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バルセロナのサッカーファンはなぜフィーゴに豚の頭を投げつけるのか?

 これは又聞きなのだけど(ハッ、ほとんどのことが又聞きではないか)。
 1992年のバルセロナ・オリンピックの開幕前、世界各国の新聞に、一面全部を使った次のような広告が載せられたという。

(カタルーニャ州およびバルセロナを示す地図とともに)
「バルセロナは、カタルーニャです」

 しかしイマジン、想像してもごろうじろ。
 たとえば先ごろ万博会場となった愛知県が、世界中に向かって、
「愛知県は(日本でなく)中部地方です」
「これまで(日本の東京ではあったけど)オリンピック経験のない愛知県を次回開催地に!」
「(EUはないからたとえば)国連は、日本とは別に、中部地方を一国として扱え!」
 というメッセージを発したならば。
 けっこう、ぎょっとすると思う(と書いて、これで「ぎょっとする」自分にいまぎょっとしたのだが、それはさておき)。


 有名な話だが、バルセロナで「あなたは何人(なにじん)ですか?」と訊くと、まず「カタルーニャ人です」という答えが返ってくる。
 もしうっかり「あなたはスペイン人ですか?」と訊こうものなら、「違う、一緒にすな!」と怒られるかもしれない。
 ちょうどそれはコチコチの阪神ファンに、「西武の田淵、大好きだったんですよ」とうっかり話してしまったのと同じような状況だ(つまりベースにある「好意」とて、「勘違い」された彼の怒りを抑える効果をもたないだろうという意味)。

 現在、カタルーニャ州は高度な自治権を有しており、道路標識も役所や小学校から家庭への通知も、公用語のカタルーニャ語が用いられている。
 カタルーニャ語のテレビも新聞も雑誌もあり、ハリウッド映画だってカタルーニャ語吹き替え。
 学校の授業はカタルーニャ語で行われ、そこでは標準スペイン語(カステジャーノ)は「外国語」として学ぶ。
 まぁスペインの中での、ちょっとした「特別扱い」だ。
 ただし私はどうしても「中央」マドリードにいるせいで、そういうの(たとえば、F.C.バルセロナ(=阪神)からレアル・マドリー(=巨人)に移籍してきたフィーゴに、両チームの試合がバルセロナで行われた際、「裏切り者!」の合唱とともに豚の頭が投げつけられることなんか)を、「ちょっとそらさすがにやりすぎじゃない?」と思うきもちは、ないわけでもなかった。
 あった。
 しかし、この度、かなり認識を改めましてございます。(無批判ではないけれど)
 いやはや歴史も、学んでみるもんどすなぁ。あぁ冷や汗。


■フェルミン・マリーンはこう云った:
「カタルーニャの起源は、フランスになりまーす」

 405年、西ローマ帝国が国内事情からグダグダになって国境警備に手がまわらなくなったところで、ライン川の向こうの寒いところにいたゲルマン系諸族が、より豊かな土地を求め、川を越えて帝国侵入。
 それはゲルマン諸族による、「西ヨーロッパ争奪イス取りゲーム」であった。
 最大の勝者フランク族は、フランスあたりのいちばん良い場所を占領。
 居場所を見つけられなかったいくつかの民族はフランク族によってさらに西へと追われ、ご苦労なことにピレネーを越えて、そしてまさか大西洋を渡るわけにもいかず、イベリア半島に留まり割拠する。
 西ゴート族は、しかしこの流れにすっかり遅れを取っていた。
 彼らは頭を働かし、まず、ローマに攻め込んでその力を見せつけるという手段に出た。
 そして怯える西ローマ帝国皇帝に対し「なあにローマを取ろうってわけじゃござんせん。それどころか、あっしがお前さんのためにですよ、あのごちゃごちゃしてるイベリア半島をちゃちゃっと綺麗にしてきてみせまさぁ」と約束して信用され、そして実際に見事に駆逐し、んでもって当然、そのままそこに居座った。
 475年、フランク族を牽制することができるトローサ(現トゥールーズ)を首都に定め、西ゴート王国の独立を宣言。
 翌年、西ローマ帝国滅亡。
 507年、西ゴート王国とフランク王国とが決戦。敗者となった西ゴート王国はピレネー以北の領土を失い、つまりはイベリア半島に引っ込むことで手打ちとなり、首都を半島の真ん中のトレドに移す。

 そんなかんじで、約200年が過ぎる。

 711年、西ゴート王国が国内事情からグダグダになっていたところ(協力貴族に気前良く土地をあげ過ぎたため。あら日本の歴史と同じね)、自身の出世とライヴァル放逐を計る国境警備担当貴族の手引きによって、北アフリカまで来ていたイスラム勢力がジブラルタル海峡を渡りイベリア半島に侵入。
(もちろん、この裏切り貴族は、新支配者となったイスラム勢力により、ライヴァルともども放逐された)
 グダグダの王国はドミノ倒しのように次々と征服され、イスラム勢力はなんとほんの約20年後には、フランク王国の奥深くまで攻め入っていた。

