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2004年8月 アーカイブ

2004年8月 3日

っほっほう。がはがはがは

7月31日(土)
 きょうは月末。

7月30日(金)
 生きていると、ときどき、「マンガは描かないの?」と尋ねられることがある。

 「うーん、あんまりマンガは描かないですねえ」というのが、これまでのところのワタシの答えだ。

 昨日も今日も尋ねられた。きっと明日も尋ねられるだろう。

 幼い頃から確かにマンガにはとても興味があった。でも、それは読むことが中心で、「マンガを描く」という大きなこととなれば、ときおり描いた4コママンガくらいしか思い出せない。

とはいえマンガの絵やマンガに限らず、絵や顔やキャラクターがあると、しょっちゅう好き好んでそれらを描いていた。気に入った作家があると、そればかりを真似て描いていたものである。ほんとうに勉強も何もそっちのけで描いていたように、あきれるほどに描いていた時期がある。

そういえば、小学校2年生のときに、理科の宿題でとんでもないのが出た。
 
課題は「ザリガニの観察日記」。

 ザリガニを捕まえてきて、飼い、どのような生態なのか調べて描く、いうものである。もちろん時間がかかることなので、提出までに、2週間か3週間くらいの時間が与えられたと思う。

 「ザリガニを飼う!」

ぞっとした。

「ザ、リ、ガニ???」

そもそもワタシは、池やら沼やらそういう類のところへは、わざわざ行かないほうであった。理由は好きじゃないし、泥沼池には用がないから。そしてわざわざ行かないところなので、それがどこにあるのかも知らないのである。ましてやザリガニなんて。

そこですぐさま近所の男の子に頼んで、ザリガニのいそうなところを教えてもらった。
いや、ほんとうはその前に、ザリガニを持っていないか尋ねたのだった。借りて済むならそれで済まそうとしたのである。(我ながら恐ろしい子どもだ)。残念ながら、ちょうど逃がしたか、死んだところで、もっておらず、変わりに捕れる場所を教えてもらったというわけだ。

教えてもらったはいいが、ここで勢いよく問題発生。ワタシは、どうやってザリガニを手に入れるのかを、まるで知らないのである。

毎日よく会う隣のクラスの仲のよい女の子も、ザリガニ課題のために日々暗くなっていくワタシが気の毒に見えたのか、協力してくれた。

周囲の協力的な友達のおかげで、なんとか取り方があることまでは知った。しかし、またここで問題発生。初めにも言ったとおり、まったくもってザリガニに興味がないのである。そのくせ池か沼か知らないが、そこに行ったからといって、すぐさまザリガニが見つかるとも限らないということぐらいは、幼き日のワタシにも想像できてしまったのである。

さてどうしたものか。まるで興味のないものに、どうやって興味を起こさせるか。やる気を起こさせるか。自問自答の数日である。

「どこにいる?」「どうやってとる?」などの前準備だけは、すぐになんとかなったが、肝心のザリガニを手にすることがないまま時は流れ、とうとう明日が提出日という日になった。もちろん家のどこにもザリガニの姿はない。

生態記録を書かなければならない。

そこでワタシは、教科書でもノートでも図鑑でもなく、たまたま本棚に立ててあったドリルか何かを取り出して、ざざっとページを開く。とあるページに、なんとも格好よさそうなザリガニの写真が載っている。

「これだ!」と思った瞬間、ワタシはそれを丹念に写していた。

輪郭だけはきれいに真似るように描きこんだ。あとは、いかにも水槽か何かの中で飼っていたような感覚を出すために、石ころや植木鉢、海草などを「それらしく」きれいに並べて描いてみた。

出来上がった画は、ほんとうに、そこにいそうな感じがするほどの立派なザリガニだった。文字通り自画自賛。カッコよくかけた、と自分でも思った。

翌日、何食わぬ顔で提出したノートは、数日後、返ってきた。

担任の先生の評価は、いわゆる「花○」。しかも、「よくできましたね」というような褒め言葉つき。

見た瞬間、「っほっほう。がはがはがは」といった笑い声を、胸のうちに潜めておくので精一杯だった。これは7歳の頃の話。

7月29日(木)
 『踊る大捜査線THEMOVIE2』を見て、また泣いてしまった。ああ、和久さん。

7月28日(水)
 「手塚治虫の女性観」について発表する。

 発表にあたって調べていくうち、これは思ったよりも多くの問題を抱えているテーマであることに気づいた。今日の発表に関連したものは夏に書く。ワタシにとって夏とは、じつに8月のうちを意味する。
まずは最初の締め切りだ。

