2007年6月 2日

Dr.Sustainable is back

6月1日 

 おひさしぶりです。慌ただしい日常の中でも何とか場当たり的になり過ぎることなく、コントロール可能な部分をコントロールして心地よく充実した生活を送ろうと努力しています(僕なりにサステイナビリティーを追求しているわけです)。
 そのような生活のなかで最近身のまわりに起こった出来事をいくつか上げてみると、二人で二台使っていた自動車を一台売却し、主に僕が電車で大学に通っていること。武庫之荘に住んでいる同い年の従兄弟に会ったこと。久しぶりにうな正会の会合を開いたことなどがあります。
 うな正会とは「世の中のイケナイうなぎ屋を正す会」の略で、正しいうなぎとうなぎ屋のあり方を探求すべく、不定期に会員が集結して鰻に関する意見および情報の交換をするという秘密結社のことを差します。江会長が選定した今回の会合場所は、「魚伊」。慶応年間に鰻の卸売業として創業した関西焼きの名店です。今回の成果については、また後日改めて報告させてもらうつもりでいます。
 先日久しぶりに会った従兄弟はもともと東京の人なのですが、大阪に転勤になったご主人の都合で四年前から現在の場所に住んでいるそうです。前回彼女に会ったのは、たしか五、六年前に行われた、盛岡の祖父母の法事だったと思います。当時彼女はまだ独身でした。
 二人の子供を持つY子さんは母としての貫禄たっぷりでした。子供は男の子が二人で、上の子がこの春に幼稚園に上がったばかり、下の子はまだ七ヶ月です。大人二人だけの生活で、食べたいものを食べ、行きたいところに行き、行きたくないところには行かないという生活に慣れているものから見ると、子供がいる人生というのは世の中の見え方が随分我々とは違っているようです。

 さて、そのような生活を送っている中で、ここ数日とくに気になるのが、閣僚の死に引き続いて何かとざわついている国会のことです。
 生き死にを含めた政治家の健康問題は政争の道具にされやすいものですから仕方のない部分もあるとは思いますが、事件を此処までメカニカルに扱われてしまうと、政治の世界にいる人たちにとって、人一人の命というのはここまで軽いものだったのかと、少し恐ろしい気持ちになります。
 年金法案を強引に通した翌日、月も変わって気分一新、爽やかな白い半袖シャツで記者会見をする塩崎官房長官の姿を見て、この人達は自分の仲間や、この国に住む人間のことを本当に大切に思っているのだろうかと、改めて考えさせられてしまいました。
 前農相は、尊大で強引なイメージがあり、あまり好きなタイプの政治家ではありませんでした(個人的な好みで話をしてすみません)。彼の選んだ決断は、全く賛同出来るものではありませんし、実際のところ追求されても仕方のない「政治とカネ」の問題を抱えていた可能性が高いのじゃないかと思います。きっと、突っつかれたら大変困ることがあって、追いつめられてしまったんでしょう。本人が悪いと言えばそれまでですが、それでも、紐の輪に首を通すときのその人の心情を想像すると胸が痛みます。
 政治家が死を選んだ理由については、個人の持っていた気質性格、疑惑を含めた政治的問題、人間関係などの面から少し考えてみましたが、僕が此処でそんなことを書いても仕方がないので、書くのはやめようと思います。ただ、死を選んだ政治家にしても、政権の中心にいる人たちにしても、余りにも単一の価値観にすがりつきすぎで、それから逸脱した人たちを(政治的にも倫理的にも)受け入れることができないという姿勢があまりにも強すぎるのではないでしょうか。信念のない政治家は困りものですが、自分の意に反する人間(時に自分だったりする)を最低限のところで尊重できない政治家というのは、あまりにも危険だと思います。
 この悲しい出来事が残したたった一つだけの良かった点は、参議院選挙に向けた政治の争点が、性急な改憲問題から少し遠ざかったことだと思います。それは、もしかしたらほんのつかの間のことなのかもしれませんが。
「緑資源」は、廃止の方向だそうです。切ないですね。
 
