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<title>湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ</title>
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<title>それはぼくのせいじゃないよ</title>
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<description><![CDATA[<p><br />
　最近、英語をすっかり忘れてしまった。<br />
アメリカ人である義姉のアメリカ人な両親からは、この数年、「カナは会うたびに英語が下手になるね！」と、驚嘆されっぱなし。<br />
たまに英語でレターを書けば、「メキシコ人の英語みたい」と感動される。<br />
むろん、スペイン語の野郎のせいだ。</p>

<p>　思い出してみよう。英語の一人称は、"I"である。（洋傘ぢゃないよ）<br />
じーさんでもお嬢ちゃんでも大統領でも義姉でも、「アイは、」から始まる。<br />
でもって二人称は、"you"だ。（元フェアチャイルドじゃないよ）<br />
誰だって「ユーを、」と名指される。<br />
戦場で銃を向け合うときも、ベッドで愛をささやくときも、宇宙で人間以外と出くわしちゃったときも、「アイは、ユーを、」と言うのだろう。<br />
現実の世界のどこにも足場を作らずに「アイ」は独りゴゴゴゴゴと立ち上がり、そうやって屹立する「アイ」に名指され、相手（複数＝世界の全部を含む）が「ユー」として対峙させられる。<br />
片岡義男『日本語の外へ』を読んで、つくづく思った。<br />
"I love you."、そういう世界観の中に、私はいない。</p>

<p>　愛してる。<br />
という言葉すら、どうも実感が湧かない。使ったことあるかな？　あぁ、ごく限定された（大人の）場面で、（大人の）挨拶のように、くらいだわね。きゃっ。<br />
やっぱり「好きです」でしょう。いや、「大好き」だな。<br />
初恋、ラヴレター、チェッカーズ、桂花ラーメンの太肉麺、内側から腹をボコボコ蹴りはじめた胎児、毎晩リンゴを剥いてくれるツレアイ、平和な時間。「大好き」。<br />
こういうとき、「私はあなた（または、これ）を、大好きです」とは、言いもしないし、考えもしない。<br />
「好きです」と人称も目的語も支配しない動詞を一発、どころか、「大好き」と名詞を一発お見舞いして、終わり。<br />
それがボクちゃんの日本語的思考。</p>

<p><br />
■ホセ（仮名）は、こう云った：<br />
"Me gustas."</p>

<p>　スペインに来て間もないころ。いつも親切だったホセが、ある日、私にこう言った。<br />
　スペイン語では、基本的にいちいち主語を表さない。ただし、動詞の活用が人称に対応するので、「主語が何人称（単・複）なのか」までは、自ずとわかる。<br />
とはいえ、たとえば同じ三人称単数のうち、「彼／彼女／あなた／それ」のどれが（隠れ）主語なのかまでは、わからない。<br />
これが、スペイン語のひとつの特徴だ。（だから英語でもうっかり主語を省略し、「メキシコ人みたい」と言われることになる）</p>

<p>　一方で目的語、つまり働きかける相手方の表示は、かなりしつこく要求する。他動詞に限らず、自動詞の場合でも。<br />
スペイン語は本来、語順がわりとフレキシブルで、感覚的に日本語にけっこう近い。<br />
だのに目的語の場所については、（前置詞をとらないときは）必ず動詞の前と相場が決まっている。（「それあげるの、パコに？」は、「彼にそれあげるの、パコに？」でなくてはならない）<br />
英語における主語へのこだわりと同じくらいの強さで、スペイン語における目的語へのこだわりを、日本語人のアタクチは、いつもけっこうな違和感とともに感じる。これがスペイン語の大きな特徴、その2。</p>

<p>　で、ホセの言った"Me gustas."とは、なにごとか。<br />
gustarは自動詞で、おおよその意味は「好む」。gustasはこの、二人称単数に対応する活用。この文の「隠れ主語」は、英語におけるyouだ。<br />
また、動詞の前に置かれたmeは間接目的語で、一人称単数。英語のmeね。<br />
以上を総合すると、"(You) like me."に、なりそうだ。<br />
が、ならない。<br />
Me gustas.の実際の意味はあくまでも"I like you."、直訳風の日本語にすれば「私はあなたを好きです」なんである。<br />
（ということを、私はわからなかった。後日ツレアイに、「どうもホセはお前に気がある。気づかないのかバカ」と指摘されてようやく、わかったのでした）</p>

<p>　しかしスペイン語よ。なんでまた、主客転倒しちゃうのか。<br />
このほかにも、同じ構文をとる文章に、たとえば「痛い」がある。「頭が痛い」は、「頭が私を痛がらせる」と表現する。<br />
「都合の良し悪し」を表すconvenir（英語のコンビニエンスと同源）も、スペイン語では、「この仕事はお前を向かせてないぜ」という言い回しになる。<br />
日常的に頻出する「思う」だって、日本語的に「あんた、どう思う？」と訊こうとすれば、「あんたを、どう思わさせてるの？」になる始末だ。</p>

<p>　その根底に共通するのは、♪俺の、俺の、俺のせいじゃねぇ～！　という叫び。<br />
　曰く、<br />
・この頭痛に関して、私は、私の頭の被害者である。<br />
・僕がこの仕事に向いてないのは、僕のせいじゃなくて仕事の側の都合なんです。<br />
・なんとなくそんな気がするんだけど、基本的にはそう思わされてるっていうかんじだわね。<br />
　そして、<br />
・俺がお前を好きなのは、お前が俺を取り込んだからだ。<br />
　……スペイン語版、「甘えの構造」？</p>

<p><br />
■マリア・エレナはこう云った：<br />
「スペイン語では、受動態はあまり用いません」</p>

<p>　頭痛の場合を、英語も含めて比較してみよう。<br />
（英語）I have a headache.　直訳：「私は頭痛を持っている」<br />
　：主語「私」は、目的語「頭痛」を、持っている。「私」は頭痛に、主体的に関わる。<br />
（スペイン語）Me duele la cabeza.　直訳：「頭が私を痛がらせる」<br />
　：主語「頭」が、目的語「私」を、痛がらせる。「私」は、頭の被害者。<br />
（日本語）「頭が痛い」<br />
　：主語「頭」が、形容詞「痛い」。それに関する「私」の態度は、不明。</p>

<p>　あっ、日本語には動詞がない！　そうか、日本語では形容詞が、単独で述語になることができるのだった。<br />
形容詞を補語とする場合、英語もスペイン語も（たしか）SVC構文となり、be動詞のようなものが必要となる。<br />
でも日本語では、動詞なんて要らない。形容詞でいい。頭が、痛い。花が、きれい。<br />
それどころか実際のところ、be動詞的な「です」抜きの名詞一発でもいい。私は、幸せ。今夜は、最高。春は、あけぼの。</p>

<p>　と、ここまで書いて気がついた。<br />
これまでスペイン人に日本語を教えるとき、「が」と「は」の違いの説明に、苦労していた。<br />
・「が」の場合、文のポイントは「が」の前になる。例：「私が、犯人です」（大勢の容疑者の中で、挙手して告白するかんじ）<br />
・「は」の場合、文のポイントは「は」の後ろにくる。例：「私は、犯人です」（まるで自己紹介のように。「犯人」は「長崎出身」や「末っ子」と同価値）<br />
そうか。だから実際に話すとき、主語にポイントがくる「が」の文と違い、述語だか補語だかにポイントがくる「は」の文では、わりと容易に主語を省略しがちなのだな。<br />
「春はあけぼの」だって、いま発語者と聞き手がともに桜咲き乱れる庭園かなんかにいるなら、「あけぼの、だよねー！」で、充分なのだ。</p>

<p>　同じことが、愛の告白の場面でもいえる。<br />
主語も目的語も動詞もない「大好き！」だけで、ふつう、発語者の意味するところは、聞き手に間違いなく理解される。<br />
これが英語なら、（主語として世界で唯一名指しされたかけがえない）俺が（目的語として世界で唯一名指しされたかけがえない）お前を愛する"I love you."。<br />
スペイン語なら、（隠れ主語の）お前が（実は主語より大事でかけがえない目的語の）俺をトリコにしやがった"Me gustas."。<br />
そして日本語では、（省略できるくらい、述語／補語ほど大事ではない「私は」）（省略できるくらい、述語／補語ほど大事でない「あなたを」）、でもこの状態ばかりは間違いなく「大好き！」。</p>

<p><br />
　最近読んだ本に書いてあったのだけど、丸山真男というひとは、古事記に表される日本の原始的世界観を、「勢いよく、つぎつぎに成りゆく」と説明しているらしい。<br />
感覚としてわりあいすぐに納得しちゃいそうなのだけど、日本語というのはどうもそれプラス、「（自分に責任も関係もないところで）勢いよく、つぎつぎに成ってっちゃった結果としての現状」が重視される世界観でもあるのでは、と、いま思いついた。</p>

<p>　そういえば、この「（「病気」や「ハッピー」など、ある状態）になる」とか、（まさに）「そういえば」や「ふと思いつく」こそ、どうにもスペイン語で表現しづらくて困る文だ。<br />
むろん、「（なんらかの行為や原因によって）～になった」とか、「なにごとかが、いま私の頭にある考えを生起せしめた」とは訳せるのだけど、そうなるともう日本語ではない。</p>

<p>　一方、日本語にはうまく訳出できないのだけど、「あぁ、私っていま、すごくスペイン語っぽいスペイン語を喋った！」と思うのは、再帰代名詞の"se"を非人称文の受身（日本語の文法書によると「無人称能動文」）として使い、かつ、自分や相手を目的語として突っ込めたときだ。<br />
「試験に落ちた」を、「（誰だか知らないけど）私を試験に落っことしやがった」。<br />
「植木鉢が落ちてきた」を、「（誰だか知らないけど）私に水をぶちまけやがった」。<br />
「忘れてた！」を、「（なんだか知らないけど）私に忘れさせやがった」。<br />
そう言えたとき、言葉だけじゃなくて思考もスペイン語だったぜ、という達成感がある。</p>

<p>　しかし言語学教授のマリア・エレナは、「スペイン語はあまり受動態を使わない」と言った。<br />
たしかに英語的に"You are loved by me."という表現はあまり聞かない。でもそのかわり、こういう「能動文だけど実は受動態」文型は、実は、ものすごく使われているのだ。<br />
ひょっとしたらスペイン人自身は、「スペイン人は受動態なんて女々しい文型は、ちっとも使わないのさぁ！」と、思っているのかもしれないけれど。くわばらくわばら。</p>

<p>　ちなみに、以上の「スペイン語」とは、あくまで現在標準スペイン語の地位にある「カステジャーノ」のことであり、これは、イスラムの民に追われて逃げた先のスペイン内陸北部の山中から「いんや、キリスト教徒による神の栄光ある国を！」と誕生した、狂信的な理念先行型カトリック国家カスティージャ王国で培われてきた言語です。<br />
「イタリア語は歌を歌うための、フランス語は愛をささやくための、そしてスペイン語は神と語るための言葉」の理由のひとつも、この他力本願的な傾向にあったりして。</p>

<p><br />
　そしてあたちは。<br />
　「私」と「あなた」を世界中から選び出して対峙させる英語の世界観でも、究極には責任者である世界による作用の結果として「私」が被害者的に関わらされるスペイン語の世界観でもなく、私とは無関係に世界はあって、そしていま自分がいる場で同じものを見ているお隣さんとだけ「アレがアレだから、アレよね。ウフッ」と謎かけのようなメッセージを交わす日本語の世界観に、いる。<br />
日本語は、内輪話をするための言葉？</p>]]></description>
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<dc:creator>uchida</dc:creator>
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<title>備前より西はスペイン領</title>
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<description><![CDATA[<p>　あらやだ、どこから再開しましょ。<br />
　遡って7世紀あたりから。あのころ、世界史の主役はイスラムだった。<br />
7世紀にアラビア半島で誕生したイスラム教勢力は、西進してはジブラルタル海峡に至り、さらに北上してスペインを丸ごと呑み込んで、一時は北フランスに達する(732年)。<br />
また東進してはササン朝ペルシャを蹴散らし、さらに楊貴妃にメロメロだった玄宗の唐に大勝して、中央アジアを勢力下に置く(751年)。</p>

<p>　すわヨーロッパ（ピレネー山脈以北）も、風前の灯か！<br />
しかし、急激な領土拡張が必然的に生む内政不安のため、イスラム勢力は「鶏の尻尾のような」（byフェルミン教授）うまみのないヨーロッパを残して、版図拡張をストップ。<br />
なんせヨーロッパっつっても、当時はうっそうとした森の中。遠いし寒いし、しかもあんまり地味豊かじゃないし。<br />
それなのに田舎者の諸侯が乱立してガチャガチャと権力争いをしてて、どうも食指が動くかんじじゃなかったらしい。</p>

<p>　13世紀になると、世界史の主役はモンゴルに移る。<br />
草原に起こった旋風はロシアを制圧し、さらに西へ。ポーランドでもドイツとの連合軍を打ち破ってウィーンにまで迫るが、突然のハーンの死によりやむなく撤退(1241年)。<br />
東進しては中国を元とし、さらに海を渡って日本（鎌倉時代）へも侵攻を試みるが、カミカゼ吹いてみな沈没(1274、1281年)。<br />
いや、どうもついてないね。</p>

