9月7日(火)
僕はジャムパンに言われた通り,鏡に向かって口紅を塗ってみた。
べたべたして落ち着かない。こんなものをつけていたら、ご飯を食べたり
お酒を飲んだりしても味がわからないような気がする。
当然だが、僕の顔は口紅がまったく似合っていなかった。
どこが変なのかよく観察してみると、それは肌の色と口紅の色が合ってい
ないのが問題のようだった。浅く日焼けした肌に、ベージュ系の口紅はあ
まり似合わない。もっと根本的な問題があるような気もするが、その時は
そう思った。
「あそこの『やまぎわ』って店にさ、いつも来ているおっさんいるだろ」
「は?」
「ほら、おまえがあの店に行くといつも必ずカウンターに座っていて、大
声で話してるおっさんいるだろうが」
「あの、いつも綺麗な女の人を連れてきていて、ライム持ちこみでジンば
っかり飲んでるおっさんのこと?」
「うん、そうそう。あのおっさんさ、78才なんだって」
「げ、まじで。信じられん。65くらいだと思ってた。いや、そんな話よ
りさあ、なんで久しぶりに出てきて、突然人に口紅塗らせたりするわけ?
僕、たばこが吸いたかっただけなんだけど」
「おまえさ、一昨日あそこの焼肉屋でビビンバ食べたよな」
「食べたよ。旨かった」
「あの時さあ、店のおじさんが生ビール代取り忘れてたのに、おまえ黙っ
て出てきただろう。ビビンバと、韓国風冷や奴と生ビールで1200円な
わけないだろうが」
「いや、その時はちょっと安いかなーとは思ったんだけど、そんなもんか
なーとも思って」
「ビビンバが800円なんだぞ。そんなわけないだろう。今どき生ビール
200円の店なんかないぞ。ジャムパンだって店で買えば120円か13
0円くらいするんだぞ」
「まあいいじゃない。終わったことは。それよりさ、フリオ。あいつどこ
行ったかしらない?最近たまに聞かれるんだけど」
「あいつは自分の国に帰ったよ。でも、また来るってさ。おまえによろし
くって言ってたよ。じゃあ、俺もう寝るから。また明日早いんだろ。おま
えは何だって、5時とか6時とかそういう時間に起きるのかねえ。こっち
は本当に迷惑だよ。じゃあな。おやすみ」
「ちょっと待ってよ。久しぶりなんだからさあ、もう少し話しようよ」
「なんだよ、他になんか聞きたいことでもあるのか。マリちゃんか」
「え、うん。まあそういうことだ」
「あの子は結婚したよ。同じ動物棟で働いている、カニクイザル飼育のス
ペシャリストと最近熱烈な恋愛結婚をした」
「え、あ、そう。ふーん」
「うそだよ、ばか」
ジャムパンはマリちゃんが本当はどうしているのか、結局教えてくれなか
った。
僕はいつの間にか口紅をしていたのをすっかり忘れていて、知らない間に
眠っていた。