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2004年9月 アーカイブ

2004年9月 1日

仮免うっきー、覆面教習車に乗る

9月1日(水)

仮免前は、昨今、噂のM菱製の車で教習を受けていた。

仮免取得後から、Tヨタの車に変わった。

色は白。

車種は、いかにもタクシーに見える四角い車。コンフォート。

路上に出る車なら、宣伝効果もあるかもしれないし、
大概車体の側面に車校名を記していそうなものだが、
どういうわけか、この車、側面にもどこにも何も書かれていない。

だから、仮免許練習標識を外せばそのまま、
普通に乗れそうなくらいである。
(とくに乗りたい車ではないけど)。

タクシーを連想させる車は、乗る人数によって、さらにその雰囲気を増す。

昨日や今日は、三人一組の実技があった。

ひとりが運転しているとき、あとのふたりは後部座席に指導員が助手席に座る。

たとえば、自身が運転席に付くとき、助手席の人物が、
「次はあっちだ」「その次はこっちだ」と、指示する。

このときは、ほんとうにタクシーを運転しているような気分になった。
(タクシーを運転したことないけど)。

あと、エンジンが加速する音やアクセルをペダルから離したときの
音程の下がり具合が、一般にタクシーに使われる車に、
ほんとうによく似ている、という理由もある。

そういえば昔から、タクシーに乗ると、交差点に来るたび、
運転手さんがギアをがたごと切り替えて運転している印象がある。

そのときに聞こえる「がたごと」という音が、
どういうわけかわりと好きだったと、思い出した。

2004年9月 3日

あと少し、ウッキーがんばれ!!!

9月3日(金)

だんだん疲れてきたみたいだ。

その様子は、明らかに表に現われているようである。

とくに顔。

すごくねむたそうに見えるらしい。

顔には、「くま」があるみたいに見えるらしい。

受付の人は「元気?」と声をかけてくれた。

だが、すみません、わりと昔からこんな顔なんです。

生まれつきです。これ。

元気と言えば元気。

そうでないと言えば、そうでない。


一昨日などは、先日と同じように机に椅子の場所で座っていたら、
見知らぬおばさんまでが声をかけてくれた。

「すごくねむたそうよ、よかったらガムでも食べて」と言ってガムをくれた。

(しかし、どうしておばさんなるものは、
ああもカバンにお菓子を忍ばせているものなのだろう)

もらったガムをかみ、他愛のない世間話をするうち、
おかげで、だんだんと目も覚めてきた。

そのおばさんは、昨日は、のど飴をくれた。

(やっぱり違うお菓子がちゃんと出てくる!)

教習時間の加減で昼抜きになってしまったワタシを、
気の毒に思って、くれたみたいである。

のど飴はあんまり好物じゃないのだけど、ちょっとうれしかった。


9月2日(木)

朝食には、ゆでたまごが出る。

普段、つくってまで食べることがないので、
最初は珍しさも手伝って、もそもそと食べていた。

しかし、毎日のように出てくると、当然のように飽きもくる。

どちらかといえば、朝の卵は目玉焼きかオムレツが好みで、
時間と気が向いたら卵焼きをする派なのだ。

(卵焼きはもちろん甘い…。
中学に入るまで、それが標準的な卵焼きの味だとずっと思っていた。
どうやら地域によっては、塩味もあるらしい)。

言い忘れついたが、ここの食事は朝昼夜とあって、
味噌汁とご飯はお代わり自由、おかずは日替わりで、
入口に飾られた見本の献立に従って、セルフサービスで
盛り付けていくシステムになっている。

たくさん食べたい人は予め山のように盛り、
少ない少なくてすむ人は少ないままに、
嫌いなものや苦手なものがあれば、取らずに見過ごすこともできる。

おそらくは、ゴミを残飯を出さないための方法だろう。

とにかく、こういうわけで、ゆでたまご選択権を大いに活用し、
気が向けば食べ、気に食わなかったら見向きもしないでいる。

ところで、ゆでたまごを食べるとき、気づいたことがある。

これまで、なぜ一度も気づかなかったのかというくらい単純なことだ。

ですから、ここからは適当に飛ばして読んでください。

卵には殻がある。

ゆでたまごになっても「殻がある」という事情は同じで、
通常食べるときは、その殻をむく。

あるいは、殻を割って中身を取り出す。

殻をむくとき、ワタシは右手で、コンコンッと、
堅い面やモノに力を加えて殻に罅を入れ、それからむく。

むくのは左手。

右手でコンコンッ。

左手でバリバリッ。

むいていく。

右手は卵を全体的に支え、左手が細かな作業を行う。

最後まできれいにむけたら、卵を右手におさめ、塩をつけて食べる。

この一連の動作のなかで、ワタシは右利きなので、
これまでずっと右手でむいて、右手で食べていたと思っていた。

しかし事実は逆で、左手でバリバリッとむいていた。

右手は単なる支えだった。

試しに左右動作を逆にして殻をむいてみたが、
どうも気持ち悪いし、手や指がうまく使えない。

途端、使い勝手が悪い手になる。

何かほかに、これに似たものはないかと思い出してみたら、
みかんの皮を剥くとき、というのがあった。

右手でみかんを支え、左手でむく。

そして、右手で食べていた。

携帯電話もかけるときや受けるとき、左手を主流に使っていた。

もちろん番号を押すときも、メールを打つときも、みな左手だ。

左手の親指だ。

これも試しに右手で使ってみたが、無理矢理な感じがして、とてもやりづらい。

ほかにも探せば、生活全般のいろんなところで、
知らないうちに左手を使っているかもしれない。

ところで、利き腕が何十年かに一度変われるものなら、
世の中はもっとすごしやすい気がする。

そして、きっと多くの「左利きかもしれない症候群」が存在し、
「右手がこんなに使えていいかしら」と喜びに溢れるひとびとがあり、
「右利きなんて怖くない」とか言い出すかもしれないだろう。

