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スペイン現代史2倍速論


スペインでは日本の2倍の速度で歴史が動いている。
1999年から足掛け10年この国にいて、漠然とそう感じていた。
たとえば乗用車。
来西当時は、サイドミラーの欠けた(ままの)車なんてそこらじゅうを走っていた。
落ちかけたナンバープレートやマフラーを針金ぐるぐる巻きにして釣ったり、割れたヘッドライトをガムテープで補修しているのも、しょっちゅう。
「最強さん」は、片方のドア全面を段ボールで代用(ちゃんと窓の部分は開けていた)。
「ああヨーロッパは、車は『走ればいい』という感覚なんだな」と、浮ついた世紀末の消費大国ハポンから来た私は、深く感じ入ったものだ。
しかし数年前から、段ボールはおろかサイドミラーの欠けた車も、魔法のように姿を消した。
「郷に入れば」と、割られたヘッドライトを透明ガムテープで補修していた我が家の中古のプジョー306(当時)が、やたらみすぼらしく見えるようになり。
ふと見渡せば、それまで休日に父親の古いフィアットにぎゅうぎゅう詰めでドライブしていた若者たちが、新車のシトロエンの小型車のコンパーチブル・タイプをひとりで乗りまわし。
スペイン的に「中の下」あたり、移民が約半数の住宅街にある我が家の近所にも、平気でBMWが路駐してあったりする。
嫉妬から、車のメーカーを示すエンブレムが盗られる悪戯も、激減した。

2008年秋の街を走る車は、みんなピカピカ。
いま日本から来てこの光景を見たとして、とくに違和感を抱くことはないだろう。
現在の日本とスペインには、おそらく同じ時が流れている。
グローバリゼーションという名前のものか、バブル後という名前のものか、よく知らないけど。
しかし1999年のスペインにはたしかに、日本から来たばかりの私に「懐かしい」と感じさせるような、「日本の少し前の光景」があった。
デジタルや一眼レフのカメラは憧れの対象で、マドリードでも田舎の路線バスに乗れば行商の荷物を担いだおばちゃんが乗り込み、市場の勘定では端数を計算せず、携帯電話はあまり見かけず、若者にとって飛行機に乗るのはけっこうなイベントで……。
感覚的には私が小学校・中学校の頃、つまり「修学旅行の自由時間に竹下通りのタレントショップに寄ってからクレープの行列に並ぶ学生の靴下のかかとにはお母さんが当てた継ぎの跡」という雰囲気が濃厚な、1980年代。

そんな根拠ない思い込みを勇気づけてくれるような言葉に、『ことばの政治学』(永川玲二、筑摩書房)で、出くわした。
英文学者で『ユリシーズ』の訳者としても知られる著者は、フランコ治下の1970年から(何度かの帰国を挟みつつ)約30年にわたりセビーリャに住んでいた。
1979年発行のこの本では、フランコ死後のスペインの雰囲気を、日本の敗戦後になぞらえている。(はずなのだけど、該当箇所をいまは見つけられず)
やっぱり!?
これで私の「スペイン現代史2倍速論」が、現実味を帯びてきた(かもしれない)!


日本、1945年敗戦。スペイン、1975年フランコ死亡。
ともかく全体主義の時代が終わり、「現代史」がはじまる年号。
いま私たちのいる2008年から逆算すると、日本の現代史は63年、スペインのそれは33年となる。約半分。

日本は1956年、国連加盟。
背景には、冷戦下で西側陣営メンバーとしての役割の増加を期待するアメリカの思惑があったとするのが、高校社会でも常識。
一方スペインは1981年、NATO加盟。
もちろん親分はアメリカ。そして正式加盟以前から国内に米軍基地があったのは、日本と同様。
ともかくアメリカに利用されかつ利用するかたちで「敗戦国」「村八分」な国が晴れて「国際社会」に正式復帰するまで、日本は11年、スペインは6年。
ほら、約2倍速。

