« Tokioのマタンサ | メイン | カナさんからPR »

ゴヤ、ロルカ、ブニュエル、ダリ

私の名前は湯川カナ、イニシャルで表すとKYだから空気読めねえ、ってわけでもないのだろうが、編集者を困らせる文章を書くことが少なくない(らしい)。
いま店頭に並んでいる(はず。スペインではわからないけど)「エスクァイア・マガジン・ジャパン」という雑誌の8月号「天才とスペイン-魂を揺さぶるスペイン紀行」にいくつか文章を書いたが、案の定、大きな3つの原稿のうち2つは書き直しとなった。
アホな子を諭すように改めてていねいに企画意図を教えてもらって、新たに書いたものが、活字となっている。
ひとつは、ゴヤ。以前この欄に掲載していただいた「ゴヤについて」は、実はボツとなった初稿。
今回はもうひとつのボツ原稿「ロルカ、ブニュエル、ダリ」で書いたこと、書けなかったことを。

雑誌ではこの3人が青春の日々をわかちあったマドリードの学生寮での逸話を中心に、その蜜月がブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』の発表により終わりを告げる、という展開になっている(はず)。
ボツとなった原稿で、私はこう書いていた。

> 「アンダルシア」の「犬」とは、いったいなにを意味するのか。この(カナ註:『アンダルシアの犬』発表)直後に陥った「精神的な危機」から脱するためニューヨークに渡ったロルカは、友人への手紙に、「ブニュエルは、ちょっとひどいことをした。アンダルシアの犬は、僕だ」と苦々しく書いている。
> 一説によると、マッチョなブニュエルとそれに感化されたダリが、ロルカのホモセクシュアル的傾向を嫌ったのだ、とされる。しかしブニュエル自身は後年、「僕は、ロルカの影響から逃れたかった」と友人に告白したとも伝えられる。とするとこれは最年長のロルカへに対する、エディプス・コンプレックスの子どもたちのような反抗だったのかもしれない。

……「エディプス」云々を持ち出すところが、青いね。臭いね。てんでイカ臭い、中学生の作文だよ、湯川クン! というのはともかく、ボツ原稿は少しの「糊」を挟んでから、続けて3人の「その後」を紹介する。

> 帰国したロルカを待ち受けていたのは、無血革命による王制廃止、共和政の成立であった。彼は政府に任命されて劇団を創設し、同時に代表作を次々と発表するが、6年後、スペイン内戦が始まるとファシストにより射殺され、38年の短い生涯を閉じる。
> 自らの生命の危険を省みずフランコ側の友人を助けたブニュエルはしかし、一貫して共和国政府に協力して、国外での活動を続ける。後に拠点をハリウッドからメキシコに移し、この地で没する。
> 戦火を避けヨーロッパを転々としたダリは、第二次大戦を機にアメリカに移住するが、8年後、フランコの支持を表明して帰国。生地フィゲラスの、自身の美術館に眠る。

その後に、再びイカ臭い「天才たちの、輝かしく、儚い前夜。まだ見ぬ未来に胸を弾ませ夢を語り合ったあの日々は、二度と戻らない。歴史の濁流に呑まれアディオスを言うことすらできなかった友に、あるいは苦い思いが残ったかもしれない。それでもやはり、それは彼らだけが共有する、かけがえのない記憶である。晩年のダリが好んで聴いたという『ノチェ・デ・ロンダ』は、3人が通ったオテル・パラセのクラブを強く思い出させる曲だった。」という「まとめ」が来るのだが、それもともかく。

20世紀に生きたスペイン人に、内戦はかくも暴力的にかかわってくる。
ということをたぶん、私は書きたかった(そしてそれは、『スペインの天才』をテーマにしたこの特集号にはまったくふさわしくない、たしかに)。
彼らだって平時だったら、ブニュエルが若くて内気なダリを巻き込んで、先輩の、そして本来ブニュエルがその道を志していた詩作に加えて共通の趣味であった音楽でまで圧倒的な才能を見せつけるロルカに嫉妬し、恐れて、そこから逃れようとわざわざひどい仕打ちとなる作品を共同制作したからといって、それで一生お別れということもないだろう。
しかし彼らのごく個人的な、イカ臭い「訣別」の後に、内戦という歴史の大波が襲いかかった。そして内戦は、「内」戦であるがゆえそれに関わらざるを得ず、自分の立場をはっきりとさせることを強要される。
50年来の付き合いの肉屋と、近所の気の良い仕立て屋のおばさんと、あるいは父と子でさえ、立場を異にするからと銃を取り殺しあわなければならないのだ。