ほらね。

だから、どーよって話なわけだ。

2004年9月 4日

山南さんはねー、みんなの心の中に生きているんだよ、きっと(涙)

9月4日(土)

路上を走る以外にも、シュミレーションによる危険予測や急ブレーキ、
夜道や雨の日、風の日、雪の日などを想定した運転を何度か体験している。

それは実際の場面で、雨や雪が降るのを待っていたり、
急ブレーキでつっこんでいったり、ひとが飛び出てきたりするのを
わざわざ狙いすまして、見計らっているわけにはいかないからだ。

まあ、雪こそ降らねど、実際に雨や風、
トンネルなんかは路上を走るうち体験してきている。

先日の台風のなかでも、車を走らせた。

とはいえ、路上は路上、シュミレーションはシュミレーションだ。

機械と現実は、やっぱり違う。

ゲーセンにあるようなのともまったく違う。

だからこそ緊張する。

だからこそ、かなり気を使う。

そして結局は、どちらであっても、毎回緊張し、疲れてしまう。

世間では、いつのまにやら知らぬうち、
『ハリー・ポッター』の続きが発売されたみたいですね。

映画でしか見たことがないので、一度原作を読んでみたいです。

最近したいことのひとつです。

えっ?ほかにはないのか?ですか?

めざましテレビが見たいですね。

いま、相当に規則正しい生活をしています。

もちろんそれは、美しいほどの早起きから始まっているわけです。

だったら見ることもできそうなものですが、
残念なことに部屋にあるテレビは、電波が悪くてフジテレビが入らない!

映画も見たいです。

おもしろそうなのが盛り沢山のいまです。

早く現世に戻って、映画館で映画を見たいです。

また、ワタシのなかで、唯一の連ドラである『新選組!』は、
どうなっているのか気になります。

たしか、あの山南はんが、脱走する前あたりまで見た記憶があります。

彼は、もう消えてしまったんでしょうか。

かろうじて活字は、持ってきたもので、しのいでいます。

どうにか暮らしています。

日々触れることができるので大丈夫ですが、切れたらどうしましょうか。

学科や教習の教本は、活字とは思いにくいです。

ワタシには取扱説明書に見えます。

あとは、音楽です。

念のため、MDウォークマンを持ってきましたが、
先日、機械の調子が悪くなってしまいました。
(単に電池切れかもしれませんが)。

こんなことなら、ラジオでも持ってくるんでした。

ああ、音楽を聞きたい、歌いたい状態です。

カラオケなんて年に数回行けばいいとこですが、それにすら行きたい気分です。

ふいに大声を出したくなります。

大音響で音楽を聞きたくなります。

戻ったときは、どなたか、カラオケにでも、ご一緒していただけませんか?

2004年9月 5日

うっきー、余裕の高速教習

9月5日(日)

高速教習に出る。

きょうはTヨタ、WILLで企画された車の赤。

どうして教習所内に教習車でもない自家用車でもないものが、
ずっと三台(残りは紺とシルバー)も停めてあるんだろうと気になっていた。

これらは、路上に出たとき、それも高速用の車だったのである。

とはいえ、同じ高速に出ても、自動車学校の名がでかでかと
車体の両側面に書かれたしぶーいのに乗っている組もある。

乗る車は、指導員の好みなんだろうか?

とにかく教習所の車は車でも、それらしく見えにくい形なので、
高速を運転しても、ちょいとお得な気分である。

当然のようにETCである。

最近の自動車学校の車には、ほとんど備えつけてあるようだが、
それすら気分が違うように思う。

しかし、料金所で料金を払うことも体験しておくようにとの配慮から、
ある区間の高速を何度か乗り降りし、両方を見ながら、
あるいは実践しながらの教習になる。

例によって、三人一組で高速教習に取り組んだワタシは、
偶然にも両方ともETCを体験する番に当たった。

料金所の入口は、時速二十キロ以下に減速するように指示されていたので、
ぴゅーんとひとっとびで過ぎ去ることこそできなかったが、心地よさ抜群だ。

だって楽なんだもん。

楽なのは、以前から家族の車で知ってましたが、
ありゃあ、すぐにでも日本中に標準装備すべきです。

お国にも、こういうところで、きちんと、がんばっていただきたいものです。

それにしても高速を、じっと時速八十キロで保つのは、なかなか難しい。

立場上、そうしなければなりませんから、余計難しい。

「それ以上でもそれ以下でもない速度」というのは、
ほんとうに細かく注意していないとできない。

難しいですね。

でも、初めて走った高速は、たいそう結構よいものでした。

早くほんとに走りたいな。

2004年9月 6日

旅は〜まだ〜終わら〜ない〜♪

9月6日(月)

やんっ、卒検落ちたわん。

進路変更のところで、点数消えちゃったのだ。

明日に延期だわ〜ん。わ〜ん。

では、いまから補習に行ってきます。(現在午後6時ごろ)

2004年9月 8日

監獄からの生還(おつかれ、うっきー!)