そして、現代に欠かせない「国威発揚イベント」、オリンピック開催。
東京オリンピックと新幹線開通は、1964年。そして大阪万博が1970年。私は年表でしか知らない事項、数えると敗戦から19年後と25年後。
一方スペインでは、これらの3つのイベントがすべて同じ年に行われている。
1992年、バルセロナ・オリンピック開催、(実に大阪万博以来の規模となる)セビーリャ万博開催、そしてマドリード-セビーリャ間の新幹線開通。フランコ死後17年。
あらら、ちょっと遅れてるぞ?
私の勝手な計算によると、日本で敗戦から19~25年後に国威発揚イベントが行われたなら、スペインのそれはフランコの死の10~13年後、1985~1988年に行われていなければならない。
フランコ時代からスペイン・スポーツ政治界のドンであったサマランチがIOC会長に就任するのが1980年、なんとかなりそうなものなのに。

なにか見逃したところがあっただろうか。
すみませんがスペイン現代史の復習、つきあってください。
フランコ死後の1977年、ついで1979年の総選挙でともに勝利を収めたのは、右でも左でもない、あえて言うなら「国王寄り」の民主中道連合。
1981年1月、この民主中道連合を率いて、国王と二人三脚でスペインの「フランコの亡霊を呼び起こさないような」民主化に腐心してきたスアレス首相が、党の内紛に匙を投げるかたちで突如辞任。
翌月、国会のテレビ中継中に轟いた「座りやがれ、マ○コ野郎!」の一言で久々の軍事クーデター勃発。国会議員全員を人質に、マドリードとバレンシアが軍に制圧されるが、深夜、国王がヒーローとなるかたちで収束。
この年の、いわば「政治的空白」の合間に、すでに申請していたNATO加盟が正式決定している。
そして翌82年の総選挙、NATO脱退を公約に掲げた社会労働党が第一党に踊り出る。
…あっ!

さっそく娘の保育園ママ友で、当時マドリードで学生だったエバに訊いてみた。
「うん、NATO加盟にはみんな反対してたわよ、米軍基地周辺で大規模なデモもあったの。で、NATO脱退を約束した社労党が圧勝したでしょ? そしたらフェリペ・ゴンサレス新首相が方針転換するじゃない。もう世論沸騰、怒り大爆発よ。それでたしか国民投票があったのよね。あれ? それでNATO残留にYesという結果になったんだっけ?」
問われたのは、エバのダンナさんで、より年長のペドロ。
「そう。首相が必死で説得したんだよ。スペインのEC加盟を実現するには、どうしてもNATO残留が前提となる、理解してくれ、ってね」
「あっそっか、それで。でも、本当に賛成派が多数だった?」
「ほぼ同数で、辛うじて賛成派が勝ったんだよ」
「ほんと? なんか信じられないけど」

ともかくスペインにとって真の「国際社会復帰」を意味するのは、EC加盟だった。
あくまで、海の向こうの新大陸で新興国アメリカの傘下に入ることを意味するNATO加盟ではなく、ローマ帝国時代からの同胞たちであるヨーロッパの一員と認められること、ということか。
いや、そんなうがった見方をしなくても、実際に関税の面などでヨーロッパの一員と認められるかどうかは、「死活問題」といいたいほど切実なマターだったらしい。
フランコ時代に行った加盟申請は、当然ながら、独裁体制を理由に拒否されている。
その死後にともかく申請は受理されたものの、加盟が認められるには至らない。
早く国際社会の一員に! ヨーロッパのフルメンバーに!
スペインはNATO残留という「苦い薬」をも嚥下することを選び、社労党政権のもとでもうクーデターを起こすこともなく、EC加盟の条件とされた「自由体制」「経済安定」などに全力で取り組む。
こうして1986年、隣国ポルトガルとともに、晴れて「悲願の」EC加盟を達成。
フランコの死から11年後ですな。
おっと、日本の国連加盟までと同じ年月だったか。
国際社会復帰は1日にして成らず?

