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Tokioのマタンサ

マタンサ、という言葉がある。matanza。
この単語を冬のはじめに耳にするのは、そう悪い気分ではない。
生ハムや腸詰などの保存食作りのため、一家隣人総出で豚を屠り青空の下で賑やかに作業を進める、農村らしい光景を思い浮かべるから。
それ以外の時期に聞くと、あまりいいことがない。
最近では2001年9月、アメリカ同時多発テロ。
2004年3月、マドリード列車爆破テロ。
そして先日(6月9日)、一週間の初めの月曜朝のニュースでこの単語が聞こえてきて、んだよ、と嫌な気分で画面を見たら、「Tokioのマタンサ(=大量虐殺)」だった。
日本でどういう報道がされているかぜんぜん知らないのだけど、そういう言葉遣いだったので、咄嗟に「テロ」だと思ってしまった。

アメリカでのテロは、聞くところによると「グローバリゼーションあるいは現代型経済帝国主義において、圧倒的弱者であり被収奪者たることを余儀なくされ、かつ抗議の手段をもたないイスラムの最貧国の若者たちによる、顔の見えぬ強者への、自らの生命を武器とした無差別型の暴力」だったという。
そしてアメリカは「報復」として、アフガニスタンを石器時代に戻すまで攻撃した。
とはいえよく知らないので、解説じみたことはやめておきます。

マドリードの列車爆破テロは、当初はETA(バスク地方の独立を求める過激派)の仕業だと報道された。
少なくとも政府は繰り返しそう発表したが、かなりのひとが違和感を抱いた。
彼らの従来のやり方は「予告なしで行う政治家など要人の暗殺」か、「予告を伴うデモンストレーション的爆破」かのどちらかで、無差別殺人は、約20年前のスーパーの地下駐車場での自動車爆弾テロほぼ1件と言われる。(だから褒められるというわけではないが)
これまで数百人を暗殺してきた非道なETAではあるが、しかし被害者の顔に意味を持たせないようなタイプの殺人は、どうもしっくりこなかったのだ。
結局、外国では当初からそうだと伝えられていたように、「犯人」は、アメリカでのテロと同じアルカイダだった。
この事件で、極端なアメリカ追従主義をとっていた国民党アスナル政権は支持を失い、数日後の総選挙で社労党政権が発足した。
新たに首相となったサパテロはすぐ、日本を含むアメリカ寄りの諸国から「テロに屈するのか」と責められつつも、公約どおりイラクから撤兵した。
もともと開戦当時9割以上がイラク攻撃反対だった市民は、それを英断だと歓迎した。
もう充分な犠牲は払った。これ以上、「人殺し」の片棒を担ぎたくはない、と。
(当時、世論に反してイラク攻撃を支持した国民党は「人殺し」と呼ばれ、前回の政権担当時に汚職の蔓延で信用を失った社労党は「泥棒」と呼ばれていた。そうして、「人殺しよりは泥棒がまだまし」、と。)

爆破された列車は移民が多く住む郊外の街を通り、マドリード最大のターミナル駅に向かう。
それゆえ被害者には移民も多かった。
そして実行犯の大半もまたモロッコからの、同じような移民だった。
彼らは自分たちにもっとも近い人々を殺したことになる。
なぜ犯人は、より「効果的」と思われる国会議事堂などではなく、「隣人」をターゲットに選んだのだろう。
(秋葉原をマタンサの舞台に選んだ若者も、また。)
「無差別」殺人とはいえ、ここでは少なくとも政府要人など「顔のある」=「その被害者の生命が社会的に意味を持つ」人間を含ませない、という選択がすでになされている。
被害者として選ばれたのは、顔の見えない「無名の」人々だ。
それはつまり、「彼ら」が報復をしたかった者たちもまた「無名」である、ということなのだろう。
俺(たち)は損なわれた。
誰によってかはわからない、が、少なくとも「政府」とか「親」とか「先生」とかいうわかりやすいものによってではない。
ただし損なわれたのは事実なので、その被害の「埋め合わせ」として、そいつら=顔の見えない/他の誰でもいい者たち複数を損なってやる。
「彼ら」によって、もともと加害者とみなされ、それゆえ被害者に転じた「無名の」人々には、当然、同じ社会を構成する私たちも含まれるだろう。
あるいは「社会」こそが、「無名の人々」をターゲットとすることによって告発されているのかもしれない。

マドリード。
あの通勤列車内で爆殺された二百名弱の死の原因を作った「加害者」は、利権欲しさに英米に尻尾を振る「人殺し」政府を、その経済優先政策の下で数年続く好景気に浮かれて黙認してきた自分たちでもある。
高い投票率を記録した総選挙を挟み、そういう張りつめた、厳粛な雰囲気が満ちていたことを覚えている。
そのせいか、事件後に心配されていたイスラム教徒への嫌がらせや排斥運動は、ほとんどなかった。
だって、犯人とて私たちの「外部」ではないのだから。
(もちろん、そういうのとは無関係に、これで株価が下がるとおろおろしていたひともけっこういたけれど)
Tokio。
たまたま日本旅行中だったスペイン人の知人が事件に遭遇した、その話を奥さんから又聞きした。
OTAKUの彼は日曜、なにかイベントでもないかと迷わず聖地アキハバラに出かけた。
一斉にひとが走り出すのを見て、すわイベントだと思い、同じ方向に走ったという。
救急車やパトカーが到着してもしばらく、なにかのロケだと思っていたらしい。
なぜなら、地面に倒れているひとなどがいる「現場」を遠巻きにする「みんな」が、携帯を出してその光景を写真に撮っていたから。
彼にとってはそこまで含むすぺてが、「Tokioのマタンサ」だった。
(もちろん、咄嗟に助けようとしたひともいたのだろうけど)
犯人が狙ったはずの「隣人」さえ、実は日本にはもういなかったのだろうか?
資本主義の極北に生まれた、最小の消費単位である個人で構成される、あるいはそれら個人が「構成しない」社会では、従来型のテロはもはや何にも届かないのかもしれない。
あるいは、何か届きましたか?
そしてこれからは、どうなるのだろう。
やはり犯人は「外部」のものとして、自分の実感の伴わない場所(裁判とか軍による空爆とか)で裁かれ、そしてそれを生み出した罪をひとり背負わされる「家」(家族とかアフガニスタンとか)が「報復」されるのだろうか?
それとも事件は「内部」のこととして捉えられて、外国にいる私にはわからないけれど、実際にはなにか変わりつつあるのだろうか。
スペインのニュースは、やはり他人事なので、「その後」を伝えない。
仕事や電話のついでに少し話を聞こうと思った日本の知人たちも「その気持ち悪い話はしたくないんだけど」「日本の恥よねえ」ということで、語ってくれないのです。

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Junio 19, 2008 9:57 AMに投稿されたエントリーのページです。

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