Enero 5, 2010

アニメ界の司馬遼太郎

スペインに住んでいた10年の間、ほぼ毎日、テレビで日本発アニメが放送されていた。通年放送される定番アニメは、「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「ポケモン」。週に1日、ではなく、毎日である。そして毎年一度は全話集中放送されていたのが「キャプテン翼」「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」、加えて思い出したように「ドラゴンボール」。以上は、菓子の付録としてもたびたび使用されるほど、現地で広く認知されていた。その他にも私が実際にザッピングの間に日常的にみつけたものを列挙すると、「ケロロ軍曹」「名探偵コナン」「ワンピース」「ナルト」「かいけつゾロリ」「明日のナージャ」「るろうに剣心」……マイキョニイトマガナイ。

これだけ日本アニメが席巻するなかで、日本では「国民的」といっていいほどの大人気なのに、なぜかスペイン語版が出てこなかった作品が、いくつかある。「サザエさん」、「ちびまる子ちゃん」、そして「アンパンマン」だ。(wikipediaによると、「ちびまる子ちゃん」はドイツ、香港、中東で、「アンパンマン」はアジア数ヶ国で放送されているとのこと。ただ、たとえば「クレヨンしんちゃん」が30ヶ国以上で放送されているのと比べれば「細々と」と言っていいだろう。「サザエさん」の外国語版は存在しない模様)

大家さん・内田樹先生の近著『日本辺境論』に従って言うならば、「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「アンパンマン」は「アニメ界の司馬遼太郎」である。たぶんね。おそらくこれらのアニメの「論理や叙情があまりに日本人の琴線に触れるせいで、あまりに特殊な語法で語られているせいで、それを明晰判明な外国語に移すことが困難なのでしょう。」(p103)
では、「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「アンパンマン」の「辺境性」は、いったいどこにあるのだろうか。


まず真っ先に思いつくのが、「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」はともに、「家族が主役」ということだ。しかし考えようによっては、のび太がママに怒られることがストーリーの起点やオチとなることが多い「ドラえもん」も、ママとパパと妹を巻き込んでのドタバタが好んで描かれる「クレヨンしんちゃん」も、「家族もの」だといえなくもない。

あるいは、設定があまりにもローカル(「ちびまる子ちゃん」の場合、70年代の静岡県清水市)なため、グローバルな共感を得づらいのだろうか。だが「クレヨンしんちゃん」の舞台は埼玉県春日部市で、頻出する時事ネタ(「トゥナイト2」やグラビアアイドルの名前などアダルト向けのも多い)も含め、こちらも局所的な話題だらけだ。それならば、東京の「どこか」を舞台とし、不況を嘆いてもテレビタレントの話題など出さない「サザエさん」の方が、まだしも抽象性が高い。

では、「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」にはあって、世界的に受け入れられた「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」にはないものはなにか。思うに、それは、「おじいちゃん・おばあちゃん」だ。より詳しくいうと、「祖父母も含めた一家が揃って茶の間で食べる晩御飯」だろう。

「ちびまる子ちゃん」の場合、まる子、姉、父、母、祖父、祖父母がだいたい夕方過ぎには茶の間に揃い(家の外観の遠景には夕焼け雲が描かれているイメージがある。なお父は職業不詳で、たいてい家にいる)、彼ら全員による食事をしながらの会話がストーリー展開上で重要な役割を担うことが多い。
「サザエさん」の場合も、会社帰りの夫と父が駅で落ちあったりしながら、夕食には必ずサザエさん、夫、子、父、母、弟、妹の全員が茶の間に集い、賑やかにそれぞれ一日の報告をしながら食事するシーンが好んで描かれる。

一方「ドラえもん」の場合、夕食に揃うのは、のび太、ドラえもん、父、母の4人。一堂が集うのは、昼間にのび太がテレビを見たり休日にお父さんが新聞を読んでくつろぐ茶の間ではなく、ダイニングキッチンだ。たまに夕食のシーンが出てきても、のび太は食事が終わるや「ごちそうさまぁ」と椅子から飛び降り、ドラえもんと連れだってそそくさと自分の部屋へ戻ってしまう。
「クレヨンしんちゃん」宅もダイニングキッチンがあるのだが、夕食は居間で食べる。メンバーはしんちゃんと父母、のちに妹(赤ちゃん)。ただし、父が帰ってくるのは暗くなってからであり(家の外観の遠景に星が描かれているイメージ)、しかも残業などでたいがい疲れていて、ともかくひとりだけビールを1本飲み、しんちゃんが話しかけても「うるさいなあ、少しくらい休ませてくれよ」というのが基本的な姿勢だ。


