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      <title>湯川カナの、今夜も夜霧がエスパーニャ</title>
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      <description>since Oct 2005</description>
      <language>es</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>ゴヤ、ロルカ、ブニュエル、ダリ</title>
         <description>私の名前は湯川カナ、イニシャルで表すとKYだから空気読めねえ、ってわけでもないのだろうが、編集者を困らせる文章を書くことが少なくない（らしい）。
いま店頭に並んでいる（はず。スペインではわからないけど）「エスクァイア・マガジン・ジャパン」という雑誌の8月号「天才とスペイン－魂を揺さぶるスペイン紀行」にいくつか文章を書いたが、案の定、大きな3つの原稿のうち2つは書き直しとなった。
アホな子を諭すように改めてていねいに企画意図を教えてもらって、新たに書いたものが、活字となっている。
ひとつは、ゴヤ。以前この欄に掲載していただいた「ゴヤについて」は、実はボツとなった初稿。
今回はもうひとつのボツ原稿「ロルカ、ブニュエル、ダリ」で書いたこと、書けなかったことを。

雑誌ではこの3人が青春の日々をわかちあったマドリードの学生寮での逸話を中心に、その蜜月がブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』の発表により終わりを告げる、という展開になっている（はず）。
ボツとなった原稿で、私はこう書いていた。

&gt; 「アンダルシア」の「犬」とは、いったいなにを意味するのか。この（カナ註：『アンダルシアの犬』発表）直後に陥った「精神的な危機」から脱するためニューヨークに渡ったロルカは、友人への手紙に、「ブニュエルは、ちょっとひどいことをした。アンダルシアの犬は、僕だ」と苦々しく書いている。
&gt; 一説によると、マッチョなブニュエルとそれに感化されたダリが、ロルカのホモセクシュアル的傾向を嫌ったのだ、とされる。しかしブニュエル自身は後年、「僕は、ロルカの影響から逃れたかった」と友人に告白したとも伝えられる。とするとこれは最年長のロルカへに対する、エディプス・コンプレックスの子どもたちのような反抗だったのかもしれない。

……「エディプス」云々を持ち出すところが、青いね。臭いね。てんでイカ臭い、中学生の作文だよ、湯川クン！　というのはともかく、ボツ原稿は少しの「糊」を挟んでから、続けて3人の「その後」を紹介する。

&gt;　帰国したロルカを待ち受けていたのは、無血革命による王制廃止、共和政の成立であった。彼は政府に任命されて劇団を創設し、同時に代表作を次々と発表するが、6年後、スペイン内戦が始まるとファシストにより射殺され、38年の短い生涯を閉じる。
&gt;　自らの生命の危険を省みずフランコ側の友人を助けたブニュエルはしかし、一貫して共和国政府に協力して、国外での活動を続ける。後に拠点をハリウッドからメキシコに移し、この地で没する。
&gt;　戦火を避けヨーロッパを転々としたダリは、第二次大戦を機にアメリカに移住するが、8年後、フランコの支持を表明して帰国。生地フィゲラスの、自身の美術館に眠る。

その後に、再びイカ臭い「天才たちの、輝かしく、儚い前夜。まだ見ぬ未来に胸を弾ませ夢を語り合ったあの日々は、二度と戻らない。歴史の濁流に呑まれアディオスを言うことすらできなかった友に、あるいは苦い思いが残ったかもしれない。それでもやはり、それは彼らだけが共有する、かけがえのない記憶である。晩年のダリが好んで聴いたという『ノチェ・デ・ロンダ』は、3人が通ったオテル・パラセのクラブを強く思い出させる曲だった。」という「まとめ」が来るのだが、それもともかく。

20世紀に生きたスペイン人に、内戦はかくも暴力的にかかわってくる。
ということをたぶん、私は書きたかった（そしてそれは、『スペインの天才』をテーマにしたこの特集号にはまったくふさわしくない、たしかに）。
彼らだって平時だったら、ブニュエルが若くて内気なダリを巻き込んで、先輩の、そして本来ブニュエルがその道を志していた詩作に加えて共通の趣味であった音楽でまで圧倒的な才能を見せつけるロルカに嫉妬し、恐れて、そこから逃れようとわざわざひどい仕打ちとなる作品を共同制作したからといって、それで一生お別れということもないだろう。
しかし彼らのごく個人的な、イカ臭い「訣別」の後に、内戦という歴史の大波が襲いかかった。そして内戦は、「内」戦であるがゆえそれに関わらざるを得ず、自分の立場をはっきりとさせることを強要される。
50年来の付き合いの肉屋と、近所の気の良い仕立て屋のおばさんと、あるいは父と子でさえ、立場を異にするからと銃を取り殺しあわなければならないのだ。

一足先にこの世からいなくなったロルカは、共和国政府の任を受け、スペインの古典を演じる移動劇団を主宰して民衆を啓蒙するという仕事を積極的に果たしていた。だいたい彼の名を高めた代表作も、それまでスペインの「表」の歴史が黙殺してきたロマ（ジプシー）の文化を取り上げたものである。
内戦開始早々、ファシストに銃殺される。その死の理由を、固陋なアンダルシアの名家に生まれた「鬼っ子」のゲイだというところに求めることも多いが（私を含めて）、しかし共和国政府のシンパであったという点をもっと単純に考えに入れてもいいのではないか。たったいま、そんな気がしてきた。
ブニュエルはもともと、『パンなき土地（邦題：糧なき大地）』という、スペイン社会がひた隠しにする貧困をあぶりだすドキュメンタリーを、誰に頼まれたわけでもないのに手がけるような要素をもっていた。ピカソが『ゲルニカ』を展示したパリ万博のスペイン（共和国政府）・パビリオンでは、内戦の（むごさを描く、とされる）ドキュメンタリーを上映しており、また、政府広報アドバイザーかなんかも務めていたはずだ。
内戦後の長いフランコ時代に、カンヌ受賞作による帰国禁止処分後も、何度かスペインから招かれて戻っているが、結局は客死を選んでいる。たしか彼の一時帰国は、ピカソなど「フランコの目の黒いうちは断固として故国の地を踏まない」派の人々にひどく非難されたはずだ。
彼だって充分に苦しんできたんだろうに、ね。
そして、超おぼっちゃん育ちで、考えるより先にその超絶な技巧によってつい作品を生み出してしまうタイプ（たぶん）のダリは、ファシストの格好良さに素直に靡いた、らしい。たしかかなり早い時期に、フランコを讃える作品をものしてもいる。
振り返れば私は中学時代（まさにイカ臭い時期！）に、ただ単にその格好良さから、ダリを偏愛し、部屋にヒットラーの肖像（をコンビニでコピーしたもの）を飾り、インチキなドイツ軍服を作って特急かもめに乗って長崎から福岡まで行ったこともあったような気がするが、なんかたぶんそういうことだったのだろう（勝手に）。
そして、「皇帝」の曲を帝位簒奪者に捧げたことを悔いたベートーヴェンと異なり、ダリはあっさりフランコに恭順してその治下のスペインに戻る。生地のフィゲラスの市役所の改装を頼まれたのをすっかり自分の美術館にしてしまい、そこで眠る。
同時代のミロ、ピカソ、かつての朋友ブニュエルが次々と客死する中で。彼もまた、苦しんだのだろうか。あるいは、社会を描かず、ミューズたるガラから湧き出ずる世界のみを描き続けた（だっけ？）ことがすでに、「苦しみ」のひとつのかたちだったのだろうか。どうかな。
ちなみに、ダリがブニュエルに『アンダルシアの犬』の続編制作をもちかけ、ブニュエルが「勘弁してくれ」（意訳）と断った、という話も伝わっている。

ゴヤについての原稿で私は、スペイン人にとってのアイデンティティ・デーが、対ナポレオンのスペイン独立戦争記念日である5月2日だと書いた。ゴヤ伝で堀田善衛もそう書いていた。
しかしこの日が祝日なのは、実はマドリード州だけである。
では他の地域のひとびとは無関心かというと、いや、やはりゴヤ『1808年5月2日』『5月3日』の主役である「名もなき市民」へのシンパシーはかなり強いようだ。
ゴヤと、ロルカ・ブニュエル・ダリのふたつの原稿を書いていて思ったことがある。
いまのスペイン市民の、200年前の対ナポレオン戦争における名もなき、しかし勇敢な、それゆえ無残な死を死ななければならなくなったひとびとへの強いシンパシーは、つまり、スペイン内戦で破れた「名もなき市民」への、かたちを変えた追悼ではないだろうか。
フランコはまだ生きている。
その娘の子どもたちはたしかいまも貴族として存命だし、だいたい現国王がフランコから後継者として指名された、いわば「フランコの子」である。王冠はブルボン家の先王からではなくフランコから渡されたのだ！　またマドリード列車爆破テロまで8年間政権の座にあった、現在でも最大野党で、かつマドリード州やバレンシア州などでは与党の国民党は、思いっきりフランコの流れを汲む右派だ。
街でだって、広島・長崎で反アメリカを叫ぶのとは異なり、誰もが反フランコで『ゲルニカ』バンザイだと思ったら大間違いで、本気で治安の良かったフランコ時代を懐かしむひとは少なくない。そこらのバルでおじいさんたちが「お前はあの時、」と内戦時の態度をめぐって血相変えて言い争いをはじめる光景にも何度か遭遇した。
スペインでは21世紀になったいまでも、内戦での「名もなき死者」を悼むことを、政治的態度表明と切り離して行うことができない。
だから、ゴヤなのではないか。200年前のことだし、「敵」はフランス軍、しかも歴史上の「悪人」で疑いないナポレオン、というわかりやすい構図だ。
そして、だから、マドリード列車爆破テロほんの数時間後には「名もなき死者」たち被害者への献血に長蛇の列ができ、むしろ余るくらいの血液が集まったのではないか（4時間後にのこのこ行ったら、もう要らないと言われた）。
そう考えると日本の秋葉原無差別殺人事件や、靖国問題における「うまく言えないかんじ」がなんとなく、先の大戦でのものすごい数の「名もなき死者」を、納得できるやりかたで悼んでこれなかったことに通じるように思われる。
それは、スペインが長く「敵」であったはずのフランコ治下にあったのと同様に、日本がアメリカの実質的な支配下にあったからだろうか。（もちろんどちらの国についても、現在形にするのも可です。スペインの経済を牛耳るのはフランコ時代からの「200家族」だし……）
「なかったこと」にしたつもりのことこそ激しく噴き出してくる、精神分析でそういうのがなかったかしら。
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         <pubDate>Wed, 25 Jun 2008 22:23:25 +0900</pubDate>
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         <title>Ｔｏｋｉｏのマタンサ</title>
         <description>マタンサ、という言葉がある。matanza。
この単語を冬のはじめに耳にするのは、そう悪い気分ではない。
生ハムや腸詰などの保存食作りのため、一家隣人総出で豚を屠り青空の下で賑やかに作業を進める、農村らしい光景を思い浮かべるから。
それ以外の時期に聞くと、あまりいいことがない。
最近では2001年9月、アメリカ同時多発テロ。
2004年3月、マドリード列車爆破テロ。
そして先日（6月9日）、一週間の初めの月曜朝のニュースでこの単語が聞こえてきて、んだよ、と嫌な気分で画面を見たら、「Tokioのマタンサ（＝大量虐殺）」だった。
日本でどういう報道がされているかぜんぜん知らないのだけど、そういう言葉遣いだったので、咄嗟に「テロ」だと思ってしまった。

アメリカでのテロは、聞くところによると「グローバリゼーションあるいは現代型経済帝国主義において、圧倒的弱者であり被収奪者たることを余儀なくされ、かつ抗議の手段をもたないイスラムの最貧国の若者たちによる、顔の見えぬ強者への、自らの生命を武器とした無差別型の暴力」だったという。
そしてアメリカは「報復」として、アフガニスタンを石器時代に戻すまで攻撃した。
とはいえよく知らないので、解説じみたことはやめておきます。

マドリードの列車爆破テロは、当初はETA（バスク地方の独立を求める過激派）の仕業だと報道された。
少なくとも政府は繰り返しそう発表したが、かなりのひとが違和感を抱いた。
彼らの従来のやり方は「予告なしで行う政治家など要人の暗殺」か、「予告を伴うデモンストレーション的爆破」かのどちらかで、無差別殺人は、約20年前のスーパーの地下駐車場での自動車爆弾テロほぼ1件と言われる。（だから褒められるというわけではないが）
これまで数百人を暗殺してきた非道なETAではあるが、しかし被害者の顔に意味を持たせないようなタイプの殺人は、どうもしっくりこなかったのだ。
結局、外国では当初からそうだと伝えられていたように、「犯人」は、アメリカでのテロと同じアルカイダだった。
この事件で、極端なアメリカ追従主義をとっていた国民党アスナル政権は支持を失い、数日後の総選挙で社労党政権が発足した。
新たに首相となったサパテロはすぐ、日本を含むアメリカ寄りの諸国から「テロに屈するのか」と責められつつも、公約どおりイラクから撤兵した。
もともと開戦当時9割以上がイラク攻撃反対だった市民は、それを英断だと歓迎した。
もう充分な犠牲は払った。これ以上、「人殺し」の片棒を担ぎたくはない、と。
（当時、世論に反してイラク攻撃を支持した国民党は「人殺し」と呼ばれ、前回の政権担当時に汚職の蔓延で信用を失った社労党は「泥棒」と呼ばれていた。そうして、「人殺しよりは泥棒がまだまし」、と。）