 日曜日は湊川神社で鬼女に変身する予定です。毎年のことながら楽しみでもあり、少し心配でもあります。

ではまた会う日まで。

2006年9月21日

それは帰りの旅程でおこったことだった

 9月20日 
 いつも通りに大学に行き、いつもどおりに家で夕食を食べた夜にちょっと変わった夢を見た。
 僕は友人Iと旅行に行っていて、それはその帰りの旅程でおこったことだった。
 飛行機の出発時間は20時16分だったが、僕は少し早めにホテルを出ることにした。ホテルのロビーには、酒も飲める喫茶スペースがあり、僕の出発と入れ替わりに開催される学会の参加者が、そこに座って休んでいた。
 僕は空のコーヒーカップを手に持っていた。コーヒーカップの底はすっかり乾いていて、ごく僅かなコーヒーの飲み残しがカップの底にこびりついていた。出発前にカップを返そうと思い、僕はラウンジの奥の方にある従業員専用のスペースに歩いていった。衝立で仕切られたスペースの奥には、4人がけの座席が縦に二つ並んでいて、そこに飛行機の女性客室乗務員(スチュワーデス)が座っていた。スチュワーデスたちで席は全て埋まっており、全員が眠っていた。僕はスチュワーデスがぎっしりと詰まったその空間に圧倒されて、それ以上前に進むことができなかった。仕方がないので振り返ると、そこに小さな受付のような場所があり、おばさんが二人立っていた。右側のおばさんは、何処かで見たことのあるような人物だった。僕は、
 「これ、いいですかね」
 と言って、そのおばさんにコーヒーカップを返した。おばさんは、表情を全く変えずに頷き、カップを受け取った。ラウンジと外のスペースを区切る自動ドアの外に出るとき、「スチュワーデスの人たちは、これから夜のフライトなんだ」と思った。
 ホテルは、空港へ向かう電車かモノレールのような交通機関の駅と隣接していた。その乗り物の乗り場近くまで歩いていったところで、友人Iが僕を待っていた。僕は、今度は手に雪駄を持っていて、それを飛行機の中に持ち込むためにビニール袋が欲しくなっていた。ビニール袋は駅の切符売り場の手前に、傘を入れるビニール袋の様に、たくさん置いてあった。それは、飛行機に乗る前のセキュリティーチェックの際に、靴を脱いでそこに入れるためのビニール袋だった。僕はビニール袋を一枚取って中に雪駄を入れ、切符売り場の方へ歩いていった。しかし、そこに既に友人Iの姿はなく、彼は切符の自動販売機に向かって左側にあるエスカレーターに乗っていた。普段のIは、僕を残して先に行ったりするタイプの人間ではないので、少し不思議に感じた。僕も後に続いてエスカレーターに乗り、空港へ向かう乗り物の発車場に向かった。エスカレーターは混んでいて、すぐ前には数人の旅行者の集団があった。その先にIが居るはずだが、上の方を見上げてもIの姿は見あたらなかった。
 「次の発車は、何時の便に接続しているの?」
 と、エスカレーターに乗っている旅行者が尋ねた。
 「20時6分だよ」と、もう一人が答えた。
 僕が乗る飛行機の接続には、乗り物一本分の余裕があるようだった。トラブルなく飛行機に乗れそうなことが少し嬉しかった。
 エスカレーターを昇り終えると、ひとりの運転手が僕を待っていた。電車かモノレールに乗るはずだと思っていたのに、僕はいつの間にかタクシーに乗っていた。そこにはすでに、Iの姿は無かった。
 僕はタクシーの助手席に乗った。後部座席には二人の女性が座っていた。年は30代後半から40代くらいだろう。顔を見たわけではないが、二人の会話で何となく、そう思った。タクシーは最初、普通の道を走っていた。日は既に沈んでいたが、外はまだ明るさが残っていた。タクシーは、屋敷の壁が突き当たりになっている小さな路地を入っていった。屋敷の壁の奥には、たくさんの木が茂っていた。もう少しで突き当たりになるというところの路地の右手には、「数学III」と壁に書いてある平屋建ての小さな家があった。そこは、『数学III』という高校生向けの学習雑誌を出版している出版社だった。玄関自体は見えないのだが、石畳が入り口に向かってU字に続いているのが見えた。建物の中から玄関に漏れ出ている光が、中で人が働いていることを表していた。僕は、建物の中から漏れる光を見て、その建物の中に一度入ったことがあるのを思い出した。その時僕は高校生で、その会社の編集者に数学の勉強法の仕方について教わったのだった。会社の中は、机の上に資料が山積みになっていて、非常に雑然とした印象を受けたのを憶えていた。それもまた、全てが夢の中での出来事だった。
 タクシーは出版社の前をすぐに通り過ぎてしまい、路地の突き当たりを左に曲がった。路地は更に細くなって、道幅は1メートルほどしかないように感じた。しかし、タクシーの運転手は道幅の狭さを全く気にすることなく、どんどん車を走らせた。坂道を上がり、その坂道の頂上にある突き当たりを右に曲がる。どう考えても車一台が通ることなど出来ない道幅なのだが、タクシーは凄いスピートで、T字路を曲がった。どんどん先に進んでいくうちに、道幅は更に細くなっていった。道の両側はいつの間にか岩の壁になっていた。車の横腹が、T字路の角にぶつかるのではないかと冷や冷やするのだが、一度もぶつかることはなかった。最初のうちは曲がるたびに怖かったが、次第に慣れてきた。
 「今度は左右どちらへ曲がる道が出てくるのだろう」と、先の事を考える余裕ができはじめた頃、タクシーは一つの路地を左に曲がった。すると、そこは突然、団地の廊下のような道になった。いくつもの鉄のドアが並んでいた。そして、すぐ目の前の部屋のドアが開きっぱなしになっていて、タクシーの行く手を遮っていた。僕は車の進行を妨げているその扉を見た瞬間、「ああ、僕はまたここに来てしまった」と、思った。
 僕はタクシーを降りて、その部屋の中に入ることになった。そこまで行ったら会わなければならない人がいることを僕はわかっていた。僕はひとりではなくて、もうひとりの友人Tが一緒だった。
「ごめんください」
 と言って、玄関に入ると、ひとりの女性が出てきた。僕とTは、玄関を上がったところで少し待たされた。古い団地の玄関なので、僕たちがいる場所はとても狭かった。奥では、既に誰かが面談を受けているようだった。そこは、大学受験を控えた人が訪ねる、塾と治療施設の中間のような場所だった。個人で経営している塾(のようなもの)で、そこの先生は、医学部受験生を特によく診察していた。玄関の靴箱の上には、金魚が入った水槽があった。その手前には、ひとりでに動く、大きな金魚の置物があった。置物の金魚は、とてもリアルなうねりをみせながら、一本の鉄棒に支えられてくるくると回っていた。鱗の光沢が本物らしくて、大きさは鯉よりも大きいくらいだった。金魚の置物のさらに手前には、勝手にジャズを演奏する縦型の鉄琴があった。
 振り返って廊下の様子を見回すと、壁には子供用教育雑誌を出している出版社のカレンダーがあった。塾の先生は、子供の勉強も見ているのかも知れない。Tは自分の予約を入れていたらしく、それからすぐに中に通された。僕はひとりになったので、玄関に向かって右側の待合室で自分の順番を待つことにした。すると、ひょっこり僕の母親が現れて、「あなたの予約は、お昼の休憩後の13時30分になっているけど、(Tに)続けてやってもらえると思うから、待っていなさい」と、言った。僕は、厚手の絨毯が引かれた待合室であぐらをかいて、自分の順番を待つことにした。
 僕の順番はなかなか回ってこなかった。待っている間に、僕は何度かトイレに行った。3回目のトイレから待合室に戻る途中に、最初に応対してくれた女性と会った。彼女は僕の方を、凄い顔でにらんだ。何故にらまれているか分からず、少し腹が立ったので、僕もにらみ返した。すると、その女性は、「あなた、気が短いのね」と言った。待合室に戻ると、程なく僕が先生から呼ばれた。僕を呼んだのは先生の奥さんという人だった。
 「どこへ行っていたんですか。呼ぶのはもう3回目ですよ」
 と、奥さんは言った。ずっと待合室で待っていたはずだったので、訳がわからず、僕は何も答えられなかった。奥さんの後を追って、先生の部屋に入った。先生は奥の畳の部屋に座っていて、前に大きな机があった。
 「やっといましたよ」
 奥さんは呆れたように先生に向かってそう言った。入り口の手前にはTが座っていた。ずいぶんと落ち着いた様子に見えたから、確かに彼の面談が終わってから少し時間が経ったのかも知れない。しかし、僕が待合室を離れたのは、トイレに3回行っただけだったから、なぜ僕がそこにいないと言われたのか不思議だった。トイレに行っていたのだって、一回一回は非常に短い時間だった。
 先生は太っていて、小林亜星に似ていた。坊主頭で、銀縁のめがねをかけている。先生は、僕が来るのが遅かったためか、机の前で昼食を食べていた。食べているのは、生卵かけご飯だった。
 「ぜんぜんどこにも見あたらなかったんですよ。一体何を考えているのか」
 奥さんはしつこく文句を言っていた。最初は、先生の前では行儀良くしていなければならないと思っていたのだが、奥さんのしつこさに、僕はだんだん腹が立ってきた。そして、
 「もう、何でもいいよ」
 といい、先生の前で乱暴にあぐらを掻いて座った。
 先生は、「おお」という感じで、僕の乱暴な座りかたに少しだけ驚き、それから生卵かけごはんを続けて食べた。
 「まあ、これでも飲みなさい」
 と、先生が言った。机の脇では、奥さんがすでに飲み物を用意していた。飲み物は、どんぶりのような器にたっぷりと入っていた。色が薄い茶色で、少し変わったお茶のように見えた。僕は勧められるままにそれを飲んだ。
 「塾の教師のような仕事はね、家にずっと居るから生活に変化がないんだよ。一日中家に居っぱなしなんだ」
 先生はそう言った。僕は、そこで初めて自分が医者であることを思い出した。ここは大学受験をする人が、何らかのアドバイスを受けるはずの場所だったので、僕がすでに医者として働いていると言うことを、先生に伝えなければならないと思った。しかし、その後の展開に興味を持ったところもあり、結局何も言わずに先生の前に座り続けていた。
 「こんな仕事はねえ、飲みながらじゃないとやっていられないんだよ」
 と、再び先生が言った。
 「飲むって、酒のことですか」 
 「そうだよ」
 先生は如何にも当然だ、というように答えた。
 先生は、酒に酔っているようには全く見えなかったし、机の周りにも酒の類は一切置いていなかった。
 「おまえは本当にいい加減なやつだな」
 次に先生は、そう言った。横で奥さんが、いやらしく頷いている。僕は先生の言葉よりも、奥さんの態度に腹が立った。そして、衝動的に、
 「トイレに行ってただけだろう。ちゃんと探しもしないで、人が悪いようにいわないでくれ」
 と、大きな声で言った。そう言った後で、後ろにTがいるのを思い出して恥ずかしくなったが、言葉は僕の口を離れて、すでに世に出てしまっていた。
 「ほら。そしてすぐ、そう言う風に短気を起こすんだ」先生は、生卵かけご飯の続きを食べながら言った。口から吹き出した米粒が、机の上に置いていた、僕の右手の上に飛んできた。
 僕は、トイレから待合室に戻る途中で、応対の女性に言われた言葉を思い出した。彼女もまた、僕のことを短気だと言った。
 僕は、短気なのだろうか。確かに、中学高校から学生時代までは、キレるというところまではいかなくても、ときどき感情的になることがあった。そして、そういう行動をしている頃は、感情的になるべき時にきちんと感情的になれることが自分の良い点だと思っていた。その後色々なことがあって、次第に僕は、「感情的になることはほとんど全ての場合において良くないことである」というふうに考えるようになっていった。しかし、実際にこういう場面に直面すると、突発的に自分をコントロールできなくなることが、いまだにあるのだとわかって、少し悲しい気持ちになった。
 返す言葉が見つからなかったので、何も言わずに机の上を見ていると、先生が
 「じゃあ、そろそろ始めるか」
 と言った。
 先生は、重そうな体を起こして、机越しに僕の方へ向かい、両手を押さえつけた。そして、
 「眼を大きく開けろ」
 と言った。少し前に飲んだお茶に何か入っていたのか、僕の意識は次第に、とろとろしてきた。先生は、僕の目に何か細工をし始めた。
 「短気になるのはな、眼の一部分でしかものを見ないからなんだよ。いいか、ものをみるときは、眼の全部を使ってみるんだ。ほら見てみろ」
 僕は仰向けに押し倒されていた。視界全体が、太陽を直視した後のように真っ白になり、それから海の景色が見え始めた。気のせいか、いつもよりも視界が広くなっているような気がした。海は、太陽の光が表面に当たっていて、水の色がよく判らなかった。白くて小さな波が幾つか立っていた。海の景色は、次第に消えていき、次に山が目の前に表れた。山は、富士山だった。視界の中央に雲を従えた静かな富士山の姿が見えた。
 「あ、富士山だ」
 両手を押さえつけられたまま、僕は心の中でつぶやいた。そして、目が覚めた。部屋はまだ真っ暗だった。
 ベッドルームから、寝ぼけ眼でリビングのほうを見ると、無線LANのACアダプターの尻に灯った光が、いくつも重なって見えた。緑色の光が、暗い部屋の中で打ち上げ花火のように球形に光っていた。
 夕方に、医局で何気なく読んだ富士山の新聞記事のせいで、こんな夢をみたのかもしれない。