この時期、スペインの成長を見越した外国からの投資、さらにEC加盟国としての援助金による後進地域開発などで、スペインは飛躍的な経済成長を開始。
その「打ち上げ花火」が、6年後のオリンピック&万博&新幹線だったわけだ。
当然のように、「祭りのあと」翌1993年からは経済が停滞。
前年に開店するはずだったバルセロナそごうが、この年、選手村跡の巨大施設にオープンしたものの、96年には撤退していることが、当時の状況を象徴している。
そして「風が止まった」ことで、長期間政権の座にあった社労党内部の腐敗が表面化。
ついに次の1996年の総選挙では、フランコの流れを汲む右派の国民党が勝利する。
局面打開を図る国民党新政権が採った政策は、英米へのあからさまな追従。
これが8年後、彼ら自身の首を締めることになるのだが、それはともかく。

幸運なことに、バブル崩壊後に「失われた10年」を経なければならなかった日本とは異なり、EC加盟を果たしたスペインには、世紀末にスペシャル・イベントが待ち受けていた。
ユーロによる通貨統合。
ここに「スペイン急に総成金化」のからくりがあることを指摘したのは、我がツレ。
夕食の折、いったいいつから街をゆく車がピカピカになったかね、と話すともなく話していると、「そりゃ2002年だよ」と即答。
なんで?
「だって2002年元旦から一般に流通するのもユーロになるからって、みんな裏金で貯めてたペセタでじゃんじゃん車買ってたじゃん。マンションとかも」
そうやった。
そんな「活気」もあり、ユーロ導入後にEU諸国、とくに主要国を中心に経済成長が伸び悩むなか、スペインはギリシャと並んで、EU平均を大きく上回る順調な経済成長を続けた。
土地の値段がぐんぐん上がる。バブルのはじまりだ。
古い住宅街は均され、安っぽい新築マンションが立ち並ぶ。
市内中心部、スタジアムのすぐ隣にあって毎日ファンが練習を見に押しかけていたサッカーチーム「レアル・マドリー」の広々とした練習場も高値で売却され、4つの超高層ビルの建設が始まる。
一方で、新築ラッシュとはいえ多くが転売目的で購入されるため、居住用のマンションが不足し、「人間のいない住居、住居のない人間!」という抗議行動も盛んに行われた。
「ああこれは、いつか見た光景」。1999年当時に感じた温かな懐かしさとは別の意味で、私は寂しく砂塵舞い上がる街を見ていた。

そんな浮かれ調子に冷や水を浴びせかけたのが、2004年のアルカイダによるマドリード列車爆破テロ。
直後の総選挙で「殺人犯より泥棒の方がまし」と、政権がふたたび社労党のもとに戻る。
そして、テレビの朝のCMが消費者金融に席巻された2007年半ばを境に、ついに土地価格が下落。
現在は工事を中断した建築現場が、あちこちに放置されている。
スタジアム売却のタイミングが一歩遅れたサッカーチーム「バレンシアF.C.」も、深刻な資金難に陥っているらしい。

スペインはこの30余年で、日本が戦後60余年をかけて経験した「経済成長、オリンピック・万博・新幹線の打ち上げ花火、不況、バブル、その崩壊」を、やはり「2倍速」といいたい駆け足でたどってきた。
私が見た10年は、日本の80年代から今日までの20年にあたりそうだ。
経済的には、ね。
政治的にはしかし、「日本では見たことのない」新鮮なことも多かった。
そのひとつが、「お隣さん」への信頼感。
「EU」という「世界とスペインのあいだ」の共同体があり、「お前が倒れると共倒れ」とばかりに優良なお隣さんたちが(下心もあっただろうけど)手を差し伸べてくれる、その安心感が、とくに通貨まで統合された後のスペインにはある。
以前も使った比喩だけど、今日のEUは、個々の店同士は競争相手でも全体としては一致団結して生き残りを図る商店街、のようなものだろう。
テロ直後の総選挙で勝利を収めたサパテロ現首相が、「イラク撤兵」という、当時の世界的な世論や力関係からするとけっこうハードなオプションを採りえたのも、そんな「ご近所さん」がいたからに違いない。
実際に彼が就任直後に訪れた国は、モロッコ、ドイツ、フランスだった。
(おかげでブッシュからは無視され続けたけど。というわけでスペイン市民はオバマの勝利を心から祈っていた)

しぶとい商店街と、傾きかけた巨大スーパーと、日本は……できれば老舗の専門店であってほしいな。町工場とか。
さあてこれから、みんなで未知の道のりだ。

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Noviembre 20, 2008 10:32 AMに投稿されたエントリーのページです。

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