爆破された列車は移民が多く住む郊外の街を通り、マドリード最大のターミナル駅に向かう。
それゆえ被害者には移民も多かった。
そして実行犯の大半もまたモロッコからの、同じような移民だった。
彼らは自分たちにもっとも近い人々を殺したことになる。
なぜ犯人は、より「効果的」と思われる国会議事堂などではなく、「隣人」をターゲットに選んだのだろう。
（秋葉原をマタンサの舞台に選んだ若者も、また。）
「無差別」殺人とはいえ、ここでは少なくとも政府要人など「顔のある」＝「その被害者の生命が社会的に意味を持つ」人間を含ませない、という選択がすでになされている。
被害者として選ばれたのは、顔の見えない「無名の」人々だ。
それはつまり、「彼ら」が報復をしたかった者たちもまた「無名」である、ということなのだろう。
俺（たち）は損なわれた。
誰によってかはわからない、が、少なくとも「政府」とか「親」とか「先生」とかいうわかりやすいものによってではない。
ただし損なわれたのは事実なので、その被害の「埋め合わせ」として、そいつら＝顔の見えない／他の誰でもいい者たち複数を損なってやる。
「彼ら」によって、もともと加害者とみなされ、それゆえ被害者に転じた「無名の」人々には、当然、同じ社会を構成する私たちも含まれるだろう。
あるいは「社会」こそが、「無名の人々」をターゲットとすることによって告発されているのかもしれない。

マドリード。
あの通勤列車内で爆殺された二百名弱の死の原因を作った「加害者」は、利権欲しさに英米に尻尾を振る「人殺し」政府を、その経済優先政策の下で数年続く好景気に浮かれて黙認してきた自分たちでもある。
高い投票率を記録した総選挙を挟み、そういう張りつめた、厳粛な雰囲気が満ちていたことを覚えている。
そのせいか、事件後に心配されていたイスラム教徒への嫌がらせや排斥運動は、ほとんどなかった。
だって、犯人とて私たちの「外部」ではないのだから。
（もちろん、そういうのとは無関係に、これで株価が下がるとおろおろしていたひともけっこういたけれど）
Tokio。
たまたま日本旅行中だったスペイン人の知人が事件に遭遇した、その話を奥さんから又聞きした。
OTAKUの彼は日曜、なにかイベントでもないかと迷わず聖地アキハバラに出かけた。
一斉にひとが走り出すのを見て、すわイベントだと思い、同じ方向に走ったという。
救急車やパトカーが到着してもしばらく、なにかのロケだと思っていたらしい。
なぜなら、地面に倒れているひとなどがいる「現場」を遠巻きにする「みんな」が、携帯を出してその光景を写真に撮っていたから。
彼にとってはそこまで含むすぺてが、「Tokioのマタンサ」だった。
（もちろん、咄嗟に助けようとしたひともいたのだろうけど）
犯人が狙ったはずの「隣人」さえ、実は日本にはもういなかったのだろうか？
資本主義の極北に生まれた、最小の消費単位である個人で構成される、あるいはそれら個人が「構成しない」社会では、従来型のテロはもはや何にも届かないのかもしれない。
あるいは、何か届きましたか？
そしてこれからは、どうなるのだろう。
やはり犯人は「外部」のものとして、自分の実感の伴わない場所（裁判とか軍による空爆とか）で裁かれ、そしてそれを生み出した罪をひとり背負わされる「家」（家族とかアフガニスタンとか）が「報復」されるのだろうか？
それとも事件は「内部」のこととして捉えられて、外国にいる私にはわからないけれど、実際にはなにか変わりつつあるのだろうか。
スペインのニュースは、やはり他人事なので、「その後」を伝えない。
仕事や電話のついでに少し話を聞こうと思った日本の知人たちも「その気持ち悪い話はしたくないんだけど」「日本の恥よねえ」ということで、語ってくれないのです。</description>
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         <pubDate>Thu, 19 Jun 2008 09:57:55 +0900</pubDate>
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         <title>初々さんの長屋又貸し日記</title>
         <description>ずいぶんとお返事を書けずにいる間、京都は新緑の美しい季節になりました。
こ初々さんも毎日元気に外遊び。
たった１年前はベビーカーの上で寝たきりだったことがうまく思い出せないほどに成長しています。
「ひとんちの子の成長は早いのよねぇ。」とよく言われますが、自分ちの子の成長も早い！
たまーに日々同じことの繰り返しに果てしなさを感じてグッタリ疲れたりもしますが、ちょっとそこからユータイ離脱！？して眺めてみると、その時間のあっという間なこと！
そんな意味でも「目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです」とのカナさんの言葉、うんうん！と頷けます。

さて前回は、私が全く知らなかった「スペインジェンダー事情」の詳細を知ることができてとても興味深かったです。
スペインと比較したら、ほんの少し日本は「すすんでいる」と言えるかもしれませんが、どちらも「まだまだ女性がおかれている状況は厳しいものがあるのだな」というふうにも思いました。
それは社会的な立場という面からでも、固定化された性役割という面からでもなく、「女性運動で達成された『女性の生き方の多様化』によって、異なる生き方をする者同士の価値観が衝突し、それは時として熾烈なものとなる」という状況を「厳しいな」と思うのです。
カナさんが「そんな犠牲、私はできない」と言われた、「犠牲」という強い表現にも、その熾烈さをかいま見ました。
仕事をしながら出産・育児をするという選択肢ができたことによって、どちらを選ぶかはその人が（ある程度）自分で決めることができます。
その時その選択肢に対して１００％納得ができていれば、他の選択肢を選んでいる人を羨んだり、妬んだり、あるいは攻撃したりせずにすみます。
しかし、その選択肢に１００％納得できるということが少ない。
仕事をしないと決めれば「社会的な立場」やら「今よりもうちょっと多い収入」やら「経済的な生産性があるという自負」やらは諦めなくてはいけないという状況がある。
反対に仕事をすると決めれば、「家族（こども）と過ごす時間」やら「家事を完璧にこなすだけの時間」に足りなさを感じる。
そうすると時として自分の選択肢を正当化するために、他者を批判してしまうということが出てくるんですね。
「子どもの世話を人に任せて自分は好きなことしてるんだからいいわよね」とか。
「稼がないで家にいるのは気楽でいいわよね」とか。
それは個人的な資質に責任があるのではなく、その人に「そう言わせてしまう状況」が問題なのだというふうに私は思っています。
家庭内の労働（家事や育児）が経済的な生産性より低くみられる現実。
子どもがいても男性と同等に働くことが求められる社会。
もし家庭内の労働（家事や育児）に敬意が払われていれば、あるいは子どもをもつ女性がもっと働きやすい環境であれば、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持たずにすむはずなのです。
しかし、何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚を持ちながら妊娠・出産をしなければならないというのが、まだまだ多くの女性が置かれている現実なのではないでしょうか。

その「何かを断念したり犠牲にしたりしているという感覚」は、どう考えても人をハッピーにするものではないですよね。
でもやっぱりお母さんには、ハッピーで機嫌よういてもらいたい。
私はそう強く思うんです。
お母さんがハッピーでなかったら、子どもだってハッピーじゃないですもの。
だから働いていないお母さんたちが、「今経済的な生産性がなくても、素晴らしくて楽しいことをしているんだ！」と思えるように。
一方働いているお母さんたちが、安心して働けて、より子どもと過ごす時間が充実したものになるように。
そう願ってやみません。
社会システムを変えていくことは時間がかかるかもしれませんが、いちハハとしてそのために出来ることはしたい。
育児って面白いよね、価値あることだよね、と言い続けることもそうですし、働くお母さんたちと交流を持ち続け、「何かあったら助けに駆けつけよう」という気持ちでいることもそうです。
「私は私、これでいいんだ」と閉じずに、異なった状況にいる者同士が助け合える関係を作っていきたいなぁというふうに思っています。






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         <pubDate>Mon, 02 Jun 2008 10:01:40 +0900</pubDate>
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         <title>ゴヤについて</title>
         <description>
　醜怪な男である。闘牛の牛のように分厚い身体。そこに癖の強い毛髪を頂く巨きな頭が載る。鼻梁は低く、半ばから急に盛り上がって小鼻が左右に張り出す。頬や顎が分厚い肉に覆われるなかで赤い唇と黒い瞳だけが爛々と、動物的な、生々しい光を宿す。
　その生き様もまた、喜劇または思いっきり悲劇として描かれたのでもなければ、目を背けたくなるくらいのものだ。２世紀以上前のこととて年表程度の資料、それも不正確なものしか私たちには残されていないが、無機質な記述の行間からですら、隠しようのない上昇志向や権力志向、平たく言って「成り上がり」への欲望が溢れ出してくる。
　では画家としての作品はというと、これまた決して美しくはない。時は18世紀、ポンペイ遺跡の発掘をきっかけに、ギリシャやローマの古代美術を模範とする新古典主義が主流となり、また芸術史上初めて「美学」という概念が登場した時代である。手の届かない理想へ向けて世の中が右へ倣えをしているときに、この男はひとり「リアル」を描き続ける。それは当然、多細胞生物である我々人間のひとつひとつの細胞膜の内側にも似て、「美」と呼ぶには憚られる、雑多な存在のざわめきに満ちている。
　頼まれてもいないのに、あるいは頼まれたとしてもそうすべきではないのに、王の肖像にその愚鈍さまで克明に描き出す。繰り返すが18世紀である。画家が貴族のちにブルジョワなどのパトロンなしには生きていけなかった時代であり、芸術作品に表現者の内面や想像力を反映させることを是とするロマン主義の到来には、まだ百年も早い。
　しかしこの「美しくない画家」に、スペインの多くの美術史の書籍がかなりの――明らかに他とバランスを失するほどの――頁数を割く。プラド美術館のガイドブックでさえ、「当美術館を代表する画家」という賛辞を、正面玄関に座するベラスケスではなくゴヤに捧げ、ベラスケスの２倍近い作品の解説を献じている。決して「巨匠」と呼ばれることない、この異色の画家に。

　スペイン美術史上の「巨匠」といえば、ベラスケスである。16世紀末に生まれたこの画家は幼少時から絵に非凡な才能を見せ、11歳で、宮廷にパイプを持ちエル・グレコの良き理解者でもあった画家の工房に入る。やがてその娘と結婚し、順調にキャリアを積み、若干24歳で宮廷画家となる。『ラス・メニーナス』など中世的美の極致といえる作品を残し、マネによって「画家の中の画家」と讃えられる。ゴヤもまた、この男の例によってやや不遜な言い草ではあるが、「我が師」と評価している。
　そのゴヤは「師」の約150年後、岩砂漠が広がるアラゴン地方に生まれた。父は鍍金師であり、ゴヤは11歳で、こちらは生計を助けるため父の仕事を手伝ったとされる。14歳で画家に弟子入りするが、とくに才能が認められたということもなかったらしい。王立サン・フェルナンド美術アカデミーのコンクールや、イタリア派遣奨学生の選考に応募しては、落選を続ける。やがて宮廷に出入りしていた同郷の画家バイユーと知り合い、まさか「師」の真似ではなかろうが、その妹と結婚する。
　30歳を目前に、義兄の後押しで、マドリードの王立タペストリー工場のカルトン（下絵）描きという仕事に就く。タペストリーは壁の装飾用であり、テーマはすでに決められているのだから、今日的な意味での「芸術」というより職人の仕事、たとえば銭湯の富士山のペンキ絵に近い。これはゴヤを貶めているのではなく、18世紀という時代の話である。ベラスケスもまた、「職人」として発注されたテーマを描き、かつは画家としてではなく、宮廷の宿泊手配係という「公務」による疲労が原因で命を落としている。芸術に「自由」が入り込む余地などない時代だった。
　晴れてマドリードへ出たゴヤは、上流階級の門をこじ開けんと、闘牛場に放たれた牛のごとく砂を蹴散らし猛突進を開始する。まず、スペイン美術界の権威として君臨していた新古典主義の代表的画家メングスの作風を忠実に模倣した作品で、王立サン･フェルナンド美術アカデミー会員の座を獲得。美学もポリシーもあるものか、欲望だけが彼を動かしている。貴族の肖像画を描きまくり、次第に王室に近づき、ついに43歳で宮廷画家の仲間入りを果たす。
　「牛」はまた種牛でもあった。いや率直に、オスであった。妻に20回（スペインの資料では控えめに12回）妊娠させている。絵のモデルとの噂は枚挙に暇がない。しかしこれもまた時代が、そうなのである。ゴヤが仕えるカルロス4世は愚鈍な人物であり、実際にこの国を支配するのは王妃とその若き愛人宰相であることは、王ひとりを除き巷でも誰もが知っていたという。
　ともかく、ようやく念願の地位に立ったゴヤの絶頂は、しかしほんの3年後に、絶望へと暗転する。大病の後遺症で、聴覚を失うのだ。
　人間は言語のみでコミュニケーションをするわけではない。むしろ言語外のメッセージからこそ、より重要な意味を読みとる。そしてもっとも深い無意識は、もっとも表層にこそ現れるという。いかに美辞麗句を並べてみても、表情が一瞬にして、生理的嫌悪を含むすべてを明かしてしまう。
　聴覚を失ったゴヤに、世界はどう映ったのか。修辞なしでは、拒絶は拒絶であり、蔑視は蔑視である。現在もなお続く貴族制度の下に生きるスペインの某研究者は、「成り上がりのゴヤは所詮、彼がその一員になったと思い込んでいた貴族たちからは、人間扱いすらされていなかったのである」と説明する。失意のどん底のゴヤに、人間たちの剥き出しのエゴが襲いかかる。しかしそれまで誰よりも欲望に忠実だったのは、他ならぬゴヤ自身だったはずだ。とすると、目に映るのは醜い自分自身の姿か……。