2006年9月 3日

ハワイ旅行記、完結

9月1日

波の形が良くてしかも人ができるだけ少ない場所を選び、海に入る。海水は拍子抜けするほどに温かい。

脇に抱えたボディーボードが風に煽られたりすると簡単に転んでしまいそうなので、ボディーボードの直線方向を風向きとあわせるようにして海の中を歩いた。

浅瀬で遊んでいる人たちよりも数メートルほど進んだところで、波乗りを試みる。でも、上手くいかない。できるだけ大きな波にタイミングを合わせて乗ろうとするのだが、体が波においていかれてしまうのだ。何度か試みてもやはり上手くいかなかったので、一旦砂浜に戻って休むことにした。

本を読んでいるイーダ先生の隣に座り、ボディーボーダーの動きを観察する。上手に乗れている人は少ないが、中に一人だけ、きれいに波に乗っている男の子を見つけた。地元の子供風の10歳くらいの男の子だった。

彼は、あまり沖まで出ることはなくて、浅瀬の小さな波をうまく捕まえて、砂浜まで体を運んでいた。波打ち際まで来たところで、気持ちよさそうに、くるっとターンする。

僕と入れ替わりで、イーダ先生がボディーボードを持って海に入っていった。しかし、あまり上手く乗れなかったようで、直ぐに戻ってきた。

しばらく男の子の動きを観察した後で、もう一度自分で試してみたが、やはり体が波に取り残されてしまう。その後しばらく粘ってみたのだが、結局この日はコツをつかむことができなかった。ボディーボードを楽しむチャンスはまだあるので、この日は無理をせず、退却することにした。

駐車場の手前にある屋外のシャワーで体の砂を落としていると、先ほどのボディーボードが上手な男の子がシャワーを浴びに来た。

男の子は、母親と小さな妹と一緒だった。彼は、母親が誰かと話しをしている間に、僕の隣でシャワーを浴び始めた。

「波に乗るの上手だね」

シャワーを浴びながら、男の子に話しかけた。すると彼は、体を擦りながら僕のほうを見上げて、照れくさそうに笑った。

帰りにスーパーマーケットで夕食の買い物をすませて、コンドミニアムに戻る。この日の夕食メニューは、夏野菜(ズッキーニ、パプリカ、トマト)のパスタ、茹でたジャガイモ、カプレーゼ。


6日目
午前3時に起きて、ハレアカラへ日の出を見に行く。

山頂は相当冷え込むということだったので、長袖Tシャツの上からボタンの長袖シャツを着込み、バッグに、防寒用のバスタオルと水と食料(バナナとバターローストピーナツを一袋)を入れて、車で出かけた。

未明のサウスキヘイロードは車の通りが少ないが、カフルイ空港の近くからハレアカラハイウェイに入ると、一台また一台と車が連なり始める。

一時間ほど山道を走り、ハレアカラ国立公園の入り口に付くと、料金所が渋滞を起こしていた。そこで20分くらいは並んだと思う。入り口で10ドルの入場料を払い、さらに山道を登る。

視界が広がるところで、車の窓から下を見おろすと、湾に沿って町の灯りが見えた。東の空は少しずつ明るくなっているが、夜明けまでにはまだ時間がありそうだった。

さらに、小一時間ほど山道を登り、標高3000メートルの山頂に到着する。

前を走る車に続いて駐車場へ入ろうとすると、入り口に交通整理のポールを持った人が立っていた。前の車が停められ、何か話をしている。駐車場が満車で、中に入れないようだった。