<p>　逆についていたのは日本とヨーロッパか。うん、とくにイタリア。<br />
モンゴル帝国のおかげで、だだっ広いユーラシア大陸の情勢が、ひとまず落ち着いた。<br />
とくりゃ、「遠くの珍しいものを運んできて、高くで売る」、シンプル＆ベーシックな商売の大チャンス。<br />
古くからシルクロードという交易路をもっていたイタリア商人が、どしどし商売をし、ガンガン富を蓄え、「っていうか、やっぱ、世の中を動かしてんのって、俺たち人間じゃん？」と自信をもつようになる。<br />
そう、renacimiento（再・誕生）＝ルネッサンスざんす。</p>

<p><br />
■ポルトガルはこう云った：<br />
「世界の果てより南は、俺のものね」</p>

<p>　そのころ、つまり14世紀のイベリア半島。<br />
東はバルセロナを中心とするアラゴン、中央にカスティージャ、そして西の海岸部にポルトガルがあった。<br />
アラゴンは13世紀にはシチリア、アテネ、ナポリまで支配する地中海の大帝国となったが、15世紀に失速。原因は、内戦に発展した王位継承争いと、オスマン・トルコの伸張。<br />
　モンゴル帝国がユーラシア大陸に敷きつめた広いカーペットの端をめくるようにして生まれたオスマン・トルコは、1453年、東ローマ帝国を征服する。<br />
これにより、アジア＝ヨーロッパの交易路は断絶。打撃を受けた商人たちは、新たなルートを模索する。地中海がダメになった？　じゃ、大西洋だ！</p>

<p>　思えばフェニキアの昔から、「遠くの土地のものを持ってきて商売する」熱意に、ひとは突き動かされてきた、らしい。<br />
いまも、いやいまは、「遠くの土地でものを売ってくる」方が、大きいのかな？</p>

<p>　ともかくそれまでイタリアの港町で腕を振るってきた荒くれ男たちが、活気を失った故郷を捨て、新天地を求めて西へと向かった。<br />
向かう先は、大西洋に出る港を持つ、ポルトガルとカスティージャ。なんせイギリスとフランスは百年戦争の真っ最中だったりして、まだ国内だけでてんやわんや。<br />
　折良く、ルネッサンスにより自然科学が進展。<br />
トスカネリが地球は丸いぜ大西洋からインドに行けちゃうぜと言い、そして、外洋の航海に耐えうる船や羅針盤が作られた。<br />
あとは精子と同じだ。誰が最初に憧れの「アジア」に到達して旗を立てるかの、ヨーイ・ドン！</p>

<p><br />
　まず大航海時代をリードしたのは、ポルトガルだった。<br />
もともとカスティージャの一部だったポルトガルは、自領以外の弱体化を希求してやまないローマ教皇の祝福を受けて12世紀に「分家」し、1385年に独立を達成。<br />
その立役者となったジョアン1世は、息子のエンリケ航海王子に指示し、アフリカ西岸に航海基地を作らせる。<br />
先見の明があった、ってやつだろうか。その後の行動も、ソツがない。</p>

<p>　ローマ教皇に頼んで、そのころ世界の南端だと思われていたボハドル岬（北緯27度、現西サハラ領）より南での「発見」における、ポルトガルの領有権を認める大勅書を出してもらう。<br />
そう、まだ「世界」は、南北軸だけでイメージされていた。<br />
こうして足場を固めたポルトガルはずんずん南下し、ジョアン1世に航海者として仕えていた祖父と父をもつバーソロミュー・ディアスが、1488年、喜望峰を発見することになる。<br />
同時に、もうひとつの大発見。あっ、アフリカって、東にまわれちゃうよ！<br />
この発見を受けて、10年後、ヴァスコ・ダ・ガマが東回りでインドに到着する。</p>

<p>　そのころ、ライバルのカスティージャはなにをしていたか。<br />
14世紀には天候不順があり、人口の1/3が死亡したペスト禍があり、庶子が王位を簒奪する15年の内戦があり、これらの社会不安を背景に各地で市民の暴動とユダヤ人虐殺が起きる。もう、わやくちゃだ。<br />
15世紀後半、究めつけに王女と王妹による王位継承戦争が起こり、すでにアラゴン王子と結婚していた王妹イサベルが、荒廃した国土にぽつんと置かれた王位に就く。</p>

<p>　ともかくこれでイベリア半島の勢力図が、ポルトガル対カスティージャ＆アラゴンに変わった。<br />
9世紀の国家誕生以来はじめて一緒になったアラゴン＆カスティージャは、大慌てで、250年余りものんびりと保護下に置いていたイスラム教国グラナダへの侵攻を開始する。<br />
レコンキスタの完成！　の呼び声も空しく、戦争に疲れ果てた貴族のやる気なさで10年もかかってしまったが、ついに1492年1月、グラナダ陥落。<br />
これにより、ポルトガルを除くイベリア半島が、「スペイン」になった。<br />
　って、あぁもう、そのポルトガルは、4年前に喜望峰に達しているというのに！</p>

<p><br />
■オルデン・ヒメーネスはこう云った：<br />
「コロンブスはアメリカを発見するために西へ向かって船出したわけではない。結果と目的を取り違えては、いけないよ」</p>

<p>　むろん「分家」ポルトガルの躍進はイサベル女王の耳に届いている。<br />
そこに、怪しげなマドロスが登場。「まぁあっしに任せてみなせぇ。きっとインドを見つけてきまっさかい」（商人でヤクザ者の口調で）<br />
その名はクリストファー・コロンブス。ジェノヴァ生まれということ以外、詳しいことはわかっていない。<br />
　実は喜望峰発見の4年前、彼はポルトガルに資金援助を願い出て、断られている。<br />
そのときポルトガルはすでにバーソロミュー＝ディアスに賭けていたし、それに、コロンブスはどうにも怪しかった。</p>

<p>　しかし後発のスペインは、そんな怪しい男に有り金を賭ける気になった。賭けざるを得なかった。<br />
1492年1月、グラナダまで会いに行ったものの色よい返事をもらえず失望して帰途につきかけたコロンブスを、レコンキスタを完了したばかりのイサベル女王が全速力で追いかけてきて引き止め、支援を約束する（という言い伝えになっている）。<br />
　同年8月、コロンブスは西に向けて出航。というのも、ポルトガルにすでに南を押さえられていたため、スペインに残された活路は西しかなかったのだ。<br />
10月、「新大陸」サン・サルバドル島を発見。やったね、とうとうインドだぜ！　……と死ぬまで勘違いしていたのは、有名な話。<br />
しかし結果としてこの新大陸アメリカが、瀕死のスペインに巨万の富をもたらすことになる。</p>

<p><br />
　ともあれ「インド」を発見して意気揚々と帰路についたコロンブス。しかし彼はこの「発見」を、イサベル女王に告げる前に、寄り道をしてポルトガル王に報告している。<br />
なぜか？　その理由は明らかにはなっていない。<br />
だが事実として、コロンブスが発見したサン・サルバドル島は、北緯14度に位置する。これは件の大勅書で定められた「北緯27度以南はポルトガル領」に該当する。<br />
　ポルトガルは当然のごとく、大勅書にもとづく領有権を、スペインに通知した。<br />
その際コロンブスに、多額の褒賞を払ったかどうかは定かではないまでも。<br />
またスペインの基礎を作る「偉業」を成し遂げたコロンブスとその子孫が、その後スペインで意外なほど冷遇されたのが、そんな彼の行動に端を発するのか否かは定かでないまでも。</p>

<p>　もちろん、自分の宝石を質に入れてまでコロンブスの支援金を作った（という言い伝えになっている）イサベル女王は、これを断固として拒否。すわ戦争か、という騒ぎになる。<br />
とはいえ戦争を避けたい両国から、たっぷり見返りを得たんじゃないかというローマ教皇の介入で、主に金の力と思われる何度かの変更を経た後、世界を東西に分けるための新たな基準が定められる。<br />
　曰く、西経46度を教皇子午線として、その西にスペイン、東にポルトガルの領有権を認める。<br />
これにより、1500年に発見されたブラジルは、新大陸で唯一のポルトガル領となった。<br />
（なお、本当はポルトガル人は教皇子午線以西でブラジルを発見したが、その位置をだいぶ東に移して報告した、と、スペインでは伝えられている）</p>

<p>　1521年には、故郷のポルトガルで冷遇されたマゼランがスペイン王の援助を受け、西回りで世界一周航海を達成。<br />
あぁ、しまった、地球は丸かった！<br />
これによりポルトガルとスペインの領有権争いは、東西南北という平面ではなく、球体である地球をどう分けるかというフェーズに発展する。<br />
　例によってさまざまな取引が行われた結果、1529年、新たに条約が締結される。<br />
これはスペインのフィリピン支配とポルトガルのモルッカ諸島支配をともに認めたうえ、西経46度に定められていた教皇子午線を、地球の反対側の東経134度にまで延長するものだった。<br />
東経134度……。実はこの「教皇子午線」、ちょうど岡山県を通っている。</p>

<p><br />
　折しも日本は室町時代末期。<br />
戦国時代の不運児、もとい風雲児・織田信長が生まれる5年前で、当の中国地方では、毛利元就が家督を相続して間もないころ。<br />
まさに1529年の備前では、後にその毛利家を裏切り羽柴秀吉を通じて織田信長に与した宇喜多直家が生まれたりしている。<br />
これから、日本史がいちばんの盛り上がりを見せる、そういう時期だ。</p>

<p>　しかし、たまたまマゼランたちには見つけられずに済んだからよかったようなものの、理論的にはこの時点で、戦国武士たちの野望とはなんの関わりもなく、「備前より東はスペイン領・西はポルトガル領」と、世界史的には決められていた。<br />
もしこれを知っていたら、元就も信長も、さぞかしやる気をなくしたことだろう。あるいは一致団結してもっと早く「日本」ができていたか？　あるいはアルゼンチンとブラジルのように言語も異なる別の国になっていたか？　くわばらくわばら。</p>

<p>　なおこのサラゴサ条約は現在でも有効であり、それを示すように今日でも長崎の銘菓として知られるカステラはポルトガル伝来であり、20世紀末になって志摩にスペイン村が作られている。<br />
……ウソウソ。しかし、いつ「無効」になったのか、調べてもよくわからなかったのだ。<br />
　でも、あぁどうか、たとえば今日の私の知らないところで、私の大切なものがどこかの机の上で誰かに勝手に奪われたりしていませんように！<br />
カステラは好きばってんさ。</p>]]></description>
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<dc:creator>uchida</dc:creator>
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<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/05/20_1043.html">
<title>てんごけでしるて・えんのらぶえな　すぐかきすらの・はっぱふみふみ</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/05/20_1043.html</link>
<description><![CDATA[<p>■救急病院の内科医は、こう云った：<br />
"Tengo que decirte; ¡enhorabuena!"<br />
「テンゴ・ケ・デシ（ル）テ、エンノラブエナ！」</p>

<p>　たいへん、ご無沙汰していました。<br />
店子・湯川カナはなにをしていたかというと、腹に子を宿していました。<br />
それが、高熱を発して運ばれた救急病院でわかるという体たらく。<br />
ツレアイに支えられて診察室に入った途端、医師が満面の笑顔で言ったのが上のことばだった。<br />
「とにもかくにも、おめでとう！」<br />
続けて「妊娠してるよ」と驚きの、しかし身に覚えがあるコンセプシオン（受胎告知）。<br />
ちなみになんとバカバカしくも、エイプリル・フールの夜のことでした。</p>

<p>　ところで上のスペイン語を直訳すると、「あなたに言わなくてはなりません、おめでとう！」となる。<br />
しかし私の耳に入ってきたそのフレーズはとても快い響きを伴っていて、感覚的にも似た日本語を探すと、「とにもかくにも、おめでとう！」の、七五調になった。<br />
どうやらそこには、ちゃんとした理由があるようなのだ。</p>

<p><br />
■トシちゃんは、こう云った：<br />
「鼻炎、鼻炎」</p>

<p>　スペイン語は、5つの母音をもつ(a,i,u,e,o)。お気づきのように、日本語と同じである。<br />
なんでも、世界中にはこの「5母音言語」が、けっこう多いらしい。5母音という体系は、ひとつひとつの音の違いが明瞭なため、安定性が高いのだという。（※）<br />
そんな、根源的なところでけっこう似ているスペイン語と日本語だが、大きく違う点が、ふたつある。</p>

<p>　ひとつは、スペイン語には子音だけの発音があること。<br />
たとえばMadridの発音は、「マドリード」ではなく、「マ(drイ）ー(d)」である。むろん、常に子音と母音がセットの日本語で表記できるわけはないが、実感としては、「マ・ドゥリー・ッ（ス）」に近い。<br />
なお日本語にも母音を用いない例外「ん」があるが、これはもともとの日本語（平安時代など）にはなく、後に中国語の影響を受けて輸入されたものという。<br />
　もうひとつの違いは、スペイン語に「まとめて一気に発音する母音」があること。<br />
スペイン語では5母音を、強母音（a,e,o）と弱母音（i,u）に分ける。<br />
母音が複数続く場合、[強母音＋弱母音]と[弱母音＋弱母音]の組み合わせは、とくにアクセント記号が付されていない限り、ひとつの母音とみなして発音する。<br />
たとえばDon Quijoteは、「ドン・クイホーテ」ではなく、「ドン・キホーテ」。</p>

