Junio 25, 2008

ゴヤ、ロルカ、ブニュエル、ダリ

私の名前は湯川カナ、イニシャルで表すとKYだから空気読めねえ、ってわけでもないのだろうが、編集者を困らせる文章を書くことが少なくない(らしい)。
いま店頭に並んでいる(はず。スペインではわからないけど)「エスクァイア・マガジン・ジャパン」という雑誌の8月号「天才とスペイン-魂を揺さぶるスペイン紀行」にいくつか文章を書いたが、案の定、大きな3つの原稿のうち2つは書き直しとなった。
アホな子を諭すように改めてていねいに企画意図を教えてもらって、新たに書いたものが、活字となっている。
ひとつは、ゴヤ。以前この欄に掲載していただいた「ゴヤについて」は、実はボツとなった初稿。
今回はもうひとつのボツ原稿「ロルカ、ブニュエル、ダリ」で書いたこと、書けなかったことを。

雑誌ではこの3人が青春の日々をわかちあったマドリードの学生寮での逸話を中心に、その蜜月がブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』の発表により終わりを告げる、という展開になっている(はず)。
ボツとなった原稿で、私はこう書いていた。

> 「アンダルシア」の「犬」とは、いったいなにを意味するのか。この(カナ註:『アンダルシアの犬』発表)直後に陥った「精神的な危機」から脱するためニューヨークに渡ったロルカは、友人への手紙に、「ブニュエルは、ちょっとひどいことをした。アンダルシアの犬は、僕だ」と苦々しく書いている。
> 一説によると、マッチョなブニュエルとそれに感化されたダリが、ロルカのホモセクシュアル的傾向を嫌ったのだ、とされる。しかしブニュエル自身は後年、「僕は、ロルカの影響から逃れたかった」と友人に告白したとも伝えられる。とするとこれは最年長のロルカへに対する、エディプス・コンプレックスの子どもたちのような反抗だったのかもしれない。

……「エディプス」云々を持ち出すところが、青いね。臭いね。てんでイカ臭い、中学生の作文だよ、湯川クン! というのはともかく、ボツ原稿は少しの「糊」を挟んでから、続けて3人の「その後」を紹介する。

> 帰国したロルカを待ち受けていたのは、無血革命による王制廃止、共和政の成立であった。彼は政府に任命されて劇団を創設し、同時に代表作を次々と発表するが、6年後、スペイン内戦が始まるとファシストにより射殺され、38年の短い生涯を閉じる。
> 自らの生命の危険を省みずフランコ側の友人を助けたブニュエルはしかし、一貫して共和国政府に協力して、国外での活動を続ける。後に拠点をハリウッドからメキシコに移し、この地で没する。
> 戦火を避けヨーロッパを転々としたダリは、第二次大戦を機にアメリカに移住するが、8年後、フランコの支持を表明して帰国。生地フィゲラスの、自身の美術館に眠る。

その後に、再びイカ臭い「天才たちの、輝かしく、儚い前夜。まだ見ぬ未来に胸を弾ませ夢を語り合ったあの日々は、二度と戻らない。歴史の濁流に呑まれアディオスを言うことすらできなかった友に、あるいは苦い思いが残ったかもしれない。それでもやはり、それは彼らだけが共有する、かけがえのない記憶である。晩年のダリが好んで聴いたという『ノチェ・デ・ロンダ』は、3人が通ったオテル・パラセのクラブを強く思い出させる曲だった。」という「まとめ」が来るのだが、それもともかく。

20世紀に生きたスペイン人に、内戦はかくも暴力的にかかわってくる。
ということをたぶん、私は書きたかった(そしてそれは、『スペインの天才』をテーマにしたこの特集号にはまったくふさわしくない、たしかに)。
彼らだって平時だったら、ブニュエルが若くて内気なダリを巻き込んで、先輩の、そして本来ブニュエルがその道を志していた詩作に加えて共通の趣味であった音楽でまで圧倒的な才能を見せつけるロルカに嫉妬し、恐れて、そこから逃れようとわざわざひどい仕打ちとなる作品を共同制作したからといって、それで一生お別れということもないだろう。
しかし彼らのごく個人的な、イカ臭い「訣別」の後に、内戦という歴史の大波が襲いかかった。そして内戦は、「内」戦であるがゆえそれに関わらざるを得ず、自分の立場をはっきりとさせることを強要される。
50年来の付き合いの肉屋と、近所の気の良い仕立て屋のおばさんと、あるいは父と子でさえ、立場を異にするからと銃を取り殺しあわなければならないのだ。

