湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ
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2010-03-30T14:42:46Z
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スペインは大丈夫かなあ
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2010-03-30T14:40:25Z
2010-03-30T14:42:46Z
■フランコ時代のドクトリン:「私はスペイン人です。私はスペインに生まれました。私...
uchida
■フランコ時代のドクトリン:「私はスペイン人です。私はスペインに生まれました。私の両親も、曾祖母も、同じ出自を有しています。……」
ご無沙汰しています。湯川カナです。
「長崎から船」、ではなく飛行機でスペインへ行き10年と1日を乾いたメセタの赤土の上で過ごし、「そして、神戸」におります。
ペドロというのは、娘の恋人のパパ。マドリード生まれの44歳、神をも恐れぬ強面・皮肉屋・ラディカルなテレビカメラマン。彼が10歳のとき、フランコが死んだ。ニュースを聞いてすぐ、「嘘だろう」と思ったよ。あのとき俺は表情ひとつ動かさなかったぜ、うん。
「フランコの死」というニュースを、そのまま信じてはいけない。無邪気に喜んではいけない。けっしてそれを「外」に出してはいけない。咄嗟に、そう判断したという。10歳の少年が。
「そうなの? 『やったー!』とかじゃなくて?」 驚いていると、彼のパートナーのエバが、代わりに答えてくれた。「だって私たちは、自分たちを監視する・されることに、あまりにも慣れていたから」
エバは当時6歳。その日は近所の友だちと、たいした意味もなく「お葬式ごっこ」をしていた。見つけた親がすっ飛んできてやめさせたことを、なによりもふだんは冷静沈着な両親のその慌てぶりを、鮮明に覚えているという。彼女の両親は、音楽家と教育者。思想的に「左側」だったため、戦後のフランコ治下では息を潜めるように過ごしていたのだと、これはあとで知った。
その後、ペドロがあるPDFファイルを送ってくれた。表紙は、「当時」の国章を背景に、銃を手に佇む少年少女のイラスト。タイトルは、「私は、こうなりたい」。子ども向け道徳教材、いわば「教育勅語」のようなものらしい。
第一章:スペイン国
私はスペイン人です。私はスペインに生まれました。私の両親も、曾祖母も、同じ出自を有しています。スペイン人であるのですから、私は生涯、私が生まれ出たこの民族の隆盛のために献身的に尽くすことを誓います。
スペイン万歳!
スペインよ、永遠なれ!
発行は1940年、フランコが内戦に勝利した翌年。「なんだ、昔のじゃん。びっくりした」 公園で顔を合わせた私がそう言うと、ペドロは真顔で「いや、俺が小学生のときも、ほとんど同じだったぜ」と答えた。(ということは、フリオ・イグレシアスも、プラシド・ドミンゴも、ペドロ・アルモドバルも、アントニオ・バンデラスも、だ)
表紙に描かれた、当時の国章。現行のスペインの紋章の基本形を、大鷲(=カトリック教会)が抱いている。その前後に、「ひとつにして、偉大で、自由である」および「もっとその先へ」という、スペイン黄金(帝国)時代のカルロス5世が好んだ文言が翻る。脚部には、「統一スペイン」の生みの親であるイサベル女王のシンボル「束ねた5本の弓」(フランコのファランヘ党のシンボル)と、フェルナンド王の「軛」。あー、おどろおどろしい。
これが現在の国旗に変わったのは、1981年。ペドロが16歳のときだ。
「じゃあさ、フランコが死んでもそんなんだったら、いったいいつ、ペドロにとっての『当時』は終わったのさ?」
隣で聞いていたエバが、「それはやっぱりフェリペ(社会労働党党首)が首相になった年(1982年)じゃない?」と呟き、私が「あ、そっか」と頷きかけると、彼はいつもの癖でハッと息を短く吐き、唇を歪めて笑ってみせた。
「『終わった?』 終わってないさ、いまでも」
■最寄の銀行の支店に貼られたビラ:「あなたは、列の先頭に並ぶ権利がある」
私たちがマドリードで住んでいたのは東京でいうなら小金井団地あたり(想像)の、ごくふつうの住宅地だった。自宅と保育園は同じ通りにあり、そのちょうど中間に、ペドロ一家が住むアパートがある。アパート前の敷地の一角には銀行の支店があり、ふだんからよく利用していた。
ある日、娘の手を引いて買い物に行く途中、ふと見ると、銀行の外壁にビラが貼ってあった。窓口カウンターに長蛇の列ができているイラスト。なんせスペインの銀行業務は、想像を絶するほどに手際が悪い。ハハンこれを皮肉っているんだなと思って目を凝らすと、案の定「あなたには、列の先頭に並ぶ権利がある」と書いてある。
続きがあった。「あなたがスペイン人であるならば」 あ。あらためて見ると、イラストで列をなしているのは、明らかにムスリム、アジア人、黒人、南米人らしく描かれた……移住者。胸がきゅっとなる。2歳の娘の手を無理に引っ張り、早足でそこを離れた。誰か近くに、これを貼ったひとがいる。いまも私たちを見ているかもしれない。7年住んだ、この地区で。
数日後。ペドロたちと一緒に少し離れた丘の上の広い公園まで散歩していると、曲がり角にでかでかと大きな看板が掲げられていた。イラストこそないけれど、「あなたには、列の先頭に並ぶ権利がある、スペイン人であるならば」という文言は同じ。ナントカ愛国同盟らしい。
私の後から坂を上ってきていたペドロが気づいて、大声で叫んだ。「おらおら、そこの中国人ども。お前たちは、最後尾だってさ! こっち来い!」 振り返ると、笑っている。それで、私もなんとか笑いながら娘の手を引いてペドロのところへ降りていくと、彼は「なんてこった」とつぶやいて娘を抱き上げてくれた。隣でエバが、「信じられない」と唇をかみ締めている。
ペドロが「スペインの教育勅語」を送ってくれたのは、その後のこと。強い既視感に、比喩でなく眩暈がした。
帰国後、テレビを見ていたら、コメンテーターが「日本経済は沈没するか」と訊かれて、「さすがにギリシャとかスペインみたいなことにはならないと思います」と答えていた。みんな、だいじょうぶかなあ。スペイン人も、「移民」な友だちも。
アニメ界の司馬遼太郎
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2010-01-05T08:13:57Z
2010-01-05T08:19:07Z
スペインに住んでいた10年の間、ほぼ毎日、テレビで日本発アニメが放送されていた。...
uchida
スペインに住んでいた10年の間、ほぼ毎日、テレビで日本発アニメが放送されていた。通年放送される定番アニメは、「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「ポケモン」。週に1日、ではなく、毎日である。そして毎年一度は全話集中放送されていたのが「キャプテン翼」「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」、加えて思い出したように「ドラゴンボール」。以上は、菓子の付録としてもたびたび使用されるほど、現地で広く認知されていた。その他にも私が実際にザッピングの間に日常的にみつけたものを列挙すると、「ケロロ軍曹」「名探偵コナン」「ワンピース」「ナルト」「かいけつゾロリ」「明日のナージャ」「るろうに剣心」……マイキョニイトマガナイ。
これだけ日本アニメが席巻するなかで、日本では「国民的」といっていいほどの大人気なのに、なぜかスペイン語版が出てこなかった作品が、いくつかある。「サザエさん」、「ちびまる子ちゃん」、そして「アンパンマン」だ。(wikipediaによると、「ちびまる子ちゃん」はドイツ、香港、中東で、「アンパンマン」はアジア数ヶ国で放送されているとのこと。ただ、たとえば「クレヨンしんちゃん」が30ヶ国以上で放送されているのと比べれば「細々と」と言っていいだろう。「サザエさん」の外国語版は存在しない模様)
大家さん・内田樹先生の近著『日本辺境論』に従って言うならば、「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「アンパンマン」は「アニメ界の司馬遼太郎」である。たぶんね。おそらくこれらのアニメの「論理や叙情があまりに日本人の琴線に触れるせいで、あまりに特殊な語法で語られているせいで、それを明晰判明な外国語に移すことが困難なのでしょう。」(p103)
では、「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」「アンパンマン」の「辺境性」は、いったいどこにあるのだろうか。
まず真っ先に思いつくのが、「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」はともに、「家族が主役」ということだ。しかし考えようによっては、のび太がママに怒られることがストーリーの起点やオチとなることが多い「ドラえもん」も、ママとパパと妹を巻き込んでのドタバタが好んで描かれる「クレヨンしんちゃん」も、「家族もの」だといえなくもない。
あるいは、設定があまりにもローカル(「ちびまる子ちゃん」の場合、70年代の静岡県清水市)なため、グローバルな共感を得づらいのだろうか。だが「クレヨンしんちゃん」の舞台は埼玉県春日部市で、頻出する時事ネタ(「トゥナイト2」やグラビアアイドルの名前などアダルト向けのも多い)も含め、こちらも局所的な話題だらけだ。それならば、東京の「どこか」を舞台とし、不況を嘆いてもテレビタレントの話題など出さない「サザエさん」の方が、まだしも抽象性が高い。
では、「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」にはあって、世界的に受け入れられた「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」にはないものはなにか。思うに、それは、「おじいちゃん・おばあちゃん」だ。より詳しくいうと、「祖父母も含めた一家が揃って茶の間で食べる晩御飯」だろう。
「ちびまる子ちゃん」の場合、まる子、姉、父、母、祖父、祖父母がだいたい夕方過ぎには茶の間に揃い(家の外観の遠景には夕焼け雲が描かれているイメージがある。なお父は職業不詳で、たいてい家にいる)、彼ら全員による食事をしながらの会話がストーリー展開上で重要な役割を担うことが多い。
「サザエさん」の場合も、会社帰りの夫と父が駅で落ちあったりしながら、夕食には必ずサザエさん、夫、子、父、母、弟、妹の全員が茶の間に集い、賑やかにそれぞれ一日の報告をしながら食事するシーンが好んで描かれる。
一方「ドラえもん」の場合、夕食に揃うのは、のび太、ドラえもん、父、母の4人。一堂が集うのは、昼間にのび太がテレビを見たり休日にお父さんが新聞を読んでくつろぐ茶の間ではなく、ダイニングキッチンだ。たまに夕食のシーンが出てきても、のび太は食事が終わるや「ごちそうさまぁ」と椅子から飛び降り、ドラえもんと連れだってそそくさと自分の部屋へ戻ってしまう。
「クレヨンしんちゃん」宅もダイニングキッチンがあるのだが、夕食は居間で食べる。メンバーはしんちゃんと父母、のちに妹(赤ちゃん)。ただし、父が帰ってくるのは暗くなってからであり(家の外観の遠景に星が描かれているイメージ)、しかも残業などでたいがい疲れていて、ともかくひとりだけビールを1本飲み、しんちゃんが話しかけても「うるさいなあ、少しくらい休ませてくれよ」というのが基本的な姿勢だ。
「新しいものの到来により、古いものはその座を名前とともに譲り渡す」という癖が、日本にはあるのではないか。かつて私は「赤ちゃんの誕生により、家族間のメンバーの呼称がどのように変わるか」というレポートをコンプルテンセ大学の社会学教授に提出した。フェルミン教授は、巨躯にのっかったつぶらな瞳をぱちくりさせて、ひどく驚いた。「赤ちゃんの前では、ということだよね?」「いえ、違います」 日本では、赤ちゃんが誕生すると夫妻は互いを「お父さん(パパ)、お母さん(ママ)」と呼ぶようになり、その両親を「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ぶようになるのです。つまり、赤ちゃんの視点からの呼称を家族間の呼称として新たに採用するのですよ、たとえその場に赤ちゃんがいなくとも。
なので、「ちびまる子ちゃん」の夕餉の場面はこう描かれる。
・友蔵「まる子が好きだったのは淳子ちゃんだったかのう」
・まる子「ちがうよ、おじいちゃん、まる子が好きなのは百恵ちゃんだよ」
・ひろし「しょうがねえだろ、おやじはボケちまってるんだから」
・まる子「お父さん、それは言い過ぎだよ」
・すみれ「そうですよお父さん。おじいちゃんだって好きでボケたんじゃないんですから」
上記で、友蔵はまる子の祖父、ひろしは父、すみれは母である。これを外国語に訳すのは、その逆(たとえば、相対的呼称を採用するスペイン文学作品の、日本語読者向け翻訳作業)を想像すると、なかなか骨の折れる作業と思われる。
「サザエさん」も、同様だ。
・サザエ「母さんちょっと聞いてよ、カツオったら百点取ったらしいのよ」
・フネ「まあ。父さんが聞いたら喜ぶわねえ」
・タラ「ちがうでしゅ。カツオ兄ちゃんじゃないでしゅ」
・サザエ「だってちゃんとここに磯野って……。あっ、名前のとこ消してあるじゃない!」
・タラ「ワカメお姉ちゃんのでしゅ」
・サザエ「カツオ! ちょっと来なさい!」(ゲンコツ)
・ワカメ「違うのよ姉さん、お兄ちゃんじゃないの。これタラちゃんが消しちゃったのよ」
・カツオ(泣きながら)「ひどいや、姉さん!」
こちらに至っては、本来タラちゃんの叔父・叔母であるカツオとワカメがタラちゃんからは(年が近いせいで)「兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼ばれている、というひねりまで入る。たぶん迂闊な私が翻訳者なら、ストーリーもだいぶ後半まで訳し終えたところで、カツオとワカメがタラちゃんの叔父叔母であると気づいて愕然とするだろう。
外来の漢字に「真名」という名前を奉じ、土着の方は一歩退いて「仮名」と呼ぶ。これが日本人のクレバーな振る舞いあるいは宿痾だというのも、『日本辺境論』で学んだことである。その同じメンタリティで、日本人は赤ちゃんという「外から来たもの」を迎えて、「夫」を「お父さん」に、「妻」を「お母さん」に、父母を「おじいさん・おばあさん」に、すでに居た子を「お兄ちゃん・お姉ちゃん」にと、「席を譲る」のだろうか。
とすると、日本の象徴であるところのファミリーが名字をもたず、さらに在位中は名前(諱)をも呼ばないというのも、なにか似た構造をもつように思われる。いま知ったのだが、「諱」の反対語もまた「仮名」なのだって。へえ。
ちなみに、スペイン国王は名字も名前ももち、ついでに国民と同じIDカードも免許証も持っていて、EU憲法についてなど国民投票が行われる際にはいつも真っ先に投票していた。また、国王一家の別荘があるマジョルカ島に皇太子時代の今上天皇が訪問した際には、後部座席に彼(名前がないのに代名詞で指していいのだろうか?)を乗せた車を自ら運転して、曲がりくねった島の真っ暗な夜道をびゅんびゅんカッ飛ばした、という話も伝えられている。
さて、話は戻って、どうも外国語に翻訳されないもうひとつの「日本の国民的アニメ」、「アンパンマン」の話である。「アンパンマン」には、おじいさんもおばあさんも出てこない。いったい「アンパンマン」のどこに、「辺境性」があるのだろうか。
