<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>

<rdf:RDF
xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/"
xmlns="http://purl.org/rss/1.0/">

<channel rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/">
<title>湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/</link>
<description>since Oct 2005</description>
<dc:language>ja</dc:language>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:date>2006-07-23T12:52:25+09:00</dc:date>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://www.movabletype.org/?v=3.15-ja" />


<items>
<rdf:Seq><rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/07/23_1252.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/06/26_1117.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/05/20_1043.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/03/06_0954.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/02/09_1045.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/22_1022.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/09_1103.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/26_1006.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/06_1000.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/21_2216.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/14_1118.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/08_1005.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/01_1058.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/10/25_0914.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/10/18_1837.html" />
</rdf:Seq>
</items>

</channel>

<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/07/23_1252.html">
<title>それはぼくのせいじゃないよ</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/07/23_1252.html</link>
<description><![CDATA[<p><br />
　最近、英語をすっかり忘れてしまった。<br />
アメリカ人である義姉のアメリカ人な両親からは、この数年、「カナは会うたびに英語が下手になるね！」と、驚嘆されっぱなし。<br />
たまに英語でレターを書けば、「メキシコ人の英語みたい」と感動される。<br />
むろん、スペイン語の野郎のせいだ。</p>

<p>　思い出してみよう。英語の一人称は、"I"である。（洋傘ぢゃないよ）<br />
じーさんでもお嬢ちゃんでも大統領でも義姉でも、「アイは、」から始まる。<br />
でもって二人称は、"you"だ。（元フェアチャイルドじゃないよ）<br />
誰だって「ユーを、」と名指される。<br />
戦場で銃を向け合うときも、ベッドで愛をささやくときも、宇宙で人間以外と出くわしちゃったときも、「アイは、ユーを、」と言うのだろう。<br />
現実の世界のどこにも足場を作らずに「アイ」は独りゴゴゴゴゴと立ち上がり、そうやって屹立する「アイ」に名指され、相手（複数＝世界の全部を含む）が「ユー」として対峙させられる。<br />
片岡義男『日本語の外へ』を読んで、つくづく思った。<br />
"I love you."、そういう世界観の中に、私はいない。</p>

<p>　愛してる。<br />
という言葉すら、どうも実感が湧かない。使ったことあるかな？　あぁ、ごく限定された（大人の）場面で、（大人の）挨拶のように、くらいだわね。きゃっ。<br />
やっぱり「好きです」でしょう。いや、「大好き」だな。<br />
初恋、ラヴレター、チェッカーズ、桂花ラーメンの太肉麺、内側から腹をボコボコ蹴りはじめた胎児、毎晩リンゴを剥いてくれるツレアイ、平和な時間。「大好き」。<br />
こういうとき、「私はあなた（または、これ）を、大好きです」とは、言いもしないし、考えもしない。<br />
「好きです」と人称も目的語も支配しない動詞を一発、どころか、「大好き」と名詞を一発お見舞いして、終わり。<br />
それがボクちゃんの日本語的思考。</p>

<p><br />
■ホセ（仮名）は、こう云った：<br />
"Me gustas."</p>

<p>　スペインに来て間もないころ。いつも親切だったホセが、ある日、私にこう言った。<br />
　スペイン語では、基本的にいちいち主語を表さない。ただし、動詞の活用が人称に対応するので、「主語が何人称（単・複）なのか」までは、自ずとわかる。<br />
とはいえ、たとえば同じ三人称単数のうち、「彼／彼女／あなた／それ」のどれが（隠れ）主語なのかまでは、わからない。<br />
これが、スペイン語のひとつの特徴だ。（だから英語でもうっかり主語を省略し、「メキシコ人みたい」と言われることになる）</p>

<p>　一方で目的語、つまり働きかける相手方の表示は、かなりしつこく要求する。他動詞に限らず、自動詞の場合でも。<br />
スペイン語は本来、語順がわりとフレキシブルで、感覚的に日本語にけっこう近い。<br />
だのに目的語の場所については、（前置詞をとらないときは）必ず動詞の前と相場が決まっている。（「それあげるの、パコに？」は、「彼にそれあげるの、パコに？」でなくてはならない）<br />
英語における主語へのこだわりと同じくらいの強さで、スペイン語における目的語へのこだわりを、日本語人のアタクチは、いつもけっこうな違和感とともに感じる。これがスペイン語の大きな特徴、その2。</p>

<p>　で、ホセの言った"Me gustas."とは、なにごとか。<br />
gustarは自動詞で、おおよその意味は「好む」。gustasはこの、二人称単数に対応する活用。この文の「隠れ主語」は、英語におけるyouだ。<br />
また、動詞の前に置かれたmeは間接目的語で、一人称単数。英語のmeね。<br />
以上を総合すると、"(You) like me."に、なりそうだ。<br />
が、ならない。<br />
Me gustas.の実際の意味はあくまでも"I like you."、直訳風の日本語にすれば「私はあなたを好きです」なんである。<br />
（ということを、私はわからなかった。後日ツレアイに、「どうもホセはお前に気がある。気づかないのかバカ」と指摘されてようやく、わかったのでした）</p>

<p>　しかしスペイン語よ。なんでまた、主客転倒しちゃうのか。<br />
このほかにも、同じ構文をとる文章に、たとえば「痛い」がある。「頭が痛い」は、「頭が私を痛がらせる」と表現する。<br />
「都合の良し悪し」を表すconvenir（英語のコンビニエンスと同源）も、スペイン語では、「この仕事はお前を向かせてないぜ」という言い回しになる。<br />
日常的に頻出する「思う」だって、日本語的に「あんた、どう思う？」と訊こうとすれば、「あんたを、どう思わさせてるの？」になる始末だ。</p>

<p>　その根底に共通するのは、♪俺の、俺の、俺のせいじゃねぇ～！　という叫び。<br />
　曰く、<br />
・この頭痛に関して、私は、私の頭の被害者である。<br />
・僕がこの仕事に向いてないのは、僕のせいじゃなくて仕事の側の都合なんです。<br />
・なんとなくそんな気がするんだけど、基本的にはそう思わされてるっていうかんじだわね。<br />
　そして、<br />
・俺がお前を好きなのは、お前が俺を取り込んだからだ。<br />
　……スペイン語版、「甘えの構造」？</p>

<p><br />
■マリア・エレナはこう云った：<br />
「スペイン語では、受動態はあまり用いません」</p>

<p>　頭痛の場合を、英語も含めて比較してみよう。<br />
（英語）I have a headache.　直訳：「私は頭痛を持っている」<br />
　：主語「私」は、目的語「頭痛」を、持っている。「私」は頭痛に、主体的に関わる。<br />
（スペイン語）Me duele la cabeza.　直訳：「頭が私を痛がらせる」<br />
　：主語「頭」が、目的語「私」を、痛がらせる。「私」は、頭の被害者。<br />
（日本語）「頭が痛い」<br />
　：主語「頭」が、形容詞「痛い」。それに関する「私」の態度は、不明。</p>

<p>　あっ、日本語には動詞がない！　そうか、日本語では形容詞が、単独で述語になることができるのだった。<br />
形容詞を補語とする場合、英語もスペイン語も（たしか）SVC構文となり、be動詞のようなものが必要となる。<br />
でも日本語では、動詞なんて要らない。形容詞でいい。頭が、痛い。花が、きれい。<br />
それどころか実際のところ、be動詞的な「です」抜きの名詞一発でもいい。私は、幸せ。今夜は、最高。春は、あけぼの。</p>

<p>　と、ここまで書いて気がついた。<br />
これまでスペイン人に日本語を教えるとき、「が」と「は」の違いの説明に、苦労していた。<br />
・「が」の場合、文のポイントは「が」の前になる。例：「私が、犯人です」（大勢の容疑者の中で、挙手して告白するかんじ）<br />
・「は」の場合、文のポイントは「は」の後ろにくる。例：「私は、犯人です」（まるで自己紹介のように。「犯人」は「長崎出身」や「末っ子」と同価値）<br />
そうか。だから実際に話すとき、主語にポイントがくる「が」の文と違い、述語だか補語だかにポイントがくる「は」の文では、わりと容易に主語を省略しがちなのだな。<br />
「春はあけぼの」だって、いま発語者と聞き手がともに桜咲き乱れる庭園かなんかにいるなら、「あけぼの、だよねー！」で、充分なのだ。</p>

<p>　同じことが、愛の告白の場面でもいえる。<br />
主語も目的語も動詞もない「大好き！」だけで、ふつう、発語者の意味するところは、聞き手に間違いなく理解される。<br />
これが英語なら、（主語として世界で唯一名指しされたかけがえない）俺が（目的語として世界で唯一名指しされたかけがえない）お前を愛する"I love you."。<br />
スペイン語なら、（隠れ主語の）お前が（実は主語より大事でかけがえない目的語の）俺をトリコにしやがった"Me gustas."。<br />
そして日本語では、（省略できるくらい、述語／補語ほど大事ではない「私は」）（省略できるくらい、述語／補語ほど大事でない「あなたを」）、でもこの状態ばかりは間違いなく「大好き！」。</p>

<p><br />
　最近読んだ本に書いてあったのだけど、丸山真男というひとは、古事記に表される日本の原始的世界観を、「勢いよく、つぎつぎに成りゆく」と説明しているらしい。<br />
感覚としてわりあいすぐに納得しちゃいそうなのだけど、日本語というのはどうもそれプラス、「（自分に責任も関係もないところで）勢いよく、つぎつぎに成ってっちゃった結果としての現状」が重視される世界観でもあるのでは、と、いま思いついた。</p>

<p>　そういえば、この「（「病気」や「ハッピー」など、ある状態）になる」とか、（まさに）「そういえば」や「ふと思いつく」こそ、どうにもスペイン語で表現しづらくて困る文だ。<br />
むろん、「（なんらかの行為や原因によって）～になった」とか、「なにごとかが、いま私の頭にある考えを生起せしめた」とは訳せるのだけど、そうなるともう日本語ではない。</p>

<p>　一方、日本語にはうまく訳出できないのだけど、「あぁ、私っていま、すごくスペイン語っぽいスペイン語を喋った！」と思うのは、再帰代名詞の"se"を非人称文の受身（日本語の文法書によると「無人称能動文」）として使い、かつ、自分や相手を目的語として突っ込めたときだ。<br />
「試験に落ちた」を、「（誰だか知らないけど）私を試験に落っことしやがった」。<br />
「植木鉢が落ちてきた」を、「（誰だか知らないけど）私に水をぶちまけやがった」。<br />
「忘れてた！」を、「（なんだか知らないけど）私に忘れさせやがった」。<br />
そう言えたとき、言葉だけじゃなくて思考もスペイン語だったぜ、という達成感がある。</p>

<p>　しかし言語学教授のマリア・エレナは、「スペイン語はあまり受動態を使わない」と言った。<br />
たしかに英語的に"You are loved by me."という表現はあまり聞かない。でもそのかわり、こういう「能動文だけど実は受動態」文型は、実は、ものすごく使われているのだ。<br />
ひょっとしたらスペイン人自身は、「スペイン人は受動態なんて女々しい文型は、ちっとも使わないのさぁ！」と、思っているのかもしれないけれど。くわばらくわばら。</p>

<p>　ちなみに、以上の「スペイン語」とは、あくまで現在標準スペイン語の地位にある「カステジャーノ」のことであり、これは、イスラムの民に追われて逃げた先のスペイン内陸北部の山中から「いんや、キリスト教徒による神の栄光ある国を！」と誕生した、狂信的な理念先行型カトリック国家カスティージャ王国で培われてきた言語です。<br />
「イタリア語は歌を歌うための、フランス語は愛をささやくための、そしてスペイン語は神と語るための言葉」の理由のひとつも、この他力本願的な傾向にあったりして。</p>

<p><br />
　そしてあたちは。<br />
　「私」と「あなた」を世界中から選び出して対峙させる英語の世界観でも、究極には責任者である世界による作用の結果として「私」が被害者的に関わらされるスペイン語の世界観でもなく、私とは無関係に世界はあって、そしていま自分がいる場で同じものを見ているお隣さんとだけ「アレがアレだから、アレよね。ウフッ」と謎かけのようなメッセージを交わす日本語の世界観に、いる。<br />
日本語は、内輪話をするための言葉？</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-07-23T12:52:25+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/06/26_1117.html">
<title>備前より西はスペイン領</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/06/26_1117.html</link>
<description><![CDATA[<p>　あらやだ、どこから再開しましょ。<br />
　遡って7世紀あたりから。あのころ、世界史の主役はイスラムだった。<br />
7世紀にアラビア半島で誕生したイスラム教勢力は、西進してはジブラルタル海峡に至り、さらに北上してスペインを丸ごと呑み込んで、一時は北フランスに達する(732年)。<br />
また東進してはササン朝ペルシャを蹴散らし、さらに楊貴妃にメロメロだった玄宗の唐に大勝して、中央アジアを勢力下に置く(751年)。</p>

<p>　すわヨーロッパ（ピレネー山脈以北）も、風前の灯か！<br />
しかし、急激な領土拡張が必然的に生む内政不安のため、イスラム勢力は「鶏の尻尾のような」（byフェルミン教授）うまみのないヨーロッパを残して、版図拡張をストップ。<br />
なんせヨーロッパっつっても、当時はうっそうとした森の中。遠いし寒いし、しかもあんまり地味豊かじゃないし。<br />
それなのに田舎者の諸侯が乱立してガチャガチャと権力争いをしてて、どうも食指が動くかんじじゃなかったらしい。</p>

<p>　13世紀になると、世界史の主役はモンゴルに移る。<br />
草原に起こった旋風はロシアを制圧し、さらに西へ。ポーランドでもドイツとの連合軍を打ち破ってウィーンにまで迫るが、突然のハーンの死によりやむなく撤退(1241年)。<br />
東進しては中国を元とし、さらに海を渡って日本（鎌倉時代）へも侵攻を試みるが、カミカゼ吹いてみな沈没(1274、1281年)。<br />
いや、どうもついてないね。</p>

<p>　逆についていたのは日本とヨーロッパか。うん、とくにイタリア。<br />
モンゴル帝国のおかげで、だだっ広いユーラシア大陸の情勢が、ひとまず落ち着いた。<br />
とくりゃ、「遠くの珍しいものを運んできて、高くで売る」、シンプル＆ベーシックな商売の大チャンス。<br />
古くからシルクロードという交易路をもっていたイタリア商人が、どしどし商売をし、ガンガン富を蓄え、「っていうか、やっぱ、世の中を動かしてんのって、俺たち人間じゃん？」と自信をもつようになる。<br />
そう、renacimiento（再・誕生）＝ルネッサンスざんす。</p>

<p><br />
■ポルトガルはこう云った：<br />
「世界の果てより南は、俺のものね」</p>

<p>　そのころ、つまり14世紀のイベリア半島。<br />
東はバルセロナを中心とするアラゴン、中央にカスティージャ、そして西の海岸部にポルトガルがあった。<br />
アラゴンは13世紀にはシチリア、アテネ、ナポリまで支配する地中海の大帝国となったが、15世紀に失速。原因は、内戦に発展した王位継承争いと、オスマン・トルコの伸張。<br />
　モンゴル帝国がユーラシア大陸に敷きつめた広いカーペットの端をめくるようにして生まれたオスマン・トルコは、1453年、東ローマ帝国を征服する。<br />
これにより、アジア＝ヨーロッパの交易路は断絶。打撃を受けた商人たちは、新たなルートを模索する。地中海がダメになった？　じゃ、大西洋だ！</p>

<p>　思えばフェニキアの昔から、「遠くの土地のものを持ってきて商売する」熱意に、ひとは突き動かされてきた、らしい。<br />
いまも、いやいまは、「遠くの土地でものを売ってくる」方が、大きいのかな？</p>

<p>　ともかくそれまでイタリアの港町で腕を振るってきた荒くれ男たちが、活気を失った故郷を捨て、新天地を求めて西へと向かった。<br />
向かう先は、大西洋に出る港を持つ、ポルトガルとカスティージャ。なんせイギリスとフランスは百年戦争の真っ最中だったりして、まだ国内だけでてんやわんや。<br />
　折良く、ルネッサンスにより自然科学が進展。<br />
トスカネリが地球は丸いぜ大西洋からインドに行けちゃうぜと言い、そして、外洋の航海に耐えうる船や羅針盤が作られた。<br />
あとは精子と同じだ。誰が最初に憧れの「アジア」に到達して旗を立てるかの、ヨーイ・ドン！</p>

<p><br />
　まず大航海時代をリードしたのは、ポルトガルだった。<br />
もともとカスティージャの一部だったポルトガルは、自領以外の弱体化を希求してやまないローマ教皇の祝福を受けて12世紀に「分家」し、1385年に独立を達成。<br />
その立役者となったジョアン1世は、息子のエンリケ航海王子に指示し、アフリカ西岸に航海基地を作らせる。<br />
先見の明があった、ってやつだろうか。その後の行動も、ソツがない。</p>

<p>　ローマ教皇に頼んで、そのころ世界の南端だと思われていたボハドル岬（北緯27度、現西サハラ領）より南での「発見」における、ポルトガルの領有権を認める大勅書を出してもらう。<br />
そう、まだ「世界」は、南北軸だけでイメージされていた。<br />
こうして足場を固めたポルトガルはずんずん南下し、ジョアン1世に航海者として仕えていた祖父と父をもつバーソロミュー・ディアスが、1488年、喜望峰を発見することになる。<br />
同時に、もうひとつの大発見。あっ、アフリカって、東にまわれちゃうよ！<br />
この発見を受けて、10年後、ヴァスコ・ダ・ガマが東回りでインドに到着する。</p>

<p>　そのころ、ライバルのカスティージャはなにをしていたか。<br />
14世紀には天候不順があり、人口の1/3が死亡したペスト禍があり、庶子が王位を簒奪する15年の内戦があり、これらの社会不安を背景に各地で市民の暴動とユダヤ人虐殺が起きる。もう、わやくちゃだ。<br />
15世紀後半、究めつけに王女と王妹による王位継承戦争が起こり、すでにアラゴン王子と結婚していた王妹イサベルが、荒廃した国土にぽつんと置かれた王位に就く。</p>

<p>　ともかくこれでイベリア半島の勢力図が、ポルトガル対カスティージャ＆アラゴンに変わった。<br />
9世紀の国家誕生以来はじめて一緒になったアラゴン＆カスティージャは、大慌てで、250年余りものんびりと保護下に置いていたイスラム教国グラナダへの侵攻を開始する。<br />
レコンキスタの完成！　の呼び声も空しく、戦争に疲れ果てた貴族のやる気なさで10年もかかってしまったが、ついに1492年1月、グラナダ陥落。<br />
これにより、ポルトガルを除くイベリア半島が、「スペイン」になった。<br />
　って、あぁもう、そのポルトガルは、4年前に喜望峰に達しているというのに！</p>

<p><br />
■オルデン・ヒメーネスはこう云った：<br />
「コロンブスはアメリカを発見するために西へ向かって船出したわけではない。結果と目的を取り違えては、いけないよ」</p>

<p>　むろん「分家」ポルトガルの躍進はイサベル女王の耳に届いている。<br />
そこに、怪しげなマドロスが登場。「まぁあっしに任せてみなせぇ。きっとインドを見つけてきまっさかい」（商人でヤクザ者の口調で）<br />
その名はクリストファー・コロンブス。ジェノヴァ生まれということ以外、詳しいことはわかっていない。<br />
　実は喜望峰発見の4年前、彼はポルトガルに資金援助を願い出て、断られている。<br />
そのときポルトガルはすでにバーソロミュー＝ディアスに賭けていたし、それに、コロンブスはどうにも怪しかった。</p>

<p>　しかし後発のスペインは、そんな怪しい男に有り金を賭ける気になった。賭けざるを得なかった。<br />
1492年1月、グラナダまで会いに行ったものの色よい返事をもらえず失望して帰途につきかけたコロンブスを、レコンキスタを完了したばかりのイサベル女王が全速力で追いかけてきて引き止め、支援を約束する（という言い伝えになっている）。<br />
　同年8月、コロンブスは西に向けて出航。というのも、ポルトガルにすでに南を押さえられていたため、スペインに残された活路は西しかなかったのだ。<br />
10月、「新大陸」サン・サルバドル島を発見。やったね、とうとうインドだぜ！　……と死ぬまで勘違いしていたのは、有名な話。<br />
しかし結果としてこの新大陸アメリカが、瀕死のスペインに巨万の富をもたらすことになる。</p>

<p><br />
　ともあれ「インド」を発見して意気揚々と帰路についたコロンブス。しかし彼はこの「発見」を、イサベル女王に告げる前に、寄り道をしてポルトガル王に報告している。<br />
なぜか？　その理由は明らかにはなっていない。<br />
だが事実として、コロンブスが発見したサン・サルバドル島は、北緯14度に位置する。これは件の大勅書で定められた「北緯27度以南はポルトガル領」に該当する。<br />
　ポルトガルは当然のごとく、大勅書にもとづく領有権を、スペインに通知した。<br />
その際コロンブスに、多額の褒賞を払ったかどうかは定かではないまでも。<br />
またスペインの基礎を作る「偉業」を成し遂げたコロンブスとその子孫が、その後スペインで意外なほど冷遇されたのが、そんな彼の行動に端を発するのか否かは定かでないまでも。</p>

