ
のデッサンが目にはいると、「あ、見つかったんだ。いやー、よかったよかった」と
毎回心から嬉しくなってしまう。

悲しさと優しさと強さが同居している、とても素晴らしいデッサンです。

僕が忘れてしまった駄洒落は、舟越さんが書くデッサンには遠く及ばないものである
けれど、いつかまた思い出せればよいなあと思っている。フィクサチーフをかけるこ
ともできず、あいつはどこかへ行っちまった。

2004年9月 2日

「猫のコッター」とおじいさんの思い出

9月1日(水)

9月1日は母方の祖父が死んだ日。どういうわけか僕は最近、この祖父のことを良く
思い出す。

小さい頃、母親が祖父譲りの料理をよく朝食に作ってくれた。その料理は、母が小さ
い頃、祖父にキャンプに連れて行ってもらったときに教わったもので、「猫のコッター
」と呼ばれていた。

コンビーフを細かく砕いて、とき卵に混ぜ、塩と胡椒で味付けしただけのシンプルな
料理で、僕はこれをトーストした食パンにのせて、パンを半分に折って食べるのが好
きだった。半熟のうちに食べるのがポイントです。

小学校低学年の頃、「猫のコッターってどういう意味?」と母に聞いたことがある。

すると、母は冷たい目でニヤリと笑いながら、「コッターというのはドイツ語で『げ
ろ』という意味だよ。だから、猫のコッターは、猫のげろ」と教えてくれた。祖父が
ふざけて付けた名前なのだろう。

祖父は色々なものにあだ名をつけるのが好きな人だった。フランスの首相に似ている
から「ブリアンさん」と呼ばれていた知り合いのおじさんがいたし、出入りの電気屋
は鼻が大きいから「鼻」と呼ばれていた。

猫のコッターの意味を聞いたときはちょっとだけ驚いたが、僕は猫のげろを見たこと
がなかったし(実は今になってもまだ見たことがない)、名前はどうあれそれは文句
無く旨かったので、別にそれからも気にすることなく、母親によく作ってもらって食
べていた。

その後しばらくして、何となく猫のコッターは佐藤家の朝食メニューから消え去って
しまい、僕もすっかりその事を忘れていた。

それからまたまただいぶ時間が経って、病院で働くようになってから、ある日突然、
僕は猫のコッターのことを思い出した。

それは、ドイツ語では糞便のことを”Kot”といい、病院ではこの言葉を好んで使う
医者や看護師さんがいるからで、もしかして「コッター」とは”Kot”(こーと)の
ことではないかと思ったのである。

母は「猫のコッターってどういう意味?」と僕が聞いたとき、答えが「猫の便」じゃ
ああんまりだから、「猫のげろ」と嘘を教えたのではないかと思ったのである。

食べ物の名前をつけるのに「便」でも「げろ」でも似たようなものだが、まあそうい
う嘘をつくこともあるのかなあと思ったりしていた。その後もちゃんと調べることが
ないまま、月日はまたまた流れていったのだが、祖父が亡くなって丸14年が経った
この日(と言っても、書いているのは9月2日だが)、僕はとうとうコッターについ
て白黒はっきりさせることにした。

ちょっと時間が空いた夕方6時過ぎ、医局でドイツ語の辞書を探すと、なんと英和辞
典はあってもドイツ語の辞書がない。仕方がないので、図書館まで行ってみた。ちょっ
と面倒だったが仕方がない。僕は思い立ったのである。

人気がまばらになった図書館の中を歩いて辞書コーナーにいくと、ありましたありま
した。沢山の独和辞典、和独辞典たち。

発音から連想して、Kotのあたりからつらつら辞書を眺めていくと、”Kotze”という
単語がありました。これが「吐物」という意味らしいです。「コッツァー」という読
み方に近いのでしょうか。ちなみに、”kotzen”というのが動詞形で「へどを吐く」
という意味のようです。

ちゃんとありました。猫のコッターはちょっと読み方は違っていたけれど、ちゃんと
「猫のげろ」という意味でした。母は嘘をついていませんでした。母上さま、疑って
ごめんなさい。

長年の疑問を解決してすっきりした僕が図書館を後にすると、空は夕焼けがとても綺
麗でした。でも、これは9月2日の夕焼けで、昨日の夕焼けはもっと綺麗でした。昨
日は「太陽にほえろ」みたいな夕焼けだった。

2004年9月 3日

やっぱりドクターは高橋アナがお好き

9月2日(水)

近日中に開かれる学会のプログラム集を見ていたところ、現在僕がやっている研究と
完全に内容が競合している発表を発見した。競合しているというよりも、完全に先を
越されている。こちらが福岡辺りだとすると、向こうはすでに天竺まで着いていた。
といったら言い過ぎかもしれないが、ずっとずっと先を行っていた。悟空と猪八戒ま
で連れていやがった。PubMedで論文を検索したところ、やはりもう既に論文としてパ
ブリッシュされていた。あらいやだわ。

テーマから言ってもこういうことは十分予想できることだったので、まあ仕方がない
よなあ、というのが正直な感想である。むしろ、まだ方向転換が可能な段階で、先行
論文を発見できたのはラッキーとさえ言えるだろう。


家のテレビが再び壊れかけている。

オリンピックの2週間前くらいからテレビが映らなくなってしまい、まあ、それはそ
れでオッケーだと思いそのまま放っていた。

その後、野口みずきさんのマラソン中継の夜に奇跡的に復活をとげた僕のテレビは、
エコノモ脳炎から一時的に回復したAWAKENINGSのロバート・デ・ニーロのように再び
元の病状にもどりつつある。