思うに、「アンパンマン」の最大の特徴は、ギネス・レコードにもなっているほどの、登場キャラクターの多さ(1768体、2009年3月)にある。現在も増加中というその数の多さが、しかし直接的に問題なのではないだろう。同様に「キャラクターの数が多い」ことを特徴とするアニメに「ポケモン」があり、こちらも約500種類という尋常ではないほどのキャラクターを擁するが(ゲームの場合)、現在アニメは20ヶ国語以上に訳され、70カ国以上で放送されているという。
「ポケモン」のキャラクターは「不思議な生き物」という設定であり、それぞれが「種」をなして「生息」している。リーグでの勝利を目指す少年少女(トレーナー)が、苦労しながらそれらポケモンと心を通い合わせてパートナーとし、ライバルと切磋琢磨しながら成長する、というのがおおまかなストーリーだ。キャラクターは、代表的なピカチュウが「ねずみポケモン」と称されるように、おそらく、想像上のものをふくめ「生物」をベースに造形がなされているのだろう。人間のトレーナーがパートナーを求めて数多のなかからあるポケモンを名指す、という光景は、神が御前に世界中の動物を集めてひとつひとつに名前を与える、という聖書的なシーンを想起させる。(というか、しちゃった)
一方の「アンパンマン」のキャラクターは、「おしるこちゃん」「カップラーメンマン」「ナガネギマン」「もみじ王子」「ユキダルマン」「アルミ伯爵」……というネーミングが如実に物語るように、見事なまでに安易というか、「目についた物を即、擬人化したもの」がほとんど。それは、「八百万の神」と称される、日本的宗教観に近いかもしれない。かつてフェルミン教授に「つまり、日本ではこの」と肩を並べて歩いていた廊下の端を指し「ゴミ箱にだって、聖性を感じることができるのです」と言ったらやはり、とんでもなくきょとんとしていたが、あの時、日本の国民的アニメの「アンパンマン」に「しょうかきくん」なんぞが出てくることを知っていれば、もう少しうまく説明できたかもしれない。
「アンパンマン」のストーリーは、主人公やその周辺に「成長」的要素などまったくなく、笑っちゃうくらいの勧善懲悪である。「あれは水戸黄門だろ」というのが、ツレアイの弁。しかして「水戸黄門」にこそご注意、というのが、『日本辺境論』の教えのひとつでもあった。
いつもアンパンマンは困っているひとにアンパンをわけてあげ、それでパワーが落ちたところをばいきんまんに狙われ、危機一髪なところでジャムおじさんが焼いた新しい顔と交換できて、アンパンチでバイバイキーン。これが、「アンパンマン」の骨子だ。そこに、ストーリー毎にまったくのご都合主義で、「おむすびまん」やら「鉄火のマキちゃん」やらがぞろぞろ出てくる。彼らは往々にしてアンパンマンを困らせるけど、それは概ねばいきんまんの策略のせいで、誤解がとければ実はみんないいひとばかり。ヤァなんだか賑やかで楽しいなあ。よかったね。自分は成長しなくても、ぜんぜん平気だよ。それがおそらく、新・水戸黄門なる「アンパンマン」最大のメッセージだ。あらま。
とすると、これこそが、「アンパンマン」を支持しつづける私たちが何度でも繰り返して聞きたいメッセージなのだろうか。いや、せめて「自分の身を差し出すという捨身飼虎的な行為が初めに在ることによって、なんとなくぜんぶうまくいくのかもよ」くらいであって欲しいような。そういえば、「アンパンマン」内で「子ども」として描かれるメロンパンナちゃんの同級生たちの、リーダー的存在であるカバ夫くんだけがいつも、アンパンマンや先生に対して「等価交換をしろ」と迫り、「これは自分に不利なバーゲンだ」と、「まるで現代っ子のように」不平を言う。「善人」のアンパンマンでも「悪人」のばいきんまんでもない、「普通の子ども」のカバ夫くんのことばが、八百万的パラダイス・ワールドでいちばん醜く響くこと。もし現代の日本の子育て世代がそれを再確認しようとしているのなら、悪いことではないのかもしれない。いやほんと、未就学児向けのメディアや商品市場での「アンパンマン」の「のしかた」、尋常じゃないんですよ。
……って、すべて実は単に版権がらみの話だったりして。そのときは、ごめんなさい。
ニーニャ、言語を習得中
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2009-08-11T00:29:40Z
2009-08-11T00:34:00Z
■ 湯川ニーニャはこう云った。「トマママ」 これが、娘が発した最初のいわゆる「二...
uchida
■ 湯川ニーニャはこう云った。「トマママ」
これが、娘が発した最初のいわゆる「二語文」だった。私に洗濯バサミを差し出しながら、"Toma, mama."(tomar=「取る」の二人称命令形「取って(→どうぞ)」+ママ)、まったくのスペイン語。「ママ」だって、アクセントが後ろにつく「マ・マー」(スパゲッティー、じゃなくてスペイン語)。
1歳から現地の保育園に通っている。そして、周囲のスペイン語人は日本語がわからないが、周囲の日本語人(概ね親)はスペイン語がわかる。以上の2点から、日本語人の私の娘の「マザーランゲージ」は、すっかりスペイン語ベースになった模様。
私が、「信号が青になったら教えてね」と(日本語で)言う。変わった信号を指差して、娘が嬉しそうに叫ぶ。「みろり!」 信号の色は"verde(緑)"だと、先にスペイン語で認識してしまったらしい。それを日本語に直訳する、だから彼女の信号はぜったい「青」にならない。が、信号を示して言う「緑」、それはけっして日本語ではない。
「これ、なーに?」と浦島太郎の絵本を指差せば、「ウナ・カメちゃん!」。亀=tortuga=女性名詞→不定冠詞も女性形・単数でuna。おお、ピンポーン! ……じゃなくて、日本語に冠詞はありません。でも彼女はおそらく「名詞だけを答える」のがすごく気持ち悪くて、なのに対応する日本語の単語を知らなかったから(ないもんね)、この「空白部分」にスペイン語をそのままスライドさせて使ったのだろう。しかし、冠詞がないともう生理的に「気持ち悪い」、のだとしたら、娘の「世界」って……。
日常のあらゆるシーンで、多くの感嘆詞(的なもの)がスペイン語そのままで発せられる。プレゼントの包み紙をその場で「ア・ベール、ア・ベール(どれどれ)」とびりびり破って開け、出てきた積み木に「ケ・チュロ!(いかす……が近いのだが、死語?)」。その積み木を親友ディエゴと取り合いケンカすれば、謝罪はともかくとにかく抱き合い「ウン・ベシート(キス)」で幕引きが当地の流儀。やがて力を合わせて上手にできた積み木を前に「チョカ!」とハイタッチで祝福。その度におそらく、彼女の内にスペイン語人らしい感情が形成され、上書きされていっているのだろう。
では2歳半の娘が完璧なスペイン語人かというと、そうではないのが移民二世の悲哀。大好きなディエゴの叔母"Clara"の名を口にするたび、みんなに笑われる。たぶん彼女の発音は[ku-la-ra]、日本語式に、すべて子音+母音のセット。さらに私の発音にいたっては、"L"と"R"の区別がない[ku-ra-ra]のはず。私が娘に日本語で「今日、クララのおうち行こうね」言う。そのままの「クララ」の発音で彼女がみんなに言う"Hoy, a la casa de クララ."、これは日本語ではなくさりとてスペイン語でもない。すまん、娘。
■スペイン語の数え歌。♪スエナ・ラ・ウナ/ブエラ・ラ・ルナ
では次の、繰り返し現れる間違いもまた、移民二世のトラジェディなのか。
ひとつ。日本語で喋るとき、"H"の発音を無視しがち。「葉っぱ」は「あっぱ」、「蜂さん」は「アチさん」。これはHを発音しないスペイン語由来か、あるいはもともと現生人類の声帯は解剖学的に"H"の発音に向いてないのを日本語では大いに鍛えて使っているのか。それにしても大好物のエビと大嫌いなヘビを発音上区別できない彼女に、将来災厄は訪れないだろうか。
ふたつ。日本語で喋るとき、等拍の撥音・促音・長音が苦手。「ピンク」は「ピク」から現在なぜか「ピンクン」へ。「ピーターパン」は「チンパンパン」。「落っこった」と「怒った」の喋り分けもできない(シチュエーションでわかりますが)。ちなみに、アメリカ在住の私の兄コータローは、周囲の英語人から「コタロー」と呼ばれている。これは日本語の特性によるのか、欧米語(ってあるの?)の特性か、はたまた。だいたい「東京」をTokio、「京都」をKiotoと「正式に」表示する言語だもんなあ、スペイン語。
そして、お気に入りの絵本「ぐりとぐら」シリーズの「呪い」。湯川ニーニャちゃん、初手からなぜか「ぐらぎら」と言い間違い、そのまま間違い続け、現在でも目を輝かせて「ぐらぎら!」と毎晩御所望になる。この数ヶ月、連日繰り返して読んでいる。絵本の文中にも頻出するこの単語、少なくとも通算300回以上は耳にしているだろう。なのに活用させる方、未だに間違っとる。ラ行じゃなくてガ行。なんでや!
話は変わりそうで変わらないのだが、「数え歌」というものがある。私たちの世代は、「一本でもにんじん」。「ニ足でもサンダル、三艘でもヨット……」と続く。同じような歌を、いまスペインの幼児に爆発的人気の「おゆうぎDVD」"CantaJuego"シリーズで見つけた。"VUELA LA LUNA"というタイトルで、時計に添って、10まで数える。
Suena la una / Vuela la luna
Suenan las dos / Diciendote adios.
……
Suenan las ocho / Como un biscocho
Suenan las nueve / Estos se mueven.
(文頭の"suena/n"は、(時計が時を知らせる)「音が聞こえる」という意味)
数字の1(ウナ)に対応するのは「ルナ」、2(ドス)には「アディオス」、8(オチョ)には「ビスコチョ」、9(ヌエベ)には「ムエベン」。押韻ですね(たぶん)。
私なら。「七匹でも蜂、八頭でも鯨」の数え歌で育った私なら。1(ウナ)には「ウナギ」、2(ドス)には「どすこい」、8(オチョ)には「おっちょこちょい」。私からすると、「オチョ」と「ビスコチョ」は、「ぜんぜん違う」。しかし彼らは、韻を頭ではなく脚で踏む。彼らにとっちゃあ「1(いち)」と「いちご」こそ、「ぜんぜん違う」ものなのだろう。
ともかく、彼らは脚韻を好む(らしい)。
と、そこで思い至った。そっか。だからすでに「彼ら」の一員に仲間入りしたっぽい娘も、日本語で頭韻を用いたことばを、スペイン語式に脚韻に変えたのだろう。なぜなら、それが「自然な韻」だから。「ぐりぐら」という「韻を踏む」日本語の、「指向するところ」をスペイン語に訳すと、それは「ぐらぎら」なのだ、きっと。うーん、あれはスペイン語だったか……。
しかし、なぜスペイン語では脚韻がメインで、日本語では頭韻なんだ?
いまネット検索すると「英語は腹式呼吸だから」という説があったが、どうもちっともわからない。
内田師匠の「二行並韻は『いっしょに来る』」話(「人間的時間」、2009年2月28日付ブログ)が(正しく理解できないまでも)ずっと念頭にあって数ヶ月。今週ふと気づくと、ニーニャがスペイン語で「ケツカッチン」の喋り方をしていた。
先日、私たち一家と、ディエゴ一家で、一緒にプールに行って終日過ごした。
それが娘にはものすごく嬉しく楽しかったらしい。以後毎日、一緒に行った6人の名前を指折り数えてみせる。「ディエゴと、エバと、ニーニャと、パパと、ママと、ペドロと、ニーニャと、エバと、パパと、……(窮して)ニーニャ!」 ぐちゃぐちゃ。ちびっこだからしょうがないよね、と思っていたのに、馴染みの駄菓子屋のベニーばあちゃんの質問に彼女が答えるのを聞いて、慄然とした。「ディエゴ、エバ、ニーニャ、ペドロ、パパ・イ・ママ!」
英語の"&"を意味するスペイン語の"y"(イ)は、並列する単語のいちばん最後の直前でだけ一度、使っていい。つまり、バルで注文を訊かれて、「んーと、生ハムと、チョリソのシードル煮と、イワシの酢漬けと、……ああ、やっぱとりあえずそんだけでいいや」という答え方は、言語の構造上許されない。確固たる意思をもて「生ハム、チョリソとイワシ。(以上)」と言い切らなければならないのだ。スペイン語でニーニャが答えるとき、彼女はたぶん頭の中でまず6人を召喚し、そうして最後の2人のあいだに"&"を配置するのだろう。うーむ。
その「まず、最後尾まで一気に見晴らす」同じ作業が、スペイン語の脚韻をも召喚するのではないか。……いや、頭韻を召喚してもいいのか? でも、少なくとも、わりと頭からずるずるぞろぞろと伸びていく日本語からは、「ぐりぐら」は出ても、「ぐらぎら」は出てきにくい気がする。
いやはやまったく、驚き桃の木山椒の木。……って、これ脚韻だよ!
スペイン現代史2倍速論
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1976
2008-11-20T01:32:59Z
2008-11-20T01:36:20Z
スペインでは日本の2倍の速度で歴史が動いている。 1999年から足掛け10年こ...
uchida
スペインでは日本の2倍の速度で歴史が動いている。
1999年から足掛け10年この国にいて、漠然とそう感じていた。
たとえば乗用車。
来西当時は、サイドミラーの欠けた(ままの)車なんてそこらじゅうを走っていた。
落ちかけたナンバープレートやマフラーを針金ぐるぐる巻きにして釣ったり、割れたヘッドライトをガムテープで補修しているのも、しょっちゅう。
「最強さん」は、片方のドア全面を段ボールで代用(ちゃんと窓の部分は開けていた)。
「ああヨーロッパは、車は『走ればいい』という感覚なんだな」と、浮ついた世紀末の消費大国ハポンから来た私は、深く感じ入ったものだ。
しかし数年前から、段ボールはおろかサイドミラーの欠けた車も、魔法のように姿を消した。
「郷に入れば」と、割られたヘッドライトを透明ガムテープで補修していた我が家の中古のプジョー306(当時)が、やたらみすぼらしく見えるようになり。
ふと見渡せば、それまで休日に父親の古いフィアットにぎゅうぎゅう詰めでドライブしていた若者たちが、新車のシトロエンの小型車のコンパーチブル・タイプをひとりで乗りまわし。
スペイン的に「中の下」あたり、移民が約半数の住宅街にある我が家の近所にも、平気でBMWが路駐してあったりする。
嫉妬から、車のメーカーを示すエンブレムが盗られる悪戯も、激減した。
2008年秋の街を走る車は、みんなピカピカ。
いま日本から来てこの光景を見たとして、とくに違和感を抱くことはないだろう。
現在の日本とスペインには、おそらく同じ時が流れている。
グローバリゼーションという名前のものか、バブル後という名前のものか、よく知らないけど。
しかし1999年のスペインにはたしかに、日本から来たばかりの私に「懐かしい」と感じさせるような、「日本の少し前の光景」があった。
デジタルや一眼レフのカメラは憧れの対象で、マドリードでも田舎の路線バスに乗れば行商の荷物を担いだおばちゃんが乗り込み、市場の勘定では端数を計算せず、携帯電話はあまり見かけず、若者にとって飛行機に乗るのはけっこうなイベントで……。
感覚的には私が小学校・中学校の頃、つまり「修学旅行の自由時間に竹下通りのタレントショップに寄ってからクレープの行列に並ぶ学生の靴下のかかとにはお母さんが当てた継ぎの跡」という雰囲気が濃厚な、1980年代。
そんな根拠ない思い込みを勇気づけてくれるような言葉に、『ことばの政治学』(永川玲二、筑摩書房)で、出くわした。
英文学者で『ユリシーズ』の訳者としても知られる著者は、フランコ治下の1970年から(何度かの帰国を挟みつつ)約30年にわたりセビーリャに住んでいた。
1979年発行のこの本では、フランコ死後のスペインの雰囲気を、日本の敗戦後になぞらえている。(はずなのだけど、該当箇所をいまは見つけられず)
やっぱり!?