「新しいものの到来により、古いものはその座を名前とともに譲り渡す」という癖が、日本にはあるのではないか。かつて私は「赤ちゃんの誕生により、家族間のメンバーの呼称がどのように変わるか」というレポートをコンプルテンセ大学の社会学教授に提出した。フェルミン教授は、巨躯にのっかったつぶらな瞳をぱちくりさせて、ひどく驚いた。「赤ちゃんの前では、ということだよね?」「いえ、違います」 日本では、赤ちゃんが誕生すると夫妻は互いを「お父さん(パパ)、お母さん(ママ)」と呼ぶようになり、その両親を「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ぶようになるのです。つまり、赤ちゃんの視点からの呼称を家族間の呼称として新たに採用するのですよ、たとえその場に赤ちゃんがいなくとも。

なので、「ちびまる子ちゃん」の夕餉の場面はこう描かれる。
・友蔵「まる子が好きだったのは淳子ちゃんだったかのう」
・まる子「ちがうよ、おじいちゃん、まる子が好きなのは百恵ちゃんだよ」
・ひろし「しょうがねえだろ、おやじはボケちまってるんだから」
・まる子「お父さん、それは言い過ぎだよ」
・すみれ「そうですよお父さん。おじいちゃんだって好きでボケたんじゃないんですから」
上記で、友蔵はまる子の祖父、ひろしは父、すみれは母である。これを外国語に訳すのは、その逆(たとえば、相対的呼称を採用するスペイン文学作品の、日本語読者向け翻訳作業)を想像すると、なかなか骨の折れる作業と思われる。
「サザエさん」も、同様だ。

・サザエ「母さんちょっと聞いてよ、カツオったら百点取ったらしいのよ」
・フネ「まあ。父さんが聞いたら喜ぶわねえ」
・タラ「ちがうでしゅ。カツオ兄ちゃんじゃないでしゅ」
・サザエ「だってちゃんとここに磯野って……。あっ、名前のとこ消してあるじゃない!」
・タラ「ワカメお姉ちゃんのでしゅ」
・サザエ「カツオ! ちょっと来なさい!」(ゲンコツ)
・ワカメ「違うのよ姉さん、お兄ちゃんじゃないの。これタラちゃんが消しちゃったのよ」
・カツオ(泣きながら)「ひどいや、姉さん!」

こちらに至っては、本来タラちゃんの叔父・叔母であるカツオとワカメがタラちゃんからは(年が近いせいで)「兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ばれている、というひねりまで入る。たぶん迂闊な私が翻訳者なら、ストーリーもだいぶ後半まで訳し終えたところで、カツオとワカメがタラちゃんの叔父叔母であると気づいて愕然とするだろう。


外来の漢字に「真名」という名前を奉じ、土着の方は一歩退いて「仮名」と呼ぶ。これが日本人のクレバーな振る舞いあるいは宿痾だというのも、『日本辺境論』で学んだことである。その同じメンタリティで、日本人は赤ちゃんという「外から来たもの」を迎えて、「夫」を「お父さん」に、「妻」を「お母さん」に、父母を「おじいさん・おばあさん」に、すでに居た子を「お兄ちゃん・お姉ちゃん」にと、「席を譲る」のだろうか。

とすると、日本の象徴であるところのファミリーが名字をもたず、さらに在位中は名前(諱)をも呼ばないというのも、なにか似た構造をもつように思われる。いま知ったのだが、「諱」の反対語もまた「仮名」なのだって。へえ。
ちなみに、スペイン国王は名字も名前ももち、ついでに国民と同じIDカードも免許証も持っていて、EU憲法についてなど国民投票が行われる際にはいつも真っ先に投票していた。また、国王一家の別荘があるマジョルカ島に皇太子時代の今上天皇が訪問した際には、後部座席に彼(名前がないのに代名詞で指していいのだろうか?)を乗せた車を自ら運転して、曲がりくねった島の真っ暗な夜道をびゅんびゅんカッ飛ばした、という話も伝えられている。


さて、話は戻って、どうも外国語に翻訳されないもうひとつの「日本の国民的アニメ」、「アンパンマン」の話である。「アンパンマン」には、おじいさんもおばあさんも出てこない。いったい「アンパンマン」のどこに、「辺境性」があるのだろうか。