復活後は、主電源を入れると3回に1回くらい映像を見ることができたのに、今では
10回に1回も映らない。

でも、何となく新しいテレビを買う気になれない。DVDはパソコンで見られるし、あ
まり困らない。

困ることと言えば、先日書いた「おはよう日本」の高橋アナウンサーを見られないこ
とくらいだが、それにしたってまあ、別にそれほど困らない。

困らないと言っておいてなんなのですが、先日のように「最近高橋アナウンサーがお
気に入りです」などと書いてしまうと、正直なところそれまでは何となくいいなー、
と思っていた程度だったのが、本当にファンのような気持ちが芽生えてくるから不思
議なものですね。やはり言葉にするのは大切なのでしょうか。皆さんも、好きな人に
は日常的にちゃんと好きって言ってあげてください。

関係ないですが、増田明美さんのマラソン解説って愛があっていいですよね。いや、
関係あるかな。よくわからなくなってきた。

2004年9月 4日

インスタント麺論争再び?ドクターは薬味の袋が大嫌い

9月3日(金)

朝から出張。モーレツ理事長のモーレツ話をひらりとかわし、昼にラーメンを食べて
から大学へ向かった。

プラスミドベクターを組み替えるためにPCRをかけたり、培養していたマウスの細胞
のFACS解析をしたりして過ごす。

実験の合間にお菓子を食べようと思い、医局へ行くと指導教官の先生がいたので、競
合していた論文がでていた話をしてから、今後の研究の進め方について相談。

晩ご飯はセブンイレブンで「ぶっかけおろしうどん」を買って食べた。

コンビニのうどんも随分と美味しくなったものだと思うが、パックの中に、だし汁、
白ごま、花かつおと、沢山の小袋が入っていてうんざりする。

僕はコンビニのうどんやそばのパックの中に沢山小袋が入っているのが大嫌いです。
いちいち開けるのが面倒くさすぎる。早く喰わせろよ文句をいいたくなる。くたくた
になっていても構わないから全部入れといてもらいたい。

小袋には「こちら側のどこからでも開けられます」とかいてあるくせに、どこからも
切れ目をいれられないときなんか、「話がちがうじゃねーかよー。ふがー(鼻息です)
」と、一人で憤慨している。

無事うどんを食べ終えて腹が落ち着いたので、ウオッカをソーダで割ったものを飲み
ながら新聞を読んでいた。冷蔵庫に4分の1だけ残っていたライムをいじましく半分
に割って、8分の1ずつ、2杯分にわけて搾った。金曜日の夜ということで、油断の
ためにウオッカがこすぎたのか、気がついたら床の上で眠っていた。あらいやだわ。

2004年9月 5日

さとう先生、酔っ払ってメガホンを握る夢を語る

9月4日(土)


夕方は雨模様。三宮のジュンク堂に行ってからCDを一枚買い求め、その後、史上最強
の読書バー「リセット」へ行く。

ワインを飲みながら平打ち麺のキノコのパスタや若鶏の香草ローストなどを食べた。
いつものことながら、ワインも料理もとっても美味しかったです。

わいわいと食事をしていると、ミーツの青山さんが美しい女性数名と連れだってお店
にやってきた。青山さん達は大人の女性の雰囲気でとても格好良かった。

僕はけっこう酔っぱらっていたようで、帰りの電車が一緒だった大迫君に、「今度一
緒に映画を撮ろう」とつぶやき、電車を降りた。

酔っぱらいの僕がどうして映画を撮ろうなんて思ったかというと、芸術というものは、
絵や彫刻のように一人で作るものも大変結構だが、映画は複数の人が協力して作品を
作るから、一人で作るのとはまた違った面白さがあると思ったのである。勿論一人じゃ
ないから難しい部分も沢山あるであろうけれども。

大迫君は愛にあふれた人なので、これまた自己愛にあふれた僕と一緒に映画を撮れば
きっとよい作品ができあがるだろうと酔っぱらった僕は思ったらしかった。

「映画には金がかかるのー」とぼやきながらホームの階段を上り、改札口を出るころ
には映画のことなどすっかり忘れていて、竹内結子の大きなポスターにお休みを言っ
てから外へ続く階段を下りた。

駅前のTSUTAYAで『パーフェクトストーム』を借りようか迷ってやめた。

家に戻ってから薄いウイスキーの水割りを作り、買ったばかりのチェット・ベイカー
のCDを聞きながら町田康の小説をぱらぱらとめくっていた。

酔っぱらって作る水割りは、薄く作ろうと思ってもどうしても濃くなってしまう。酔
いがどんどんまわるうちに僕はとっても久しぶりにたばこが吸いたくなった。そして、
一度吸いたくなったらどうしても我慢ができなくなった。

どこかにたばこがなかったかと、冬物の上着やコートのポケットを一生懸命探したが
どこにもたばこはなかった。

時間は夜の12時をすぎていたから、家の近所にあるたばこの自動販売機は販売休止中
だし、コンビニまでたばこを買いに行くのは面倒だった。僕は、クローゼットに入っ
ているコートを全部引っ張り出してきて、一生懸命たばこを探した。どこかの上着の
ポケットの中に、必ずたばこはあるはずだった。

あれは去年の12月のことで、その日は土曜日だった。午前中はいつものように大学へ
行き、お昼からは合気道のお稽古へ行った。そしてその後、家に帰ってネクタイを締
めてから、梅田で開かれた研究会へ行った。

まだ18時過ぎくらいだったと思うのだが、大阪駅に電車が着く頃には辺りはもうすっ
かり夜になっていた。風が強くて寒い日だったが、なぜか地下道を歩くのが嫌だった
から、会場のホテルまで外を歩いた。

クリスマスが終わった後の土曜日で街には人気が少なく、街並みは、街灯やビルの明
かりでそれなりに明るいのだが、その明るさが逆に寂しさを増しているような気がし
た。

2004年9月 7日

年の瀬のバーで始まる物語

9月5日(日)

研究会には特別講演に興味があって出かけたのだが、その内容は全くの期待はずれだっ
た。仕方がないので、せめて飯でも食って帰ろうかと思い、同じフロアの懇親会場へ
行った。