<p>　もちろん、自分の宝石を質に入れてまでコロンブスの支援金を作った（という言い伝えになっている）イサベル女王は、これを断固として拒否。すわ戦争か、という騒ぎになる。<br />
とはいえ戦争を避けたい両国から、たっぷり見返りを得たんじゃないかというローマ教皇の介入で、主に金の力と思われる何度かの変更を経た後、世界を東西に分けるための新たな基準が定められる。<br />
　曰く、西経46度を教皇子午線として、その西にスペイン、東にポルトガルの領有権を認める。<br />
これにより、1500年に発見されたブラジルは、新大陸で唯一のポルトガル領となった。<br />
（なお、本当はポルトガル人は教皇子午線以西でブラジルを発見したが、その位置をだいぶ東に移して報告した、と、スペインでは伝えられている）</p>

<p>　1521年には、故郷のポルトガルで冷遇されたマゼランがスペイン王の援助を受け、西回りで世界一周航海を達成。<br />
あぁ、しまった、地球は丸かった！<br />
これによりポルトガルとスペインの領有権争いは、東西南北という平面ではなく、球体である地球をどう分けるかというフェーズに発展する。<br />
　例によってさまざまな取引が行われた結果、1529年、新たに条約が締結される。<br />
これはスペインのフィリピン支配とポルトガルのモルッカ諸島支配をともに認めたうえ、西経46度に定められていた教皇子午線を、地球の反対側の東経134度にまで延長するものだった。<br />
東経134度……。実はこの「教皇子午線」、ちょうど岡山県を通っている。</p>

<p><br />
　折しも日本は室町時代末期。<br />
戦国時代の不運児、もとい風雲児・織田信長が生まれる5年前で、当の中国地方では、毛利元就が家督を相続して間もないころ。<br />
まさに1529年の備前では、後にその毛利家を裏切り羽柴秀吉を通じて織田信長に与した宇喜多直家が生まれたりしている。<br />
これから、日本史がいちばんの盛り上がりを見せる、そういう時期だ。</p>

<p>　しかし、たまたまマゼランたちには見つけられずに済んだからよかったようなものの、理論的にはこの時点で、戦国武士たちの野望とはなんの関わりもなく、「備前より東はスペイン領・西はポルトガル領」と、世界史的には決められていた。<br />
もしこれを知っていたら、元就も信長も、さぞかしやる気をなくしたことだろう。あるいは一致団結してもっと早く「日本」ができていたか？　あるいはアルゼンチンとブラジルのように言語も異なる別の国になっていたか？　くわばらくわばら。</p>

<p>　なおこのサラゴサ条約は現在でも有効であり、それを示すように今日でも長崎の銘菓として知られるカステラはポルトガル伝来であり、20世紀末になって志摩にスペイン村が作られている。<br />
……ウソウソ。しかし、いつ「無効」になったのか、調べてもよくわからなかったのだ。<br />
　でも、あぁどうか、たとえば今日の私の知らないところで、私の大切なものがどこかの机の上で誰かに勝手に奪われたりしていませんように！<br />
カステラは好きばってんさ。</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-06-26T11:17:15+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/05/20_1043.html">
<title>てんごけでしるて・えんのらぶえな　すぐかきすらの・はっぱふみふみ</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/05/20_1043.html</link>
<description><![CDATA[<p>■救急病院の内科医は、こう云った：<br />
"Tengo que decirte; ¡enhorabuena!"<br />
「テンゴ・ケ・デシ（ル）テ、エンノラブエナ！」</p>

<p>　たいへん、ご無沙汰していました。<br />
店子・湯川カナはなにをしていたかというと、腹に子を宿していました。<br />
それが、高熱を発して運ばれた救急病院でわかるという体たらく。<br />
ツレアイに支えられて診察室に入った途端、医師が満面の笑顔で言ったのが上のことばだった。<br />
「とにもかくにも、おめでとう！」<br />
続けて「妊娠してるよ」と驚きの、しかし身に覚えがあるコンセプシオン（受胎告知）。<br />
ちなみになんとバカバカしくも、エイプリル・フールの夜のことでした。</p>

<p>　ところで上のスペイン語を直訳すると、「あなたに言わなくてはなりません、おめでとう！」となる。<br />
しかし私の耳に入ってきたそのフレーズはとても快い響きを伴っていて、感覚的にも似た日本語を探すと、「とにもかくにも、おめでとう！」の、七五調になった。<br />
どうやらそこには、ちゃんとした理由があるようなのだ。</p>

<p><br />
■トシちゃんは、こう云った：<br />
「鼻炎、鼻炎」</p>

<p>　スペイン語は、5つの母音をもつ(a,i,u,e,o)。お気づきのように、日本語と同じである。<br />
なんでも、世界中にはこの「5母音言語」が、けっこう多いらしい。5母音という体系は、ひとつひとつの音の違いが明瞭なため、安定性が高いのだという。（※）<br />
そんな、根源的なところでけっこう似ているスペイン語と日本語だが、大きく違う点が、ふたつある。</p>

<p>　ひとつは、スペイン語には子音だけの発音があること。<br />
たとえばMadridの発音は、「マドリード」ではなく、「マ(drイ）ー(d)」である。むろん、常に子音と母音がセットの日本語で表記できるわけはないが、実感としては、「マ・ドゥリー・ッ（ス）」に近い。<br />
なお日本語にも母音を用いない例外「ん」があるが、これはもともとの日本語（平安時代など）にはなく、後に中国語の影響を受けて輸入されたものという。<br />
　もうひとつの違いは、スペイン語に「まとめて一気に発音する母音」があること。<br />
スペイン語では5母音を、強母音（a,e,o）と弱母音（i,u）に分ける。<br />
母音が複数続く場合、[強母音＋弱母音]と[弱母音＋弱母音]の組み合わせは、とくにアクセント記号が付されていない限り、ひとつの母音とみなして発音する。<br />
たとえばDon Quijoteは、「ドン・クイホーテ」ではなく、「ドン・キホーテ」。</p>

<p>　とはいえ、母音が38もあるという中国語、同じくその半分ながら19ある英語、それより少ないが16のフランス語などに比べると、日本人にとってスペイン語は、「だいたいそのまま発音できる簡単な言語」である。<br />
あるいは「ローマ字読みで通じる言語」でもある。そういえば、まさにローマのあるイタリア語も5母音。そしてローマ字は、イタリア語やスペイン語のルーツであるラテン語を表記するため、古代ローマ時代に作られた表音文字であるという。<br />
　表音文字といえば、日本では、「かな」。<br />
横方向に母音の「段」、縦方向に子音の「行」を示す50音図を外国人に見せると、そのシステマティックな構成に、大いに驚嘆してくれる。<br />
しかもこの50音図、私は鹿鳴館なんかの西欧化に伴って導入されたと思っていたのだが、実際にはずっと前の平安時代に、サンスクリット（梵字は表音文字）を表すため作られたもので、成立は「いろは」以前だという。<br />
どうやら日本語は、私たちが思っているよりもずっと、根源的にユニバーサルなものらしい。</p>

<p>　ということで、スペイン語と日本語は、音声面で、とてもよく似ている。<br />
日本語で「バカ」と発音すればそのままスペイン語で「牛」を意味する単語になり、「アホ」は「ニンニク」になり、「傘」が「家」になり、「マン○」が「片腕」になる（『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスの愛称は、「マンコ・デ・デパント」＝「レパントの海戦の片腕」）。<br />
そして3年前に還暦を過ぎてスペインへ来た我が母トシちゃんもまた、スペイン旅行中もっとも使用頻度が高い単語"bien"（=good）を、発音が同じ「鼻炎」として覚えようとした。<br />
ある朝、管理人が「お母さん、ご機嫌いかが？」と訊いてきた。私は（いまやで！）と、トシちゃんの脇をつつく。ハッとしたトシちゃんはニッコリ微笑み、「鼻炎」と、実にコレクトな発音で返事をしてみせた。<br />
ただし、なぜか右手の人差し指で自分の鼻を押さえていたのが、失敗といえば失敗。管理人は怪訝な顔をしていたが、まぁ、東洋の奇習かと思われたくらいで済んだだろう。</p>

<p><br />
■カルメン・サンチェスはこう云った：<br />
「カステジャーノ（標準スペイン語）の基本リズムは、8シラブルです」</p>

<p>　日本語と音声面でよく似た構造をもつスペイン語の基本リズムは、8シラブル（音節）。大雑把にいうと、母音の数が8つということになる。<br />
たとえばスペイン語でもっとも古い詩の形態であるロマンセは、8シラブル×2＝16シラブルである。<br />
"Por el mes era de mayo／cuando hace la calor,<br />
 cuando canta la calandria／y responde el ruiseñor,"<br />
それぞれの音節を数えると、8／7（+1）、8／7（+1）＝8×2×2となる。（アクセントが最後の母音にくる場合、1拍加えて数える決まりがある）<br />
このロマンセの流れを非常に良く汲むのが、20世紀の詩人であり、内戦中にフランコ側勢力によって射殺された、ガルシア・ロルカ。<br />
テクスト読解の授業で彼の『血の婚礼』を取り上げたのだが、登場人物のセリフなど、見事なまでに8シラブルを基調としていた。</p>

<p>　転じて日本語の基本リズムといえば、五と七。ご存知、<br />
「古池や／蛙飛び込む／水の音」<br />
などであるが、奇数であり、まったく8シラブルではない。<br />
と思っていたところ、現在マドリード自治大学で日本語を教える若き言語学者のナイスガイ阿部新さんが、「五・七・五も、実は休符（等時拍）を入れると8シラブルになるんですよ」と、驚くべきことを教えてくれた。</p>

<p>　心の中で、詠んでみる。<br />
「ふるいけや●●●／●かはずとびこむ／みずのおと●●●」<br />
たしかに、前後に等時拍を入れて、8シラブルに整えている。<br />
そういえば大家の内田樹さんによるこのコラムのタイトルも、「こんやもよぎりが／えすぱーにゃ●●●」と、見事に、ガルシア・ロルカも納得の8シラブル×2。<br />
なぜか耳に残る谷川俊太郎の『ことばあそびうた』も「はなののののはな／はなのななあに●／●なずななのはな／なもないのばな●」。<br />
あるいは宮沢賢治の『風の又三郎』も「どっどどどどうど／どどうどどどう●／●あおいくるみも／ふきとばせ●●●／すっぱいかりんも／ふきとばせ●●●」だ。</p>

<p>　実はこの、「8シラブルへの調整」に欠かせない等時拍は、外国人の日本語学習者にとって最大の難関である。<br />
上記のような「見えない休符」は論外としても、表記される撥音（ん）、促音（っ）、長音（ー）についても、きちんと1拍を刻んで発音するのは、かなりの上級者でも難しいらしい。<br />
たとえばコータローという名前の私の兄は、アメリカで、だいたい「コタロ」と呼ばれている。<br />
「私の名前は、日本語では下ネタになります」と流暢な日本語で話すスペイン人通訳アナちゃんですら、「ビル飲みましょか、ちょと暑いですから」となる。</p>

<p>　わりとユニバーサルな5母音言語であり、同じくその安定感により人間が快の感情を抱きやすいという8シラブルを基本リズムとしながら、しかし奇数の五と七を基調とすることで、日本語はフレキシビリティーを手に入れ、それゆえ、今日の日常生活に至るまで、快い言語のリズムを、知ってか知らずか楽しんでいる。どうも、そういうことらしい。<br />
ちなみに、ギリシャ語やラテン語にも精通する言語学の教授と、詩歌や日本文化にも造詣の深いテクスト読解の教授に訊いてみたところ、「私が知る限り、詩歌以外に標語やキャッチコピーまでリズムが支配する日本語のようなことばは、ないわね」とのことだった。</p>

<p><br />
　ところで冒頭の医師のことばは、あいにく、さほど完璧な8シラブルではない。<br />
ただし等時拍による8シラブル換算に慣れた私の頭が勝手に、撥音も1拍とし、休符をも加えたりして、これを「テンゴケデシルテ／エンノラブエナ●」の、8シラブル×2にしてしまったようだ。<br />
ひょっとしたらそれどころではなく、同じ内容のことばを、私が記憶のなかで勝手に、快いリズムをもつ文章に変えてしまったのかもしれない。<br />
どちらにしろ、この響きの快さが、妊娠がわかった喜びとともに、いまも耳にありありと焼きついている。おかげでおそらくずっと、あのときのきもちを、忘れることはないだろう。<br />
　そして最後まで呆然としていたツレアイは、「すみませんが、さっきなんと仰いました？」と何度も医師に訊き返し、呆れた医師は私にそっと「あれか？　ひょっとして君のご主人、身に覚えがないのか？」と質したのでした。<br />
いやあいにく、腹の子はヘスース（イエス・キリスト）ではなさそうです。</p>

<p><br />
（※）今回、日本語の成り立ちについて調べる際、「ことばの散歩道」<http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/kotoba.htm>を参考にしました。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-05-20T10:43:30+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/03/06_0954.html">
<title>スペインの禁忌カトリック女王</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/03/06_0954.html</link>
<description><![CDATA[<p>　ある心的過程を意識することが苦痛なので、それについて考えないようにすることが、「抑圧」というメカニズムである。エヘン。<br />
もちろんこんな流麗な文章が私から出てくるわけもなく、これは心のマエストロ兼ここの大家である内田樹さんの著作、『寝ながら学べる構造主義』（文春新書）内のフレーズをつなぎ合わせただけでした。<br />
狂言『ぶす』の太郎冠者は、「ほとんど全力を尽くして」構造的無知を作り出し、その結果、タフで酷薄というキャラクターを成立させている。<br />
私たちの意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に目を逸らし続けている」という抑圧のバイアスが、常にかかっている。</p>

<p>　それは、「国」についても、言えるのではないか？<br />
国民全部が、「ほとんど全力を尽くして」なにかから「目を逸らし続けている」。そんなことが、あるのではないか？<br />
ふとそんなことを思いついたのは、現在、個人的にスペイン語版日本史作文『今夜は夜霧がハポンだもん』指導をしてくれている歴史学教授が、こんなことを言ったからだ。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンは、こう云った：<br />
「イサベル女王の死後500周年となった一昨年、スペインでは、数えきれないほど多くの関連書籍が出版されました。<br />
そのどれひとつとして、イサベル女王に否定的評価を下したものはありません。<br />
イサベル女王を否定すること。それはスペイン歴史学における、最大のタブーなのです」</p>

<p>　巨躯で汗っかきのフェルミンは、誰よりも熱心に授業に取り組み、また希望があれば現代社会学特別ゼミから論文個人指導まで対応してくれたりして、学生からの信頼がとても厚い。<br />
かつ、専門研究における受賞経験もある、とても優秀な学者だということだ。<br />
しかし彼は、決してカテドラティコ（大学正教授）にはなれない。<br />
　カテドラティコとは、辞書によると、「カテドラの資格を得た（中等教育以上の／専門的）教師」のこと。<br />
さらに「カテドラ」の意味を引くと「(1)正教授職／(2)教壇、説教壇／(3)高位聖職者の地位」とある。<br />
同じ語源をもつ単語に「カテドラル」（大聖堂）があることからもわかるように、公立大学でも用いられる役職名とはいえ、極めてカトリック色が強い。</p>

<p>　フェルミン曰く、カテドラティコになるためには、教授としての専門知識だけでなく、「模範的人格の持ち主」であることが要求されるという。<br />
たとえば日本で、横綱に対して、同じくそれが「当然」求められると言われるのと似ているかもしれない（明文規定の有無は知らないが）。<br />
そしてスペインにおける「模範的人格の持ち主」か否かの判断は、「カテドラティコ」という単語が示すように、「カトリックにおける高位聖職者」が基準とされる。<br />
（現実の高位聖職者の品位がどうであるかは、たぶん別として）</p>

<p>　スペインでは未だ9割以上がカトリックであり、フランコ独裁時代に生まれたフェルミンもまた、赤子のときに洗礼を受けたカトリック信者である。<br />
しかしフェルミンは、スペインを代表する（という）コンプルテンセ大学の教授として初めて、市民婚をした。<br />
模範的なカトリック信者であれば必ずすべきである教会婚をしなかったという「汚点」により、フェルミンは、永遠にカテドラティコにはなれない。実際に、そう言われたらしい。<br />
法的に認められている市民婚を選んだことで、公立大学での出世の途は絶たれ、妻の実家からは絶縁を受けた。<br />
「そりゃ悲しいけどね。でも、妻と僕は、こういう生き方を選んだんだよね」<br />
貧乏だった母の妊娠中の栄養の偏りに由来するという先天性の巨躯をゆすりながら、フェルミンは満身創痍で、敢然と、というよりむしろ象のように悠然と、タブーに挑む。<br />
「誰もが信じて疑わないこと、誰もが口にしないこと。いいかい？　そこに、疑いの目を向けるんだよ」</p>

<p><br />
　1468年、18歳のカスティージャ王妹イサベルは、スペインを二分する隣国アラゴンの王子フェルナンドと結婚する。<br />
このときのカスティージャ王はイサベルの異母兄エンリケ4世であり、他にアルフォンソという兄弟もいたため、この縁組には、王女の結婚という以上の意味はなかった。<br />
ただし万が一のことを考え、未来のアラゴン王フェルナンドがカスティージャ王の地位を相続することはないという契約書が、当時としては異例のことではあるが、交わされた。<br />
カスティージャがアラゴンにより併合される危険を、回避するためであった。</p>

<p>　翌年、思いがけず、王弟アルフォンソが死亡。<br />
そして1474年にエンリケ4世が死亡したとき、後継者は、王のひとり娘で9歳のフアナか、妹で23歳のイサベルか、という問題が生じた。<br />
むろん、本来なら、王の娘フアナに継承権がある。<br />
だが彼女は、別名、「フアナ・ラ・ベルトラネハ」（ベルトラネハ家のフアナ）。<br />
このベルトなんとかなどという、ややこしい名前の王家は、スペインにはない。<br />
つまり、前王エンリケ4世は不能であり、彼女は王妃とベルトラネハ公との浮気によってできた子だということが、公然の事実とされていたのだ。</p>

<p>　内戦、勃発。<br />
王の実子ではないとされる9歳のフアナと、本来なら継承権のない妹で、かつ精神を病んだ母を抱える、やはりまだ20代と若いイサベル。<br />
貴族は各々、くみやすしと判断した「女」の側についた。あるいは、敵対貴族の敵側についた。あるいは、家族内で反目しあった。<br />
イサベルを婚姻関係にあるアラゴンが支援すると、フアナ側には、カスティージャ併合をもくろむポルトガルつく。<br />
死に体のカスティージャという「美味しいパイ」を獲ろうと、誰もが一斉に襲いかかった。<br />
　ちょうど日本史における、応仁の乱（1467～1477年）に似ているかもしれない。<br />
奇しくもこのカスティージャの内戦は、その応仁の乱たけなわの1474年に始まり、5年後、イサベルの勝利によって幕を閉じた。<br />
同年、アラゴン王の死去により、夫も晴れてアラゴン王フェルナンド2世となった。<br />
（婚姻時契約により、彼は、カスティージャ領内では「女王イサベル1世の配偶者」となるに留まる）</p>

<p>　イサベル1世はすぐに、国家の施政方針を定めるための議会を召集。ここで、誰もが想像しなかった政治的手腕を、彼女は発揮する。<br />
まず、負け組も含めた貴族の全財産を、各々の領地に帰る＝中央政治からの離脱を条件に、新設する長子相続制度を通じて保護することを確約。<br />
意外に長引いた内戦で軒並み消耗していた貴族の大多数が、これを嬉々として受諾したため、貴族は実質上、王の統制下に置かれることになった。<br />
また、夫フェルナンド2世の従兄弟であり、イタリア半島（シチリア、数年後にはナポリもアラゴン領）におけるアラゴン王の協力を欲していたローマ教皇と交渉し、教会の主要役職の任命権を譲り受ける。こうして、聖職者も王の統制下に置いた。</p>

<p>　あとは、民衆だ。<br />
まず市長の任命権を王に帰属させ、さらに王室代理官という中央政府官僚を派遣して、地方政治を掌握。<br />
同時に、「サンタ・エルマンダー（聖なる友愛団体）」という名の、民衆取り締まりを目的とした警察組織を創設。これはヨーロッパで初の「警察」だといわれる。<br />
さらに、ローマ教皇から許可を得て、教会ではなく王の管理下に置くかたちで、世界に（悪）名高い「サンタ・インキシシオン（聖なる異端審問所）」を設置。<br />
これらのふたつの「聖なる」システムの間で、民衆は、僅かに息ができるだけの隙間を探すだけのか弱い存在に、見事、貶められた。<br />
　ちなみに異端審問所が廃止されるのは、約350年後の、1834年のことである。<br />
その約100年後には、「カトリックの擁護者」フランコによる内戦が始まり、ご存知のように、独裁体制が1975年まで続く。<br />
そして現在でもスペインには、自治州（市）警察と国家警察に加え、治安警察という別系統の組織があり、大いに活動している。</p>