7月27日(火)
 たしか嫌いだったはずのイワシのフライを食べた。

7月26日(月)
 終日ごりごり。「ごりごり」と聞いて「ゴリエ」を思い出すことなんてない。決して。

7月25日(日)
怒涛の南大阪ツアーに行く。

 思ったほど日照りのなかを歩くことなく、結構涼しく過ごせる一日だったので、何かとことがスムーズに達成できたように思う。

 スマートボールというものを初めてしたが結果はしょぼしょぼ。やはりワタシは、ギャンブルとかいうものに、とんとご縁がありませぬ。(はまると、ひと財産すられるほどのものではないと思いますが、いちおう「18歳未満おことわり」の場所でしたので)。

 「歩くコアラ」というものも初めて見た。ひとまず感動。コアラという動物は、寝ている、食べている以外の時間は、ほとんどじーっとしていえて、木の上で過ごしているらしいから、そういった姿を見るのは動物園で暮らしてでもいない限り、珍しいことのように思う。ただどこか歩行慣れしていないような印象は拭えませんでした。
ところで、コアラになるって、どんな気分でしょうか。こちらはどこかでご縁がありそうです。

 大阪とは、歴史を感じる街並みも、独特の味付けも、異文化交流も平気の平左。それでも、何もかもそれぞれがちゃんと独立したかたちにみえるから「すごい」。

この街は、かなり興味深く、何度でも、おもしろい場所だ。

7月24日(土)
ミルクいちご。

2004年8月 8日

結局、買ったのは川上弘美だったけど

8月7日(土)
 本田秀伸選手のボクシングを観に行く。

 生まれて初めてのボクシング観戦である。

 本田さんのボクシングの身のこなしが非常に美しく、ボクシングに対して勝手に抱いていた、これまでのあまりよくないイメージ(暴力的、喧嘩、殴り合い、血を出すなど)が、きれいに払拭された。

 本田さんの動きはすごくきれいである。身のこなしがすごく素敵である。それは素人目にもよくわかる。身体を使うことにおいて、たまたま目の前にあったのが、本田さんにとってのボクシングだったってことのように、思えた。

8月6日(金)
 金曜のおかずはフライデイ。
題目「お気に召さなかったようで」を書いてみた。この前の翻案の『舞姫2004・勝手にその2』である。まあ、別ヴァージョンである。
ここに、貼り付けてもいいんだろうか?(いいよ、ウチダ注

8月5日(木)
昨日の課題を提出したのち、午前中は「小説」の何たるかを知るため、雑誌『J.J』(2004.8月号)の解読となる。『J.J』はタカハシ先生の愛読書だそうである。

この雑誌、これまで美容院か立ち読みくらいでしか触った経験がなく、まともに読んだことがない。しかし今日の話に寄れば、非常に興味深い謎が隠されていた。
『J.J』は、「かわいいイデオロギー」満載の言説の宝庫であり、かつまた小説なのだそうである。そして、今日まで、ワタシがこれまでそれを読まずに生きてきたのは、今日の説明からすれば、その本自体が、ワタシに向けて出されたものではなかったので、読者層にならなかったというだけのことかもしれないことになる。

 午後は昨日の課題の講評。
課題は、『虞美人草』、『たけくらべ』、『野菊の墓』、『舞姫』のうち、どれかひとつを選んで2004年度ヴァージョンとして翻案する、というもの。
 大笑いのものや、びしっと決まったもの、ちょっとした味のあるもの、切れ味のいいもの、どれも聞いても、とてもおもしろかった。小説の書ける人っていいなあ。

 最後は批評の仕方を熱く語るタカハシ先生がいた。

 あっという間の4日間は過ぎた。興奮はまだ深く息づいているようである。

興奮冷めやらぬ状態のまま、何がどう刺激的なのかわからぬまま、とにかく漱石が好きで、鴎外はやっぱり苦手で、明治文学はおもしろくて、「事実は小説より奇なり」ということばはほんとうで、いろいろ読みたい現代小説が出てくるワタシを感じた。この日、ワタシはなんとか歩いていることが精一杯の状態で、家路に着くのがやっとだった。