　ここからゴヤは、「ゴヤ」になる。
　誰に依頼されたわけでもなく、自分と、「いつか芸術という、かほどに困難な道を選ぶ若者たち」のための版画集『ロス・カプリチョス（気まぐれ）』を刊行。気まぐれとはすなわち「自由」である。自由！　ゴヤは代表作の43番「理性の眠りは妖怪を生む」のデッサンに、こう書きつけていた。「理性に見放された想像力は、ありうべからぬ妖怪を生む。理性と結び付けられてこそ想像力は、あらゆる芸術の母となり、あらゆる驚嘆の源となる」。その言葉どおり、当時絶大な権力を有していた教会や宮廷を、想像力を駆使して痛烈に批判したこの版画集は、異端審問所の動きもあってか発売後すぐに回収される。
　53歳、主席宮廷画家に任命され華々しく依頼された『カルロス４世の家族』では、画面の中心に呆れるほど人相の卑しい王妃が、宰相の子とされる王女・王子を庇うように立つ、その脇に意思というものをまるで感じさせない王が所在無げに佇む、というすごい絵を仕上げる。皇太子は事実そうであったように王妃から遠ざけられ不服そうに立ち、王弟は目の前の王の後姿を、いまにも食いつかんばかりに睨みつける。これで不評を買ったと言われ、爾後この王家からの依頼は一枚もない。が、この唯一の作品は、人間の内面を恐ろしいほどに描き出した、空前絶後の傑作となった。
　ある時は、王妃の愛人でありながら公然と愛妾をもち、加えて浮気も日常茶飯事という、こちらも過剰にオスな宰相の依頼で、彼の私室用に、ヴィーナスならぬ生身の女性の匂い立つような裸体を、絵画史上初めて、異端審問所も恐れず描き上げる。
　あるいはスペイン随一の大貴族であるアルバ女公爵に胸を焦がし、外国の資料では短期間ながら熱烈な恋愛関係を、スペインの資料では画家とモデルとしてのごく良好な関係を結んで、その肖像画に相々傘よろしく自分の名前を書き入れる……。
　ゴヤは止まらない。
　1808年、ナポレオン軍の侵攻により、スペイン独立戦争が始まる。腐りきったスペイン王制の下でフランス革命に代表される啓蒙思想に救いを求めていたゴヤは、人間への希望が裏切られたと感じた、のだろう。版画集『戦争の惨禍』にフランス軍とスペイン人ゲリラとの双方による残虐な行為を、冷徹な目で描き出す。あたかも、「理性に見放された人間は、ありうべからぬ妖怪になる」とでも言うがごとく。
　なおスペイン語で「小さい戦争」を意味する「ゲリラ」という言葉は、正規軍の壊滅をうけ、組織されぬ個々人がそれぞれ武器を手に立ち上がったこのとき、誕生したとされる。時代の趨勢という圧倒的なものに流されず、あるいはうまく合わせられずに、気づけば絵筆だけを手に孤独な戦いをしている巨人ゴヤに、実にふさわしい言葉ではないだろうか。
　やがてナポレオンが撤退すると、ゴヤは自ら戦勝記念画に取り掛かる。先には、ベラスケスの『プレダの開城』という名作がある。しかし彼はまたもやそんな歴史を無視し、王でも貴族でもない、巷の名もなき市民を主役に据える。ゲリラが生まれた『５月２日』、そして勇気ある彼らがはかなくも処刑される『５月３日』。いままさに処刑されようとする白いシャツの、薄汚れた蓬髪の男はしかし、ひとり光を放っている。まるで贖罪のための死を死ぬために人間として生まれた、キリストのように。

　そして『黒い絵』シリーズが来る。70代になり、マドリード郊外の邸宅に隠棲するゴヤ。彼はその自宅の、あろうことかサロンやダイニングルームの壁一面に、人知れずこの一連の恐ろしい絵を描いていた。魔女が跋扈し、愚かな人間は終わりなき殴り合いに明け暮れ、哀しい表情の犬は静かに砂に埋もれゆく。これらこそ、老境に達したゴヤが描く、おそらく描かざるにいられない、ビジョンであった。
　日本の鬼婆にでも喩えたいような男が、自分のしていることへの恐怖にか嫌悪にか大きく目を見開いたまま、すでに頭部のない幼児の腕を齧る『我が子を喰らうサトゥルヌス』。ある研究者は、自身の梅毒ため妻の20回の妊娠のうちたったひとりの子どもしか無事に成長させえなった、父としてのゴヤの姿だという。また別の者は、当初この絵に勃起した性器が描かれていたことに着目し、カニバリズムがテーマだと断言する。ゴヤの、おそらく意識的ではなかっただろう近代性、『カルロス４世の家族』にも存分に発揮された予言性に着目すると、ここに「子孫を自らの手で殺すような生き方を、わけのわからない恐怖に駆られてせざるを得ない」現代の私たちの姿を見い出すこともできよう。
　やがて王政復古による弾圧から逃れるため、ゴヤは78歳でフランスのボルドーに移住する。最晩年の作品『ボルドーのミルク売り娘』は、人間かくあるべしとでもいうように、柔らかく温もりのある色彩に溢れている。そして82歳の春、故郷に思いを馳せつつ客死。
　欲望に生きた男は、音なき絶望の深淵でひとり無意識や人間の愚かさに直面し、しかしそれを突き抜けて歴史の奔流を生き延び、やがて人間という存在への祈りを、おそらく彼にしかできない力強さと優しさで、行った。
　1919年に帰国した遺体は、かつて彼自身が天井画を描いた礼拝堂に安置される。柔らかな色で彩られたフレスコ画の女の天使たちが、床に置かれた鏡の効果で地下から天空まで自由に遊ぶかに見える空間に彼が眠るという事実は、ひとり壮絶な戦いに生きて死んだ巨人ゴヤの足跡を震えるような思いでたどる私たちに、幾許かの安らぎを与えてくれる。

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         <pubDate>Mon, 02 Jun 2008 09:59:20 +0900</pubDate>
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         <title>ベラスケスからアルモドバルへ</title>
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デ・シルバ。
そう呼んでも良い。いや、普通ならそう呼ぶべきだった。
スペイン黄金時代の宮廷画家。
その完成された絵画技法は、後にこの国が生む巨匠ピカソをして「マエストロ」と言わしめ、幾点にも及ぶオマージュを捧げさせた。
代表作「ラス・メニーナス（女官たち）」「ブレダの開城」。
画家の名は、ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス。

アンダルシアはセビージャに生まれた「ディエゴ」君は、11歳で、地元にあったパチェコの工房に入る。
パチェコは宮廷に出入りしていた当時の有名画家で、たしかそのトレドの持ち家にエル・グレコを住まわせるほど厚い親交を結んでいたことで、現在の絵画史に名を残している。
やがてディエゴ君はその娘と結婚、「パチェコの婿」として堂々の上京を果たし、若干24歳にして、即位直後のフェリペ4世の肖像画を描くに至る。
画家としての最高位、のちにゴヤがその地位を手に入れようと四苦八苦して40代半ばでようやく手に入れた、宮廷画家の地位である。
ワオ、サクセス。
現在の私たちはそう思うが、おそらくディエゴ君は不満だったのだろう。
当時の画家は「芸術家」として崇められるなどということはなく、「庭師」や「大工」と同じ「職人」扱いである。
ディエゴ君が幾度となく描いた小人と同じ、いや、いやしくも廷臣として重用された小人よりむしろ「ラス・メニーナス」でその小人に蹴飛ばされている犬にこそ、近い立場だったかもしれない。
しかしディエゴ君は、6歳年少となる王から格別の信頼を得ることに成功する。
やがて、王の趣味であり、この無能な王がスペインになにかしら寄与したとしたらほぼその点においてのみという絵画コレクションの管理や、年間を通じて移動の多い宮廷の煩瑣な宿泊所手配などの事務職を任されるという、「栄誉」を賜る。
ディエゴ君がこの仕事をどんなに一生懸命やっていたかは、その死因が老衰でも梅毒でもなく、王女の結婚に伴う王室のフランス国境での滞在のアレンジによる疲労、ということからも推測される。
そんな、現在から見ると「涙ぐましい」ような努力の甲斐あって、ついにディエゴ君は、スペイン人にとって最も名誉なサンティアゴ騎士団に叙せられる。
これは当時の「アガリ」に等しい。
「ラス・メニーナス」の画面左に、大胆にも王の一家に交じって絵筆を手に立っているディエゴ君の、少し誇らしげに反らせた胸に大きく赤色で描かれている十字が、そのしるしである。
（もっとも十字を書き加えたのは本人ではなく、息子か弟だったはず）

そんなディエゴ君は、しかし、なぜ「デ・シルバ」ではなかったのか。

■美術史のリカルド教授は、こう云った：
「それは『デ・シルバ』という名字では、不利だったからですね」

ディエゴ君の生きた17世紀は文化面でこそ「黄金時代」と呼ばれるが、実際に生きるとして、果たしてどうだったろうか。
ディエゴ君が生まれる約半世紀前の1547年、現在もスペイン・カトリックの大司教がおわしますトレドで、「limpieza de sangre（血の純潔）」発布。
ユダヤ人やイスラム教徒の血が混ざるものは、公職に就けず、教会に入ることもできないとする法令である。
「純潔」なキリスト教徒に非ざれば人に非ず。
もし「純潔」でないと認定されれば、地位や財産を剥奪されても文句は言えない。
そのさらに70年ほど前に始まり、たしか19世紀まで続いた「異端審問」の補足版、あるいは強力改訂版というところか。
なんせ「異端である」と認定するのは手間がかかるし、さらに、拷問や火あぶりなどの手続を踏まなければならないのは作業効率の点において非常によろしくない。
一方「純潔でない」と認定する、つまり本人側が「純潔である」と立証するのはまず不可能であり、従って、それが本来の目的である地位と財産の没収を容易に完遂できる。
歴史上悪名高きスペインの「異端審問」だが、実際に処刑された人数はたしか他国と比べてそれほど多くなかったはずである。
それは「血の純潔」という補完システムが「有効に」機能していたからではないか。

異端審問が始まった1475年は、スペイン統一を目前に控えた時期。
この制度の狙いは、半島最後のイスラム教国である対グラナダ戦への戦費確保、キリスト教というイデオロギーによる国内統一、地位剥奪による強力な王権の確立、そして国民の不満のはけ口だったといわれる。
翌年、「Santa Hermandad（＝聖なる兄弟愛）」という名の市民警察が発足。
市民は「異端審問＝正統なキリスト教徒であること」と市民警察の「ふたつの聖なるもの」に挟まれ、息をひそめて暮らすことを強いられた。
いつまでか？
おそらく1975年、キリスト教の庇護者として強力な警察機構のうえに君臨したフランコの死までである。
そして現在もまた、この国のカトリック熱が最高潮に達する聖週間のプロセシオン（神輿行列）に感極まって涙を流す人々の姿に、ひねくれた外国人の私は、「よきキリスト教徒であることへのデモンストレーション」という要素、それをせずには生き延びることができなかったこの国の「聖なる」歴史的背景を見い出してしまう。