懇親会は立食形式の宴会で、豪勢な料理が並んでいる。おきまりのテリーヌにはじま
り、ウニのカクテル、鯛の塩竃焼き、薄切り仕事人付きローストビーフまであった。

こういうところで出される酒は、ビールに水割り、それに加えてワインが少々という
のが一般的なのだが、この時は乾杯からしてビールではなくシャンパンだったし、数
種類のカクテルまで用意されていた。僕は乾杯の後、飲み物を配っている給仕の人か
らジントニックを一つもらって飲んだ。

料理の周りには人が群がっている。寿司の屋台が一番の人気で、10人ほどの行列が出
来ていた。恥ずかしいのか順番を待ちながら中途半端な笑みを浮かべて、空々しい会
話をしている人もいるし、仏頂面で前方の寿司職人の作業をじっと見つめている人も
いる。

研究会への参加者はそれ程多くなかった。年の瀬もいいところで開かれた会だから当
然と言えば当然のことで、懇親会に出ている人の中には、「なにもこんな時期に会を
開かなくても」と小さい声で文句を言っている人もいた。

懇親会場はタワーの上層階にあり、その部屋は外の景色が眺められるように大きな窓
ガラスが2方向に張られている。しかし、窓の外は真っ暗なので、窓から離れたところ
から景色を眺めようとしても、ガラスは室内を鏡のように映し返すばかりだった。窓
際まで近づいていくと、ビルの間を走る高速道路が赤いランプを灯した車でぎっしり
と詰まっている様子が見えた。

ジントニックの後に水割りを2杯くらい飲んだ後、僕はT先輩と一緒に少し早めにホテ
ルを出た。

用事があるというT先輩とホテルの玄関で別れて、僕はふらふらと駅までの道を歩いた。
来た頃よりも確実に気温は下がっているのだろうが、少し酒も飲んだせいか、それほ
ど寒さは感じない。

ホテルの周辺は街灯が少なくて、人通りもほとんど見あたらなかった。少し遠回りし
て大きな道路の方に歩いて行くと、道路の向かい側に小さなバーがあった。普段、知
らないお店に一人で入るようなことはあまりないのだが、その店の外観には何となく
親しみを感じた。

入ろうかどうか迷いながら歩いていると、そのお店と僕の間を隔てている車道には、
いつの間にか自動車の行き来がなくっていて、なんだかそのお店が僕に向かって「寄っ
ていらっしゃい」と話しかけているようだった。

店に入り、コートを脱いでから赤ワインを頼むと、佳子さんは「雨、大丈夫でした
か?」と聞いた。

雨は降っていませんでしたよ、と答えるとリンゴを薄くスライスしたものとレーズン
を一緒に出してくれた。客は僕の他にはだれもいなくて、店内にはゆっくりとしたジャ
ズが流れていた。ホテルのジントニックが濃いめだったのと、あまり食べ物を口にし
ていなかったせいか、僕はすでに酔っていた。

音楽を聴きながら、ゆっくりワインを飲んでいると、一人の女性がお店に入ってきた。
袖口や足下が濡れていたので、外では雨が降っているのがわかった。コートを脱ぐと、
彼女はカウンターの奥の方の席に腰掛けて、ワインを注文した。彼女は明るいグリー
ンのセーターを着ていて、肩くらいまでの長さの黒い髪を後ろに束ねていた。

佳子さんは僕に聞いた時と同じ調子で、「雨、大丈夫でしたか?」と聞いた。ふたりの
話だと雨はずいぶん前から降っているみたいだった。

雨が降っているなら帰られない。

もう一杯ワインを飲もうか、他の何か別のものをもらおうかと考えていたら、カウン
ターの奥に座っていた女の子が「たばこないですか?」と話しかけてきた。

「ごめんなさい、吸わないんです」と僕が答えると、すぐに佳子さんが、買ってきま
しょうと言った。

彼女は雨の中申し訳ないがお願いしますと言った後で、佳子さんにもう一度銘柄を尋
ねられ、「マルボロライトのメンソールをジャック・ニコルソン」と答えた。

佳子さんは「あら、おじいさん先生みたいなこと言って」というと傘を持って外に出
て行った。

店の中は、僕とグリーンのセーターの女性だけの二人きりになってしまったが、どち
らからも別に話しかけるわけでもなく、二人とも黙って座っていた。

5分も経たないうちに、佳子さんはタバコを持って店に帰ってきた。外はやはり雨が降っ
ているようで、畳んだ傘が雨に濡れている。

彼女は、佳子さんにお礼を言うと、早速ビニールの包みを開けて、美味しそうにたば
こを吸った。

たばこを吸いながら、その女の子は「ねえ、夜の嫌いなおばあさんの話知ってる?」と
言った。彼女は、佳子さんに言ったようでもあったし、佳子さんと僕の二人に話しか
けたようでもあった。

気になるのは煙草よりドクターの行方

9月6日(月)


シクラメンに香りはない

突然そういうと、女の子は新しいたばこを箱ごとくれた。

思考が連なってどんどん飛んでいく状態を観念奔逸という。

学生時代に読んだ精神科の教科書にそう書いてあったが、まさに彼女はそんな感じだっ
た。

突然変な話を思い出して口にしてみたり、脈絡もなく小椋佳の歌に文句をつけ始めた
りしているこの女の子は、形のきれいな頭の中でいったい何を考えているのだろうか。


夜の嫌いなおばあさんの話は、僕も小さな頃どこかで聞いたことがある。

夜の嫌いなおばあさんは、夜をどこかへやってしまうために箒で追い払おうとしたり、
煙で燻そうとしたりと、一晩中手を替え品を替え奮闘するのだが、当然夜はどこへ行
くわけもなくて、ずっと空を覆っている。

それでもおばあさんがなんだかんだと一晩中頑張っていると、時が経って夜が明け始
める。ようやく白んできた空を見てほっとしたおばあさんは、疲れのためにいつの間
にかぐっすりと眠ってしまう。そして目が覚めた時、おばあさんの目の前には次の夜
がもうそこまで来ている。