 が、732年、ついに現在の北フランスとなるトゥール-ポアティエ間の戦いで敗北。
 このときの手打ちは、両国の国境を「北はピレネー山脈/南はエブロ川」と定めるというもの。そしてこの両者の間に帯のように広がる地域は「イスパニア辺境領」として、勝者フランク王国の支配下に置かれることになった。
 ピレネー山脈の清冽な雪解け水を湛える肥沃な土地、地中海に面した温暖な気候に天然の良港……。
 イベリア半島には珍しいこのような好条件に恵まれたここイスパニア辺境領の、中心的港町こそが、バルセロナだったのである。

 で、100年弱が過ぎる。

 810年、フランク王国が国内事情からグダグダになってしまったため、手がまわらなくなった国境警備を放棄。
 イスパニア辺境領の警備を担当していた各伯爵が、この機に乗じて、それぞれ伯爵領として独立する。
 これが今日の、カタルーニャ州の起源である。
 なるほど道理で、知人のカタルーニャ人は、「ありがとう」というとき、「グラシアス(カタルーニャ語・標準スペイン語ともに)」ではなく、「メルシー」と言うわけだ。(しかも、ジャン・レノに似てるし)
 彼らのオリジンは、現在のフランスにあったわけなのね。

 しばらくいくつあの伯爵領が分立していたカタルーニャだが、やがて彼らの代表としてバルセロナ伯が選ばれ、全体がバルセロナ伯国としてまとまることなった。
 諸侯の「代表者」である彼の権力は、「すでに存在するコンディションを背景に発展した国のトップ」によくあるように大きく制限されており、戦費はもちろん、自身の食費ですら、有力諸侯による議会の承認を必要としたという。
 当然、あまりにも諸侯の利害に反するようなら、簡単に首をすげ替えられた。
 なぜなら彼をバルセロナ伯たらしめている権力の源は、諸侯の利害関係の一致という点にしかないからだ。
 カタルーニャではそういう「国民の代表者タイプ」以外の「トップ(=王)」を、決して戴いたことはない。
 後にバルセロナ伯が隣のアラゴン国王を兼ねることになるが、これとて中身は同じでああった(ちなみに「彼が王である必然性はない」という考えは、血で血を洗う絶え間ない王位簒奪戦を生んだ)。

 ということで、こんなことにもなっている。


■フェルミン・マリーンは、こうも云った:
「歴代のスペイン国王は、現国王も含め、カタルーニャ自治州に一歩足を踏み入れれば、『王』ではなく、『バルセロナ伯爵』という地位になります」

 どびっくり。


 さて、そういうわけでカタルーニャは、あの有名なレコンキスタによってキリスト教徒が再征服した土地、「ではない」。
 「ではない」ことで、後に(現在まで)スペインの主導権を握ることになったスペイン中央部カスティージャと、文化的背景に大きな違いができた。


 711年、ジブラルタル海峡から半島に侵入したイスラム勢力は北へ北へと攻め上がり、上がりすぎてフランク王国内で行われたトゥールポアティエの戦いで敗北したが、エブロ川以西のイベリア半島全域を掌握した。
 イスラム勢力の北上に際し、それまで少数の西ゴート族に支配されていたヒスパノ=ローマ人やユダヤ人は、税金を払えば「自由」を認めてくれた彼らの傘下に、率先して編入されていった。
 では、イスラム支配によってほんの20年足らずの間にあれよあれよと特権を失ってしまったほぼ唯一の存在、西ゴート族(貴族)はどうしたか。
 大部分は、イスラム傘下に入った。税金を払い社会的地位を諦めれば、彼らは「異教徒」にも寛大だったからだ。(西ゴート族は、当初キリスト教の異端アリウス派だったが、後にカトリックを国教化している)
 しかしそれを受け入れないごく少数が、イスラム勢力に追われるように北へ北へと逃げた。
 そして半島北部アストゥリアス地方の、かつてローマが陥落させるまで300年を要した険峻な山中に籠もった。
 寒さと飢えに凍えながら、彼らは、考えた。
 それでも僕らは戦うんだ。なぜならこれは、異教徒の魔の手からキリスト教を守る、聖戦だからだ。
 状況の困難さが、彼らをファナティックにした。
 722年、西ゴート貴族を中心としてまとまった勢力が山の中で行われたコバドンガの戦いでイスラム勢力に初勝利し、ここにアストゥリアス王国を建設。
 こうして、キリスト教勢力によるレコンキスタ(国土再征服運動)が始まった。

 以上が、カスティージャ(中央スペイン)における王制の起源である。
 なので、現在も国王の後継者の地位にある皇太子(現在は、フェリペ皇太子。その後は、先日生まれたレオノール王女の予定)は、「アストゥリアス皇太子」の称号で呼ばれる。


