9月5日(日)
研究会には特別講演に興味があって出かけたのだが、その内容は全くの期待はずれだっ
た。仕方がないので、せめて飯でも食って帰ろうかと思い、同じフロアの懇親会場へ
行った。
懇親会は立食形式の宴会で、豪勢な料理が並んでいる。おきまりのテリーヌにはじま
り、ウニのカクテル、鯛の塩竃焼き、薄切り仕事人付きローストビーフまであった。
こういうところで出される酒は、ビールに水割り、それに加えてワインが少々という
のが一般的なのだが、この時は乾杯からしてビールではなくシャンパンだったし、数
種類のカクテルまで用意されていた。僕は乾杯の後、飲み物を配っている給仕の人か
らジントニックを一つもらって飲んだ。
料理の周りには人が群がっている。寿司の屋台が一番の人気で、10人ほどの行列が出
来ていた。恥ずかしいのか順番を待ちながら中途半端な笑みを浮かべて、空々しい会
話をしている人もいるし、仏頂面で前方の寿司職人の作業をじっと見つめている人も
いる。
研究会への参加者はそれ程多くなかった。年の瀬もいいところで開かれた会だから当
然と言えば当然のことで、懇親会に出ている人の中には、「なにもこんな時期に会を
開かなくても」と小さい声で文句を言っている人もいた。
懇親会場はタワーの上層階にあり、その部屋は外の景色が眺められるように大きな窓
ガラスが2方向に張られている。しかし、窓の外は真っ暗なので、窓から離れたところ
から景色を眺めようとしても、ガラスは室内を鏡のように映し返すばかりだった。窓
際まで近づいていくと、ビルの間を走る高速道路が赤いランプを灯した車でぎっしり
と詰まっている様子が見えた。
ジントニックの後に水割りを2杯くらい飲んだ後、僕はT先輩と一緒に少し早めにホテ
ルを出た。
用事があるというT先輩とホテルの玄関で別れて、僕はふらふらと駅までの道を歩いた。
来た頃よりも確実に気温は下がっているのだろうが、少し酒も飲んだせいか、それほ
ど寒さは感じない。
ホテルの周辺は街灯が少なくて、人通りもほとんど見あたらなかった。少し遠回りし
て大きな道路の方に歩いて行くと、道路の向かい側に小さなバーがあった。普段、知
らないお店に一人で入るようなことはあまりないのだが、その店の外観には何となく
親しみを感じた。
入ろうかどうか迷いながら歩いていると、そのお店と僕の間を隔てている車道には、
いつの間にか自動車の行き来がなくっていて、なんだかそのお店が僕に向かって「寄っ
ていらっしゃい」と話しかけているようだった。
店に入り、コートを脱いでから赤ワインを頼むと、佳子さんは「雨、大丈夫でした
か?」と聞いた。
雨は降っていませんでしたよ、と答えるとリンゴを薄くスライスしたものとレーズン
を一緒に出してくれた。客は僕の他にはだれもいなくて、店内にはゆっくりとしたジャ
ズが流れていた。ホテルのジントニックが濃いめだったのと、あまり食べ物を口にし
ていなかったせいか、僕はすでに酔っていた。
音楽を聴きながら、ゆっくりワインを飲んでいると、一人の女性がお店に入ってきた。
袖口や足下が濡れていたので、外では雨が降っているのがわかった。コートを脱ぐと、
彼女はカウンターの奥の方の席に腰掛けて、ワインを注文した。彼女は明るいグリー
ンのセーターを着ていて、肩くらいまでの長さの黒い髪を後ろに束ねていた。
佳子さんは僕に聞いた時と同じ調子で、「雨、大丈夫でしたか?」と聞いた。ふたりの
話だと雨はずいぶん前から降っているみたいだった。
雨が降っているなら帰られない。
もう一杯ワインを飲もうか、他の何か別のものをもらおうかと考えていたら、カウン
ターの奥に座っていた女の子が「たばこないですか?」と話しかけてきた。
「ごめんなさい、吸わないんです」と僕が答えると、すぐに佳子さんが、買ってきま
しょうと言った。
彼女は雨の中申し訳ないがお願いしますと言った後で、佳子さんにもう一度銘柄を尋
ねられ、「マルボロライトのメンソールをジャック・ニコルソン」と答えた。
佳子さんは「あら、おじいさん先生みたいなこと言って」というと傘を持って外に出
て行った。
店の中は、僕とグリーンのセーターの女性だけの二人きりになってしまったが、どち
らからも別に話しかけるわけでもなく、二人とも黙って座っていた。
5分も経たないうちに、佳子さんはタバコを持って店に帰ってきた。外はやはり雨が降っ
ているようで、畳んだ傘が雨に濡れている。
彼女は、佳子さんにお礼を言うと、早速ビニールの包みを開けて、美味しそうにたば
こを吸った。
たばこを吸いながら、その女の子は「ねえ、夜の嫌いなおばあさんの話知ってる?」と
言った。彼女は、佳子さんに言ったようでもあったし、佳子さんと僕の二人に話しか
けたようでもあった。