というのが、だいたいのストーリーだった。

その女の子にもらったたばこが、冬物の上着かコートの中に必ずあるはずなのである。
でも、どこを探してもまったく見つからない。

ポケット探しも三まわり目くらいに入っているのだが、出てくるのはガムとかボール
ペンとか有効期限が過ぎたタクシーチケットとかそんなものばかり。

そろそろあきらめようかと思い始めた頃、ある上着の内ポケットの中から口紅が出て
きた。どうしてそんな物がここにあるのかまったく記憶にない。

キャップのような部分を取ってみると、その口紅は、茶色というかベージュというか
赤というか、中間色としかいいようのない色をしていた。ほとんど使われた様子もな
い。

いずれ僕には用のない代物なので、キャップというか鞘のようなものを付け直して、
ゴミ箱に捨てた。

すると、どこかから「塗ってみろよ」という声が聞こえてきた。

気のせいかと思って無視していると、もう一度「試しに口に塗ってみろよ、さとうく
ん」と言う声が確かに聞こえた。

もしかしたらと思ったが、やはりそれは腹の中のジャムパンの声だった。

2004年9月 8日

ルージュと明かりはつけたまま

9月7日(火)

僕はジャムパンに言われた通り,鏡に向かって口紅を塗ってみた。

べたべたして落ち着かない。こんなものをつけていたら、ご飯を食べたり
お酒を飲んだりしても味がわからないような気がする。

当然だが、僕の顔は口紅がまったく似合っていなかった。

どこが変なのかよく観察してみると、それは肌の色と口紅の色が合ってい
ないのが問題のようだった。浅く日焼けした肌に、ベージュ系の口紅はあ
まり似合わない。もっと根本的な問題があるような気もするが、その時は
そう思った。

「あそこの『やまぎわ』って店にさ、いつも来ているおっさんいるだろ」

「は?」

「ほら、おまえがあの店に行くといつも必ずカウンターに座っていて、大
声で話してるおっさんいるだろうが」

「あの、いつも綺麗な女の人を連れてきていて、ライム持ちこみでジンば
っかり飲んでるおっさんのこと?」

「うん、そうそう。あのおっさんさ、78才なんだって」

「げ、まじで。信じられん。65くらいだと思ってた。いや、そんな話よ
りさあ、なんで久しぶりに出てきて、突然人に口紅塗らせたりするわけ?
僕、たばこが吸いたかっただけなんだけど」

「おまえさ、一昨日あそこの焼肉屋でビビンバ食べたよな」

「食べたよ。旨かった」

「あの時さあ、店のおじさんが生ビール代取り忘れてたのに、おまえ黙っ
て出てきただろう。ビビンバと、韓国風冷や奴と生ビールで1200円な
わけないだろうが」

「いや、その時はちょっと安いかなーとは思ったんだけど、そんなもんか
なーとも思って」

「ビビンバが800円なんだぞ。そんなわけないだろう。今どき生ビール
200円の店なんかないぞ。ジャムパンだって店で買えば120円か13
0円くらいするんだぞ」

「まあいいじゃない。終わったことは。それよりさ、フリオ。あいつどこ
行ったかしらない?最近たまに聞かれるんだけど」

「あいつは自分の国に帰ったよ。でも、また来るってさ。おまえによろし
くって言ってたよ。じゃあ、俺もう寝るから。また明日早いんだろ。おま
えは何だって、5時とか6時とかそういう時間に起きるのかねえ。こっち
は本当に迷惑だよ。じゃあな。おやすみ」

「ちょっと待ってよ。久しぶりなんだからさあ、もう少し話しようよ」

「なんだよ、他になんか聞きたいことでもあるのか。マリちゃんか」

「え、うん。まあそういうことだ」

「あの子は結婚したよ。同じ動物棟で働いている、カニクイザル飼育のス
ペシャリストと最近熱烈な恋愛結婚をした」

「え、あ、そう。ふーん」

「うそだよ、ばか」

ジャムパンはマリちゃんが本当はどうしているのか、結局教えてくれなか
った。

僕はいつの間にか口紅をしていたのをすっかり忘れていて、知らない間に
眠っていた。

2004年9月 9日

橋のたもとで涙がほろり カエルの乳首はどこにある

9月8日(水)

朝の電車で同じ車両に乗り合わせた女の子が誰かにメールを打っている

「頑張ってな(絵文字)」と書いてある画面が目に入るとなぜか僕まで元
気が出てきた

僕は他の誰かにも元気になって欲しかったのでヒロシにメールを打った

ヒロシはそうでもなかったが横で見ていたぴょんきちが元気になった

ぴょんきちは「乳首が見くびっている!」と谷川俊太郎の詩を叫びながら
走り(もちろんTシャツのまま)

夕暮れの橋のたもとで少しだけ泣いた

2004年9月10日

双子の母は幸せも2倍なのです

9月9日(木)

予防接種を受ける生後3ヶ月の乳児の予診をする。3人で300人くらい診察した。

こんなに多くの赤ん坊を診察するのは生まれて初めてだった。基本的にみんな予防接
種を受ける元気がある子供達なので、大きな問題なく仕事を終えることが出来た。

それでも一つだけ困ったことがあった。普段、僕が診察しているのは大人の人たちな
ので、診察を受ける親子が僕の前に座ると、反射的にお母さんを診察しそうになって
しまうのだ。

赤ん坊というのは本当に一人ひとり違うもので、聴診器をあてるだけで泣き出す子も
いれば、目をきらきらさせてほほえんでくる子もいる。

双子も二組診察した。一組はお母さんが自分の妹と二人で子供を連れてきていたが、
もう一組はお母さん一人で双子を連れてきた。一人でも大変なのに、双子を育てるの
はなかなか大変そうだった。大変そうだったが、二組の双子の母親はどちらも幸せそ
うに見えた。