一足先にこの世からいなくなったロルカは、共和国政府の任を受け、スペインの古典を演じる移動劇団を主宰して民衆を啓蒙するという仕事を積極的に果たしていた。だいたい彼の名を高めた代表作も、それまでスペインの「表」の歴史が黙殺してきたロマ(ジプシー)の文化を取り上げたものである。
内戦開始早々、ファシストに銃殺される。その死の理由を、固陋なアンダルシアの名家に生まれた「鬼っ子」のゲイだというところに求めることも多いが(私を含めて)、しかし共和国政府のシンパであったという点をもっと単純に考えに入れてもいいのではないか。たったいま、そんな気がしてきた。
ブニュエルはもともと、『パンなき土地(邦題:糧なき大地)』という、スペイン社会がひた隠しにする貧困をあぶりだすドキュメンタリーを、誰に頼まれたわけでもないのに手がけるような要素をもっていた。ピカソが『ゲルニカ』を展示したパリ万博のスペイン(共和国政府)・パビリオンでは、内戦の(むごさを描く、とされる)ドキュメンタリーを上映しており、また、政府広報アドバイザーかなんかも務めていたはずだ。
内戦後の長いフランコ時代に、カンヌ受賞作による帰国禁止処分後も、何度かスペインから招かれて戻っているが、結局は客死を選んでいる。たしか彼の一時帰国は、ピカソなど「フランコの目の黒いうちは断固として故国の地を踏まない」派の人々にひどく非難されたはずだ。
彼だって充分に苦しんできたんだろうに、ね。
そして、超おぼっちゃん育ちで、考えるより先にその超絶な技巧によってつい作品を生み出してしまうタイプ(たぶん)のダリは、ファシストの格好良さに素直に靡いた、らしい。たしかかなり早い時期に、フランコを讃える作品をものしてもいる。
振り返れば私は中学時代(まさにイカ臭い時期!)に、ただ単にその格好良さから、ダリを偏愛し、部屋にヒットラーの肖像(をコンビニでコピーしたもの)を飾り、インチキなドイツ軍服を作って特急かもめに乗って長崎から福岡まで行ったこともあったような気がするが、なんかたぶんそういうことだったのだろう(勝手に)。
そして、「皇帝」の曲を帝位簒奪者に捧げたことを悔いたベートーヴェンと異なり、ダリはあっさりフランコに恭順してその治下のスペインに戻る。生地のフィゲラスの市役所の改装を頼まれたのをすっかり自分の美術館にしてしまい、そこで眠る。
同時代のミロ、ピカソ、かつての朋友ブニュエルが次々と客死する中で。彼もまた、苦しんだのだろうか。あるいは、社会を描かず、ミューズたるガラから湧き出ずる世界のみを描き続けた(だっけ?)ことがすでに、「苦しみ」のひとつのかたちだったのだろうか。どうかな。
ちなみに、ダリがブニュエルに『アンダルシアの犬』の続編制作をもちかけ、ブニュエルが「勘弁してくれ」(意訳)と断った、という話も伝わっている。