高橋先生、ありがとうございました。とてもおもしろかったです。

8月4日(水)
 本日は、伊藤左千夫の『野菊の墓』と森鴎外の『舞姫』。
 まずは映画ということで、『野菊の墓』(1980年代製作)を見る。あの松田聖子主演映画である。アイドル文芸映画というのもなかなか時代を象徴しているものらしいが、それよりもワタシは、松田聖子の顔の原型を見たことで、懐かしくも激しく新鮮な印象を受けた。

 どんな因縁か、午後には郷ひろみ主演の『舞姫』(監督:篠田正浩、1980年代)を観る。郷さんは何年経っても郷さんとわかる。やはり若い。「松田聖子の涙」ということばに対しては「郷ひろみのまゆ毛」かもしれない。

森鴎外の『舞姫』は、明治文学の骨格をはっきりと形付けたことを今再び知った。

 夜には記憶のある限り、おそらく初めての小説を書く。といっても翻案。諸般の事情で、ベースは森鴎外の『舞姫』である。

「我は石見人森林太郎の力を勝手に借りて、いまただちに小説を書こうと欲す」という具合だ。鴎外がのりうつってくれんかなあ。

8月3日(火)
 本日のお題は樋口一葉の『たけくらべ』と『にごりえ』。
なんとも実に興味深い「高橋家」のルーツを拝聴しつつ、最後には『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』につながってしまうんだから、「すごい」のひとこと。知らぬうちに影響力を及ぼしている一葉もすごいけど、タカハシさんもすごい。

 午前中は文学に合わせた映画鑑賞は、昭和の大スター美空ひばり主演の『たけくらべ』(監督:五所平之助)。ひばりさんが美登利役。「ひばりちゃん映画」をちゃんと見たのはこれが初めてだったが、18歳にしてあの貫禄。やっぱりスターは違うねえ、と驚き。

ただ、作品のテーマがテーマだけに、朝から、ずっしんっと重くのしかかってしまった。
道理で小学生の高学年の頃に初めて読んだ『たけくらべ』について、読んだことと登場人物の名前以外、まるで記憶がなかったわけである。
(こりゃあ、若いうちにはあんまり何のことか、わかりまへんわなあ~)と十数年ぶりの納得。


8月2日(月)高橋源一郎がやって来た!ヤアヤアヤア!
集中講義の初日。講師は作家の高橋源一郎氏。なぜか昨晩から、興奮してうまく眠れないのである。こんな緊張は滅多にない。おかげで朝からずっと眼がしょぼしょぼしている。

講義のお題は「日本文学史(   )」。(後半はカッコと読む)。

じつは日本文学史というのは小さい頃から、ぐにゃっと身体が捩れるほど好きである。
国語のなかでも日本文学史だけは、これまでもわざわざ個別の時間を割いて学んできたせいか、どこか特別な意識が働くのである。

 本日の講義は夏目漱石の『虞美人草』と尾崎紅葉の『金色夜叉』。

文学話の関連で映画をふたつ観た。偶然にもどちらの映画にも夏川大二郎がいる。演じるのは宗近君@『虞美人草』(監督:溝口健二)と間貫一@『金色夜叉』(監督:清水宏)である。これが、じつに濃いー顔なのである。本当に濃いー顔なのである。一度観たら忘れられない。嫌いではないが好きにもなれない。

初日講義の終了後、予想外にもタカハシ先生との懇親会を兼ねた食事会の末席を頂戴する!(内田先生ありがとうございました!)

会場は武庫之荘の「グロリア」。
めちゃうれしい!めちゃおいしい!です。(なお、ミーツ9月号にはこのお店の様子が掲載されています。山本画伯、ありがとうございました!)。

それにしても、ドバエ。それにしても、きゃべつ。

含蓄あるタカハシ先生のお言葉に朝から晩まで感激し続ける初日である。

8月1日(日)
 夕方になって突如、高橋源一郎だ!という思いにかられ、短パンにTシャツというとんでもない格好で、ほとんど知り合いには誰にも会いたくないような(ちょっと会えないような)格好で、勢いよく電車に飛び乗る。

ところが、書店に走って最初に手にしたのは黒柳徹子で、立ち読みしたのは森博嗣だった。結局、買ったのは川上弘美だったけど、いま読んでいるのは中島らもである。なはは。なにを欲しているのか、わからんな。

