6月29日
昨日、甲南麻雀連盟の新規副団体である「本マグロの会(仮称)」が、山本画伯と谷口“越後屋”タケシ氏の号令により、曾根崎の『亀すし中店』で開催されたということである(私は、仕事の都合で残念ながら欠席)。
甲南麻雀連盟には「ヒロキの字一色」「会長の高笑い」「シャドーのぼやき」「姐御の発汗」などの名物場面が存在するが、晴れてこの度「画伯のカンパチ」がそのひとつに加えられたのである。誠におめでたい。おめでとうございます。
旨い寿司への未練が残るまま翌日の木曜日を迎え、朝から堺の病院へ行く。行きがけの車の中で、病院のすぐそばに堺市の中央卸売市場があり、その敷地内に回転寿司屋があることを思い出した。ここは、回転寿司とはいえ市場内の寿司屋ということもあり、ひょっとしたら期待できるのではないかと前から気になる店だった。今まで一度も足を運んだことが無かったのだが、これがいいきっかけだと思い立ち、午前中いっぱいの仕事を終えた後でこの寿司屋に入ってみることにした。
記憶の中では、こぢんまりとした店だったと思ったのだが、久しぶりに店の前に建ってみると、かなり大きな規模の回転寿司屋である。二枚の自動ドアを開けて店内にはいると、遠くの方まで続く回転テーブルには、平日の昼前にも関わらず沢山の人が座っていた。客層は、主婦とその母親、定年退職後の夫婦、トラック運転手風の男、と言った感じである。回る寿司台の中には職人が数人いて、更にその後ろの壁に大きな水槽がある。中には、鯛が一匹泳いでいた。水槽の上に「生きアワビ 2800円」という看板が掛かっている。いかにもチェーン店風の店内に少し嫌な予感がして、一瞬食べるのを止めようかとも思ったが、体が要求する寿司への渇望には勝つことができず、結局そのままここで寿司を食べることにした。
一人客であることを案内係の女性に告げると、両脇が塞がった一人がけの席に案内された。まずはじめに、赤だしか、あさり汁などの飲物を注文するように言われる。まるで、「頼むのが当然」というような口振りである。なにも飲みたくなかったから、「とりあえず何もいりません」というと、案内係の女性は、少し驚いたような、気分を害したような顔をして、そのまま去っていった。
ペーパータオルで手を拭き、ティーバッグの抹茶入り玄米茶の用意もそこそこに早速回る寿司を食べ始める。回転寿司の良いところは、一瞬も待たずに食事をスタートできることである。
つぶ貝、中トロ、いくら、カンパチ、いか、と順番に食べていく。板前に頼んだウニを頬張ると、パリとした海苔の食感と香りがウニとともに口の中で混じり合い思わず生ビールを注文したくなるが、なんとかとどまる。ジーコが日本代表のメンバーに求めたプロ意識とは、おそらくこのような自己管理能力なのだろう。
8皿ほどを食べて、値段は2200円。食べたネタの種類から言ってバカ高い店とは言えないが、昼ご飯としてはちょっと贅沢すぎたか。肝心の味の方は、可もなく不可もなく、どれもみなそれなりに旨いというところだった。
会計を済ませて、店を出る。駐車場までの道を歩きながら、「なにかすっきりしない」と思った。空腹は収まった。中トロだって旨かった。でも私は全く満足していない。例えば、死ぬほど腹が減っているときに、とんかつ屋でロースカツ定食を食べた後に感じる幸せ。そう言うものを微塵も感じないのである。昨日から食べたくてたまらなかった待望の寿司を食したにもかかわらず、空腹を満たされた幸せは一瞬にして過ぎ去り、具だけ立派で出汁が足りない味噌汁を飲まされたような気持ちだけがいつまでも続いている。
なぜ私はそんな気持ちになったのだろうか。ありきたりの言葉になってしまうが、結局は、店と店員が「個人としての客と接していない」ということなのじゃないかと思う。人間扱いされていないといったら大げさだが、大きな回転寿司屋のカウンター席に座り、ぐるぐる回る寿司を食べていると、養鶏場のニワトリにでもなったような気がしてくる。一見丁寧そうな態度の店員達が見ているのは、私という個人ではなく、「客」という何だか訳の分からない概念的なものなのである。
私たちの住む場所から少しずつ普通のラーメンや蕎麦屋が消えて、派手な看板とインテリアのチェーン店風の飲食店が増えていく。そして、この手の店で食事をした後は、何とも言えない寂しさを感じることが多い。
別に人情じみた話をしたいわけじゃない。ただ私は、ごく普通の店で熱いものを熱く、冷たいものを冷たく食べたいだけだ。真面目に作ってもらった飯を、真面目に食べたいだけである。しかし、どういう訳かこの手の店ではそう言う感じにならない。お互い別の方向を向いて会話しているようになってしまうのである。
天気の良い日に床屋へ行き、散髪を終えて「ありがとうございました」という声とともに店を出る。外の風が頬にあたり、さっぱりとした気分になる。別に、店員の愛想が良いわけではない。話が盛り上がったわけでもない。それでもそのような幸せを感じることができるのは、「なんだかおれもいい仕事したな」と客のくせに思えるのは、店員とこちらのお互いの人生が、適切に交差しているからなんじゃないだろうか。
何を言いたいのかっていうと、とどのつまり、私は亀ずしで寿司を食いたかったのである。