8月24日
たとえ著者とは何の関わりも持っていないとしても(本を読む場合はたいていの場合そうなわけだが)、インサイダー的想像力を働かせることが解釈を深めるのじゃないかと思うわけである。
それは話に巻き込まれるということや感情移入と呼ばれるものとは少し違っていて、会話をするように読むというのに近いと思う。書き手が私に対して話しかけていると想像し、その内容を自らのテリトリーに巻き込んで考えを巡らしていく。話が進むのと一緒に、思考の歯車が回転していく。そのような読み方の事である。
「解釈は本質的にこの懇請を含んでいる」(『レヴィナスと愛の現象学』p.65)。
江さんに初めて会った頃、いまはなき『ジャック・メイヨール』のカウンターで、よくこの「懇請」についての話をした。江さんは、内田先生の本に登場する、このエマニュエル・レヴィナスの言葉を強く意識していた。
「注解とは非人称的な知的まなざしのもとで、「永遠の相の下で」、粛々と進められるのではない。それはほとんど「我田引水」的と言ってもよいほどに具体的で、固有で、生々しい解釈者の現実に即して進められるのである。注解者はその「都市、街路、他の人々」との具体的なかかわりを通じて一人の生活者として形成される。その具体性ゆえに、この注解者は他の誰をもってしても代え難いような仕方でユニークなのである。そして、そのユニークさ、その「代替不可能性」が彼の注解への参加資格を構成するのである(『レヴィナスと愛の現象学』同ページ)。
本を読むこと、街に生き、街を感じることの参加資格を構成するのは、自らの中に蓄積された「現実」なのだろう。そんなのことを、江さんの『「街的」ということ』を読んで考えたりした。
リアルなもの。すなわち、紛いものじゃないもの。
唯一の正解ということではなくて、街における店のあり方や、個人のふるまいとして、間違いじゃないものがあるとしたら、それは、「リアルなもの」、ということになるのだと思う。
ではそのリアリティーはどこからやってくるのだろうか。
おそらく、リアリティーとは、時の厚みからやってくるのじゃないだろうか。
それは、言い換えるならば、個人的な歴史や物語ということになるのかもしれない。この本を読んでいて不思議と温かな気持ちになるのは、おそらく江さんが持っている「時の厚み」に対する愛情と敬意の現れのためであるような気がする。
お好み焼きと酒場に関する記述が抜群に冴えわたっていて、胸にせまるものがあった。これは、バッキー井上氏という最高の共犯者が大きく関与していると思われる。江さんとバッキーさんの街に対する懇請が補完し合っていて、立体的な印象を受ける。
少しよそ行きの言葉で始まって、スパイシーな関西弁でぴしりと締められるリズムのよい文章が読んでいて心地よかったです。みなさんもぜひ。
「街的」ということ/江弘毅/講談社現代新書