<p>　とはいえ、母音が38もあるという中国語、同じくその半分ながら19ある英語、それより少ないが16のフランス語などに比べると、日本人にとってスペイン語は、「だいたいそのまま発音できる簡単な言語」である。<br />
あるいは「ローマ字読みで通じる言語」でもある。そういえば、まさにローマのあるイタリア語も5母音。そしてローマ字は、イタリア語やスペイン語のルーツであるラテン語を表記するため、古代ローマ時代に作られた表音文字であるという。<br />
　表音文字といえば、日本では、「かな」。<br />
横方向に母音の「段」、縦方向に子音の「行」を示す50音図を外国人に見せると、そのシステマティックな構成に、大いに驚嘆してくれる。<br />
しかもこの50音図、私は鹿鳴館なんかの西欧化に伴って導入されたと思っていたのだが、実際にはずっと前の平安時代に、サンスクリット（梵字は表音文字）を表すため作られたもので、成立は「いろは」以前だという。<br />
どうやら日本語は、私たちが思っているよりもずっと、根源的にユニバーサルなものらしい。</p>

<p>　ということで、スペイン語と日本語は、音声面で、とてもよく似ている。<br />
日本語で「バカ」と発音すればそのままスペイン語で「牛」を意味する単語になり、「アホ」は「ニンニク」になり、「傘」が「家」になり、「マン○」が「片腕」になる（『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスの愛称は、「マンコ・デ・デパント」＝「レパントの海戦の片腕」）。<br />
そして3年前に還暦を過ぎてスペインへ来た我が母トシちゃんもまた、スペイン旅行中もっとも使用頻度が高い単語"bien"（=good）を、発音が同じ「鼻炎」として覚えようとした。<br />
ある朝、管理人が「お母さん、ご機嫌いかが？」と訊いてきた。私は（いまやで！）と、トシちゃんの脇をつつく。ハッとしたトシちゃんはニッコリ微笑み、「鼻炎」と、実にコレクトな発音で返事をしてみせた。<br />
ただし、なぜか右手の人差し指で自分の鼻を押さえていたのが、失敗といえば失敗。管理人は怪訝な顔をしていたが、まぁ、東洋の奇習かと思われたくらいで済んだだろう。</p>

<p><br />
■カルメン・サンチェスはこう云った：<br />
「カステジャーノ（標準スペイン語）の基本リズムは、8シラブルです」</p>

<p>　日本語と音声面でよく似た構造をもつスペイン語の基本リズムは、8シラブル（音節）。大雑把にいうと、母音の数が8つということになる。<br />
たとえばスペイン語でもっとも古い詩の形態であるロマンセは、8シラブル×2＝16シラブルである。<br />
"Por el mes era de mayo／cuando hace la calor,<br />
 cuando canta la calandria／y responde el ruiseñor,"<br />
それぞれの音節を数えると、8／7（+1）、8／7（+1）＝8×2×2となる。（アクセントが最後の母音にくる場合、1拍加えて数える決まりがある）<br />
このロマンセの流れを非常に良く汲むのが、20世紀の詩人であり、内戦中にフランコ側勢力によって射殺された、ガルシア・ロルカ。<br />
テクスト読解の授業で彼の『血の婚礼』を取り上げたのだが、登場人物のセリフなど、見事なまでに8シラブルを基調としていた。</p>

<p>　転じて日本語の基本リズムといえば、五と七。ご存知、<br />
「古池や／蛙飛び込む／水の音」<br />
などであるが、奇数であり、まったく8シラブルではない。<br />
と思っていたところ、現在マドリード自治大学で日本語を教える若き言語学者のナイスガイ阿部新さんが、「五・七・五も、実は休符（等時拍）を入れると8シラブルになるんですよ」と、驚くべきことを教えてくれた。</p>

<p>　心の中で、詠んでみる。<br />
「ふるいけや●●●／●かはずとびこむ／みずのおと●●●」<br />
たしかに、前後に等時拍を入れて、8シラブルに整えている。<br />
そういえば大家の内田樹さんによるこのコラムのタイトルも、「こんやもよぎりが／えすぱーにゃ●●●」と、見事に、ガルシア・ロルカも納得の8シラブル×2。<br />
なぜか耳に残る谷川俊太郎の『ことばあそびうた』も「はなののののはな／はなのななあに●／●なずななのはな／なもないのばな●」。<br />
あるいは宮沢賢治の『風の又三郎』も「どっどどどどうど／どどうどどどう●／●あおいくるみも／ふきとばせ●●●／すっぱいかりんも／ふきとばせ●●●」だ。</p>

<p>　実はこの、「8シラブルへの調整」に欠かせない等時拍は、外国人の日本語学習者にとって最大の難関である。<br />
上記のような「見えない休符」は論外としても、表記される撥音（ん）、促音（っ）、長音（ー）についても、きちんと1拍を刻んで発音するのは、かなりの上級者でも難しいらしい。<br />
たとえばコータローという名前の私の兄は、アメリカで、だいたい「コタロ」と呼ばれている。<br />
「私の名前は、日本語では下ネタになります」と流暢な日本語で話すスペイン人通訳アナちゃんですら、「ビル飲みましょか、ちょと暑いですから」となる。</p>

<p>　わりとユニバーサルな5母音言語であり、同じくその安定感により人間が快の感情を抱きやすいという8シラブルを基本リズムとしながら、しかし奇数の五と七を基調とすることで、日本語はフレキシビリティーを手に入れ、それゆえ、今日の日常生活に至るまで、快い言語のリズムを、知ってか知らずか楽しんでいる。どうも、そういうことらしい。<br />
ちなみに、ギリシャ語やラテン語にも精通する言語学の教授と、詩歌や日本文化にも造詣の深いテクスト読解の教授に訊いてみたところ、「私が知る限り、詩歌以外に標語やキャッチコピーまでリズムが支配する日本語のようなことばは、ないわね」とのことだった。</p>

<p><br />
　ところで冒頭の医師のことばは、あいにく、さほど完璧な8シラブルではない。<br />
ただし等時拍による8シラブル換算に慣れた私の頭が勝手に、撥音も1拍とし、休符をも加えたりして、これを「テンゴケデシルテ／エンノラブエナ●」の、8シラブル×2にしてしまったようだ。<br />
ひょっとしたらそれどころではなく、同じ内容のことばを、私が記憶のなかで勝手に、快いリズムをもつ文章に変えてしまったのかもしれない。<br />
どちらにしろ、この響きの快さが、妊娠がわかった喜びとともに、いまも耳にありありと焼きついている。おかげでおそらくずっと、あのときのきもちを、忘れることはないだろう。<br />
　そして最後まで呆然としていたツレアイは、「すみませんが、さっきなんと仰いました？」と何度も医師に訊き返し、呆れた医師は私にそっと「あれか？　ひょっとして君のご主人、身に覚えがないのか？」と質したのでした。<br />
いやあいにく、腹の子はヘスース（イエス・キリスト）ではなさそうです。</p>

<p><br />
（※）今回、日本語の成り立ちについて調べる際、「ことばの散歩道」<http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/kotoba.htm>を参考にしました。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-05-20T10:43:30+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/03/06_0954.html">
<title>スペインの禁忌カトリック女王</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/03/06_0954.html</link>
<description><![CDATA[<p>　ある心的過程を意識することが苦痛なので、それについて考えないようにすることが、「抑圧」というメカニズムである。エヘン。<br />
もちろんこんな流麗な文章が私から出てくるわけもなく、これは心のマエストロ兼ここの大家である内田樹さんの著作、『寝ながら学べる構造主義』（文春新書）内のフレーズをつなぎ合わせただけでした。<br />
狂言『ぶす』の太郎冠者は、「ほとんど全力を尽くして」構造的無知を作り出し、その結果、タフで酷薄というキャラクターを成立させている。<br />
私たちの意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に目を逸らし続けている」という抑圧のバイアスが、常にかかっている。</p>

<p>　それは、「国」についても、言えるのではないか？<br />
国民全部が、「ほとんど全力を尽くして」なにかから「目を逸らし続けている」。そんなことが、あるのではないか？<br />
ふとそんなことを思いついたのは、現在、個人的にスペイン語版日本史作文『今夜は夜霧がハポンだもん』指導をしてくれている歴史学教授が、こんなことを言ったからだ。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンは、こう云った：<br />
「イサベル女王の死後500周年となった一昨年、スペインでは、数えきれないほど多くの関連書籍が出版されました。<br />
そのどれひとつとして、イサベル女王に否定的評価を下したものはありません。<br />
イサベル女王を否定すること。それはスペイン歴史学における、最大のタブーなのです」</p>

<p>　巨躯で汗っかきのフェルミンは、誰よりも熱心に授業に取り組み、また希望があれば現代社会学特別ゼミから論文個人指導まで対応してくれたりして、学生からの信頼がとても厚い。<br />
かつ、専門研究における受賞経験もある、とても優秀な学者だということだ。<br />
しかし彼は、決してカテドラティコ（大学正教授）にはなれない。<br />
　カテドラティコとは、辞書によると、「カテドラの資格を得た（中等教育以上の／専門的）教師」のこと。<br />
さらに「カテドラ」の意味を引くと「(1)正教授職／(2)教壇、説教壇／(3)高位聖職者の地位」とある。<br />
同じ語源をもつ単語に「カテドラル」（大聖堂）があることからもわかるように、公立大学でも用いられる役職名とはいえ、極めてカトリック色が強い。</p>

<p>　フェルミン曰く、カテドラティコになるためには、教授としての専門知識だけでなく、「模範的人格の持ち主」であることが要求されるという。<br />
たとえば日本で、横綱に対して、同じくそれが「当然」求められると言われるのと似ているかもしれない（明文規定の有無は知らないが）。<br />
そしてスペインにおける「模範的人格の持ち主」か否かの判断は、「カテドラティコ」という単語が示すように、「カトリックにおける高位聖職者」が基準とされる。<br />
（現実の高位聖職者の品位がどうであるかは、たぶん別として）</p>

<p>　スペインでは未だ9割以上がカトリックであり、フランコ独裁時代に生まれたフェルミンもまた、赤子のときに洗礼を受けたカトリック信者である。<br />
しかしフェルミンは、スペインを代表する（という）コンプルテンセ大学の教授として初めて、市民婚をした。<br />
模範的なカトリック信者であれば必ずすべきである教会婚をしなかったという「汚点」により、フェルミンは、永遠にカテドラティコにはなれない。実際に、そう言われたらしい。<br />
法的に認められている市民婚を選んだことで、公立大学での出世の途は絶たれ、妻の実家からは絶縁を受けた。<br />
「そりゃ悲しいけどね。でも、妻と僕は、こういう生き方を選んだんだよね」<br />
貧乏だった母の妊娠中の栄養の偏りに由来するという先天性の巨躯をゆすりながら、フェルミンは満身創痍で、敢然と、というよりむしろ象のように悠然と、タブーに挑む。<br />
「誰もが信じて疑わないこと、誰もが口にしないこと。いいかい？　そこに、疑いの目を向けるんだよ」</p>

<p><br />
　1468年、18歳のカスティージャ王妹イサベルは、スペインを二分する隣国アラゴンの王子フェルナンドと結婚する。<br />
このときのカスティージャ王はイサベルの異母兄エンリケ4世であり、他にアルフォンソという兄弟もいたため、この縁組には、王女の結婚という以上の意味はなかった。<br />
ただし万が一のことを考え、未来のアラゴン王フェルナンドがカスティージャ王の地位を相続することはないという契約書が、当時としては異例のことではあるが、交わされた。<br />
カスティージャがアラゴンにより併合される危険を、回避するためであった。</p>

<p>　翌年、思いがけず、王弟アルフォンソが死亡。<br />
そして1474年にエンリケ4世が死亡したとき、後継者は、王のひとり娘で9歳のフアナか、妹で23歳のイサベルか、という問題が生じた。<br />
むろん、本来なら、王の娘フアナに継承権がある。<br />
だが彼女は、別名、「フアナ・ラ・ベルトラネハ」（ベルトラネハ家のフアナ）。<br />
このベルトなんとかなどという、ややこしい名前の王家は、スペインにはない。<br />
つまり、前王エンリケ4世は不能であり、彼女は王妃とベルトラネハ公との浮気によってできた子だということが、公然の事実とされていたのだ。</p>

<p>　内戦、勃発。<br />
王の実子ではないとされる9歳のフアナと、本来なら継承権のない妹で、かつ精神を病んだ母を抱える、やはりまだ20代と若いイサベル。<br />
貴族は各々、くみやすしと判断した「女」の側についた。あるいは、敵対貴族の敵側についた。あるいは、家族内で反目しあった。<br />
イサベルを婚姻関係にあるアラゴンが支援すると、フアナ側には、カスティージャ併合をもくろむポルトガルつく。<br />
死に体のカスティージャという「美味しいパイ」を獲ろうと、誰もが一斉に襲いかかった。<br />
　ちょうど日本史における、応仁の乱（1467～1477年）に似ているかもしれない。<br />
奇しくもこのカスティージャの内戦は、その応仁の乱たけなわの1474年に始まり、5年後、イサベルの勝利によって幕を閉じた。<br />
同年、アラゴン王の死去により、夫も晴れてアラゴン王フェルナンド2世となった。<br />
（婚姻時契約により、彼は、カスティージャ領内では「女王イサベル1世の配偶者」となるに留まる）</p>