<p><br />
■イサベル1世とフェルナンド2世のことを、スペイン人はこう呼ぶ：<br />
「"Los Reyes Católicos"（カトリック両王）」</p>

<p>　1492年、カスティージャは、それまで約250年にわたって庇護下に置いてきた半島最後のイスラム教国、グラナダを征服。<br />
こうして、8世紀にわたったレコンキスタ（国土再征服運動）が、完了する。<br />
その功を讃えて、時のローマ教皇は、ふたりに「カトリック王」の称号を与えた。</p>

<p>　現在、スペイン人は彼女のことを、王としての一般的な呼称「イサベル1世」ではなく、神の地上の代理人であらせられるローマ教皇から贈られた（カトリック教徒にとって）最大の敬称、「カトリック女王」で呼ぶ。<br />
私がうっかり「イサベル1世が」などというと、「えぇ？　あぁ、カトリック女王イサベルのことね」と訂正される。<br />
そしてたしかにフェルミンが指摘したように、このイサベルをけなすことは、ドイツ・ナチスの手を借りて内戦に勝利し長年にわたり独裁体制をしいた民主主義の敵フランコを褒めることよりも、実感として、大きなタブーとなっている。</p>

<p>　イサベルの功績は、たしかに大きい。<br />
ひとつ、戦争省や経済省の設置など、現代につながる近代的国家の基盤を作った。また子どもたちの縁組の成功が、孫の代に「太陽の沈まぬ」スペイン大帝国を築く原因となった。<br />
ひとつ、グラナダに会いに来て帰りかけていたコロンブスを追いかけ、自分の宝飾品を質に置いてまで出資するという慧眼により、「太陽の沈まぬ」（……以下同文）。<br />
ひとつ、数年にわたって誰もが手をつけたがらなかったイスラム王国を滅ぼしてレコンキスタを完了し、現在に続く強固なカトリック国家を作った。</p>

<p>　おかげでスペインは、かつて世界に覇を唱えた名門国家として、かつ信心深いカトリック教国として、グローバリズム隆盛の世知辛いこのご時世にも、家族愛にあふれる豊かな人生を楽しめている。<br />
……おそらくこれが、現代スペインの、セルフイメージに近い内容だ。<br />
いったいここに、どんな「抑圧」が、あるのだろう？<br />
これからこの問いを頭に置き続けて、じっくりと、スペインを考えてみるつもりだ。</p>

<p><br />
　ところで、日本では、どうなの？<br />
そう考えて、聖カトリック女王に相応する存在を探すうち、同じように、個人名ではなく聖なる称号で呼ばれている、おそらく唯一の人物に思い当たった。<br />
聖徳太子。<br />
辞書によると、「冠位十二階・憲法十七条を制定して集権的官僚国家の基礎をつくり、遣隋使を派遣して大陸文化の導入に努めた。また（中略）仏教の興隆に尽くした」とある。</p>

<p>　オイオイオイ、と思って、ネットで調べた。<br />
間違いない。上記に加えて彼は、「日本史上初の女性天皇」推古天皇の摂政であり、また彼自身が「日本史上初の摂政」である。<br />
とても重要なことだと思うのだが、なぜか、辞書にはこの部分が記載されていない。<br />
聖徳太子が、史上初の女性天皇の下に現れた史上初の摂政であること。<br />
それは別に、ふつうのことだ。なのに、なぜ書かない？<br />
もし「あえて書かない」としたら、そこにはいったいなにがある？<br />
　あっ。<br />
ひょっとしたら、聖徳太子は、自身が史上初の摂政となるため、史上初の女性天皇などというものを生み出したのだろうか？<br />
そして現代でも「日本」は、その事実を、抑圧しているのだろうか？</p>

<p>　もし、そうだとしたら。<br />
日本は、その事実から目を逸らしたい。<br />
「実は摂政（歴史を下ると院や将軍や）こそが政治の実力者であり、天皇はとりあえず『お飾り』として置いておくための装置である」というのが日本社会のキモであり、それを創始したのが厩戸皇子であるという事実から。<br />
なので彼を「聖徳太子」としてまつりあげ、そのダークサイドを焙り出すことに、事実上、社会的圧力をかけている。<br />
そ、そんなことが。ある、かもしれない？</p>

<p>　天皇がタブーであることは、日本では「常識」だ。<br />
しかし真のタブーなり抑圧なりは、「その天皇は『お飾り』である」というところにあるのではないか。<br />
そしてこの歴史的文脈における「天皇」は、日本社会というものを考えた場合にあらゆる「長」に、置き変えることができるのではないか。たとえば社長や家長や級長や……。<br />
　そ、そういえば。<br />
そういえば、お調子者だった私が「日本人らしくなく」立候補して生徒会長をやっていた時代。<br />
私に向けられる周囲の視線は決して尊敬でも憧れでもなく、ごく冷ややかで、時には憐れみすらを感じさせていたような……。<br />
　そ、そうだったのか。<br />
いや、そうだったのだろう。<br />
うん、どうもそうだったような気がするぜ、いま考えてみると。<br />
そそそ、そっかぁ…………しゅん。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-03-06T09:54:08+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/02/09_1045.html">
<title>ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか？</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/02/09_1045.html</link>
<description><![CDATA[<p>　雪にぶるぶる震えながら、約１ヶ月遅れで、『日本レコード大賞』を見た。<br />
元船乗りで、かつて自分もそうして日本のテレビを楽しんでいた父が、私が日本で購入した本の包みに、録画したビデオをそっと忍ばせてくれていたのだ。<br />
最優秀新人賞のプレゼンターとして、いま（別の意味で）話題のホリエモンが出ていた。<br />
実は動画でホリエモンを見るのはこれが初めてだったのだが、いまや「容疑者」らしい。<br />
まったく同じ世代（1歳違い）で、同時期にIT企業をし（私は御輿の棒を担ぐふりをして、ぶら下がっていただけだけど）、ついでに同じ九州出身の身としては、なんだかいろいろと心中に去来する思いがあったばい。</p>

<p>　そんなレコ大を見ていて、でもそれよりも、また倖田來未の衣装よりも気になったのが、司会者が連発する「おめでとうございました」という言葉だった。<br />
ノミネート歌手が発表され、本人が登場すると、まず「おめでとうございました！」。<br />
それから短いトークがあって、歌があって、歌が終わると、「おめでとうございましたーっ！」だ。<br />
　なぜに、過去形？</p>

<p><br />
■マリア・エレナは、こう云った：<br />
「『ペペは甘いものが好きだった』と言った場合、スペインとラテンアメリカでは、その意味するところが異なってきます」</p>

<p>　コロンブスの新大陸発見から500年ちょっと。スペインのスペイン語と、ラテンアメリカ諸国のスペイン語では、語彙や文法に明らかな違いが生じている。<br />
そのひとつは、時制にある。<br />
スペインでは、「今日」や「今年」など主語が属するピリオド内の出来事には、基本的に現在完了形を用いる。なので夜になって一日のことを振り返って話すと、動詞はすべて現在完了形だ。<br />
しかしラテンアメリカでは、殆ど現在完了形を用いない。いきなり過去形である。<br />
「ついさっきのことを、なんだかまるで大昔のことのように言う」というのが、スペインから見た、ラテンアメリカ語法の印象のひとつである。</p>

<p>　もうひとつの大きな違いは、人称にある。<br />
スペイン語には、英語と同様に、一人称／二人称／三人称の、単数／複数で、合計6つの人称がある。<br />
ただし英語と異なるのは、英語での[you]が、スペイン語では二人称の「君」と、三人称の「あなた」とに分かれることだ。ちょっと話者からの距離を感じさせる「あなた」は、「彼」「彼女」「それ」「犬」「電柱」などと、同じカテゴリに入る。<br />
　ラテンアメリカでは、このうち二人称の複数形「君たち」が、ほとんど消失する。<br />
では、「君」がふたり以上になると、どうするか？<br />
俄然、三人称複数を用いるんである。<br />
たとえば、アミーゴに「お前（二人称単数。「君」と同義）さぁ、今日、うち来ねぇ？」と言っているところに、別のアミーゴが来たとする。彼も、誘うとする。<br />
「おっ、お前（同上）も、うち来る？　じゃあさ、あなたたち（三人称複数）、6時においでなさい（主語にあわせ、動詞の活用が異なる）」、となるらしいのだ。</p>

<p>　また文法ではないが、実際の使用法においても違いがある。目の前の人間に対し、スペインでは一般的に「君」語法で話すところを、ラテンアメリカでは基本的に「あなた」語法を用いるのだ。<br />
この場合、ラテンアメリカ的な感覚の方が、日本でのそれに近いだろう。<br />
スペインでは、親や上司ですら、「君」呼ばわりである。それがマナー（に近いもの）となっている。もしも、目の前の人間に「あなた」と頑なに三人称で話しかけつづけたら、それは多くの場合、意図的に精神的な距離を置こうとしている＝失敬だみなされる。<br />
敬語は敬語でも、「敬してこれを遠ざける」というニュアンスが強くなるのだ。<br />
（ただし権力志向者は、「あなた」語法が好きな傾向がある。愚民どもと遠ざけられてうれしいってことかしら）</p>

<p>　というわけで、恒例の（初めてだけど）「もしも」シリーズ。<br />
もしもスペイン人アロンソ・キハーノが、ラテンアメリカで、現地のアミーゴであるホセ・アルカディオに再会したら。<br />
「よう！　（あの時）元気だった？」<br />
いきなり過去形を使うホセ・アルカディオの挨拶は、アロンソ・キハーノには、おそらくこう聞こえる。（えっ、いつのこと？）と、アロンソ・キハーノは心中戸惑う。<br />
するとホセ・アルカディオが、いきなり改まった口調になって、こう続ける。<br />
「（あの時／三人称複数は）元気だったのでしょうか？」<br />
（なんのこっちゃ？）　動揺するアロンソ・キハーノ。<br />
なんせスペイン語は主語を省略するため、この問いかけの「隠れ主語」となっている三人称複数が「彼ら／彼女ら／犬2匹／電柱3本」などのいったい何なのか、アロンソ・キハーノにはようとして判然としない。<br />
戸惑っていると、背後から、遅れて着いたアミーゴのサンチョ・パンサが現れる。それで、（あっ、俺たちのことだったのね）と、ようやくわかった。</p>

<p>　3人でカフェに行く。そういえば、と、共通の知人ペペの話になる。あいつ、どうしてるかなぁ？<br />
するとホセ・アルカディオが言う、「あぁ、ペペね。あいつ、甘いものが好きだったよなぁ」。<br />
アロンソ・キハーノは、これを聞いてギョッとする。「えっ、ペペ、いつ死んだの？」<br />
むろん、ホセ・アルカディオの言葉は、単に、ラテンアメリカでの「いまのことなのに過去形」語法なんである。<br />
　言語学の教授マリア・エレナによると、この語法には、「いまこの瞬間に好みが変わっているかもしれない」という配慮を見ることができるという。</p>

<p><br />
■ハポンの居酒屋の店員は、こう云うらしい：<br />
「ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか」</p>

<p>　友人が、某総合週刊誌の過去一年分を、どさっと届けてくれた。<br />
解散総選挙前の民主党躍進予想、旧日本兵騒動、ホリエモンいじり……などの記事のなかに、この表現に対するオヤジたちの苦言があった。<br />
そういえばこれも、「いきなり過去形」である。</p>

<p>　ただ私は、こういう言い方をするきもちが、少しはわかる。<br />
というわけで、「もしも」シリーズ第二弾。<br />
もしも自分が、いったんは「ビール」と注文しながら、やっぱり焼酎に変えようかなぁと思っている、居酒屋の客だとしたら。<br />
　もし注文の復唱後に「ご注文、以上でよろしいですか」と現在形で訊かれたら、「あ、やっぱりビールやめて焼酎」とは、どうも言いづらい。なぜか。<br />
この場合、私が行った「注文」と、店員が私の注文を受けて行った「復唱」と、店員が私に彼の復唱の正誤を問う「確認」とは、いずれも同じ、現在という時間の中にある。あるいは、そこには時間の経過がない。<br />
なので、たしかに「ビール」と注文した以上、その復唱の正誤（よろしいか／よろしくないか）を問われたら、私は理論上「よろしい」としか答えようがないのだ。</p>

<p>　それでもあえて「やっぱりビールやめて焼酎」と言う場合には、きっと「すみません、気が変わっちゃって」などと、気弱に言い添えるだろう。<br />
そうでないと、店員から「でもお客さん、たしかにビールって言いましたよねっ!?」と強く詰られる危険が、長じては、それに対して「はい、たしかにそうです。ええ、すべてはかくも優柔不断な私というダメな人間の責任です。生まれてきて本当にごめんなさい」と言いながら思わず泣き崩れてしまう危険が、生じてしまうような気がするからだ。<br />
極端だと笑うなかれ（笑ってもいいけど）。こちとら傷つくのも傷つけるのも極力避けたい、現代っ子なのだ（三十路だけど）。<br />
　で、結局、いちいちそんな言い訳をするのは面倒だから、「あぁ、焼酎に変えたかったなぁ」と思いながら、ずるずるビールをすするというオチになりそうだ。</p>

<p>　もしも、ここで「よろしかったですか」と過去形で訊かれたら、随分、気が楽だ。<br />
動詞の時制から見るに、この質問は、「過去の注文に対する復唱」の正誤しか問うてはいない。<br />
なので、過去は過去のこととして「はい」と肯定しておき、「ただ……」と訂正を加えるという語法で、簡単に「やっぱり（いまは）ビールやめて焼酎」と続けられる。<br />
これはまさに、「いまこの瞬間に好みが変わっているかもしれない」という配慮から現在のことでも過去形を用いる、ラテンアメリカ語法と同じではないか。<br />
過去形のおかげで気軽に訂正できる私もハッピーだし、また、その訂正を、自分の言ったことを否定されるのではなく、あくまで肯定の範疇で伝えてもらえる店員も、ハッピーに違いない。<br />
なんせこちとら、ちょっとでも行為を否定されたら全人格を否定されたと感じてキレちゃう、現代っ子なのだ（とくに居酒屋のバイトの年齢層は、10代後半～20代前半だろうし）。</p>

<p>　ちなみに「注文の方」という言い回しも、「消防署の方から来ました」と言って消火器を売りつける悪徳商法を髣髴とさせて（かどうか）、いやらしい、という意見があるらしい。<br />
でもこれもまた、店員が「注文ではない方」という可能性を提出することで、客が「はい、ただ（注文ではない方として）テーブルを拭いてもらえますか？」などと、肯定＋訂正の文法での意思表示ができるようにしているのではないだろうか。<br />
おお、なんて心優しい気遣いではないか。<br />
クリーニングを経るとはいえ使い回しのおしぼりで顔や脇を拭くがさつなおじさんたちには、この優しさ（あるいは気弱さ）が、なかなか伝わらないのではないかしら。</p>

<p><br />
　「過去形での問い」は、かくも優しく響く。<br />
　もうひとつ、「もしも」シリーズ。もしもレジで一万円札を出したら、店員が間違えて千円だと思った場合。<br />
ここで店員が「千円からで、よろしかったでしょうか？」と過去形で言ったなら、「あっそれ、万札だにょーん」と、気軽に訂正できる。<br />
店員が間違った（＝よろしくなかった）のは、過去のことだ。だから私は、現在の彼を責めずに済む。<br />
これがもし「千円からで、よろしいですか？」と現在形で問われたら、目の前の彼の現在の誤りを、指摘しなければならない。<br />
「あなたはいま間違っています」と告げることは、「あなたはさっき間違っていました」と告げるのに比べると、かなり心苦しい。</p>

<p>　あるいは、そのような特殊な場合ではなくても、現在形の問いは、やはり少しきつく響く。<br />
「千円からで、よろしいですか？」という問いは、単なる事実確認を超えて、「お客さん、本当にこれでいいんですね？」とでもいうように意思確認を強く迫る、ある種の恫喝を含んだものとして感じられるのだ。<br />
みのもんたの「ファイナルアンサー？」と、同じである。<br />
この「ファイナルアンサー？」が、そう問われる者をいかに謂れ無き不安に陥れるかは、皆さんご周知の通りである（私も帰国時に一回見ました。すごかった）。<br />
もしみのもんたからレジで「千円からで、よろしいですか？」と問われたなら、気の小さい私なんて簡単に追い込まれて、思わず「あっ、あの、どうしようかな。ひょっとしたらよろしくない、ですかね？　やっぱりちゃんと小銭用意しとかなきゃ、ダメ、ですよね。そうですよね。本当にごめんなさい、こんなダメな人間で。すみません、また出直します」と、買い物を諦め、情けなさに泣きながら家に帰ってしまいそうだ。</p>

<p><br />
　「おめでとうございました！」も、同じように、傷つき傷つけることを恐れる現代っ子的優しさから発せられた言葉なのだろうか。<br />
このレコ大での場合もたしかに、ノミネートという行為自体は終わっているのだから、めでたさもそれに対応して過去形で表されている、と、考えることもできる。<br />
では、そうすることで、いま現在相対する当事者間に生み出したものはなにか。<br />
「いまはおめでたくない」と気軽に表明できる可能性か？　いったい、なんのために？</p>

<p>　もしも私がノミネートされた歌手だったら、「おめでとうございます」と現在形で言われた方がうれしいと思う。あるいはもしも私の家族や親しい友人がノミネートされたなら、やはり「おめでとうございます」と、いまこの現在の慶事として言祝ぐだろう。<br />
「おめでとうございました！」と過去形で言われたなら。<br />
ハッとする。「あっ、もうめでたいことは、終わり？」<br />
そして、醒めた頭で考えるだろう。（いや、そうだよね。うん、わかってる。いまの芸能界で、ちょっとくらい持ち上げられていい気になるような無様な勘違い、私はしないから）</p>

<p>　もしもホリエモンが、プレゼンテーターとしてではなくノミネート歌手として登場していて、そこで「おめでとうございました！」と過去形で声を掛けられていたら、たまたまその映像を１ヵ月後に見ることになった私は、たいした違和感も感じなかったかもしれない。<br />
一瞬でおめでたくない状況になってしまう危険を大いに孕む現代日本で言祝がれる者にとっては、過去形の「おめでとうございました！」の方が、優しく響くのだろうか。<br />
　いや、んなこたぁないだろう。<br />
どうも「おめでとうございました！」という言葉には、私は、対象への優しさよりは厳しさを感じるのだけど、どうでしょう？</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-02-09T10:45:39+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/22_1022.html">
<title>リスボンと島原をつなぐもの</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/22_1022.html</link>
<description><![CDATA[<p> 私の父は、長崎県は島原半島の南有馬というところに生まれた。<br />
　どうやら高木ブーの町らしい。幼稚園の頃そう思っていたのは間違いで、南有馬町を含む一帯は「南高来（たかき）郡」という。<br />
　母の手によるモンチッチ・カットに半ズボン姿、男の子と間違われてばかりいた私は、その父の生家を訪れるたび、隣の空き地で遊んだ。<br />
　公園ともいえないがらんとしたその場所には、なぜかぽつんと石像があって、蜘蛛の巣を払いながらよじ登って遊んだ。そこからはすぐ、海が見えた。</p>

<p>　この場所を、大人は「原城跡」と呼んでいた。碑なども、あったのかもしれない。<br />
　嘉永14（1637）年、キリスト教徒の貧しい農民が籠城し戦った、あの「島原の乱」の舞台である。<br />
　少年の姿をした石像は、たしかに天草四郎だった。</p>

<p>　有馬にはその昔、神学校もあった。<br />
　1582年２月、ここの学生４人が、長崎から船に乗り、西へと旅立った。いわゆる天正少年使節である。<br />
　彼らは波濤万里を越え、リスボン（当時スペイン領）に上陸を果たす。そこから陸路で東へと進み、現在私が住んでいるマドリードも訪れた。マドリードは当時、絶頂期にあったスペイン帝国の首都となってほんの20年余り。少年たちは、完成したばかりの壮大なエル・エスコリアル宮で、大いに歓待されたという。<br />
　彼らが日本に帰国したのは、８年後。<br />
　しかしその時にはすでに、豊臣秀吉が切支丹禁教令を布告していた。本能寺の変が起こったのは、少年たちの船出からたった４ヵ月後のことであった。<br />
　４人の使節うち、ひとりが病死、ひとりは棄教し、ひとりは棄教せず国外追放。<br />
　そしてひとりは、殉教。「私がローマに行った中浦ジュリアン神父です！」　65歳になった「天正少年」は穴吊にされながら、群集にそう叫んだという。<br />
　その４年後に、島原の乱が起こる。</p>