これで私の「スペイン現代史2倍速論」が、現実味を帯びてきた(かもしれない)!
日本、1945年敗戦。スペイン、1975年フランコ死亡。
ともかく全体主義の時代が終わり、「現代史」がはじまる年号。
いま私たちのいる2008年から逆算すると、日本の現代史は63年、スペインのそれは33年となる。約半分。
日本は1956年、国連加盟。
背景には、冷戦下で西側陣営メンバーとしての役割の増加を期待するアメリカの思惑があったとするのが、高校社会でも常識。
一方スペインは1981年、NATO加盟。
もちろん親分はアメリカ。そして正式加盟以前から国内に米軍基地があったのは、日本と同様。
ともかくアメリカに利用されかつ利用するかたちで「敗戦国」「村八分」な国が晴れて「国際社会」に正式復帰するまで、日本は11年、スペインは6年。
ほら、約2倍速。
そして、現代に欠かせない「国威発揚イベント」、オリンピック開催。
東京オリンピックと新幹線開通は、1964年。そして大阪万博が1970年。私は年表でしか知らない事項、数えると敗戦から19年後と25年後。
一方スペインでは、これらの3つのイベントがすべて同じ年に行われている。
1992年、バルセロナ・オリンピック開催、(実に大阪万博以来の規模となる)セビーリャ万博開催、そしてマドリード-セビーリャ間の新幹線開通。フランコ死後17年。
あらら、ちょっと遅れてるぞ?
私の勝手な計算によると、日本で敗戦から19~25年後に国威発揚イベントが行われたなら、スペインのそれはフランコの死の10~13年後、1985~1988年に行われていなければならない。
フランコ時代からスペイン・スポーツ政治界のドンであったサマランチがIOC会長に就任するのが1980年、なんとかなりそうなものなのに。
なにか見逃したところがあっただろうか。
すみませんがスペイン現代史の復習、つきあってください。
フランコ死後の1977年、ついで1979年の総選挙でともに勝利を収めたのは、右でも左でもない、あえて言うなら「国王寄り」の民主中道連合。
1981年1月、この民主中道連合を率いて、国王と二人三脚でスペインの「フランコの亡霊を呼び起こさないような」民主化に腐心してきたスアレス首相が、党の内紛に匙を投げるかたちで突如辞任。
翌月、国会のテレビ中継中に轟いた「座りやがれ、マ○コ野郎!」の一言で久々の軍事クーデター勃発。国会議員全員を人質に、マドリードとバレンシアが軍に制圧されるが、深夜、国王がヒーローとなるかたちで収束。
この年の、いわば「政治的空白」の合間に、すでに申請していたNATO加盟が正式決定している。
そして翌82年の総選挙、NATO脱退を公約に掲げた社会労働党が第一党に踊り出る。
…あっ!
さっそく娘の保育園ママ友で、当時マドリードで学生だったエバに訊いてみた。
「うん、NATO加盟にはみんな反対してたわよ、米軍基地周辺で大規模なデモもあったの。で、NATO脱退を約束した社労党が圧勝したでしょ? そしたらフェリペ・ゴンサレス新首相が方針転換するじゃない。もう世論沸騰、怒り大爆発よ。それでたしか国民投票があったのよね。あれ? それでNATO残留にYesという結果になったんだっけ?」
問われたのは、エバのダンナさんで、より年長のペドロ。
「そう。首相が必死で説得したんだよ。スペインのEC加盟を実現するには、どうしてもNATO残留が前提となる、理解してくれ、ってね」
「あっそっか、それで。でも、本当に賛成派が多数だった?」
「ほぼ同数で、辛うじて賛成派が勝ったんだよ」
「ほんと? なんか信じられないけど」
ともかくスペインにとって真の「国際社会復帰」を意味するのは、EC加盟だった。
あくまで、海の向こうの新大陸で新興国アメリカの傘下に入ることを意味するNATO加盟ではなく、ローマ帝国時代からの同胞たちであるヨーロッパの一員と認められること、ということか。
いや、そんなうがった見方をしなくても、実際に関税の面などでヨーロッパの一員と認められるかどうかは、「死活問題」といいたいほど切実なマターだったらしい。
フランコ時代に行った加盟申請は、当然ながら、独裁体制を理由に拒否されている。
その死後にともかく申請は受理されたものの、加盟が認められるには至らない。
早く国際社会の一員に! ヨーロッパのフルメンバーに!
スペインはNATO残留という「苦い薬」をも嚥下することを選び、社労党政権のもとでもうクーデターを起こすこともなく、EC加盟の条件とされた「自由体制」「経済安定」などに全力で取り組む。
こうして1986年、隣国ポルトガルとともに、晴れて「悲願の」EC加盟を達成。
フランコの死から11年後ですな。
おっと、日本の国連加盟までと同じ年月だったか。
国際社会復帰は1日にして成らず?
この時期、スペインの成長を見越した外国からの投資、さらにEC加盟国としての援助金による後進地域開発などで、スペインは飛躍的な経済成長を開始。
その「打ち上げ花火」が、6年後のオリンピック&万博&新幹線だったわけだ。
当然のように、「祭りのあと」翌1993年からは経済が停滞。
前年に開店するはずだったバルセロナそごうが、この年、選手村跡の巨大施設にオープンしたものの、96年には撤退していることが、当時の状況を象徴している。
そして「風が止まった」ことで、長期間政権の座にあった社労党内部の腐敗が表面化。
ついに次の1996年の総選挙では、フランコの流れを汲む右派の国民党が勝利する。
局面打開を図る国民党新政権が採った政策は、英米へのあからさまな追従。
これが8年後、彼ら自身の首を締めることになるのだが、それはともかく。
幸運なことに、バブル崩壊後に「失われた10年」を経なければならなかった日本とは異なり、EC加盟を果たしたスペインには、世紀末にスペシャル・イベントが待ち受けていた。
ユーロによる通貨統合。
ここに「スペイン急に総成金化」のからくりがあることを指摘したのは、我がツレ。
夕食の折、いったいいつから街をゆく車がピカピカになったかね、と話すともなく話していると、「そりゃ2002年だよ」と即答。
なんで?
「だって2002年元旦から一般に流通するのもユーロになるからって、みんな裏金で貯めてたペセタでじゃんじゃん車買ってたじゃん。マンションとかも」
そうやった。
そんな「活気」もあり、ユーロ導入後にEU諸国、とくに主要国を中心に経済成長が伸び悩むなか、スペインはギリシャと並んで、EU平均を大きく上回る順調な経済成長を続けた。
土地の値段がぐんぐん上がる。バブルのはじまりだ。
古い住宅街は均され、安っぽい新築マンションが立ち並ぶ。
市内中心部、スタジアムのすぐ隣にあって毎日ファンが練習を見に押しかけていたサッカーチーム「レアル・マドリー」の広々とした練習場も高値で売却され、4つの超高層ビルの建設が始まる。
一方で、新築ラッシュとはいえ多くが転売目的で購入されるため、居住用のマンションが不足し、「人間のいない住居、住居のない人間!」という抗議行動も盛んに行われた。
「ああこれは、いつか見た光景」。1999年当時に感じた温かな懐かしさとは別の意味で、私は寂しく砂塵舞い上がる街を見ていた。
そんな浮かれ調子に冷や水を浴びせかけたのが、2004年のアルカイダによるマドリード列車爆破テロ。
直後の総選挙で「殺人犯より泥棒の方がまし」と、政権がふたたび社労党のもとに戻る。
そして、テレビの朝のCMが消費者金融に席巻された2007年半ばを境に、ついに土地価格が下落。
現在は工事を中断した建築現場が、あちこちに放置されている。
スタジアム売却のタイミングが一歩遅れたサッカーチーム「バレンシアF.C.」も、深刻な資金難に陥っているらしい。
スペインはこの30余年で、日本が戦後60余年をかけて経験した「経済成長、オリンピック・万博・新幹線の打ち上げ花火、不況、バブル、その崩壊」を、やはり「2倍速」といいたい駆け足でたどってきた。
私が見た10年は、日本の80年代から今日までの20年にあたりそうだ。
経済的には、ね。
政治的にはしかし、「日本では見たことのない」新鮮なことも多かった。
そのひとつが、「お隣さん」への信頼感。
「EU」という「世界とスペインのあいだ」の共同体があり、「お前が倒れると共倒れ」とばかりに優良なお隣さんたちが(下心もあっただろうけど)手を差し伸べてくれる、その安心感が、とくに通貨まで統合された後のスペインにはある。
以前も使った比喩だけど、今日のEUは、個々の店同士は競争相手でも全体としては一致団結して生き残りを図る商店街、のようなものだろう。
テロ直後の総選挙で勝利を収めたサパテロ現首相が、「イラク撤兵」という、当時の世界的な世論や力関係からするとけっこうハードなオプションを採りえたのも、そんな「ご近所さん」がいたからに違いない。
実際に彼が就任直後に訪れた国は、モロッコ、ドイツ、フランスだった。
(おかげでブッシュからは無視され続けたけど。というわけでスペイン市民はオバマの勝利を心から祈っていた)
しぶとい商店街と、傾きかけた巨大スーパーと、日本は……できれば老舗の専門店であってほしいな。町工場とか。
さあてこれから、みんなで未知の道のりだ。
カナさんからPR
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1975
2008-11-20T01:31:20Z
2008-11-20T01:31:51Z
ご無沙汰しました。 でもって手持ち無沙汰に狂気の沙汰、今回はPRです。ごめんな...
uchida
、地味に楽しく展開中です。
友だちが友だちに声をかけてやらやら集まった、ほぼ見ず知らずの7人。
金曜・トンビ:「長崎の語り部」として活躍するおくんちライターで、母。息子さんは3歳。
土曜・ホッチキス:熊本の山奥に住むフランス現代哲学・現象学専攻大学院生で、父。息子さんは3歳。
日曜・がばちょ:沖縄移住後ベリーダンスでベリベリ大安産な母、赤ちゃんは1ヵ月半。乳とウン○まみれの日々、真っ只中!
月曜・初々&オット初々:ご存知京都在住・精神科ナースな母と、大学の心理学教授な父が隔週担当。娘さん1才。
火曜・アイリ:弁護士事務所勤務な母。東京で隣り合う0歳未満(再来月出産予定)から85才まで5世帯14人が同居中。息子さん6才。
水曜・カナ:マドリード在住、心(と現在のところ収入)がフリーなライター、そして母。娘は1才。
「お隣さん」たちの、各々ぜんぜん違う「しゃにむに子育て」の様子を見れば、「なんだ、うちってけっこうまとも」と安心すること請け合いです。
どうぞよろしく!
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ゴヤ、ロルカ、ブニュエル、ダリ
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1836
2008-06-25T13:23:25Z
2008-06-25T13:28:19Z
私の名前は湯川カナ、イニシャルで表すとKYだから空気読めねえ、ってわけでもないの...