2004年8月10日

後悔することを前提にした愛、公開することを前提にしたヒミツ

8月8日(日)

たしか昨年も書いたような気がするが、きょうは裏誕生日である。ワタシの。
毎年どうもこの日が気になる。ほんとの誕生日よりも気になって、結構自分で楽しんでいる。
なにがあるってわけでもないし、何か特別な催しを行うわけでも、決まった人に会うわけでもない。だのに、どういうわけか意識が格別だ。なんだかうれしいのである。おかしな喜び方だけど。

ところで、きょうは、先日の翻案のベツモノをはり付けようと思う。先生の許可もでたことであるし。あのあと、やっぱり心残りがあって、ぎゃーっと一気に書いたのですよね。
ある意味、こっちの方が無意識に近いかもしれないなあ、などと思う。

『舞姫2004・勝手にその2』

だいたいさあ、オトコっていい気なもんだよね。
ひとのおなかに子を孕ませておいて、「ごめん、僕、キミとは結婚できなんだ。キミはひとりでも生きていけるよ。僕が保障する、じゃあ元気でね」ってなんて、いい気なもんだよ。まったく、ひとのこと、何だと思ってるの?
こっちはさあ、伊達や酔狂で、やってんじゃないよ。お金が欲しくてそんなこと言ってるんじゃないよ。愛にも恋にも仕事にも、身体はって生きてんだよ。
身体だって生きてるんだよ、無神経なモノじゃないんだよ。

それをなんだい、えらそうに。
キミしかいなかったんじゃないの?(別に、ずっとそうでなくてもいいけど)。
支えあってたんじゃなかったの?(別に、支えあってなくてもいいけど)。
互いの夢を語り合ったんじゃなかったの?(でも、これは事実だったはずだけど)。

まあ、いいよ。
甘い誘惑のことばの数々はあって、それにかかったこっちにも問題があったとしても、たとえいっとき心を寄せ合っていたこと、あれはなに、嘘だったわけ?
用が済んだら、はい、それまでよ~。で、さよなら?それでアンタの気はすんだのかもしれないけどさ、あのねー。アンタこれまで、相手の立場ってモノ、考えたことある?ひとには身体もあって、心ってモノがあるってこと、知ってる?


ああ、悔しい、悔しい。
ほんとに、なにさ、あのオトコ。トヨタローよ、トヨタロー!
あんなオトコに引っかかった私もバカだけど、あんなふうに親しくなれば、誰だって将来のこと、考えちゃうのが当然の筋じゃない。
別に結婚してくれってせまったわけじゃないし、別にそうなろうと思ったわけでもない。
でもさ、そういう雰囲気もことばもいつも投げかけてたの、あれはなんだったの?って聞きたくなる。あんまり、ひとの心も身体ももてあそばないでほしい。ある意味、あれは詐欺だよ。