1492年、後に「カトリック両王」と呼ばれることになり現在もこの国で事実上禁忌となっているイサベル女王・フェルナンド王によりスペイン統一完了、同時にユダヤ人国外追放令発布。
1547年、カトリック両王の息子、「神聖ローマ帝国皇帝」の椅子を手に入れるため新大陸産の富を盛大にばら撒いたと言われるカルロス１世治下に「血の純潔」施行。
この10年後には、前年に即位したばかりの息子のフェリペ2世により、記念すべきスペイン第1回めの破産宣告が行われている。
さらにその6年後の「宗教改革」では、全国で100以上の修道院が閉鎖され、租税権を取り上げられている。
まるでゴヤの描いたサトゥルノのように金と権力とを貪り喰らう「世界帝国」のお膝元では、もはや、本来それを守るという名目であったはずのキリスト教徒であるというだけでも安心してはいられない状況になっていた。
いつ自分に向かって牙を剥くかわからない凶暴な「聖なるもの」に挟まれて生きる日々。
1588年、スペイン無敵艦隊がイギリスにまさかの敗北。
1596年、全国に疫病が蔓延。
もうこの国はダメなのかもしれない。
「聖なるもの」の間に挟まれ決して口に出せずともそういう気配が、濃厚に立ちこめてはいなかっただろうか。厚くのしかかる、閉塞感。
1599年、ディエゴ君誕生。

まずい、と思った。かもしれない。
若くしてすでに圧倒的な画才の片鱗を見せていたという少年ディエゴ君。
彼の父親はポルトガル人である。
胸を張って「古くからの正統派スペイン人」と言える北部スペイン（つまりレコンキスタの発祥地）とは、ちょっと離れすぎている。
しかもその「デ・シルバ」という名字ときたら、誰が聞いてもいかにもポルトガルだ。
（なお、レアル・マドリードに長らく所属していたブラジル人サッカー選手の「永遠のマルコメ小僧」ロベルト・カルロスの名字が「ダ・シルバ」である）
その点、母方の姓「ベラスケス」は良い。
（美術史教授リカルド曰く）北の方を髣髴させる。
しかも母はイダルゴ、（ドン・キホーテと同じで名ばかりとはいえ）れっきとした郷士である。
うん、「ベラスケス」が良い、この「聖なる」スペイン社会で栄達を望むのならば。
「聖なる」……。
スペイン社会は21世紀の現在、キリスト教の庇護者フランコの死後30年を経た今日でもなお、「聖なる」部分を少なからず残す。
私が通った、スペインでもっとも権威あるといわれるマドリード・コンプルテンセ大学。（十万を超える生徒数も世界有数だが）
かつてオルテガ・イ・ガセーも教鞭を執ったこの大学で正教授になるには、「よきキリスト教徒」でなければならない。
なんせ「正教授」とはスペイン語で「Catedora&apos;tico」、カテドラル＝大聖堂と同じ語源であることは一目瞭然。
実際に、社会からの「聖なる」圧力に屈せず教会婚ではなく市民婚を選んだ、まだ40代の歴史学教授フェルミンは、妻の実家から離縁され、大学での出世の道も断たれている。
なた数年前の、皇太子と離婚歴ある女性との結婚の際も、「でも彼女の前の結婚は市民婚だからカトリックとしては今回が初めての結婚」という「解釈」を、誰もが暗黙のうちに受け入れていた。
だからリベラルもフェミニストも、コンサバも、当初は強く反対していたというギリシャの王家出の現王妃も、この結婚を笑顔で祝福したのである。
ああ、スペイン社会は、かくも根強く「聖」である。

ディエゴ君は、かなり早い時期から「ベラスケス」とサインしていたという。
彼が、王に画才を認められ宮廷画家となるだけでは満足せず、現在から見ると涙ぐましく、その素晴らしい絵と比すると滑稽に、あるいはあさましくさえ見える努力を払い、そして神から類い稀なる才能を付与られたその命を縮めてまで、社会的な「地位」をも手に入れようとしたのはなぜか。
その弟だか息子だかが、王一家と同じ画面に収まる家長の胸に赤色のサンティアゴ騎士団の十字を、明らかにバランスを失するほど大きく描き込んだのはなぜか。
やがてベラスケスとして歴史に名を残すことになるディエゴ君が、セビージャの街を洟を垂らしながら駆けまわっていたとき、マドリードで一冊の本が出版される。
『素敵に愉快なラ・マンチャの郷士ドン・キホーテ』。
時代錯誤な夢想？
いやそれは「時代を映せない」ことできわめて雄弁に時代を映す非現実、ではなかっただろうか。
そこには「聖ならぬもの」が溢れている。
19世紀、ゴヤの「黒い絵」はどこから来たか。
20世紀、ダリはミロはピカソは、なにを描き、なにを描かなかったのか。
21世紀、アルモドバルは……。

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         <pubDate>Tue, 29 Apr 2008 15:41:16 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>クリエイティヴ・ライティング宿題です、先生！</title>
         <description>　数年前その著作を読むや熱烈なファンになり、以後結婚式の車に引かれる空き缶よろしく愚にもつかないことをガチャガチャ喚きながら必死で追いかけ続け、今やその（当初読み方もわからなかった）名を耳にしただけで反射的にありがたやと東の空を拝んでしまうほど尊敬する師が、教鞭を執られる授業で、「宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します」とのたまわれたといふ。されば三十路半ば子持ちシシャモ体型の私もしてみむとて、我ながらいたいけな心持ちで縦書きエディタを立ち上げ画面に現れた原稿用紙風の桝目を眺めやり、ほなあてもパン屋にでも、いやいやここは「パン屋にもたどり着かない」場面でも書きまっかいななどと嫌らしいことを下卑た顔して考え、ほくそ笑みながら文頭に一文字アキを入れたところで、しかしなにかに引っ張られて手が止まる。東の空へと飛翔するのがエロスならば西の地底へ引き摺り込もうとするタナトスが、二着確定でその夜の帳尻が合うという最後の半荘で断トツリードの一着目に向かっていきたくなる軽忽さが、とりあえず巨人よりは阪神、ストロベリー・ショートケーキよりはフランボワーズ・ブラマンジェ、ポールよりはジョン、トシよりはマッチ（っていつだよ）、だけどひとまわりしてビートルズも百恵もフォーエバーな安っぽい反骨精神が、俺の肘を引いている。ああ止めてくれるなおっかさん。わちきも齢三十四、江戸時代なら大年増、平成の世でも高校球児ふたり分のええ歳こいたおばはん、そろそろ万年野党みたいな僻み根性は捨て去り恥ずかしながら裸で土俵に立つ覚悟、たといこの身が世間の晒し者になろうとも。かく覚悟を決めるや、足元でジタバタのたうつ棚と酢をむんずと押さえ込み、懸案の「宿題」にとりかかる。だって、そうよ、愛するひとに愛していると言っちゃいけないの？　ライバルも多いあの憧れの人が、「授業中に手を挙げて俺を好きだってもし言えたら、抱いてやーるぜー」なんてシブがき隊よろしく（だからいつだよ）低いハードルを設定して待ってくれているのよ。在スペイン日本人の皆様に一服の涼を与えんがためアホの坂田歩きを本気でやれる私にとって、ひでえ駄文もち売文稼業を恥ずかしげもなく営んできた私にとって、師からの「宿題」の提示はこれを奇貨としてまた一丁グァラングァランと騒ぐべし騒ぐべし寿ぐべしな出来事でこそあれ、反骨だの豚骨だのそげなこつの出る幕ではないはず。ああ、だのに。
　そうしてしおしおとエディタを終了させる自分の姿までを思い浮かべてみて、やにわに文頭の一文字アキ以降をローマ字変換でカタカタと埋めゆく、その手つきのなんと傲慢なことよ、その文のなんと欺瞞に満ちていることよ。師よ、我が私淑するグラン・マエストロよ、んでもって大家さま。こんなことでいったい私はクリエイティブなライティングができるのでしょうか。いっそ筆で立つ夢は捨て独創的な照明術でも学んだ方がよかでしょか。と、こうして指定の下限六百字に達すべく悪あがきに悪あがきを重ねたところでようよう気づく私は天下無双の粗忽者。「宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します」って、スペインくんだりにいちゃどうせ聴講なんてできやしねえ！　かくして、背後のひとへの呼びかけに間違って大声で答えてしまったような、授業中に寝惚けてこともあろうに先生に「お母さん！」と言ってしまったツレアイの同級生の何某君のような、気恥ずかしさと真っ赤な面とをそっと、百恵ちゃんのラスト・コンサートのようにステージの上に置いて、店子は失礼つかまつりまする。今回はこれにて！　ニンニン。</description>
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         <pubDate>Tue, 15 Apr 2008 09:06:28 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>スペイン・ジェンダー事情</title>
         <description>こ初々さん、1歳のお誕生日おめでとうございます！
地球がニューカマーな彼女を乗せてびゅーんと太陽のまわりをひとまわりして、ついに戻ってきたんですね。
ヤアめでたいなあ、パチパチパチパチ！！

返信を書きそびれているあいだに、こちら、マドリードは春たけなわ。
葉桜ならぬ葉アーモンドが優しい影を落とすニーニャの保育園では、今週、「日本旅行」があります。
みんなで他の文化について知ろうね、という、園の微笑ましい定例イベントです。
「旅行」先は園児の出身地で、先月はエクアドル、先々月はバスク地方、その前はブラジル。
なにか日本らしい遊びをひとつ、ということで、「じゃんけん」を提案します。
スペイン語では「piedra（石）, papel（紙）, tijera（鋏）」、かけごえも同じで「ピエドラ、パペル、ティヘラ！」。
この3者に絶対的な勝者はいません（って、わざわざ言うようなことでもないですが）。
スペインでは「石は鋏を砕くが紙に包まれ、その紙は鋏に切られ……」と説明します。（日本でもそうでしたっけ？）
それぞれが勝つ要素も負ける要素も持っていて、それは相手次第という相対的なもので、その関係をつなげてみれば「円」になっている。
なにかあいまいなものが互いに関係しあいながらゆらゆらぐるぐる終わりなくまわりつづける、というの、すごく日本的な発想だと思ったんですよね。
（考えたら日本の通貨が「円」というのも、交換を目的とする貨幣の名称としてなかなかナイスですね）

初々さんの書かれた、「ひとつの関係のなかに、贈り、贈られる関係を作ることが、自分と相手を自由にするのかもしれない」という文章、すっごーく素敵でした！
じゃんけんを繰り返すうちに勝ち負けじゃなくてそれ自体が楽しくて仕方なくなってくるのと同じ？　なんて、またしてもごく手元にひきつけて思ったりしてます。
そういえば「私がそこからすべてを学ぶであろう」麻雀も、総数では常に一定の点棒を、4人で贈与しあうんですよね。行ったり来たり。
また「関わるその人の中に贈り物を見つけるのは私次第」という文にも、ハッとしました。
そういえば、作者は死んで、テクストは読者において生成的に編まれる、のではなかったかしら。そうだ、

■　マエストロ内田樹はこう書いた：
「『作者』の治世が終わるとき、テクストは読む人＝書きこむ人（※カナ註：ロラン・バルトによる述語で、「集合的なテクスト生成への参加者のひとり」という含意をもつ。同書の説明より）の主体的選択にもとづいて、そのつど新たに構成されるものとなる。」（現代思想のパフォーマンス、p84）

そうであってこそ、この「かかわり」が、「一回的で創造的な行為」となる。
子どもに対しても同じですね。
「それだけパン食べたらもう炭水化物は充分だから、ビタミンも摂っときなさい、ほらお野菜あーん」とか、「やっぱり晴れた午後は公園で健康的に遊んだ方が」とか。
ついそういう考えに圧されるのですが、でも「ええーっと、この場面ではこう振る舞うのが『正解』の読みなのだろうか」ってことばっかり考えてて、楽しいわけない。
麻雀だって、うっかり「セオリー」なるものに頼ると、たいがい点箱も精神状態も惨憺たる結果になるものです。
どこかの「作者」が決めた「正解」がある、っていうのをサッパリと忘れて、あるいはそう思わせようとする社会の「罠」をエイヤッと振り切って、目の前の変わりゆく生命との一回きりのかかわりを、心底楽しみたいです。

ところでスペイン社会の「罠」のいくらかは、こちらに外国人として居ると、チラリ見えたりします。
たとえばママたちが出産・育児を語るときの言葉遣い。
小児科の待合室で隣り合ったママに「15ヶ月で、まだ授乳してます」と話すと、まるで墓場から出てきたゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたうえ、「いや、そんな犠牲、私はできない」と、全身でひどく拒否されました。
鼻くそほじってても勝手に湧いてくる乳を含ませるだけのことにsacrificio。
私は私で、ヒトダマ見たくらい魂消ました。
しかし考えてみると、どうもこれが出産・育児に底流するもっとも強いイメージのようなのです。
出産準備教室で「妊娠前のキャリアの中断」はまあわかるとして、「妊娠前と体型がどんどん変わる」という（私からすると）些細な理由でうえうえ泣くほどナーバスなひとが多かったこと（「いまナーバスで」というひとが15人中13人。って、ノーテンキなふたりのうちひとりは私だし）。
「痛いことはできるだけ我慢・受難せずにサッサと終わらせる」無痛分娩が9割以上なこと、産科で隣り合った女性に日本の自然分娩を話すとやはりゾンビと鉢合わせしたくらい戦慄されたこと（「私には絶対無理、さすがサムライの国ね」なんて、ハラキリ扱い）。
1歳児健診で「まだ保育園に預けてないの？　まだ母乳あげてるの？　まるで第三世界のやり方ね」と言われたこと、そう言わせるくらいに「生後数ヶ月で断乳・保育園に入れてママは社会復帰」が「常識」であること。