9月7日(火)

長い旅がいま、ようやく終わろうとしている。

ほんとうに長かった。

予想外に長かった。

言うなれば、「二十二日間岡山在住」。

台風が来た日に卒検に合格した。

仮免のときも、じつは近年稀に見る中国地方上陸の台風が来ていた。

どうやらこの手の試験には台風がつきものらしい。


自動車学校入校少し前、予定していた最短卒業日は、9月1日であった。

とはいえ、ワタシの場合、滞在期間のうち一日は、
「どこが帰宅なんだよ」(なはは)的一時帰宅が決定的だったため、
最初から単純に日数が延びることはわかっていた。

さらに単純に考えれば、出られるのは翌日の9月2日になる。

しかし、これはほんとに簡単に考えた場合のことであり、システム上、
一日ズレたからといって、出るのが一日先になるというものではないらしい。

ひとにもよるだろうが、一日延びれば二日先になり、
二日延びれば四日先になる場合があるのだとか。

こんなことになるのは、コンピュータで全体のスケジュール管理の元、
教習の統制がなされているためだという。先方の理由だ。

「コンピュータで管理」などと聞かされると、まるでここにいる人間は、
個人であって、まったく個人ではないように見えてくる。

私たちは、偶然決まった時期に入り、決まった場所で時間に従っているはずだ。

しかし、それは「つもり」であった。

入った瞬間から、じつは一定の決まった品質になって初めて、
表に出ることを許される存在となってしまっていたのである。

あるいは、欠陥として。

なぜか異様に厳しく、集団的に嫌味を言うことが義務づけられた指導員がいる。

罵声を浴びせかけることが本業のようなひとがいる。

激しい規律によってしか成立しえないことになっている、この構造。

脱落者はどんどん切り捨てていき、統制していく、この構造。

ああ、ここは、まるで監獄のようだ。

そう感じることしばしばであった。


よって、「最短卒業」の真の意味は、
飽く迄ここの「宣伝文句」であったことが日増しに確認されていく。

「最短卒業」とは、期日が来たら「みんなが出られる」
ということを意味するのではない。

「なかには、そういう可能性のあるひともいる」ということを意味するのだ。

だから、よく見ると、まわりには、
一緒に来たはずの友達においてけぼりを食らって嘆いていたり、
何度も何度も補習を受けたりしているひとがいる。

話が違うじゃないか、と怒鳴って、直談判しているひともいる。

8月いっぱいが夏休みで、9月から学校が始まってしまう高校生
(自動二輪車を取りに来ている)は、かなり青ざめている。

間に合わず、予定があって転校していくひともいる。

どの姿も実に痛ましく、実に悩ましい。

かくいうワタシも、一時帰宅や補習などで、
当初予定していた帰宅日程(今度は、ほんとに帰宅しますよ)よりズレている。

この手の場所に合宿に参加できるのは、
ある一定のタイプでないと無理だなあと、つくづく思う。

あるいは、どこか特殊な精神性を兼ね備えていなければ、
なかなか成立しにくいものだろうと感じる。

そろそろ限界である。

体力と言うよりもむしろ精神力の方に。


強く強くそう念じ、思ったころ、帰れるようになった。

さ、戻ろう。現実界に。

さあ、脱出だ。

2004年9月10日

エンジンに火を入れて 街うっきー、活動再開

9月10日(金)
 時間喪失記憶忘却。マリアさまに助けられたような気分だ。

9月9日(木)
 『華氏911』を観る。

 あの日が来るのに、このままぼんやりしていてはいけないと、思ったからだ。

 ひとことで言えば、ブッシュは頭が悪い。悪すぎる。わかってはいたが、だいたいあの顔には
深みがない。
しかし個人の印象はどうあれ、あの国には彼のやり方を支持するひとたちが国民の半分はいるん
だから、いったいどうなってるんかなと思う。アメリカって、やっぱり、ほんと変な国だなとい
う思いがさらに強くなってくる。