帰りに桜橋の『ちく満』で鴨なんを食べてから大学に行った。

暑い日だったが、ちく満ではベージュのブラウスがよく似合う女の人が、涼しげに鴨
なんといなり寿司を食べていた。

2004年9月11日

「アフターダーク」未読の人は読んじゃダメ(って言うてもみんな、読むんでしょ)

9月10日(金)


脂肪のできかたに少し興味を持っています。

いつもとはちょっと違う頭の使い方をした一日で、ちょっと疲れてしまいました。

水曜日に村上春樹の『アフターダーク』を買いました。今読み終わったところです。
今は、9月11日の午後7時40分。

土曜日の日記に書けよ、といわれるかもしれませんが、面倒なのでいまちょっとだけ
感想を書きます。「感想は本を読む前に知りたくない」というかたは、以下読まない
でくださいね。



ライトな肌触りですが面白かった。後からじわんとレイトエフェクトが出てきそうな
気もします。こればっかりは時間が経たないとわかりませんね。

翻訳ものみたい。そして、翻訳されやすそうな小説だと思う。海外でもたくさん売れ
るんでしょうね。あと。村上巨匠はライ麦畑で何かをお捕まえになられたのだなあと
思いました。

これ映画?。例外的に「映画化オッケー」もありかなあと思いました。でもやっぱり難
しいかな。

あと、女の子の話なので女の人はこれを読んでどう思うか聞きたくなりました。

2004年9月12日

ボストン太っ腹ボスの心理を推理する

9月11日(土)


ボストンに留学中のK先生からメールが来た。

研究で使用するものを送ってほしいというのが主な内容だったのだが、最後に付け足
されていた雑談がちょっと面白かった。

K先生の留学先のボスはけっこう太っ腹な人で、研究室に所属している研究者は、全員
ボスにお金を出してもらって、毎年12月に開かれる学会へ行っていたそうだ。でもそ
れは去年までの話。

毎年コンスタントにいい論文を出しているその研究室は、最近、年を追うごとにどん
どん研究員の数が増えているという。そして、あまりに大所帯になってしまった今年、
とうとうボスは「研究室員みーんな学会無料ご招待」を中止するという決断を下した。

学会出席に伴う学会費&交通宿泊費は、今年から以下の基準を満たした研究者じゃない
と支給してもらえないという。

1.学会で発表する。
2.「えっへん」と人に見せられる実験結果はすでに持っているが、論文発表まで至っ
ておらず、まだ人前に出したくない。
3.自分で研究費をゲットしている。
4.最近ラボに来た。
5.ボスから学会費用を出してもらったことが無い。

以上のどれかに引っかからない人は、学会に行きたければ自分で旅費を出さなければ
ならないそうだ。

ボストンから学会が開かれるサンディエゴまでの交通費と、3−4泊の宿泊費というのは
アメリカ国内での移動とはいえ馬鹿にならない金額になると思われる。

日本では1じゃないと、国内国外を含めて学会には行かせてもらえないということが多
いから、僕がこの基準を目にしたとき、最初は「けっこう思いやりがあるボスだよな
あ」と思った。とくに4と5なんて、非常に気遣いが感じられる基準である。

しかーし、である。メールで読んだだけだから最初は細かいニュアンスがわからなかっ
たのだけれども、よく考えてみるといくら大所帯とはいえ、この基準を満たさない人
というのは、かなり限定される人間じゃないのかと思う。

結局これは、「古株で、しかもろくな研究結果も持っておらず、なおかつ自分でカネ
を取ってくる甲斐性もないやつ」という、ほとんど特定可能な個人に冷や飯を食わせ
ようという魂胆なのではないだろうか。

K先輩は幸いにして、3の基準を満たしているから今年の学会には行くことができたそ
うだ。

確かこのラボのボスはイスラエル人で、研究室員もアメリカ人はほんの数人であり、
他のメンバーは世界中の至る所から集まってきた人たちらしい。

いろんな国から集まってきた人みんなに納得いくような研究室運営と言うことになる
と、やっぱり実力主義・成果主義ということになってしまうのだろうか。

アメリカはよく競争社会だといわれるけれど、それにはそれなりの理由があるのだろ
う。おそらく、そこで過ごしてみて初めてリアルに感じる理由があるのだと思う。留
学したことないからわからないけど。

K先輩のラボの新しい学会費支援基準が、特定の人間を排除するために作られたもので
あるのかどうかは、また改めて報告させていただきたい(性格悪いっすね)。

それにしても、「ボス」という言葉にはいつも石原裕次郎を連想させられてしまいま
す。人によっては缶コーヒーだったりするのかもしれないが、僕はやっぱり七曲署だ
な。

2004年9月13日

はらたいらさんに腸捻転

9月12日(日)

朝早く目が覚めたので朝早くに仕事に行った

昼からは昼寝をして目が覚めるとマジックバスで散歩に出掛けた

僕は上品な人間になりたい

読みたい本はとりあえず後回しにして


というものの、何が上品かというとよくわからないのですが、どんぶりの表面がチャー
シューや海苔で埋め尽くされているラーメンはちょっと下品じゃないだろうか。

ということは篠沢教授はやっぱり上品。

2004年9月14日

日常はビールと共に流れて

9月13日(月)

夕方から研究室のミィーティング。

週末に開かれる学会で発表をする先生の予行があった。

去年の同じ学会は8月の末に大阪で開かれた。あれから早くも一年。そういえば引っ
越しをしたのも去年の8月だった。

同じ服を着て同じ研究室と出張先に通い続ける生活を続けていると、知らない間に時
間が過ぎてしまう。

ついこの間まで新品だった靴下の踵が、いつの間にかすり切れちゃっているのをみて、
「やだ、時間がながれてるう」と急に悲しくなったりする。

ビールの空き缶もよくたまる。僕の場合、90%がキリンラガーで8%がキリンラガー
クラシックで2%がハイネケンである。薄いビールを飲みたいときにハイネケンを買
う。

週末、家の近くの古い電気やさんで、ビデオテープからDVDへのダビングを頼んだ。
ラジオの修理専門みたいな渋い電気屋である。

家に帰るとおばさんから「ダビングできてます」と留守番電話が入っていた。

おばさんは、ずれた老眼鏡をかけながらクリス・ペプラーみたいに「ディーヴィーデ
ィー」と発音する。

2004年9月15日

タイトル命名権、本日で期限切れ!