ご存知とは思いますがスペインは1975年までフランコ治下にあり、いわゆるカトリック的家族観における「良妻賢母」が（非常な圧力とともに）女性の規範とされてきました。
当時各家庭に配布された「女子こうあるべし」のプリントには、「夫の外出時には、どこへ、また何をしに、あるいは何時までなど、はしたないことを訊いたりせず、黙って笑顔で送り出しましょう」等の「模範的」な姿が、イラストとともに説かれています。
というのは文字を読めないひとも少なくなかったからですね、簡単な計算ができれば女に学問は不要、もちろん男に伍して社会参加なんぞもってのほか、ですから。
そして道徳上ではなく法律上においてまで、妻の重要な行動（労働契約はもちろん、銀行口座開設から長期旅行まで！）には夫の許可が必要とされていました。
こうして夫や社会からの理不尽な（有形・無形の）暴力を受けつつも、「権利」のなんたるかも知らないまま、女同士でひっきりなしに「くだらないこと」を喋り、夫が友達とバルで飲みカード遊びをするあいだに子どもたちにごはんを食べさせ、畑でロバを追い汗を流して働きながらそれでも笑い声を絶やさず、夜は熱心に神に祈って寝る。それが田舎の典型的な母親の姿でした。
母親の死後に作られた『オール・アバウト・マイ・マザー』をはじめとするアルモドバル監督作品には、そんな彼自身の母、ひいては女性一般への思いが描かれている、と言われています。

フランコが死んで新憲法が制定されたのが78年、離婚が認められたのが81年、母体の生命を脅かすなど特殊な場合以外の中絶が認められたのは92年。
いかにも「民主化」は遅いですが、なんせスペインはなんでも「やりすぎ」なくらいやっちゃう国なので、現在では、30代・40代前半を中心に、（経済的な理由および）自己実現のため結婚後も女性も働くケースが圧倒的多数です。
それを象徴するかのように、2004年に成立し現在も続く労働党政権では閣僚の半数が女性。
とはいえ、離婚成立に「1年間の別居＝考え直させる期間」が不必要となったのはようやく2005年。もちろん教会は現在でも離婚を認めていません。
スーパーに行けば、一見仲良く買い物をしている夫婦が、「またパセリ買うのか！　まだ残ってただろ」「冗談じゃないわ、いつの話よ！」と喧嘩しているのもよくある話。
これは、財布を夫が握っているからなんですね。
共働きが圧倒的に多いとはいえ、財布は夫、一方で家事・育児のほとんどは妻の担当。
なんでもスペイン人女性の「実働時間」は世界一という調査結果が出たとかで、先日テレビで「スペイン女性は『スーパーマン』であらざるを得ない」とレポートしていました。
男と伍して働き、夫や社会からのサポートなしで育児をしなければならないスペインのママたちの、それが実状のようです。
最近では10組のうち4組が離婚するそうですが、大学の社会学教授はその理由を「独身時代には男女平等の生活を享受してきた女性が、結婚するやいなや旧態依然の『妻－母』の役割を求められ、それに幻滅するから」と分析していました。
「犠牲」というあの激しい言葉遣いは、思想上はウーマンリブ的自己実現賛美から出てきたかもしれませんが、それがいまだに特別な力を持ちつづけている背景には、このような当地の社会状況があるように思われます。
（とはいえ、「犠牲」と言い続けている限り、出産・育児はますます「犠牲」色を強めるだけなのですが）

30代・40代女性の喫煙率が異常に高いこと、若者の「初性交」平均年齢は14歳で、初煙草はそれ以前、初ドラッグはさらにそれ以前と言われること（ドラッグで性交不能となることを恐れてバイアグラを使う少年たちが社会問題に……）。
これらが長年にわたってこの社会を（カトリック的家族像における）「父」として統治してきたフランコへの反動だとしたら、おい、おっさん罪なことしたなあ、と思います。
「いい？　これはね、自由の象徴なのよ」と、しゃがれ声でうまそうにヤニを食うおばさんに、へそくりが横領とみなされないような「亭主元気で留守がいい」国からきた外国人の私は、なにも言うことができません。
おっと、今回はテーマがずれました、ごめんなさい。


後日談。
じゃんけんは、鼻ピアス保育士バネッサが幼少時から（日本発祥とは知らず）親しんでいたということで、彼女が調べてきた「だるまおとし」に変更となりました。
ちなみにじゃんけんはなにかを決めるためではなく、それ自体を何度も何度も、単純にゲームとして楽しんでいた、すっごく大好きだったわ！　とのことです。
日本的、というより、すぐれて「人間的」な遊びなのかもしれないですね。

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         <pubDate>Tue, 08 Apr 2008 09:51:11 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>今日からニーニャは保育園</title>
         <description>あけましたね、おめでとうございます。
今年も「うろうろママ交換ブログ」、よろしくお願いいたします。

今月からニーニャは、保育園に通いはじめました。
初日の朝、保母さんの腕に抱きとられたニーニャは、泣いて泣いて泣いて、げえげえ吐きました。
その午後、やはりごんごん泣きながら先生に抱えられて出てきたニーニャを見たとき、すごく感動したんです。
「あっ、生きてたーっ！」って。
ひとしきりムフフフフとよろこんでから、ハッとしました。
いえ、慌てていた私が下着を前後ろ逆につけていたことに気づいたからではありません（それは帰宅後に気づきました）。
ハッとしたのは、ということはつまり、私はちっともニーニャの生命力を信じていなかったんだ、ということに気づいたからです。
正直、彼女にはまだ保育園なんて無理だろうと思い、いつ「迎えに来てください」の連絡が入るかとずっと携帯電話をチラ見してました。
ぶじに帰ってくることはまずあるまい、とすら、振り返れば思っていたようです。
なんせ家では２時間おきにおっぱいを欲しがり、離乳食も小鳥のようにしか食べないんですから。
それが、初めて放り込まれた「親なし・赤ちゃんいっぱい・スペイン語のみ・保母さん鼻ピアス（まあいいんだけど）」な環境で、泣きに泣いたとはいえ、手元の献立表によると「野菜のポタージュ、牛肉のソース煮、ヨーグルト」をもりもり食べ、長時間おっぱいなしで、元気いっぱい、お迎えの時間まで過ごしていた。
ああ、私が知っている（と思っている）のは、常に「昨日までの彼女」なのだなあ、と、つくづく思いました。
しかもその夜、はじめて歩いたんですよ！
そのときの顔の、まあ誇らしげに輝いていたこと。
もう、完敗です。

さて、初々さんからのお手紙、またまたとても楽しく、へええと拝読しました。
「拒否」に傷つくのは、それだけ愛情があるからかも、なんですね。
あの、特に名前を伏しますがごく近しいひとが悲しいほどの阪神ファンで、かのタテジマが試合に負けるたび、「俺が中継聴いたからアカンかったんや」とか「ああ今日せっかく中継あれへんかったのについ気になってネットで途中経過見てもうたからや」などと、どう考えてもありえないことをわりと真剣にブツブツ唱えたりするんです。
同居人として、ちょっと迷惑です。
そっか、ここには、「理解不能な事実になんとか理由付けをしたいが、よくわからないので、とりあえずいちばん簡単な『自分のせい』にしてしまう」という、まるでDVな家庭に育つ子どものような考え方に加えて（おそらく阪神最弱時代に長らく「報われない」ファンだったからでしょう。近年の優勝はスペインに来てからだし）、タテジマへの強い愛情、その返す刀で「阪神ファンとしてのspecial one」でありたいという願いもあるのかもしれないんですね。
まあ、ことがタテジマに関してなら笑って済ませられますが。
（ツレアイだってそう本気じゃないハズだし。いやどうかな……）
私もまた、保育園から元気に帰ってきた娘を迎えて、ちょっと寂しくなったりもしていました。
そっかそっか、お前はもうカアチャンなしでも生きていけるか（←極論。明らかにスネてますね）。
こうやってゆるやかに「拒否」されても、傷つかないありかた。
「相手が私に依存しないでも、（できれば「依存しない『からこそ』」）、満ち足りていられる」、そういう人間関係のありかたをこれからは子育てをつうじて学ぶのかなあと、いま思いました。
まあそうそう急に「できた人間」にはなれないでしょうから、ひとまずは初々さん方式で、「いやあ、けっこ寂しかったりしちゃってね」とか「阪神また負けよったわ」と、朗らかにことばに出すことで、ていねいに葬ることにします。
半端者のためのとりあえずの処方箋、すごく助かります。


では、バルセロナ近郊の、リゾート地としても名高い地中海沿いの町にお住まい（いいなあ）のカルロス先生の、今日のおことばを。

&gt; お母さんの側には常に、逃げ場や慰め、希望といったものが用意されています。

場面は変わらず、食卓での攻防です。
子どもが、お母さんの愛情たっぷりの料理を、ときによっては泣き叫んで「拒否」する。
こころあるお母さんは「かわいそうに、私のせいよね、きっとこの子にひどいことしてるのよね」と胸をいためるでしょう。
それに理解と同情を示しつつ、カルロス先生は「でも、」と続けます。

&gt; あなたには過去があり、未来があって、趣味なんかもあり、そして仕事もあるかもしれません。さらに、それが本当かどうかは別として、ともかくあなたには、いま起こっていることを説明するための『考え』がある。加えて、どんなに絶望でどん底の気分のときだって、『だって、みんなあの子のためなんだから』と自分に繰り返し言い聞かせることができるのです。
&gt; そのうえあなたには、『希望』がある。なぜなら、あなたは知っているのだから。子どもたちは大きくなったら必ずひとりで食べることを、だからこういう時期はほんの数年しか続かないことを。

母は強し。
って、使い方間違ってますね。

一方で子どもは、と、カルロス先生は思いをめぐらせます。
過去の思い出も、そこから生まれる未来像も、自分の行動を正当化する合理的説明もない。
「そう、お子さんには、あなたしか『ない』のです。」
ああ、今日も泣かすぜカルゴン（カルロス先生の苗字はゴンサレス）。
親の頭の中にある「栄養のバランス」「顎の発達」「規則正しい生活習慣」、そういう「正しい」理由はあくまで自分自身のためのものであり、間違っても「子どものため」ではない。
だから、子どもにたいして、なにもしてはならない。
というわけではまったくないのですが、この「親の強さ」を常に意識しておくことは、子育てにおける大切な節度かもしれないですね。
愛情もある。
「正しい」理由もある。
でも、あなたには「自由」がある、ということ。

って、あっこれ、インターネット持仏堂での質問、そのままかも！
ヒモ志向のアンポンタンセニョーラへの釈住職と大家さんの滋味あふれるおことば、ぜひご一読をおすすめします（質問６８・施しって何？）が、ポイントは、「贈り物というのは、贈り手の心構えが問われるものである」というところ（たぶん）。
受け取った相手を「自由」にする贈り物ができるような「大人」に、私もなりたいです。</description>
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         <pubDate>Fri, 18 Jan 2008 19:53:07 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>居候日記その３</title>
         <description>カナさん、みなさん、こんにちは！
私のほうもすっかりとご無沙汰しているうちに、なんとニーニャちゃんは１歳のお誕生を迎えましたね。おめでとうございます！！
こどもを産んでから、自分のこどももよそのこどもも関係なく、その成長を心から楽しみ、喜ぶようになりました。
今までは想像力が足りなかったのかなぁ、なんとなく「こども？自分とは関係ないや。（というより、関わり合いがなさすぎるよね）」と思っていた節がありましたが、いまやどの子をみても「自分とは関係ない、とはとても思えない」。
どうも赤ちゃんを授かって、「（余計な）お節介」度がアップしたというか、よく言えば人間力をアップさせることが出来たように思います。

さて、「この『余計なもの』、いったいどこからやってくるのでしょうね」というカナさんの疑問について、私も少し考えてみました。
離乳食を「食べない」が「食べてくれない」と言葉を変え、最終的には子どもから拒否されたように感じて「この子は私が嫌い」と受け取ってしまうという落とし穴、実は臨床において看護師がよくはまってしまう落とし穴でもあります。
例えば患者さんに、怒鳴られたり、誹謗中傷されたり、あるいは暴力をふるわれたとき。
明確な理由があるときは別ですが、たいていの場合は「たまたまそのときムシの居所の悪かった人のそばに、たまたま居合わせてしまった」だけにすぎない。
つまり天災のようなもので、「運が悪かったんだよね」と思うのがまっとう。
「私のどこがいけなかったんだろう」とか「私のことが気に入らなかったんだろうか」などと考えて、事実を「個人的に受け取らない」ことがベストです。
ということが頭では分かっていても、いざ自分がその立場になると、個人的に受け取ってしまって、うじうじするもの・・・
何ででしょうね、個人的に受け取っていいことはなにもない（ように見える）のに。
自分で自分を責め続けて、いいことはなにもありませんよね。