<p>　島原の乱で、農民は、「さんちゃご！」という鬨の声を上げた。<br />
　さんちゃごとは[Santiago]（サンティアゴ）、スペイン語で聖ヤコブのことだ。スペインの守護聖人である、いまもなお。<br />
　９世紀のレコンキスタ戦線に白馬に跨り颯爽と現れ、瞬く間にイスラム兵を蹴散らしてキリスト教徒に勝利をもたらしたという聖ヤコブは、しかし、島原には現れなかった。<br />
　島原の乱で殺された一揆軍の総数、約27,000。<br />
　女・子どもを焼き黒煙を上げて燻り続ける原の城から、冬の海を背に仰ぎ見れば、すでに多くの殉教者を呑み込んできた「地獄」を戴く雲仙が聳えていただろう。</p>

<p>　「さんちゃご」という言葉とともに日本にキリスト教を伝えたのは、バスク地方出身のスペイン人、フランシスコ・ザビエルである。</p>

<p><br />
■リカルド・アブランテスはこう云った：<br />
「聖ヤコブの遺骸が発見された。ということになっていますが、まぁありえないですね」</p>

<p>　711年、イスラム勢力がイベリア半島に侵入。支配下に入ることを是としない少数のキリスト教徒が、追われるように北へと逃げる。<br />
　722年、山中での小さな戦いに勝利したキリスト教徒が、アストゥリアス王国を建国。これが、レコンキスタ（国土再征服運動）の始まりである。</p>

<p>　８～９世紀といえば、ヨーロッパの大半は、カール大帝によって再統一され、カロリング・ルネッサンスなどと言いながら、学問や芸術を花開かせちゃったりしている頃である。しかし辺境のスペインはひとり、イスラム勢力と、必死で小競り合いを続けていた。<br />
　絶頂期にあったイスラム勢力を相手に苦戦していた813年、半島北西部から、聖ヤコブ（キリストの12人の弟子のひとりで、44年、ヘロデ王に首を刎ねられパレスティナで殉教している）の遺骸（もちろん腐っていない）が見つかった……という噂が流れた。<br />
　やぁ、ありがたや。天下泰平のヨーロッパから、数多のキリスト教徒が、この「聖地」を訪れはじめる。サンティアゴ巡礼道の始まりである。<br />
　巡礼のメイン・ルートは、フランス領内に発し、ピレネー山脈を越え、イベリア半島北部をひたすら西へ西へと進むもの。そのほとんど果てに、最終地のサンティアゴ・デ・コンポステラがある。<br />
　エルサレムへの十字軍も行われていた12世紀には、この巡礼道を、年間約50万人もが行き来していたという。</p>

<p>　レコンキスタにおける最大の課題は、実は、戦闘そのものよりも、再入植（レポブラシオン）にある、らしい。<br />
　戦闘で得た土地を、引き続き占有し、領地として確保すること。そうしなくては、局地的な勝利など意味を失う。これは中世の国盗り合戦なのだ。<br />
　と考えると、ひっきりなしに行き来する50万もの巡礼者は、再々征服を狙うイスラム教徒にとって、どれほど邪魔くさかったことだろうか。いやはや、聖ヤコブさまさまである。<br />
　さらには、イベリア半島だけでもその大半を、その先を見ればモロッコから遥か中東の先まで支配するイスラム帝国と戦うまだ少数のキリスト教徒にとって、「ピンチになったら必ず奇跡が起こる」というイメージは、竦む足をどれだけ奮い立たせてくれただろうか。<br />
　カミカゼ、ちがった、聖ヤコブさまさまである。</p>

<p>「まぁ正直、ちょっとタイミングが良すぎますわな」<br />
　芸術史の教授リカルドは、そう云うと、意味ありげに目を細めた。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「レポブラシオン（再入植）を知らずして、現代スペインを語ることなかれ、よ」</p>

<p>　８世紀にアストゥリアス王国を建設したキリスト教徒は、まず、カンタブリア海に面する半島最北部を制圧。<br />
　ここで王は、考えた。それまで西ゴート王国が採用し、かつ、それがため簡単にイスラム勢力に滅ぼされた、諸侯への領地分配は絶対に避けなければならない。なぜなら王自身が、そうして自ら国を滅ぼした西ゴート諸侯のひとりだったのだ。<br />
　そこで王は、貴族や聖職者などの側近を選び、新たに獲得した、最終的には王の所有物である土地の統治を委ねた。このあたり、織田信長のコンセプトに、似ているかもしれない。</p>

<p>　10世紀には、聖ヤコブのおかげもあり、キリスト教勢力は半島の北から1/4ほどを支配。王国も首都を南に移し、レオン王国と名を改める。<br />
　時の王は、これらの新たな土地を、望む民に各々分け与えることにする。むろん、力を持って貴族などにならない程度の、単なる自作農サイズに留めた。そのためこの地域ではミニフンディオ（小農制度）が発達し、現在では、PP（国民党）など保守勢力の強力な支持基盤となっている。</p>

<p>　11世紀、レコンキスタはさらに進み、スペインのほぼ中央に位置するトレドを奪回。これで半島の北の約1/2が、キリスト教の支配下に入った。王国の名はカスティージャに、その都はトレドに定められる。<br />
　この一帯にはレポブラシオンのため、遠く外国からも含め、多くの移民が集められた。彼らを統治するため、法により、小村がいくつも作られた。<br />
　やがて時代が下ると、村は交易などによって富を蓄えるようになる。経済発展に欠かせない、ブルジョア階級の萌芽のプロセスである。</p>

<p>　ところが中央集権化を図る王はこれを嫌い、後に首都を選りすぐりの寒村マドリードに移転させると、周囲の都市の特権をことごとく廃止。新首都で商業が発展したのならまだしも、折り良く「発見」した新大陸から湧き出す金銀にあぐらをかいていた中央スペインでは、ついにブルジョア（富裕商工業者）が誕生することはなかった。<br />
　天正少年使節が訪れたエル・エスコリアル宮（建物の幅207m×奥行き161m＝甲子園球場のグラウンド＋スタンド半分の広さ）をきらきらしく飾っていたのも、新大陸の金銀、イタリアの絵画、フランドルのタピストリーなどである。<br />
　フェルミンによると、中央スペインは「金を使うことしか知らないバカ息子」だそうだ。</p>

<p><br />
　12世紀になると、中央ヨーロッパでは、エルサレムへの十字軍遠征が花盛りである。<br />
　こちらも聖戦だということで、わざわざイベリア半島くんだりまでやってくるキリスト教徒まで出てくる始末。レコンキスタも、半島の北部3/4を占めるまでに進展する。<br />
　この土地の管理を、王は、ちょうど十字軍遠征に伴って創設されていた騎士団に委ねた。宗教心のみならず騎士道精神をも併せもつ彼らなら、私腹を肥やす心配はない。<br />
　ただ農民ではない彼らは、土地を開発する意欲に欠けていた。そのためこの地方は、今日まで、もっとも発展の遅れた地域になっている。<br />
　『ドン・キホーテ』の舞台ラ・マンチャが、ここだ。たしかにこの騎士、ありとあらゆる変わったことをしたが、生産的なことだけは一切しなかった。マドリード郊外の生まれであるセルバンテスが、わざわざ小説の舞台をラ・マンチャに選んだ理由のひとつは、このあたりにもある。<br />
　『ドン・キホーテ』初版発行は、天正少年使節の到着から21年後。</p>

<p>　13世紀、イスラム勢力内部の瓦解もあり、ついにレコンキスタは、降伏したグラナダ王国を除いて半島南端まで到達する。<br />
　あまりに急速に進んだため、王は、緊急措置として、軍隊の主だった者に広大な土地を委ねた。たとえば現在のセビージャ１州は、丸ごと、アルバという軍人に与えられた。<br />
　これが以前紹介した、後に国王を遥かに凌ぐ財力を有するようになり、現在も間違いなくスペイン全体の資産のうち一定の割合を支配する大貴族、アルバ公爵の起源である。<br />
　半島南部アンダルシアでは、これらごく少数の新興大貴族が、99％以上の土地を所有するという異常事態になった。後れて北から到着した農民は、仕方なく、その土地を借りて耕作する。耕せど耕せど、肥えるのは資本家ばかりなり。そのためアンダルシアには、現在も共産主義者が多い。なんせいまでも、土地の多くが貴族のものなのだから。</p>

<p>　また半島の東でも、アラゴン王国が、カタルーニャ諸伯領との連合王国を形成しながら、やはり同じようにレコンキスタを進め、グラナダ王国を挟んで南端に達していた。<br />
　こうして再征服したバレンシア周辺は、その名を冠したオレンジで知られるように、農業生産力が非常に高い地域である。そこでここでは、イスラム教徒を追放せずに農奴化した。当然、扱いは酷い。15～18世紀、この地域の乳児死亡率は、ヨーロッパで最悪だったという。<br />
　現在この地域は、スペインで唯一の共和国主義者のメッカとして知られる。諸悪の根源である王制への恨みは深い。スペインは現在も議会君主制であり、王が、軍隊の総司令官を務める。当然、公式行事には軍服で現れる。</p>

<p></p>

<p>　1492年１月、半島最後のグラナダ王国が陥落。10月、コロンブスが新大陸を発見。<br />
　スペインの目がギラリと、「海の向こう」に向けられた。</p>

<p>　その直前となる、1491年のクリスマス・イブ。<br />
　スペイン北部のバスク地方で、イグナティウス・ロヨラが生まれている。<br />
　彼は後にパリで、６人の同志とともに、イエズス会を結成。そのうちのひとりが、同じバスク出身のフランシスコ・ザビエルだった。<br />
　1541年、アジアへの布教を志すザビエルが、リスボンから出航。<br />
　その同じ港に、43年後、天正少年使節を乗せた船が着く……。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-01-22T10:22:37+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/09_1103.html">
<title>虎の威を借る狐たちの物語</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2006/01/09_1103.html</link>
<description><![CDATA[<p>「歴史を勉強してなんになる！」<br />
　なんて青臭いことを言う奴ぁ、もういないんだろうか？</p>

<p>　かつてテレビで、中学生が「英語なんて勉強しなくていい。俺は日本人だし外国行かないから関係ない」と言っていたのを聞いたとき（言わされていたのかもしれないけど）、私はごく真面目に、「まぁそう自分を安くつまらなく見積もるなよ」と、こころンなかで突っ込んだ。<br />
　縁あって日本に来た別嬪で気立てのよいアメリカ人（うちの義姉のことだ）に恋をする（うちの兄のことか？）かもしれないじゃあないか。<br />
　海岸を歩いていて見つけたボトルのなかの紙片に、なにか読んだらすごくワクワクするに違いない英文が書いてあるかもしれないじゃあないか。<br />
　なぜかいきなり手渡された５分間で正しく操作しないと地球ごと吹っ飛んでしまう最終兵器の説明書きが英語だけかもしれないじゃあないか。そのとき、地球を救えるのはお前だけかもしれないだぜ？</p>

<p>　と書きつつ思い出したのだけど、私はすごくひねこびた子どもで、小学５年のときSF作家の星新一に宛てて、「あなたの本は全部好意的に読んでいますが、最新作はどうしてもいただけません」というような手紙を送ったことがあった。<br />
　その翌年の正月、星新一から年賀状が届いた。びっくりした。<br />
　それを受け取ってはじめて、私は自分の書いた文章が本当に星新一に読まれるんだということをまったく想像していなかったことに気づいた。「どうせ私なんかの手紙とか読まんとばい」、そう思っていたのだ。<br />
　失礼だ。もちろん相手にもものすごく失礼だけど、私にもひどく失礼だった。<br />
　そういえば私は、「モル濃度とかサインコサインタンジェントなんて知らなくていい」と言っていたクチだった。私自身が、そういう自分に失礼な奴だったのだな。</p>

<p>　というわけで、スペインの歴史なんかも、たまにはどうぞ。<br />
　あっ、前回の予告と違って、スペインにおけるイスラム勢力の栄枯盛衰の話です。<br />
　レコンキスタの続きは、たぶん、次回。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「そして結局セウタ提督フリアン伯はどうなったかって？　知らなーい」</p>

<p>　５世紀のローマ帝国衰退後、最初は南仏トローサ（トゥールーズ）に、やがてフランク王国に破れた後はイベリア半島中央のトレドに都を置き、栄えた西ゴート王国。<br />
　といっても、もともと遊牧民であったため、部族間の競争が激しく、どこも自分のところから王を出そうとするために策略・弑逆・シュラシュシュシュが絶えず、王の平均在位年数は２、３年だったという。<br />
　710年に即位した、情熱のアンダルシアはグラナダ出身のロドリゴ王も、そういう西ゴートの王のひとりであった。</p>

<p>　即位の翌年、最短で14kmしかない海を挟んで向かい合う北アフリカはセウタ提督フリアン伯が、ロドリゴの王位を簒奪せんと、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったイスラム勢力の長ムサに援助を依頼。<br />
　たぶんニヤリと笑っただろうムサは、ジブラルタル領主タリク（Gibraltarは、アラビア語で「タリクの岩」が語源）に命じ、ベルベル族を率いて半島に侵入させる。<br />
　タリク及びムサは首尾よくロドリゴを打ち破り、そして当然のごとく、フリアン伯も放逐したらしい。まあねー。ハリウッド映画でも、姑息な裏切りを画策した奴ぁ真っ先に殺される運命なのだから。<br />
（ハッ、高校のとき友人から「『身から出た錆』ってあんたのためにある言葉のごたる」と言われた私っていったい……）</p>

<p>　こうしてスペインは、ダマスカスを首都とするウマイヤ朝イスラム帝国の一州となる。<br />
　しかし直後から、イスラム諸族・派閥間のポスト争いが激化。各々が虎の威を借りんと帝国各地から有力部族を招聘したため、スペインはイエメン人、エジプト人、シリア人、レバノン人などが入り乱れて収拾のつかない状況になった。<br />
　そしてちょうどそのころダマスカスで、アッバース家がウマイヤ家に替わって帝位に就くという激変が出来。<br />
　迫り来る皆殺しのブルースから逃れ北アフリカまでやってきたウマイヤ朝の廃太子アブデラマン（アブド・アッラフマーン）を、スペイン領内で優位に立ちたいイエメン人が招聘。<br />
　アブデラマンは（おそらく）ほくそ笑みつつ招きに応じ、アブデラマン１世として即位して中央からの独立を宣言するや（いわゆる後ウマイヤ朝）、一族郎党を呼び寄せて周囲を固め、一挙に独裁体制を整えた。<br />
　アブデラマン１を利用しようとしたイエメン人は、逆に利用されてしまったというわけだ。</p>

<p>　虎の威を借るキツネは、虎にばっくり喰われてしまうんだぜ、と、歴史は語る。<br />
　それを聞いて私は身の竦む思いがする。<br />
　他人事じゃないぜ、気をつけろよ私。これが「身から出た鯖」ってやつだ。……えっと、生き腐れに注意、だっけ？</p>

<p><br />
■リカルド・アブランテスはこう云った：<br />
「アルハンブラ宮殿は、泥でできています」</p>

<p>　時は移って10世紀。上記の初代王の曾孫となるアブデラマン３世は、栄えに栄える国力を背景に、ついにカリフ（預言者の代理人）を名乗る。ムハンマドをも恐れぬ所業、といったところか。<br />
　彼らの宗教戦争、つまりはレコンキスタに対するレコンキスタも、この時期はキリスト教国の弱体化もあって大きな成果を挙げている。<br />
　当時の最重要都市であったトレドや、さらには「モーロ人殺し」（まぁお下品）の異名をもつレコンキスタのシンボル・聖ヤコブを祀る聖地サンティアゴ・デ・コンポステラまでをも、首尾よく再々奪回して、意気揚々だった。</p>

<p>　このカリフ帝国の首都が、アンダルシアのコルドバである。<br />
　現在は人口約35万だが、当時は人口50万～100万（誤差大きすぎ！）。300あまりのイスラム寺院があり、ヨーロッパ世界よりも約２世紀早く大学が作られ、アレクサンドリアと並び称される大図書館があった。<br />
　ちなみに、地元出身の思想史教授オルデンも、また私もおすすめなのが、世界遺産指定メスキータ前にあるレストランEl Caballo Rojo「エル・カバージョ・ロホ」。夏はコルドバ独特の、喉が詰まるほど濃いガスパチョ「サルモレホ」をどうぞ。</p>

<p>　しかし花の命は短くて。アブデラマン３世の死後、息子のヒシャーム２世がダメな野郎だったのに対し、出来すぎる宰相アルマンソールが華々しい戦績を挙げて、領国の半分を支配するようになる。<br />
　そうなると、もうどうしようもない。<br />
　1031年、ヒシャーム３世が死亡するや、それまでも子息を宮廷に送り込もうとして反目しあってきたイスラム貴族の思惑と、強いカリフの不在とが重なって、帝国はあえなく解体。スペインは、各々の貴族が支配するタイファという小国割拠の時代に入る。</p>

<p><br />
　歴史を学んでいなかったのか。<br />
　あるいはそういうことが繰り返して起こることこそが歴史の本質なのか。</p>

<p>　スペイン全土に20～30ほども分立し、互いに反目しあう諸王国はどうしたか。<br />
　自国を守り他国に対して優位に立つため、それぞれ北アフリカからベドウィン（遊牧民）の部族を招いたのだ。<br />
　時期によって異なるが、彼ら、ムラービト、ムワッヒド、ベニメリンなどは、請われてスペインに入るや、当然のごとく居座り、それぞれ社会的に高い地位を独占してしまう。<br />
　このようなゴタゴタを利用して、キリスト教徒はレコンキスタをどんどん進め、やがてグラナダを除いた半島全域を支配下に置いてしまった。</p>

<p>　1240年、グラナダのナスリ王朝は、カスティージャ王国への多額の朝貢を約して降伏。かたちだけは独立を保持するものの、1492年、その気になったカトリック両王によって軽く滅ぼされてしまい、これによってスペインからイスラム勢力は駆逐された。</p>

<p><br />
　とはいうものの、グラナダ王国は250年、つまりは江戸時代よりちょっと短いくらいのあいだ、続いていた。もちろん明治維新から今日までより、ずっと長い。<br />
　万年雪を頂く3,000m超級のシエラ・ネバダ山脈（まさに「雪冠山脈」を意味）の雪融け水が潤す耕地では、アラビア由来の果実や野菜が作られ、盛んにヨーロッパに輸出されていたという。グラナダの語源を、ザクロ（同じくgranada）に求める説もある。<br />
　カスティージャ王国の庇護下に入ったため、戦争をする必要もない。<br />
　戦争をしなくてもいいことになっている国が内部でどれだけ栄えるかというのは、私たちがよく知っているところのことである。</p>

<p>　グラナダ王国は、栄えた。<br />
　しかしそれは、許された範囲内でのものであった。たとえば王宮建設のために、キリスト教国圏内から大理石や白御影石を大量に搬入することはできなかった。<br />
　彼らは手持ちの泥と土と水とで、つまりは日干しレンガぐらいを材料として、王宮を作らなければならなかった。まさに砂の城だね。<br />
　その建材の貧相さを隠すため、漆喰やタイルなどで、一面を覆いつくした。<br />
　スペイン語の[decorar]（装飾＝デコレーションする）は、[de]（～しない）＋[corar]（掘り起こす）なのではないかと、私は考えている。</p>

<p>　こうしてできたのが、「イスラム建築の精華」や「イスラムの徒花」と称される、アルハンブラ宮殿である。"Quien no ha visto Granada no ha visto nada."（グラナダを見てない者は、なにも見てないだ）という成句もあったりする。<br />
　美しい。とくに有名なのは繊細優美な列柱で有名なライオンのパティオだが、もともとは白い柱のあいだに色鮮やかな草花が乱れ咲き、現在よりも数段美しかったという。<br />
　しかし、伸びた根が土中から宮殿の床を持ち上げて壊してしまったため、数十年前に草花が文字通り根こそぎ抜かれてしまった。<br />
　ひょっとしたらそういう脆弱さもが、グラナダ王国の儚さとあいまって、妖しいまでの美を醸し出しているのかもしれない。<br />
　……と書いていて、新古今和歌集を思い出した。<br />
　アルハンブラ宮殿も新古今和歌集も、ともに13世紀の作品である。</p>

<p><br />
　続く14世紀、スペイン全土を異常気象による飢餓とペストが襲い、さらには「残酷王」カスティージャ王ペドロ１世と異母兄エンリケ２世の反目を発端とする内戦が近隣諸国も巻き込んで行われたため、国土が、壊滅的なまでに荒廃する。</p>

<p>　スペインは現在もなお、そこから復興していないと言ってもいい。<br />
　ドン・キホーテが歩いた400年前のラ・マンチャ（カスティージャ）の大地は、今日もそのまま、すぐそこに広がっている。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2006-01-09T11:03:41+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/26_1006.html">
<title>バルセロナのサッカーファンはなぜフィーゴに豚の頭を投げつけるのか？</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/26_1006.html</link>
<description><![CDATA[<p>　これは又聞きなのだけど（ハッ、ほとんどのことが又聞きではないか）。<br />
　1992年のバルセロナ・オリンピックの開幕前、世界各国の新聞に、一面全部を使った次のような広告が載せられたという。</p>