9月8日(水)
 今日は何曜日だったんだろうか。

 そんな質問を何度もしてしまう日だ。

 リハビリがてら、朝から表に出る。何とか食糧を手に入れなければならなかった。

しばらく留守にすることがわかっていたから、帰ってくるなりそうそう「うちに食べ物が何もな
い」という自体が発生したからである。

 数週間の習慣が身体に刻まれたのか、早起きには何の苦もない。

 それにしても習慣づけとはおそろしいものだ。

起きるなり「あ、きょうの実技は何限目だろう。はやく朝ごはんに行かないと・・・」と思いなが
ら眼が覚めた。

 はっと気づくと、自分の部屋の自分の寝床にいたので、現実を感じた。

ようやく引き戻される感じ。

 いったいどれがほんとうの時間なんだろう。

留守中、積もりに積もっていた郵便物を片付け、延滞していた(ことになっていた)図書館の本
を返却することにする。

ついでに朝食を食べるのもよかろうと思った。

朝の早い時間は、駅の周辺でも空気が澄んでいるようにみえる。

昨日大阪に辿り着いたときは、ビルの高さに、人の多さに、街の明るさに、駅の騒々しさに(こ
れは台風のせいもあるが)触れ、涙が出そうになった。

大阪の街を見て泣けてきたのはこれが初めてだ。

それくらい山奥に籠もっていた。街の騒々しさも喜びに変わるくらいの。

どこか安心があった。やっぱり街がいい。

昼前には大学へ。

おそらく、いろいろな用事が積み重ねられていることだろう。久しぶりの山を登りながら、そう
思った。

案の定、あれこれ用事が積まれている。ちゃんと時間が流れている。

時間が止まっているのは、自身の机と周辺だけにみえる。なんだか取り残された気分だ。

とはいえ、頭の回転がいまひとつなので(あ、いつもですね)、必要な資料を集めて、コピーを
取り、図書館を駆けまわり、といったことに徹した。

長らく会ってなかった友人にも挨拶するなどして、次第に状況を判断していく。

そのうち、だんだんと目が覚めてきた。

2004年9月14日

生まれて初めて肩が凝る

9月13日(月)
 やっぱり、どこか遠くでずっと頭痛がしていっこうに止まない。

二日酔いでもあるまいし。

それはなんだか、おかしいので、結局医者に診てもらうことにした。

 朝から近所の内科に行く。

 診断は「神経性頭痛炎」かなんか、そんなの。

 とにかく頭の一方を押さえられると痛くて、他方はなんでもない。

 週末から続く昨日までの痛みの原因は、すべてこれだったのである。

 薬をもらって飲むと痛みも少しやわらいだが、途端に眠気が襲ってきた。

9月12日(日)
 まだ頭がうまく働かない。

…などと、いつまでもそんなことばかりを言っていても仕方ないのだが、
事実そうなのだから仕方ない。

ぐつぐつ言うより、働くように仕向けるのが先決である。
そして日常を取り戻すことが大事である。

しかし帰ってからというもの、よくよく考えてみれば、ちゃんと身体の芯から休む間が一度もな
かった。ここにきて、一気に疲れが出てきたようである。

頭がうまく働かない上に、頭が痛い。(いえ、比喩でなくてね、ほんとに)。

半分は、原因不明遠因明解の肩凝りで、もう半分は疲れだろう。よって、きょうは、立てていた
予定を変更し、すこし倒れていることにした。

表の空気を吸うのも、身体には結構いいものですが、急にあちこち動いた数日が却って重くなっ
てしまったかもしれません。人間にはやっぱり、適度の「休息」という時間とエネルギー補充の
期間が必要ですね。

ふとカレンダーを見ると、わかってはいるが9月である。

ああ、一週間前の今頃は…などと、またすこし前の過去を振り替えると、かなり暗い気分に
なってきた。暗い気分は身体によくないと、気を取り直して、モブ・ノリオ『介護入門』をぱら
ぱらと読む。(『文藝春秋』掲載版)。

はい、読みました。

YO,朋輩(ニガー)。

おもしろさがわかりませんでした。
介護の関心への高さはわかったつもりですし、血縁だけでは介護への何の理由にはならないこと
も。そして傍観者は、いつの日も傍観者だってことも。

でも、それ以外に、どんな感想を持てばいいのかわからなかったの。ごめんね。

てなことをしているうち、約束の夕方がくる。

9月11日(土)
 生まれて初めて肩凝りなるものを経験する。

 生まれ持った肩は「なで肩」なので、そんなものとは無縁の身体なのだと、ずっと思い込んで
今まで生きてきたが、どうやらそういうものでもないらしい。

どんな肩でも、凝るときは凝る。
とんがっていても、そうでなくても、丸くても細くても角ばっていても、凝るときには凝るので
ある。

だって実際凝ったんだから。

これで、「なで肩は肩を凝らない」という事実無根な思い込みは消え去り、肩凝り経験者であ
る。(たぶん)。

さて、肩を凝ると、どんな具合かというと、まず血行がよくない。

ご経験のある方なら、その状態も容易に想像もつくことだろう。

わたしの場合は、肩と首との境目辺りが、ちょうど一番痛くてどこか突っ張っていて、ぎゅうっ
と引っ張られた感じがある。
そして、この突っ張りか引っ張りのせいで、身体全般にどうも血の巡りが悪い。

血の巡りが悪いと、どうなるか。次の問題はこれになる。

おそらくそのせいだとしか思えぬほど、朝からずっと頭がいたいのである。
とくに今回は、片方(左側)だけが、頭のずっと上の、どこかから強く引っ張られるような痛み
を感じた。

頭が痛くなると、それに応じるかのように、だんだんと思考も鈍ってくる。
思考が鈍ると、身体の状態がハイになるのではなく、何をしているのか次第に考えがおぼつかな
くなってくる。ぼんやりしてくる。歩く速度もゆっくりだろうか。
というわけで、肩凝りには、なにひとつ(どころか何も)いいことはない。

では、その血の巡りをよくすれば、解決にもなるのではなかろうか。と素人は考える。

肩凝りがひいて、さっさとどこかにいってくれれば、それが一番の解決であろうが、そう簡単に
もいかない。だってその方法を知らないからだ。

最終的には、「ああ、温泉にでもつかりたい」そういう気分にぐっとなるのである。

どこかに「肩凝り解決必勝法」とでもいうものはないのだろうか。

何かご存知の方がおられたら、是非ともうかがいたいしたいものです。
肩凝り必勝法について。

2004年9月18日

うれしいことがありました

9月17日(金)
 大きなことから小さなことまで、とっても作業がスムーズな日。すべての世界が明るく見えた。明日から合宿。

9月16日(木)
 起きる(起こされる)→運転する(見送り)→朝食(なんとか)→二度寝(倒れる)→連絡(受ける)→戻る・移動(電車に乗る)→つめる(荷物)→喜ぶ(喜ぶ)→取りに行く(持って帰る)→移動(預かってもらう)→再び移動(待ち合わせ)→飲む(待つ、しゃべる)→挨拶する(写る)→聞く(話す)→食べる(喜ぶ)→しゃべる(笑う)→帰る(ぎりぎり)→眠る(つまり、こんな日)。

9月15日(水)
 本免を受けに行く。

普通自動車免許を手に入れるための試験の意味では、これが最後の難関である。

免許発行をかけたこの最後の学科試験は、各人の住民票のある都道府県の指定免許試験場で受けることになっている。
兵庫県の場合は、明石にそれがある。
昨晩のうちに、ついでに実家に戻り、今朝は早くから明石駅に出て、そこからさらにバスに乗ることにした。