交通整理の人が、少し下にカラハク展望台があることを教えてくれたので、やむを得ずそちらに回ることにした。

山頂から数分ほど下ったところにあるカラハク展望台は、標高2842メートル。こちらの駐車場にはまだ余裕があった。車を停めて、バスタオルを羽織り、白みかけた空の方向へ歩いていく。

駐車場の車の数に比べると、随分多くの人が見物に集まっているように感じた。周囲は暗くて、展望台からの景色はまだわからない。

岩肌に腰かけて太陽の方向を見ると、雲海の直上の空がオレンジ色に染まり始めている。オレンジ色から藍色へのグラデーションの上には、金星が光っていた。

雲海は時間とともに色が変化した。ほんの僅かな時間、全体が淡い紫色になり、そしてすぐに普通の灰色になった。

空が明るくなっていくと、展望台の北側に広い皿底のような噴火口が見え始めた。やがて日が昇り、噴火口内のクレーターに太陽の光が影を作った。タコのような火星人が似合いそうな景色だった。

すっかり日が昇った後で、もう一度山頂に上がり、景色を確認してからキヘイに戻った。

往き道の運転はイーダ先生がしたので、帰りは僕が運転した。自転車のダウンヒルツアーの集団が10数台の列を作って、山道を降りていくのに何回か出会った。

帰り道は、二人とも死にそうなほど眠かった。車を運転しながら、眠気覚ましにピーナツをばりばり食べたり、俳句を作ったりした。

ハレアカラ バナナの紐も つづらおり

眠けが良く表れている句である。
イーダ先生も何句か作っていたが、あんまり良くなかったので、全部忘れてしまった。

なんとか無事に2時間のドライブを終えて、コンドミニアムまで戻る。

イーダ先生は、そのまま倒れ込むようにベッドで寝てしまった。僕は、宿まで戻ると急に目が冴えてしまい、ベランダに出て読書をする。

昼食後に昼寝をして、夕方からは再びビーチへ向かう。翌日の朝にはマウイを発つので、僕は、何とかこの日中に「カマオレ一号」を乗りこなさなければならなかった。

草地に荷物を置くのもそこそこに、早速海に入ることにする。昨日見た男の子が小さな波に乗っていたのを思い出し、いきなり沖に出るのは止めて、手前の小さな波から確実につかむことを試みる。

一度目。やっぱり、波に取り残されてしまう。波の勢いに対して体が重すぎるようだ。

そこで次は、波にタイミングを合わせて、地面を砂浜の方向に蹴るようにしてみた。すると、少しだけ波に乗れた。

その後、だんだんコツが解ってきて、少しずつ大きな波にも乗れるようになってきた。イーダ先生も、この日は乗れるようになった。

一旦波を掴めるようになると益々面白くなり、ずいぶん長い時間遊んだ。ボディーボードは、波のうねりがスキーとはまた味違う滑走感を生み出すようである。

2時間ほど遊んでから、スーパーでステーキ用の牛肉とワインを一本買い、宿に戻る。

マウイでの最後の夕食は、ビーフステーキ、キノコのソテー、ニンニクとパセリのパスタ、ブロッコリーとトマトである。

冷蔵庫がこれでほとんど空になった。ご飯を食べて少し休んでから荷造りをする。


7日目

朝。庭に出ると、この日も晴れていた。天気に恵まれた一週間だった。一度も雨には当たらなかったように思う。

庭で呼吸をしてから、いつものようにイーダ先生を起こし、牛乳とオレンジで簡単に朝ご飯を済ませる。

最後の荷造りをして、部屋を出る。清潔でキッチンも使いやすく、いい部屋だった。

カマオレ一号は部屋に置いていくことにした。誰かがまた、この板と一緒にマウイの海で遊んでくれるだろう。

チェックアウトを済ませて空港へ向かう。朝9時だった。飛行機の時間まで余裕があったので、途中で少しだけビーチに寄った。

海は風がほとんど無くて、波も穏やかだった。砂浜には、日光浴を楽しむ水着姿の老人や、雑談をしながらジョギングする人がいた。朝には朝の海の楽しみ方があるようだ。

車に戻って、再び空港へ向かった。サウスキヘイロードから、草原と山に囲まれたモクレレハイウェイに入る。

道の途中で、毎日庭から眺めた夕日や、ハレアカラの日の出を思い出した。

太陽は毎日一回昇り、一回沈む。そんな当たり前のことを感じた旅だった。少し情けない感想のような気もするし、それでいいような気もしている。

(おわり)

2006年8月31日

「ワイレアのサンタクロース」現る

8月28日

二日目の朝。目が覚めてすぐ庭に出る。庭は外に向かって緩やかな坂になっていて、ブーゲンビリアの垣根がパブリックスペースとの境界になっている。空は晴れており、遠くに見える大きな山は、てっぺんが雲に覆われていた。

芝生の上でサンダルを脱ぎ、海に向かって呼吸を整える。朝の空気で肺を満たし、全身に行き渡らせ、ゆっくりとはき出す。何の予定もないハワイの朝である。時間を気にせずに呼吸を繰り返す。

1時間ほど庭で過ごした後、しつこく寝続けているイーダ先生をおこして朝食を摂る。メニューは、牛乳とバナナ、前の夜に食べ残したセロリとトマト、あとはコーヒー。

食事の後は、1時間ほど本を読み、それからプールへ行く。旅の疲れがまだ残っていたようで、この日は、本を読んだり、昼寝をしたりして、のんびり過ごした。

昼食は、トマトソースのパスタにビール。夜は、白いパエリア(サフランを買い忘れた)と、カリフォルニアの白ワインだった。

無線LANが引かれていて、インターネットが無料で使えることがこの日判明した。


三日目。
午前中は前日と同じように過ごした。午後からはワイレアへ行き、散歩がわりにゴルフをする。帰りに寄ったショッピングモールで、ハンバーガーとオニオンリングを食べた。

肉厚の玉葱にボリュームのある衣をつけて揚げたオニオンリングはロコビールとの相性ばっちりである。チーズバーガーも旨かった。

スーパーで夕食の買い物をしてからコンドミニアムに戻り、いつものように夕暮れを庭で過ごす。

晩ご飯は、アボガドの刺身、コンビーフとジャガイモの炒め物、赤ワイン。

夕食後、イーダ先生が『半島を出よ』を読了。

最後のほうは、「ふがーっ」っと鼻息荒くページをめくる興奮ぶりが脇にいる僕にも伝わってきた。読み終えて心なしか息切れをしているようだ。

水割りを飲みながらお互いに感想を述べあう。

僕は、「これは「軍人将棋」の様な話である」という感想を述べる。

その時は酔っぱらっていて、何を言いたいのか自分でもよくわからなかったが、「良かれ悪しかれ、人には働きどころというものがある」ということが言いたかったのである。


四日目。
朝。寝ぼけまなこで、一人プールに向かう。誰もいないプールでひとしきり泳いだ。

午後から少し遠くのショッピングモールへ行き、コーヒー豆やCDを買う。ついでに、スーパーマーケットSafewayに寄って夕食の買い物をする。30ドルのボディーボードも購入。名前を「カマオレ1号」とすることにした。