<p>　イサベル1世はすぐに、国家の施政方針を定めるための議会を召集。ここで、誰もが想像しなかった政治的手腕を、彼女は発揮する。<br />
まず、負け組も含めた貴族の全財産を、各々の領地に帰る＝中央政治からの離脱を条件に、新設する長子相続制度を通じて保護することを確約。<br />
意外に長引いた内戦で軒並み消耗していた貴族の大多数が、これを嬉々として受諾したため、貴族は実質上、王の統制下に置かれることになった。<br />
また、夫フェルナンド2世の従兄弟であり、イタリア半島（シチリア、数年後にはナポリもアラゴン領）におけるアラゴン王の協力を欲していたローマ教皇と交渉し、教会の主要役職の任命権を譲り受ける。こうして、聖職者も王の統制下に置いた。</p>

<p>　あとは、民衆だ。<br />
まず市長の任命権を王に帰属させ、さらに王室代理官という中央政府官僚を派遣して、地方政治を掌握。<br />
同時に、「サンタ・エルマンダー（聖なる友愛団体）」という名の、民衆取り締まりを目的とした警察組織を創設。これはヨーロッパで初の「警察」だといわれる。<br />
さらに、ローマ教皇から許可を得て、教会ではなく王の管理下に置くかたちで、世界に（悪）名高い「サンタ・インキシシオン（聖なる異端審問所）」を設置。<br />
これらのふたつの「聖なる」システムの間で、民衆は、僅かに息ができるだけの隙間を探すだけのか弱い存在に、見事、貶められた。<br />
　ちなみに異端審問所が廃止されるのは、約350年後の、1834年のことである。<br />
その約100年後には、「カトリックの擁護者」フランコによる内戦が始まり、ご存知のように、独裁体制が1975年まで続く。<br />
そして現在でもスペインには、自治州（市）警察と国家警察に加え、治安警察という別系統の組織があり、大いに活動している。</p>

<p><br />
■イサベル1世とフェルナンド2世のことを、スペイン人はこう呼ぶ：<br />
「"Los Reyes Católicos"（カトリック両王）」</p>

<p>　1492年、カスティージャは、それまで約250年にわたって庇護下に置いてきた半島最後のイスラム教国、グラナダを征服。<br />
こうして、8世紀にわたったレコンキスタ（国土再征服運動）が、完了する。<br />
その功を讃えて、時のローマ教皇は、ふたりに「カトリック王」の称号を与えた。</p>

<p>　現在、スペイン人は彼女のことを、王としての一般的な呼称「イサベル1世」ではなく、神の地上の代理人であらせられるローマ教皇から贈られた（カトリック教徒にとって）最大の敬称、「カトリック女王」で呼ぶ。<br />
私がうっかり「イサベル1世が」などというと、「えぇ？　あぁ、カトリック女王イサベルのことね」と訂正される。<br />
そしてたしかにフェルミンが指摘したように、このイサベルをけなすことは、ドイツ・ナチスの手を借りて内戦に勝利し長年にわたり独裁体制をしいた民主主義の敵フランコを褒めることよりも、実感として、大きなタブーとなっている。</p>

<p>　イサベルの功績は、たしかに大きい。<br />
ひとつ、戦争省や経済省の設置など、現代につながる近代的国家の基盤を作った。また子どもたちの縁組の成功が、孫の代に「太陽の沈まぬ」スペイン大帝国を築く原因となった。<br />
ひとつ、グラナダに会いに来て帰りかけていたコロンブスを追いかけ、自分の宝飾品を質に置いてまで出資するという慧眼により、「太陽の沈まぬ」（……以下同文）。<br />
ひとつ、数年にわたって誰もが手をつけたがらなかったイスラム王国を滅ぼしてレコンキスタを完了し、現在に続く強固なカトリック国家を作った。</p>

<p>　おかげでスペインは、かつて世界に覇を唱えた名門国家として、かつ信心深いカトリック教国として、グローバリズム隆盛の世知辛いこのご時世にも、家族愛にあふれる豊かな人生を楽しめている。<br />
……おそらくこれが、現代スペインの、セルフイメージに近い内容だ。<br />
いったいここに、どんな「抑圧」が、あるのだろう？<br />
これからこの問いを頭に置き続けて、じっくりと、スペインを考えてみるつもりだ。</p>

<p><br />
　ところで、日本では、どうなの？<br />
そう考えて、聖カトリック女王に相応する存在を探すうち、同じように、個人名ではなく聖なる称号で呼ばれている、おそらく唯一の人物に思い当たった。<br />
聖徳太子。<br />
辞書によると、「冠位十二階・憲法十七条を制定して集権的官僚国家の基礎をつくり、遣隋使を派遣して大陸文化の導入に努めた。また（中略）仏教の興隆に尽くした」とある。</p>

<p>　オイオイオイ、と思って、ネットで調べた。<br />
間違いない。上記に加えて彼は、「日本史上初の女性天皇」推古天皇の摂政であり、また彼自身が「日本史上初の摂政」である。<br />
とても重要なことだと思うのだが、なぜか、辞書にはこの部分が記載されていない。<br />
聖徳太子が、史上初の女性天皇の下に現れた史上初の摂政であること。<br />
それは別に、ふつうのことだ。なのに、なぜ書かない？<br />
もし「あえて書かない」としたら、そこにはいったいなにがある？<br />
　あっ。<br />
ひょっとしたら、聖徳太子は、自身が史上初の摂政となるため、史上初の女性天皇などというものを生み出したのだろうか？<br />
そして現代でも「日本」は、その事実を、抑圧しているのだろうか？</p>

<p>　もし、そうだとしたら。<br />
日本は、その事実から目を逸らしたい。<br />
「実は摂政（歴史を下ると院や将軍や）こそが政治の実力者であり、天皇はとりあえず『お飾り』として置いておくための装置である」というのが日本社会のキモであり、それを創始したのが厩戸皇子であるという事実から。<br />
なので彼を「聖徳太子」としてまつりあげ、そのダークサイドを焙り出すことに、事実上、社会的圧力をかけている。<br />
そ、そんなことが。ある、かもしれない？</p>

<p>　天皇がタブーであることは、日本では「常識」だ。<br />
しかし真のタブーなり抑圧なりは、「その天皇は『お飾り』である」というところにあるのではないか。<br />
そしてこの歴史的文脈における「天皇」は、日本社会というものを考えた場合にあらゆる「長」に、置き変えることができるのではないか。たとえば社長や家長や級長や……。<br />
　そ、そういえば。<br />
そういえば、お調子者だった私が「日本人らしくなく」立候補して生徒会長をやっていた時代。<br />
私に向けられる周囲の視線は決して尊敬でも憧れでもなく、ごく冷ややかで、時には憐れみすらを感じさせていたような……。<br />
　そ、そうだったのか。<br />
いや、そうだったのだろう。<br />
うん、どうもそうだったような気がするぜ、いま考えてみると。<br />
そそそ、そっかぁ…………しゅん。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-03-06T09:54:08+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/02/09_1045.html">
<title>ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか？</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/02/09_1045.html</link>
<description><![CDATA[<p>　雪にぶるぶる震えながら、約１ヶ月遅れで、『日本レコード大賞』を見た。<br />
元船乗りで、かつて自分もそうして日本のテレビを楽しんでいた父が、私が日本で購入した本の包みに、録画したビデオをそっと忍ばせてくれていたのだ。<br />
最優秀新人賞のプレゼンターとして、いま（別の意味で）話題のホリエモンが出ていた。<br />
実は動画でホリエモンを見るのはこれが初めてだったのだが、いまや「容疑者」らしい。<br />
まったく同じ世代（1歳違い）で、同時期にIT企業をし（私は御輿の棒を担ぐふりをして、ぶら下がっていただけだけど）、ついでに同じ九州出身の身としては、なんだかいろいろと心中に去来する思いがあったばい。</p>

<p>　そんなレコ大を見ていて、でもそれよりも、また倖田來未の衣装よりも気になったのが、司会者が連発する「おめでとうございました」という言葉だった。<br />
ノミネート歌手が発表され、本人が登場すると、まず「おめでとうございました！」。<br />
それから短いトークがあって、歌があって、歌が終わると、「おめでとうございましたーっ！」だ。<br />
　なぜに、過去形？</p>

<p><br />
■マリア・エレナは、こう云った：<br />
「『ペペは甘いものが好きだった』と言った場合、スペインとラテンアメリカでは、その意味するところが異なってきます」</p>

<p>　コロンブスの新大陸発見から500年ちょっと。スペインのスペイン語と、ラテンアメリカ諸国のスペイン語では、語彙や文法に明らかな違いが生じている。<br />
そのひとつは、時制にある。<br />
スペインでは、「今日」や「今年」など主語が属するピリオド内の出来事には、基本的に現在完了形を用いる。なので夜になって一日のことを振り返って話すと、動詞はすべて現在完了形だ。<br />
しかしラテンアメリカでは、殆ど現在完了形を用いない。いきなり過去形である。<br />
「ついさっきのことを、なんだかまるで大昔のことのように言う」というのが、スペインから見た、ラテンアメリカ語法の印象のひとつである。</p>

<p>　もうひとつの大きな違いは、人称にある。<br />
スペイン語には、英語と同様に、一人称／二人称／三人称の、単数／複数で、合計6つの人称がある。<br />
ただし英語と異なるのは、英語での[you]が、スペイン語では二人称の「君」と、三人称の「あなた」とに分かれることだ。ちょっと話者からの距離を感じさせる「あなた」は、「彼」「彼女」「それ」「犬」「電柱」などと、同じカテゴリに入る。<br />
　ラテンアメリカでは、このうち二人称の複数形「君たち」が、ほとんど消失する。<br />
では、「君」がふたり以上になると、どうするか？<br />
俄然、三人称複数を用いるんである。<br />
たとえば、アミーゴに「お前（二人称単数。「君」と同義）さぁ、今日、うち来ねぇ？」と言っているところに、別のアミーゴが来たとする。彼も、誘うとする。<br />
「おっ、お前（同上）も、うち来る？　じゃあさ、あなたたち（三人称複数）、6時においでなさい（主語にあわせ、動詞の活用が異なる）」、となるらしいのだ。</p>

<p>　また文法ではないが、実際の使用法においても違いがある。目の前の人間に対し、スペインでは一般的に「君」語法で話すところを、ラテンアメリカでは基本的に「あなた」語法を用いるのだ。<br />
この場合、ラテンアメリカ的な感覚の方が、日本でのそれに近いだろう。<br />
スペインでは、親や上司ですら、「君」呼ばわりである。それがマナー（に近いもの）となっている。もしも、目の前の人間に「あなた」と頑なに三人称で話しかけつづけたら、それは多くの場合、意図的に精神的な距離を置こうとしている＝失敬だみなされる。<br />
敬語は敬語でも、「敬してこれを遠ざける」というニュアンスが強くなるのだ。<br />
（ただし権力志向者は、「あなた」語法が好きな傾向がある。愚民どもと遠ざけられてうれしいってことかしら）</p>

<p>　というわけで、恒例の（初めてだけど）「もしも」シリーズ。<br />
もしもスペイン人アロンソ・キハーノが、ラテンアメリカで、現地のアミーゴであるホセ・アルカディオに再会したら。<br />
「よう！　（あの時）元気だった？」<br />
いきなり過去形を使うホセ・アルカディオの挨拶は、アロンソ・キハーノには、おそらくこう聞こえる。（えっ、いつのこと？）と、アロンソ・キハーノは心中戸惑う。<br />
するとホセ・アルカディオが、いきなり改まった口調になって、こう続ける。<br />
「（あの時／三人称複数は）元気だったのでしょうか？」<br />
（なんのこっちゃ？）　動揺するアロンソ・キハーノ。<br />
なんせスペイン語は主語を省略するため、この問いかけの「隠れ主語」となっている三人称複数が「彼ら／彼女ら／犬2匹／電柱3本」などのいったい何なのか、アロンソ・キハーノにはようとして判然としない。<br />
戸惑っていると、背後から、遅れて着いたアミーゴのサンチョ・パンサが現れる。それで、（あっ、俺たちのことだったのね）と、ようやくわかった。</p>

<p>　3人でカフェに行く。そういえば、と、共通の知人ペペの話になる。あいつ、どうしてるかなぁ？<br />
するとホセ・アルカディオが言う、「あぁ、ペペね。あいつ、甘いものが好きだったよなぁ」。<br />
アロンソ・キハーノは、これを聞いてギョッとする。「えっ、ペペ、いつ死んだの？」<br />
むろん、ホセ・アルカディオの言葉は、単に、ラテンアメリカでの「いまのことなのに過去形」語法なんである。<br />
　言語学の教授マリア・エレナによると、この語法には、「いまこの瞬間に好みが変わっているかもしれない」という配慮を見ることができるという。</p>

<p><br />
■ハポンの居酒屋の店員は、こう云うらしい：<br />
「ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか」</p>

<p>　友人が、某総合週刊誌の過去一年分を、どさっと届けてくれた。<br />
解散総選挙前の民主党躍進予想、旧日本兵騒動、ホリエモンいじり……などの記事のなかに、この表現に対するオヤジたちの苦言があった。<br />
そういえばこれも、「いきなり過去形」である。</p>