uchida
私の名前は湯川カナ、イニシャルで表すとKYだから空気読めねえ、ってわけでもないのだろうが、編集者を困らせる文章を書くことが少なくない(らしい)。
いま店頭に並んでいる(はず。スペインではわからないけど)「エスクァイア・マガジン・ジャパン」という雑誌の8月号「天才とスペイン-魂を揺さぶるスペイン紀行」にいくつか文章を書いたが、案の定、大きな3つの原稿のうち2つは書き直しとなった。
アホな子を諭すように改めてていねいに企画意図を教えてもらって、新たに書いたものが、活字となっている。
ひとつは、ゴヤ。以前この欄に掲載していただいた「ゴヤについて」は、実はボツとなった初稿。
今回はもうひとつのボツ原稿「ロルカ、ブニュエル、ダリ」で書いたこと、書けなかったことを。
雑誌ではこの3人が青春の日々をわかちあったマドリードの学生寮での逸話を中心に、その蜜月がブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』の発表により終わりを告げる、という展開になっている(はず)。
ボツとなった原稿で、私はこう書いていた。
> 「アンダルシア」の「犬」とは、いったいなにを意味するのか。この(カナ註:『アンダルシアの犬』発表)直後に陥った「精神的な危機」から脱するためニューヨークに渡ったロルカは、友人への手紙に、「ブニュエルは、ちょっとひどいことをした。アンダルシアの犬は、僕だ」と苦々しく書いている。
> 一説によると、マッチョなブニュエルとそれに感化されたダリが、ロルカのホモセクシュアル的傾向を嫌ったのだ、とされる。しかしブニュエル自身は後年、「僕は、ロルカの影響から逃れたかった」と友人に告白したとも伝えられる。とするとこれは最年長のロルカへに対する、エディプス・コンプレックスの子どもたちのような反抗だったのかもしれない。
……「エディプス」云々を持ち出すところが、青いね。臭いね。てんでイカ臭い、中学生の作文だよ、湯川クン! というのはともかく、ボツ原稿は少しの「糊」を挟んでから、続けて3人の「その後」を紹介する。
> 帰国したロルカを待ち受けていたのは、無血革命による王制廃止、共和政の成立であった。彼は政府に任命されて劇団を創設し、同時に代表作を次々と発表するが、6年後、スペイン内戦が始まるとファシストにより射殺され、38年の短い生涯を閉じる。
> 自らの生命の危険を省みずフランコ側の友人を助けたブニュエルはしかし、一貫して共和国政府に協力して、国外での活動を続ける。後に拠点をハリウッドからメキシコに移し、この地で没する。
> 戦火を避けヨーロッパを転々としたダリは、第二次大戦を機にアメリカに移住するが、8年後、フランコの支持を表明して帰国。生地フィゲラスの、自身の美術館に眠る。
その後に、再びイカ臭い「天才たちの、輝かしく、儚い前夜。まだ見ぬ未来に胸を弾ませ夢を語り合ったあの日々は、二度と戻らない。歴史の濁流に呑まれアディオスを言うことすらできなかった友に、あるいは苦い思いが残ったかもしれない。それでもやはり、それは彼らだけが共有する、かけがえのない記憶である。晩年のダリが好んで聴いたという『ノチェ・デ・ロンダ』は、3人が通ったオテル・パラセのクラブを強く思い出させる曲だった。」という「まとめ」が来るのだが、それもともかく。
20世紀に生きたスペイン人に、内戦はかくも暴力的にかかわってくる。
ということをたぶん、私は書きたかった(そしてそれは、『スペインの天才』をテーマにしたこの特集号にはまったくふさわしくない、たしかに)。
彼らだって平時だったら、ブニュエルが若くて内気なダリを巻き込んで、先輩の、そして本来ブニュエルがその道を志していた詩作に加えて共通の趣味であった音楽でまで圧倒的な才能を見せつけるロルカに嫉妬し、恐れて、そこから逃れようとわざわざひどい仕打ちとなる作品を共同制作したからといって、それで一生お別れということもないだろう。
しかし彼らのごく個人的な、イカ臭い「訣別」の後に、内戦という歴史の大波が襲いかかった。そして内戦は、「内」戦であるがゆえそれに関わらざるを得ず、自分の立場をはっきりとさせることを強要される。
50年来の付き合いの肉屋と、近所の気の良い仕立て屋のおばさんと、あるいは父と子でさえ、立場を異にするからと銃を取り殺しあわなければならないのだ。
一足先にこの世からいなくなったロルカは、共和国政府の任を受け、スペインの古典を演じる移動劇団を主宰して民衆を啓蒙するという仕事を積極的に果たしていた。だいたい彼の名を高めた代表作も、それまでスペインの「表」の歴史が黙殺してきたロマ(ジプシー)の文化を取り上げたものである。
内戦開始早々、ファシストに銃殺される。その死の理由を、固陋なアンダルシアの名家に生まれた「鬼っ子」のゲイだというところに求めることも多いが(私を含めて)、しかし共和国政府のシンパであったという点をもっと単純に考えに入れてもいいのではないか。たったいま、そんな気がしてきた。
ブニュエルはもともと、『パンなき土地(邦題:糧なき大地)』という、スペイン社会がひた隠しにする貧困をあぶりだすドキュメンタリーを、誰に頼まれたわけでもないのに手がけるような要素をもっていた。ピカソが『ゲルニカ』を展示したパリ万博のスペイン(共和国政府)・パビリオンでは、内戦の(むごさを描く、とされる)ドキュメンタリーを上映しており、また、政府広報アドバイザーかなんかも務めていたはずだ。
内戦後の長いフランコ時代に、カンヌ受賞作による帰国禁止処分後も、何度かスペインから招かれて戻っているが、結局は客死を選んでいる。たしか彼の一時帰国は、ピカソなど「フランコの目の黒いうちは断固として故国の地を踏まない」派の人々にひどく非難されたはずだ。
彼だって充分に苦しんできたんだろうに、ね。
そして、超おぼっちゃん育ちで、考えるより先にその超絶な技巧によってつい作品を生み出してしまうタイプ(たぶん)のダリは、ファシストの格好良さに素直に靡いた、らしい。たしかかなり早い時期に、フランコを讃える作品をものしてもいる。
振り返れば私は中学時代(まさにイカ臭い時期!)に、ただ単にその格好良さから、ダリを偏愛し、部屋にヒットラーの肖像(をコンビニでコピーしたもの)を飾り、インチキなドイツ軍服を作って特急かもめに乗って長崎から福岡まで行ったこともあったような気がするが、なんかたぶんそういうことだったのだろう(勝手に)。
そして、「皇帝」の曲を帝位簒奪者に捧げたことを悔いたベートーヴェンと異なり、ダリはあっさりフランコに恭順してその治下のスペインに戻る。生地のフィゲラスの市役所の改装を頼まれたのをすっかり自分の美術館にしてしまい、そこで眠る。
同時代のミロ、ピカソ、かつての朋友ブニュエルが次々と客死する中で。彼もまた、苦しんだのだろうか。あるいは、社会を描かず、ミューズたるガラから湧き出ずる世界のみを描き続けた(だっけ?)ことがすでに、「苦しみ」のひとつのかたちだったのだろうか。どうかな。
ちなみに、ダリがブニュエルに『アンダルシアの犬』の続編制作をもちかけ、ブニュエルが「勘弁してくれ」(意訳)と断った、という話も伝わっている。
ゴヤについての原稿で私は、スペイン人にとってのアイデンティティ・デーが、対ナポレオンのスペイン独立戦争記念日である5月2日だと書いた。ゴヤ伝で堀田善衛もそう書いていた。
しかしこの日が祝日なのは、実はマドリード州だけである。
では他の地域のひとびとは無関心かというと、いや、やはりゴヤ『1808年5月2日』『5月3日』の主役である「名もなき市民」へのシンパシーはかなり強いようだ。
ゴヤと、ロルカ・ブニュエル・ダリのふたつの原稿を書いていて思ったことがある。
いまのスペイン市民の、200年前の対ナポレオン戦争における名もなき、しかし勇敢な、それゆえ無残な死を死ななければならなくなったひとびとへの強いシンパシーは、つまり、スペイン内戦で破れた「名もなき市民」への、かたちを変えた追悼ではないだろうか。
フランコはまだ生きている。
その娘の子どもたちはたしかいまも貴族として存命だし、だいたい現国王がフランコから後継者として指名された、いわば「フランコの子」である。王冠はブルボン家の先王からではなくフランコから渡されたのだ! またマドリード列車爆破テロまで8年間政権の座にあった、現在でも最大野党で、かつマドリード州やバレンシア州などでは与党の国民党は、思いっきりフランコの流れを汲む右派だ。
街でだって、広島・長崎で反アメリカを叫ぶのとは異なり、誰もが反フランコで『ゲルニカ』バンザイだと思ったら大間違いで、本気で治安の良かったフランコ時代を懐かしむひとは少なくない。そこらのバルでおじいさんたちが「お前はあの時、」と内戦時の態度をめぐって血相変えて言い争いをはじめる光景にも何度か遭遇した。
スペインでは21世紀になったいまでも、内戦での「名もなき死者」を悼むことを、政治的態度表明と切り離して行うことができない。
だから、ゴヤなのではないか。200年前のことだし、「敵」はフランス軍、しかも歴史上の「悪人」で疑いないナポレオン、というわかりやすい構図だ。
そして、だから、マドリード列車爆破テロほんの数時間後には「名もなき死者」たち被害者への献血に長蛇の列ができ、むしろ余るくらいの血液が集まったのではないか(4時間後にのこのこ行ったら、もう要らないと言われた)。
そう考えると日本の秋葉原無差別殺人事件や、靖国問題における「うまく言えないかんじ」がなんとなく、先の大戦でのものすごい数の「名もなき死者」を、納得できるやりかたで悼んでこれなかったことに通じるように思われる。
それは、スペインが長く「敵」であったはずのフランコ治下にあったのと同様に、日本がアメリカの実質的な支配下にあったからだろうか。(もちろんどちらの国についても、現在形にするのも可です。スペインの経済を牛耳るのはフランコ時代からの「200家族」だし……)
「なかったこと」にしたつもりのことこそ激しく噴き出してくる、精神分析でそういうのがなかったかしら。
Tokioのマタンサ
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1826
2008-06-19T00:57:55Z
2008-06-19T01:00:34Z
マタンサ、という言葉がある。matanza。 この単語を冬のはじめに耳にするのは...
uchida
マタンサ、という言葉がある。matanza。
この単語を冬のはじめに耳にするのは、そう悪い気分ではない。
生ハムや腸詰などの保存食作りのため、一家隣人総出で豚を屠り青空の下で賑やかに作業を進める、農村らしい光景を思い浮かべるから。
それ以外の時期に聞くと、あまりいいことがない。
最近では2001年9月、アメリカ同時多発テロ。
2004年3月、マドリード列車爆破テロ。
そして先日(6月9日)、一週間の初めの月曜朝のニュースでこの単語が聞こえてきて、んだよ、と嫌な気分で画面を見たら、「Tokioのマタンサ(=大量虐殺)」だった。
日本でどういう報道がされているかぜんぜん知らないのだけど、そういう言葉遣いだったので、咄嗟に「テロ」だと思ってしまった。
アメリカでのテロは、聞くところによると「グローバリゼーションあるいは現代型経済帝国主義において、圧倒的弱者であり被収奪者たることを余儀なくされ、かつ抗議の手段をもたないイスラムの最貧国の若者たちによる、顔の見えぬ強者への、自らの生命を武器とした無差別型の暴力」だったという。
そしてアメリカは「報復」として、アフガニスタンを石器時代に戻すまで攻撃した。
とはいえよく知らないので、解説じみたことはやめておきます。
マドリードの列車爆破テロは、当初はETA(バスク地方の独立を求める過激派)の仕業だと報道された。
少なくとも政府は繰り返しそう発表したが、かなりのひとが違和感を抱いた。
彼らの従来のやり方は「予告なしで行う政治家など要人の暗殺」か、「予告を伴うデモンストレーション的爆破」かのどちらかで、無差別殺人は、約20年前のスーパーの地下駐車場での自動車爆弾テロほぼ1件と言われる。(だから褒められるというわけではないが)
これまで数百人を暗殺してきた非道なETAではあるが、しかし被害者の顔に意味を持たせないようなタイプの殺人は、どうもしっくりこなかったのだ。
結局、外国では当初からそうだと伝えられていたように、「犯人」は、アメリカでのテロと同じアルカイダだった。
この事件で、極端なアメリカ追従主義をとっていた国民党アスナル政権は支持を失い、数日後の総選挙で社労党政権が発足した。
新たに首相となったサパテロはすぐ、日本を含むアメリカ寄りの諸国から「テロに屈するのか」と責められつつも、公約どおりイラクから撤兵した。
もともと開戦当時9割以上がイラク攻撃反対だった市民は、それを英断だと歓迎した。
もう充分な犠牲は払った。これ以上、「人殺し」の片棒を担ぎたくはない、と。
(当時、世論に反してイラク攻撃を支持した国民党は「人殺し」と呼ばれ、前回の政権担当時に汚職の蔓延で信用を失った社労党は「泥棒」と呼ばれていた。そうして、「人殺しよりは泥棒がまだまし」、と。)
爆破された列車は移民が多く住む郊外の街を通り、マドリード最大のターミナル駅に向かう。
それゆえ被害者には移民も多かった。
そして実行犯の大半もまたモロッコからの、同じような移民だった。
彼らは自分たちにもっとも近い人々を殺したことになる。
なぜ犯人は、より「効果的」と思われる国会議事堂などではなく、「隣人」をターゲットに選んだのだろう。
(秋葉原をマタンサの舞台に選んだ若者も、また。)
「無差別」殺人とはいえ、ここでは少なくとも政府要人など「顔のある」=「その被害者の生命が社会的に意味を持つ」人間を含ませない、という選択がすでになされている。
被害者として選ばれたのは、顔の見えない「無名の」人々だ。
それはつまり、「彼ら」が報復をしたかった者たちもまた「無名」である、ということなのだろう。
俺(たち)は損なわれた。
誰によってかはわからない、が、少なくとも「政府」とか「親」とか「先生」とかいうわかりやすいものによってではない。
ただし損なわれたのは事実なので、その被害の「埋め合わせ」として、そいつら=顔の見えない/他の誰でもいい者たち複数を損なってやる。
「彼ら」によって、もともと加害者とみなされ、それゆえ被害者に転じた「無名の」人々には、当然、同じ社会を構成する私たちも含まれるだろう。
あるいは「社会」こそが、「無名の人々」をターゲットとすることによって告発されているのかもしれない。
マドリード。
あの通勤列車内で爆殺された二百名弱の死の原因を作った「加害者」は、利権欲しさに英米に尻尾を振る「人殺し」政府を、その経済優先政策の下で数年続く好景気に浮かれて黙認してきた自分たちでもある。
高い投票率を記録した総選挙を挟み、そういう張りつめた、厳粛な雰囲気が満ちていたことを覚えている。
そのせいか、事件後に心配されていたイスラム教徒への嫌がらせや排斥運動は、ほとんどなかった。
だって、犯人とて私たちの「外部」ではないのだから。
(もちろん、そういうのとは無関係に、これで株価が下がるとおろおろしていたひともけっこういたけれど)
Tokio。
たまたま日本旅行中だったスペイン人の知人が事件に遭遇した、その話を奥さんから又聞きした。
OTAKUの彼は日曜、なにかイベントでもないかと迷わず聖地アキハバラに出かけた。
一斉にひとが走り出すのを見て、すわイベントだと思い、同じ方向に走ったという。
救急車やパトカーが到着してもしばらく、なにかのロケだと思っていたらしい。
なぜなら、地面に倒れているひとなどがいる「現場」を遠巻きにする「みんな」が、携帯を出してその光景を写真に撮っていたから。
彼にとってはそこまで含むすぺてが、「Tokioのマタンサ」だった。
(もちろん、咄嗟に助けようとしたひともいたのだろうけど)
犯人が狙ったはずの「隣人」さえ、実は日本にはもういなかったのだろうか?
資本主義の極北に生まれた、最小の消費単位である個人で構成される、あるいはそれら個人が「構成しない」社会では、従来型のテロはもはや何にも届かないのかもしれない。
あるいは、何か届きましたか?
そしてこれからは、どうなるのだろう。
やはり犯人は「外部」のものとして、自分の実感の伴わない場所(裁判とか軍による空爆とか)で裁かれ、そしてそれを生み出した罪をひとり背負わされる「家」(家族とかアフガニスタンとか)が「報復」されるのだろうか?
それとも事件は「内部」のこととして捉えられて、外国にいる私にはわからないけれど、実際にはなにか変わりつつあるのだろうか。
スペインのニュースは、やはり他人事なので、「その後」を伝えない。
仕事や電話のついでに少し話を聞こうと思った日本の知人たちも「その気持ち悪い話はしたくないんだけど」「日本の恥よねえ」ということで、語ってくれないのです。
初々さんの長屋又貸し日記
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1808
2008-06-02T01:01:40Z
2008-06-02T01:02:23Z
ずいぶんとお返事を書けずにいる間、京都は新緑の美しい季節になりました。 こ初々さ...
uchida
ずいぶんとお返事を書けずにいる間、京都は新緑の美しい季節になりました。
こ初々さんも毎日元気に外遊び。
たった1年前はベビーカーの上で寝たきりだったことがうまく思い出せないほどに成長しています。
「ひとんちの子の成長は早いのよねぇ。」とよく言われますが、自分ちの子の成長も早い!