五日目。
思ったよりも楽しかったので、午後からもう一度ゴルフをする。場所は前々日と同様に、ワイレアのブルーコースである。

二人でボールを無くしまくり、途中棄権の危機に見舞われる。前々日のラウンドでは、殆どボールを無くすことはなかったのだが、二度目のこの日は、前半の終了時点で、予備のボールが二人で一個だけという状況に陥ってしまった。

仕方がないので、とりあえずドライバーを打つのを止めて、のんびりラウンドを続けていると、どこからか赤いポロシャツを着たお爺さんがやって来た。

爺さんは、僕たちの電動カートに近づいてくると、いきなり

「ボール足りてるか?」

と聞いた。

「いや、たくさん無くしちゃって、二人で三個しかないんです」

と答えた。

爺さんは何も言わずに、僕たちのカートの籠に5,6個のゴルフボールを放り込んだ。彼のショートパンツのポケットからは、後から後からゴルフボールが出てきた。ボールに付いているマークがまちまちだったから、コースで拾ったロストボールなのだろう。

「ありがとうございます」

僕たち二人はそれぞれに礼を言った。

「水はあるか?」

爺さんは、僕たちの無くなりかけたミネラルウオーターのペットボトルを見ながらそう言った。

そして、僕たちが答えるのを待たずに、自分が持っていた小さなクーラーボックスを開けて、よく冷えた500mlのペットボトルの水を一本くれた。

「ありがとう」

僕たちはそれぞれにもう一度礼を言った。

「気にしないで。いいラウンドを」

爺さんはそれだけを言うと、そのまま去っていった。

後からクラブハウスで聞いた話では、この人はこの界隈でも有名な、「ワイレアのサンタクロース」と呼ばれている人物で、初心者が多いこのゴルフコースに毎日現れ、誰に頼まれるわけでもないのに、慈悲深い行動を繰り返しているそうである。

元々はアメリカ本土に住んでいたのだが、仕事を引退してからこのコースの近くにコンドミニアムを購入し、老婦人と二人でのんびり暮らしているらしい。

「時々、この辺ではほとんど見かけないような立派なスーツをきた男が爺さんの家を尋ねてくることがある。実は、相当なお金持ちという噂もあるが、本当のところはよく解らないんだ。爺さんのことは、誰にも本当のことはわからない」

水色のポロシャツを着たゴルフクラブのスタッフが、僕たちが使い終えたゴルフクラブを拭きながら、そう教えてくれた。


ゴルフの後は一度コンドミニアムに戻り、その後で、近くのカマオレビーチパーク3へ行った。言うまでもなく、「カマオレ一号」の乗り心地を試すためである。

キヘイのリゾートエリアには、いくつかのビーチエリアがある。その中にある「カマオレビーチパーク」は3つに分かれていて、北から南に向かって番号がついている。

ビーチパーク1と2は、キヘイの特に賑やかな場所にあり、人も多く、サーフィンやボディーボードのレッスン&レンタルショップがあったりする。

我々がよく出かけたビーチパーク3は一番南側にあり、この辺になると店はほとんど無くなって、コンドミニアムが建ち並ぶ静かな場所になっている。ビーチに出ている人は、小さな子供を含めた家族連れが多い。


夕方になり、風が強まってきた。乗りやすい波が出始めているのが素人の僕でもわかる。

「少し休んでから遊ぶ」というイーダ先生は、ビーチチェアーに腰かけて新しい本を読んでいる。

僕は早速ボディーボードにのってみることにした。

沖から吹く向かい風の中、僕は「カマオレ1号」を左脇に抱えて、海に向かってゆっくりと歩いていった。


赤いポロシャツのお爺さんの話は途中から嘘です。すんません。

2006年8月25日

江さんの『「街的」ということ』を読んで考えた

8月24日
たとえ著者とは何の関わりも持っていないとしても(本を読む場合はたいていの場合そうなわけだが)、インサイダー的想像力を働かせることが解釈を深めるのじゃないかと思うわけである。

それは話に巻き込まれるということや感情移入と呼ばれるものとは少し違っていて、会話をするように読むというのに近いと思う。書き手が私に対して話しかけていると想像し、その内容を自らのテリトリーに巻き込んで考えを巡らしていく。話が進むのと一緒に、思考の歯車が回転していく。そのような読み方の事である。
 
「解釈は本質的にこの懇請を含んでいる」(『レヴィナスと愛の現象学』p.65)。

江さんに初めて会った頃、いまはなき『ジャック・メイヨール』のカウンターで、よくこの「懇請」についての話をした。江さんは、内田先生の本に登場する、このエマニュエル・レヴィナスの言葉を強く意識していた。

「注解とは非人称的な知的まなざしのもとで、「永遠の相の下で」、粛々と進められるのではない。それはほとんど「我田引水」的と言ってもよいほどに具体的で、固有で、生々しい解釈者の現実に即して進められるのである。注解者はその「都市、街路、他の人々」との具体的なかかわりを通じて一人の生活者として形成される。その具体性ゆえに、この注解者は他の誰をもってしても代え難いような仕方でユニークなのである。そして、そのユニークさ、その「代替不可能性」が彼の注解への参加資格を構成するのである(『レヴィナスと愛の現象学』同ページ)。

本を読むこと、街に生き、街を感じることの参加資格を構成するのは、自らの中に蓄積された「現実」なのだろう。そんなのことを、江さんの『「街的」ということ』を読んで考えたりした。


リアルなもの。すなわち、紛いものじゃないもの。
唯一の正解ということではなくて、街における店のあり方や、個人のふるまいとして、間違いじゃないものがあるとしたら、それは、「リアルなもの」、ということになるのだと思う。

ではそのリアリティーはどこからやってくるのだろうか。
おそらく、リアリティーとは、時の厚みからやってくるのじゃないだろうか。
それは、言い換えるならば、個人的な歴史や物語ということになるのかもしれない。この本を読んでいて不思議と温かな気持ちになるのは、おそらく江さんが持っている「時の厚み」に対する愛情と敬意の現れのためであるような気がする。

お好み焼きと酒場に関する記述が抜群に冴えわたっていて、胸にせまるものがあった。これは、バッキー井上氏という最高の共犯者が大きく関与していると思われる。江さんとバッキーさんの街に対する懇請が補完し合っていて、立体的な印象を受ける。

少しよそ行きの言葉で始まって、スパイシーな関西弁でぴしりと締められるリズムのよい文章が読んでいて心地よかったです。みなさんもぜひ。

「街的」ということ

「街的」ということ/江弘毅/講談社現代新書

2006年8月24日

あの日みた八戸の夕焼け

8月16日 

カフルイ空港のハーツでビュイックのセダンを借り、コンドミニアムへ向かった。窓の外には、サトウキビ畑と原野を足して2で割ったような、中途半端で広大な景色が続いている。ずっと先の方に大きな山が見える。

褐色の肌を持つ大きな山は、中途半端な野原の土地がそのまま盛りあがったような形をしている。建物が少ないせいもあるかも知れないが、どこまでが平地でどこからが山なのか境目がわかりにくい。

