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ニーニャ、言語を習得中

■ 湯川ニーニャはこう云った。「トマママ」

これが、娘が発した最初のいわゆる「二語文」だった。私に洗濯バサミを差し出しながら、"Toma, mama."(tomar=「取る」の二人称命令形「取って(→どうぞ)」+ママ)、まったくのスペイン語。「ママ」だって、アクセントが後ろにつく「マ・マー」(スパゲッティー、じゃなくてスペイン語)。
1歳から現地の保育園に通っている。そして、周囲のスペイン語人は日本語がわからないが、周囲の日本語人(概ね親)はスペイン語がわかる。以上の2点から、日本語人の私の娘の「マザーランゲージ」は、すっかりスペイン語ベースになった模様。
私が、「信号が青になったら教えてね」と(日本語で)言う。変わった信号を指差して、娘が嬉しそうに叫ぶ。「みろり!」 信号の色は"verde(緑)"だと、先にスペイン語で認識してしまったらしい。それを日本語に直訳する、だから彼女の信号はぜったい「青」にならない。が、信号を示して言う「緑」、それはけっして日本語ではない。

「これ、なーに?」と浦島太郎の絵本を指差せば、「ウナ・カメちゃん!」。亀=tortuga=女性名詞→不定冠詞も女性形・単数でuna。おお、ピンポーン! ……じゃなくて、日本語に冠詞はありません。でも彼女はおそらく「名詞だけを答える」のがすごく気持ち悪くて、なのに対応する日本語の単語を知らなかったから(ないもんね)、この「空白部分」にスペイン語をそのままスライドさせて使ったのだろう。しかし、冠詞がないともう生理的に「気持ち悪い」、のだとしたら、娘の「世界」って……。
日常のあらゆるシーンで、多くの感嘆詞(的なもの)がスペイン語そのままで発せられる。プレゼントの包み紙をその場で「ア・ベール、ア・ベール(どれどれ)」とびりびり破って開け、出てきた積み木に「ケ・チュロ!(いかす……が近いのだが、死語?)」。その積み木を親友ディエゴと取り合いケンカすれば、謝罪はともかくとにかく抱き合い「ウン・ベシート(キス)」で幕引きが当地の流儀。やがて力を合わせて上手にできた積み木を前に「チョカ!」とハイタッチで祝福。その度におそらく、彼女の内にスペイン語人らしい感情が形成され、上書きされていっているのだろう。

では2歳半の娘が完璧なスペイン語人かというと、そうではないのが移民二世の悲哀。大好きなディエゴの叔母"Clara"の名を口にするたび、みんなに笑われる。たぶん彼女の発音は[ku-la-ra]、日本語式に、すべて子音+母音のセット。さらに私の発音にいたっては、"L"と"R"の区別がない[ku-ra-ra]のはず。私が娘に日本語で「今日、クララのおうち行こうね」言う。そのままの「クララ」の発音で彼女がみんなに言う"Hoy, a la casa de クララ."、これは日本語ではなくさりとてスペイン語でもない。すまん、娘。


■スペイン語の数え歌。♪スエナ・ラ・ウナ/ブエラ・ラ・ルナ

では次の、繰り返し現れる間違いもまた、移民二世のトラジェディなのか。
ひとつ。日本語で喋るとき、"H"の発音を無視しがち。「葉っぱ」は「あっぱ」、「蜂さん」は「アチさん」。これはHを発音しないスペイン語由来か、あるいはもともと現生人類の声帯は解剖学的に"H"の発音に向いてないのを日本語では大いに鍛えて使っているのか。それにしても大好物のエビと大嫌いなヘビを発音上区別できない彼女に、将来災厄は訪れないだろうか。
ふたつ。日本語で喋るとき、等拍の撥音・促音・長音が苦手。「ピンク」は「ピク」から現在なぜか「ピンクン」へ。「ピーターパン」は「チンパンパン」。「落っこった」と「怒った」の喋り分けもできない(シチュエーションでわかりますが)。ちなみに、アメリカ在住の私の兄コータローは、周囲の英語人から「コタロー」と呼ばれている。これは日本語の特性によるのか、欧米語(ってあるの?)の特性か、はたまた。だいたい「東京」をTokio、「京都」をKiotoと「正式に」表示する言語だもんなあ、スペイン語。