たまーに日々同じことの繰り返しに果てしなさを感じてグッタリ疲れたりもしますが、ちょっとそこからユータイ離脱!?して眺めてみると、その時間のあっという間なこと!
そんな意味でも「目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです」とのカナさんの言葉、うんうん!と頷けます。
さて前回は、私が全く知らなかった「スペインジェンダー事情」の詳細を知ることができてとても興味深かったです。
スペインと比較したら、ほんの少し日本は「すすんでいる」と言えるかもしれませんが、どちらも「まだまだ女性がおかれている状況は厳しいものがあるのだな」というふうにも思いました。
それは社会的な立場という面からでも、固定化された性役割という面からでもなく、「女性運動で達成された『女性の生き方の多様化』によって、異なる生き方をする者同士の価値観が衝突し、それは時として熾烈なものとなる」という状況を「厳しいな」と思うのです。
カナさんが「そんな犠牲、私はできない」と言われた、「犠牲」という強い表現にも、その熾烈さをかいま見ました。
仕事をしながら出産・育児をするという選択肢ができたことによって、どちらを選ぶかはその人が(ある程度)自分で決めることができます。
その時その選択肢に対して100%納得ができていれば、他の選択肢を選んでいる人を羨んだり、妬んだり、あるいは攻撃したりせずにすみます。
しかし、その選択肢に100%納得できるということが少ない。
仕事をしないと決めれば「社会的な立場」やら「今よりもうちょっと多い収入」やら「経済的な生産性があるという自負」やらは諦めなくてはいけないという状況がある。
反対に仕事をすると決めれば、「家族(こども)と過ごす時間」やら「家事を完璧にこなすだけの時間」に足りなさを感じる。
そうすると時として自分の選択肢を正当化するために、他者を批判してしまうということが出てくるんですね。
「子どもの世話を人に任せて自分は好きなことしてるんだからいいわよね」とか。
「稼がないで家にいるのは気楽でいいわよね」とか。
それは個人的な資質に責任があるのではなく、その人に「そう言わせてしまう状況」が問題なのだというふうに私は思っています。
家庭内の労働(家事や育児)が経済的な生産性より低くみられる現実。
子どもがいても男性と同等に働くことが求められる社会。
もし家庭内の労働(家事や育児)に敬意が払われていれば、あるいは子どもをもつ女性がもっと働きやすい環境であれば、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持たずにすむはずなのです。
しかし、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持ちながら妊娠・出産をしなければならないというのが、まだまだ多くの女性が置かれている現実なのではないでしょうか。
その「何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚」は、どう考えても人をハッピーにするものではないですよね。
でもやっぱりお母さんには、ハッピーで機嫌よういてもらいたい。
私はそう強く思うんです。
お母さんがハッピーでなかったら、子どもだってハッピーじゃないですもの。
だから働いていないお母さんたちが、「今経済的な生産性がなくても、素晴らしくて楽しいことをしているんだ!」と思えるように。
一方働いているお母さんたちが、安心して働けて、より子どもと過ごす時間が充実したものになるように。
そう願ってやみません。
社会システムを変えていくことは時間がかかるかもしれませんが、いちハハとしてそのために出来ることはしたい。
育児って面白いよね、価値あることだよね、と言い続けることもそうですし、働くお母さんたちと交流を持ち続け、「何かあったら助けに駆けつけよう」という気持ちでいることもそうです。
「私は私、これでいいんだ」と閉じずに、異なった状況にいる者同士が助け合える関係を作っていきたいなぁというふうに思っています。
ゴヤについて
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1807
2008-06-02T00:59:20Z
2008-06-02T01:00:28Z
醜怪な男である。闘牛の牛のように分厚い身体。そこに癖の強い毛髪を頂く巨きな頭...
uchida
醜怪な男である。闘牛の牛のように分厚い身体。そこに癖の強い毛髪を頂く巨きな頭が載る。鼻梁は低く、半ばから急に盛り上がって小鼻が左右に張り出す。頬や顎が分厚い肉に覆われるなかで赤い唇と黒い瞳だけが爛々と、動物的な、生々しい光を宿す。
その生き様もまた、喜劇または思いっきり悲劇として描かれたのでもなければ、目を背けたくなるくらいのものだ。2世紀以上前のこととて年表程度の資料、それも不正確なものしか私たちには残されていないが、無機質な記述の行間からですら、隠しようのない上昇志向や権力志向、平たく言って「成り上がり」への欲望が溢れ出してくる。
では画家としての作品はというと、これまた決して美しくはない。時は18世紀、ポンペイ遺跡の発掘をきっかけに、ギリシャやローマの古代美術を模範とする新古典主義が主流となり、また芸術史上初めて「美学」という概念が登場した時代である。手の届かない理想へ向けて世の中が右へ倣えをしているときに、この男はひとり「リアル」を描き続ける。それは当然、多細胞生物である我々人間のひとつひとつの細胞膜の内側にも似て、「美」と呼ぶには憚られる、雑多な存在のざわめきに満ちている。
頼まれてもいないのに、あるいは頼まれたとしてもそうすべきではないのに、王の肖像にその愚鈍さまで克明に描き出す。繰り返すが18世紀である。画家が貴族のちにブルジョワなどのパトロンなしには生きていけなかった時代であり、芸術作品に表現者の内面や想像力を反映させることを是とするロマン主義の到来には、まだ百年も早い。
しかしこの「美しくない画家」に、スペインの多くの美術史の書籍がかなりの――明らかに他とバランスを失するほどの――頁数を割く。プラド美術館のガイドブックでさえ、「当美術館を代表する画家」という賛辞を、正面玄関に座するベラスケスではなくゴヤに捧げ、ベラスケスの2倍近い作品の解説を献じている。決して「巨匠」と呼ばれることない、この異色の画家に。
スペイン美術史上の「巨匠」といえば、ベラスケスである。16世紀末に生まれたこの画家は幼少時から絵に非凡な才能を見せ、11歳で、宮廷にパイプを持ちエル・グレコの良き理解者でもあった画家の工房に入る。やがてその娘と結婚し、順調にキャリアを積み、若干24歳で宮廷画家となる。『ラス・メニーナス』など中世的美の極致といえる作品を残し、マネによって「画家の中の画家」と讃えられる。ゴヤもまた、この男の例によってやや不遜な言い草ではあるが、「我が師」と評価している。
そのゴヤは「師」の約150年後、岩砂漠が広がるアラゴン地方に生まれた。父は鍍金師であり、ゴヤは11歳で、こちらは生計を助けるため父の仕事を手伝ったとされる。14歳で画家に弟子入りするが、とくに才能が認められたということもなかったらしい。王立サン・フェルナンド美術アカデミーのコンクールや、イタリア派遣奨学生の選考に応募しては、落選を続ける。やがて宮廷に出入りしていた同郷の画家バイユーと知り合い、まさか「師」の真似ではなかろうが、その妹と結婚する。
30歳を目前に、義兄の後押しで、マドリードの王立タペストリー工場のカルトン(下絵)描きという仕事に就く。タペストリーは壁の装飾用であり、テーマはすでに決められているのだから、今日的な意味での「芸術」というより職人の仕事、たとえば銭湯の富士山のペンキ絵に近い。これはゴヤを貶めているのではなく、18世紀という時代の話である。ベラスケスもまた、「職人」として発注されたテーマを描き、かつは画家としてではなく、宮廷の宿泊手配係という「公務」による疲労が原因で命を落としている。芸術に「自由」が入り込む余地などない時代だった。
晴れてマドリードへ出たゴヤは、上流階級の門をこじ開けんと、闘牛場に放たれた牛のごとく砂を蹴散らし猛突進を開始する。まず、スペイン美術界の権威として君臨していた新古典主義の代表的画家メングスの作風を忠実に模倣した作品で、王立サン・フェルナンド美術アカデミー会員の座を獲得。美学もポリシーもあるものか、欲望だけが彼を動かしている。貴族の肖像画を描きまくり、次第に王室に近づき、ついに43歳で宮廷画家の仲間入りを果たす。
「牛」はまた種牛でもあった。いや率直に、オスであった。妻に20回(スペインの資料では控えめに12回)妊娠させている。絵のモデルとの噂は枚挙に暇がない。しかしこれもまた時代が、そうなのである。ゴヤが仕えるカルロス4世は愚鈍な人物であり、実際にこの国を支配するのは王妃とその若き愛人宰相であることは、王ひとりを除き巷でも誰もが知っていたという。
ともかく、ようやく念願の地位に立ったゴヤの絶頂は、しかしほんの3年後に、絶望へと暗転する。大病の後遺症で、聴覚を失うのだ。
人間は言語のみでコミュニケーションをするわけではない。むしろ言語外のメッセージからこそ、より重要な意味を読みとる。そしてもっとも深い無意識は、もっとも表層にこそ現れるという。いかに美辞麗句を並べてみても、表情が一瞬にして、生理的嫌悪を含むすべてを明かしてしまう。
聴覚を失ったゴヤに、世界はどう映ったのか。修辞なしでは、拒絶は拒絶であり、蔑視は蔑視である。現在もなお続く貴族制度の下に生きるスペインの某研究者は、「成り上がりのゴヤは所詮、彼がその一員になったと思い込んでいた貴族たちからは、人間扱いすらされていなかったのである」と説明する。失意のどん底のゴヤに、人間たちの剥き出しのエゴが襲いかかる。しかしそれまで誰よりも欲望に忠実だったのは、他ならぬゴヤ自身だったはずだ。とすると、目に映るのは醜い自分自身の姿か……。
ここからゴヤは、「ゴヤ」になる。
誰に依頼されたわけでもなく、自分と、「いつか芸術という、かほどに困難な道を選ぶ若者たち」のための版画集『ロス・カプリチョス(気まぐれ)』を刊行。気まぐれとはすなわち「自由」である。自由! ゴヤは代表作の43番「理性の眠りは妖怪を生む」のデッサンに、こう書きつけていた。「理性に見放された想像力は、ありうべからぬ妖怪を生む。理性と結び付けられてこそ想像力は、あらゆる芸術の母となり、あらゆる驚嘆の源となる」。その言葉どおり、当時絶大な権力を有していた教会や宮廷を、想像力を駆使して痛烈に批判したこの版画集は、異端審問所の動きもあってか発売後すぐに回収される。
53歳、主席宮廷画家に任命され華々しく依頼された『カルロス4世の家族』では、画面の中心に呆れるほど人相の卑しい王妃が、宰相の子とされる王女・王子を庇うように立つ、その脇に意思というものをまるで感じさせない王が所在無げに佇む、というすごい絵を仕上げる。皇太子は事実そうであったように王妃から遠ざけられ不服そうに立ち、王弟は目の前の王の後姿を、いまにも食いつかんばかりに睨みつける。これで不評を買ったと言われ、爾後この王家からの依頼は一枚もない。が、この唯一の作品は、人間の内面を恐ろしいほどに描き出した、空前絶後の傑作となった。
ある時は、王妃の愛人でありながら公然と愛妾をもち、加えて浮気も日常茶飯事という、こちらも過剰にオスな宰相の依頼で、彼の私室用に、ヴィーナスならぬ生身の女性の匂い立つような裸体を、絵画史上初めて、異端審問所も恐れず描き上げる。
あるいはスペイン随一の大貴族であるアルバ女公爵に胸を焦がし、外国の資料では短期間ながら熱烈な恋愛関係を、スペインの資料では画家とモデルとしてのごく良好な関係を結んで、その肖像画に相々傘よろしく自分の名前を書き入れる……。
ゴヤは止まらない。
1808年、ナポレオン軍の侵攻により、スペイン独立戦争が始まる。腐りきったスペイン王制の下でフランス革命に代表される啓蒙思想に救いを求めていたゴヤは、人間への希望が裏切られたと感じた、のだろう。版画集『戦争の惨禍』にフランス軍とスペイン人ゲリラとの双方による残虐な行為を、冷徹な目で描き出す。あたかも、「理性に見放された人間は、ありうべからぬ妖怪になる」とでも言うがごとく。
なおスペイン語で「小さい戦争」を意味する「ゲリラ」という言葉は、正規軍の壊滅をうけ、組織されぬ個々人がそれぞれ武器を手に立ち上がったこのとき、誕生したとされる。時代の趨勢という圧倒的なものに流されず、あるいはうまく合わせられずに、気づけば絵筆だけを手に孤独な戦いをしている巨人ゴヤに、実にふさわしい言葉ではないだろうか。
やがてナポレオンが撤退すると、ゴヤは自ら戦勝記念画に取り掛かる。先には、ベラスケスの『プレダの開城』という名作がある。しかし彼はまたもやそんな歴史を無視し、王でも貴族でもない、巷の名もなき市民を主役に据える。ゲリラが生まれた『5月2日』、そして勇気ある彼らがはかなくも処刑される『5月3日』。いままさに処刑されようとする白いシャツの、薄汚れた蓬髪の男はしかし、ひとり光を放っている。まるで贖罪のための死を死ぬために人間として生まれた、キリストのように。
そして『黒い絵』シリーズが来る。70代になり、マドリード郊外の邸宅に隠棲するゴヤ。彼はその自宅の、あろうことかサロンやダイニングルームの壁一面に、人知れずこの一連の恐ろしい絵を描いていた。魔女が跋扈し、愚かな人間は終わりなき殴り合いに明け暮れ、哀しい表情の犬は静かに砂に埋もれゆく。これらこそ、老境に達したゴヤが描く、おそらく描かざるにいられない、ビジョンであった。
日本の鬼婆にでも喩えたいような男が、自分のしていることへの恐怖にか嫌悪にか大きく目を見開いたまま、すでに頭部のない幼児の腕を齧る『我が子を喰らうサトゥルヌス』。ある研究者は、自身の梅毒ため妻の20回の妊娠のうちたったひとりの子どもしか無事に成長させえなった、父としてのゴヤの姿だという。また別の者は、当初この絵に勃起した性器が描かれていたことに着目し、カニバリズムがテーマだと断言する。ゴヤの、おそらく意識的ではなかっただろう近代性、『カルロス4世の家族』にも存分に発揮された予言性に着目すると、ここに「子孫を自らの手で殺すような生き方を、わけのわからない恐怖に駆られてせざるを得ない」現代の私たちの姿を見い出すこともできよう。
やがて王政復古による弾圧から逃れるため、ゴヤは78歳でフランスのボルドーに移住する。最晩年の作品『ボルドーのミルク売り娘』は、人間かくあるべしとでもいうように、柔らかく温もりのある色彩に溢れている。そして82歳の春、故郷に思いを馳せつつ客死。
欲望に生きた男は、音なき絶望の深淵でひとり無意識や人間の愚かさに直面し、しかしそれを突き抜けて歴史の奔流を生き延び、やがて人間という存在への祈りを、おそらく彼にしかできない力強さと優しさで、行った。
1919年に帰国した遺体は、かつて彼自身が天井画を描いた礼拝堂に安置される。柔らかな色で彩られたフレスコ画の女の天使たちが、床に置かれた鏡の効果で地下から天空まで自由に遊ぶかに見える空間に彼が眠るという事実は、ひとり壮絶な戦いに生きて死んだ巨人ゴヤの足跡を震えるような思いでたどる私たちに、幾許かの安らぎを与えてくれる。
ベラスケスからアルモドバルへ
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1773
2008-04-29T06:41:16Z
2008-04-29T06:44:02Z
デ・シルバ。 そう呼んでも良い。いや、普通ならそう呼ぶべきだった。 スペイン黄...