内陸部を通り抜けて、いよいよ海沿いの道に入る。右側にキヘイビーチを眺めながら車を走らせると、20分ほどで、コンドミニアム「マウイ・カマオレ」に到着した。場所はキヘイの南端で、もう少し走るとワイレア地区になる。コンドミニアムの目の前にはカマオレビーチパークがある。

海に向かって傾斜しているコンドミニアムの敷地内を車で登っていくと、プールに隣接してオフィスがあった。プールでは数人が泳いでいたが、オフィスには全く人影がない。どうやらランチタイムの休憩らしい。仕方がないので出直すことにした。

サウスキヘイロードに面したレストランで昼食を取り(イーダ先生はサラダ。僕はマヒマヒのソテーとビール。)、この日の簡単な予定を立てる。

小一時間ほどしてから再びコンドミニアムに向かい、チェックインを済ませる。部屋に入れるのは15時ということなので、それまでプールで休むことにした。イーダ先生は日陰のテーブルに陣取ると、すぐさま読みかけの『半島を出よ』に向かった。どうやら今回の旅は村上龍と縁が深いらしい。

「どこまでいったの」

「先遣隊が福岡に上陸したところ」

僕は水着に着替えて早速泳ぐことにした。裸足で歩くと、プールサイドのタイルが焼けるように熱い。泳いだりベンチで寝ころんだりしているうちに15時を過ぎたので、鍵を受け取って部屋に入った。十分な広さの1リビング1ベッドルームで、リビングから小さな庭にでると、遠くに海が見えた。静かである。

荷物を出してからシャワーを浴び、少し休憩した後で早速夕食の買い物に行くことにした。

車に乗ってサウスキヘイロードを空港方面に戻る。日はすでに傾きかけていて、道は、一日海で遊んで宿に帰る人や、逆に、夕方近くになってから海に向かう人達で賑わっていた。海へ向かう人は、多くがボディーボードを抱えている。ジョガーも多い。ジョガーの70%が男性で、その70%が上半身裸である。そしてさらにその90%に、入れ墨が入っている。ヘッドセット装着率は全体の95%を超えている。

車で10分弱のところに食品スーパーを見つけたので、そこで買い物をした。結局、6泊のマウイ滞在中の食事は、ほとんどこのスーパーで買った食材をコンドミニアムで調理して食べた。えらそうに書いたが、ほとんどはイーダ先生が作った。僕の担当は、野菜切りと食後の洗い物である。

日本のワンルームマンションの湯船くらいあるショッピングカートを押して店内に入り、買うものをじゃんじゃん放り込んでいく。トマト、ジャガイモ、セロリ、ピーマン、ニンニクなどの野菜、桃を2個、オレンジ3個、米1キロ、パスタを二袋、スライスハム一袋、ミネラルウオーター1ガロン、牛乳半ガロン、ビール1ダース、赤ワイン1本、ビーフジャーキー一袋、ポテトチップス一袋などである。コンドミニアムのキッチンにはすでにおいてあったが、塩、胡椒、オリーブオイルなどの調味料も少し買った。スーパーには日本人向けの商品も豊富で、出汁の素やカレーのルーまで置いていた。

大量の買い物袋を車に詰め込んで部屋に戻り、食材を冷蔵庫に詰め込む。空っぽだった大きな冷蔵庫が、色とりどりの食べ物で埋まっていく。

一段落して外を見ると、日没が迫っている。時刻は午後7時くらいだった。庭に出て椅子に座り、ビールを飲みながら夕日を眺める。静かである。庭を歩き回っていた鳥たちも一日の仕事を終えたようで、姿を消してしまった。何も話さず、何も考えず、ただ、日没を見ながらゆっくりとビールを飲んだ。

「病棟の窓から外を見ると、大きな川が流れている。夕焼けが綺麗なんだ」

北くんが言った言葉を思い出した。

医者になって3年目の春、僕は北くんと入れ替わりで、八戸の病院に勤めることになった。電話で患者の申し送りを終えた最後に、彼はそう教えてくれた。

川沿いの地平線から空いっぱいに広がる夕焼けは、実際とても美しかった。何かを訴えかけるような夕日でもあったし、ただ勝手に空一面を赤色に染めているだけのようでもあった。

自然が自分に対して何かを訴えていると感じるのは、わがままな考えである。しかし、もし何も訴えていないのだとしたら、あの八戸の夕日はあまりにも大袈裟だった。

そんなことを思い出しているうちに、夏休みの最初の夕日はあっさりと落ちてしまった。いつの間にか気温が下がっている。

部屋に入って、ピーマンとタマネギ、ハムの入ったパスタを作り、ワインを飲みながら二人で食べた。

旅の疲れと時差ボケのせいか、ワインの酔いが早く回り、11時前にはベッドに入った。

2006年8月14日

ハワイはいいわ

8月14日

一週間の夏休みに、ハワイのマウイ島へ行ってきた。あまり意識していなかったが、結婚してから初めての遠出なので、一応新婚旅行ということになる。イーダ先生は初めてのハワイ。僕は、これが都合3度目のハワイである。マウイ島は2度目で、実はそのときも新婚旅行だった。パスポートを見て確かめると、8年前のことになる。

5月の連休前ぐらいに、二人で夕ご飯を食べていて、夏休みにどこかへ旅行しようということになった。

「南国の海に行きたい」

と、イーダ先生が行った。

「じゃ、ハワイにしよう。マウイね」

即座に僕が返答し、これで決まりになった。数日後には航空券とコンドミニアムの予約を済ませた。

夏休みの旅先にマウイを選んだことには、村上龍の小説『オーパス・ワン』の影響が大きい。これは、『ワイン 一杯だけの真実』(幻冬舎文庫)に収められている短編である。

大学院4年生の春、生協の書籍コーナーで何となくこの文庫本を買い、午後からの出張へ向かうバスの中で読み始めた。読み始めたとたん、僕の目の前にはハワイの強い日射しと、濃い青色の海が広がった。そのイメージがあまりにも鮮やかで、体が震えそうになったのを憶えている。


「荷物をピックアップして、外に出ると君は溜息をつくだろう。その小さな飛行場は高台にある。海が見えるんだ。鮮やかな紺色の海は、太陽を反射して水平線の彼方まで穏やかに輝いている。濃いブルーのトレイに乗った光の粒がそっと揺すられているような、網膜の裏側が現実になったような、海だ。」(『オーパス・ワン』より)。


その年の夏休みに、友人2人とマウイ行きの計画を建てたのだが、言い出しっぺの僕だけが都合で行けなくなってしまった。それから2年が過ぎ、この度晴れてマウイ行きの願いが叶うことになったのである。嬉しくないはずがない。その2年間はあっという間だったが、色々なことがあったような気もする。その間に僕は大学院を卒業し、短い間だったが大学病院で病棟勤務をし、離婚して、もう一度結婚した。そのあいだずっと、合気道のお稽古に通っていた。