思うに、「アンパンマン」の最大の特徴は、ギネス・レコードにもなっているほどの、登場キャラクターの多さ(1768体、2009年3月)にある。現在も増加中というその数の多さが、しかし直接的に問題なのではないだろう。同様に「キャラクターの数が多い」ことを特徴とするアニメに「ポケモン」があり、こちらも約500種類という尋常ではないほどのキャラクターを擁するが(ゲームの場合)、現在アニメは20ヶ国語以上に訳され、70カ国以上で放送されているという。

「ポケモン」のキャラクターは「不思議な生き物」という設定であり、それぞれが「種」をなして「生息」している。リーグでの勝利を目指す少年少女(トレーナー)が、苦労しながらそれらポケモンと心を通い合わせてパートナーとし、ライバルと切磋琢磨しながら成長する、というのがおおまかなストーリーだ。キャラクターは、代表的なピカチュウが「ねずみポケモン」と称されるように、おそらく、想像上のものをふくめ「生物」をベースに造形がなされているのだろう。人間のトレーナーがパートナーを求めて数多のなかからあるポケモンを名指す、という光景は、神が御前に世界中の動物を集めてひとつひとつに名前を与える、という聖書的なシーンを想起させる。(というか、しちゃった)

一方の「アンパンマン」のキャラクターは、「おしるこちゃん」「カップラーメンマン」「ナガネギマン」「もみじ王子」「ユキダルマン」「アルミ伯爵」……というネーミングが如実に物語るように、見事なまでに安易というか、「目についた物を即、擬人化したもの」がほとんど。それは、「八百万の神」と称される、日本的宗教観に近いかもしれない。かつてフェルミン教授に「つまり、日本ではこの」と肩を並べて歩いていた廊下の端を指し「ゴミ箱にだって、聖性を感じることができるのです」と言ったらやはり、とんでもなくきょとんとしていたが、あの時、日本の国民的アニメの「アンパンマン」に「しょうかきくん」なんぞが出てくることを知っていれば、もう少しうまく説明できたかもしれない。

「アンパンマン」のストーリーは、主人公やその周辺に「成長」的要素などまったくなく、笑っちゃうくらいの勧善懲悪である。「あれは水戸黄門だろ」というのが、ツレアイの弁。しかして「水戸黄門」にこそご注意、というのが、『日本辺境論』の教えのひとつでもあった。
いつもアンパンマンは困っているひとにアンパンをわけてあげ、それでパワーが落ちたところをばいきんまんに狙われ、危機一髪なところでジャムおじさんが焼いた新しい顔と交換できて、アンパンチでバイバイキーン。これが、「アンパンマン」の骨子だ。そこに、ストーリー毎にまったくのご都合主義で、「おむすびまん」やら「鉄火のマキちゃん」やらがぞろぞろ出てくる。彼らは往々にしてアンパンマンを困らせるけど、それは概ねばいきんまんの策略のせいで、誤解がとければ実はみんないいひとばかり。ヤァなんだか賑やかで楽しいなあ。よかったね。自分は成長しなくても、ぜんぜん平気だよ。それがおそらく、新・水戸黄門なる「アンパンマン」最大のメッセージだ。あらま。

とすると、これこそが、「アンパンマン」を支持しつづける私たちが何度でも繰り返して聞きたいメッセージなのだろうか。いや、せめて「自分の身を差し出すという捨身飼虎的な行為が初めに在ることによって、なんとなくぜんぶうまくいくのかもよ」くらいであって欲しいような。そういえば、「アンパンマン」内で「子ども」として描かれるメロンパンナちゃんの同級生たちの、リーダー的存在であるカバ夫くんだけがいつも、アンパンマンや先生に対して「等価交換をしろ」と迫り、「これは自分に不利なバーゲンだ」と、「まるで現代っ子のように」不平を言う。「善人」のアンパンマンでも「悪人」のばいきんまんでもない、「普通の子ども」のカバ夫くんのことばが、八百万的パラダイス・ワールドでいちばん醜く響くこと。もし現代の日本の子育て世代がそれを再確認しようとしているのなら、悪いことではないのかもしれない。いやほんと、未就学児向けのメディアや商品市場での「アンパンマン」の「のしかた」、尋常じゃないんですよ。