ああ、悔しい、悔しい。
だから結局、敗因は教会の前で苦しんでる時に、甘い顔をしたところにあったのかもしれない!なんて考えてしまう。ええい!思い出すだに腹が立つ。

そうよ、あの日は、たまたま食べたフィッシュ&チップスが、お腹にあたったのよね。
急におなかを壊して、教会の前でうずくまってたの。まあ、いまでこそ私も「ロンドンっ子」って顔してるけど、当時はイギリスに戻った直後だったから(学生のときは親の仕事の都合でイタリア国内を転々としてたから)、それがまずいものだなんて知らなかったの。
小腹が空いて、なんか食べたいなーって思ったとき、目の前にフィッシュ&チップスがあったので、食べたの。そしたらなんと、それが大当たり!…って、当たりくじじゃないよ、お腹によ、お腹。もうおなかがイタイのなんのって。歩けない。動けない…話せない。
そんなこんなで、苦しくてうずくまっていた時、通りを歩いていたひとりの日本人が声をかけてきた。それがトヨタローだったわけ。それはそれは優しい声で「どうしたのですか?大丈夫ですか?」ってささやくように、声をかけてくれるのよ。そればかりか心配そうに顔を覗き込んでくるの。こっちは愛想笑いが精一杯。(だって苦しんでるんだから)。
それだけじゃ彼の気は済まなかったみたいで、おせっかいにも私を病院に連れて行くって言い出したわ。
こっちは単なる腹痛なのに、何を勘違いしたのか、胃の病気か、妊娠中のひとかなにかに見えたみたいだったのね。すごく苦しんでたふうに見えたのはたしかで、実際、あまりうまくことばが出せなかったから、有無を言わさず病院に連れていかれたのよね。だんだんと黙り込む私を見て、血相変えて、保護者みたいにしてついてくるオトコに病院に運ばれたわけよ。
でもさあ、どこの世界にお腹を痛くて苦しんでいる時に、ニコニコ笑って、さわやかに、「やあ、今日もいい天気ですね。きょうは一段とお腹が痛いんです!」なんて答えるバカがいると思うの。ちょっと考えたらわかるでしょ。それくらい。
あとから聞けば、彼は医学を齧ったことらしいけど、ほんとに医者なら、患者の様子を見てそんな大袈裟に慌てないはずよ。今にして思えば、「齧った」って事実だって、怪しいものよね。
それよりも怖いのは、よくよく考えたら、私、そのひとと初対面よ。全然知らないし、顔も見たことも、名前を聞いたこともない。いくら「苦しんでいる人を見たから」という理由があっても、普通、初対面でさ、それもよその国でさ、知らない女の子に声かけないことない?いくら英語が堪能だって言ったって、道端で苦しんでうずくまっている子に、そんなふうに声かけらんなくない?だからね、これ、ほんと、よくよく考えると、それって体のいいナンパだったかもしれないわけよね。
それでもさあ、親切心ゼロだったってことはないんでしょうよ。それなりに人助けをしてくれたのかもしれないけど、治ってからあとはもう何の関係もないじゃない。だから、親切にしてもらったことを伝えて、病院でちゃんとお礼を言って別れたわ。

ところが、あのトヨタローってのは、何でもないただの通りすがりだったのに、足しげく病院に来ては、退院までずっと毎日数時間はつきっきり。話はおもしろかったし、退屈しなかったからそれはそれでよかったんだけど。
退院後は、稽古場やうちにまで押しかけてくる始末。別にいやとか、そういうのじゃなくて、断るに断れない関係があったわけね。助けてもらった、という事実があるだけに、そう無碍にも扱えない。
まあ、とくに反吐が出るような嫌な感じもなかった。でもね、一時、「ナンなのでしょう?これ、私たちの関係って」と思ったわ。お友達でもないし、知り合いでもない。だからって、「好きです」とか「僕と付き合ってくれる?」とか「気になるんだ」みたいなことばもなかったわけだから。古めかしい「交際申し込み」を要求するわけじゃないけど、こういうことばって大事だし、必要だと思う。なんとなくのじゃれあいはよくない。馴れ合いも。
勝手にひとん家にやってきて、勝手に新婚旅行の行き先を決めるようタイプ。「誰が行くの?」って聞く間もないくらい、わくわくしながらガイドブックやパンフレットを見てるような、自分に酔ってるタイプ。ありゃあ、最低ね。別に彼がそうだっていうんじゃないけれど。ちょっと強引だった。まあ、でも、おもしろかったから時間としては付き合ってたし、たぶん互いに好きではあったんだろうな。

第二の敗因は、トヨタローってさ、相当なエリートだったことよね。
国際政治学を学びにこのロンドンに留学しにやってきてたの、単身でね。そのとき、すでに奥さんだか子どもだかが、日本にいたのかどうかその辺のことは詳しく知らないけれど、結婚してたのはたしかよ。だから私は、数年に渡る留学先の異国の地で、気晴らしにちょっと眼に止まった女の子ってことよね。それ以上もないしそれ以下でもない。そして永遠に何物にもなれない。それ以上になりたいっていうのじゃなく、そういう相手がいないと過ごせない、っていうのがいやだね。奥さんにだって失礼な話よ。
とにかくエリートだってことにだまされたのが失敗。エリートだったら、ことばをうまく使えたり、精神的にも助けてくれたりすることがあるかも、と考えたのが大きな間違いだった。
一時の慰め、要は、私の存在がそういうもんじゃないと思いたかったわ。偶然であれ、ナンパであれ、ひととの出会いがそこにあって、心が通い合うならば、互いを尊重できるものだと重たかったのよね。・・・なんて私も青かったこと。
でも、ほんとずるいよね。自分に家族があるなんてことは、ひとことも言わなかったのは。別にいてもいいんです。いたらダメなんじゃなくて、いるのならいるってきちんと言うべきで、さらに必要以上に親しくなってはいけないこと、最初から声なんてかけてはいけないということを、こっちがきちんと態度で示さなければならなかったから。