uchida
デ・シルバ。
そう呼んでも良い。いや、普通ならそう呼ぶべきだった。
スペイン黄金時代の宮廷画家。
その完成された絵画技法は、後にこの国が生む巨匠ピカソをして「マエストロ」と言わしめ、幾点にも及ぶオマージュを捧げさせた。
代表作「ラス・メニーナス(女官たち)」「ブレダの開城」。
画家の名は、ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス。
アンダルシアはセビージャに生まれた「ディエゴ」君は、11歳で、地元にあったパチェコの工房に入る。
パチェコは宮廷に出入りしていた当時の有名画家で、たしかそのトレドの持ち家にエル・グレコを住まわせるほど厚い親交を結んでいたことで、現在の絵画史に名を残している。
やがてディエゴ君はその娘と結婚、「パチェコの婿」として堂々の上京を果たし、若干24歳にして、即位直後のフェリペ4世の肖像画を描くに至る。
画家としての最高位、のちにゴヤがその地位を手に入れようと四苦八苦して40代半ばでようやく手に入れた、宮廷画家の地位である。
ワオ、サクセス。
現在の私たちはそう思うが、おそらくディエゴ君は不満だったのだろう。
当時の画家は「芸術家」として崇められるなどということはなく、「庭師」や「大工」と同じ「職人」扱いである。
ディエゴ君が幾度となく描いた小人と同じ、いや、いやしくも廷臣として重用された小人よりむしろ「ラス・メニーナス」でその小人に蹴飛ばされている犬にこそ、近い立場だったかもしれない。
しかしディエゴ君は、6歳年少となる王から格別の信頼を得ることに成功する。
やがて、王の趣味であり、この無能な王がスペインになにかしら寄与したとしたらほぼその点においてのみという絵画コレクションの管理や、年間を通じて移動の多い宮廷の煩瑣な宿泊所手配などの事務職を任されるという、「栄誉」を賜る。
ディエゴ君がこの仕事をどんなに一生懸命やっていたかは、その死因が老衰でも梅毒でもなく、王女の結婚に伴う王室のフランス国境での滞在のアレンジによる疲労、ということからも推測される。
そんな、現在から見ると「涙ぐましい」ような努力の甲斐あって、ついにディエゴ君は、スペイン人にとって最も名誉なサンティアゴ騎士団に叙せられる。
これは当時の「アガリ」に等しい。
「ラス・メニーナス」の画面左に、大胆にも王の一家に交じって絵筆を手に立っているディエゴ君の、少し誇らしげに反らせた胸に大きく赤色で描かれている十字が、そのしるしである。
(もっとも十字を書き加えたのは本人ではなく、息子か弟だったはず)
そんなディエゴ君は、しかし、なぜ「デ・シルバ」ではなかったのか。
■美術史のリカルド教授は、こう云った:
「それは『デ・シルバ』という名字では、不利だったからですね」
ディエゴ君の生きた17世紀は文化面でこそ「黄金時代」と呼ばれるが、実際に生きるとして、果たしてどうだったろうか。
ディエゴ君が生まれる約半世紀前の1547年、現在もスペイン・カトリックの大司教がおわしますトレドで、「limpieza de sangre(血の純潔)」発布。
ユダヤ人やイスラム教徒の血が混ざるものは、公職に就けず、教会に入ることもできないとする法令である。
「純潔」なキリスト教徒に非ざれば人に非ず。
もし「純潔」でないと認定されれば、地位や財産を剥奪されても文句は言えない。
そのさらに70年ほど前に始まり、たしか19世紀まで続いた「異端審問」の補足版、あるいは強力改訂版というところか。
なんせ「異端である」と認定するのは手間がかかるし、さらに、拷問や火あぶりなどの手続を踏まなければならないのは作業効率の点において非常によろしくない。
一方「純潔でない」と認定する、つまり本人側が「純潔である」と立証するのはまず不可能であり、従って、それが本来の目的である地位と財産の没収を容易に完遂できる。
歴史上悪名高きスペインの「異端審問」だが、実際に処刑された人数はたしか他国と比べてそれほど多くなかったはずである。
それは「血の純潔」という補完システムが「有効に」機能していたからではないか。
異端審問が始まった1475年は、スペイン統一を目前に控えた時期。
この制度の狙いは、半島最後のイスラム教国である対グラナダ戦への戦費確保、キリスト教というイデオロギーによる国内統一、地位剥奪による強力な王権の確立、そして国民の不満のはけ口だったといわれる。
翌年、「Santa Hermandad(=聖なる兄弟愛)」という名の市民警察が発足。
市民は「異端審問=正統なキリスト教徒であること」と市民警察の「ふたつの聖なるもの」に挟まれ、息をひそめて暮らすことを強いられた。
いつまでか?
おそらく1975年、キリスト教の庇護者として強力な警察機構のうえに君臨したフランコの死までである。
そして現在もまた、この国のカトリック熱が最高潮に達する聖週間のプロセシオン(神輿行列)に感極まって涙を流す人々の姿に、ひねくれた外国人の私は、「よきキリスト教徒であることへのデモンストレーション」という要素、それをせずには生き延びることができなかったこの国の「聖なる」歴史的背景を見い出してしまう。
1492年、後に「カトリック両王」と呼ばれることになり現在もこの国で事実上禁忌となっているイサベル女王・フェルナンド王によりスペイン統一完了、同時にユダヤ人国外追放令発布。
1547年、カトリック両王の息子、「神聖ローマ帝国皇帝」の椅子を手に入れるため新大陸産の富を盛大にばら撒いたと言われるカルロス1世治下に「血の純潔」施行。
この10年後には、前年に即位したばかりの息子のフェリペ2世により、記念すべきスペイン第1回めの破産宣告が行われている。
さらにその6年後の「宗教改革」では、全国で100以上の修道院が閉鎖され、租税権を取り上げられている。
まるでゴヤの描いたサトゥルノのように金と権力とを貪り喰らう「世界帝国」のお膝元では、もはや、本来それを守るという名目であったはずのキリスト教徒であるというだけでも安心してはいられない状況になっていた。
いつ自分に向かって牙を剥くかわからない凶暴な「聖なるもの」に挟まれて生きる日々。
1588年、スペイン無敵艦隊がイギリスにまさかの敗北。
1596年、全国に疫病が蔓延。
もうこの国はダメなのかもしれない。
「聖なるもの」の間に挟まれ決して口に出せずともそういう気配が、濃厚に立ちこめてはいなかっただろうか。厚くのしかかる、閉塞感。
1599年、ディエゴ君誕生。
まずい、と思った。かもしれない。
若くしてすでに圧倒的な画才の片鱗を見せていたという少年ディエゴ君。
彼の父親はポルトガル人である。
胸を張って「古くからの正統派スペイン人」と言える北部スペイン(つまりレコンキスタの発祥地)とは、ちょっと離れすぎている。
しかもその「デ・シルバ」という名字ときたら、誰が聞いてもいかにもポルトガルだ。
(なお、レアル・マドリードに長らく所属していたブラジル人サッカー選手の「永遠のマルコメ小僧」ロベルト・カルロスの名字が「ダ・シルバ」である)
その点、母方の姓「ベラスケス」は良い。
(美術史教授リカルド曰く)北の方を髣髴させる。
しかも母はイダルゴ、(ドン・キホーテと同じで名ばかりとはいえ)れっきとした郷士である。
うん、「ベラスケス」が良い、この「聖なる」スペイン社会で栄達を望むのならば。
「聖なる」……。
スペイン社会は21世紀の現在、キリスト教の庇護者フランコの死後30年を経た今日でもなお、「聖なる」部分を少なからず残す。
私が通った、スペインでもっとも権威あるといわれるマドリード・コンプルテンセ大学。(十万を超える生徒数も世界有数だが)
かつてオルテガ・イ・ガセーも教鞭を執ったこの大学で正教授になるには、「よきキリスト教徒」でなければならない。
なんせ「正教授」とはスペイン語で「Catedora'tico」、カテドラル=大聖堂と同じ語源であることは一目瞭然。
実際に、社会からの「聖なる」圧力に屈せず教会婚ではなく市民婚を選んだ、まだ40代の歴史学教授フェルミンは、妻の実家から離縁され、大学での出世の道も断たれている。
なた数年前の、皇太子と離婚歴ある女性との結婚の際も、「でも彼女の前の結婚は市民婚だからカトリックとしては今回が初めての結婚」という「解釈」を、誰もが暗黙のうちに受け入れていた。
だからリベラルもフェミニストも、コンサバも、当初は強く反対していたというギリシャの王家出の現王妃も、この結婚を笑顔で祝福したのである。
ああ、スペイン社会は、かくも根強く「聖」である。
ディエゴ君は、かなり早い時期から「ベラスケス」とサインしていたという。
彼が、王に画才を認められ宮廷画家となるだけでは満足せず、現在から見ると涙ぐましく、その素晴らしい絵と比すると滑稽に、あるいはあさましくさえ見える努力を払い、そして神から類い稀なる才能を付与られたその命を縮めてまで、社会的な「地位」をも手に入れようとしたのはなぜか。
その弟だか息子だかが、王一家と同じ画面に収まる家長の胸に赤色のサンティアゴ騎士団の十字を、明らかにバランスを失するほど大きく描き込んだのはなぜか。
やがてベラスケスとして歴史に名を残すことになるディエゴ君が、セビージャの街を洟を垂らしながら駆けまわっていたとき、マドリードで一冊の本が出版される。
『素敵に愉快なラ・マンチャの郷士ドン・キホーテ』。
時代錯誤な夢想?
いやそれは「時代を映せない」ことできわめて雄弁に時代を映す非現実、ではなかっただろうか。
そこには「聖ならぬもの」が溢れている。
19世紀、ゴヤの「黒い絵」はどこから来たか。
20世紀、ダリはミロはピカソは、なにを描き、なにを描かなかったのか。
21世紀、アルモドバルは……。
クリエイティヴ・ライティング宿題です、先生!
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1755
2008-04-15T00:06:28Z
2008-04-15T00:08:11Z
数年前その著作を読むや熱烈なファンになり、以後結婚式の車に引かれる空き缶よろし...
uchida
数年前その著作を読むや熱烈なファンになり、以後結婚式の車に引かれる空き缶よろしく愚にもつかないことをガチャガチャ喚きながら必死で追いかけ続け、今やその(当初読み方もわからなかった)名を耳にしただけで反射的にありがたやと東の空を拝んでしまうほど尊敬する師が、教鞭を執られる授業で、「宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します」とのたまわれたといふ。されば三十路半ば子持ちシシャモ体型の私もしてみむとて、我ながらいたいけな心持ちで縦書きエディタを立ち上げ画面に現れた原稿用紙風の桝目を眺めやり、ほなあてもパン屋にでも、いやいやここは「パン屋にもたどり着かない」場面でも書きまっかいななどと嫌らしいことを下卑た顔して考え、ほくそ笑みながら文頭に一文字アキを入れたところで、しかしなにかに引っ張られて手が止まる。東の空へと飛翔するのがエロスならば西の地底へ引き摺り込もうとするタナトスが、二着確定でその夜の帳尻が合うという最後の半荘で断トツリードの一着目に向かっていきたくなる軽忽さが、とりあえず巨人よりは阪神、ストロベリー・ショートケーキよりはフランボワーズ・ブラマンジェ、ポールよりはジョン、トシよりはマッチ(っていつだよ)、だけどひとまわりしてビートルズも百恵もフォーエバーな安っぽい反骨精神が、俺の肘を引いている。ああ止めてくれるなおっかさん。わちきも齢三十四、江戸時代なら大年増、平成の世でも高校球児ふたり分のええ歳こいたおばはん、そろそろ万年野党みたいな僻み根性は捨て去り恥ずかしながら裸で土俵に立つ覚悟、たといこの身が世間の晒し者になろうとも。かく覚悟を決めるや、足元でジタバタのたうつ棚と酢をむんずと押さえ込み、懸案の「宿題」にとりかかる。だって、そうよ、愛するひとに愛していると言っちゃいけないの? ライバルも多いあの憧れの人が、「授業中に手を挙げて俺を好きだってもし言えたら、抱いてやーるぜー」なんてシブがき隊よろしく(だからいつだよ)低いハードルを設定して待ってくれているのよ。在スペイン日本人の皆様に一服の涼を与えんがためアホの坂田歩きを本気でやれる私にとって、ひでえ駄文もち売文稼業を恥ずかしげもなく営んできた私にとって、師からの「宿題」の提示はこれを奇貨としてまた一丁グァラングァランと騒ぐべし騒ぐべし寿ぐべしな出来事でこそあれ、反骨だの豚骨だのそげなこつの出る幕ではないはず。ああ、だのに。
そうしてしおしおとエディタを終了させる自分の姿までを思い浮かべてみて、やにわに文頭の一文字アキ以降をローマ字変換でカタカタと埋めゆく、その手つきのなんと傲慢なことよ、その文のなんと欺瞞に満ちていることよ。師よ、我が私淑するグラン・マエストロよ、んでもって大家さま。こんなことでいったい私はクリエイティブなライティングができるのでしょうか。いっそ筆で立つ夢は捨て独創的な照明術でも学んだ方がよかでしょか。と、こうして指定の下限六百字に達すべく悪あがきに悪あがきを重ねたところでようよう気づく私は天下無双の粗忽者。「宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します」って、スペインくんだりにいちゃどうせ聴講なんてできやしねえ! かくして、背後のひとへの呼びかけに間違って大声で答えてしまったような、授業中に寝惚けてこともあろうに先生に「お母さん!」と言ってしまったツレアイの同級生の何某君のような、気恥ずかしさと真っ赤な面とをそっと、百恵ちゃんのラスト・コンサートのようにステージの上に置いて、店子は失礼つかまつりまする。今回はこれにて! ニンニン。
スペイン・ジェンダー事情
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1744
2008-04-08T00:51:11Z
2008-04-08T00:54:26Z
こ初々さん、1歳のお誕生日おめでとうございます! 地球がニューカマーな彼女を乗せ...
uchida
こ初々さん、1歳のお誕生日おめでとうございます!
