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スペイン歴史事始

トレドという古都がある。マドリードの南80kmくらいにあって、まぁ、奈良とか鎌倉みたいなものだ。大仏はないけれど、16世紀にエル・グレコが描いたままの街並がそっくり残っていて、旧市街全体が世界遺産に指定されている。

 この街の建築物が、かなりおもしろい。たとえば、「光のキリストのメスキータ(イスラム教寺院)」なんてのがある。まるで「阪神ジャイアンツ」的な矛盾に充ちた名前で、それだけでもドキドキするのだが、建物そのものも負けてはいない。
 上から見るとカップケーキの断面というか前方後円墳のようなそれは、前半分が四角形のイスラム様式の寺院、後ろ半分が半円形のキリスト教教会。で、それを支える土台は、西ゴート族が立てた柱だったりするのだ。
 また、こんな例もある。12世紀に建てられた寺院。ここではかつて、金曜日にはイスラム教徒が、土曜日にはユダヤ教徒が、そして日曜日にはキリスト教徒が、交替で礼拝をしていたという。そういやたしかにこの「親戚」3宗教って、礼拝の曜日、違うわ。

 やたらに様式が入り交じったトレドの寺院に入ってぽけっとしていると、なんだかとても落ち着いた気分になる。
 ラ・マンチャの強烈な太陽を遮る柱の濃い影の中に身を滑り込ませつつ、「あぁ、だからスペインって好きだなぁ」と、つくづく思うのです。

 んでは、第2回目のレポートを。


■アンヘラ・レドンドはこう云った:
「スペインは対照的な文化の交差路にあるのです」

 アンヘラは、地理の先生。黒板に、ゴルフのパターのヘッド部分を横から見たようなスペインの地図を書き、その上から縦横にでーっと線を引いた。そうして曰く。
 ご覧なさい。北はヨーロッパ、キリスト教世界。南はアフリカ、イスラム教世界。東は地中海のローマ世界で、そして西は新大陸アメリカ。スペインは、その交差路にあるでしょう。

 たしかに8世紀から約800年にわたってイスラム教国の支配を受けた国、なんて、由緒正しきヨーロッパにはない。
 皇帝ナポレオンが「ピレネーの南は、ありゃアフリカだね」と言ったというのは有名な話。まぁそのおかげで、イスラム建築の最高傑作といわれるアルハンブラ宮殿も、スペインにあったりするのだが。
 一方、あくまでプロテスタントを認めず、新大陸で得た巨万の富をつぎ込んで、カトリックの牙城としてガリガリ戦争を続けていたのもスペイン。
 実は「陽の沈まぬ帝国」時代に、4回も破産宣告をしていたりするし。儲けたのは、ドイツの銀行家ばかりなりよ。あぁあ、バッカだなぁ。

 その「宿痾」カトリックが入ってきたのは、ローマ時代。この時期、「ローマ帝国領土の端にある、世界の食料倉庫」であったスペインは、他の国ではちょっと見られないほどの、猛烈なローマ化を成し遂げたんだよね。
 だいたいそれ以前も、文化の出ずる土地、オリエントのピラミッドやスフィンクスに思いを馳せて、似ても似つかぬコピーものを作っていたくらいだし。

 どうもスペインってば、ピレネーの向こう、あるいは地中海の奥の方に、切ないまでの憧れを抱いているらしい。


■オルデン・ヒメーネスはこう云った:
「スペイン人が『ヨーロッパ』と言うとき、その『ヨーロッパ』には『スペイン』が含まれていない」

 オルデンは思想史の先生。セネカやアベロエスと同じコルドバ出身であることに、異常なまでの誇りをもっている。(いや、郷土愛がすさまじいのは、スペインではよくある話だ。うっかり隣の町を褒めたりしたら、一生恨まれたりする)

 彼が言うには、新聞でよく見受けられる表現(「ヨーロッパでは喫煙率が/チョコレートの消費量が……、一方でスペインでは……」)に顕著に見られるように、スペイン人は自分のことをヨーロッパ人だとは見做していない。
 ちなみにクラスメートのイタリア人やフランス人、そしてたぶんドイツ人やオランダ人は、そんなことはないらしい。
 では、なんだと思っているのか。「マルヘン」(縁)の国である。

 ちょうど、アジアの縁に位置し、視線を思わず太平洋の方面に向ける日本と、どこか似ているかもしれない。たとえば「アジアでは自動車の保有台数が」というとき、そこに日本は含まれているだろうか?