ゴヤについての原稿で私は、スペイン人にとってのアイデンティティ・デーが、対ナポレオンのスペイン独立戦争記念日である5月2日だと書いた。ゴヤ伝で堀田善衛もそう書いていた。
しかしこの日が祝日なのは、実はマドリード州だけである。
では他の地域のひとびとは無関心かというと、いや、やはりゴヤ『1808年5月2日』『5月3日』の主役である「名もなき市民」へのシンパシーはかなり強いようだ。
ゴヤと、ロルカ・ブニュエル・ダリのふたつの原稿を書いていて思ったことがある。
いまのスペイン市民の、200年前の対ナポレオン戦争における名もなき、しかし勇敢な、それゆえ無残な死を死ななければならなくなったひとびとへの強いシンパシーは、つまり、スペイン内戦で破れた「名もなき市民」への、かたちを変えた追悼ではないだろうか。
フランコはまだ生きている。
その娘の子どもたちはたしかいまも貴族として存命だし、だいたい現国王がフランコから後継者として指名された、いわば「フランコの子」である。王冠はブルボン家の先王からではなくフランコから渡されたのだ! またマドリード列車爆破テロまで8年間政権の座にあった、現在でも最大野党で、かつマドリード州やバレンシア州などでは与党の国民党は、思いっきりフランコの流れを汲む右派だ。
街でだって、広島・長崎で反アメリカを叫ぶのとは異なり、誰もが反フランコで『ゲルニカ』バンザイだと思ったら大間違いで、本気で治安の良かったフランコ時代を懐かしむひとは少なくない。そこらのバルでおじいさんたちが「お前はあの時、」と内戦時の態度をめぐって血相変えて言い争いをはじめる光景にも何度か遭遇した。
スペインでは21世紀になったいまでも、内戦での「名もなき死者」を悼むことを、政治的態度表明と切り離して行うことができない。
だから、ゴヤなのではないか。200年前のことだし、「敵」はフランス軍、しかも歴史上の「悪人」で疑いないナポレオン、というわかりやすい構図だ。
そして、だから、マドリード列車爆破テロほんの数時間後には「名もなき死者」たち被害者への献血に長蛇の列ができ、むしろ余るくらいの血液が集まったのではないか(4時間後にのこのこ行ったら、もう要らないと言われた)。
そう考えると日本の秋葉原無差別殺人事件や、靖国問題における「うまく言えないかんじ」がなんとなく、先の大戦でのものすごい数の「名もなき死者」を、納得できるやりかたで悼んでこれなかったことに通じるように思われる。
それは、スペインが長く「敵」であったはずのフランコ治下にあったのと同様に、日本がアメリカの実質的な支配下にあったからだろうか。(もちろんどちらの国についても、現在形にするのも可です。スペインの経済を牛耳るのはフランコ時代からの「200家族」だし……)
「なかったこと」にしたつもりのことこそ激しく噴き出してくる、精神分析でそういうのがなかったかしら。

Junio 19, 2008

Tokioのマタンサ

マタンサ、という言葉がある。matanza。
この単語を冬のはじめに耳にするのは、そう悪い気分ではない。
生ハムや腸詰などの保存食作りのため、一家隣人総出で豚を屠り青空の下で賑やかに作業を進める、農村らしい光景を思い浮かべるから。
それ以外の時期に聞くと、あまりいいことがない。
最近では2001年9月、アメリカ同時多発テロ。
2004年3月、マドリード列車爆破テロ。
そして先日(6月9日)、一週間の初めの月曜朝のニュースでこの単語が聞こえてきて、んだよ、と嫌な気分で画面を見たら、「Tokioのマタンサ(=大量虐殺)」だった。
日本でどういう報道がされているかぜんぜん知らないのだけど、そういう言葉遣いだったので、咄嗟に「テロ」だと思ってしまった。

アメリカでのテロは、聞くところによると「グローバリゼーションあるいは現代型経済帝国主義において、圧倒的弱者であり被収奪者たることを余儀なくされ、かつ抗議の手段をもたないイスラムの最貧国の若者たちによる、顔の見えぬ強者への、自らの生命を武器とした無差別型の暴力」だったという。
そしてアメリカは「報復」として、アフガニスタンを石器時代に戻すまで攻撃した。
とはいえよく知らないので、解説じみたことはやめておきます。

マドリードの列車爆破テロは、当初はETA(バスク地方の独立を求める過激派)の仕業だと報道された。
少なくとも政府は繰り返しそう発表したが、かなりのひとが違和感を抱いた。
彼らの従来のやり方は「予告なしで行う政治家など要人の暗殺」か、「予告を伴うデモンストレーション的爆破」かのどちらかで、無差別殺人は、約20年前のスーパーの地下駐車場での自動車爆弾テロほぼ1件と言われる。(だから褒められるというわけではないが)
これまで数百人を暗殺してきた非道なETAではあるが、しかし被害者の顔に意味を持たせないようなタイプの殺人は、どうもしっくりこなかったのだ。
結局、外国では当初からそうだと伝えられていたように、「犯人」は、アメリカでのテロと同じアルカイダだった。
この事件で、極端なアメリカ追従主義をとっていた国民党アスナル政権は支持を失い、数日後の総選挙で社労党政権が発足した。
新たに首相となったサパテロはすぐ、日本を含むアメリカ寄りの諸国から「テロに屈するのか」と責められつつも、公約どおりイラクから撤兵した。
もともと開戦当時9割以上がイラク攻撃反対だった市民は、それを英断だと歓迎した。
もう充分な犠牲は払った。これ以上、「人殺し」の片棒を担ぎたくはない、と。
(当時、世論に反してイラク攻撃を支持した国民党は「人殺し」と呼ばれ、前回の政権担当時に汚職の蔓延で信用を失った社労党は「泥棒」と呼ばれていた。そうして、「人殺しよりは泥棒がまだまし」、と。)

