ずいぶんとお返事を書けずにいる間、京都は新緑の美しい季節になりました。
こ初々さんも毎日元気に外遊び。
たった1年前はベビーカーの上で寝たきりだったことがうまく思い出せないほどに成長しています。
「ひとんちの子の成長は早いのよねぇ。」とよく言われますが、自分ちの子の成長も早い!
たまーに日々同じことの繰り返しに果てしなさを感じてグッタリ疲れたりもしますが、ちょっとそこからユータイ離脱!?して眺めてみると、その時間のあっという間なこと!
そんな意味でも「目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです」とのカナさんの言葉、うんうん!と頷けます。
さて前回は、私が全く知らなかった「スペインジェンダー事情」の詳細を知ることができてとても興味深かったです。
スペインと比較したら、ほんの少し日本は「すすんでいる」と言えるかもしれませんが、どちらも「まだまだ女性がおかれている状況は厳しいものがあるのだな」というふうにも思いました。
それは社会的な立場という面からでも、固定化された性役割という面からでもなく、「女性運動で達成された『女性の生き方の多様化』によって、異なる生き方をする者同士の価値観が衝突し、それは時として熾烈なものとなる」という状況を「厳しいな」と思うのです。
カナさんが「そんな犠牲、私はできない」と言われた、「犠牲」という強い表現にも、その熾烈さをかいま見ました。
仕事をしながら出産・育児をするという選択肢ができたことによって、どちらを選ぶかはその人が(ある程度)自分で決めることができます。
その時その選択肢に対して100%納得ができていれば、他の選択肢を選んでいる人を羨んだり、妬んだり、あるいは攻撃したりせずにすみます。
しかし、その選択肢に100%納得できるということが少ない。
仕事をしないと決めれば「社会的な立場」やら「今よりもうちょっと多い収入」やら「経済的な生産性があるという自負」やらは諦めなくてはいけないという状況がある。
反対に仕事をすると決めれば、「家族(こども)と過ごす時間」やら「家事を完璧にこなすだけの時間」に足りなさを感じる。
そうすると時として自分の選択肢を正当化するために、他者を批判してしまうということが出てくるんですね。
「子どもの世話を人に任せて自分は好きなことしてるんだからいいわよね」とか。
「稼がないで家にいるのは気楽でいいわよね」とか。
それは個人的な資質に責任があるのではなく、その人に「そう言わせてしまう状況」が問題なのだというふうに私は思っています。
家庭内の労働(家事や育児)が経済的な生産性より低くみられる現実。
子どもがいても男性と同等に働くことが求められる社会。
もし家庭内の労働(家事や育児)に敬意が払われていれば、あるいは子どもをもつ女性がもっと働きやすい環境であれば、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持たずにすむはずなのです。
しかし、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持ちながら妊娠・出産をしなければならないというのが、まだまだ多くの女性が置かれている現実なのではないでしょうか。
その「何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚」は、どう考えても人をハッピーにするものではないですよね。
でもやっぱりお母さんには、ハッピーで機嫌よういてもらいたい。
私はそう強く思うんです。
お母さんがハッピーでなかったら、子どもだってハッピーじゃないですもの。
だから働いていないお母さんたちが、「今経済的な生産性がなくても、素晴らしくて楽しいことをしているんだ!」と思えるように。
一方働いているお母さんたちが、安心して働けて、より子どもと過ごす時間が充実したものになるように。
そう願ってやみません。
社会システムを変えていくことは時間がかかるかもしれませんが、いちハハとしてそのために出来ることはしたい。
育児って面白いよね、価値あることだよね、と言い続けることもそうですし、働くお母さんたちと交流を持ち続け、「何かあったら助けに駆けつけよう」という気持ちでいることもそうです。
「私は私、これでいいんだ」と閉じずに、異なった状況にいる者同士が助け合える関係を作っていきたいなぁというふうに思っています。