電車に乗って気づいたのは、わたしにとって、「明石」と言えば天文台。
小学生の頃は毎週といえば言いすぎだが、隔週くらいで行っていたもんである。
ほかにも思えば幼い頃から、よく利用していたこの駅だ。
市内に住んでいたこともあり、わりにたくさん思い出すことがある。ほとんど面影もなくなっているところもあるけれど、見れば見るほど懐かしい場所だ。
しかし今朝ばかり、そんなふうにいろんな余韻に浸って懐かしく思い出している場合ではない。

会場に辿り着き、ほとんどたらい回し状態の指示に従って受付を終え、もらった受験番号の記された部屋に入る。
 学科試験を受け、当初の説明では学科試験終了後二十分ほどで合格発表を掲示されるはずの館内の電光掲示板の前に移動。ところが、実際に発表があったのは、三十分ほどあとのこと。よくある話だ。
待つ間は、掲示板の前を離れることも何かをすることもできずに、ただただ待っていた。

すると、ふいに誰かが話し掛けてきた。(本当によく話し掛けられるなあ)。
「あのー、もしかして岡山の教習所に行ってませんでしたか?わたし、応急救護で一緒だったんですけど、似てるな~と思ってみてたんですけど、覚えてますか?」

もちろん覚えていた。一緒に応急救護の学科を受けたことも、そして、わたしの友達のひとり(そなたのことですわよ、Aさん。)にどことなく雰囲気が似ているひとだと思って話していたこともある。珍しく、ほんとにちゃんと覚えていたのである。

「あ、覚えてますよ。兵庫県のひとだったんですか?」
割合愛想よく答えると、応急救護で同じそのひとも、「そうなんです、どこですか?」と尋ねてきた。

互いに兵庫県の住所が明石よりかなり東にあることが確認されると、どちらからともなく、ここは遠いですねえ、という話になる。(もっともわたしの場合、実家がこの辺にあることをそれとなく伝えてみたが聞いていたかどうかは定かでない)。
こんな話をしながら、えらく長いですねえ、待たせますねえ、とことばを交わしながら、電光掲示板を見上げているうち、やっとこさ発表の時間になり、今朝配られた受験番号を片手に、首をうえにあげて見つめる。

番号はどこだ。どこにあるんだ?
あった、合格だ。やった!と思った。

さっきまで一緒に発表を待っていたひととまた目があったので、「どうでしたか?」と互いの声が重なるくらい同じタイミングで声をかけあった。
すこしだけ相手のほうが聞きたそうに感じたので、先に応えた。

「あった。合格しました。どうでしたか?」

そう答えるとわたしは再び尋ねてみた。
即座に尋ねたが、その答えを聞くより先に、それまで笑っていたはずの相手の顔が不安の表情へと変わり、くしゃとした何とも言い難い顔つきへとさらに変化していくさまを見た瞬間、あっ、と思った。

「あー!ダメでした。あかんかったです。またこなあー」
 「そ、そうですか。」

それ以上、特に何と言うこともできず、かといって何も言わずにその場を去ることもしにくく、とにかく「お元気で」と、そうひとことだけ言い残して互いにその後の行く先へと足を向けた。

こうしたことがあった後、午後からは免許交付のためのながーい手続きのなかへ。
噂の流れ作業的ハイスピード説明&実践と作成、待機、交付の手順を経て、めでたく免許証を手にする。

なんだかんだ言っても、やっぱりうれしいもんだ。

さあ、こうなりゃあとは車ったら車。

どっかの布のなかにでも、くるまってないかな。

9月14日(火)
 今日生まれた人はきれいな人が多いらしい。

 今日生まれた人で、わたしが思い出せるのは中村獅堂ただひとりである。

 確かにきれい。

きれいはきれいだが独特のきれいさである。

 まあ、美なんて主観的なものが大半でしょうけど、でも、「捨助」の名であしらわれたり、「般若」の名で小間使いされていたり、かと思えば、「しゃえはたんげ~なは、しゃじぇん~」なんて言いながらカッコよく見得を切ってみたり、「スパイダーマン」の宣伝をしたりというくらいしか知らないから、いったいどれが誰なんでしょうね。

2004年9月21日

合宿といえば、黒豆アイス

9月18日(土)~20(月・祝)神戸女学院大学合気道部秋合宿
 恒例の合宿の日が来た。

 今回に限っては、途中参加(じつは途中から行くのは初めて)。

 初日に下川先生の『望月』を拝見し、夕刻それが終わるや否や「イーダ5」にて阪神高速に乗る。そのまま第二神明、播但道へと乗り換えて半年振りの神鍋へ。

 途中は休憩がてら「やっぱり黒豆アイスだ!」ということで、それを食べる。
 夜は知らない街の店で食べ物を探すのも面倒なので、いつものところで、「きょうはとんかつ!」の夜にする。買い物を済ませ、現地到着は午後9時前。

 一日目の稽古をして過ごしたみなさんは、すでに、でれでれっとしている。疲れている。
明日の審査を控えたひとたちは、熱心に稽古している。

審査もなく、とくに大きな動きは何もしていないこちらとしては、ずでにエネルギーが有り余っていて、叫ぶことか文句か熱心に悪口を言うくらいしか、解消できない。

ならば、その審査前の稽古集団に混ざって行けばいいのだが、飲んでしまったのでそれもできない。(酒気を帯びて道場に入ることは、まさに道場訓に反する)。

ついには、道場から戻ってきた初心の方々に、ほかの人も誘って、部屋のなかで、あーだ、こーだと、勝手に指導を引き継ぎ、確認作業だけして眠りについた。

ところが、どこか緊張がたかまっているのか、あるいはテンションがハイになっているのか、そしてやはりエネルギーが有り余っているのか、うまく寝付けないのである。

きょうなどは朝早くから起きて、活動して過ごしているというのに、どうしたことだろう。

同室の部屋の誰もが寝静まり、寝息が聞こえてきても、それでもうまく眠れない。
 羊を数えなんてこともできない。(だって数えたことがないから、数え方を知らないんだ)。