<p>　ただ私は、こういう言い方をするきもちが、少しはわかる。<br />
というわけで、「もしも」シリーズ第二弾。<br />
もしも自分が、いったんは「ビール」と注文しながら、やっぱり焼酎に変えようかなぁと思っている、居酒屋の客だとしたら。<br />
　もし注文の復唱後に「ご注文、以上でよろしいですか」と現在形で訊かれたら、「あ、やっぱりビールやめて焼酎」とは、どうも言いづらい。なぜか。<br />
この場合、私が行った「注文」と、店員が私の注文を受けて行った「復唱」と、店員が私に彼の復唱の正誤を問う「確認」とは、いずれも同じ、現在という時間の中にある。あるいは、そこには時間の経過がない。<br />
なので、たしかに「ビール」と注文した以上、その復唱の正誤（よろしいか／よろしくないか）を問われたら、私は理論上「よろしい」としか答えようがないのだ。</p>

<p>　それでもあえて「やっぱりビールやめて焼酎」と言う場合には、きっと「すみません、気が変わっちゃって」などと、気弱に言い添えるだろう。<br />
そうでないと、店員から「でもお客さん、たしかにビールって言いましたよねっ!?」と強く詰られる危険が、長じては、それに対して「はい、たしかにそうです。ええ、すべてはかくも優柔不断な私というダメな人間の責任です。生まれてきて本当にごめんなさい」と言いながら思わず泣き崩れてしまう危険が、生じてしまうような気がするからだ。<br />
極端だと笑うなかれ（笑ってもいいけど）。こちとら傷つくのも傷つけるのも極力避けたい、現代っ子なのだ（三十路だけど）。<br />
　で、結局、いちいちそんな言い訳をするのは面倒だから、「あぁ、焼酎に変えたかったなぁ」と思いながら、ずるずるビールをすするというオチになりそうだ。</p>

<p>　もしも、ここで「よろしかったですか」と過去形で訊かれたら、随分、気が楽だ。<br />
動詞の時制から見るに、この質問は、「過去の注文に対する復唱」の正誤しか問うてはいない。<br />
なので、過去は過去のこととして「はい」と肯定しておき、「ただ……」と訂正を加えるという語法で、簡単に「やっぱり（いまは）ビールやめて焼酎」と続けられる。<br />
これはまさに、「いまこの瞬間に好みが変わっているかもしれない」という配慮から現在のことでも過去形を用いる、ラテンアメリカ語法と同じではないか。<br />
過去形のおかげで気軽に訂正できる私もハッピーだし、また、その訂正を、自分の言ったことを否定されるのではなく、あくまで肯定の範疇で伝えてもらえる店員も、ハッピーに違いない。<br />
なんせこちとら、ちょっとでも行為を否定されたら全人格を否定されたと感じてキレちゃう、現代っ子なのだ（とくに居酒屋のバイトの年齢層は、10代後半～20代前半だろうし）。</p>

<p>　ちなみに「注文の方」という言い回しも、「消防署の方から来ました」と言って消火器を売りつける悪徳商法を髣髴とさせて（かどうか）、いやらしい、という意見があるらしい。<br />
でもこれもまた、店員が「注文ではない方」という可能性を提出することで、客が「はい、ただ（注文ではない方として）テーブルを拭いてもらえますか？」などと、肯定＋訂正の文法での意思表示ができるようにしているのではないだろうか。<br />
おお、なんて心優しい気遣いではないか。<br />
クリーニングを経るとはいえ使い回しのおしぼりで顔や脇を拭くがさつなおじさんたちには、この優しさ（あるいは気弱さ）が、なかなか伝わらないのではないかしら。</p>

<p><br />
　「過去形での問い」は、かくも優しく響く。<br />
　もうひとつ、「もしも」シリーズ。もしもレジで一万円札を出したら、店員が間違えて千円だと思った場合。<br />
ここで店員が「千円からで、よろしかったでしょうか？」と過去形で言ったなら、「あっそれ、万札だにょーん」と、気軽に訂正できる。<br />
店員が間違った（＝よろしくなかった）のは、過去のことだ。だから私は、現在の彼を責めずに済む。<br />
これがもし「千円からで、よろしいですか？」と現在形で問われたら、目の前の彼の現在の誤りを、指摘しなければならない。<br />
「あなたはいま間違っています」と告げることは、「あなたはさっき間違っていました」と告げるのに比べると、かなり心苦しい。</p>

<p>　あるいは、そのような特殊な場合ではなくても、現在形の問いは、やはり少しきつく響く。<br />
「千円からで、よろしいですか？」という問いは、単なる事実確認を超えて、「お客さん、本当にこれでいいんですね？」とでもいうように意思確認を強く迫る、ある種の恫喝を含んだものとして感じられるのだ。<br />
みのもんたの「ファイナルアンサー？」と、同じである。<br />
この「ファイナルアンサー？」が、そう問われる者をいかに謂れ無き不安に陥れるかは、皆さんご周知の通りである（私も帰国時に一回見ました。すごかった）。<br />
もしみのもんたからレジで「千円からで、よろしいですか？」と問われたなら、気の小さい私なんて簡単に追い込まれて、思わず「あっ、あの、どうしようかな。ひょっとしたらよろしくない、ですかね？　やっぱりちゃんと小銭用意しとかなきゃ、ダメ、ですよね。そうですよね。本当にごめんなさい、こんなダメな人間で。すみません、また出直します」と、買い物を諦め、情けなさに泣きながら家に帰ってしまいそうだ。</p>

<p><br />
　「おめでとうございました！」も、同じように、傷つき傷つけることを恐れる現代っ子的優しさから発せられた言葉なのだろうか。<br />
このレコ大での場合もたしかに、ノミネートという行為自体は終わっているのだから、めでたさもそれに対応して過去形で表されている、と、考えることもできる。<br />
では、そうすることで、いま現在相対する当事者間に生み出したものはなにか。<br />
「いまはおめでたくない」と気軽に表明できる可能性か？　いったい、なんのために？</p>

<p>　もしも私がノミネートされた歌手だったら、「おめでとうございます」と現在形で言われた方がうれしいと思う。あるいはもしも私の家族や親しい友人がノミネートされたなら、やはり「おめでとうございます」と、いまこの現在の慶事として言祝ぐだろう。<br />
「おめでとうございました！」と過去形で言われたなら。<br />
ハッとする。「あっ、もうめでたいことは、終わり？」<br />
そして、醒めた頭で考えるだろう。（いや、そうだよね。うん、わかってる。いまの芸能界で、ちょっとくらい持ち上げられていい気になるような無様な勘違い、私はしないから）</p>

<p>　もしもホリエモンが、プレゼンテーターとしてではなくノミネート歌手として登場していて、そこで「おめでとうございました！」と過去形で声を掛けられていたら、たまたまその映像を１ヵ月後に見ることになった私は、たいした違和感も感じなかったかもしれない。<br />
一瞬でおめでたくない状況になってしまう危険を大いに孕む現代日本で言祝がれる者にとっては、過去形の「おめでとうございました！」の方が、優しく響くのだろうか。<br />
　いや、んなこたぁないだろう。<br />
どうも「おめでとうございました！」という言葉には、私は、対象への優しさよりは厳しさを感じるのだけど、どうでしょう？</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-02-09T10:45:39+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/22_1022.html">
<title>リスボンと島原をつなぐもの</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/22_1022.html</link>
<description><![CDATA[<p> 私の父は、長崎県は島原半島の南有馬というところに生まれた。<br />
　どうやら高木ブーの町らしい。幼稚園の頃そう思っていたのは間違いで、南有馬町を含む一帯は「南高来（たかき）郡」という。<br />
　母の手によるモンチッチ・カットに半ズボン姿、男の子と間違われてばかりいた私は、その父の生家を訪れるたび、隣の空き地で遊んだ。<br />
　公園ともいえないがらんとしたその場所には、なぜかぽつんと石像があって、蜘蛛の巣を払いながらよじ登って遊んだ。そこからはすぐ、海が見えた。</p>

<p>　この場所を、大人は「原城跡」と呼んでいた。碑なども、あったのかもしれない。<br />
　嘉永14（1637）年、キリスト教徒の貧しい農民が籠城し戦った、あの「島原の乱」の舞台である。<br />
　少年の姿をした石像は、たしかに天草四郎だった。</p>

<p>　有馬にはその昔、神学校もあった。<br />
　1582年２月、ここの学生４人が、長崎から船に乗り、西へと旅立った。いわゆる天正少年使節である。<br />
　彼らは波濤万里を越え、リスボン（当時スペイン領）に上陸を果たす。そこから陸路で東へと進み、現在私が住んでいるマドリードも訪れた。マドリードは当時、絶頂期にあったスペイン帝国の首都となってほんの20年余り。少年たちは、完成したばかりの壮大なエル・エスコリアル宮で、大いに歓待されたという。<br />
　彼らが日本に帰国したのは、８年後。<br />
　しかしその時にはすでに、豊臣秀吉が切支丹禁教令を布告していた。本能寺の変が起こったのは、少年たちの船出からたった４ヵ月後のことであった。<br />
　４人の使節うち、ひとりが病死、ひとりは棄教し、ひとりは棄教せず国外追放。<br />
　そしてひとりは、殉教。「私がローマに行った中浦ジュリアン神父です！」　65歳になった「天正少年」は穴吊にされながら、群集にそう叫んだという。<br />
　その４年後に、島原の乱が起こる。</p>

<p>　島原の乱で、農民は、「さんちゃご！」という鬨の声を上げた。<br />
　さんちゃごとは[Santiago]（サンティアゴ）、スペイン語で聖ヤコブのことだ。スペインの守護聖人である、いまもなお。<br />
　９世紀のレコンキスタ戦線に白馬に跨り颯爽と現れ、瞬く間にイスラム兵を蹴散らしてキリスト教徒に勝利をもたらしたという聖ヤコブは、しかし、島原には現れなかった。<br />
　島原の乱で殺された一揆軍の総数、約27,000。<br />
　女・子どもを焼き黒煙を上げて燻り続ける原の城から、冬の海を背に仰ぎ見れば、すでに多くの殉教者を呑み込んできた「地獄」を戴く雲仙が聳えていただろう。</p>

<p>　「さんちゃご」という言葉とともに日本にキリスト教を伝えたのは、バスク地方出身のスペイン人、フランシスコ・ザビエルである。</p>

<p><br />
■リカルド・アブランテスはこう云った：<br />
「聖ヤコブの遺骸が発見された。ということになっていますが、まぁありえないですね」</p>

<p>　711年、イスラム勢力がイベリア半島に侵入。支配下に入ることを是としない少数のキリスト教徒が、追われるように北へと逃げる。<br />
　722年、山中での小さな戦いに勝利したキリスト教徒が、アストゥリアス王国を建国。これが、レコンキスタ（国土再征服運動）の始まりである。</p>

<p>　８～９世紀といえば、ヨーロッパの大半は、カール大帝によって再統一され、カロリング・ルネッサンスなどと言いながら、学問や芸術を花開かせちゃったりしている頃である。しかし辺境のスペインはひとり、イスラム勢力と、必死で小競り合いを続けていた。<br />
　絶頂期にあったイスラム勢力を相手に苦戦していた813年、半島北西部から、聖ヤコブ（キリストの12人の弟子のひとりで、44年、ヘロデ王に首を刎ねられパレスティナで殉教している）の遺骸（もちろん腐っていない）が見つかった……という噂が流れた。<br />
　やぁ、ありがたや。天下泰平のヨーロッパから、数多のキリスト教徒が、この「聖地」を訪れはじめる。サンティアゴ巡礼道の始まりである。<br />
　巡礼のメイン・ルートは、フランス領内に発し、ピレネー山脈を越え、イベリア半島北部をひたすら西へ西へと進むもの。そのほとんど果てに、最終地のサンティアゴ・デ・コンポステラがある。<br />
　エルサレムへの十字軍も行われていた12世紀には、この巡礼道を、年間約50万人もが行き来していたという。</p>

<p>　レコンキスタにおける最大の課題は、実は、戦闘そのものよりも、再入植（レポブラシオン）にある、らしい。<br />
　戦闘で得た土地を、引き続き占有し、領地として確保すること。そうしなくては、局地的な勝利など意味を失う。これは中世の国盗り合戦なのだ。<br />
　と考えると、ひっきりなしに行き来する50万もの巡礼者は、再々征服を狙うイスラム教徒にとって、どれほど邪魔くさかったことだろうか。いやはや、聖ヤコブさまさまである。<br />
　さらには、イベリア半島だけでもその大半を、その先を見ればモロッコから遥か中東の先まで支配するイスラム帝国と戦うまだ少数のキリスト教徒にとって、「ピンチになったら必ず奇跡が起こる」というイメージは、竦む足をどれだけ奮い立たせてくれただろうか。<br />
　カミカゼ、ちがった、聖ヤコブさまさまである。</p>

<p>「まぁ正直、ちょっとタイミングが良すぎますわな」<br />
　芸術史の教授リカルドは、そう云うと、意味ありげに目を細めた。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「レポブラシオン（再入植）を知らずして、現代スペインを語ることなかれ、よ」</p>

<p>　８世紀にアストゥリアス王国を建設したキリスト教徒は、まず、カンタブリア海に面する半島最北部を制圧。<br />
　ここで王は、考えた。それまで西ゴート王国が採用し、かつ、それがため簡単にイスラム勢力に滅ぼされた、諸侯への領地分配は絶対に避けなければならない。なぜなら王自身が、そうして自ら国を滅ぼした西ゴート諸侯のひとりだったのだ。<br />
　そこで王は、貴族や聖職者などの側近を選び、新たに獲得した、最終的には王の所有物である土地の統治を委ねた。このあたり、織田信長のコンセプトに、似ているかもしれない。</p>