地球がニューカマーな彼女を乗せてびゅーんと太陽のまわりをひとまわりして、ついに戻ってきたんですね。
ヤアめでたいなあ、パチパチパチパチ!!
返信を書きそびれているあいだに、こちら、マドリードは春たけなわ。
葉桜ならぬ葉アーモンドが優しい影を落とすニーニャの保育園では、今週、「日本旅行」があります。
みんなで他の文化について知ろうね、という、園の微笑ましい定例イベントです。
「旅行」先は園児の出身地で、先月はエクアドル、先々月はバスク地方、その前はブラジル。
なにか日本らしい遊びをひとつ、ということで、「じゃんけん」を提案します。
スペイン語では「piedra(石), papel(紙), tijera(鋏)」、かけごえも同じで「ピエドラ、パペル、ティヘラ!」。
この3者に絶対的な勝者はいません(って、わざわざ言うようなことでもないですが)。
スペインでは「石は鋏を砕くが紙に包まれ、その紙は鋏に切られ……」と説明します。(日本でもそうでしたっけ?)
それぞれが勝つ要素も負ける要素も持っていて、それは相手次第という相対的なもので、その関係をつなげてみれば「円」になっている。
なにかあいまいなものが互いに関係しあいながらゆらゆらぐるぐる終わりなくまわりつづける、というの、すごく日本的な発想だと思ったんですよね。
(考えたら日本の通貨が「円」というのも、交換を目的とする貨幣の名称としてなかなかナイスですね)
初々さんの書かれた、「ひとつの関係のなかに、贈り、贈られる関係を作ることが、自分と相手を自由にするのかもしれない」という文章、すっごーく素敵でした!
じゃんけんを繰り返すうちに勝ち負けじゃなくてそれ自体が楽しくて仕方なくなってくるのと同じ? なんて、またしてもごく手元にひきつけて思ったりしてます。
そういえば「私がそこからすべてを学ぶであろう」麻雀も、総数では常に一定の点棒を、4人で贈与しあうんですよね。行ったり来たり。
また「関わるその人の中に贈り物を見つけるのは私次第」という文にも、ハッとしました。
そういえば、作者は死んで、テクストは読者において生成的に編まれる、のではなかったかしら。そうだ、
■ マエストロ内田樹はこう書いた:
「『作者』の治世が終わるとき、テクストは読む人=書きこむ人(※カナ註:ロラン・バルトによる述語で、「集合的なテクスト生成への参加者のひとり」という含意をもつ。同書の説明より)の主体的選択にもとづいて、そのつど新たに構成されるものとなる。」(現代思想のパフォーマンス、p84)
そうであってこそ、この「かかわり」が、「一回的で創造的な行為」となる。
子どもに対しても同じですね。
「それだけパン食べたらもう炭水化物は充分だから、ビタミンも摂っときなさい、ほらお野菜あーん」とか、「やっぱり晴れた午後は公園で健康的に遊んだ方が」とか。
ついそういう考えに圧されるのですが、でも「ええーっと、この場面ではこう振る舞うのが『正解』の読みなのだろうか」ってことばっかり考えてて、楽しいわけない。
麻雀だって、うっかり「セオリー」なるものに頼ると、たいがい点箱も精神状態も惨憺たる結果になるものです。
どこかの「作者」が決めた「正解」がある、っていうのをサッパリと忘れて、あるいはそう思わせようとする社会の「罠」をエイヤッと振り切って、目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです。
ところでスペイン社会の「罠」のいくらかは、こちらに外国人として居ると、チラリ見えたりします。
たとえばママたちが出産・育児を語るときの言葉遣い。
小児科の待合室で隣り合ったママに「15ヶ月で、まだ授乳してます」と話すと、まるで墓場から出てきたゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたうえ、「いや、そんな犠牲、私はできない」と、全身でひどく拒否されました。
鼻くそほじってても勝手に湧いてくる乳を含ませるだけのことにsacrificio。
私は私で、ヒトダマ見たくらい魂消ました。
しかし考えてみると、どうもこれが出産・育児に底流するもっとも強いイメージのようなのです。
出産準備教室で「妊娠前のキャリアの中断」はまあわかるとして、「妊娠前と体型がどんどん変わる」という(私からすると)些細な理由でうえうえ泣くほどナーバスなひとが多かったこと(「いまナーバスで」というひとが15人中13人。って、ノーテンキなふたりのうちひとりは私だし)。
「痛いことはできるだけ我慢・受難せずにサッサと終わらせる」無痛分娩が9割以上なこと、産科で隣り合った女性に日本の自然分娩を話すとやはりゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたこと(「私には絶対無理、さすがサムライの国ね」なんて、ハラキリ扱い)。
1歳児健診で「まだ保育園に預けてないの? まだ母乳あげてるの? まるで第三世界のやり方ね」と言われたこと、そう言わせるくらいに「生後数ヶ月で断乳・保育園に入れてママは社会復帰」が「常識」であること。
ご存知とは思いますがスペインは1975年までフランコ治下にあり、いわゆるカトリック的家族観における「良妻賢母」が(非常な圧力とともに)女性の規範とされてきました。
当時各家庭に配布された「女子こうあるべし」のプリントには、「夫の外出時には、どこへ、また何をしに、あるいは何時までなど、はしたないことを訊いたりせず、黙って笑顔で送り出しましょう」等の「模範的」な姿が、イラストとともに説かれています。
というのは文字を読めないひとも少なくなかったからですね、簡単な計算ができれば女に学問は不要、もちろん男に伍して社会参加なんぞもってのほか、ですから。
そして道徳上ではなく法律上においてまで、妻の重要な行動(労働契約はもちろん、銀行口座開設から長期旅行まで!)には夫の許可が必要とされていました。
こうして夫や社会からの理不尽な(有形・無形の)暴力を受けつつも、「権利」のなんたるかも知らないまま、女同士でひっきりなしに「くだらないこと」を喋り、夫が友達とバルで飲みカード遊びをするあいだに子どもたちにごはんを食べさせ、畑でロバを追い汗を流して働きながらそれでも笑い声を絶やさず、夜は熱心に神に祈って寝る。それが田舎の典型的な母親の姿でした。
母親の死後に作られた『オール・アバウト・マイ・マザー』をはじめとするアルモドバル監督作品には、そんな彼自身の母、ひいては女性一般への思いが描かれている、と言われています。
フランコが死んで新憲法が制定されたのが78年、離婚が認められたのが81年、母体の生命を脅かすなど特殊な場合以外の中絶が認められたのは92年。
いかにも「民主化」は遅いですが、なんせスペインはなんでも「やりすぎ」なくらいやっちゃう国なので、現在では、30代・40代前半を中心に、(経済的な理由および)自己実現のため結婚後も女性も働くケースが圧倒的多数です。
それを象徴するかのように、2004年に成立し現在も続く労働党政権では閣僚の半数が女性。
とはいえ、離婚成立に「1年間の別居=考え直させる期間」が不必要となったのはようやく2005年。もちろん教会は現在でも離婚を認めていません。
スーパーに行けば、一見仲良く買い物をしている夫婦が、「またパセリ買うのか! まだ残ってただろ」「冗談じゃないわ、いつの話よ!」と喧嘩しているのもよくある話。
これは、財布を夫が握っているからなんですね。
共働きが圧倒的に多いとはいえ、財布は夫、一方で家事・育児のほとんどは妻の担当。
なんでもスペイン人女性の「実働時間」は世界一という調査結果が出たとかで、先日テレビで「スペイン女性は『スーパーマン』であらざるを得ない」とレポートしていました。
男と伍して働き、夫や社会からのサポートなしで育児をしなければならないスペインのママたちの、それが実状のようです。
最近では10組のうち4組が離婚するそうですが、大学の社会学教授はその理由を「独身時代には男女平等の生活を享受してきた女性が、結婚するやいなや旧態依然の『妻-母』の役割を求められ、それに幻滅するから」と分析していました。
「犠牲」というあの激しい言葉遣いは、思想上はウーマンリブ的自己実現賛美から出てきたかもしれませんが、それがいまだに特別な力を持ちつづけている背景には、このような当地の社会状況があるように思われます。
(とはいえ、「犠牲」と言い続けている限り、出産・育児はますます「犠牲」色を強めるだけなのですが)
30代・40代女性の喫煙率が異常に高いこと、若者の「初性交」平均年齢は14歳で、初煙草はそれ以前、初ドラッグはさらにそれ以前と言われること(ドラッグで性交不能となることを恐れてバイアグラを使う少年たちが社会問題に……)。
これらが長年にわたってこの社会を(カトリック的家族像における)「父」として統治してきたフランコへの反動だとしたら、おい、おっさん罪なことしたなあ、と思います。
「いい? これはね、自由の象徴なのよ」と、しゃがれ声でうまそうにヤニを食うおばさんに、へそくりが横領とみなされないような「亭主元気で留守がいい」国からきた外国人の私は、なにも言うことができません。
おっと、今回はテーマがずれました、ごめんなさい。
後日談。
じゃんけんは、鼻ピアス保育士バネッサが幼少時から(日本発祥とは知らず)親しんでいたということで、彼女が調べてきた「だるまおとし」に変更となりました。
ちなみにじゃんけんはなにかを決めるためではなく、それ自体を何度も何度も、単純にゲームとして楽しんでいた、すっごく大好きだったわ! とのことです。
日本的、というより、すぐれて「人間的」な遊びなのかもしれないですね。
今日からニーニャは保育園
tag:nagaya.tatsuru.com,2008:/yukawa//20.1662
2008-01-18T10:53:07Z
2008-01-18T10:55:34Z
あけましたね、おめでとうございます。 今年も「うろうろママ交換ブログ」、よろしく...
uchida
あけましたね、おめでとうございます。
今年も「うろうろママ交換ブログ」、よろしくお願いいたします。
今月からニーニャは、保育園に通いはじめました。
初日の朝、保母さんの腕に抱きとられたニーニャは、泣いて泣いて泣いて、げえげえ吐きました。
その午後、やはりごんごん泣きながら先生に抱えられて出てきたニーニャを見たとき、すごく感動したんです。
「あっ、生きてたーっ!」って。
ひとしきりムフフフフとよろこんでから、ハッとしました。
いえ、慌てていた私が下着を前後ろ逆につけていたことに気づいたからではありません(それは帰宅後に気づきました)。
ハッとしたのは、ということはつまり、私はちっともニーニャの生命力を信じていなかったんだ、ということに気づいたからです。
正直、彼女にはまだ保育園なんて無理だろうと思い、いつ「迎えに来てください」の連絡が入るかとずっと携帯電話をチラ見してました。
ぶじに帰ってくることはまずあるまい、とすら、振り返れば思っていたようです。
なんせ家では2時間おきにおっぱいを欲しがり、離乳食も小鳥のようにしか食べないんですから。
それが、初めて放り込まれた「親なし・赤ちゃんいっぱい・スペイン語のみ・保母さん鼻ピアス(まあいいんだけど)」な環境で、泣きに泣いたとはいえ、手元の献立表によると「野菜のポタージュ、牛肉のソース煮、ヨーグルト」をもりもり食べ、長時間おっぱいなしで、元気いっぱい、お迎えの時間まで過ごしていた。
ああ、私が知っている(と思っている)のは、常に「昨日までの彼女」なのだなあ、と、つくづく思いました。
しかもその夜、はじめて歩いたんですよ!
そのときの顔の、まあ誇らしげに輝いていたこと。
もう、完敗です。
さて、初々さんからのお手紙、またまたとても楽しく、へええと拝読しました。
「拒否」に傷つくのは、それだけ愛情があるからかも、なんですね。
あの、特に名前を伏しますがごく近しいひとが悲しいほどの阪神ファンで、かのタテジマが試合に負けるたび、「俺が中継聴いたからアカンかったんや」とか「ああ今日せっかく中継あれへんかったのについ気になってネットで途中経過見てもうたからや」などと、どう考えてもありえないことをわりと真剣にブツブツ唱えたりするんです。
同居人として、ちょっと迷惑です。
そっか、ここには、「理解不能な事実になんとか理由付けをしたいが、よくわからないので、とりあえずいちばん簡単な『自分のせい』にしてしまう」という、まるでDVな家庭に育つ子どものような考え方に加えて(おそらく阪神最弱時代に長らく「報われない」ファンだったからでしょう。近年の優勝はスペインに来てからだし)、タテジマへの強い愛情、その返す刀で「阪神ファンとしてのspecial one」でありたいという願いもあるのかもしれないんですね。
まあ、ことがタテジマに関してなら笑って済ませられますが。
(ツレアイだってそう本気じゃないハズだし。いやどうかな……)
私もまた、保育園から元気に帰ってきた娘を迎えて、ちょっと寂しくなったりもしていました。
そっかそっか、お前はもうカアチャンなしでも生きていけるか(←極論。明らかにスネてますね)。
こうやってゆるやかに「拒否」されても、傷つかないありかた。
「相手が私に依存しないでも、(できれば「依存しない『からこそ』」)、満ち足りていられる」、そういう人間関係のありかたをこれからは子育てをつうじて学ぶのかなあと、いま思いました。
まあそうそう急に「できた人間」にはなれないでしょうから、ひとまずは初々さん方式で、「いやあ、けっこ寂しかったりしちゃってね」とか「阪神また負けよったわ」と、朗らかにことばに出すことで、ていねいに葬ることにします。
半端者のためのとりあえずの処方箋、すごく助かります。
では、バルセロナ近郊の、リゾート地としても名高い地中海沿いの町にお住まい(いいなあ)のカルロス先生の、今日のおことばを。
> お母さんの側には常に、逃げ場や慰め、希望といったものが用意されています。
場面は変わらず、食卓での攻防です。
子どもが、お母さんの愛情たっぷりの料理を、ときによっては泣き叫んで「拒否」する。
こころあるお母さんは「かわいそうに、私のせいよね、きっとこの子にひどいことしてるのよね」と胸をいためるでしょう。
それに理解と同情を示しつつ、カルロス先生は「でも、」と続けます。
> あなたには過去があり、未来があって、趣味なんかもあり、そして仕事もあるかもしれません。さらに、それが本当かどうかは別として、ともかくあなたには、いま起こっていることを説明するための『考え』がある。加えて、どんなに絶望でどん底の気分のときだって、『だって、みんなあの子のためなんだから』と自分に繰り返し言い聞かせることができるのです。
> そのうえあなたには、『希望』がある。なぜなら、あなたは知っているのだから。子どもたちは大きくなったら必ずひとりで食べることを、だからこういう時期はほんの数年しか続かないことを。
母は強し。
って、使い方間違ってますね。
一方で子どもは、と、カルロス先生は思いをめぐらせます。
過去の思い出も、そこから生まれる未来像も、自分の行動を正当化する合理的説明もない。
「そう、お子さんには、あなたしか『ない』のです。」
ああ、今日も泣かすぜカルゴン(カルロス先生の苗字はゴンサレス)。
親の頭の中にある「栄養のバランス」「顎の発達」「規則正しい生活習慣」、そういう「正しい」理由はあくまで自分自身のためのものであり、間違っても「子どものため」ではない。
だから、子どもにたいして、なにもしてはならない。
というわけではまったくないのですが、この「親の強さ」を常に意識しておくことは、子育てにおける大切な節度かもしれないですね。
愛情もある。
「正しい」理由もある。
でも、あなたには「自由」がある、ということ。
って、あっこれ、インターネット持仏堂での質問、そのままかも!