しかしよく考えてみると根の深い問題なのですが、事実を個人的に受け取ってしまうことの背景には、おそらく「私は、彼（彼女）の、special oneである（ありたい）」という思い込み（願望）があるのではないでしょうか。
なぜならもし事実を個人的に受け止めず、「誰がその場に立ち会っていても、同じ結果だったよね。」と思ってしまったら、「彼（彼女）にとって、私はspecial oneではなく、その他大勢」であることを認めてしまうことになる。
それを認めたくないがために、「いや、私だったから、こうなったんだ」と個人的に受けとめてしまう、そういう「からくり」があるかもしれません。

でもそれが全面的に悪いことだとは、私は思いません。
もちろんそれが行き過ぎてしまうと病的ですし、看護に関して言えばチームで関わっている以上、「私が」とばかり言っているわけにいきません。
またそれは「バーンアウト」にゆくゆくつながっていくことになってしまいます。
しかしながら要は程度問題、ということになるとは思いますが、「それ」（＝special oneである、ありたいという思いこみや願望）がなければ、とたんにケアや育児が困難になるのではないでしょうか。
だって、「誰が関わっても一緒だよね」という人にお世話されたいと思いますか？
あるいは「別に私じゃなくてもいいんだよね」と思いながら、他者に手をさしのべられますか？
看護や介護の援助関係においても、親子の関係においても、匿名の関係などあり得ないのだと思います。

ただ、どうしたって個人的に受け取ってしまうことから逃れられなくとも、そこからどうまた関係を立ち上げていくか、というところにその人の知性が深く問われるように思います。
自分を責め続けて関係を閉じるのか。
新しい物語を作って、未来へと関係をつなげていくのか。
「離乳食を食べてくれない。私のことが嫌いなのだろうか。」という思いがふと頭をよぎっても、「いいやそんなわけはあるまい。きっとお腹がすいていなかったんだろう。今度はおっぱいの前に離乳食をあげてみるか。」と思い直すことができれば、それでいい。
そのように試行錯誤できるのは、人間の持つ知性のなせる技なのだというふうに私は感じています。

それから。
患者さんに怒鳴られるにしても、赤ちゃんが離乳食を食べないにしても、形としては「拒否」なんですね。
この「拒否」というもの、人間には相当こたえるものなんだと思うのです。
「個人的に受け取るな」という理性が働く前に、ダイレクトに体へくいこんでくる、そういう「傷つく」体験なのではないでしょうか。
ですから私は、「そんなことくらいで傷つかない自分をつくる」という方向へ努力するよりは、「そういうものだ。（傷つくものなんだ）」と思うようにしています。
なぜなら傷ついた自分を、「それは自分がなってないからだ」といってまた責めてしまう、そんな自罰の輪をぐるぐるとまわりたくないからです。
できれば、「いや～不覚にも傷ついちゃったな。まぁ仕方ない、そういうものだ。」と思ってやり過ごしたい。
そんなふうに今は考えています。

だなんて、頭の中でごちゃごちゃ考えすぎちゃいますけれども。
「しんどい」日々を通り過ぎ、今や人目もはばからずにメロメロチュウチュウですとのカナさんの言葉、同感です。
目の前のいのちの愛おしさが、なによりもまさる。
それは本当に幸せなことだなぁと思います。
でも、時にはどうしようもなく自分の感情が巻き込まれ、イライラしたり、悲しくなったり、嫌になったり、そういうネガティブな感情も抱くものです。
（看護は感情労働だと言われていますが、育児も同じ側面があると思います。）
そんなときに現象やら自分の感情を相対化して言語化できるというのは、ひとつの能力だというふうに私は思います。
ときには言葉もなくメロメロになり、そしてときには目の前でおこっていることを言葉にして自分を支えたり、他者と共有する。
そんなことをよいバランスでできたらいいなぁと、心から思うのです。




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         <pubDate>Fri, 07 Dec 2007 15:51:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>生きてりゃそれでオッケー</title>
         <description>たいへんご無沙汰してしまいました。
折よく結婚10周年を迎える直前に3連休となり、こいつぁ一丁ニーニャに初めての海でも見せるかと陸路350km、車を転がしてバレンシアまで行ってきました。
東京からだとほぼ名古屋に相当するこの町が、マドリードからいちばん近い海なんです。
晴天の下、海辺はそぞろ歩きのひとでたいへんな賑わい。
ジーンズの裾をたくしあげ、ニーニャを抱き上げて波打ち際へ進み、その「大きめのいなり寿司」くらいしかないプヨプヨあんよを海に浸け、た瞬間、まんまと号泣。
「あらあ、海は怖くないのよ」と、してやったりの顔で言い聞かせる私たちに、通りすがりのおばさんが一言：「そら、冷たいんやわ」。
考えれば11月、隣でドイツ人と思しき家族連れが真っ赤な顔で泳いでいたのでうっかりしていましたが、たしかに自分の足を浸してみれば、地中海とて単に冷たい冬の海。
またしても親の身勝手を反省しつつ引き上げてきたのですが、その直後に引いた風邪がグズグズといまも続いているのでした。
相変わらず、しょうもないことばっかりしています。

ほんと、結婚・出産・子育てを経て、私もどんどん変えられているなあと思います。
たとえば、妊娠の可能性がでてきてから授乳中の現在まで丸2年、ほとんど薬というものを飲んでいません。
その間、39度の熱が出たり、ノロウィルスにやられたり、今回のように頭痛・鼻水・咳などはしょっちゅう。
でも薬なしでも、死んでいない。
風邪薬を、予防も含め常用するツレアイと比べても、たいした差はなさそうです。
これで2年間できたのだから、たぶんこれからもこうやっていけそう。
あまり身体の強くない（はずだった）自分に、薬に頼らない生き方ができるなんて、以前は思いもしませんでした。

「生きた子どもという大自然」、素敵なことばですね。
自然、とかじゃなくて、それはもう「大自然」。
なにがほんとうにいいかなんて、人間である私ごときにわかるわけなどない。
人間には大迷惑な地震も、骨盤、じゃなかった、地球がプレートの歪みを直すのに必要なように、親から見たら「なんスか、それ？」も、子どもには必要なのでしょうね。
いま、ニーニャはしきりに家中の埃を拾っては食べているのですが、それも、「21世紀に生きる人間」として必要な免疫を作るため、あえて生活圏の雑菌を取り入れていたりして。
雑菌や風邪を「不純なもの」として排除するんじゃなくて、「そういうのもあるのが世界で、『私』はその一部」と考え、ほなぼちぼち「ご近所づきあい」してみるかと穏やかに構えるというのも、やはり、以前は思ってもみないことでした。
この調子で、「一方的によかれと尽くしてはバーンアウト」しがちだった性向も（そうか、そういうメカニズムだったのか！）、よりまろやかなものになるよう、願っています。


さて、柔和なお顔にお髭がもじゃもじゃ、カルロス先生の今日のことばを聞きますか。

&gt; 可哀想に、子どもたちはしばしば間違った、そして感情的な争いに巻き込まれてしまっているようにみえます。食卓での攻防は、「お腹が空いている／いない」というごく単純な言葉遣いで済ますことができるはずなのに。(p23)

なのに、どこからかやってきた余計なものが、「食べない」ではなく「食べてくれない」へ、「お粥を食べない」ではなく「私の作ったお粥は嫌いみたい」へと、言葉遣いを少し暗い方向へと捻じ曲げてしまう。
カルロス先生はこの「落とし穴」にはまった結果、「単に食べられない」という事実から、つい「この子は私が嫌い」という罪を認定してしまう危険を指摘します。
その母親は次にきっとこう言うでしょう、「ちゃんと食べない子、ママは嫌いよ」。
しかし、この「余計なもの」、いったいどこからやってくるのでしょうね。

世界は自分が見ているようにしか見えない。
なにかとの関係がどうも息苦しいとき、まずは私自身が世界をどう「思い込んで」見てしまっているかを疑わなくちゃいけない、ということを、私はいま（大家さんに私淑しながら子育てをすることで）学んでいます。
たとえば、「子育てはのんびりと」と聞けば「そりゃいい、が、さてそいつはどれくらい『のんびり』なんだい？」と考えてしまう私は、どこかに「完璧な親」というものを想定していたことに、最近気がつきました。
それは、金八ブームのときは生徒会長しながら少しやさぐれ、中学では「まじめだ」「はりきってる」と揶揄されないように装いつつ猛烈に勉強し、高校でワンレンもどき、大学ではロッカーもどきに携帯片手のOLもどき、ITの学生起業で夕刊フジに冷笑的な記事を書かれても大喜び、そうやって「世間」の描く「完璧な・時代の子」イメージを忠実に体現してきた私の、たぶん少し病的なところです。
しかし、ありもしない「世間」相手に相撲をしたところで、残るのは深い徒労感のみ。
ああそっか、それで「報われない」とバーンアウトした結果が、このスペインくんだり昼寝ぐーたら生活なんですね。

んなこんなでいま、意識的にいろいろな情報が耳に入らないようにして、「子どもの生命力を信じてみようぜ！　生きてりゃそれでオッケー、カモン・ばぶれもん・縄文風」でのんびりやっているはずだったのに、それでもやはり「過干渉ではなく放任でもない」、親として「完璧な」地点をイメージしていたみたい。
しかしそれを考えてしまうということは、返す刀で、子どもにもまたどこかで「完璧さ」を求めてしまうことで。
ああ、危ない危ない。

忘れちゃいけない、子どもは「大自然」。
ほんとうにその生命力に敬意を払うならば、親の育て方で子どもがどーこーなるなんて思うのは失礼千万ですよね。
そしてそれはまた、私自身のあれやこれの責任を自分の親や環境に求めないことと、パラレルでもありますね。
私がまず私自身の生命の力を心から信じて敬意を払うこと。
それもいま、子育てをしながら学びたいことのひとつのように思えます。
これができれば、子どもが多少離乳食を食べなくてもなんでも、「私が否定された、ヨヨヨ」などと余計なことを考えずにカラカラ笑ってられそう。
そのときはきっと、お米研ぎも好きになるような気がします。

まだまだ、狭いお釜の中をぐるぐる回ってはいつまでも白濁した水を出し続けるお米を暗い台所の隅でかきまぜていると「うら！　お前もしゃきっとたまには外へ飛び出さんかい！」などと思ってしまう未熟者ですが（もちろん、実際に飛び出したお米は拾って戻すのですが）、それでも、ニーニャとの日々は、文句なしにどんどん楽しくなっています。
振り返れば、こんな「しんどい」日々を送っていたんだなあ、と、うろ覚えにログを探し当てて読んでみて、我ながら呆れちゃいました。
（以下、本家ブログより）

&gt; 2007年02月03日（註：ニーニャ生後2ヶ月になる前日）
&gt;『早く動物になりたーい』
&gt; ニーニャと向かい合っていて。
&gt; 「あ、いますごく『慈愛に満ちた母』っぽい」とか、逆に「これって『＜慈愛に満ちた母＞像を否定するあまり子に対してわりとクールな距離を置いてる母』ってかんじになってる？」とか、なんだかんだそういうことをいちいち考えてしまっている、
&gt; ようだ。
&gt; ことばを使えるのは人間のわりといいところだけど、
&gt; それに振り回されすぎかもしれん。
&gt; せっかくことばを使わないニーニャが目の前にいて、全存在を投げ出してくれていて、&gt; 私もことばをかけなくても乳をかける毎日を送っている（なんせ噴き出すからね）。
&gt; ああ、早くもっと動物的に、ニーニャと向かい合いたい。
&gt; なんというか、屈託なくというか、けれんみなくというか、
&gt; ……つまりこうやってことばを探して感情をそれに置き換えずに、ということなんだけど。

いまはもう、人目もはばからずにメロメロチュウチュウです。
やあ、あと半月で、1歳だ！</description>
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         <pubDate>Fri, 07 Dec 2007 15:45:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>居候日記その２</title>
         <description>大家さん、はじめまして。
大家さんに断りなく突然転がりこんできてしまったにも関わらず、快く迎え入れて頂きましてありがとうございました。
またカナさんと掛布顔姉弟とともに法話を聞きに持仏堂を訪ねていきたいと思いますので、よろしくお願いします～。

さてカナさん、確率や科学的データの話がうまく伝わったようで嬉しく思っています。
「雨が降ることに賭けて傘を持っていくか、きっと降らないさと決めて持っていかないかの、どちらかだけ。」
まさにその通りなんだと思います。
あくまでも確率や科学的データというものは、これからの自分の行動を決定するための判断材料でしかない、ということですね。