9月14日(火)

僕はクルミぱんが好きなようである。クルミ入りのロールパンです。ジャムパンは好
きなのかどうかよくわからない。


どうかうまくいっていますように、と念じながらやっていた実験が上手くいっていな
かった。

少し虫の良すぎる願いだった。もうちょっと試行錯誤を繰り返す必要がありそう。


宅間死刑囚の刑が執行された。

早くてびっくりしたというのが正直な気持ち。

2004年9月22日

知性は死すとも、笑顔は死せず

9月20日(月)


この土日月は、学会&合気道の合宿に参加しました。


まずは土曜日の朝7時過ぎに車で家を出発し、京都の学会場へ。

9時10分ほど前に会場に着いたので、教育講演を一つ聞いた後、口演発表をした。

プレゼンテーションは可もなく不可もなしと言うところで、3つほど出た質問に対し
ても、まあなんとか答えることができた。知性は絶やしたかもしれないが、笑顔だけ
は絶やさなかったつもりだ。

発表の後は幾分ほっとした気持ちで講演を聴き、ポスター発表を軽く見た後、お昼過
ぎに学会場を後にする。

学会場と同じ左京区内に住んでいる、クスダのけんちゃんを途中で乗っけてから合気
道の合宿が開かれている神鍋高原へ向かった。

くすだ“サッカー小僧”けんちゃんは京大の院生で、今回が合宿初参加である。二人
で、先日フランス代表の引退を表明したジネディーヌ・ジダンの潔さを讃えたり、ヤ
ワラちゃんの老害について考えたりしながらドライブする。途中で道を間違えて渋滞
に巻き込まれるというハプニングもあったが、3時間ほどで名色ホテルに到着した。

何とかお稽古の最後の方に間に合うことができたので、ホテルの風呂場で道着に着替
えて体育館へ。

畳を敷いた体育館の中は、雨が降った後のせいかとても蒸し暑く、少し動いただけで
滝のように汗が流れ出てくる。

午後のお稽古の後は、引き続いて行われた合気杖のお稽古に参加した。

風呂に入ってからは夕食(豚肉と鶏肉のお鍋。うどん付きでボリュームたっぷり)。

夕食後は廊下のソファーで内田先生や松田先生、常田氏、大迫氏とともに、歯周病の
歴史的変遷、糖尿病の合併症について、アメリカ大統領選挙の行方など、実に幅広い
トピックスについてトークを繰り広げる。

その後しばらくして、ウッキーと飯田先生が合流し、合宿がますます合宿らしくなっ
てきた。夜中には、谷口さん、石田さん、IT秘書の岩本氏が合流。

二日目の朝は杖のお稽古から始まった。

頭にまだ霞がかかった状態で、正面に一礼してから杖に気を通し始める瞬間は、「あ
あ合宿に来ているのだなあ」と実感する一コマである。

二日目の午前中は体術中心のお稽古だった。暑さで汗びっしょりになったせいか、最
後の方はふらふらだった。

汗をかくだけで人は疲れるのだろうか。それともたっぷりと汗を含んだ道着が重たい
からなのだろうか、朝ご飯もたくさん食べたはずなのに、お稽古の終盤でガス欠状態
になってしまった。

二日目の午後は昇段級審査があった。今回僕は昇段審査を受け、何とか初段をいただ
くことができた。

昇段審査を受けるのは僕一人だったので、常田さんと石田さんが受けを取ってくださっ
た。緊張したけれど、お二人がとても心強く感じた。上手く表現するのが難しいのだ
が、こういう「心強さ」というのは、合気道に出会えなければ味わうことができなかっ
たような気がする。常田さん石田さん本当にどうもありがとうございました。

二日目は審査の時間が長かったので、杖のお稽古は中止になった。

お風呂の後は、名色ホテルに新設された「バーベキューガーデン」でビールを飲みな
がら野外バーベキュー。とても久しぶりにバーベキューを食べたような気がする。美
味しかったです。

食事の後は「プチ」よりやや大ぶりの宴会が催された。目が覚めたときに頭の片隅に
お酒が残っていたから、僕は思ったよりも沢山お酒を飲んだのかもしれない。そして
この夜は、石田さんのミドルネームが「社長」と公認された記念すべき夜となった。


三日目も朝の杖のお稽古に参加。朝食後に最後のお稽古があって、これで全てのお稽
古が終了。

合宿に参加させていただく度に新しい発見があり、そして楽しい思い出が増えていく
のはとても嬉しいことです。

幹部の森川さん、嶋津さん、たくさんご面倒をおかけしてすみません。お世話になり
ましてありがとうございます。

この度昇級された皆さま、本当におめでとうございます。

長かったようなあっという間だったような不思議な3日間でした。

帰り道は結構渋滞がひどくて大変だったけれど、心地よい疲れに包まれて家まで帰り
ました。

あ、そうだ。帰りに神鍋名物のとち餅を買おうとしたら、あんこ入りのお餅がほとん
ど売れて無くなってしまっていました。

あんこ無しのおもちはまだ在庫があったので、そっちを購入。

高嶺のアンですね。いやん。

9月17日(金)


午前中は出張病院で外来診療。午後からは、京都で今日から開催された学会に行って
きた。

明日の午前中に発表の予定なので、プレビューセンターでパワーポイントの動作確認
をする。

この学会では、プログラムを円滑に進めるために、発表者は学会開催の約一週間前に
事務局のウェブサイトにパワーポイントのプレゼンテーションを送付し、発表前日に
その動作確認をすることになっている。