ああ、なんてこった。こんなの初めてだ。いやあ、人生でも初めてだ。

 夜の寝つきが悪ければ、二日目の朝は起きるのが難しいだろう、と思われるのが話の筋だが、まったくそんなことはない。とてもスムーズな目覚めなのである。

 寝だめしてやってきたわけでもなく、いったいどうしたというのかね、うっきー君。

 6時半からの朝稽古に出て、だらだらと汗をかく。
どうも今年の合宿は暑い。これは秋合宿ではなく夏合宿に名称変更を希望するくらいの暑さだ。

涼しいはずの朝稽古の段階で、汗を汗だと感じるほどの稽古は、めったにない。
湿度が高いのか、あるいは人口のせいなのか。

 その後、朝食→午前の稽古→昼食→午後の稽古、審査→夕食へとスケジュールは進んでいくなか、いつもなら稽古と食事の間には寸暇を惜しんで眠る「睡眠大好きっ子」のわたしが、それをいくらも欲することなく過ごしている。
眠ろうと思えば眠ることもできるのだが、起きていても大丈夫なくらいの状態なのだ。

 「エネルギー余り」を解消したい余り、午後の稽古後に数十分、ついにクーさんに投げてもらう。

受身が好きな身としてはこれ以上にない欲望を希望に変えて伝えると、快く引き受けてくれた。願望の成就である。

気がつくとその集団は、いつの間にやら数名に膨れあがり、誰もががんがん投げ飛ばし、投げ飛ばされていた。
 
そう、審査のないひとたちもまた、おそらくどこかで同じようにエネルギーがあまっていたのであろう。

夕食は新しくできたバーベキュー会場にて夕食。
いつもと変わらない(といっては失礼だが)食材のはずなのに、表に出て食べるとなぜにおいしく感じるのだろう。

 異常なほどの大雨の合間を縫って花火。自身のアホ度がはっきりと、そしてくっきりと思いっきり主張される。

 三日目の朝が来てもやっぱり同じ目覚めだ。かなりスムーズだ。
 
三日目の朝ともなると、「ううう、身体が痛い」とか「もうちょっと寝かして」などと思いながら、どろどろと起きだすことしばしばだが、これもまたない。

 昨晩も結局眠りに着くまでには、いろんなことがあり、しばらく時間がかかったはずなのにな。

 やっぱり合宿では、身体は自然に二泊三日仕様で確立し、成立しているんだろうか。そんなふうに思う。

 帰路は、すこし運転した。

 ドライバー歴6日である。

行きがけには、「車の所有者の先生になにかがあれば、運転できるんだ!」と免許を取ったのをいいことに軽い気持ちではあるが、これまでになく(いや同じか)エラソーな気分で、1パーセントくらいの決意は胸のうちに秘めていた。
だが、まさか本当に運転させてもらえるような状況になるなんて。

 やっぱりなかなかおもしろい。

 運転はいい。乗りたいなあ。

 合宿は楽しかった。よき時間に恵まれて、よき心地で戻れるというのは、なにより身体へのよきご馳走である。

 晴れ渡る秋空のように、じつにすがすがしい気分だ。

2004年9月25日

結婚の条件について考える

9月24日(金)
 夕方、先日結婚の決まった友人(女性)のその前祝いに誘われて出かける。

 結婚するという事実そのものよりも、どんな衣装で婚礼の儀に臨むのかよりも、旅行にどこへ行くのかよりも、「そもそも結婚を決めたきっかけはなんであったのか」、わたしにとっての興味の中心はただそれひとつであった。

 聞けば、その人が決めたきっかけは、相手に「頼れること」だそうだが、それ以外にも相手は「好き嫌いなくなんでもおいしく食べること(できれば大食いくらいに)」ができる人がよかったのだそうである。お相手の人は、この度見事、その条件をクリアしたということになるらしい。

 なるほど、こりゃあ、人生長く一緒に生きていくことを想定した場合には、かなり重要なことだ。
 
そう思いながら歩く道のりは、かなりすがすがしいものにみえた。

9月23日(木)
 彼岸の悲願。

9月22日(水)
 慌しいのは余り好きじゃない。

でも、うまいパスタは好きだ。

それもわりに幅の広い平麺に、どろりっとしたチーズが程よく溶け合っているようなものが好きだ。
チーズのパスタの場合なら、麺のどこの部をとっても、きちんとチーズが感じられ、麺と互いに生かし生かされ、素材の相性が程よくからみ合っているようなものが好きだ。

反対に、「この部分は生の麺の味がするけど、この部分はチーズだけだね」というような、あるべき姿のままを忠実に保存してしまったのは、余り好きではない。
それは、妙な分離が施されたものを口にするのは、食感としてはあまりいいものではないからだ。

「パスタとチーズの程よい混合」というのは、これがなかなか簡単そうで、パスタ本来の基本のようで、なかなかスムーズにいくものではないらしい。
ぴたっと調和の取れたものには、そういつも出合えるものとは限らない。しかし、きょうは運良く、かなり程よいものを食することができた。

 ところが、「運良く食する」ことができたゆえの交換だろうか、わたしはこの日、傘を日本のどこかに置き忘れてきてしまったようなのだ。

9月21日(火)
 いつものことだが、合宿が終わると途端に日常が押し寄せてくる。

 合宿という異空間のなかをのたうちまわり、転げまわりしていた状態を多少也とも引きずりながら、突然現実世界に戻ってくるのだから、当然といえば当然のことである。

これには合気道の合宿日程が、たまたま何かが終わる頃に近いために、そのように感じるのかもしれないけれど、この時期、なかなか切ないモノが、ぐぐぐっと目の前にやって来るのだ。