<p>（カタルーニャ州およびバルセロナを示す地図とともに）<br />
「バルセロナは、カタルーニャです」</p>

<p>　しかしイマジン、想像してもごろうじろ。<br />
　たとえば先ごろ万博会場となった愛知県が、世界中に向かって、<br />
「愛知県は（日本でなく）中部地方です」<br />
「これまで（日本の東京ではあったけど）オリンピック経験のない愛知県を次回開催地に！」<br />
「（EUはないからたとえば）国連は、日本とは別に、中部地方を一国として扱え！」<br />
　というメッセージを発したならば。<br />
　けっこう、ぎょっとすると思う（と書いて、これで「ぎょっとする」自分にいまぎょっとしたのだが、それはさておき）。</p>

<p><br />
　有名な話だが、バルセロナで「あなたは何人（なにじん）ですか？」と訊くと、まず「カタルーニャ人です」という答えが返ってくる。<br />
　もしうっかり「あなたはスペイン人ですか？」と訊こうものなら、「違う、一緒にすな！」と怒られるかもしれない。<br />
　ちょうどそれはコチコチの阪神ファンに、「西武の田淵、大好きだったんですよ」とうっかり話してしまったのと同じような状況だ（つまりベースにある「好意」とて、「勘違い」された彼の怒りを抑える効果をもたないだろうという意味）。</p>

<p>　現在、カタルーニャ州は高度な自治権を有しており、道路標識も役所や小学校から家庭への通知も、公用語のカタルーニャ語が用いられている。<br />
　カタルーニャ語のテレビも新聞も雑誌もあり、ハリウッド映画だってカタルーニャ語吹き替え。<br />
　学校の授業はカタルーニャ語で行われ、そこでは標準スペイン語（カステジャーノ）は「外国語」として学ぶ。<br />
　まぁスペインの中での、ちょっとした「特別扱い」だ。<br />
　ただし私はどうしても「中央」マドリードにいるせいで、そういうの（たとえば、F.C.バルセロナ（＝阪神）からレアル・マドリー（＝巨人）に移籍してきたフィーゴに、両チームの試合がバルセロナで行われた際、「裏切り者！」の合唱とともに豚の頭が投げつけられることなんか）を、「ちょっとそらさすがにやりすぎじゃない？」と思うきもちは、ないわけでもなかった。<br />
　あった。<br />
　しかし、この度、かなり認識を改めましてございます。（無批判ではないけれど）<br />
　いやはや歴史も、学んでみるもんどすなぁ。あぁ冷や汗。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「カタルーニャの起源は、フランスになりまーす」</p>

<p>　405年、西ローマ帝国が国内事情からグダグダになって国境警備に手がまわらなくなったところで、ライン川の向こうの寒いところにいたゲルマン系諸族が、より豊かな土地を求め、川を越えて帝国侵入。<br />
　それはゲルマン諸族による、「西ヨーロッパ争奪イス取りゲーム」であった。<br />
　最大の勝者フランク族は、フランスあたりのいちばん良い場所を占領。<br />
　居場所を見つけられなかったいくつかの民族はフランク族によってさらに西へと追われ、ご苦労なことにピレネーを越えて、そしてまさか大西洋を渡るわけにもいかず、イベリア半島に留まり割拠する。<br />
　西ゴート族は、しかしこの流れにすっかり遅れを取っていた。<br />
　彼らは頭を働かし、まず、ローマに攻め込んでその力を見せつけるという手段に出た。<br />
　そして怯える西ローマ帝国皇帝に対し「なあにローマを取ろうってわけじゃござんせん。それどころか、あっしがお前さんのためにですよ、あのごちゃごちゃしてるイベリア半島をちゃちゃっと綺麗にしてきてみせまさぁ」と約束して信用され、そして実際に見事に駆逐し、んでもって当然、そのままそこに居座った。<br />
　475年、フランク族を牽制することができるトローサ（現トゥールーズ）を首都に定め、西ゴート王国の独立を宣言。<br />
　翌年、西ローマ帝国滅亡。<br />
　507年、西ゴート王国とフランク王国とが決戦。敗者となった西ゴート王国はピレネー以北の領土を失い、つまりはイベリア半島に引っ込むことで手打ちとなり、首都を半島の真ん中のトレドに移す。</p>

<p>　そんなかんじで、約200年が過ぎる。</p>

<p>　711年、西ゴート王国が国内事情からグダグダになっていたところ（協力貴族に気前良く土地をあげ過ぎたため。あら日本の歴史と同じね）、自身の出世とライヴァル放逐を計る国境警備担当貴族の手引きによって、北アフリカまで来ていたイスラム勢力がジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に侵入。<br />
（もちろん、この裏切り貴族は、新支配者となったイスラム勢力により、ライヴァルともども放逐された）<br />
　グダグダの王国はドミノ倒しのように次々と征服され、イスラム勢力はなんとほんの約20年後には、フランク王国の奥深くまで攻め入っていた。</p>

<p>　が、732年、ついに現在の北フランスとなるトゥール－ポアティエ間の戦いで敗北。<br />
　このときの手打ちは、両国の国境を「北はピレネー山脈／南はエブロ川」と定めるというもの。そしてこの両者の間に帯のように広がる地域は「イスパニア辺境領」として、勝者フランク王国の支配下に置かれることになった。<br />
　ピレネー山脈の清冽な雪解け水を湛える肥沃な土地、地中海に面した温暖な気候に天然の良港……。<br />
　イベリア半島には珍しいこのような好条件に恵まれたここイスパニア辺境領の、中心的港町こそが、バルセロナだったのである。</p>

<p>　で、100年弱が過ぎる。</p>

<p>　810年、フランク王国が国内事情からグダグダになってしまったため、手がまわらなくなった国境警備を放棄。<br />
　イスパニア辺境領の警備を担当していた各伯爵が、この機に乗じて、それぞれ伯爵領として独立する。<br />
　これが今日の、カタルーニャ州の起源である。<br />
　なるほど道理で、知人のカタルーニャ人は、「ありがとう」というとき、「グラシアス（カタルーニャ語・標準スペイン語ともに）」ではなく、「メルシー」と言うわけだ。（しかも、ジャン・レノに似てるし）<br />
　彼らのオリジンは、現在のフランスにあったわけなのね。</p>

<p>　しばらくいくつあの伯爵領が分立していたカタルーニャだが、やがて彼らの代表としてバルセロナ伯が選ばれ、全体がバルセロナ伯国としてまとまることなった。<br />
　諸侯の「代表者」である彼の権力は、「すでに存在するコンディションを背景に発展した国のトップ」によくあるように大きく制限されており、戦費はもちろん、自身の食費ですら、有力諸侯による議会の承認を必要としたという。<br />
　当然、あまりにも諸侯の利害に反するようなら、簡単に首をすげ替えられた。<br />
　なぜなら彼をバルセロナ伯たらしめている権力の源は、諸侯の利害関係の一致という点にしかないからだ。<br />
　カタルーニャではそういう「国民の代表者タイプ」以外の「トップ（＝王）」を、決して戴いたことはない。<br />
　後にバルセロナ伯が隣のアラゴン国王を兼ねることになるが、これとて中身は同じでああった（ちなみに「彼が王である必然性はない」という考えは、血で血を洗う絶え間ない王位簒奪戦を生んだ）。</p>

<p>　ということで、こんなことにもなっている。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンは、こうも云った：<br />
「歴代のスペイン国王は、現国王も含め、カタルーニャ自治州に一歩足を踏み入れれば、『王』ではなく、『バルセロナ伯爵』という地位になります」</p>

<p>　どびっくり。</p>

<p><br />
　さて、そういうわけでカタルーニャは、あの有名なレコンキスタによってキリスト教徒が再征服した土地、「ではない」。<br />
　「ではない」ことで、後に（現在まで）スペインの主導権を握ることになったスペイン中央部カスティージャと、文化的背景に大きな違いができた。</p>

<p><br />
　711年、ジブラルタル海峡から半島に侵入したイスラム勢力は北へ北へと攻め上がり、上がりすぎてフランク王国内で行われたトゥールポアティエの戦いで敗北したが、エブロ川以西のイベリア半島全域を掌握した。<br />
　イスラム勢力の北上に際し、それまで少数の西ゴート族に支配されていたヒスパノ＝ローマ人やユダヤ人は、税金を払えば「自由」を認めてくれた彼らの傘下に、率先して編入されていった。<br />
　では、イスラム支配によってほんの20年足らずの間にあれよあれよと特権を失ってしまったほぼ唯一の存在、西ゴート族（貴族）はどうしたか。<br />
　大部分は、イスラム傘下に入った。税金を払い社会的地位を諦めれば、彼らは「異教徒」にも寛大だったからだ。（西ゴート族は、当初キリスト教の異端アリウス派だったが、後にカトリックを国教化している）<br />
　しかしそれを受け入れないごく少数が、イスラム勢力に追われるように北へ北へと逃げた。<br />
　そして半島北部アストゥリアス地方の、かつてローマが陥落させるまで300年を要した険峻な山中に籠もった。<br />
　寒さと飢えに凍えながら、彼らは、考えた。<br />
　それでも僕らは戦うんだ。なぜならこれは、異教徒の魔の手からキリスト教を守る、聖戦だからだ。<br />
　状況の困難さが、彼らをファナティックにした。<br />
　722年、西ゴート貴族を中心としてまとまった勢力が山の中で行われたコバドンガの戦いでイスラム勢力に初勝利し、ここにアストゥリアス王国を建設。<br />
　こうして、キリスト教勢力によるレコンキスタ（国土再征服運動）が始まった。</p>

<p>　以上が、カスティージャ（中央スペイン）における王制の起源である。<br />
　なので、現在も国王の後継者の地位にある皇太子（現在は、フェリペ皇太子。その後は、先日生まれたレオノール王女の予定）は、「アストゥリアス皇太子」の称号で呼ばれる。</p>

<p><br />
　さて、戦争を主な仕事とする彼らは、とにかく強い戦闘集団を作って効率よく戦うというのを最大の目的に（なんせもともと土地も人民もない兵士の集団なので、統治を考える必要はない）、全権力を掌握する長としての「王」をトップに戴いた。<br />
　他のヨーロッパ諸国やカタルーニャと違い、まさにゼロから始まったカスティージャでは、既存のコンディションに配慮する必要はまったくなかったのだ。<br />
　この「戦闘集団としてのトップ」は、ケルト文化での「カウディージョ」（個別の戦いに際して選ばれる頭領で、勇敢であらば身分は関係なく羊飼いでもなれ、そして戦いが終わると職を解かれる）に似ているが、大きく違うのは、カスティージャの王は実に今日まで、その職を解かれていないという点にある。<br />
　なんせ、この戦争＝レコンキスタは、約800年も続いたのだ。<br />
　しかも強大な敵に一致団結して立ち向かうため、彼らは「王」に、ケルト文化にはなかった世襲制度を取り入れた。そのため、力をもった新興貴族が気軽に実力で王位を簒奪する、なんてことも封じられた。<br />
　こうして1492年にレコンキスタが終わった時、もはや誰もが、800年の間に化け物となっていたスペイン王に向かって、「あんたの役目は終わったよ、お疲れさん！」とは言えなくなっていたのだ。</p>

<p>　というわけで、その起源において全権力を集中させるために創り出されたカスティージャの王は、当然ながら、国のために自分が良いと思ったら、勝手なことをやり放題にやる。<br />
　しかも戦いは聖戦であり、自分は神の意を受けた王家として選ばれし地上の代理人、いやもうまったき正当な存在なのである。<br />
　「神意にもとづく戦争のため、金を出せ」と宮廷（議会）に一方的に命令するのなんて、御茶の子さいさい。立派な建物も建て放題。<br />
　やがて太陽の没することなき帝国を築く神聖ローマ帝国皇帝カルロス（カール）5世は、宮廷をすら、生まれ育ったオーストリアからごっそりと引き連れてくるだろう。スペイン貴族はいきなりまとめて窓際族（そりゃ、王に追従するようになるわね）。<br />
　そしてその息子であるフェリペ2世は、新大陸発見で得た巨万の富を、当然の権利（あるいは正義に裏づけされた義務）として対プロテスタント宗教戦争に費やし、スペインを何度も破産宣告させるに至らしめるだろう。<br />
　そんな、時に横暴な王家はどうなったかということ……。<br />
　今日まで、続いている。</p>

<p>　「王は、絶対的に偉い」<br />
　それがカスティージャ、つまりは現在のスペインのベースになっている国の、王の姿なのである。</p>

<p><br />
　絶対的な存在としての王を考えるとき、現在でも9割以上がカトリックというスペインの民は、うっかり、神を前にしたときと同じ態度を取ってしまう。（まぁ、国と教会ぐるみでそうさせてきたのだけれど）<br />
　つまり、思考停止だ。<br />
　そのロジックは、「イエスか、ノーか」ではない。「イエスか、イエスか」。オー・イエス、オンリー・ビコーズ・ユー・アー・イエス・キリスト。</p>

<p>　この思考の落とし穴から、「スペインの敬虔なるカトリックの民（羊）を、自分の身を犠牲にしても守るカウディージョ（羊飼い）」と宣うフランコが最終的に掌握するに至る強大な権力が、ズルズルと這い出てきた。<br />
　そしておそらく同じ穴から、そんなフランコの後継者と指名された現国王フアン・カルロス1世および王家への、スペイン市民の驚くほどの信頼（それは帰依と言っていいほどの）が湧き出している。<br />
　圧倒的な支持を受ける現国王に対して、<br />
「でもさ、彼は父親から王位を世襲したわけじゃなくて、共和制成立で外国に逃げた祖父の代で本当はスペイン王家は断絶してるよね。でさ、現国王はフランコの後継者として王座に就けたんだから、実質的にはその源泉はフランコにあるわけじゃん？」<br />
　と言うのは、雰囲気としてタブーだ（もちろん自由だけど）。</p>

<p>　そして善良なるカスティージャの民は、現国王がバルセロナを訪問した際、カタルーニャ人たちが彼を「私たちがするように」熱狂的に歓迎し敬わないことを、けっこう不満に思う。<br />
「王様に対し、な、なんて失敬な！」と、生々しい感情的な怒りを感じてしまう。<br />
　でも本当はカタルーニャ州では、現国王は、バルセロナ伯爵に過ぎないのだ。<br />
　カタルーニャはカタルーニャとしての至極当然なやりかたで、「王」を遇しているのだ。</p>

<p>　あぁ、まさか、そんなことだったとは。<br />
　そんなこととは、つゆ知らず、カスティージャの民と化しつつあった私もまた（こういう雰囲気は知らないうちになんとなく染み込むものだ）、ものすごい落とし穴にハマってしまっていたのだなぁ……。<br />
　でもやっぱり、サッカーグラウンド内に豚の頭を投げ入れるのは、危険なのでやめましょう。もったいないし。</p>

<p><br />
　というわけで次回も、レコンキスタ。<br />
　レコンキスタと現在のスペイン社会（政治面）との関係、の、予定です。</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-12-26T10:06:09+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/06_1000.html">
<title>ぜんぜん高貴じゃないぞスペイン貴族</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/12/06_1000.html</link>
<description><![CDATA[<p>　日本はいい国だぜ、のっけからなんだけど。<br />
　今回の大学や、以前、1ヶ月だけ顔を出した語学学校など外国人が集まってくる場所にいると、いかに日本が「庶民がお金を持っている国」なのかが、よくわかる。</p>

<p>　フランコ体制を学ぶ特別ゼミナールで、「フランコ体制下のスペインでは、大学というのは中流階級である役人の子息を対象にしたもので、庶民（＝下層階級＝国民の90％以上）が学費を払えるようなものではなかった。そこでフランコ死後の民主化過程において、学費の値下げが真っ先に行われた。現在、この大学の法学部で、学費は年間600ユーロ弱（約9万円）である」という説明を受けたときのこと。</p>

<p>　スウェーデン人のカリンちゃんが、挙手した。「っていうか、どうして無料にしないんですか？」</p>

<p>　スウェーデンでは、義務教育に加え、大学も無料なのだという。<br />
　そして国内で学ぶ学生にはもちろん、さらに海外に留学しているカリンちゃんには、毎月、住居費はカバーするくらいの金額が、国から援助されるのだとか。</p>

<p>　「年間にたった600ユーロだよ、暖房代くらいの実費だよ」「いや、完全無料にしなきゃおかしい」　珍しく先生と押し問答をするカリンちゃんの袖を私は引いて、「あのね、日本では年間100万円はするよ。医学部とか、1,000万円することもあるんだって」と、囁いた。<br />
　「えっ！」　彼女は大きな青い目を見開いて絶句すると、小さな声で「……誰が払えるの？」と訊いてきた。<br />
　そう言われれば、たしかにそうだ。でも、私んちだって、それ、払ったんだよなぁ。</p>

<p><br />
　日本では庶民が、一応、なんとか「それくらいの」お金を融通できる。<br />
　もうひとつ例を出すなら、大学卒業後、あるいは会社勤めを辞めて海外留学、というのも、ここで見る限り日本人が断然多い。<br />
　現地で働かなくても済む充分なお金を貯めてきて（ビザの問題で労働ができないというのもあるのだが）、地方都市やヨーロッパ各都市をまわったりして、滞在を楽しんでいる。</p>

<p>　一方、大学在学中の交換留学は、提携大学があるせいもあって、アメリカ人をよく見かける。若人たちは短い滞在を満喫しようと、週末といわず平日といわず、ディスコに繰り出している。（赤十字でボランティア活動をするクラスメートもいるが）<br />
　その他の国から来た学生は、だいたいバイトをしている。それが違法でも、働いている。ドイツやオランダやフランスからの20歳前後の学生は、住み込みのベビーシッターをしながら。東欧や南米から来た25歳前後の学生は、ウェイターやウェイトレスをしながら。前出のカリンちゃんも、チョコレートショップでバイトをしている。<br />
　バイトをしていないのはかなりの金持ちで、実際に会ったのはロシア人と中国人とヨルダン人。</p>

<p>　私の実感では、世界はすごく大雑把にいうと「庶民の家の子が海外留学に来て、現地でバイトをして生計を立てる」国と、「金持ちの家の子が来て、バイトをしない。貧乏な家の子もスペインには来るが、その場合には学校なんか通わずに必死で働く」国とに大きく分けられて、日本は、そのどちらにも入らない。<br />
　日本は、「庶民の家の子が来て、働かずに学生生活を楽しむ」国だ。<br />
　大学の学費のことを考え合わせても、今日の日本の庶民って、他の国の「けっこう裕福な家」に相当するのではないだろうか。ストックではなくフローの方ならとくに。</p>

<p>　ということで、今日のテーマは、社会階級です。</p>

<p><br />
■オルデン・ヒメーネスはこう云った：<br />
「スペインでうっかり『ノブレス』なんて言ってはいけない」</p>

<p>　現代スペインに関する思想史の先生との会話で、うまくことばが出てこず、「ほら、『ノブレス・オブリージュ』みたいな概念って、」と言ったときのことだった。<br />
　セネカと同じコルドバ出身のオルデンは血相を変えて、「いかん、決して混同してはいかん。スペイン語の『ノブレス』には、それに相応しい一切の価値がないばかりか、その対極にあるような存在だ」と注意してくれた。</p>

<p>　そこで、ハッとした。<br />
　そうか、スペインにはいまもノブレ（貴族）がいるんだ。</p>

<p>　たとえば、ゴヤの『裸のマハ』のモデルかもしれない（たぶん違うけど）ということで有名なアルバ女公爵。彼女は18世紀の美しき開明派だが、現在も、そう呼ばれる女性がいる。<br />
　こちらは故・清川虹子似の老婦人。アルバ公爵家の現当主で、貴族として46の称号を持っている。</p>

<p>　彼女が、フェニキア人が持ち込んだラティフンディウムが根強く残るアンダルシアを中心に所有する（と思われる）土地の広さは、不明。公表された、オルデンの出身地コルドバ県内分だけで約3,000haあり、数年前に1億3700万ユーロ（約200億円）と査定されている。ま、ほんの一部だろう。<br />
　むろん、建物も絵画も宝石も、たくさん所有している（はず）。また現代の金持ちとして、当然あちこちの会社を持っている（はず）だが、どれくらいの資産があるのかは不明。</p>

<p>　スペインにおいて、貴族はノスタルジィを伴う過去のものでも、また無害なお飾りでもない。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「フランコ時代の『200家族』が、フランコの死を迎えてどうなったか。……接収？　とんでもない。なにも変わらなかったのさ。今日までも、そして明日からも」</p>

<p>　200家族とは、フランコ体制に迎合して、アミーゴーして、利権を貪ったやつばらの総称。フランコは各産業で独占・寡占状態を作り出し、その利権を彼らに与えた。フランコの私的友人や側近などの成金が、フランコに靡いてうまい汁をじゅうじゅう吸ったという。<br />
　格式ある貴族を前にしてもフランコは、「で、お前はなんでそこにいるの？」と言った（ようなものだった）。そこで「あなたのお役に立つために」と答えられなければ、彼は放逐されるだろう、財産は没収されたうえで。<br />
　で、多くの貴族は、残った。残って、汁をじゅうじゅう吸った。</p>