明日は何とか無事に終わってくれると良いのだが。

確認作業の後は、興味があったいくつかの講演を聴いた。

2004年9月24日

財布おとしちゃいました(涙)

9月23日(木)


財布をなくしてしまった(なみだ)。

クレジットカード、キャッシュカード、運転免許証、学生証、病院のIDカード…。他に
も大切なカード類が入っていた。現金もいつもより多めに入っていた。

おそらく20日の夜、合気道の合宿からの帰りにどこかに落としてしまったのだが、情
けないことに財布が無いことに気がついたのは22日の朝。

22日の午後、診療所へ出張に行った後そのまま家に戻り、自動車や家の中をくまなく探してみたが、やっぱり財布はどこにも見つからない。いつまでも気をもんでいても
仕方がないので、カード類をストップし警察へ被害届を出した。

自動車のドアの内ポケットにねじ込んでいた財布が、ドアを開けた際に落ちてしまっ
たのかもしれない。

幸いなことに、20日以降カード類が不正に使用されていることはなさそうだった。

オペレーターのお姉さんに聞いたところ、クレジットカードの使用記録は、2週間ほど
前に「だれでもわかるハイデガー」というカセット書籍をamazonで購入したのが最後
だということだったので、最後にそのカードを使用したのは間違いなく僕である(はず
かしー)。


本格的に財布をなくしたのは何時以来のことだろう。

おそらくそれは小学校6年生のとき以来のような気がする。そのときは、ジーンズの後
ろのポケットに財布を入れて自転車に乗っていたらいつの間にか財布がなくなってい
た。

その財布を僕はとっても気に入っていた。ナイロンでできていて、グレー地に青い縁
取りがついていた。中には現金が二千円くらいはいっていた。

僕は現金を無くしたことと、財布を無くしたことが同じくらいショックで、自転車で
通った道を何度も探したが、結局財布は見つからなかった。

大学生時代の半ばからは財布を持たずに暮らしていた。

その頃、いつも僕の後ろには「じい」と呼んでいた爺さんが侍っていて、買い物や食
事の際、会計は全てその「じい」がやっていた。というのは全部嘘で、あれは何時の
ことだろう、向田邦子のエッセイで、「もし男に生まれていたら、一つだけしてみた
いことがある。それは財布を持たずにポケットから無造作にお金を出してお金を払う
ことだ。女だと残念ながらそう言うわけにはいかない」というのを読んだことがあっ
た。

影響を受けやすい僕はその文章を読んで、なるほどせっかく男に生まれたんだからそ
れをやらない手はない、と思い立ち、その日から財布を持つのを止めてしまった。

財布を持たない生活は働き始めて数年が経つまで続いたのだが、持ち歩かなければならないカード類が増えたことや、やっぱり財布くらいは持っていた方が良いなあと感
じるいくつかの出来事(どんなことだかは忘れてしまった)があったりして、三年くら
い前から僕は再び財布を持つようになっていた。

僕はズボンの後ろポケットに財布を入れるのが嫌いなので、財布はカバンの中に入れ
ていることが多かったのだが、手ぶらの時は、手に財布を持つか、仕方なくズボンの
ポケットに入れなくてはならない。「やまぎわ」のお母さんにいつかお説教をされた
ように、夏でも財布を入れられる上着を着ないといけないのかもしれない。

基本的にはとても悲しい出来事な訳だが、少しだけ新しい気分で生活を始めるチャン
スかなあと思ったりもする。

そこで、僕はまた「お財布無し生活」を再開してみることにした。何となく新しい財
布を買う気持ちになれなかったためもある。

新しい消費生活が安全かつ充実したものであることを祈って、夕方マネークリップを
買いに行ってきました。

さあ今日は免許証の再発行を頼みに行ってこなくっちゃ。

2004年9月27日

「街のいけないうなぎ屋を正す会」の設立にあたって

9月25日(土)


やや二日酔い気味なるも、朝からちょっとだけ研究室へ行き、久しぶりに会ったT先輩
に実験の相談をする。

お昼から芦屋の体育館で行われたお稽古では、久しぶりに高雄さんにお会いした。

合宿も暑かったけど、芦屋の柔道場もまだまだ暑い。

合気道のお稽古の後は、梅田で開かれた研究会に出席。

昨日久しぶりに江編集長にお会いしたら、今日もまた岸和田の人に出会ってしまった。

一般演題5題の発表の後に行われた府立成人病センターのK野先生による特別講演は、骨髄移植における感染症のマネージメントに関するものだった。

講演の初っぱなに映し出された一枚目のプレゼンテーションが、いきなりだんじりの
遣り回しである。

「私は岸和田の出身で、だんじり祭りをしております。今年も何とか無事に祭りを終
えることができました。だんじりの見せ場の一つは、コーナーを速いスピードで駆け
抜けていくこの遣り回しです。遣り回しでは、前梃子と後ろ梃子の絶妙なコンビネー
ション無くしては、腰高の構造のだんじりはあっさりと倒れてしまい、死人が出るよ
うな惨事も起きかねません。骨髄移植における感染症の合併は、ときに患者さんの死
につながるものであり、移植の安全な曳航のためには、移植治療と適切な感染症コン
トロールのコンビネーションが必要不可欠なのであります」

と、K野先生のつかみはいきなりだんじり話である。

府立成人病センターは、日本にいち早く骨髄移植を取り入れた施設である。長年にわ
たって蓄積されたデータを元にしたK野先生の講演は、非常に興味深くかつ勉強になっ
た。

特に興味をもったのが、移植後の患者さんにおけるアスペルギルス感染症の地域によ
る発生頻度の違いの話。


アスペルギルスというのは、真菌(カビです)の一種で、普通の免疫力を持った人たち
には何ら病原性を持たないが、移植後などで、免疫抑制状態にある患者さんにおいて
は、ときに命を奪うほどの重症感染症を引き起こすことがある。