 ところで、思えばこの夏は、「合宿」と名が付くものが時間の多くを占めていた。
 その分、得るものは多く、実際に得たものもあり、緊張感のある日々をすごし、ぼけることなく、充実していた感が強い。

だが、同時に時間とは実にあっという間だということを感じずにはいられない日々だ。そして、その時間のなかで、どこか変化していく自分がいるということを感じることもまた、避けてはとおれない日々だ。

 何がどうという、具体的で大きなものではない。
 
おそらく誰の目にもそういったことの変化は表面的には見えないだろうし、自身でもうまくは語れないだろう。「語れない」というよりもむしろ語りたくないほうが、本来の我が心境があるならば、すこしそれに近いだろうか。

ともあれ、この身体を持ったわたしは、このところ急に、物事を受け止める感触について、ぐっと変化が訪れている。

「何かこれまでと違うなあ」と感じる瞬間が多々あり、その瞬間という時間が連続している中で生きているような気がする。

 かといって、原因や理由を追究したいわけでもない。
ただただ変わる時期があることをめずらしく自身の中で確認しているのみだ。

だから、いまはほんの少し、そのことを発見している状態だということをせめて記憶のなかに留めていたい。そんな気分なのだ。

2004年9月29日

雨降りだからサイードでも読んでみよう

9月28日(火)

突然な話だが文化というものは、それに何の疑いを持つことなく、
当たり前のように受け容れてしまうところがある、
といった面を持っているのではないか、といま改めて強く感じている。

ここで挙げる「文化」というのは、日本の場合を例にとれば、
なにも日本に来た外国人が、いたく興味や関心を抱くような
能狂言など伝統文化や茶華道、武道など、確定した形ある文化を指すのではない。

外国に行ったり旅行したりした日本人が、訪れた先の人間に、
「日本の文化って何ですか?」と尋ねられるときの、
いわゆるあの「日本文化」について触れているということでもない。

それよりも、もっと根本的に生活習慣根ざしたもの、
たとえば冠婚葬祭の仕方や礼儀作法、挨拶、コミュニケーションの図り方、
いわば限定的な場所やひと、地域を選ぶ「文化」についてなのである。
それについて、気になることがある。

なぜ、こんなことを言うのかと言えば、「ポストコロニアリズム」ということばを聞いて、
これまでどこかひっかかっていた衝撃というか流れというか、思考について、
漠然とだが確かなものを感じたわけだからである。

「文化」と呼ばれるものは何であれ、背景には、それを何らかのかたちで支え、
形成するための発生源とでもいえよう土壌(国や地域など)が深く関わっている。
これは、少し考えれば、誰でも容易に想像が付くことだろう。

ならば、その土壌たるものに、アイデンティティに深く根ざさない人々は
どのような文化を持つことになるのか。

自らで、自前の文化を創るのか。
あるいは、「母国」とされる場所から取り入れて来たものを
そのままのかたちで持ってくるのか。

「え?そんなひといるの?」とここで話をそらしたくはないが、
現に、そういうひとびとは、いるのである。

歴史的なことを振り返れば、いくらでもわかることだ。
望んでそうなったのではなく、求めてそうなったのではなく、
といった状況で生きているひとびとは世界中にいくらでもいることを。
(もちろん幸、不幸の感情は抜きにして考えた場合のことだと理解したい)。

ユダヤ人、アメリカの「黒人」と呼ばれる人びと、
韓国人、朝鮮人、中国人など植民地支配を受けた国や地域の人びと。

歴史的な流れの中で、自らの先祖の、または自分自身にとっての、
たとえそこに一度も足を踏み入れたことが無くとも「母国」とされるところから、
目に見える形で場所を奪われ、植民地支配をする国、支配を受けた国へと
送られてきたひとびと。

そういうひとびとは、「母国」とされる国と「植民地支配を行った国」との間で、
望むと望まないに関わらず、自らを感じていくことになってしまう。

だから、このようなひとびとにとっての文化とは、
簡単に「わたしのお国は~です」と言ってしまえるひとびととは、
まったく形成のされ方が違うはずである。

かといって、このひとびとは、どちらもの文化の両方を持つというわけでもない。
どちらの文化も持ち得ない状況にあることのほうが多いようだ。

一方でもなく他方でもない。
中間の立場であり、ハザマの人間なのである。

そして、ハザマに立つ人間にあるのは、どちらでもないという位置だけである。

また当事者としての語り口を持つ反面、
どこにも(どちらにも)帰属しない(できない)という語り口を持つ。

いつしか、このどちらでもないハザマであることは、
有効性を持ち、問題提起のきっかけとなり得た。

「ポストコロニアル」への理解が間違っていなければ、
その枠組を発生させたひとつの結果としてハザマに立つ人間があり、
ハザマに立つ人間が発生したからこそ名づけられた思想であるといえるだろう。
この際、どちらが先かは問題ではない。

問題は、私たちは、ハザマに立たされた人間を通して
さまざまな状況がじつはあることに気づかなければ、意味がないということである。

さて、何が言いたいのかといえば、
何かが当たり前の状況としてある状態にまったく疑うことなく浸りまくり、
誰しもに当然ある状況として、意味やゆがめられた過去などを汲み取ることが、
まるでできないままでいることは、どこか問題があるのではなかろうか
ということである。