<p>　「上流階級つうのは、社会が認めるから上流階級なんだ。その社会がフランコ独裁体制なら、当然、フランコに認められるように振る舞う。彼らに、社会批判をする意思も、その能力もないよ」</p>

<p>　反対したものの末路は？<br />
　内戦中、そしてその後に捉えた共和主義者を、フランコは、各地の闘牛場に収監した。<br />
　すり鉢状になっている闘牛場は脱獄がまず不可能であり、その高い壁が外部からの視線を遮り、かつ、町外れにあるため隔離も簡単。<br />
　数年たち、栄養と衛生面の問題から収監者のかなりの数が死に、残ったものに反抗の能力がなくなったと見たところで、フランコは彼らを故郷に帰らせた。<br />
　その姿が、フランコ体制への反逆者の末路としての、なにより「良い例」になると踏んだからだ、という。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンは、こうも云った：<br />
「『スペイン国民を護るため、私はこの身を神への犠牲に捧げる』、フランコはそう言ったんだよ」</p>

<p>　人間はすべてアダムとイブの子どもである、聖書によると。<br />
　彼らが国として集まった以上、そこには集団としてのひとつの「国民」があるだけで、各々に異なる個人というものは存在しない。（だから、差異に基づく政党や地方自治は存在しない。そして無神論者（類似のアナーキスト）と外国人を嫌悪する）<br />
　そしてフランコは、彼ら神の子どもたちを代表し、彼らを護るために、神に自らを犠牲に捧げて奉仕するのだ。らしいのだ。</p>

<p>　国民を庇護する責任のあるフランコは、彼らの自由、公平、平等、進歩、保健、教育、経済的発展などのすべての面倒を見る責任がある。<br />
　これは、そう、「父」の姿だ。<br />
　フランコ体制を一言で表すと、家父長主義、になるという。</p>

<p>　そしてフランコが父として君臨した国のパターンが、末端では各家庭で繰り返される。<br />
　ここで大活躍したのが、カトリックだ。<br />
　教会は、毎週日曜のミサ（出席しなければならない社会的プレッシャーが存在した）や告解（同前）を通じ、各家庭に、あるべき父の姿、母や子の姿を教え続けた。<br />
　フランコ時代、「個人」というものはなかった。あるのは「家」と、それを構成する家族のプロトタイプだけだった。</p>

<p>　誰もがこうして「よき父（母、子ども）」を演じるようになったとき、その価値観を揺るがすものが出てきたらどうなるか？<br />
　自ら、排除するだろう。ちょうど模範的な生徒が、掃除をサボる生徒を、その良心から、先生にチクるように。<br />
　こうしてスペインは、オート・ポリス化された。</p>

<p>　フランコが死んで4年間、スペインは「何事もなかったかのように」機能し続けた。<br />
　陸海空軍の総司令官である国王を深く信頼し、手の届かない貴族は憧れの存在で（アルバ女公爵はワイドショーの常連）、カトリックであり、外国人は本当のところあまり好きではない（観光産業の重要性がわかってるから、お国のために我慢するけど）。<br />
　それが、現在まで続く、スペインの庶民のひとつの典型なんである。</p>

<p><br />
　共和国政府に対する軍部クーデターの際、モロッコ駐留軍を指揮していたフランコは、ジブラルタル海峡を越えてスペインに上陸した。<br />
　彼はそこで、拍手をもって迎えられたという。<br />
　他地域からそれぞれマドリードを目指した数人の将軍が、ある者は孤立し、ある者は死んで、力を失ったのに対し、フランコだけが偶然生き残り、彼を「カウディージョ（頭領、ケルト文化に由来）」にした。</p>

<p>　スペインでフランコを迎え、首都マドリードまでの道を開けたは、国の中で最貧の、それゆえに熱心なカトリック教徒が多く、共和国政府のラデイカルな宗教政策に不満と不安を抱いていた、アンダルシアの人々だった。むろん、財産を保持したい教会や大地主や貴族も、拍手を送り彼を送り出した。</p>

<p>　スペインがフランコを望んだのだ。<br />
　フランコは、75年に死ぬまで、スペインに独裁者として君臨した。<br />
　「誰も、出て行け、と言わなかったからだ」<br />
　そう言って、フェルミンは話を結んだ。</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-12-06T10:00:26+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/21_2216.html">
<title>ケルティック・スペインのひみつ</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/21_2216.html</link>
<description><![CDATA[<p>　現実とは、とかく雑多で複雑で。<br />
　スペインという国を、「理論」で知る前にいきなり「現実」で体感してきたため、「ジャングルの中でいきなり目の前に現れたどえらく臭いラフレシアを前に呆然とする」ばかりの日々を送ってきた。<br />
　いまのスペイン学の勉強は、それを振り返って「あの花は東南アジアのみに見られ、その悪臭は、花粉を媒介するハエを誘うのに役立つ。なお、これを発見した、ホテルでも有名なラッフルズにちなんで、ラフレシアと呼ばれる」とインデックスをつけて記憶を再構築するようなもので、元Yahoo! JAPAN第1号サーファーとしては（そうじゃなくても）、どうにも楽しくて仕方ない。<br />
　それがたとえ「O型は大雑把」みたいなことでも、思わす納得してしまいそうになる。</p>

<p>　今回の話も、聞いていて最大級の衝撃を受けたのだけど、さあさどこまでそれをベースに再構築してよいものやら。<br />
　「そう言われれば、と思い当たる節」をたくさん頭に浮かべつつ、悩んでいるところです。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「今日のスペイン人の最大の特徴的資質とされているホスピタリティーは、ケルト文化に由来するものです」</p>

<p>　実はこの週、なぜフェルミンが巨漢なのか、涙なしには聞けないような（「ちょちょぎれる」、ってやつだ）話も明らかになるのだが、それはまた後日に譲るとして。</p>

<p>　紀元前1000年頃、地中海をフェニキア人が軽快に渡ってイベリア半島東部・南部にやってきていたのと同じ時期、大西洋に面する北部・西部には、ケルト人がやってきていた。<br />
　この2大文化（「地中海－イベリア文化」と「大西洋－ケルト文化」）こそが、スペイン文化という「折りパイ」の最下層を形成している。</p>

<p>　ケルトとスペインという組み合わせは意外かもしれない。え、そんなことないですか　私は、ここに来るまで知らんやったです。<br />
　スペイン語で「ケルト」は、「セルタ」。サッカーに詳しい方ならご存知のガリシア地方のチーム「セルタ・デ・ビーゴ」は、「ビーゴ市のケルト人」という意味だ。また音楽に詳しい方ならご存知の同地方の民族楽器「ガイタ」は、まったくのバグパイプである。</p>

<p>　さて。ケルト人社会を構成する基本単位は、部族である。いくつかの家族が集まったものが血族で、いくつかの血族が集まったものが部族になる。1部族の人数は、最大で1000人くらいだったという。そんな部族社会の最大の特徴は、民主主義と平等であった。</p>

<p>　政治機関は各血族の主なメンバー数十人（80～100人／1000人の部族）による集会であり、そこに数人の長老が、アドバイザーとして関与するシステム。これが、「下院／上院（貴族院）」というヨーロッパの議会の原形となっている。<br />
　また戦争の際には、その時点で最適任と思われる人物がリーダー（カウディージョ、「頭領」）に選ばれるが、選出においてその社会的地位は問われない。実際、後に行われるローマ人との戦争では、家族を皆殺しにされたとある羊飼いがリーダーとなっている。<br />
　戦争が終われば、その職は解かれる。偉いのは一代限り、しかも一時期だけ。<br />
　王や貴族、また社会階級の違いなども存在しなかった。</p>

<p>　ということで、今日的な表現を用いると、「極めて民主的な社会」だったという。<br />
　なぜなら、みんな一様に貧しかったから、なんだそうだ。</p>

<p>　そんなケルト人の「掟」というか、行動基準が、「ホスピタリティー」である。<br />
　町という大きな、でも稀薄な関係のなかで、王を頂点とするヒエラルヒーに属して盛んに外部と交易をしながら暮らすイベリア人と異なり、ケルト人はあくまで部族で結束し、自分たちで生活に必要なものを生産するという閉じられた世界での行動を基本とする。<br />
　「他人」は、だから、とても厄介な存在だ。<br />
　殺すのは簡単だ。でもそれでは部族間の抗争が絶えず、ちっとも社会が落ち着かない。<br />
　なので、ルールを決めた。<br />
　自分の庇護下に入った訪問者や捕虜の生命は、自らの命を賭しても、責任を持って護る。それが、「ホスピタリティー」なんだそうだ。</p>

<p>　「情に厚い」といわれる今日のスペイン人の、その源は、このあたりにあるという。<br />
　実際、スペイン人の「厚意」は、尋常なものではない。<br />
　家に誰かを招くときには、ホストが食事から宿泊の世話まで、非常なる責任感をもって引き受ける。ゲストが一歩自宅を出てから、再び自宅のドアを開くまで、すべてがホストの責任。もちろん、交通の手配もホストのマターだ。<br />
　外で食事をしても、割り勘なんてみっともない真似は、まずしない。誰かが、まとめてみんなの面倒を見る、奢る。他は子どものように、「ごっそさん！」と礼を言うだけだ。（その意思と能力があるなら、次にまとめて奢ればいいという、社会的合意がある）</p>

<p>　一方でゲストにとっての「掟」とは、これほど責任をもってもてなしてくれるホストに対して、失礼のないようにすること、となる。<br />
　出された食事がまずくても、会話がつまらなくても、決してそれを表明しない。もし招かれた部族でそれをやれば、少なくとも自分の部族との戦争になるし、っていうか大抵はその前に自分自身が寄ってたかって殺されてしまうだろう。<br />
　フェルミン曰く、実はスペイン人は学校で、先生に対して質問をすることはまずないのだという。質問をするという態度が、「あなたの教え方が下手だから、わからないんだよねー」という、極めて失礼なものと受け取られかねないからだそうだ。</p>

<p>　私自身、それが仕事の相手であれただの旅先であれ、スペイン人が、私がそれを断りでもしようもんなら泣かんばかりの切羽詰った雰囲気で、驚くような厚遇を申し出てくれるという場面に、何度も遭遇している。<br />
　年上のひとと食事に行って、まず金を払うことはない。<br />
　道を訊けば、その場所まで付き添って案内してくれる。車を運転中なら、どんなに遠回りとなろうとも先導してくれる。<br />
　遠方では企業オーナーから有名シェフまでが、メシはもちろん、ぜひ自宅に泊まっていくようにと強く勧めてくれる。</p>

<p>　そうか、彼らはケルトの子どもたちであったか。<br />
　そして私はたいてい、「ことばの不自由な、かわいそうな外国人」と思われ、手厚くもてなされているわけなのね。なるほど。<br />
　こうなりゃ、歌うしかない。</p>

<p>　♪オーオ、アイム・アン・エイリアン、<br />
　　アイム・ア・リーガル・エイリアン、<br />
　　アイム・ア・ジャパニーズ・ウーマン・イン・スペイン～</p>

<p>　……なんか淋しいのはなぜ？</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンは、こうも云った：<br />
「しかし、ケルト文化が継承されなかった部分もある。その最大のものが、女性への概念だ」</p>

<p>　ケルト文化では、女性は男性と同じ権利をもち、それどころか家族または一族の「大黒柱」とみなされていた。<br />
　女は社会構成を構成する貴重なメンバーとして牧畜や海女の仕事に従事し、経済活動の一翼（あるいは重要部分）を担っていた。現在でもケルト文化が色濃く残るガリシア地方では、海女の母ちゃんが一家を食わせているケースがよく見られる。<br />
　同地方は日本に輸出されているホタテやムール貝で有名だが、とくにペルセベというスペイン人が大好きな貝（カメノテ、烏帽子貝）は岩場でしか獲れないので、毎年、何人もの海女が命を落としているという。<br />
　ケルトの女たちは勇敢なことでも有名で、部族がその生業のひとつである「略奪」を行うときや、戦争のときには、左手に子どもを抱き、右手に武器を持って、戦ったりもする。</p>

<p>　このガリシア地方には50年ほど前まで、こんな習慣も残っていた。<br />
　一家の大黒柱である「強い女」は、弱いところを見せるわけにはいかない。そんな女がもっとも弱くなるとき。それは、出産である。痛い、らしい、どうやら。私は知らないが。<br />
　そこでガリシア地方では、女は出産を、家から離れた山中などで、家族の目から隠れてこっそり行った。その後、女が赤ちゃんを伴って帰宅すると、今度は男がベッドの中で、「女の代わりに」陣痛の苦しみを演じてみせたのだという。</p>

<p>　しかし、そんな「強い母ちゃん」は、現代スペインの女性観という問題への、一般的な解答にはなっていない。女はふつうは、「弱くてそれ自身では無価値な、男が守るべき存在」と思われている。<br />
　実際に1982年、つまりほんの23年前まで、スペインでは女に相続権がなく、個人のIDも持てず（＝父か夫の名でしか労働契約も結べない）、銀行口座も開設できなかった。</p>

<p>　これは、「女は『花』であり、夫から子への相続の橋渡しとしてしか意味をもたない」とする、フェニキア→ローマ→カトリックの考え方をベースにするものだという。もちろん、バチカンに認められた「カトリックの擁護者」フランコが、それを徹底的に推し進めたのだけど。</p>

<p>　なので私は今日のスペインにおいて、ケルト的に庇護されるお客様の外国人で、かつイベリア的に庇護される無力な女で、えっと、なんというか。<br />
　なんというか、たしかにこれはこれですごく居心地はいいのだけれど。<br />
　なぜか、たまにムキーッ！　と暴れたくなる。<br />
　あたしはここにいるよォ、と、叫びたくなる。</p>

<p>　あるいはその声が届かないと思ったとき、<br />
　ほんとに、スティングの透明な声が、ふと、聞こえてくる。<br />
　それがマドリードのありふれた犬の糞だらけの街角でも、<br />
　太陽と赤茶けた土しかないラ・マンチャの荒野でも、<br />
　ふいに、ずーんと淋しさに貫かれることがある。</p>

<p>　♪オーオ、アイム・アン・エイリアン、<br />
　　アイム・ア・リーガル・エイリアン……</p>

<p>　あぁ、なんで「リーガル」（合法）ってわざわざ言ってるのか、はじめてわかった気がする……。</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-11-21T22:16:26+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/14_1118.html">
<title>スペインふところ事情</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/14_1118.html</link>
<description><![CDATA[<p>　「スペインは、公務員の給料が抜群に良いと聞いたのだけど、ほんとですか？」<br />
　ブラジル人から勉強に来ている、『永遠の17歳』という雰囲気のマルコスが、思い切った質問をした。<br />
　フランコ時代を学ぶ特別ゼミナールでの、出来事。<br />
　あっ、そいつはあまりにも無体な。そう思ったときには、歴史も担当してくれている大好きな巨漢の教授が、「せっかくだから、率直に言おう」と、脇の下に汗を滲ませながら答えはじめていた。思わず、メモを取った。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「このコンプルテンセ大学で勤続25年。私の月給は、750ユーロだ」</p>

<p>　しーん。<br />
　教室が、静まり返った。<br />
　750ユーロは、本日の換算レートで10万3890円。<br />
　10万3890円。<br />
　10万3890円！！</p>

<p>　スペインは物価が安いから10万円でも高給なのかというと、そうではない。<br />
　現行の法定最低賃金は、月額で513ユーロ（約7万1000円）。<br />
　実のところ、フェルミンの給料とは、月にして3万円くらいしか違わないのだ。「掃除婦で、私より多くもらってるひともいるかもね」と、本人も言っていた。</p>

<p>　といっても、物価が安いから10万円でもやっていけるんだろう、というのも、違う。<br />
　やっていけやしない。<br />
　たとえば住居を見てみると、自宅から通えない学生や独身の社会人の場合、ほとんどがルームシェアなのだが、この相場が最近は350ユーロ以上（約4万8000円）。<br />
　4畳半どころじゃなく、トイレもシャワーも共同の、室内に自分用の冷蔵庫もテレビもない、ふつうのアパートメントの1部屋の値段が、これである。<br />
　ワンルームは、その倍。<br />
　2部屋以上あるファミリータイプは、その3倍。</p>

<p>　つまり、45歳で、スペイン最高峰の名門国立大学（らしい）で25年のキャリアをもち、数年前には優秀な学者として公的機関による表彰も受けている、ファンタスティックな歴史学教授のフェルミンが、その給料だけでは、家族で住まうアパートの家賃も払えないらしいのだ、正味の話。</p>

<p>　フェルミン夫妻は、共働きだという。<br />
　そして周囲を見ても、たしかに30代、40代は共働きが多い。<br />
　なぜか。<br />
　ふたりで稼がんと生きていけん、という、かなり切実なケースが少なくない。</p>

<p>　フェルミンの奥さんは、厚生省の機関の課長で、月給は800ユーロ台（約11万円）。<br />
　彼らは日本ならさしずめ「東大教授の夫と、国家公務員の妻」なのだけど、ふたり足した稼ぎが、月に20万円にもならない。<br />
　ちなみに、マクドナルドやケンタッキーのセットメニュー（一般のものと比べて割高ではない）は、約5ユーロ（約700円）だ。楽じゃないのだ、まったく。</p>

<p><br />
　ここから、みっつの「スペイン」を読むことができる。</p>

<p>　ひとつ。スペインでは、公務員の給与が、すっかり低い。これは、フランコ体制の支持者となることで公務員が高い給与と地位を得てきたその独裁時代への反動、ということらしい。</p>

<p>　ふたつ、2002年のユーロ導入以降のインフレがひどい。誰もが、「実際、物の価格が軒並み6割は高くなった」と言っている（1ユーロ＝166.386ペセタという換算レートに由来する。結局、1ユーロ＝100ペセタになったかんじなのだ）。<br />
　例を挙げると、私が5年前には600円で食べられた喫茶店の昼の定食が、いまでは1000円くらいになっている。そして公務員（に限らず、たいていのひと）の賃金は、据え置かれたままだ。</p>

<p>　みっつ。失業率が、やっぱり高い。だから安定職である公務員には、給料が安くても、まだ少なからぬメリットが感じられるのだという。<br />
　一方、日本なら学生バイトが多いマクドナルドなど単純労働のポストは、上記の最低賃金で働く移民で占められる。一説によると、大学新卒の失業率は、きつい仕事を嫌がるせいもあって、実は約50％にも達しているのではないかという。</p>

<p><br />
■某ビッグクラブの、育成部門スタッフはこう云った：<br />
「スカウトの視線は、近年は郊外に向けられています」</p>

<p>　今週、これは大学ではなくサッカー関連の仕事で、某ビッグクラブの関係者の話を聞く機会があったのだが、そのとき、こんな話が出た。<br />
　曰く、先進国となったスペインの子どもたちの関心は、「どこでも1つのボールで20数人が遊べる」サッカーばかりではなくなってきた。現実にこの数年、自分のクラブで育てる良い選手を見い出そうとする下部組織のスカウトたちは、郊外、つまり、移民労働者が主に住む地域を重視するようになっているのだ、と。</p>

<p>　つまり、こういうことだ。これまでは南米の選手というと、古くはディ・ステファノから、最近ではロナウドやロナウジーニョやアイマールまで、「母国の代表選手がスペインのプロリーグに呼ばれる」というスタイルだった。だがこれからは確実に、「南米からやってきた移民の、スペインで生まれた子どもたち」が増えてくるだろう。彼らはプロの選手となり、代表選手ともなる。ちょうどフランス代表の、ジダンやアンリのように。<br />
　隣国フランスの話は、この呑気なスペインでも、もうとっくに、他人事ではなくなりつつあったらしい。<br />
　ガーン☆となった。<br />
　ぜんぜん気がつかなかった。対岸、っていうか、ピレネーの向こうの火事だと思ってた。</p>

<p><br />
　かつてオイルショック以前、スペインは国策として、ドイツやスイスなどの先進国に、100万人単位で移民を送り込んでいた。国が、その「旅行」をオーガナイズしていた。そして彼らが母国に送金した外貨が、今日に至るスペイン発展の礎を築いた。<br />
　いまはそのスペインに、100万人単位で移民が押し寄せてきている。一時期は日本をも下回っていた出生率が上昇したのも、ほとんど移民の「おかげ」だ。<br />
　しかし、移民、移民、と気軽にいうけれど。<br />
　私も、そのひとりだ。それこそ、他人事じゃない。</p>

<p>　今週、大学のトイレに、「移民は出て行け！」という落書きを見つけた。<br />
　「大学は出たけれど」ちっとも仕事の見つからない、ってことになりそうな学生が、思わず書きなぐったのかもしれない。……ちょと、胸が痛んだ。</p>

<p>　といっても、今回のフランスの暴動は、いまのところ、スペインではとても冷静に受け止められている。まさに「対岸の火事」といった雰囲気だ。<br />
　でも。いつか、サッカーのスペイン代表チームの主力が「移民の子どもたち」になったときにも、彼らは同じように落ち着いていてくれるだろうか。</p>