ヒモ志向のアンポンタンセニョーラへの釈住職と大家さんの滋味あふれるおことば、ぜひご一読をおすすめします(質問68・施しって何?)が、ポイントは、「贈り物というのは、贈り手の心構えが問われるものである」というところ(たぶん)。
受け取った相手を「自由」にする贈り物ができるような「大人」に、私もなりたいです。
居候日記その3
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/yukawa//20.1616
2007-12-07T06:51:34Z
2007-12-07T06:52:06Z
カナさん、みなさん、こんにちは! 私のほうもすっかりとご無沙汰しているうちに、な...
uchida
カナさん、みなさん、こんにちは!
私のほうもすっかりとご無沙汰しているうちに、なんとニーニャちゃんは1歳のお誕生を迎えましたね。おめでとうございます!!
こどもを産んでから、自分のこどももよそのこどもも関係なく、その成長を心から楽しみ、喜ぶようになりました。
今までは想像力が足りなかったのかなぁ、なんとなく「こども?自分とは関係ないや。(というより、関わり合いがなさすぎるよね)」と思っていた節がありましたが、いまやどの子をみても「自分とは関係ない、とはとても思えない」。
どうも赤ちゃんを授かって、「(余計な)お節介」度がアップしたというか、よく言えば人間力をアップさせることが出来たように思います。
さて、「この『余計なもの』、いったいどこからやってくるのでしょうね」というカナさんの疑問について、私も少し考えてみました。
離乳食を「食べない」が「食べてくれない」と言葉を変え、最終的には子どもから拒否されたように感じて「この子は私が嫌い」と受け取ってしまうという落とし穴、実は臨床において看護師がよくはまってしまう落とし穴でもあります。
例えば患者さんに、怒鳴られたり、誹謗中傷されたり、あるいは暴力をふるわれたとき。
明確な理由があるときは別ですが、たいていの場合は「たまたまそのときムシの居所の悪かった人のそばに、たまたま居合わせてしまった」だけにすぎない。
つまり天災のようなもので、「運が悪かったんだよね」と思うのがまっとう。
「私のどこがいけなかったんだろう」とか「私のことが気に入らなかったんだろうか」などと考えて、事実を「個人的に受け取らない」ことがベストです。
ということが頭では分かっていても、いざ自分がその立場になると、個人的に受け取ってしまって、うじうじするもの・・・
何ででしょうね、個人的に受け取っていいことはなにもない(ように見える)のに。
自分で自分を責め続けて、いいことはなにもありませんよね。
しかしよく考えてみると根の深い問題なのですが、事実を個人的に受け取ってしまうことの背景には、おそらく「私は、彼(彼女)の、special oneである(ありたい)」という思い込み(願望)があるのではないでしょうか。
なぜならもし事実を個人的に受け止めず、「誰がその場に立ち会っていても、同じ結果だったよね。」と思ってしまったら、「彼(彼女)にとって、私はspecial oneではなく、その他大勢」であることを認めてしまうことになる。
それを認めたくないがために、「いや、私だったから、こうなったんだ」と個人的に受けとめてしまう、そういう「からくり」があるかもしれません。
でもそれが全面的に悪いことだとは、私は思いません。
もちろんそれが行き過ぎてしまうと病的ですし、看護に関して言えばチームで関わっている以上、「私が」とばかり言っているわけにいきません。
またそれは「バーンアウト」にゆくゆくつながっていくことになってしまいます。
しかしながら要は程度問題、ということになるとは思いますが、「それ」(=special oneである、ありたいという思いこみや願望)がなければ、とたんにケアや育児が困難になるのではないでしょうか。
だって、「誰が関わっても一緒だよね」という人にお世話されたいと思いますか?
あるいは「別に私じゃなくてもいいんだよね」と思いながら、他者に手をさしのべられますか?
看護や介護の援助関係においても、親子の関係においても、匿名の関係などあり得ないのだと思います。
ただ、どうしたって個人的に受け取ってしまうことから逃れられなくとも、そこからどうまた関係を立ち上げていくか、というところにその人の知性が深く問われるように思います。
自分を責め続けて関係を閉じるのか。
新しい物語を作って、未来へと関係をつなげていくのか。
「離乳食を食べてくれない。私のことが嫌いなのだろうか。」という思いがふと頭をよぎっても、「いいやそんなわけはあるまい。きっとお腹がすいていなかったんだろう。今度はおっぱいの前に離乳食をあげてみるか。」と思い直すことができれば、それでいい。
そのように試行錯誤できるのは、人間の持つ知性のなせる技なのだというふうに私は感じています。
それから。
患者さんに怒鳴られるにしても、赤ちゃんが離乳食を食べないにしても、形としては「拒否」なんですね。
この「拒否」というもの、人間には相当こたえるものなんだと思うのです。
「個人的に受け取るな」という理性が働く前に、ダイレクトに体へくいこんでくる、そういう「傷つく」体験なのではないでしょうか。
ですから私は、「そんなことくらいで傷つかない自分をつくる」という方向へ努力するよりは、「そういうものだ。(傷つくものなんだ)」と思うようにしています。
なぜなら傷ついた自分を、「それは自分がなってないからだ」といってまた責めてしまう、そんな自罰の輪をぐるぐるとまわりたくないからです。
できれば、「いや~不覚にも傷ついちゃったな。まぁ仕方ない、そういうものだ。」と思ってやり過ごしたい。
そんなふうに今は考えています。
だなんて、頭の中でごちゃごちゃ考えすぎちゃいますけれども。
「しんどい」日々を通り過ぎ、今や人目もはばからずにメロメロチュウチュウですとのカナさんの言葉、同感です。
目の前のいのちの愛おしさが、なによりもまさる。
それは本当に幸せなことだなぁと思います。
でも、時にはどうしようもなく自分の感情が巻き込まれ、イライラしたり、悲しくなったり、嫌になったり、そういうネガティブな感情も抱くものです。
(看護は感情労働だと言われていますが、育児も同じ側面があると思います。)
そんなときに現象やら自分の感情を相対化して言語化できるというのは、ひとつの能力だというふうに私は思います。
ときには言葉もなくメロメロになり、そしてときには目の前でおこっていることを言葉にして自分を支えたり、他者と共有する。
そんなことをよいバランスでできたらいいなぁと、心から思うのです。
生きてりゃそれでオッケー
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/yukawa//20.1615
2007-12-07T06:45:46Z
2007-12-07T06:49:07Z
たいへんご無沙汰してしまいました。 折よく結婚10周年を迎える直前に3連休となり...
uchida
たいへんご無沙汰してしまいました。
折よく結婚10周年を迎える直前に3連休となり、こいつぁ一丁ニーニャに初めての海でも見せるかと陸路350km、車を転がしてバレンシアまで行ってきました。
東京からだとほぼ名古屋に相当するこの町が、マドリードからいちばん近い海なんです。
晴天の下、海辺はそぞろ歩きのひとでたいへんな賑わい。
ジーンズの裾をたくしあげ、ニーニャを抱き上げて波打ち際へ進み、その「大きめのいなり寿司」くらいしかないプヨプヨあんよを海に浸け、た瞬間、まんまと号泣。
「あらあ、海は怖くないのよ」と、してやったりの顔で言い聞かせる私たちに、通りすがりのおばさんが一言:「そら、冷たいんやわ」。
考えれば11月、隣でドイツ人と思しき家族連れが真っ赤な顔で泳いでいたのでうっかりしていましたが、たしかに自分の足を浸してみれば、地中海とて単に冷たい冬の海。
またしても親の身勝手を反省しつつ引き上げてきたのですが、その直後に引いた風邪がグズグズといまも続いているのでした。
相変わらず、しょうもないことばっかりしています。
ほんと、結婚・出産・子育てを経て、私もどんどん変えられているなあと思います。
たとえば、妊娠の可能性がでてきてから授乳中の現在まで丸2年、ほとんど薬というものを飲んでいません。
その間、39度の熱が出たり、ノロウィルスにやられたり、今回のように頭痛・鼻水・咳などはしょっちゅう。
でも薬なしでも、死んでいない。
風邪薬を、予防も含め常用するツレアイと比べても、たいした差はなさそうです。
これで2年間できたのだから、たぶんこれからもこうやっていけそう。
あまり身体の強くない(はずだった)自分に、薬に頼らない生き方ができるなんて、以前は思いもしませんでした。
「生きた子どもという大自然」、素敵なことばですね。
自然、とかじゃなくて、それはもう「大自然」。
なにがほんとうにいいかなんて、人間である私ごときにわかるわけなどない。
人間には大迷惑な地震も、骨盤、じゃなかった、地球がプレートの歪みを直すのに必要なように、親から見たら「なんスか、それ?」も、子どもには必要なのでしょうね。
いま、ニーニャはしきりに家中の埃を拾っては食べているのですが、それも、「21世紀に生きる人間」として必要な免疫を作るため、あえて生活圏の雑菌を取り入れていたりして。
雑菌や風邪を「不純なもの」として排除するんじゃなくて、「そういうのもあるのが世界で、『私』はその一部」と考え、ほなぼちぼち「ご近所づきあい」してみるかと穏やかに構えるというのも、やはり、以前は思ってもみないことでした。
この調子で、「一方的によかれと尽くしてはバーンアウト」しがちだった性向も(そうか、そういうメカニズムだったのか!)、よりまろやかなものになるよう、願っています。
さて、柔和なお顔にお髭がもじゃもじゃ、カルロス先生の今日のことばを聞きますか。
> 可哀想に、子どもたちはしばしば間違った、そして感情的な争いに巻き込まれてしまっているようにみえます。食卓での攻防は、「お腹が空いている/いない」というごく単純な言葉遣いで済ますことができるはずなのに。(p23)
なのに、どこからかやってきた余計なものが、「食べない」ではなく「食べてくれない」へ、「お粥を食べない」ではなく「私の作ったお粥は嫌いみたい」へと、言葉遣いを少し暗い方向へと捻じ曲げてしまう。
カルロス先生はこの「落とし穴」にはまった結果、「単に食べられない」という事実から、つい「この子は私が嫌い」という罪を認定してしまう危険を指摘します。
その母親は次にきっとこう言うでしょう、「ちゃんと食べない子、ママは嫌いよ」。
しかし、この「余計なもの」、いったいどこからやってくるのでしょうね。
世界は自分が見ているようにしか見えない。
なにかとの関係がどうも息苦しいとき、まずは私自身が世界をどう「思い込んで」見てしまっているかを疑わなくちゃいけない、ということを、私はいま(大家さんに私淑しながら子育てをすることで)学んでいます。
たとえば、「子育てはのんびりと」と聞けば「そりゃいい、が、さてそいつはどれくらい『のんびり』なんだい?」と考えてしまう私は、どこかに「完璧な親」というものを想定していたことに、最近気がつきました。
それは、金八ブームのときは生徒会長しながら少しやさぐれ、中学では「まじめだ」「はりきってる」と揶揄されないように装いつつ猛烈に勉強し、高校でワンレンもどき、大学ではロッカーもどきに携帯片手のOLもどき、ITの学生起業で夕刊フジに冷笑的な記事を書かれても大喜び、そうやって「世間」の描く「完璧な・時代の子」イメージを忠実に体現してきた私の、たぶん少し病的なところです。
しかし、ありもしない「世間」相手に相撲をしたところで、残るのは深い徒労感のみ。
ああそっか、それで「報われない」とバーンアウトした結果が、このスペインくんだり昼寝ぐーたら生活なんですね。
んなこんなでいま、意識的にいろいろな情報が耳に入らないようにして、「子どもの生命力を信じてみようぜ! 生きてりゃそれでオッケー、カモン・ばぶれもん・縄文風」でのんびりやっているはずだったのに、それでもやはり「過干渉ではなく放任でもない」、親として「完璧な」地点をイメージしていたみたい。
しかしそれを考えてしまうということは、返す刀で、子どもにもまたどこかで「完璧さ」を求めてしまうことで。
ああ、危ない危ない。
忘れちゃいけない、子どもは「大自然」。
ほんとうにその生命力に敬意を払うならば、親の育て方で子どもがどーこーなるなんて思うのは失礼千万ですよね。
そしてそれはまた、私自身のあれやこれの責任を自分の親や環境に求めないことと、パラレルでもありますね。
私がまず私自身の生命の力を心から信じて敬意を払うこと。
それもいま、子育てをしながら学びたいことのひとつのように思えます。
これができれば、子どもが多少離乳食を食べなくてもなんでも、「私が否定された、ヨヨヨ」などと余計なことを考えずにカラカラ笑ってられそう。
そのときはきっと、お米研ぎも好きになるような気がします。
まだまだ、狭いお釜の中をぐるぐる回ってはいつまでも白濁した水を出し続けるお米を暗い台所の隅でかきまぜていると「うら! お前もしゃきっとたまには外へ飛び出さんかい!」などと思ってしまう未熟者ですが(もちろん、実際に飛び出したお米は拾って戻すのですが)、それでも、ニーニャとの日々は、文句なしにどんどん楽しくなっています。
振り返れば、こんな「しんどい」日々を送っていたんだなあ、と、うろ覚えにログを探し当てて読んでみて、我ながら呆れちゃいました。
(以下、本家ブログより)
> 2007年02月03日(註:ニーニャ生後2ヶ月になる前日)
>『早く動物になりたーい』
> ニーニャと向かい合っていて。
> 「あ、いますごく『慈愛に満ちた母』っぽい」とか、逆に「これって『<慈愛に満ちた母>像を否定するあまり子に対してわりとクールな距離を置いてる母』ってかんじになってる?」とか、なんだかんだそういうことをいちいち考えてしまっている、
> ようだ。
> ことばを使えるのは人間のわりといいところだけど、
> それに振り回されすぎかもしれん。
> せっかくことばを使わないニーニャが目の前にいて、全存在を投げ出してくれていて、> 私もことばをかけなくても乳をかける毎日を送っている(なんせ噴き出すからね)。
> ああ、早くもっと動物的に、ニーニャと向かい合いたい。
> なんというか、屈託なくというか、けれんみなくというか、
> ……つまりこうやってことばを探して感情をそれに置き換えずに、ということなんだけど。
いまはもう、人目もはばからずにメロメロチュウチュウです。
やあ、あと半月で、1歳だ!