■オルデン・ヒメーネスはこうも云った:
「スペインの哲学が独自の発展を遂げた、2つのターニング・ポイントがある。ひとつは711年、もうひとつは1492年」

 711年、アラビア人がジブラルタル海峡を渡り(だって、たったの14kmしかないのだ)、アフリカ大陸からスペインに大挙押し寄せて、ここにイスラム教国を作った。
 有名な話なのだけど、これによって、当時のヨーロッパ社会ではすっかり忘れられていたギリシャの思想(アリストテレスの書物など)が、同じくイスラム圏内だったエジプトを経てもたらされることになった。
 はじめにアレクサンドリアのムーセイオン(学問研究機関)でアラビア語訳されたものが、スペインはトレドの翻訳学校でラテン語に訳される。それがヨーロッパに「再輸入」されることで、中世キリスト教社会の主流となるスコラ哲学を生んだのだ。

 「マルヘン」だからこそなしうる美技、かもしれない。パチパチパチ。

 ほかにもアラビア文化はスペインに、米とサフラン(こうして今日の名物料理『パエージャ』が完成)や、高度な建築技術(こうしてアルハンブラ宮殿が完成)や、漆黒の瞳と髪を持つものすごい美人(こうしてペネロペ・クルスも誕生)などをもたらした。
 もたらされつつも、「あぁ、これでヨーロッパじゃ、なくなったなぁ」と、たまに窓辺でため息をついていたのかもしれない。なんせ、この間までスペインはローマ帝国の一翼を担っていて、五賢帝のうちのふたりを輩出したりしていたのだから。


 一方の1492年は、コロンブスが新大陸を発見した年。自分が世界の西の果て(ギリシャ神話のヘラクレスも、ジブラルタル海峡に、世界の端を示す柱を立てたらしいし)に位置するんだとずうっと思っていたら、それより西にどどんとどでかい大陸が現れた。
 地図が、書き換えられる。OH! 俄然、スペインは世界の中心になったのだ。

 植民地って、どうしたらいいのだっけ? スペインはかつて自分がローマ帝国にやられたように、奴隷や黄金や食物を奪い取った。実際に当時、「俺たちは、ローマ帝国に盗られた黄金を、いま取り返しているだけだ」と言っていたともいう。わざわざ言うということは、ちょっとはうしろめたかったんだろう。
 そしてしばらくして、少しだけ、人間に普遍の権利というのを考えるようになった。やはり、ちょっとうしろめたかったんだろう。
 んで、ローマで万民法が生まれたように、人類初の(←まぁスペイン人が言うことなので)ヒューマニズム思想が生まれ、これがヨーロッパに紹介されて、国際法の概念が提唱されるに至る。

 しかしスペインは、ひとりぼっちになった。
 お隣フランスで革命が起こっても、ナポレオンが負けてウイーン会議が開かれても、スペインは国内でしこしこ異端審問で火あぶりなんかをしていた(異端審問所の廃止は1834年)。
 そんなだから、第一次世界大戦にも、第二次世界大戦にも、実は参加していない。そしてご存知のように、約40年に及ぶ、フランコの独裁である。

 「スペインは長い間、ヨーロッパどころか『世界』の一員でもなかったのだよ」 そう、オルデン先生は唇を噛んだ。


 スペインの国際社会復帰は、1982年のNATO(スペイン語ではOTAN「オタン」、あぁここでも独自路線が……)加入をもって語られることが多い。
 それから20年超、だ。
 いまのスペインは、鎖国が終わった興奮さめやらぬ明治時代末のようなものかもしれないし、国連加盟を果たし経済成長も成し遂げた80年代初期の日本のようなものかもしれないし、あるいはそういう比較はなんの意味もないのかもしれない。

 ただ、なんていうか。
「いやもう、ひとりじゃないからさぁ。『トラウマ』とか忘れちゃえよう」と言って、ぎゅうっと抱きしめたいような、そういう気分に、時々なるのでした。
 愛しいなぁ、つくづく。

コメント (1)

加藤:

最近、北マリアナ・コモンウェルス(要するにグアムとサイパン)の歴史を勉強したのですが、この島々には黄金なんか無かったのに、それでもスペイン人がやって来て悪の限りを尽くしたと書いてありました。そのせいでもともとこの島々に住んでいたチャモロ人が激減して、カロリン諸島からカロリニアンを移民させざるをえなくなったとか。あんまりスペイン人がチャモロ人を殺しまくるので、チャモロ人の女性は子供を産んでもスペイン人に殺されるだけだと悟り、ますます人口が減ったとか。あんまりスペイン人がチャモロ人を殺したので、もはやチャモロ人だけでは人口が維持できなくなり、スペイン人との混血のチャモロ人が殆どになってしまったとか。悪の帝国といえば、昔スペイン、今アメリカでんなあ。アメリカもスペインみたいにいつか枯れてくれるんだろうか。

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Octubre 18, 2005 6:37 PMに投稿されたエントリーのページです。

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