……って、すべて実は単に版権がらみの話だったりして。そのときは、ごめんなさい。

Agosto 11, 2009

ニーニャ、言語を習得中

■ 湯川ニーニャはこう云った。「トマママ」

これが、娘が発した最初のいわゆる「二語文」だった。私に洗濯バサミを差し出しながら、"Toma, mama."(tomar=「取る」の二人称命令形「取って(→どうぞ)」+ママ)、まったくのスペイン語。「ママ」だって、アクセントが後ろにつく「マ・マー」(スパゲッティー、じゃなくてスペイン語)。
1歳から現地の保育園に通っている。そして、周囲のスペイン語人は日本語がわからないが、周囲の日本語人(概ね親)はスペイン語がわかる。以上の2点から、日本語人の私の娘の「マザーランゲージ」は、すっかりスペイン語ベースになった模様。
私が、「信号が青になったら教えてね」と(日本語で)言う。変わった信号を指差して、娘が嬉しそうに叫ぶ。「みろり!」 信号の色は"verde(緑)"だと、先にスペイン語で認識してしまったらしい。それを日本語に直訳する、だから彼女の信号はぜったい「青」にならない。が、信号を示して言う「緑」、それはけっして日本語ではない。

「これ、なーに?」と浦島太郎の絵本を指差せば、「ウナ・カメちゃん!」。亀=tortuga=女性名詞→不定冠詞も女性形・単数でuna。おお、ピンポーン! ……じゃなくて、日本語に冠詞はありません。でも彼女はおそらく「名詞だけを答える」のがすごく気持ち悪くて、なのに対応する日本語の単語を知らなかったから(ないもんね)、この「空白部分」にスペイン語をそのままスライドさせて使ったのだろう。しかし、冠詞がないともう生理的に「気持ち悪い」、のだとしたら、娘の「世界」って……。
日常のあらゆるシーンで、多くの感嘆詞(的なもの)がスペイン語そのままで発せられる。プレゼントの包み紙をその場で「ア・ベール、ア・ベール(どれどれ)」とびりびり破って開け、出てきた積み木に「ケ・チュロ!(いかす……が近いのだが、死語?)」。その積み木を親友ディエゴと取り合いケンカすれば、謝罪はともかくとにかく抱き合い「ウン・ベシート(キス)」で幕引きが当地の流儀。やがて力を合わせて上手にできた積み木を前に「チョカ!」とハイタッチで祝福。その度におそらく、彼女の内にスペイン語人らしい感情が形成され、上書きされていっているのだろう。

では2歳半の娘が完璧なスペイン語人かというと、そうではないのが移民二世の悲哀。大好きなディエゴの叔母"Clara"の名を口にするたび、みんなに笑われる。たぶん彼女の発音は[ku-la-ra]、日本語式に、すべて子音+母音のセット。さらに私の発音にいたっては、"L"と"R"の区別がない[ku-ra-ra]のはず。私が娘に日本語で「今日、クララのおうち行こうね」言う。そのままの「クララ」の発音で彼女がみんなに言う"Hoy, a la casa de クララ."、これは日本語ではなくさりとてスペイン語でもない。すまん、娘。


■スペイン語の数え歌。♪スエナ・ラ・ウナ/ブエラ・ラ・ルナ

では次の、繰り返し現れる間違いもまた、移民二世のトラジェディなのか。
ひとつ。日本語で喋るとき、"H"の発音を無視しがち。「葉っぱ」は「あっぱ」、「蜂さん」は「アチさん」。これはHを発音しないスペイン語由来か、あるいはもともと現生人類の声帯は解剖学的に"H"の発音に向いてないのを日本語では大いに鍛えて使っているのか。それにしても大好物のエビと大嫌いなヘビを発音上区別できない彼女に、将来災厄は訪れないだろうか。
ふたつ。日本語で喋るとき、等拍の撥音・促音・長音が苦手。「ピンク」は「ピク」から現在なぜか「ピンクン」へ。「ピーターパン」は「チンパンパン」。「落っこった」と「怒った」の喋り分けもできない(シチュエーションでわかりますが)。ちなみに、アメリカ在住の私の兄コータローは、周囲の英語人から「コタロー」と呼ばれている。これは日本語の特性によるのか、欧米語(ってあるの?)の特性か、はたまた。だいたい「東京」をTokio、「京都」をKiotoと「正式に」表示する言語だもんなあ、スペイン語。