<p>　すでに、治安の悪さは移民のせいにされている。<br />
　実は数年前、自宅に泥棒に入られたのだけど（ドリルで壁に穴を開けられたんよ。やるねぇ）、そのとき「これは移民の仕業だね」と、非常に恰幅の良い警部は悠々と葉巻をふかしながらそう即断してのたまった、なにも調べようとせずに。</p>

<p>　また、内田さんが指摘していた公教育の質の低下もすでに大きな問題となっていて、カトリック系の私学には、「赤ちゃんがお腹の中にいるときから」入学待ちのリストに名前を並べるほどの騒ぎになっているという。月に最低でも500ユーロはするという私学の月謝を払える家庭は、そんなに多くはないというのに。</p>

<p><br />
　自分だけが無事でいられる、とは、本当に考えちゃいけないのだ、と、つくづく思った。<br />
　書いているうちに本当にそう思って、ぶるぶる震えてきた。<br />
　移民としても、あるいは移民を受け入れる側としても、あるいはその他のすべての局面においても。<br />
　世界に巻き込まれて、私は生きている。のだね。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-11-14T11:18:06+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/08_1005.html">
<title>スペインの万葉歌と携帯語と恐竜的覚醒</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/08_1005.html</link>
<description><![CDATA[<p>　スペインにいて、まわりはだいたいスペイン語を話している。<br />
　テレビを見れば、ジャッキー・チェンが妙にテンションの高いスペイン語を話しているし（吹き替えはいつも同じひと）、『アルプスの少女ハイジ』のテーマ曲は「アブエリート、ディメ・トゥ♪（＝おじいちゃん、教えてよ）」からはじまる。<br />
　ドラえもんは、空を飛ぶためにジャジャーンと取り出した道具の名前を、"Esto es gorro-coptero"と高らかに宣言する。「ゴーロ・コプテロ」＝キャップ（頭に被る）・コプター。「竹」という要素が、すっかり吹っ飛んでいる。ま、竹とんぼなんてないもんねぇ。</p>

<p>　ことばは、世界を描く筆である（違うか？）。知らないと、頭の中の「世界」から、そこに対応する光景がすっぽり抜け落ちてしまう。「ゴーロ・コプテロ」を楽しむスペイン人の頭に、しかし、夕焼け空をゆるやかに飛んでゆく竹とんぼの風景は映らないように。<br />
　その逆もまた真実。というか、スペイン語力がさほど高くない私の場合、ひょっとしたら、かなりシュールレアレスティックな「スペインの絵」の中で、暮らしているのかもしれない。</p>

<p>　というわけで。そんな、ここでの毎日の生活そのものであるスペイン語が、今日のテーマであります。</p>

<p><br />
■サンス・ビジャヌエバはこう云った：<br />
「最古のスペイン語は、アラビア語で書かれていた」</p>

<p>　紀元前3世紀のポエニ戦争から、スペインはローマ帝国の支配下に入り、ラテン語が話されるようになった。というか、19世紀まで、一部の公式文書はラテン語だったらしい。<br />
　でも、話し言葉は、地方ごとにどんどん変貌を遂げる。<br />
　たとえば10世紀前後のスペインには、全土にさまざまなロマンス語（ラテン語から変化した言語。イタリア語やフランス語も）があったらしい（インド＝ヨーロッパ語に属さないバスク語を除く）。<br />
　そのうち、いちばん内陸にあって、しかもいちばん訛がきつい（アクセントの置かれる母音を開いてしまう。例：porta「ポルタ（扉）」→puerta「プエルタ」）言語が、たまたまその地方で興った国が後にスペインを統一したため、今日のいわゆる「標準スペイン語」となった。支配したものの勝ち、である。<br />
　この「標準スペイン語」のことを、現在4つの公用語をもつスペインでは、国獲り合戦に勝利したそのカスティージャ王国（わが故郷長崎の『カステラ』の語源だ！）にちなんで、「カステジャーノ」と呼んでいる。<br />
　だから、私がペラペラと喋っていると、市場のおじさんから、「あんた、カステジャーノが上手だねぇ！」と言われるのだ。「スペイン語が」とは、あまり言われないの。</p>

<p>　という歴史をもつスペイン語（つまりカステジャーノ）の最古の文学的テクストは、つい50年ほど前に発見された。それは10世紀頃、アンダルシア地方のモサラベ（イスラム教徒の支配下のキリスト教徒）が用いていたというロマンス語の作品。<br />
　しかも、エジプトで発見された。<br />
　アラビア世界で有名な詩人による、神殿への奉納を目的とした長くてかっこいい詩の最後に、なぜか数行だけ残されていた謎のことば。アラビア語では、まったく意味をなさない、文字の連なり。<br />
　実はそれが、「アラビア語を使って書かれた、スペイン語」だった。</p>

<p>　アラビア語は、子音しか用いない。右から左に書かれるそれを左から右へと書き直し、いちいち母音を補ってみたら、スペイン語の詩が現れたのだという。最古のものは、1040年制作とされる。<br />
　中国語と万葉仮名の関係と、似ているかもしれない。新しく生まれた言語を、誰かが必死で音だけを拾って、ぜんぜん違うことばで書きつけたのだろう。<br />
　この、初々しいスペイン語による最古の詩というのを、実際に読んだ。どれも女の子が主人公で、その恋や喜びや嘆きや悲しみをうたっていて、シンプルで、力強いものだった。「あかねさす紫野行き標野行き」という詩歌を、思い出した。万葉ブリブリ、ってやつね。</p>

<p><br />
■マリア・エレナ・コルテスは、こう云った：<br />
「言語はすべて、省エネ化の方向に進みます」</p>

<p>　言語学の授業。マリアはいつも、白髪混じりの美しいワンレングスを揺らしながら、つま先まで完璧にコーディネートされたスーツ姿で現れる。とある雨の日は髪をくるりとまとめ、ピンキーとキラ－ズ風の帽子を被って現れた。もちろん、そのままで授業を進める。まるで舞台を観ているようで、その過剰さがまさにスペインらしい、と、いつも惚れ惚れしてしまう。</p>

<p>　さて、スペイン語には単複あわせて6つの人称があって、かつ、3つの話法において計15の時制変化がある。語学に詳しくないから説明が間違っているかもしれないけど、つまりひとつの動詞が、「私（一人称単数）／恋する（直説法現在形）」「あなたたち（二人称複数）／恋をしていたとしたら（接続法過去完了形）」など、90通りに変化するのだ。うえー。<br />
　そんななか、スペイン語学習者にはありがたいことに、理論上はあってしかるべき「接続法未来」（「恋をするなら」）という時制が、ない。それはなぜかといいますと。</p>

<p>　かつて16世紀には、接続法未来形はあった。『ドン・キホーテ』にも、この活用がでてくる。しかし、と、マリアは髪を慎重にかきあげながら言う。<br />
「だけどね、面倒でしょう？　だから、どんどん接続法現在形（「恋をしているなら」）で代用されるようになってきて、ついにはとうとう『ない』ことになってしまったの。すべての言語は、自然と、省エネ化の方向に進むものなのよ」</p>

<p>　この「省エネ化」、実は現在のスペイン語でも起こっている。直説法未来形（「恋をするでしょう」）もまた年々使われなくなっていて、すでに大多数が、現在形を用いているのだ（「明日、恋をする」）。さらには同じ直説法の不確定未来形（「恋をしていたかも」）や不確定未来完了形（「恋をしてしまっていたかも」）も、より一般的に使われる線過去形（「恋をしていた」）に取って代わられつつある。</p>

<p>　さらに最近では携帯メッセージの普及によって、通信代節約のために、言語の大幅な置き換えが行われている。発音しない子音はカット（ahora→aora）、同じ発音の短いスペルがあればそれを代用（es→s、que→k）、意味が通じるなら記号で代用（más→"+"）……。結果、「息子から送られたメッセージが読めない」親が急増し、そのため先月、言語の分野でもっとも権威ある王立スペイン語アカデミーが、「携帯文字辞典」を完成させたという。</p>

<p>　外来語の氾濫（だいたいもともとスペイン語の1割くらいはアラビア語由来らしい）も、思い出したように、何度も話題になっている。<br />
　どこもおんなじだねぇ。<br />
　携帯電話という同じツールが広まり、文字数に応じた課金という同じシステムが採用されれば、レストランで音楽をかけないほど喋り好きなスペイン人だってやっぱり、「あけおめ、ことよろ」になるらしい。</p>

<p><br />
■カルメン・サンチェスはこう云った：<br />
「世界でいちばん短い物語は、7つの単語でできています。それは、"Cuando despertó, el dinosaurio todavía estaba allí."です」</p>

<p>　テクスト分析の授業にて。カルメンもかなりユニークなのだが、その詳細はまた今度。<br />
　さてこの文章、直訳すると、「目覚めたとき、恐竜はまだそこにいた。」となる。<br />
　主語は通常、スペイン語では表記されない。ここでも表記されていないが、三人称単数なので、彼、彼女、あなた、あるいは誰でもいい誰か、というあたりになる。<br />
　動詞を見ると、「目覚めた」というのが点過去形で、「いた」というのが線過去形。ということは恐竜は、目覚めた行為よりも前から「いた」ということになる。さらに「まだ」と言っているくらいだから、かなり前からいたのだろう、「そこ」に。<br />
　「そこ」とはどこのこと？　そして恐竜とは？</p>

<p>　作者は、アウグスト・モンテロッソ。グアテマラに生まれ、アメリカへ渡り、さらにメキシコに移住した作家である。この作品（ちゃんと「小説」として発表されている）は、1959年に、メキシコで書かれた。</p>

<p>　当時のメキシコでは、PRI（制度的革命党）が政権の座についていた。1929年の結成時から与党であり、59年の段階で、すでに30年が経っていた。<br />
　30年。教室での反応によると「民主主義に立脚する現代社会ではちょっと想像を絶するほどの長期間」も与党であり続けることができるほど、PRIは巨大で、権力的で、圧倒的な力をもっていた。だから、彼らは「恐竜」と呼ばれていた。</p>

<p>　メキシコで彼（あるいは誰か）が目覚めたとき、「恐竜」は、まだ、そこにいたのだ。</p>

<p>　時代の閉塞感を表した小説、と、説明できるかもしれない。そこはわりと、どうでもいい。<br />
　それにしても。<br />
　この「小説」の主人公である彼（あるいは誰か）は、目覚めたらまだ恐竜がいたことにがっかりして、もう一度寝ることにしたかもしれない。でも、再び目を覚ました彼が見たものは。<br />
　これを書いた時点でアウグスト・モンテロッソは知らなかったはずだけど、「恐竜」PRIは、結果として2000年の大統領選に至るまで、実に70年間という「現代社会ではあってはならないほどの長期間」も、政権の座にとどまり続けたのだ。</p>

<p>　あるいは作者は、そのことをもすら、知っていのだろうか。ゴヤが『カルロス4世の家族』で、彼らの身に降りかかる暗澹たる未来（トラファルガーの海戦で「無敵艦隊」壊滅、そして引き入れたナポレオンによるスペイン侵略）をすら描き出した、と言われるように。<br />
　あぁ。そういえば直説法線過去形は、不確定未来形の代わりにも用いられうるのではなかったか……。</p>

<p>　「芸術家」たちはいまこの瞬間も、どこかに「恐竜」を見て、それを描き出しているのかもしれないなぁ。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-11-08T10:05:42+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/01_1058.html">
<title>アルタミラ・プラネタリウム</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/11/01_1058.html</link>
<description><![CDATA[<p>　たしか社会の教科書の最初の方に出てくるアルタミラの洞窟画は、スペインにある。赤っぽい絵でバイソンが描かれた、あれだ。<br />
　アルタミラの洞窟は、マドリードから北へ北へと進み、わりと高い山をいくつか越えるかその間を縫って向こう側へ出て、大西洋まであと5kmくらいになった地点の、小高い丘の上にある。海からの湿気を含んだ空気は柔らかで、緑が、とても多い。</p>

<p>　洞窟はいま、多くの観光客を愉しませた代償として保存状態が悪化したために、閉鎖されている。1万5千年も前に描かれ、無事にその状態を保ってきた作品が、発見（1879年）からほんの120年あまりで危機に瀕するとは……。<br />
　2001年以降、一般見学は、同じ敷地内に作られたレプリカの洞窟の博物館で行われている。<br />
　実際に行ってみたが、絵の制作手順などもわかる仕組みになっていて、かなり楽しい。当時、エアブラシの手法を用いていたなんて、知ってました？<br />
（詳しくは、<a href="http://www.norari.net/spain/100903.php" target="_blank">「イベリア半島ふらりジカタビ／人類最初の芸術、アルタミラへ」</a>まで）</p>

<p>　アルタミラの洞窟画は、「人類初の芸術」である、らしい。<br />
　芸術史でも、いちばん最初の授業でいきなり出てきた。<br />
　歴史の授業でも、大きく取り扱われた。<br />
　せっかく地元にいるんじゃもの、よし、本腰を入れて考えてみよう。</p>

<p><br />
■フェルミン・マリーンはこう云った：<br />
「歴史があらゆる場所で同時に進むと思ってはいけない。授業でとりあげるのは、『その時代の一部の最先端の人間』のことだけなのです。<br />
　まぁアルタミラのクロマニョン人なんていうのは、いまならインターネットを駆使する超先端人間ってとこね。ムフ」</p>

<p>　ムフ、で終わるからには、愛すべきフェミニンな巨漢の、歴史の先生である。前回、どうしたことか名前を間違えて書いてしまったけど、正しくはフェルミン・マリーン・バリゲテ先生。実はどこかフェミニンな名前だったのね。</p>

<p>　フェルミンの歴史の授業は、旧石器時代からはじまった。<br />
　旧石器時代は、前期、中期、後期に分けられる。</p>

<p>　紀元前200万年前の旧石器時代前期、スペインには、その前まで地続きだったアフリカから渡ってきていた人類（原人のホモ・ハビリスとホモ・エレクトス）が住んでいた。<br />
　気候は温暖で、人類は食物が入手しやすい河畔に住み、そして火を知らなかった。<br />
「でもね。はい、ここ注目よー。<br />
　200万年前といっても、アストゥリアス（スペイン北部）の山深いところに住んでいた民は、紀元前1000年頃にフェニキアの民が地中海岸に来て大規模農業を始めた時代にも、まだ火すら知らなかったの。<br />
　忘れちゃダメよ。歴史は、一気には進みません」</p>

<p>　やがて、紀元前30万年前頃からとされる旧石器時代中期になると、人類（旧人のホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス）が登場する。<br />
　気候の悪化を受け、洞窟に住む割合が増加する。その一部は、ついに火を作ることを知る。もともと木の実の殻を割るために使いはじめた石器が進化し、動物の解体や矢尻として使えるようになる。</p>

<p>　そして紀元前3万年前頃からの旧石器時代後期。ホモ・サピエンス・サピエンスのクロマニョン人が現れる。<br />
　気候はこれぞ本当の意味での大氷河時代で、人類は洞窟に住み、遠くまで獲物を獲りに行かなければならなくなる。まぁマンモスもいたから、一頭仕留めれば、けっこうもったはず。外は寒いから肉の保存も楽だろうし。<br />
　1グループは約30～50人で、人数の増加に伴い、「体力がある男が狩、そのあいだ女が洞窟で家事」などの役割分担が発生。<br />
　平均寿命は18～20年と短く、慢性的な食糧不足と、血縁内交配により死に絶えたグループもけっこう多いと思われる。<br />
（ただしスペインで、20歳を超えた、「歯のない」女性の化石が発掘されて謎を呼んでいるとか。すわ、旧石器時代の『楢山節考』か！　ここ、今度詳しく訊いてきます）</p>

<p>　この旧石器時代後期の、さらに後の方となるマドレーヌ文化時代に、アルタミラの洞窟画は誕生するのだ。</p>

<p><br />
■リカルド・アブランテスはこう云った：<br />
「絵が描かれたのは、洞窟を奥へ奥へと進み、天井も低くなった『隠れた』場所なんですね。なかには、人間が寝そべって天井に絵を描きつけるような低い場所さえあります」</p>

<p>　リカルドは芸術史の先生。森本レオに似た穏やかな語り口と、世が世なら七宝のループタイでもしてそうなファッションセンス（いつも同じカーディガンだ）と、たまにお尻を掻くクセが、これまたとても愛されている。</p>

<p>　曰く、当時の人間は洞窟に住んでいたといっても、専ら居住に使われていた空間は、自然光が入り、火を使っても充分に新鮮な空気が供給され、かつ湿気の少ない、入口付近の場所である。<br />
　一方で絵が描かれたのは、上記のように光が届かず、湿度の多い、かなり奥へと進んだところ。たしかに絵の保存には適した状態なのだが、果たして、そのとき絵を書いている人間が、「やったね！　ここなら絵がずっと痛まず保存されるや」なんていうのを最大の要因として、場所選びをするだろうか？<br />
　しかも、どうもこの場所というのはなにか重要な意味があるらしく、狭い場所に何世紀にもわたって絵が描かれ続けたため、一部では絵が上下に重なりあったりもしてしまっている。なんなんだ？</p>

<p><br />
■中沢新一はこう云った：<br />
「真っ暗闇の洞窟の中で、新しいタイプの人類が自分の内部にのぞき込んでいたのは、大脳の内部を猛烈な早さと強さをもって流動している、この『心』のむきだしの姿だったのではないでしょうか。」（「ほぼ日刊イトイ新聞／<a href="http://www.1101.com/nakazawa/index.html" target="_blank">芸術人類学編</a>」）</p>

<p>　中沢氏によると、旧人と新人との決定的な違いは、ニューロン同士の間に新しい接続のネットワークが作られることで、人類の心に新しい領域が生まれ、「表現」を行えるようになった点にある、という。<br />
　その「心」を見つめるために、「イニシエーションを受けた大人の男だけが、そこに入っていくこと許され」、「増殖の儀礼をおこな」う「真っ暗闇」が必要だったのではないか、と。</p>

<p>　ニューロンの話は初耳で、なるほどこの時期に人類最初の芸術が生まれた理由が、なんとなく納得できた。<br />
　しかし「儀式としての暗闇」については、半分同意し、半分はなんか他にもないかな、と感じた。感じたまま考えていたら、とんでもないところに行き着いた。</p>

<p><br />
　リカルド曰く、描かれているのが野生のバイソン、鹿、馬、マンモスなど狩の対象となる動物で、さらにどれも丸々と太っていることから、これらは狩の成功を祈るものではなかったかと考えられている、という。<br />
　さらに同時期のフランスの遺跡からは、バイソンなどがひしめく一角に、女性器が描かれていたるのが発見されている。とするとこれは、繁殖への祈りだろう。</p>

<p>　大氷河時代で、30～50人（なかには乳呑み子や足腰立たない老人や妊婦もいたろう）が運命をともにする洞窟での生活で、食料確保と繁殖は、切なる願いである。それらへの祈りが行われたとしても、ちっとも不思議ではない。</p>

<p>　いや。人類初の芸術は、それらの「成功」への祈りというよりも、発達したニューロンが思わず描き出す「失敗した場合への不安」を先取りしてしまうようになった人間の、その不安なり不吉さなりを、なんとか遠ざけるための、必死の祈りではなかっただろうか。<br />
　絵を描くというのは、人類にとって、おそらくかなりの「跳躍」だ。私なら好物の明太子を追いかけているときよりも、苦手なゾンビに追いかけられているときの方が、たぶん必死で走るし、必要ならば「跳ぶ」。</p>

<p>　繰り返すが、描かれるのは、ちょっとありえないくらい丸々と太った動物ばかりだ。厳しい氷河期に、動物だけは食料が豊かだった？　そんなことはないだろう。その絵は、人間に対して、かなり辛く当たる自然環境への、「そうあってくださいね」という、祝福ではなかったか。<br />
　食料確保への祈りだけならば、なぜ植物が入ってこないのかが、わからない。みんなが大好きな美味しい果実だってあっただろう。また、この時期は、すでに釣り針が作られている。魚の絵だって、あってもいいはずだ。<br />
　しかし実際には、「ときに、狩を試みる人間を殺してしまう」くらいの力を持った、大型の動物しか描かれていない（ウサギだっていない。捕まえるのは、より簡単なはずなのに）。<br />
　ならばその絵は、人間に生命を与え、ときに生命を奪う、力強い自然への寿ぎではなかったか。</p>

<p>　そう思えば、光に溢れた日常生活の場からできるだけ遠く離れた、暗い「秘密」の場所まで行って絵を描いた理由が、なんとなく実感としてわかる。半分くらい、わかる。村上春樹が言うところの「井戸」の意味とつながってくるような、でも実在する場所としての「洞窟の奥の奥の暗いところ」ではないかな、というかんじで。</p>