8月5日の夜7時の便で関空を発ち、その日の朝にホノルルに着いた。混雑のピークからは少しだけ時期がずれていたようで、入国とマウイへの飛行機の乗り継ぎは思いのほかスムーズだった。『オーパス・ワン』の中で、主人公の女性はカパルア空港行きの飛行機に乗っていたが、我々が乗ったのはカフルイ空港行きの便だった。カパルアと、カフルイ、ワイレアにワイルク。マウイの地名は何度読んでも憶えることができず、旅行の間中、僕の頭は混乱していた。何かに似ていると思ったら、それは登場人物の多い物語のようだった。

映画もドラマも小説も、昔から登場人物の多い話が苦手だった。誰が誰だか解らなくなってしまうのである。小説を読みながら、人物がアイデンティファイできなくなってしまい、何度も本の最初や、表紙の折り返しについている「登場人物紹介」を参照することになる。最初のうちはこまめに名前を確認しながら読み進めるのだが、そのうちにどうでもよくなってしまい、きまって、よく判らないまま強引に読み進めることになる。冬ソナを観たときだって、中盤を過ぎる頃からはさすがに理解したものの、見始めてからしばらくの間はほんとうに大変だった。サンヒョクとチュンサンとミニョンとチェリンとスリョン…頭が爆発しそうだった。僕が最初から理解できたのは「次長」くらいのものである。

話がそれてしまったが、そのように、地名人名を憶える能力に大きな問題を有する僕も、何とか無事にマウイのカフルイ空港へ到着することができた。到着時刻は、現地時間で昼の12時を少し回ったところだった。

(以下つづくよていです)

2006年7月23日

佐藤フサエさんのオムレツ(が食べてみたい)

7月18日

午前中は、梅田の診療所で腹部エコー検査をする。その後芦屋に戻り、病院を受診。昼ご飯を食べてから研究室へ向かった。

昨日機械にかけておいたサンプルを電気泳動で確認すると、少し期待が持てる結果が出ていた。嬉しさよりも、首の皮一枚のところでまた少しだけ前に進めるという安堵感の方が大きい。

夕方、医局に届いた毎日新聞の夕刊で平尾さんの『身体観測』を読む。

昔、村上龍が言っていた。

「サッカーにおいて、すべてのゴールは奇跡である」。

相手の強固なディフェンスを破ってゴールを決めるには、ある種の偶然が必要なのだろう。その偶然を生むのが、ダイレクトパスであり、阿吽の呼吸であり、最終的には味方同士の信頼関係ということになる。

痺れるほど美しいワンゴールの影には50回の「無駄走り」がある。そのフォワードの「無駄走り」を支えるのは、たぶん、味方同士をつなぐ信頼なのだと思う。

それでは「信頼」とは一体何なのだろうか。
「信頼」とは身近でありながらどこか遠い言葉である。ふだんあまりこういうことを考えることはないのだが、これを機会にちょっとだけ頭をめぐらせてみた。

「信頼」と同じように大きな言葉に、「愛」がある。この言葉にもまた漠然としたイメージがつきまとうが、もともと何だか分からないのが「愛」だということも言えるだろう。

「愛」が今ひとつよく分からない一方で、「信頼」というのは、より具体的な状況で使用する言葉であると思われる。愛するのに理由はいらないが、信頼するのには理由が必要なのである。対象との関係が直接的なのが「愛」で、何らかの介在物が必要なのが「信頼」ということも言えるかもしれない。
意識化されているかということも飛び越えて、「愛する」という気持ちがまずそこにあるのが愛。でも、信頼は違う。

「私は、彼の全人格を信頼している」

こういうのは、非常に胡散くさい言葉である。聞いていて、つい「ほんまかいな」と思ってしまう。

「私は彼の血管縫合の技術を信頼している」とか、「私は彼のワインテイスティング能力を信頼している」といったように、対象が具体的なもののほうが、信頼という言葉とはよく馴染むと思う。

「アイツなら、このタイミングでパスをくれる」。

私にラグビーのことはまったくわからないけれど、この平尾さんの例には非常に強いリアリティーを感じる。

そこでは、チームメイトとの間に具体的で明確なイメージが共有されているように思う。お互いのイメージの重なり方が近ければ近いほど、信頼関係がより深いということになるのだろう。

ディフェンスラインを「すぽーん」と抜くような鮮やかなプレーが成功したときというのは、チームメイトとの間で視覚的にかなり鮮明な未来像が共有されているのじゃないだろうか。
信頼とは、複数の人間の間で共有された具体的な未来像を指すのだと思う。

パスのような基礎プレーから複雑なサインプレーに至るまで、チームメイトと共に明確な未来像を築き上げていくというのは本当に骨の折れる作業だろうけれど、それはとてもやりがいのあるもののように思える。改めてそう考えてみるとチームスポーツというのは、やはりよいものですね。

しかし、話はおそらくスポーツの世界にとどまらないのだろう。人と信頼関係を築くというのは、普通に生きていくうえでも大切なことである。

そして、他の人のことはわからないが、私の場合、生きていく上で一番信頼関係を築きたいのは自分自身とである。

自分に全幅の信頼をおくことなど到底できっこないが、もう少し信じてあげないと、これからどんどん歳を取っていくときにうまく立ち回れないんじゃないかというような、脅迫に近い気持ちを持つことがあるのである。

そこまで大袈裟に考えなくても、自分を他人として考えたり、自分を一つの組織(チーム)として想定することが、考え方として有効なんじゃないかと思うことがときどきある。

私はたかだか34年しか生きていないけど、それでも、寝ても覚めても自分が自分自身であることに飽き飽きすることがある。

そういうとき私は、自分の中の「佐藤社長」とか、「佐藤フサエおばさん」とか、「佐藤カステラくん」とかと話をすることにしている。これらの人たちと炬燵を囲んでいる気持ちになって、「チーム佐藤」の未来について相談するのである。

佐藤社長は、保守的な人間である。チーム佐藤の構成メンバーの中で、一番歳を食っており、もっとも信頼がおける人間であるが、少し堅苦しくて、人に厳しすぎる部分がある。

佐藤フサエおばさんは、日常生活を整えることを大切にしている愛すべき婦人だ。忙しいときはあまり会うことができないが、ふとした時に姿を現して、食後に皿を洗ったり、洗濯物を干したりする。

佐藤カステラくんは、現実感というものがまるで感じられない、得体の知れない若者である。歳もだいぶ若い。車を運転しながら、

「コーラを飲みながらおしっこしたら、世界と自分の体の中に一つの輪ができるよなあ」

というようなことを考えたりしている。
主な構成員はこの3人だが、私が知らない人間も含めて他にも数人のメンバーが存在すると思われる。
時に過激派も混じっているから注意しなければならないが、こういう人たちと時々話をしながら何とか日々の暮らしを整えていくというのが、今現在の私が取っている生活法なのである。


平尾さんは文章の最後を以下の一文で締めている。

「しかし、「個々の能力」が信頼が絡む合う場で輝くのだとすれば、育まれるのもまた「信頼の絡み合い」という場だろうと思う」。


自分の能力を高めたり、自分を引っ張りあげてくれたりするのは、(今ここで日記を書いている)自分ではなく、自分の内側と外側にいる仲間たちなのだろうと、この爽やかな文章を読んでひとり納得した次第である。