そして、お気に入りの絵本「ぐりとぐら」シリーズの「呪い」。湯川ニーニャちゃん、初手からなぜか「ぐらぎら」と言い間違い、そのまま間違い続け、現在でも目を輝かせて「ぐらぎら!」と毎晩御所望になる。この数ヶ月、連日繰り返して読んでいる。絵本の文中にも頻出するこの単語、少なくとも通算300回以上は耳にしているだろう。なのに活用させる方、未だに間違っとる。ラ行じゃなくてガ行。なんでや!
話は変わりそうで変わらないのだが、「数え歌」というものがある。私たちの世代は、「一本でもにんじん」。「ニ足でもサンダル、三艘でもヨット……」と続く。同じような歌を、いまスペインの幼児に爆発的人気の「おゆうぎDVD」"CantaJuego"シリーズで見つけた。"VUELA LA LUNA"というタイトルで、時計に添って、10まで数える。

Suena la una / Vuela la luna
Suenan las dos / Diciendote adios.
……
Suenan las ocho / Como un biscocho
Suenan las nueve / Estos se mueven.
(文頭の"suena/n"は、(時計が時を知らせる)「音が聞こえる」という意味)

数字の1(ウナ)に対応するのは「ルナ」、2(ドス)には「アディオス」、8(オチョ)には「ビスコチョ」、9(ヌエベ)には「ムエベン」。押韻ですね(たぶん)。
私なら。「七匹でも蜂、八頭でも鯨」の数え歌で育った私なら。1(ウナ)には「ウナギ」、2(ドス)には「どすこい」、8(オチョ)には「おっちょこちょい」。私からすると、「オチョ」と「ビスコチョ」は、「ぜんぜん違う」。しかし彼らは、韻を頭ではなく脚で踏む。彼らにとっちゃあ「1(いち)」と「いちご」こそ、「ぜんぜん違う」ものなのだろう。

ともかく、彼らは脚韻を好む(らしい)。
と、そこで思い至った。そっか。だからすでに「彼ら」の一員に仲間入りしたっぽい娘も、日本語で頭韻を用いたことばを、スペイン語式に脚韻に変えたのだろう。なぜなら、それが「自然な韻」だから。「ぐりぐら」という「韻を踏む」日本語の、「指向するところ」をスペイン語に訳すと、それは「ぐらぎら」なのだ、きっと。うーん、あれはスペイン語だったか……。

しかし、なぜスペイン語では脚韻がメインで、日本語では頭韻なんだ?
いまネット検索すると「英語は腹式呼吸だから」という説があったが、どうもちっともわからない。
内田師匠の「二行並韻は『いっしょに来る』」話(「人間的時間」、2009年2月28日付ブログ)が(正しく理解できないまでも)ずっと念頭にあって数ヶ月。今週ふと気づくと、ニーニャがスペイン語で「ケツカッチン」の喋り方をしていた。
先日、私たち一家と、ディエゴ一家で、一緒にプールに行って終日過ごした。
それが娘にはものすごく嬉しく楽しかったらしい。以後毎日、一緒に行った6人の名前を指折り数えてみせる。「ディエゴと、エバと、ニーニャと、パパと、ママと、ペドロと、ニーニャと、エバと、パパと、……(窮して)ニーニャ!」 ぐちゃぐちゃ。ちびっこだからしょうがないよね、と思っていたのに、馴染みの駄菓子屋のベニーばあちゃんの質問に彼女が答えるのを聞いて、慄然とした。「ディエゴ、エバ、ニーニャ、ペドロ、パパ・イ・ママ!」

英語の"&"を意味するスペイン語の"y"(イ)は、並列する単語のいちばん最後の直前でだけ一度、使っていい。つまり、バルで注文を訊かれて、「んーと、生ハムと、チョリソのシードル煮と、イワシの酢漬けと、……ああ、やっぱとりあえずそんだけでいいや」という答え方は、言語の構造上許されない。確固たる意思をもて「生ハム、チョリソとイワシ。(以上)」と言い切らなければならないのだ。スペイン語でニーニャが答えるとき、彼女はたぶん頭の中でまず6人を召喚し、そうして最後の2人のあいだに"&"を配置するのだろう。うーむ。
その「まず、最後尾まで一気に見晴らす」同じ作業が、スペイン語の脚韻をも召喚するのではないか。……いや、頭韻を召喚してもいいのか? でも、少なくとも、わりと頭からずるずるぞろぞろと伸びていく日本語からは、「ぐりぐら」は出ても、「ぐらぎら」は出てきにくい気がする。
いやはやまったく、驚き桃の木山椒の木。……って、これ脚韻だよ!

著書

情熱とサッカーボールを抱きしめて
情熱とサッカーボールを抱きしめて /フィールドワイ
カナ式ラテン生活
カナ式ラテン生活/朝日出版社

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