<p>　10世紀には、聖ヤコブのおかげもあり、キリスト教勢力は半島の北から1/4ほどを支配。王国も首都を南に移し、レオン王国と名を改める。<br />
　時の王は、これらの新たな土地を、望む民に各々分け与えることにする。むろん、力を持って貴族などにならない程度の、単なる自作農サイズに留めた。そのためこの地域ではミニフンディオ（小農制度）が発達し、現在では、PP（国民党）など保守勢力の強力な支持基盤となっている。</p>

<p>　11世紀、レコンキスタはさらに進み、スペインのほぼ中央に位置するトレドを奪回。これで半島の北の約1/2が、キリスト教の支配下に入った。王国の名はカスティージャに、その都はトレドに定められる。<br />
　この一帯にはレポブラシオンのため、遠く外国からも含め、多くの移民が集められた。彼らを統治するため、法により、小村がいくつも作られた。<br />
　やがて時代が下ると、村は交易などによって富を蓄えるようになる。経済発展に欠かせない、ブルジョア階級の萌芽のプロセスである。</p>

<p>　ところが中央集権化を図る王はこれを嫌い、後に首都を選りすぐりの寒村マドリードに移転させると、周囲の都市の特権をことごとく廃止。新首都で商業が発展したのならまだしも、折り良く「発見」した新大陸から湧き出す金銀にあぐらをかいていた中央スペインでは、ついにブルジョア（富裕商工業者）が誕生することはなかった。<br />
　天正少年使節が訪れたエル・エスコリアル宮（建物の幅207m×奥行き161m＝甲子園球場のグラウンド＋スタンド半分の広さ）をきらきらしく飾っていたのも、新大陸の金銀、イタリアの絵画、フランドルのタピストリーなどである。<br />
　フェルミンによると、中央スペインは「金を使うことしか知らないバカ息子」だそうだ。</p>

<p><br />
　12世紀になると、中央ヨーロッパでは、エルサレムへの十字軍遠征が花盛りである。<br />
　こちらも聖戦だということで、わざわざイベリア半島くんだりまでやってくるキリスト教徒まで出てくる始末。レコンキスタも、半島の北部3/4を占めるまでに進展する。<br />
　この土地の管理を、王は、ちょうど十字軍遠征に伴って創設されていた騎士団に委ねた。宗教心のみならず騎士道精神をも併せもつ彼らなら、私腹を肥やす心配はない。<br />
　ただ農民ではない彼らは、土地を開発する意欲に欠けていた。そのためこの地方は、今日まで、もっとも発展の遅れた地域になっている。<br />
　『ドン・キホーテ』の舞台ラ・マンチャが、ここだ。たしかにこの騎士、ありとあらゆる変わったことをしたが、生産的なことだけは一切しなかった。マドリード郊外の生まれであるセルバンテスが、わざわざ小説の舞台をラ・マンチャに選んだ理由のひとつは、このあたりにもある。<br />
　『ドン・キホーテ』初版発行は、天正少年使節の到着から21年後。</p>

<p>　13世紀、イスラム勢力内部の瓦解もあり、ついにレコンキスタは、降伏したグラナダ王国を除いて半島南端まで到達する。<br />
　あまりに急速に進んだため、王は、緊急措置として、軍隊の主だった者に広大な土地を委ねた。たとえば現在のセビージャ１州は、丸ごと、アルバという軍人に与えられた。<br />
　これが以前紹介した、後に国王を遥かに凌ぐ財力を有するようになり、現在も間違いなくスペイン全体の資産のうち一定の割合を支配する大貴族、アルバ公爵の起源である。<br />
　半島南部アンダルシアでは、これらごく少数の新興大貴族が、99％以上の土地を所有するという異常事態になった。後れて北から到着した農民は、仕方なく、その土地を借りて耕作する。耕せど耕せど、肥えるのは資本家ばかりなり。そのためアンダルシアには、現在も共産主義者が多い。なんせいまでも、土地の多くが貴族のものなのだから。</p>

<p>　また半島の東でも、アラゴン王国が、カタルーニャ諸伯領との連合王国を形成しながら、やはり同じようにレコンキスタを進め、グラナダ王国を挟んで南端に達していた。<br />
　こうして再征服したバレンシア周辺は、その名を冠したオレンジで知られるように、農業生産力が非常に高い地域である。そこでここでは、イスラム教徒を追放せずに農奴化した。当然、扱いは酷い。15～18世紀、この地域の乳児死亡率は、ヨーロッパで最悪だったという。<br />
　現在この地域は、スペインで唯一の共和国主義者のメッカとして知られる。諸悪の根源である王制への恨みは深い。スペインは現在も議会君主制であり、王が、軍隊の総司令官を務める。当然、公式行事には軍服で現れる。</p>

<p></p>

<p>　1492年１月、半島最後のグラナダ王国が陥落。10月、コロンブスが新大陸を発見。<br />
　スペインの目がギラリと、「海の向こう」に向けられた。</p>

<p>　その直前となる、1491年のクリスマス・イブ。<br />
　スペイン北部のバスク地方で、イグナティウス・ロヨラが生まれている。<br />
　彼は後にパリで、６人の同志とともに、イエズス会を結成。そのうちのひとりが、同じバスク出身のフランシスコ・ザビエルだった。<br />
　1541年、アジアへの布教を志すザビエルが、リスボンから出航。<br />
　その同じ港に、43年後、天正少年使節を乗せた船が着く……。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-01-22T10:22:37+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/09_1103.html">
<title>虎の威を借る狐たちの物語</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/09_1103.html</link>
<description><![CDATA[<p>「歴史を勉強してなんになる！」<br />
　なんて青臭いことを言う奴ぁ、もういないんだろうか？</p>

<p>　かつてテレビで、中学生が「英語なんて勉強しなくていい。俺は日本人だし外国行かないから関係ない」と言っていたのを聞いたとき（言わされていたのかもしれないけど）、私はごく真面目に、「まぁそう自分を安くつまらなく見積もるなよ」と、こころンなかで突っ込んだ。<br />
　縁あって日本に来た別嬪で気立てのよいアメリカ人（うちの義姉のことだ）に恋をする（うちの兄のことか？）かもしれないじゃあないか。<br />
　海岸を歩いていて見つけたボトルのなかの紙片に、なにか読んだらすごくワクワクするに違いない英文が書いてあるかもしれないじゃあないか。<br />
　なぜかいきなり手渡された５分間で正しく操作しないと地球ごと吹っ飛んでしまう最終兵器の説明書きが英語だけかもしれないじゃあないか。そのとき、地球を救えるのはお前だけかもしれないだぜ？</p>

<p>　と書きつつ思い出したのだけど、私はすごくひねこびた子どもで、小学５年のときSF作家の星新一に宛てて、「あなたの本は全部好意的に読んでいますが、最新作はどうしてもいただけません」というような手紙を送ったことがあった。<br />
　その翌年の正月、星新一から年賀状が届いた。びっくりした。<br />
　それを受け取ってはじめて、私は自分の書いた文章が本当に星新一に読まれるんだということをまったく想像していなかったことに気づいた。「どうせ私なんかの手紙とか読まんとばい」、そう思っていたのだ。<br />
　失礼だ。もちろん相手にもものすごく失礼だけど、私にもひどく失礼だった。<br />
　そういえば私は、「モル濃度とかサインコサインタンジェントなんて知らなくていい」と言っていたクチだった。私自身が、そういう自分に失礼な奴だったのだな。</p>

<p>　というわけで、スペインの歴史なんかも、たまにはどうぞ。<br />
　あっ、前回の予告と違って、スペインにおけるイスラム勢力の栄枯盛衰の話です。<br />
　レコンキスタの続きは、たぶん、次回。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「そして結局セウタ提督フリアン伯はどうなったかって？　知らなーい」</p>

<p>　５世紀のローマ帝国衰退後、最初は南仏トローサ（トゥールーズ）に、やがてフランク王国に破れた後はイベリア半島中央のトレドに都を置き、栄えた西ゴート王国。<br />
　といっても、もともと遊牧民であったため、部族間の競争が激しく、どこも自分のところから王を出そうとするために策略・弑逆・シュラシュシュシュが絶えず、王の平均在位年数は２、３年だったという。<br />
　710年に即位した、情熱のアンダルシアはグラナダ出身のロドリゴ王も、そういう西ゴートの王のひとりであった。</p>

<p>　即位の翌年、最短で14kmしかない海を挟んで向かい合う北アフリカはセウタ提督フリアン伯が、ロドリゴの王位を簒奪せんと、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったイスラム勢力の長ムサに援助を依頼。<br />
　たぶんニヤリと笑っただろうムサは、ジブラルタル領主タリク（Gibraltarは、アラビア語で「タリクの岩」が語源）に命じ、ベルベル族を率いて半島に侵入させる。<br />
　タリク及びムサは首尾よくロドリゴを打ち破り、そして当然のごとく、フリアン伯も放逐したらしい。まあねー。ハリウッド映画でも、姑息な裏切りを画策した奴ぁ真っ先に殺される運命なのだから。<br />
（ハッ、高校のとき友人から「『身から出た錆』ってあんたのためにある言葉のごたる」と言われた私っていったい……）</p>

<p>　こうしてスペインは、ダマスカスを首都とするウマイヤ朝イスラム帝国の一州となる。<br />
　しかし直後から、イスラム諸族・派閥間のポスト争いが激化。各々が虎の威を借りんと帝国各地から有力部族を招聘したため、スペインはイエメン人、エジプト人、シリア人、レバノン人などが入り乱れて収拾のつかない状況になった。<br />
　そしてちょうどそのころダマスカスで、アッバース家がウマイヤ家に替わって帝位に就くという激変が出来。<br />
　迫り来る皆殺しのブルースから逃れ北アフリカまでやってきたウマイヤ朝の廃太子アブデラマン（アブド・アッラフマーン）を、スペイン領内で優位に立ちたいイエメン人が招聘。<br />
　アブデラマンは（おそらく）ほくそ笑みつつ招きに応じ、アブデラマン１世として即位して中央からの独立を宣言するや（いわゆる後ウマイヤ朝）、一族郎党を呼び寄せて周囲を固め、一挙に独裁体制を整えた。<br />
　アブデラマン１を利用しようとしたイエメン人は、逆に利用されてしまったというわけだ。</p>

<p>　虎の威を借るキツネは、虎にばっくり喰われてしまうんだぜ、と、歴史は語る。<br />
　それを聞いて私は身の竦む思いがする。<br />
　他人事じゃないぜ、気をつけろよ私。これが「身から出た鯖」ってやつだ。……えっと、生き腐れに注意、だっけ？</p>

<p><br />
■リカルド・アブランテスはこう云った：<br />
「アルハンブラ宮殿は、泥でできています」</p>

<p>　時は移って10世紀。上記の初代王の曾孫となるアブデラマン３世は、栄えに栄える国力を背景に、ついにカリフ（預言者の代理人）を名乗る。ムハンマドをも恐れぬ所業、といったところか。<br />
　彼らの宗教戦争、つまりはレコンキスタに対するレコンキスタも、この時期はキリスト教国の弱体化もあって大きな成果を挙げている。<br />
　当時の最重要都市であったトレドや、さらには「モーロ人殺し」（まぁお下品）の異名をもつレコンキスタのシンボル・聖ヤコブを祀る聖地サンティアゴ・デ・コンポステラまでをも、首尾よく再々奪回して、意気揚々だった。</p>

<p>　このカリフ帝国の首都が、アンダルシアのコルドバである。<br />
　現在は人口約35万だが、当時は人口50万～100万（誤差大きすぎ！）。300あまりのイスラム寺院があり、ヨーロッパ世界よりも約２世紀早く大学が作られ、アレクサンドリアと並び称される大図書館があった。<br />
　ちなみに、地元出身の思想史教授オルデンも、また私もおすすめなのが、世界遺産指定メスキータ前にあるレストランEl Caballo Rojo「エル・カバージョ・ロホ」。夏はコルドバ独特の、喉が詰まるほど濃いガスパチョ「サルモレホ」をどうぞ。</p>

<p>　しかし花の命は短くて。アブデラマン３世の死後、息子のヒシャーム２世がダメな野郎だったのに対し、出来すぎる宰相アルマンソールが華々しい戦績を挙げて、領国の半分を支配するようになる。<br />
　そうなると、もうどうしようもない。<br />
　1031年、ヒシャーム３世が死亡するや、それまでも子息を宮廷に送り込もうとして反目しあってきたイスラム貴族の思惑と、強いカリフの不在とが重なって、帝国はあえなく解体。スペインは、各々の貴族が支配するタイファという小国割拠の時代に入る。</p>

<p><br />
　歴史を学んでいなかったのか。<br />
　あるいはそういうことが繰り返して起こることこそが歴史の本質なのか。</p>

<p>　スペイン全土に20～30ほども分立し、互いに反目しあう諸王国はどうしたか。<br />
　自国を守り他国に対して優位に立つため、それぞれ北アフリカからベドウィン（遊牧民）の部族を招いたのだ。<br />
　時期によって異なるが、彼ら、ムラービト、ムワッヒド、ベニメリンなどは、請われてスペインに入るや、当然のごとく居座り、それぞれ社会的に高い地位を独占してしまう。<br />
　このようなゴタゴタを利用して、キリスト教徒はレコンキスタをどんどん進め、やがてグラナダを除いた半島全域を支配下に置いてしまった。</p>