一足先にこの世からいなくなったロルカは、共和国政府の任を受け、スペインの古典を演じる移動劇団を主宰して民衆を啓蒙するという仕事を積極的に果たしていた。だいたい彼の名を高めた代表作も、それまでスペインの「表」の歴史が黙殺してきたロマ(ジプシー)の文化を取り上げたものである。
内戦開始早々、ファシストに銃殺される。その死の理由を、固陋なアンダルシアの名家に生まれた「鬼っ子」のゲイだというところに求めることも多いが(私を含めて)、しかし共和国政府のシンパであったという点をもっと単純に考えに入れてもいいのではないか。たったいま、そんな気がしてきた。
ブニュエルはもともと、『パンなき土地(邦題:糧なき大地)』という、スペイン社会がひた隠しにする貧困をあぶりだすドキュメンタリーを、誰に頼まれたわけでもないのに手がけるような要素をもっていた。ピカソが『ゲルニカ』を展示したパリ万博のスペイン(共和国政府)・パビリオンでは、内戦の(むごさを描く、とされる)ドキュメンタリーを上映しており、また、政府広報アドバイザーかなんかも務めていたはずだ。
内戦後の長いフランコ時代に、カンヌ受賞作による帰国禁止処分後も、何度かスペインから招かれて戻っているが、結局は客死を選んでいる。たしか彼の一時帰国は、ピカソなど「フランコの目の黒いうちは断固として故国の地を踏まない」派の人々にひどく非難されたはずだ。
彼だって充分に苦しんできたんだろうに、ね。
そして、超おぼっちゃん育ちで、考えるより先にその超絶な技巧によってつい作品を生み出してしまうタイプ(たぶん)のダリは、ファシストの格好良さに素直に靡いた、らしい。たしかかなり早い時期に、フランコを讃える作品をものしてもいる。
振り返れば私は中学時代(まさにイカ臭い時期!)に、ただ単にその格好良さから、ダリを偏愛し、部屋にヒットラーの肖像(をコンビニでコピーしたもの)を飾り、インチキなドイツ軍服を作って特急かもめに乗って長崎から福岡まで行ったこともあったような気がするが、なんかたぶんそういうことだったのだろう(勝手に)。
そして、「皇帝」の曲を帝位簒奪者に捧げたことを悔いたベートーヴェンと異なり、ダリはあっさりフランコに恭順してその治下のスペインに戻る。生地のフィゲラスの市役所の改装を頼まれたのをすっかり自分の美術館にしてしまい、そこで眠る。
同時代のミロ、ピカソ、かつての朋友ブニュエルが次々と客死する中で。彼もまた、苦しんだのだろうか。あるいは、社会を描かず、ミューズたるガラから湧き出ずる世界のみを描き続けた(だっけ?)ことがすでに、「苦しみ」のひとつのかたちだったのだろうか。どうかな。
ちなみに、ダリがブニュエルに『アンダルシアの犬』の続編制作をもちかけ、ブニュエルが「勘弁してくれ」(意訳)と断った、という話も伝わっている。

ゴヤについての原稿で私は、スペイン人にとってのアイデンティティ・デーが、対ナポレオンのスペイン独立戦争記念日である5月2日だと書いた。ゴヤ伝で堀田善衛もそう書いていた。
しかしこの日が祝日なのは、実はマドリード州だけである。
では他の地域のひとびとは無関心かというと、いや、やはりゴヤ『1808年5月2日』『5月3日』の主役である「名もなき市民」へのシンパシーはかなり強いようだ。
ゴヤと、ロルカ・ブニュエル・ダリのふたつの原稿を書いていて思ったことがある。
いまのスペイン市民の、200年前の対ナポレオン戦争における名もなき、しかし勇敢な、それゆえ無残な死を死ななければならなくなったひとびとへの強いシンパシーは、つまり、スペイン内戦で破れた「名もなき市民」への、かたちを変えた追悼ではないだろうか。
フランコはまだ生きている。
その娘の子どもたちはたしかいまも貴族として存命だし、だいたい現国王がフランコから後継者として指名された、いわば「フランコの子」である。王冠はブルボン家の先王からではなくフランコから渡されたのだ! またマドリード列車爆破テロまで8年間政権の座にあった、現在でも最大野党で、かつマドリード州やバレンシア州などでは与党の国民党は、思いっきりフランコの流れを汲む右派だ。
街でだって、広島・長崎で反アメリカを叫ぶのとは異なり、誰もが反フランコで『ゲルニカ』バンザイだと思ったら大間違いで、本気で治安の良かったフランコ時代を懐かしむひとは少なくない。そこらのバルでおじいさんたちが「お前はあの時、」と内戦時の態度をめぐって血相変えて言い争いをはじめる光景にも何度か遭遇した。
スペインでは21世紀になったいまでも、内戦での「名もなき死者」を悼むことを、政治的態度表明と切り離して行うことができない。
だから、ゴヤなのではないか。200年前のことだし、「敵」はフランス軍、しかも歴史上の「悪人」で疑いないナポレオン、というわかりやすい構図だ。
そして、だから、マドリード列車爆破テロほんの数時間後には「名もなき死者」たち被害者への献血に長蛇の列ができ、むしろ余るくらいの血液が集まったのではないか(4時間後にのこのこ行ったら、もう要らないと言われた)。
そう考えると日本の秋葉原無差別殺人事件や、靖国問題における「うまく言えないかんじ」がなんとなく、先の大戦でのものすごい数の「名もなき死者」を、納得できるやりかたで悼んでこれなかったことに通じるように思われる。
それは、スペインが長く「敵」であったはずのフランコ治下にあったのと同様に、日本がアメリカの実質的な支配下にあったからだろうか。(もちろんどちらの国についても、現在形にするのも可です。スペインの経済を牛耳るのはフランコ時代からの「200家族」だし……)
「なかったこと」にしたつもりのことこそ激しく噴き出してくる、精神分析でそういうのがなかったかしら。

About

Junio 25, 2008 10:23 PMに投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「Tokioのマタンサ」です。

次の投稿は「カナさんからPR」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35