爆破された列車は移民が多く住む郊外の街を通り、マドリード最大のターミナル駅に向かう。
それゆえ被害者には移民も多かった。
そして実行犯の大半もまたモロッコからの、同じような移民だった。
彼らは自分たちにもっとも近い人々を殺したことになる。
なぜ犯人は、より「効果的」と思われる国会議事堂などではなく、「隣人」をターゲットに選んだのだろう。
(秋葉原をマタンサの舞台に選んだ若者も、また。)
「無差別」殺人とはいえ、ここでは少なくとも政府要人など「顔のある」=「その被害者の生命が社会的に意味を持つ」人間を含ませない、という選択がすでになされている。
被害者として選ばれたのは、顔の見えない「無名の」人々だ。
それはつまり、「彼ら」が報復をしたかった者たちもまた「無名」である、ということなのだろう。
俺(たち)は損なわれた。
誰によってかはわからない、が、少なくとも「政府」とか「親」とか「先生」とかいうわかりやすいものによってではない。
ただし損なわれたのは事実なので、その被害の「埋め合わせ」として、そいつら=顔の見えない/他の誰でもいい者たち複数を損なってやる。
「彼ら」によって、もともと加害者とみなされ、それゆえ被害者に転じた「無名の」人々には、当然、同じ社会を構成する私たちも含まれるだろう。
あるいは「社会」こそが、「無名の人々」をターゲットとすることによって告発されているのかもしれない。

マドリード。
あの通勤列車内で爆殺された二百名弱の死の原因を作った「加害者」は、利権欲しさに英米に尻尾を振る「人殺し」政府を、その経済優先政策の下で数年続く好景気に浮かれて黙認してきた自分たちでもある。
高い投票率を記録した総選挙を挟み、そういう張りつめた、厳粛な雰囲気が満ちていたことを覚えている。
そのせいか、事件後に心配されていたイスラム教徒への嫌がらせや排斥運動は、ほとんどなかった。
だって、犯人とて私たちの「外部」ではないのだから。
(もちろん、そういうのとは無関係に、これで株価が下がるとおろおろしていたひともけっこういたけれど)
Tokio。
たまたま日本旅行中だったスペイン人の知人が事件に遭遇した、その話を奥さんから又聞きした。
OTAKUの彼は日曜、なにかイベントでもないかと迷わず聖地アキハバラに出かけた。
一斉にひとが走り出すのを見て、すわイベントだと思い、同じ方向に走ったという。
救急車やパトカーが到着してもしばらく、なにかのロケだと思っていたらしい。
なぜなら、地面に倒れているひとなどがいる「現場」を遠巻きにする「みんな」が、携帯を出してその光景を写真に撮っていたから。
彼にとってはそこまで含むすぺてが、「Tokioのマタンサ」だった。
(もちろん、咄嗟に助けようとしたひともいたのだろうけど)
犯人が狙ったはずの「隣人」さえ、実は日本にはもういなかったのだろうか?
資本主義の極北に生まれた、最小の消費単位である個人で構成される、あるいはそれら個人が「構成しない」社会では、従来型のテロはもはや何にも届かないのかもしれない。
あるいは、何か届きましたか?
そしてこれからは、どうなるのだろう。
やはり犯人は「外部」のものとして、自分の実感の伴わない場所(裁判とか軍による空爆とか)で裁かれ、そしてそれを生み出した罪をひとり背負わされる「家」(家族とかアフガニスタンとか)が「報復」されるのだろうか?
それとも事件は「内部」のこととして捉えられて、外国にいる私にはわからないけれど、実際にはなにか変わりつつあるのだろうか。
スペインのニュースは、やはり他人事なので、「その後」を伝えない。
仕事や電話のついでに少し話を聞こうと思った日本の知人たちも「その気持ち悪い話はしたくないんだけど」「日本の恥よねえ」ということで、語ってくれないのです。

著書

情熱とサッカーボールを抱きしめて
情熱とサッカーボールを抱きしめて /フィールドワイ
カナ式ラテン生活
カナ式ラテン生活/朝日出版社

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