<p>　1240年、グラナダのナスリ王朝は、カスティージャ王国への多額の朝貢を約して降伏。かたちだけは独立を保持するものの、1492年、その気になったカトリック両王によって軽く滅ぼされてしまい、これによってスペインからイスラム勢力は駆逐された。</p>

<p><br />
　とはいうものの、グラナダ王国は250年、つまりは江戸時代よりちょっと短いくらいのあいだ、続いていた。もちろん明治維新から今日までより、ずっと長い。<br />
　万年雪を頂く3,000m超級のシエラ・ネバダ山脈（まさに「雪冠山脈」を意味）の雪融け水が潤す耕地では、アラビア由来の果実や野菜が作られ、盛んにヨーロッパに輸出されていたという。グラナダの語源を、ザクロ（同じくgranada）に求める説もある。<br />
　カスティージャ王国の庇護下に入ったため、戦争をする必要もない。<br />
　戦争をしなくてもいいことになっている国が内部でどれだけ栄えるかというのは、私たちがよく知っているところのことである。</p>

<p>　グラナダ王国は、栄えた。<br />
　しかしそれは、許された範囲内でのものであった。たとえば王宮建設のために、キリスト教国圏内から大理石や白御影石を大量に搬入することはできなかった。<br />
　彼らは手持ちの泥と土と水とで、つまりは日干しレンガぐらいを材料として、王宮を作らなければならなかった。まさに砂の城だね。<br />
　その建材の貧相さを隠すため、漆喰やタイルなどで、一面を覆いつくした。<br />
　スペイン語の[decorar]（装飾＝デコレーションする）は、[de]（～しない）＋[corar]（掘り起こす）なのではないかと、私は考えている。</p>

<p>　こうしてできたのが、「イスラム建築の精華」や「イスラムの徒花」と称される、アルハンブラ宮殿である。"Quien no ha visto Granada no ha visto nada."（グラナダを見てない者は、なにも見てないだ）という成句もあったりする。<br />
　美しい。とくに有名なのは繊細優美な列柱で有名なライオンのパティオだが、もともとは白い柱のあいだに色鮮やかな草花が乱れ咲き、現在よりも数段美しかったという。<br />
　しかし、伸びた根が土中から宮殿の床を持ち上げて壊してしまったため、数十年前に草花が文字通り根こそぎ抜かれてしまった。<br />
　ひょっとしたらそういう脆弱さもが、グラナダ王国の儚さとあいまって、妖しいまでの美を醸し出しているのかもしれない。<br />
　……と書いていて、新古今和歌集を思い出した。<br />
　アルハンブラ宮殿も新古今和歌集も、ともに13世紀の作品である。</p>

<p><br />
　続く14世紀、スペイン全土を異常気象による飢餓とペストが襲い、さらには「残酷王」カスティージャ王ペドロ１世と異母兄エンリケ２世の反目を発端とする内戦が近隣諸国も巻き込んで行われたため、国土が、壊滅的なまでに荒廃する。</p>

<p>　スペインは現在もなお、そこから復興していないと言ってもいい。<br />
　ドン・キホーテが歩いた400年前のラ・マンチャ（カスティージャ）の大地は、今日もそのまま、すぐそこに広がっている。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-01-09T11:03:41+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/26_1006.html">
<title>バルセロナのサッカーファンはなぜフィーゴに豚の頭を投げつけるのか？</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/26_1006.html</link>
<description><![CDATA[<p>　これは又聞きなのだけど（ハッ、ほとんどのことが又聞きではないか）。<br />
　1992年のバルセロナ・オリンピックの開幕前、世界各国の新聞に、一面全部を使った次のような広告が載せられたという。</p>

<p>（カタルーニャ州およびバルセロナを示す地図とともに）<br />
「バルセロナは、カタルーニャです」</p>

<p>　しかしイマジン、想像してもごろうじろ。<br />
　たとえば先ごろ万博会場となった愛知県が、世界中に向かって、<br />
「愛知県は（日本でなく）中部地方です」<br />
「これまで（日本の東京ではあったけど）オリンピック経験のない愛知県を次回開催地に！」<br />
「（EUはないからたとえば）国連は、日本とは別に、中部地方を一国として扱え！」<br />
　というメッセージを発したならば。<br />
　けっこう、ぎょっとすると思う（と書いて、これで「ぎょっとする」自分にいまぎょっとしたのだが、それはさておき）。</p>

<p><br />
　有名な話だが、バルセロナで「あなたは何人（なにじん）ですか？」と訊くと、まず「カタルーニャ人です」という答えが返ってくる。<br />
　もしうっかり「あなたはスペイン人ですか？」と訊こうものなら、「違う、一緒にすな！」と怒られるかもしれない。<br />
　ちょうどそれはコチコチの阪神ファンに、「西武の田淵、大好きだったんですよ」とうっかり話してしまったのと同じような状況だ（つまりベースにある「好意」とて、「勘違い」された彼の怒りを抑える効果をもたないだろうという意味）。</p>

<p>　現在、カタルーニャ州は高度な自治権を有しており、道路標識も役所や小学校から家庭への通知も、公用語のカタルーニャ語が用いられている。<br />
　カタルーニャ語のテレビも新聞も雑誌もあり、ハリウッド映画だってカタルーニャ語吹き替え。<br />
　学校の授業はカタルーニャ語で行われ、そこでは標準スペイン語（カステジャーノ）は「外国語」として学ぶ。<br />
　まぁスペインの中での、ちょっとした「特別扱い」だ。<br />
　ただし私はどうしても「中央」マドリードにいるせいで、そういうの（たとえば、F.C.バルセロナ（＝阪神）からレアル・マドリー（＝巨人）に移籍してきたフィーゴに、両チームの試合がバルセロナで行われた際、「裏切り者！」の合唱とともに豚の頭が投げつけられることなんか）を、「ちょっとそらさすがにやりすぎじゃない？」と思うきもちは、ないわけでもなかった。<br />
　あった。<br />
　しかし、この度、かなり認識を改めましてございます。（無批判ではないけれど）<br />
　いやはや歴史も、学んでみるもんどすなぁ。あぁ冷や汗。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「カタルーニャの起源は、フランスになりまーす」</p>

<p>　405年、西ローマ帝国が国内事情からグダグダになって国境警備に手がまわらなくなったところで、ライン川の向こうの寒いところにいたゲルマン系諸族が、より豊かな土地を求め、川を越えて帝国侵入。<br />
　それはゲルマン諸族による、「西ヨーロッパ争奪イス取りゲーム」であった。<br />
　最大の勝者フランク族は、フランスあたりのいちばん良い場所を占領。<br />
　居場所を見つけられなかったいくつかの民族はフランク族によってさらに西へと追われ、ご苦労なことにピレネーを越えて、そしてまさか大西洋を渡るわけにもいかず、イベリア半島に留まり割拠する。<br />
　西ゴート族は、しかしこの流れにすっかり遅れを取っていた。<br />
　彼らは頭を働かし、まず、ローマに攻め込んでその力を見せつけるという手段に出た。<br />
　そして怯える西ローマ帝国皇帝に対し「なあにローマを取ろうってわけじゃござんせん。それどころか、あっしがお前さんのためにですよ、あのごちゃごちゃしてるイベリア半島をちゃちゃっと綺麗にしてきてみせまさぁ」と約束して信用され、そして実際に見事に駆逐し、んでもって当然、そのままそこに居座った。<br />
　475年、フランク族を牽制することができるトローサ（現トゥールーズ）を首都に定め、西ゴート王国の独立を宣言。<br />
　翌年、西ローマ帝国滅亡。<br />
　507年、西ゴート王国とフランク王国とが決戦。敗者となった西ゴート王国はピレネー以北の領土を失い、つまりはイベリア半島に引っ込むことで手打ちとなり、首都を半島の真ん中のトレドに移す。</p>

<p>　そんなかんじで、約200年が過ぎる。</p>

<p>　711年、西ゴート王国が国内事情からグダグダになっていたところ（協力貴族に気前良く土地をあげ過ぎたため。あら日本の歴史と同じね）、自身の出世とライヴァル放逐を計る国境警備担当貴族の手引きによって、北アフリカまで来ていたイスラム勢力がジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に侵入。<br />
（もちろん、この裏切り貴族は、新支配者となったイスラム勢力により、ライヴァルともども放逐された）<br />
　グダグダの王国はドミノ倒しのように次々と征服され、イスラム勢力はなんとほんの約20年後には、フランク王国の奥深くまで攻め入っていた。</p>

<p>　が、732年、ついに現在の北フランスとなるトゥール－ポアティエ間の戦いで敗北。<br />
　このときの手打ちは、両国の国境を「北はピレネー山脈／南はエブロ川」と定めるというもの。そしてこの両者の間に帯のように広がる地域は「イスパニア辺境領」として、勝者フランク王国の支配下に置かれることになった。<br />
　ピレネー山脈の清冽な雪解け水を湛える肥沃な土地、地中海に面した温暖な気候に天然の良港……。<br />
　イベリア半島には珍しいこのような好条件に恵まれたここイスパニア辺境領の、中心的港町こそが、バルセロナだったのである。</p>

<p>　で、100年弱が過ぎる。</p>

<p>　810年、フランク王国が国内事情からグダグダになってしまったため、手がまわらなくなった国境警備を放棄。<br />
　イスパニア辺境領の警備を担当していた各伯爵が、この機に乗じて、それぞれ伯爵領として独立する。<br />
　これが今日の、カタルーニャ州の起源である。<br />
　なるほど道理で、知人のカタルーニャ人は、「ありがとう」というとき、「グラシアス（カタルーニャ語・標準スペイン語ともに）」ではなく、「メルシー」と言うわけだ。（しかも、ジャン・レノに似てるし）<br />
　彼らのオリジンは、現在のフランスにあったわけなのね。</p>

<p>　しばらくいくつあの伯爵領が分立していたカタルーニャだが、やがて彼らの代表としてバルセロナ伯が選ばれ、全体がバルセロナ伯国としてまとまることなった。<br />
　諸侯の「代表者」である彼の権力は、「すでに存在するコンディションを背景に発展した国のトップ」によくあるように大きく制限されており、戦費はもちろん、自身の食費ですら、有力諸侯による議会の承認を必要としたという。<br />
　当然、あまりにも諸侯の利害に反するようなら、簡単に首をすげ替えられた。<br />
　なぜなら彼をバルセロナ伯たらしめている権力の源は、諸侯の利害関係の一致という点にしかないからだ。<br />
　カタルーニャではそういう「国民の代表者タイプ」以外の「トップ（＝王）」を、決して戴いたことはない。<br />
　後にバルセロナ伯が隣のアラゴン国王を兼ねることになるが、これとて中身は同じでああった（ちなみに「彼が王である必然性はない」という考えは、血で血を洗う絶え間ない王位簒奪戦を生んだ）。</p>

<p>　ということで、こんなことにもなっている。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンは、こうも云った：<br />
「歴代のスペイン国王は、現国王も含め、カタルーニャ自治州に一歩足を踏み入れれば、『王』ではなく、『バルセロナ伯爵』という地位になります」</p>

<p>　どびっくり。</p>

<p><br />
　さて、そういうわけでカタルーニャは、あの有名なレコンキスタによってキリスト教徒が再征服した土地、「ではない」。<br />
　「ではない」ことで、後に（現在まで）スペインの主導権を握ることになったスペイン中央部カスティージャと、文化的背景に大きな違いができた。</p>

<p><br />
　711年、ジブラルタル海峡から半島に侵入したイスラム勢力は北へ北へと攻め上がり、上がりすぎてフランク王国内で行われたトゥールポアティエの戦いで敗北したが、エブロ川以西のイベリア半島全域を掌握した。<br />
　イスラム勢力の北上に際し、それまで少数の西ゴート族に支配されていたヒスパノ＝ローマ人やユダヤ人は、税金を払えば「自由」を認めてくれた彼らの傘下に、率先して編入されていった。<br />
　では、イスラム支配によってほんの20年足らずの間にあれよあれよと特権を失ってしまったほぼ唯一の存在、西ゴート族（貴族）はどうしたか。<br />
　大部分は、イスラム傘下に入った。税金を払い社会的地位を諦めれば、彼らは「異教徒」にも寛大だったからだ。（西ゴート族は、当初キリスト教の異端アリウス派だったが、後にカトリックを国教化している）<br />
　しかしそれを受け入れないごく少数が、イスラム勢力に追われるように北へ北へと逃げた。<br />
　そして半島北部アストゥリアス地方の、かつてローマが陥落させるまで300年を要した険峻な山中に籠もった。<br />
　寒さと飢えに凍えながら、彼らは、考えた。<br />
　それでも僕らは戦うんだ。なぜならこれは、異教徒の魔の手からキリスト教を守る、聖戦だからだ。<br />
　状況の困難さが、彼らをファナティックにした。<br />
　722年、西ゴート貴族を中心としてまとまった勢力が山の中で行われたコバドンガの戦いでイスラム勢力に初勝利し、ここにアストゥリアス王国を建設。<br />
　こうして、キリスト教勢力によるレコンキスタ（国土再征服運動）が始まった。</p>

<p>　以上が、カスティージャ（中央スペイン）における王制の起源である。<br />
　なので、現在も国王の後継者の地位にある皇太子（現在は、フェリペ皇太子。その後は、先日生まれたレオノール王女の予定）は、「アストゥリアス皇太子」の称号で呼ばれる。</p>