とはいえ専門家から「こうしなさい」と言われると、それが一つの目安なり判断材料のひとつにすぎないと分かっていても、「そうしなければいけないのではないか」という不安がむくむくとわいてくるのは当然だと思います。
ブログのほうでも読ませて頂きましたが、離乳を始めていないことに関して、スペインの医師からのさんざんな言われようを知るにつけ、心が痛みました。
医療（保健）機関と上手につきあっていく、というのはどこの国においても難しい課題であるように思います。
日本は今、どちらかというと「こうしなさい」というパターナリズムは消えつつある印象で、「これこれこういう可能性があり、こんな選択肢があります。あんな選択肢があります。さぁあなたはどれを選択しますか？」というふうに、可能性と選択肢を提示したうえで「自己責任」による決定を押しつけ、医療者が責任を引き受けることを回避する風潮にあるように思います。
ですから保健所へ行っても、「指導」されることもなく、予防接種を受けさせていないことに関しても、「ご両親のお考えによるんですよね」の一言ですませられました。
「とにかく予防接種を受けろ」と言われるのもかないませんが、「あなたたちが自分で選んだことなんだから、どうなっても知りませんよ」と言われているような冷たさを感じたのも事実です。
「赤ちゃんの健やかな成長を願って（＝愛情をもって）、専門家として自分の意見を言う」ことが、今の医療（保健）現場では難しいと分かっていても、「世知辛い世の中だ」と思わずにいられません。
話が脱線しましたが。

ところでカナさん、満を持して！？ニーニャちゃんの離乳食が始まりましたね。
お粥をちっとも食べないそうですが、はい、こ初々さんもお粥はほとんど食べませんでした。
最近はお味噌汁の中に普通に炊いた米粒を混ぜて食べています。
（あるいは、テーブルの上に米粒をばらまいておくと、手づかみで食べる）
まぁ私もそんなにお粥って好きじゃないしなぁ。
こ初々さんやニーニャちゃんに好き嫌いがあってもおかしくないですよね。

それにしてもちゃんとやろうと思えば、離乳食作りというのは手間のかかるものだと思います。
幸い私が師と仰いでいる助産師さんの教えが、「手間かけんでええよ」というものなので、今まで「いかに手間を省くか」しか考えてきませんでしたが。
そう、せっかく手間ひまかけて作ったものをこ初々さんが食べないと、「せっかく作ったのに！」と思ってしまいそうですが、自分たちが食べるぶんにちょっと手を加えて「はい」と口に運ぶだけならば、たとえこ初々さんが食べなくても「えー美味しいのにもったいないなぁ」と思うくらいですみます。
「離乳食になるべく手間ひまかけない」というのは、生来のずぼらな性格によるものでありますが、同時に私の場合は自分の精神衛生の都合によるところも大きいです。
だいたい離乳食に限らず、生きた子どもという大自然を相手にして期待通りにいくことは稀なので、出来る限り自分の期待を増大させないような方向に自分を持っていくのが無難なように感じています。
そのためには「本来こうあるべき」というものを持たず、「子のため（だけ）に」という労力を省く。
少なくとも私の場合は、そのほうがハッピーでいられるようです。
また前回お話ししましたが、離乳食の開始というものが栄養学的に大した根拠のあるものではないということから考えると、離乳食の目的は「栄養補給」ではないのだろうと思うのです。
では一体その目的はどこにあるのか？
私は「食べるという営みに参加する準備」ではないかと考えています。
他者と食事を共にするために、赤ちゃんがこころもからだも準備を始める。
そのお手伝いが離乳食というものの本来の目的であるならば、「よーし君にも食べるということのシアワセをおすそわけしてあげよう。はい、あーん。」というスタンスで丁度いいのではなかろうかと、勝手に思っているわけであります。

さてさて、「看護のお仕事って、そのひとのためにえらく時間をかけてお粥を作って裏ごししても、でもちっとも食べないようなことの連続」というカナさんのご指摘がありましたが、私の短い臨床経験の中でさえ、そんなにがーい経験がゴロゴロとしております。
その人にとってのお粥の必要性を信じ、あの手この手を使って懐柔作戦を展開するわけですが、美味しそうなお粥の香りに誘われたり、お粥の必要性を理解してもらえることは稀で、まぁよくて「この人がこんだけいうんだから、ちょっと食べてみてもいいかな」と思ってもらえれば儲けもの、何をしても「食べないものは、食べない」という場合が多々あります。
つまり私たちは、その人の「食べる気」を無理矢理変えることは出来ませんが、根気づよく時間をかけてその人の「食べる気」に働きかけ続けることが求められるわけです。
その働きかけが功を奏すことがなくても、諦めずに待つことができるためには、どこかで「この人は、最悪の選択肢を選択する権利があるのだ」ということを頭に入れていないと厳しい。
お粥がどれだけその人にとって最高の選択肢で、健康を維持し、死期を遅らせるものであるとしても、その人はそれを選ばない権利がある、あるいは選ばないでいいという自由がある。
それは、私がーもっと言ってしまえば、人間がーどうこうできる領域のことではない。
そう信じていないと、働きかけが功を奏さなかった場合に、「何をしても無駄である」とこちらが一方的に関係を途絶させてしまうことになるんですね。（いわゆるバーンアウト）
しかし「最悪の選択肢を選択する権利があるのだ」と思っていれば、その人が最悪の選択肢を選択した場合、「まぁそれもやむを得ない。その中でまた最善を見つけよう。」というふうに、次の新しい関係性につながっていく。
それは赤ちゃんにしたって同じで、あの手この手を使ってもこ初々さんがお粥を食べない場合、「あらそうですか。ではまぁ、第二作戦にいきますか。」と思うようにしています。

えー、ところで「家庭内に資本主義と民主主義を持ち込まない」と家庭内で某超大国を全否定しているのはオットでして・・・
私はどちらかというと、経済的な生産性という尺度にずいぶんと縛られてしまってきたと思うのです。
それこそ、ある年齢層の、高等教育を受けている女性にかけられた、何かの呪いだと思うのですが・・・
しかしながらオットが「外で働くのも、家で働くのも、一緒」と言って、どんな労働に対しても「ありがとう」と声に出して言うのを忘れない、その一貫した態度によって私にかけられた呪いは少しずつとけていったのだと思います。
たぶん、この呪いをとくのは、一人じゃ出来なかったんだなぁ。
いや、今でも油断していると呪いに絡めとられそうになるのですよ。
でも少し呪いがとけて気づいたことは、経済的な生産性に対抗するために必要なものは、「自分ひとりという単位で物事を考えないこと。家族（あるいは組織）が円滑に営まれるために、今自分は何をすべきかを考え、相手に配慮し、相手の配慮に感謝しながら立ち働くこと。」だったんですね。
ですから呪いの影が忍び寄ってきたときには、「わたしが、自分が」というのをいったんおいておいて、「ありがとう、ありがたい」とつぶやくことにしています。
（そう思えない時には、言霊の力をかりるわけです）
そして民主主義に関しては、オットいわく「こども０票、とうちゃん１票、かあちゃん２票」だそうです。
これって体のいい絶対君主制？

しかし話は変わって余談になりますが、アイロンがけは私も苦手ですけれども（ずぼら＆不器用なので、端っこがちゃんとかけられなかったりすると、きぃぃぃ！となったりする）、お米とぎってどのあたりに「ドンヨリ」なポイントがあるのでしょうか？
何回すすいでも、水が透明にならん！とかかしら。

それにしてもまぁ、結婚して妊娠して出産して育児をすると、ずいぶんと色んなことが自分の中で変化していくものですね。
数年前の自分に会うのもハズカシいくらいです。

では！









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         <pubDate>Sun, 04 Nov 2007 17:29:36 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>赤ちゃんに振り回される日々のしあわせ</title>
         <description>大家さん、ご登場ありがとうございます！
居候ちゃんとふたり、手を取り合い（ほんとは会ったことないのだけど）、小皿叩いてチャンチキよろこんでます。
その脇でつかまり立ちし、（歩くこともまだ知らないのに）身体を揺らして踊るニーニャ（10ヶ月）と、こ初々さん（8ヶ月に、なった？）。
このふたり、写真で見ると、どうやらそっくりです。あいにく「美人姉妹」とかじゃなく、「掛布顔兄弟」なのですが。

初々さん、5年生存率の話、おもしろかったです。
この「私」にとって「生きるか死ぬか」は常に0％か100％、そうですね。
私はなんでも麻雀にしか喩えられないのですが、「ワンチャンス！（たとえば自分の手牌に三萬が3枚あったときの二萬。両面で待たれている確率は同じ牌全4枚中の1枚＝25％）」とあえて自分を鼓舞しながら叩き切る牌は、だいだいアタリ牌となっている（＝100％）ものです。
50％降っている雨、というのも、そういえば見たことありません。
自分の問題として引き受けるときは、雨が降ることに賭けて傘をもっていくか、きっと降らないさと決めてもっていかないかの、どちらかだけ。
確率（や「科学的」データ）は、自分が覚悟をきめる材料に過ぎないんですね。
手のなかで浮いている二萬を抱えて死ぬか、勝負に出るか。
1/607（0.0016％）のダウン症の可能性がある胎児を出産するか、しないか。（これは私の場合。スペインでは勝手に血液検査されちゃいました）
おっとこれからは、予防接種で重篤な副反応が出る確率なんかも、他人事じゃなくなるんですね。

ご存知のように、私はニーニャが10ヶ月になるまで（って、今月のことです）、離乳食を始めませんでした。
ちなみに離乳食の一般的なスケジュールは、果汁を4ヶ月から、穀物を6ヶ月から。
10ヶ月ではふつう、肉や魚も加えて1日3回食だそうです。
なのに半年過ぎてものらりくらりと母乳だけで続けていたことで、スペインの小児科医からは「母親失格！」って勢いで、ひどく怒られました。
（あと、6ヶ月から9ヶ月の健診まで一度も体重を量らなかったことでも）
日本の近しいひとにもけっこう心配をかけちゃったと思います。
というか、こうやって常識外れのことをしている私自身が、実はかなりドキドキしていました。
ひとに問われれば、「べつに私は、ニーニャに大きくなってほしいとか、すごく健康であってほしいとか、滑舌よろしくなってほしいとか、そういうのを望まない（ようにしている）し、いま見てて元気そうだから、いいんだ」と飄然としたかんじで答えていましたが、そのあとでひとり悄然としたりして。
初々さんが、乳児期の食事摂取基準は「6ヶ月頃より離乳食を開始するため」逆算してはじきだした数値に過ぎないと教えてくれて、ようやく気が楽になりました。
どちらにしろ傘をもって出ない覚悟だったけど、降水確率が80％から40％になった、そんな気分です。

■カルロス・ゴンサレスはこう云った：
「『（子どもの）食欲のなさ』とはつまり、子どもが食べるのと、家族がその子に食べてほしいと期待するのとの、バランスの問題なのです」

いま『うちの子、食べてくれないの。』というスペインの育児本を訳していると書きましたが、その本の最初の章で、カルロス先生はこう言います。
先日、はじめて離乳食（十倍粥を裏ごししたもの）をあげたとき、あまりに食べないのでびっくりしました。
まったく、ひと匙も。笑顔で断固拒否。（自分の意思で拒否できる月齢まで待った結果、とはいえ……）
そして、やってみて初めてわかったんですが、十倍粥の裏ごしって、作るのにえんらい時間がかかるんですね。
なのに、ちっとも食べない。翌日も食べない。そりゃもう笑っちゃうくらい。
「おいおい、ここまで手をかけたんだから、ちったあ食べてくれよー」と思うに至って、ハッとしました。
私の「食べてほしい」期待は、育児本などで否応なく目にしていた「目安」に、「自分の労働への見返り」まで加わって、かなり大きくなってた！
上の文章に、カルロス先生はこう続けます。

&gt; だからこの問題は、子どもの食欲が増大するか、まわりの大人の期待が減少するかすると、消えてなくなります。とはいえ、子どもがもっとたくさん食べられるようになるというのは、ふつうは（幸いなことに、なぜならおそらく危険だから）不可能です。なので、私たち大人の側の期待を、現実に近づけるかたちで小さくしよう（というのが、この本の狙いです）。

そりゃそうだ。
言われてみればもっともな話だし、子どもとの接し方として、悪くないスタンスだと思いませんか？

ところで初々さん、看護のお仕事って、「そのひとのためにえらく時間をかけてお粥を作って裏ごしして、でもちっとも食べない」ようなことの連続なのかなあと想像します。
しかも相手は乳児じゃなくて大人だから、「あなた、食べる気になれば食べれるでしょう？」ってケースまであるんだと思いますし。
そういうとき、いったいどうするんでしょうか。
ああ、こうやってちょっと想像しただけでも、私には到底我慢できない、忍耐力（あるいは人間力）勝負な職場に思えます……。