自らの持つ用語で意味が通じないときは、通じない先の事柄や状況を
排除以前に受け入れない(いわゆる「なかったこと」にしてしまう)こと、
そして、通用する場所のみで話したり、ものを考えたりするのは、
ときにはかなり危険なことであるだろう、ということである。

文化とは、かなり身近なところにある印象がある。
それだけに生活に根ざしているものでもある。

文化に関わる出来事を、誰にとっても当たり前だと思い込み、
誰もが知る共通言語のようになってしまっている考え方や見方や捉え方が
発生しているそのことに気づかないのは、そうそう意外なことではない気がする。
知らぬうち、気づかぬうちの刷り込みは、なんでもかんでも受け容れている事態。

私たちにとって必要なのは、見せられた表象をそのまま鵜呑みにするのではなく、
意識して、さまざまなツールを通して理解していくことなのではなかろうか。

数が多いからと言って、賛成する者がたくさんいるからと言って、
支持者を獲得したからと言って、力を持つものが提唱したからと言って、
それがよきこととは、限らないことに気づかなければならない。

疑う余地もないままに、これまでずっと済ましてこられた表象ばかりに囲まれて、
その陰に潜む何かを見過ごしたままに生きているほうが、
ときには、きっともっと恐ろしいはずだ。


9月27日(月)

先週の木曜日、突如右目が腫れてきて、ひくひくと痛くなった。

最初は単なる疲れだろうよ、と思っていたが、その後も何度か鈍痛があり、
病院で処方された鎮痛剤を飲むと、うまくそれが効いてしまう状態だったので、
危険を感じ、きょうようやく眼科に出かけた。

病院へ足を運ぶのが遅くなったのは、本格的に危険を感じた以外に、
祝日に痛くなったのと、その後、病院に行く時間さえないまま過ごしていたこともある。

眼科医の診断によれば、下瞼の裏側には、
やっぱり何かができていたみたいだった。

眼の裏側を映した画面を見せてもらうと、ぷつっと白く腫れていた。
(あまり見たくない光景だ)。

そのまま放っておくと、やっぱり痛いままで治らないということで、
その場ですぐに点眼麻酔され、針でつぶされることになる。

つぶされるまえには、「ちょっと痛いですよ」と、
いわゆる「これは痛いですよ」の前ふりがある。

点眼麻酔というのがどれほどの即効性があるのかしらないが、
はい、とにかく痛かったです。

麻酔してもしなくても針で刺されることには変わらない。
麻酔しない場合の痛さを知らないから、それが効いているのかどうか、
痛みに関しての想像すらできないまま、「痛いねえ。しくしく」の状態。

おまけに、血の涙がだらだら。
眼の下の部分をいじくられるだけに、恐れを感じても、
瞼を閉じることもできず、どこかをじっと凝視し、眼は開けっ放しなのである。

視点を変えても、それなりに見えるものは見えるものである。
見ないようにするしかないのである。これがつらい。

少しの間とはいえ、なんだか、かるーい手術を受けたようだった。

しばらくはめがね生活。これがまた難儀である。


9月26日(日)

「人生の税金を払う」というのは、
なかなか辛い事実を伴うことがあるのだと痛感す。
しかし、その分、たのしいことも、いいこともあるのだということも実感す。
あるいは、たのしいことがあるのかもしれない。

まあ、いいじゃないか。
結局どこかの過去や未来で、うまく帳尻が合うのだろうよ。


9月25日(土)

きょうは祖父の命日である。

数年前に他界し、その後突如「かめじーさん」の姿で登場したり、
彼岸花を見るたび思い出したりする祖父が、
たぶん住む世界を変えることを決定的にした日である。

この祖父は母方であり、見た目にはわたしとは全く違うが中身のほうが
非常によく似ていたと言われる。(いや、順序からすれば、わたしが似ていたわけですが)。

もうひとり、会ったことはないが父方の祖父というのがいて、
こちらは外見がわたしによく似ていたらしい。

どちらにせよ、いわゆる隔世遺伝ってやつでしょうか。
わたしというのは、まったくもってそういうふうに生まれてきたみたいである。

お彼岸も近いので、祖父の墓参りに出かけることにしていた。
が、その数日前には急遽予定を変更し、この日の孫は、
さっさと合気道の稽古に行く。

心の中では、(じーさん、ごめんよ)と思いつつではあったが、
この変わり身の速さは誰に似たのか、何の悪びれもなく、
いきなり進路変更してしまえる精神はどこからきたのか、
わりとはっきりしているので、これでいいのである。ははは。

稽古には懐かしきたかおくんが、一時帰国で稽古に顔を出すことがわかっていた。
内田先生からは、「お休み」のご連絡を受ける。
そして、急遽わたしが合気道の指導を担当させていただくことになる。
予定変更は正解である。

稽古は偶然にも、全国各地から懐かしきメンバーが顔をそろえ、
汗だくのなか、盛り上がる。

いつもと違う空気のはずなんだけど、やっぱりどこか懐かしい。
何の違和感もなく、するっとそのまま時間が戻る感じがする。

稽古のみならず、その後のご接待!も、
とくに大きな空回りもなく、どこか華やいだ柔らかな雰囲気と
誰もが懐かしく思い出せる心地よい風を吹かせて、無事に終了。

互いに「みんな変わらないね」と感じ、言葉を掛け合う瞬間が多々あった。
でも、「変わらないね」ということばを投げかけあえるような時間の流れがあったこと、
そして、このような落ち着いたことばを掛け合う場面があること、
そこが一番変わったような気がした。

また次に、みんなで会うことがあれば、誰が何を思うだろうか。

とりあえず、どこかへ戻っていったたかおくんには、
来月の多田塾合宿のとき、また何人かは、会えるはずだ。

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