信頼は、愛があるからこそ育つものだろうけれど、もう少し踏み込んだ、個人的「愛情」ということについてまで考えると、話しに異なる面が見えてくるから面白い。

「信頼しているけど愛していない」

という状況は、仕事を含めた社会生活においてよくあるものだから特別になんとも思わないけれど、

「愛しているけど信頼していない」

というのには、何だか抜き差しならない感じがあるから不思議ですよね。

2006年6月30日

亀寿司は来月もあります

6月29日

昨日、甲南麻雀連盟の新規副団体である「本マグロの会(仮称)」が、山本画伯と谷口“越後屋”タケシ氏の号令により、曾根崎の『亀すし中店』で開催されたということである(私は、仕事の都合で残念ながら欠席)。

甲南麻雀連盟には「ヒロキの字一色」「会長の高笑い」「シャドーのぼやき」「姐御の発汗」などの名物場面が存在するが、晴れてこの度「画伯のカンパチ」がそのひとつに加えられたのである。誠におめでたい。おめでとうございます。

旨い寿司への未練が残るまま翌日の木曜日を迎え、朝から堺の病院へ行く。行きがけの車の中で、病院のすぐそばに堺市の中央卸売市場があり、その敷地内に回転寿司屋があることを思い出した。ここは、回転寿司とはいえ市場内の寿司屋ということもあり、ひょっとしたら期待できるのではないかと前から気になる店だった。今まで一度も足を運んだことが無かったのだが、これがいいきっかけだと思い立ち、午前中いっぱいの仕事を終えた後でこの寿司屋に入ってみることにした。

記憶の中では、こぢんまりとした店だったと思ったのだが、久しぶりに店の前に建ってみると、かなり大きな規模の回転寿司屋である。二枚の自動ドアを開けて店内にはいると、遠くの方まで続く回転テーブルには、平日の昼前にも関わらず沢山の人が座っていた。客層は、主婦とその母親、定年退職後の夫婦、トラック運転手風の男、と言った感じである。回る寿司台の中には職人が数人いて、更にその後ろの壁に大きな水槽がある。中には、鯛が一匹泳いでいた。水槽の上に「生きアワビ 2800円」という看板が掛かっている。いかにもチェーン店風の店内に少し嫌な予感がして、一瞬食べるのを止めようかとも思ったが、体が要求する寿司への渇望には勝つことができず、結局そのままここで寿司を食べることにした。

一人客であることを案内係の女性に告げると、両脇が塞がった一人がけの席に案内された。まずはじめに、赤だしか、あさり汁などの飲物を注文するように言われる。まるで、「頼むのが当然」というような口振りである。なにも飲みたくなかったから、「とりあえず何もいりません」というと、案内係の女性は、少し驚いたような、気分を害したような顔をして、そのまま去っていった。

ペーパータオルで手を拭き、ティーバッグの抹茶入り玄米茶の用意もそこそこに早速回る寿司を食べ始める。回転寿司の良いところは、一瞬も待たずに食事をスタートできることである。

つぶ貝、中トロ、いくら、カンパチ、いか、と順番に食べていく。板前に頼んだウニを頬張ると、パリとした海苔の食感と香りがウニとともに口の中で混じり合い思わず生ビールを注文したくなるが、なんとかとどまる。ジーコが日本代表のメンバーに求めたプロ意識とは、おそらくこのような自己管理能力なのだろう。

8皿ほどを食べて、値段は2200円。食べたネタの種類から言ってバカ高い店とは言えないが、昼ご飯としてはちょっと贅沢すぎたか。肝心の味の方は、可もなく不可もなく、どれもみなそれなりに旨いというところだった。

会計を済ませて、店を出る。駐車場までの道を歩きながら、「なにかすっきりしない」と思った。空腹は収まった。中トロだって旨かった。でも私は全く満足していない。例えば、死ぬほど腹が減っているときに、とんかつ屋でロースカツ定食を食べた後に感じる幸せ。そう言うものを微塵も感じないのである。昨日から食べたくてたまらなかった待望の寿司を食したにもかかわらず、空腹を満たされた幸せは一瞬にして過ぎ去り、具だけ立派で出汁が足りない味噌汁を飲まされたような気持ちだけがいつまでも続いている。

なぜ私はそんな気持ちになったのだろうか。ありきたりの言葉になってしまうが、結局は、店と店員が「個人としての客と接していない」ということなのじゃないかと思う。人間扱いされていないといったら大げさだが、大きな回転寿司屋のカウンター席に座り、ぐるぐる回る寿司を食べていると、養鶏場のニワトリにでもなったような気がしてくる。一見丁寧そうな態度の店員達が見ているのは、私という個人ではなく、「客」という何だか訳の分からない概念的なものなのである。

私たちの住む場所から少しずつ普通のラーメンや蕎麦屋が消えて、派手な看板とインテリアのチェーン店風の飲食店が増えていく。そして、この手の店で食事をした後は、何とも言えない寂しさを感じることが多い。

別に人情じみた話をしたいわけじゃない。ただ私は、ごく普通の店で熱いものを熱く、冷たいものを冷たく食べたいだけだ。真面目に作ってもらった飯を、真面目に食べたいだけである。しかし、どういう訳かこの手の店ではそう言う感じにならない。お互い別の方向を向いて会話しているようになってしまうのである。

天気の良い日に床屋へ行き、散髪を終えて「ありがとうございました」という声とともに店を出る。外の風が頬にあたり、さっぱりとした気分になる。別に、店員の愛想が良いわけではない。話が盛り上がったわけでもない。それでもそのような幸せを感じることができるのは、「なんだかおれもいい仕事したな」と客のくせに思えるのは、店員とこちらのお互いの人生が、適切に交差しているからなんじゃないだろうか。

何を言いたいのかっていうと、とどのつまり、私は亀ずしで寿司を食いたかったのである。

2006年6月20日

結婚は人生のラス前

6月19日
昨日の日曜日に、結婚報告のパーティーをさせていただきました。
パーティーの発起人になってくださいました内田先生、釈先生、石川先生、江さん、三杉先生と、参加してくださいました皆様に心より御礼申し上げます。

五つの秘密結社の代表の方々から、温かいお言葉と記念の品を頂戴しました。そのほかにも多くの皆様からお心遣いをいただき、嬉しさと恐縮する気持ちがマーブルチョコレートのようにぐるぐると入り混じっています。

「結婚は人生の墓場」
我々ふたりが所属するもう一つのディープな秘密結社、「S川S謡会」のS川先生が、このたびの結婚にあたりまして滋味深いことばを贈ってくださいました。
お互い2度目の鬼籍入りですし、墓石に降る雨も日差しも、気負うことなく受け止めて行きたいと思っております(「君ら、ちゃんと気負えよ」というメッセージのような気もしますが)。

個人的イベントのどさくさにまぎれて甲南麻雀連盟の四半期タイトルを獲ろうとひそかに狙っていたのですが、惜しいところで2位どまりでした。残念だなあ。

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2004年3月までの長屋日記

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