それと、お粥の裏ごしのような地味な作業をしていると、私はつい、それを必要以上に「尊いもの」と思ってしまう癖があるようです。
食器洗いでも洗濯物畳みでも、とくに主婦の仕事に多いと思うのですが、「誰も評価してくれない『労働』」→だから／だけど→「私の無償の愛により」やっているのよっ！　って。
「フッフーン、私はこれがしたくてやってるんだー」と、いつも朗らかに鼻歌交じりでアイロンかけれればいいのですが、あいにく、アイロンがけとお米研ぎは、なにかの呪いかと思うくらいにすごく苦手なんです。
うん、たぶん、なにかの呪いがかかってるんだと思います。
等価交換の呪い、かなあ。
だいたい、「無償の愛」の意味が、考えるとわかんないですよね。
「有償の愛」なら、いったいどうだというのだろう？
月末にツレアイから「お手当て」を渡されたら、アム・アイ・ハッピー？　そんなバカな。
家庭には資本主義と民主主義を持ち込まない、という初々さんの「やり方」、よろしければ、ぜひ教えていただきたいです。

しかしまあ、ほんと、赤ちゃんに振り回される日々ってのは、なんて自由で爽快なんでしょうね！

かしこ


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         <pubDate>Tue, 30 Oct 2007 11:29:56 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>長屋の一間に居候が・・・</title>
         <description>さま

先日はさっそくのアップ、ありがとうございました。
今回は、噂のニューカマー・初々さんからの文章です。
「手をつなぐと、自分にある中心軸がつないでいる手の上にずれる感じ」がする。
そういうビビッドな肉体をもつ彼女、きっとあちこちにつながる素敵な文を届けてくれると思います。
どうぞ、よろしくお願いします。
（って、大家さんに事後報告でごめんなさい）

先月、2年ぶり（夫は4年ぶり）に帰国したのですが、短い日程で互いの実家をまわる「孫見せ興行」に終始してしまいました。
（実家では海外在住の親不孝な子どもの家族のため、畳を総入れ替えして歓待。ヨヨヨ）
次回、少し余裕ができたら、生ハムとチーズをかついで、神戸にお届けに伺いたいです。
といっても、内田さんがリタイア後の方が、お時間あるかもしれないですね。

ちなみに往復エールフランス便で、ギャレーで「ここのお水いただいていいですか」と形式的に訊いたら「ノン」と笑顔で答える（そしてお水を注いでくれる）ようなフライトアテンダントさんたちから、至極人間的なサービスを受けてきました。
（機内食は、あまり「人間向け」とは思えませんでしたが）
日本人クルーが「フランス人はフランス語しか喋らない」とこぼす一方、フランス人クルーが「スペイン人はスペイン語しか話さないので困る」とこぼしていて、なんだかおかしかったです。
ところで隣国ポルトガルは、道路標識も英語併記で、街でもけっこう英語が通じるんですよ。
辺境ではかえって標準語になる、と、たしか対馬を例にとって宮本常一が述べていたことを思い出しました。
（元の「本家」スペインの言語を使うことへの嫌悪感も、たしかにあるんですが）

デハデハ。

（大家より：はい、以上が長屋の住人カナさんからのご紹介でした。以下、このたび長屋の一隅の｢スペインの間」に居候されたういういさんです。こんにちは。どうぞよろしく。大家のうちだです。長屋の連中は気楽な人ばっかりですから、どうぞのんびりしてってくださいね。長屋の奥には持仏堂もありまので、一度お参りにもいっておいてください。ときどき老師が来て、お掃除なんかしてますから。そのときには法話も聞けますし。では～）


みなさま、はじめまして。

カナさんの長屋にしばらく居候させて頂くことになった初々（ういうい）です。

カナさんのご紹介にありましたように、現在７ヶ月になる娘のいる、一応職業ナースになります。

しかしナースであるとはいえ、これまで主に「人生の本質的な大問題を抱えちゃったぞ」という大人たち、あるいはちょっぴり人間関係が苦手で生きづらさを感じているような大人たちを相手に仕事をしてきていたので、「２４時間、赤ちゃんのお世話」なんて生まれて初めて。「

看護師さんなら、赤ちゃんのことはだいたい分かるでしょう。」と周囲の人には思われているようですが、そーんなことはちっともなく、赤ちゃんのちょっとしたことで「これは一体どういうことだ！？」とオロオロするあたりは、ほかの新米お母さんたちと何も変わりがありません。

ただ「ひとの、お世話をする」という点においては、大人も赤ちゃんもそう変わらないことも多く、これまでの経験や看護の知識、技術といったものに私自身が助けられ、「赤ちゃんのいる暮らしはいいなぁ！」と思える日々を下支えしてくれているような気がします。

「エビデンス（科学的根拠）に基づいた」正しい知見を提示する自信はありませんが、日々赤ちゃんと向き合っているお母さん、お父さんたちが「赤ちゃんのいる暮らしはいいなぁ！」とよりいっそう思えるように、あるいはこれから赤ちゃんを授かり育んでいかれる方々が、「赤ちゃんのいる暮らしって、何だかいいものみたいだぞ」とわずかでも感じ取ってもらえるように、何かしらお役に立つことができれば・・・そんなことを願いながら、カナさんのお引っ越しにちゃっかりついてきてしまった次第であります。

今後ともどうぞよろしくお願いしますね。


さてさてご挨拶はほどほどにして、本題へ・・・


「赤ちゃんは文明化の埒外にいる」

それはまさに、私の友人の言葉をかりると「赤ちゃんは、大自然」。

大人の社会の都合とは関係のないところで生を営み、大人はその営みをコントロールすることなど出来ず、ただただ合わせるしかない、という意味において「大自然」。

これまで高度に文明化された社会で、生活から仕事からあらゆる事柄を自らマネージしてきた（つもり）の「自立した（健康な）大人」がおそらく初めて触れる「どうにもマネージできない、大自然」です。

当然文明化された社会のルールは通用しませんから、大自然のリズムに合わせた新しい暮らし方にシフトしていかなければなりません。

つまり、昼夜問わず泣いておっぱい飲んで、おしっこしてうんちして眠る、その（赤ちゃんという）大自然のリズムに合わせて、大人の生活を再構築し直さなければやっていけないということです。

そのためには、大人の社会の都合をいっさいがっさい忘れて、赤ちゃんという大自然とともに生きる。

しかしながらそれが一番楽であり正解であるということは頭では分かっていても、実際にはなかなかムズカシイ。

なぜならこれまで文明化された社会で、自分の都合に合わせて周囲をマネージしてきた癖が抜けないからです。

赤ちゃんのリズムに合わせるのではなく、自分の都合で赤ちゃんのリズムを変えたがってしまうんですよね。

例えば夜にたっぷり眠っておくれよ、と願ってみたり、用事をしている間は寝ていておくれよと思ってみたり。

そう思ったり願ったりしてみたところで叶うことではないですから、「思い通りにならない！」とイライラはつのるばかり・・・それではお互いにしんどい。

そこはやはりムズカシイとはいえ、自分の都合、大人の社会の都合を、いったん「えいやっ」と別の場所に置いて、自由になってみる。

そうしてみると、ことのほかハッピーな自分がいることに気づくんですね。

自分の都合をいったんうっちゃって自由になり、自分以外のリズムで生きてみると、今までのように「わたしが、わたしが」と言って自分のまわりをぐるぐるとまわる必要がなくなる。

結婚をした時にも同じように思って、「あぁ心地いいなぁ」と感じたものですが、子育てをしてみると余計にその心地よさを実感することになったのです。

これが「本物の自由」かどうかは私には分かりません。

しかし一般的には結婚や育児が「不自由」と捉えられる風潮がある中、私はむしろ「それは、自由への入り口だよー」と声を大にして言いたいなと思っています。


ところで話は全く変わりまして、カナさんが言及されていた「専門家」への信仰に関して。


これは日本に特有なことなのかどうかは分かりませんが、何か重大な（致死的な）病気が見つかった時によく患者さんが口にする言葉で「あとどれくらい生きられますか？」というものがあります。

実際ただの人間である医師に、「目の前にいるこの人が、いつ死ぬか」という答えを出せるはずがないにも関わらず、です。

おそらくそのような問いが出てきてしまう背景には、科学への過信があるのでしょう。

今のこの病状でどのくらいの勝算があるのか、科学がそろばんをはじいて答えを出してくれる。

意識はされていなくても、そのような思い込みがあるのかもしれません。

しかし、がんの治療成績などで使われる「５年生存率」というものひとつとってみても、「私が生き残る可能性」を示すわけではないことが分かります。

「５年生存率」というのは、「私が５年後に生き残っている可能性が何％か」というものを示すのではなく、「同じ病気の人１００人が５年後にも生き残っている割合」を示すにすぎないのです。

ですから５年生存率６０％といわれても、「私が生き残る可能性は６０％」では決してない。

ほかの誰でもない「この私」にとっては、生きるか死ぬか、１００％か０かしかないのです。

当然生身の人間が「６０％生きている」なんていうことは起こりえません。

科学は、唯一無二の私が生き残る可能性について答えを出すことは出来ない。

「科学とは、そういうものだ」と思っていたほうがいいように思います。

そしてそれは、子育てに関しても言えることです。

授乳や離乳、赤ちゃんの発育に関して様々な言説がありますが、それらが依拠しているであろう科学的根拠は果たして「目の前にいる、私のこの赤ちゃん」に関して答えを出してくれているのだろうかと考えてみる必要がありそうです。

例えば離乳に関して。

「母乳では栄養が不足してくるから、６ヶ月頃より離乳を開始する」というようなことが言われているようですが、果たしてその根拠は何なのか？

蓋をあけてみるとびっくり。

乳児に必要な栄養（食事摂取基準）というのは直接計測できないため、「健康な赤ちゃんが飲んだ量」で数字をはじき出しているのです。

そして乳児期の食事摂取基準は０〜５ヶ月と６ヶ月以降とに分かれているのですが、それは「６ヶ月頃より離乳食を開始するため」。

つまり赤ちゃんに必要な栄養を運動量や代謝量から科学的に算出し、それが母乳だけではどれだけ不足するのかを計算したうえで「６ヶ月から離乳開始」と言っているのではない。

ましてや「目の前にいる、私のこの赤ちゃん」が必要とする栄養を科学的に明らかにして、離乳の開始時期を提示することなど出来ないのです。

結局これらのことから導き出される結論としてまっとうなのは、「赤ちゃんが飲んだり食べたりした量が必要量なのね」ということです。

とどのつまり、極端なことを言ってしまえば、「赤ちゃんにとって必要な栄養は、赤ちゃん自身が知っている」。

しかしながら赤ちゃんは自分だけで必要な栄養を取り込む（おっぱいを飲んだり、離乳を始めたりする）ことはできませんから、赤ちゃんが必要なものを赤ちゃんが取り入れられるように環境を整えてあげなくてはなりません。

その環境を整えて、様々な工夫をしてもなお「赤ちゃんが食べない」のであれば、きっとそれは今の赤ちゃんにとって必要がないのでしょう。

そうやって赤ちゃんと、自分自身のことをちょっぴり信じることが出来ると、ずいぶんと気持ちが楽になれるような気がします。

なんて偉そうに言っている私も、「お友達の赤ちゃんはあんなにたくさん食べているのに、なんでうちの子は・・・栄養たりているのかしら！？」なんて慌てたりします。

そうやって気持ちがゆらゆらと揺れながらも、最終的に「まぁ私もやれるだけのことはやってるし。あとは赤ちゃんの言うことを信じてみよう！」というところに落ち着ければいいな、というくらいに思っているのです。</description>
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         <pubDate>Mon, 15 Oct 2007 09:22:01 +0900</pubDate>
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         <title>赤ちゃんは野生のかたまり</title>
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前回の話、アンダルシアの中心地セビージャを拠点に約20年間フラメンコを見続けている志風恭子さんに訊いてみた。
ホアキン・コルテスからジャパン・ツアーのアテンドに指名されるなど数多のアーティストから絶大な信頼を受け、また現在は同地の大学院でフラメンコ博士号取得を目指す彼女の意見は、「まちがってると思う」。ありゃ。
ソレアの12コンパスはアクセントの位置なのだが、「あんたがたどこさ」はそもそもリズムがスルー、もしくはジャナ、つまりアクセントがないのだそう。
今度詳しく話を聞くことにしたので、続きはまたその後で。
ちなみにフラメンコ人からのみならず、在スペイン日本人からも絶大な信頼を寄せられる、グレイト姐御肌な別嬪さんです。
（以前彼女に取材したコラム<a href="http://www.norari.net/spain/072502.php">http://www.norari.net/spain/072502.php</a>）

というわけで、今回はガラリ変わって育児編を。
あっ、ニーニャ（娘、10ヶ月）は、アホみたいに元気です。
最近は物を落としてはニヤリと悪い顔してこちらを見るなど、いよいよ人間みたいになってきました。
かわいいです。

本家ブログで育児のことを書いている。
と、思いがけず、たくさんコメントをいただくようになった。
経験者の金言、いままさに経験中のひとの共感、そして隣を歩く