全国調査の結果、そのアスペルギルス感染症が、九州沖縄地方に多く東~北日本ではそれ程多くないという結果があるそうで、これは地域の降水量とかなり大きな相関があるらしい。

以前、アメリカのシアトルとヒューストンにある大きな病院間で、骨髄移植時のアス
ペルギルス感染症の発生頻度を調べたら、雨が多いシアトルでは発生頻度が高く、雨
が少ないテキサスではほとんど発生していなかったという話を聞いたことがある。

おそらく日本でも同じような傾向があるのだろう。

雨は結構多いと思うのだが、どういうわけか関西のアスペルギルス感染症は少ないの
だそうだ。雨以外にも発生頻度を左右する重要な因子があるのかもしれない。

いろいろなことを考えながら聴いていた50分間の講演はあっという間に終わってしまっ
た。

終了後、熱心な聴衆からいくつかの質問が出る。

そこに混じって、「だんじりのドビといわれる軸受けは各町によって様々な工夫がな
されており、そこにはときにF1カー並みのハイテクが導入されているという話を聞い
たことがあるのだが、先生の町ではどの様な工夫をなされているのでしょう?」と、質
問しようかとちょっと思ったが、そんなことを言ったらたぶんクビになるので我慢し
た。


クビになったら困りますもんね。マリちゃんの話も村上春樹に先に書かれちゃったし。
なんちゃって。



9月24日(金)


先日、「街のいけないうなぎ屋を正す会」(うな正会)というのを、ささやかだが確固
たる意志をもって設立した。

会のメンバーは江編集長(会長)、そして僕(副会長)の2名である。

この会の主な目的はふたつ。

1. 巷に流布している「脂ぎとぎと巨大ドーピング鰻」を戒める。

2. 近年忘れられつつある、うなぎに対する節度をもう一度世に問う。

以上。

そしてこの日、記念すべき、うな正会の初会合が肥後橋の「だい富」において開かれ
た。もちろん節度を持ってとてもささやかに開かれた。

「だい富」は、江編集長の『ミーツ』編集部がある京阪神エルマガジン社から歩い
て50歩のところにある江戸前うなぎの名店だ。

世間のいけないうなぎ屋に説教をかます前に、まずは「正しいうなぎ&正しいうなぎ屋」をふまえておく必要性があることから、会長はかねてからその実力を高く評価していたこの名店を初会合の場所として選定した。

マッチ売りの少女のように女の子が栗饅頭を売っている帝人ビルの前で会長と待ち合
わせた後、そこから徒歩30秒の「だい富」へ向かう。

ぼーっとしていたら、通り過ぎてしまいそうな程小さなお店だが、不思議な存在感が
ある。白い看板にかかれた「○に鰻」のマークがとってもシック。

引き戸を開けてお店に入ると、中にはテーブル席が四つ。もしかしたら2階にも席があ
るのかもしれない。

時分どきにも関わらず、先客は初老の男性4人連れがいるだけだった。客層といい人気の少なさといい、まさに「正しいうなぎ屋」という感じである。

清潔感があって上品なのだが、どこか気安い感じがするのは関西ならではのものだろ
うか。

接客は40代くらいのとても感じの良い女性。水色のTシャツとスカートの上から白いエ
プロンをしている。くるぶしが隠れるくらいまでの真っ白な靴下がとてもよく似合っ
ていた。

上着を脱いで、白いシャツとネクタイ姿でうなぎのコース料理を食べながら酒を飲ん
でいる4人のおじさん達は、ちょっとだけ小津映画の「若松」みたい。

うなぎの「竹」を頼み(注文内容にも節度が重要なのだ。うなぎのフルコースを違和感
なく頼めるようになるまでには相当の年期がいる)、ビールを飲みながら到着を待って
いると、15分から20分ほどで待望の「竹」が登場。

蓋を開けると、ほんの少しだけ透き通っているように見える艶やかな白いご飯の上に、
過不足ない大きさと厚さをしたうなぎの蒲焼きが静かに横たわっている。

ドーピングうなぎは肉厚で、蒲焼きの表面もまるでポマードでも塗ったかのようにき
らきらと光っているのだが、「だい富」の蒲焼きは、光り方に気品がある。表面がつ
や消しっぽくなっていて、張り替えたばかりの畳に少し似ている。

小さい頃、祖父の家でときどき食べさせてもらったうなぎの蒲焼きは、サイズといい、
色合いといい、こういううなぎだったような気がする。

一口食べてみると、一瞬で口いっぱいにうなぎ特有の香りが広がる。
しっかりした味付けなのにどこかさっぱりしていて、まったく嫌みがない。噛んで飲
み込むと、すぐに次の一口が欲しくなってしまう。

欲しいままに食べているとあっという間に無くなってしまいそうなので、会長に「た
まらんですなー」などとつぶやきつつ、ときどき肝吸いもすすったり、漬け物を囓っ
たりして間を取る。

うなぎと共に口に入るご飯がまた美味しい。丁度良い温度に冷ましてあるご飯はそれ
だけでも甘みがある。そして、そこにうなぎのタレが絡まるといっそう美味しくなる。
会長によると、この店では釜でご飯を炊いているそうである。

いやー、ホント旨かったです。会長ありがとうございました。

幸せの余韻に浸りながら店を後にして、江会長とともに四つ橋筋を南下。会長が会う
約束していたという、UFJ総研の川崎さん日隈さんと初めてお目にかかる。

4人で阿波座駅付近の和食のお店に移動し、さつま白波をかぷかぷと飲んだ。

大らかで行動力あふれる印象の“親分”川崎さんと、ポールスミスのシャツがよく似合
う、優しさとクールさが同居した“美男子”日隈さんは、風貌も、会話をつなげていく
発想もともに柔らかで、およそ普通の会社勤めの人たちには見えない。

江さんとお二人の仕事の話から始まった会話は、いつの間にか街レヴィ方面へ突入し、初秋の夜はあっという間に更けていくのであった。

翌日はちょっと二日酔いでした。

About 2004年9月

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