<p><br />
　さて、戦争を主な仕事とする彼らは、とにかく強い戦闘集団を作って効率よく戦うというのを最大の目的に（なんせもともと土地も人民もない兵士の集団なので、統治を考える必要はない）、全権力を掌握する長としての「王」をトップに戴いた。<br />
　他のヨーロッパ諸国やカタルーニャと違い、まさにゼロから始まったカスティージャでは、既存のコンディションに配慮する必要はまったくなかったのだ。<br />
　この「戦闘集団としてのトップ」は、ケルト文化での「カウディージョ」（個別の戦いに際して選ばれる頭領で、勇敢であらば身分は関係なく羊飼いでもなれ、そして戦いが終わると職を解かれる）に似ているが、大きく違うのは、カスティージャの王は実に今日まで、その職を解かれていないという点にある。<br />
　なんせ、この戦争＝レコンキスタは、約800年も続いたのだ。<br />
　しかも強大な敵に一致団結して立ち向かうため、彼らは「王」に、ケルト文化にはなかった世襲制度を取り入れた。そのため、力をもった新興貴族が気軽に実力で王位を簒奪する、なんてことも封じられた。<br />
　こうして1492年にレコンキスタが終わった時、もはや誰もが、800年の間に化け物となっていたスペイン王に向かって、「あんたの役目は終わったよ、お疲れさん！」とは言えなくなっていたのだ。</p>

<p>　というわけで、その起源において全権力を集中させるために創り出されたカスティージャの王は、当然ながら、国のために自分が良いと思ったら、勝手なことをやり放題にやる。<br />
　しかも戦いは聖戦であり、自分は神の意を受けた王家として選ばれし地上の代理人、いやもうまったき正当な存在なのである。<br />
　「神意にもとづく戦争のため、金を出せ」と宮廷（議会）に一方的に命令するのなんて、御茶の子さいさい。立派な建物も建て放題。<br />
　やがて太陽の没することなき帝国を築く神聖ローマ帝国皇帝カルロス（カール）5世は、宮廷をすら、生まれ育ったオーストリアからごっそりと引き連れてくるだろう。スペイン貴族はいきなりまとめて窓際族（そりゃ、王に追従するようになるわね）。<br />
　そしてその息子であるフェリペ2世は、新大陸発見で得た巨万の富を、当然の権利（あるいは正義に裏づけされた義務）として対プロテスタント宗教戦争に費やし、スペインを何度も破産宣告させるに至らしめるだろう。<br />
　そんな、時に横暴な王家はどうなったかということ……。<br />
　今日まで、続いている。</p>

<p>　「王は、絶対的に偉い」<br />
　それがカスティージャ、つまりは現在のスペインのベースになっている国の、王の姿なのである。</p>

<p><br />
　絶対的な存在としての王を考えるとき、現在でも9割以上がカトリックというスペインの民は、うっかり、神を前にしたときと同じ態度を取ってしまう。（まぁ、国と教会ぐるみでそうさせてきたのだけれど）<br />
　つまり、思考停止だ。<br />
　そのロジックは、「イエスか、ノーか」ではない。「イエスか、イエスか」。オー・イエス、オンリー・ビコーズ・ユー・アー・イエス・キリスト。</p>

<p>　この思考の落とし穴から、「スペインの敬虔なるカトリックの民（羊）を、自分の身を犠牲にしても守るカウディージョ（羊飼い）」と宣うフランコが最終的に掌握するに至る強大な権力が、ズルズルと這い出てきた。<br />
　そしておそらく同じ穴から、そんなフランコの後継者と指名された現国王フアン・カルロス1世および王家への、スペイン市民の驚くほどの信頼（それは帰依と言っていいほどの）が湧き出している。<br />
　圧倒的な支持を受ける現国王に対して、<br />
「でもさ、彼は父親から王位を世襲したわけじゃなくて、共和制成立で外国に逃げた祖父の代で本当はスペイン王家は断絶してるよね。でさ、現国王はフランコの後継者として王座に就けたんだから、実質的にはその源泉はフランコにあるわけじゃん？」<br />
　と言うのは、雰囲気としてタブーだ（もちろん自由だけど）。</p>

<p>　そして善良なるカスティージャの民は、現国王がバルセロナを訪問した際、カタルーニャ人たちが彼を「私たちがするように」熱狂的に歓迎し敬わないことを、けっこう不満に思う。<br />
「王様に対し、な、なんて失敬な！」と、生々しい感情的な怒りを感じてしまう。<br />
　でも本当はカタルーニャ州では、現国王は、バルセロナ伯爵に過ぎないのだ。<br />
　カタルーニャはカタルーニャとしての至極当然なやりかたで、「王」を遇しているのだ。</p>

<p>　あぁ、まさか、そんなことだったとは。<br />
　そんなこととは、つゆ知らず、カスティージャの民と化しつつあった私もまた（こういう雰囲気は知らないうちになんとなく染み込むものだ）、ものすごい落とし穴にハマってしまっていたのだなぁ……。<br />
　でもやっぱり、サッカーグラウンド内に豚の頭を投げ入れるのは、危険なのでやめましょう。もったいないし。</p>

<p><br />
　というわけで次回も、レコンキスタ。<br />
　レコンキスタと現在のスペイン社会（政治面）との関係、の、予定です。</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-12-26T10:06:09+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/06_1000.html">
<title>ぜんぜん高貴じゃないぞスペイン貴族</title>
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<description><![CDATA[<p>　日本はいい国だぜ、のっけからなんだけど。<br />
　今回の大学や、以前、1ヶ月だけ顔を出した語学学校など外国人が集まってくる場所にいると、いかに日本が「庶民がお金を持っている国」なのかが、よくわかる。</p>

<p>　フランコ体制を学ぶ特別ゼミナールで、「フランコ体制下のスペインでは、大学というのは中流階級である役人の子息を対象にしたもので、庶民（＝下層階級＝国民の90％以上）が学費を払えるようなものではなかった。そこでフランコ死後の民主化過程において、学費の値下げが真っ先に行われた。現在、この大学の法学部で、学費は年間600ユーロ弱（約9万円）である」という説明を受けたときのこと。</p>

<p>　スウェーデン人のカリンちゃんが、挙手した。「っていうか、どうして無料にしないんですか？」</p>

<p>　スウェーデンでは、義務教育に加え、大学も無料なのだという。<br />
　そして国内で学ぶ学生にはもちろん、さらに海外に留学しているカリンちゃんには、毎月、住居費はカバーするくらいの金額が、国から援助されるのだとか。</p>

<p>　「年間にたった600ユーロだよ、暖房代くらいの実費だよ」「いや、完全無料にしなきゃおかしい」　珍しく先生と押し問答をするカリンちゃんの袖を私は引いて、「あのね、日本では年間100万円はするよ。医学部とか、1,000万円することもあるんだって」と、囁いた。<br />
　「えっ！」　彼女は大きな青い目を見開いて絶句すると、小さな声で「……誰が払えるの？」と訊いてきた。<br />
　そう言われれば、たしかにそうだ。でも、私んちだって、それ、払ったんだよなぁ。</p>

<p><br />
　日本では庶民が、一応、なんとか「それくらいの」お金を融通できる。<br />
　もうひとつ例を出すなら、大学卒業後、あるいは会社勤めを辞めて海外留学、というのも、ここで見る限り日本人が断然多い。<br />
　現地で働かなくても済む充分なお金を貯めてきて（ビザの問題で労働ができないというのもあるのだが）、地方都市やヨーロッパ各都市をまわったりして、滞在を楽しんでいる。</p>

<p>　一方、大学在学中の交換留学は、提携大学があるせいもあって、アメリカ人をよく見かける。若人たちは短い滞在を満喫しようと、週末といわず平日といわず、ディスコに繰り出している。（赤十字でボランティア活動をするクラスメートもいるが）<br />
　その他の国から来た学生は、だいたいバイトをしている。それが違法でも、働いている。ドイツやオランダやフランスからの20歳前後の学生は、住み込みのベビーシッターをしながら。東欧や南米から来た25歳前後の学生は、ウェイターやウェイトレスをしながら。前出のカリンちゃんも、チョコレートショップでバイトをしている。<br />
　バイトをしていないのはかなりの金持ちで、実際に会ったのはロシア人と中国人とヨルダン人。</p>

<p>　私の実感では、世界はすごく大雑把にいうと「庶民の家の子が海外留学に来て、現地でバイトをして生計を立てる」国と、「金持ちの家の子が来て、バイトをしない。貧乏な家の子もスペインには来るが、その場合には学校なんか通わずに必死で働く」国とに大きく分けられて、日本は、そのどちらにも入らない。<br />
　日本は、「庶民の家の子が来て、働かずに学生生活を楽しむ」国だ。<br />
　大学の学費のことを考え合わせても、今日の日本の庶民って、他の国の「けっこう裕福な家」に相当するのではないだろうか。ストックではなくフローの方ならとくに。</p>

<p>　ということで、今日のテーマは、社会階級です。</p>

<p><br />
■オルデン・ヒメーネスはこう云った：<br />
「スペインでうっかり『ノブレス』なんて言ってはいけない」</p>

<p>　現代スペインに関する思想史の先生との会話で、うまくことばが出てこず、「ほら、『ノブレス・オブリージュ』みたいな概念って、」と言ったときのことだった。<br />
　セネカと同じコルドバ出身のオルデンは血相を変えて、「いかん、決して混同してはいかん。スペイン語の『ノブレス』には、それに相応しい一切の価値がないばかりか、その対極にあるような存在だ」と注意してくれた。</p>

<p>　そこで、ハッとした。<br />
　そうか、スペインにはいまもノブレ（貴族）がいるんだ。</p>

<p>　たとえば、ゴヤの『裸のマハ』のモデルかもしれない（たぶん違うけど）ということで有名なアルバ女公爵。彼女は18世紀の美しき開明派だが、現在も、そう呼ばれる女性がいる。<br />
　こちらは故・清川虹子似の老婦人。アルバ公爵家の現当主で、貴族として46の称号を持っている。</p>

<p>　彼女が、フェニキア人が持ち込んだラティフンディウムが根強く残るアンダルシアを中心に所有する（と思われる）土地の広さは、不明。公表された、オルデンの出身地コルドバ県内分だけで約3,000haあり、数年前に1億3700万ユーロ（約200億円）と査定されている。ま、ほんの一部だろう。<br />
　むろん、建物も絵画も宝石も、たくさん所有している（はず）。また現代の金持ちとして、当然あちこちの会社を持っている（はず）だが、どれくらいの資産があるのかは不明。</p>

<p>　スペインにおいて、貴族はノスタルジィを伴う過去のものでも、また無害なお飾りでもない。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「フランコ時代の『200家族』が、フランコの死を迎えてどうなったか。……接収？　とんでもない。なにも変わらなかったのさ。今日までも、そして明日からも」</p>

<p>　200家族とは、フランコ体制に迎合して、アミーゴーして、利権を貪ったやつばらの総称。フランコは各産業で独占・寡占状態を作り出し、その利権を彼らに与えた。フランコの私的友人や側近などの成金が、フランコに靡いてうまい汁をじゅうじゅう吸ったという。<br />
　格式ある貴族を前にしてもフランコは、「で、お前はなんでそこにいるの？」と言った（ようなものだった）。そこで「あなたのお役に立つために」と答えられなければ、彼は放逐されるだろう、財産は没収されたうえで。<br />
　で、多くの貴族は、残った。残って、汁をじゅうじゅう吸った。</p>

<p>　「上流階級つうのは、社会が認めるから上流階級なんだ。その社会がフランコ独裁体制なら、当然、フランコに認められるように振る舞う。彼らに、社会批判をする意思も、その能力もないよ」</p>

<p>　反対したものの末路は？<br />
　内戦中、そしてその後に捉えた共和主義者を、フランコは、各地の闘牛場に収監した。<br />
　すり鉢状になっている闘牛場は脱獄がまず不可能であり、その高い壁が外部からの視線を遮り、かつ、町外れにあるため隔離も簡単。<br />
　数年たち、栄養と衛生面の問題から収監者のかなりの数が死に、残ったものに反抗の能力がなくなったと見たところで、フランコは彼らを故郷に帰らせた。<br />
　その姿が、フランコ体制への反逆者の末路としての、なにより「良い例」になると踏んだからだ、という。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンは、こうも云った：<br />
「『スペイン国民を護るため、私はこの身を神への犠牲に捧げる』、フランコはそう言ったんだよ」</p>

<p>　人間はすべてアダムとイブの子どもである、聖書によると。<br />
　彼らが国として集まった以上、そこには集団としてのひとつの「国民」があるだけで、各々に異なる個人というものは存在しない。（だから、差異に基づく政党や地方自治は存在しない。そして無神論者（類似のアナーキスト）と外国人を嫌悪する）<br />
　そしてフランコは、彼ら神の子どもたちを代表し、彼らを護るために、神に自らを犠牲に捧げて奉仕するのだ。らしいのだ。</p>

<p>　国民を庇護する責任のあるフランコは、彼らの自由、公平、平等、進歩、保健、教育、経済的発展などのすべての面倒を見る責任がある。<br />
　これは、そう、「父」の姿だ。<br />
　フランコ体制を一言で表すと、家父長主義、になるという。</p>

<p>