 さて、戦争を主な仕事とする彼らは、とにかく強い戦闘集団を作って効率よく戦うというのを最大の目的に(なんせもともと土地も人民もない兵士の集団なので、統治を考える必要はない)、全権力を掌握する長としての「王」をトップに戴いた。
 他のヨーロッパ諸国やカタルーニャと違い、まさにゼロから始まったカスティージャでは、既存のコンディションに配慮する必要はまったくなかったのだ。
 この「戦闘集団としてのトップ」は、ケルト文化での「カウディージョ」(個別の戦いに際して選ばれる頭領で、勇敢であらば身分は関係なく羊飼いでもなれ、そして戦いが終わると職を解かれる)に似ているが、大きく違うのは、カスティージャの王は実に今日まで、その職を解かれていないという点にある。
 なんせ、この戦争=レコンキスタは、約800年も続いたのだ。
 しかも強大な敵に一致団結して立ち向かうため、彼らは「王」に、ケルト文化にはなかった世襲制度を取り入れた。そのため、力をもった新興貴族が気軽に実力で王位を簒奪する、なんてことも封じられた。
 こうして1492年にレコンキスタが終わった時、もはや誰もが、800年の間に化け物となっていたスペイン王に向かって、「あんたの役目は終わったよ、お疲れさん!」とは言えなくなっていたのだ。

 というわけで、その起源において全権力を集中させるために創り出されたカスティージャの王は、当然ながら、国のために自分が良いと思ったら、勝手なことをやり放題にやる。
 しかも戦いは聖戦であり、自分は神の意を受けた王家として選ばれし地上の代理人、いやもうまったき正当な存在なのである。
 「神意にもとづく戦争のため、金を出せ」と宮廷(議会)に一方的に命令するのなんて、御茶の子さいさい。立派な建物も建て放題。
 やがて太陽の没することなき帝国を築く神聖ローマ帝国皇帝カルロス(カール)5世は、宮廷をすら、生まれ育ったオーストリアからごっそりと引き連れてくるだろう。スペイン貴族はいきなりまとめて窓際族(そりゃ、王に追従するようになるわね)。
 そしてその息子であるフェリペ2世は、新大陸発見で得た巨万の富を、当然の権利(あるいは正義に裏づけされた義務)として対プロテスタント宗教戦争に費やし、スペインを何度も破産宣告させるに至らしめるだろう。
 そんな、時に横暴な王家はどうなったかということ……。
 今日まで、続いている。

 「王は、絶対的に偉い」
 それがカスティージャ、つまりは現在のスペインのベースになっている国の、王の姿なのである。


 絶対的な存在としての王を考えるとき、現在でも9割以上がカトリックというスペインの民は、うっかり、神を前にしたときと同じ態度を取ってしまう。(まぁ、国と教会ぐるみでそうさせてきたのだけれど)
 つまり、思考停止だ。
 そのロジックは、「イエスか、ノーか」ではない。「イエスか、イエスか」。オー・イエス、オンリー・ビコーズ・ユー・アー・イエス・キリスト。

 この思考の落とし穴から、「スペインの敬虔なるカトリックの民(羊)を、自分の身を犠牲にしても守るカウディージョ(羊飼い)」と宣うフランコが最終的に掌握するに至る強大な権力が、ズルズルと這い出てきた。
 そしておそらく同じ穴から、そんなフランコの後継者と指名された現国王フアン・カルロス1世および王家への、スペイン市民の驚くほどの信頼(それは帰依と言っていいほどの)が湧き出している。
 圧倒的な支持を受ける現国王に対して、
「でもさ、彼は父親から王位を世襲したわけじゃなくて、共和制成立で外国に逃げた祖父の代で本当はスペイン王家は断絶してるよね。でさ、現国王はフランコの後継者として王座に就けたんだから、実質的にはその源泉はフランコにあるわけじゃん?」
 と言うのは、雰囲気としてタブーだ(もちろん自由だけど)。

 そして善良なるカスティージャの民は、現国王がバルセロナを訪問した際、カタルーニャ人たちが彼を「私たちがするように」熱狂的に歓迎し敬わないことを、けっこう不満に思う。
「王様に対し、な、なんて失敬な!」と、生々しい感情的な怒りを感じてしまう。
 でも本当はカタルーニャ州では、現国王は、バルセロナ伯爵に過ぎないのだ。
 カタルーニャはカタルーニャとしての至極当然なやりかたで、「王」を遇しているのだ。

 あぁ、まさか、そんなことだったとは。
 そんなこととは、つゆ知らず、カスティージャの民と化しつつあった私もまた(こういう雰囲気は知らないうちになんとなく染み込むものだ)、ものすごい落とし穴にハマってしまっていたのだなぁ……。
 でもやっぱり、サッカーグラウンド内に豚の頭を投げ入れるのは、危険なのでやめましょう。もったいないし。


 というわけで次回も、レコンキスタ。
 レコンキスタと現在のスペイン社会(政治面)との関係、の、予定です。

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 まもなく、一人の友人がこの世を去って一年になります。清水理恵さんという方で、 [詳しくはこちら]

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コメント (1)

カナ (inSpain):

訂正:「475年(中略)西ゴート王国の独立を宣言」
→415年に。ノートの取り間違い。これを冬休みの研究に使っていたあなた(なんていないか)、ごめんなさい。

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Diciembre 26, 2005 10:06 AMに投稿されたエントリーのページです。

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