<p><br />
■湯川カナは、こう思った：<br />
「しかしなんで、天井なんだ？」</p>

<p>　中沢新一的にでも村上春樹的にでも、とにかく暗いところに行くのはいいとする。<br />
　しかしそこでなぜ、天井に絵を描く？</p>

<p>　ふつうなら、壁に描くはずだ。私ならそうする。この次の時代となる中石器時代だって、絵は屋外の壁に描いている。その方が、腕だって疲れない。それに「手の届く場所にある天井」なんかよりは、壁の方が、どれだけかスペースも広いし。<br />
　彼らは石の粉を植物の茎を使って吹きつけるという高度なエアブラシの手法も使っていて、それならなおさら、勢いあまった粉が顔面にバラバラ降り注ぐ天井よりも、壁に描く方が理に適っている。</p>

<p>　そういうデメリットがあるのに、たいした理由もなく、わざわざ何世紀にもわたって天井に描き続けることはしないだろう。なぜだ？　なにか、「天井に書く方が理に適っている」ことがあったのではないか？　どうしても上を見なければいけないものって、なんだ？？　そしてできれば、暗いところがいいものって。<br />
　……あっ！　私は急に、閃いちった。そうだ、プラネタリウム、だっ！</p>

<p>　2年前にアルタミラへ行った際、深夜にマドリードを出発するバスに乗った。道中ほとんどの区間、バスは、ヨーロッパ大陸唯一の乾燥気候として知られる、カスティージャの大地をてくてくと進んだ。<br />
　カスティージャの夜を車で進むという経験は、何度もある。高速道路を降りると地上に光はなく、満天の星が頭上を覆う。天の川、なんていうのも、ここで初めて見た。それは感動的に美しくて、私は本当に何度も何度も夜空を見上げた。（もっと光のないサハラ砂漠の夜空は、もっともっとすごかった。あれが古代の夜空だろうか？）</p>

<p>　古代、人間のグループの中で最初に権力をもつようになったのは、魔術師だとフェルミンは言った。農業をはじめたグループにとって、星の運行から季節を読み、明日の天気を予言できる人間は、ものすごく重要な意味を持つ。<br />
　そして旧石器時代後期のクロマニョン人の一部は、すでに、植物の栽培をはじめていた。<br />
　また、アルタミラの洞窟画から1万年も経たないくらいで始まる新石器時代には、すでに天文学上の知識を表すストーンヘンジが作られている。</p>

<p><br />
　思いっきり飛躍していると思うのだけど、アルタミラの天井画は、星図に、なってはいないだろうか？　何世紀かにわたって描き続けられるあいだ、それを意図した者はいなかっただろうか？<br />
　アルタミラの一連の洞窟画の最大の特徴は、各々の絵に統一性はなく、動物のスケールからその状態（停止している、動いているなど）まで、それぞれまったく違うものが、一頭ずつバラバラに描かれている点にある。<br />
　共通の背景などはなく、前述のように、重なって描かれているものもある。なぜか、狭い、ごく限られた空間の中に。</p>

<p>　彼らは発達したニューロンで、空に無数に散らばる、しかしどうやらなんか規則性があって動いている星と、わりと身近な大きな動物とを結びつけて、描きはしなかっただろうか。……しなかった、かもしれないけど。してないかなぁ？</p>

<p>　あぁもう、なぜ人類最初の芸術が、壁画でなく、天井画だったんだ！<br />
　気になって、今夜は眠れなさそうだ。<br />
　明日（11月1日）は諸聖人の日（大雑把だね！　聖人みんなまとめてドンと来い！の祝日だ）。休みが明けたら、リカルドに訊いてみようっと。</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-11-01T10:58:36+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/10/25_0914.html">
<title>食べ物で綴るスペイン古代史</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/10/25_0914.html</link>
<description><![CDATA[<p>　スペインに来て6年。<br />
　幼稚園に通っていた姪っ子はいまや中学受験にいそしむようになったし、当初はなにも言えず下唇をキュッと噛みしめていたあたちは、いまやボッタクリそこねたモロッコ人から「あんた、絶対日本人じゃねえ！」と褒められるように（たぶん）なった。</p>

<p>　ライターという仕事柄、というのを利用して、ほぼ全自治州を旅してまわったし、その土地の美味いものから有名サッカー選手、さらには地元民のコラソン（ハート）を軽くつかむ方言のひとつふたつまで、調子良く覚えたりもした。<br />
　（ちなみに長崎に8年間住んでいたアメリカ人義姉の電話は、「ハーイ、なんばしよっと？」からはじまる。それには勝てないけれど）</p>

<p>　ちょうどビートルズの曲をだいたい聴いてしまったように、スペインのことも、まぁだいたい知ってしまったかな。そう、思っていた。<br />
　もう、いまさらそげな驚くこともなかろうて。そう思っていた、のだけれど。</p>

<p>　第3回レポートは、「衝撃！　アトランティス大陸発見（か）!?」、です。</p>

<p><br />
■マルティン・バリゲテはこう云った：<br />
「アンダルシアの、ここらあたりね（チョークまみれの短い指で、イベリア半島南西部をぐるぐると指示）。はいよく見て。ここに、タルテッソス古王国がありました。<br />
　長いあいだ伝説上の国と思われていたけどね、いまでは実在したことがわかっています。アトランティス大陸はここのことだと考える説もあるのよ。ムフ」</p>

<p>　歴史担当のマルティン先生は、40代だろうか、クリクリした目とハンプティ・ダンプティよりも丸々とした豊かな体躯（120kgはあるとみた）が印象的な、フェミニンなおじさん。授業の本筋から少し脱線したことを話すときに、「ムフ」と小さく笑う癖がある。<br />
　その「ムフ」が出た。</p>

<p>　2列目で授業を受けていた私はクラァ、となった。<br />
　アトランティス大陸ぅ？</p>

<p><br />
　石器時代（スペインでは紀元前2,000年くらいまで）、なんでもこのイベリア半島は、温暖な気候とふんだんな植物と動物と鉱物に恵まれた、豊かな土地だったという。<br />
　だもんで、氷河時代に寒さを凌ぐため洞窟を見つけてそこに住んでいた一部のクロマニョン人も、「祈る」という精神的な行為をはじめるという跳躍を果たすことができた。<br />
　「こういうのが狩れればいいなぁ」という願いが込められた丸々とした野牛や野鹿、マンモスに、「こういうのからたくさん産まれればいいなぁ」という願いが込められた女性器。<br />
　いわゆる「人類初の芸術」、アルタミラの洞窟壁画の誕生である。<br />
　旧石器時代後期、いまから約14,500年前のことだ。</p>

<p>　で、それから1万年以上が経つと、気候が良くなったため、人類は洞窟を出て、食糧や水が得やすい河畔に住むようになった。<br />
　こうして半島南西部、おそらく現在のセビージャ（オペラ『カルメン』や『セビリアの理髪師』の舞台）のあたりで、アンダルシア新石器文化がはじまった。<br />
　この地域には、スペインでもっとも重要な川のひとつであるグアダルキビル川があり、ついでに、野生の黒豚（最高級生ハムの素材として有名な、イベリコ種黒豚）までいた。<br />
　ここにタルテッソス古王国ができた、らしい。</p>

<p>　マルティンによると、半島内陸部に誕生したタルテッソス古王国は、海に出ることなく、ここで独自の発展を遂げたという。その証拠に、地中海世界一帯に見られる土器の波状紋様が、この地域の遺物には見られない。<br />
　民主的に選出されたふたりの王が国を統治するなど、政治・社会面でかなり高度な発展を遂げていたとみられ、そのレベルは古代ギリシャのポリスに匹敵すると考えられている（←スペイン人の言うことだけど）。もちろん、ギリシャのポリスが誕生するのよりも、何世紀も前の話だ。<br />
　このタルテッソス古王国こそが、旧約聖書に出てくる豊かな国「タルシシュ」や、ギリシャ神話でヘラクレスがゲリュオネスの牛を追って通った土地ではないか。っていうか、絶対そうだって間違いないって。スペインではそう、言われている。</p>

<p>　そんなタルテッソス古王国が、なぜ跡形もなく滅びてしまったのか。<br />
　その1：後年ここに押し寄せたカルタゴの民によって滅亡した。<br />
　その2：大規模な地殻変動があり、海にボッチャーン！と沈んでしまった。（←ここからアトランティス伝説に繋がってくる）<br />
　さて実際のところは？　わからない、らしい。<br />
　わからないまでもなんでなんだろうなーと考えていたら、翌週、おもしろいことを習った。</p>

<p><br />
　翌週、じゃなくて、歴史の次の時代になると、イベリア半島海岸部に、海の民フェニキア人がやってくるようになった。<br />
　地中海世界でいち早く青銅器文化に入った彼らは、青銅を作るのに必要な銅と錫を求めて、地中海を西へ西へと渡ってきた。そうしてジブラルタル海峡を越え、ついに大西洋へと乗り出した。<br />
　しかし地中海の穏やかな海に特化して改良され続けてきたフェニキアの民の船は底が浅く、大西洋の荒波に耐えることができない。<br />
　仕方なく彼らは、「ジブラルタルを越えてちょっと大西洋に出た」ところに、そのテリトリーの西端となる町を作った。</p>

<p>　これがカディス（紀元前1,100年成立。当初の呼び名は「ガディール＝砦」）。<br />
　タルテッソス古王国があるグアルダルキビル川の河口は、ほんの目と鼻の先だ。<br />
　ちなみにカディスはフラメンコのうちもっとも代表的な種類の「アレグリアス」や「タンゴ」の発祥の地でもあり、ウニやエビなどの海産物や、すぐ近くで作られるシェリー酒やイベリコ豚生ハムが抜群に美味しい、至福の土地でもある。おっとこれは現在の話。<br />
　当時からこの一帯では、良質の塩を作ることができた。なんせ舐めたら甘い地中海の水ではなく、ここはもう大西洋なのだから。<br />
　なのでフェニキアの民は、ここに大規模な塩田を作った。塩は、地中海で高く売れるから。（ちなみにこの塩田は、現在まで引き続き使われている）</p>

<p>　フェニキアの民の目的は、交易である。<br />
　塩田の例に見られるように、彼らはイベリア半島に、「市場」なる概念を持ち込んだ。<br />
　それまで自分たちで消費する分くらいしか生産していなかった村々に、「いやこれ、遠くに持って行ったらけっこう高くで売れるんだよね。だからとにかくワイン（あるいはオリーブ、塩漬けの魚など）、じゃんじゃん生産してみてよ。ちゃんと責任持って売りさばくから」と説き、効率的に大規模生産ができるラティフンディウム（大土地所有制）まで導入したのだ。（これもまた、現在までアンダルシア地方に根強く残っている）</p>

<p>　イベリア半島が、世界の動きの中に、組み込まれつつあった。</p>

<p><br />
　その後、勃興してきたペルシャによって首都ツロ（現在のレバノン）を追われたフェニキアの民は、植民市のひとつであったカルタゴに本拠地を移す（紀元前573年）。<br />
　カルタゴは現在のチュニス、つまり地中海の真ん中あたりにあって、イベリア半島からもそんなに遠くはない。<br />
　しかも、地中海の東半分がペルシャ領になり交易ができなくなることで、西側にあって豊かな土地をもつイベリア半島の重要性がぐぐぐっと増した。<br />
　自ずと、ここへやってくる船の数も増えただろう。</p>

<p>　船は、物を運ぶ。<br />
　おそらく、「本当はそこでの生活に必要ない『商品』を作ることで金を稼ぎ、それによって、本当はそこでの生活に必要ない輸入品を買ってよろこぶ」人々も増えたに違いない。<br />
　だって、要らないものを買うのって、楽しいもん。</p>

<p>　そんな大きな流れというかうねりのなかで、海の近くにありながら頑として海に出ようとしなかった（マルティン曰く）タルテッソス古王国は、自然に衰えてしまったのではないだろうか。<br />
　……そう、ふと思ったのでした。</p>

<p><br />
　もちろん、「海に沈んだアトランティスだ！」という方が、ワクワクはするのだけれど。<br />
　今度、日本の江戸時代が好きだというマルティンをつかまえて、ゆっくり訊いてみようっと。ムフ。</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>uchida</dc:creator>
<dc:date>2005-10-25T09:14:24+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/10/18_1837.html">
<title>スペイン歴史事始</title>
<link>http://nagaya.tatsuru.com/yukawa/archives/2005/10/18_1837.html</link>
<description><![CDATA[<p>トレドという古都がある。マドリードの南80kmくらいにあって、まぁ、奈良とか鎌倉みたいなものだ。大仏はないけれど、16世紀にエル・グレコが描いたままの街並がそっくり残っていて、旧市街全体が世界遺産に指定されている。</p>

<p>　この街の建築物が、かなりおもしろい。たとえば、「光のキリストのメスキータ（イスラム教寺院）」なんてのがある。まるで「阪神ジャイアンツ」的な矛盾に充ちた名前で、それだけでもドキドキするのだが、建物そのものも負けてはいない。<br />
　上から見るとカップケーキの断面というか前方後円墳のようなそれは、前半分が四角形のイスラム様式の寺院、後ろ半分が半円形のキリスト教教会。で、それを支える土台は、西ゴート族が立てた柱だったりするのだ。<br />
　また、こんな例もある。12世紀に建てられた寺院。ここではかつて、金曜日にはイスラム教徒が、土曜日にはユダヤ教徒が、そして日曜日にはキリスト教徒が、交替で礼拝をしていたという。そういやたしかにこの「親戚」3宗教って、礼拝の曜日、違うわ。</p>

<p>　やたらに様式が入り交じったトレドの寺院に入ってぽけっとしていると、なんだかとても落ち着いた気分になる。<br />
　ラ・マンチャの強烈な太陽を遮る柱の濃い影の中に身を滑り込ませつつ、「あぁ、だからスペインって好きだなぁ」と、つくづく思うのです。</p>

<p>　んでは、第2回目のレポートを。</p>

<p><br />
■アンヘラ・レドンドはこう云った：<br />
「スペインは対照的な文化の交差路にあるのです」</p>

<p>　アンヘラは、地理の先生。黒板に、ゴルフのパターのヘッド部分を横から見たようなスペインの地図を書き、その上から縦横にでーっと線を引いた。そうして曰く。<br />
　ご覧なさい。北はヨーロッパ、キリスト教世界。南はアフリカ、イスラム教世界。東は地中海のローマ世界で、そして西は新大陸アメリカ。スペインは、その交差路にあるでしょう。</p>

<p>　たしかに8世紀から約800年にわたってイスラム教国の支配を受けた国、なんて、由緒正しきヨーロッパにはない。<br />
　皇帝ナポレオンが「ピレネーの南は、ありゃアフリカだね」と言ったというのは有名な話。まぁそのおかげで、イスラム建築の最高傑作といわれるアルハンブラ宮殿も、スペインにあったりするのだが。<br />
　一方、あくまでプロテスタントを認めず、新大陸で得た巨万の富をつぎ込んで、カトリックの牙城としてガリガリ戦争を続けていたのもスペイン。<br />
　実は「陽の沈まぬ帝国」時代に、4回も破産宣告をしていたりするし。儲けたのは、ドイツの銀行家ばかりなりよ。あぁあ、バッカだなぁ。</p>

<p>　その「宿痾」カトリックが入ってきたのは、ローマ時代。この時期、「ローマ帝国領土の端にある、世界の食料倉庫」であったスペインは、他の国ではちょっと見られないほどの、猛烈なローマ化を成し遂げたんだよね。<br />
　だいたいそれ以前も、文化の出ずる土地、オリエントのピラミッドやスフィンクスに思いを馳せて、似ても似つかぬコピーものを作っていたくらいだし。</p>

<p>　どうもスペインってば、ピレネーの向こう、あるいは地中海の奥の方に、切ないまでの憧れを抱いているらしい。</p>

<p><br />
■オルデン・ヒメーネスはこう云った：<br />
「スペイン人が『ヨーロッパ』と言うとき、その『ヨーロッパ』には『スペイン』が含まれていない」</p>

<p>　オルデンは思想史の先生。セネカやアベロエスと同じコルドバ出身であることに、異常なまでの誇りをもっている。（いや、郷土愛がすさまじいのは、スペインではよくある話だ。うっかり隣の町を褒めたりしたら、一生恨まれたりする）</p>

<p>　彼が言うには、新聞でよく見受けられる表現（「ヨーロッパでは喫煙率が／チョコレートの消費量が……、一方でスペインでは……」）に顕著に見られるように、スペイン人は自分のことをヨーロッパ人だとは見做していない。<br />
　ちなみにクラスメートのイタリア人やフランス人、そしてたぶんドイツ人やオランダ人は、そんなことはないらしい。<br />
　では、なんだと思っているのか。「マルヘン」（縁）の国である。</p>

<p>　ちょうど、アジアの縁に位置し、視線を思わず太平洋の方面に向ける日本と、どこか似ているかもしれない。たとえば「アジアでは自動車の保有台数が」というとき、そこに日本は含まれているだろうか？</p>

<p><br />
■オルデン・ヒメーネスはこうも云った：<br />
「スペインの哲学が独自の発展を遂げた、2つのターニング・ポイントがある。ひとつは711年、もうひとつは1492年」</p>

<p>　711年、アラビア人がジブラルタル海峡を渡り（だって、たったの14kmしかないのだ）、アフリカ大陸からスペインに大挙押し寄せて、ここにイスラム教国を作った。<br />
　有名な話なのだけど、これによって、当時のヨーロッパ社会ではすっかり忘れられていたギリシャの思想（アリストテレスの書物など）が、同じくイスラム圏内だったエジプトを経てもたらされることになった。<br />
　はじめにアレクサンドリアのムーセイオン（学問研究機関）でアラビア語訳されたものが、スペインはトレドの翻訳学校でラテン語に訳される。それがヨーロッパに「再輸入」されることで、中世キリスト教社会の主流となるスコラ哲学を生んだのだ。</p>

<p>　「マルヘン」だからこそなしうる美技、かもしれない。パチパチパチ。</p>

<p>　ほかにもアラビア文化はスペインに、米とサフラン（こうして今日の名物料理『パエージャ』が完成）や、高度な建築技術（こうしてアルハンブラ宮殿が完成）や、漆黒の瞳と髪を持つものすごい美人（こうしてペネロペ・クルスも誕生）などをもたらした。<br />
　もたらされつつも、「あぁ、これでヨーロッパじゃ、なくなったなぁ」と、たまに窓辺でため息をついていたのかもしれない。なんせ、この間までスペインはローマ帝国の一翼を担っていて、五賢帝のうちのふたりを輩出したりしていたのだから。</p>

<p><br />
　一方の1492年は、コロンブスが新大陸を発見した年。自分が世界の西の果て（ギリシャ神話のヘラクレスも、ジブラルタル海峡に、世界の端を示す柱を立てたらしいし）に位置するんだとずうっと思っていたら、それより西にどどんとどでかい大陸が現れた。<br />
　地図が、書き換えられる。OH!　俄然、スペインは世界の中心になったのだ。</p>

<p>　植民地って、どうしたらいいのだっけ？　スペインはかつて自分がローマ帝国にやられたように、奴隷や黄金や食物を奪い取った。実際に当時、「俺たちは、ローマ帝国に盗られた黄金を、いま取り返しているだけだ」と言っていたともいう。わざわざ言うということは、ちょっとはうしろめたかったんだろう。<br />
　そしてしばらくして、少しだけ、人間に普遍の権利というのを考えるようになった。やはり、ちょっとうしろめたかったんだろう。<br />
　んで、ローマで万民法が生まれたように、人類初の（←まぁスペイン人が言うことなので）ヒューマニズム思想が生まれ、これがヨーロッパに紹介されて、国際法の概念が提唱されるに至る。</p>

<p>　しかしスペインは、ひとりぼっちになった。<br />
　お隣フランスで革命が起こっても、ナポレオンが負けてウイーン会議が開かれても、スペインは国内でしこしこ異端審問で火あぶりなんかをしていた（異端審問所の廃止は1834年）。<br />
　そんなだから、第一次世界大戦にも、第二次世界大戦にも、実は参加していない。そしてご存知のように、約40年に及ぶ、フランコの独裁である。</p>

<p>　「スペインは長い間、ヨーロッパどころか『世界』の一員でもなかったのだよ」　そう、オルデン先生は唇を噛んだ。</p>

<p><br />
　スペインの国際社会復帰は、1982年のNATO（スペイン語ではOTAN「オタン」、あぁここでも独自路線が……）加入をもって語られることが多い。<br />
　それから20年超、だ。<br />
　いまのスペインは、鎖国が終わった興奮さめやらぬ明治時代末のようなものかもしれないし、国連加盟を果たし経済成長も成し遂げた80年代初期の日本のようなものかもしれないし、あるいはそういう比較はなんの意味もないのかもしれない。</p>

<p>　ただ、なんていうか。<br />
「いやもう、ひとりじゃないからさぁ。『トラウマ』とか忘れちゃえよう」と言って、ぎゅうっと抱きしめたいような、そういう気分に、時々なるのでした。<br />
　愛しいなぁ、つくづく。<br />
</p>]]></description>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:creator>fujii</dc:creator>
<dc:date>2005-10-18T18:37:10+09:00</dc:date>
</item>


</rdf:RDF>