そして、お気に入りの絵本「ぐりとぐら」シリーズの「呪い」。湯川ニーニャちゃん、初手からなぜか「ぐらぎら」と言い間違い、そのまま間違い続け、現在でも目を輝かせて「ぐらぎら!」と毎晩御所望になる。この数ヶ月、連日繰り返して読んでいる。絵本の文中にも頻出するこの単語、少なくとも通算300回以上は耳にしているだろう。なのに活用させる方、未だに間違っとる。ラ行じゃなくてガ行。なんでや!
話は変わりそうで変わらないのだが、「数え歌」というものがある。私たちの世代は、「一本でもにんじん」。「ニ足でもサンダル、三艘でもヨット……」と続く。同じような歌を、いまスペインの幼児に爆発的人気の「おゆうぎDVD」"CantaJuego"シリーズで見つけた。"VUELA LA LUNA"というタイトルで、時計に添って、10まで数える。

Suena la una / Vuela la luna
Suenan las dos / Diciendote adios.
……
Suenan las ocho / Como un biscocho
Suenan las nueve / Estos se mueven.
(文頭の"suena/n"は、(時計が時を知らせる)「音が聞こえる」という意味)

数字の1(ウナ)に対応するのは「ルナ」、2(ドス)には「アディオス」、8(オチョ)には「ビスコチョ」、9(ヌエベ)には「ムエベン」。押韻ですね(たぶん)。
私なら。「七匹でも蜂、八頭でも鯨」の数え歌で育った私なら。1(ウナ)には「ウナギ」、2(ドス)には「どすこい」、8(オチョ)には「おっちょこちょい」。私からすると、「オチョ」と「ビスコチョ」は、「ぜんぜん違う」。しかし彼らは、韻を頭ではなく脚で踏む。彼らにとっちゃあ「1(いち)」と「いちご」こそ、「ぜんぜん違う」ものなのだろう。

ともかく、彼らは脚韻を好む(らしい)。
と、そこで思い至った。そっか。だからすでに「彼ら」の一員に仲間入りしたっぽい娘も、日本語で頭韻を用いたことばを、スペイン語式に脚韻に変えたのだろう。なぜなら、それが「自然な韻」だから。「ぐりぐら」という「韻を踏む」日本語の、「指向するところ」をスペイン語に訳すと、それは「ぐらぎら」なのだ、きっと。うーん、あれはスペイン語だったか……。

しかし、なぜスペイン語では脚韻がメインで、日本語では頭韻なんだ?
いまネット検索すると「英語は腹式呼吸だから」という説があったが、どうもちっともわからない。
内田師匠の「二行並韻は『いっしょに来る』」話(「人間的時間」、2009年2月28日付ブログ)が(正しく理解できないまでも)ずっと念頭にあって数ヶ月。今週ふと気づくと、ニーニャがスペイン語で「ケツカッチン」の喋り方をしていた。
先日、私たち一家と、ディエゴ一家で、一緒にプールに行って終日過ごした。
それが娘にはものすごく嬉しく楽しかったらしい。以後毎日、一緒に行った6人の名前を指折り数えてみせる。「ディエゴと、エバと、ニーニャと、パパと、ママと、ペドロと、ニーニャと、エバと、パパと、……(窮して)ニーニャ!」 ぐちゃぐちゃ。ちびっこだからしょうがないよね、と思っていたのに、馴染みの駄菓子屋のベニーばあちゃんの質問に彼女が答えるのを聞いて、慄然とした。「ディエゴ、エバ、ニーニャ、ペドロ、パパ・イ・ママ!」

英語の"&"を意味するスペイン語の"y"(イ)は、並列する単語のいちばん最後の直前でだけ一度、使っていい。つまり、バルで注文を訊かれて、「んーと、生ハムと、チョリソのシードル煮と、イワシの酢漬けと、……ああ、やっぱとりあえずそんだけでいいや」という答え方は、言語の構造上許されない。確固たる意思をもて「生ハム、チョリソとイワシ。(以上)」と言い切らなければならないのだ。スペイン語でニーニャが答えるとき、彼女はたぶん頭の中でまず6人を召喚し、そうして最後の2人のあいだに"&"を配置するのだろう。うーむ。
その「まず、最後尾まで一気に見晴らす」同じ作業が、スペイン語の脚韻をも召喚するのではないか。……いや、頭韻を召喚してもいいのか? でも、少なくとも、わりと頭からずるずるぞろぞろと伸びていく日本語からは、「ぐりぐら」は出ても、「ぐらぎら」は出てきにくい気がする。
いやはやまったく、驚き桃の木山椒の木。……って、これ脚韻だよ!

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Agosto 11, 2009 9:29 AMに投稿されたエントリーのページです。

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