「ねえ、エリス、僕たちが日本とイギリスの架け橋になろう」なんて、歯が浮くような臭いことばは散々言ってたけどさ。

それでも、やっぱりまだ青かった私は、歯が浮くどーの、こーのじゃなくて、友好関係に一役買えるなら、それはまったくいいことだと思った。当時から私は俳優になることを夢見ていたし、それは別にイギリス国内に限られたことでもなかったから。演じる場所があればどこだってよかったの。トヨタローは、国際的に政治を考える立場なら余計に、実際に両国の人間がひとりでも多く知り合いになり、友達になることは大切なことだと思ったから。
なんであれ二人は結ばれなかった。たとえ、それが運命だったとしても、あの異常に責任逃れな態度は許せないわね。こっちはやっぱり身体ひとつで生きてる身なのよ。

何が国際政治学者よ。国際的にひとを、身体を傷つけておいて、なにが政治だ。
さらの問題は、彼がいろいろと私のことを書いて遺してるってことよ。
このまえ日本で公演があったから、寛大な心で持って私は、もう5年も前のことだからと、彼に会いにいったの。そしたら、本人は留守らしく?まったく出てこなくて、変わりに渡されたのは、彼の留学報告日記。印刷したものを家のお手伝いさんから渡されたわ。そこにはなんとまあ、私との愛のこともつらつらと書かれているわけ。後悔してるってことも含めてね。
でも、ひと目見て、わかったわ。これは後から書いたってこと。かなり最近になって書かれたってこと。インクの感じも、ノートの傷み方も、どこか真新しいし、それになにより、装丁がきれいすぎる。そうこれ、インターネットで配信されていた日記だったのよね。
もちろん彼が留学中から書かれていたみたいだけど、私は日本語堪能じゃないから、まるで知らないし、読めなかったのよね。当時は。
見せてもらったのは脚色がいっぱい。道理で、私とはまったく出かけてないはずの場所で、何度か出会ったことになってるわけだわ、こりゃ。
勝手にドラマが作られてるのを読みながら、「ああ!」と思ったわ。そしてわかったわ。
彼はこの中身に書いてあることを「後悔してる」んじゃなくて、すでに「公開してる」ってこと、そして、近々小説のかたちで、ほんとうに売り出されることを。
しまった、やられた!って思ったわ。
ああ、やんなっちゃう。ひどいオトコよ。あのトヨタローってのは。

とにかく私の人生、狂っちゃったのよ、どう責任とってくれるのよ。
どういうふうに書くのもどういうふうに記憶するのも公開するのも、別に、全部アンタの自由だけどさ、これくらいわかってほしいものよね。
ひとの身体は、ひとの心は、おもちゃじゃないってことくらいは。

2004年8月15日

却って鯉よ

8月14日(土)
ワタシは、大人になりたい。

8月13日(金)
いったいどこが『ハッピーエンド』なんだよう!と叫び出したくなるような韓国映画を観て、いくらか気分が滅入り、深く答え追求するのは疲れるので、話は忘れることにした。

涙で目を潤ませそうな場面でもって、なんとか心を浄化しようと、『ファインディング・ニモ』を観る。ニモちゃんに深く感謝。かわいい・・・と思う。一番驚いたのは、主役と思い込んでいたキャラクターがまったくべつのものだったこと。

大好物のうどんを食べて、静かに気を落ち着かせ、『ピグマリオン・コンプレックス』を読む頃には、眼がとろんとしてきた。

8月12日(木)
東西の哲学をされている方々の、語る何かがあるらしい。(いえ、お二人とも関西在住ですが)。
とにかく、そう聞けば、行かない手はない。ミーハーなワタシは、夕方、思い切って、三宮に足を運ぶ。

おひとりは鷲田清一先生、もうおひとりは内田先生。そこに中心に、ライターさん、東西「敏腕エディター」であられる方々、記者の方が座られる。ミーツの「哲学・上方対談」の場所に侵入したのである。まさに至福の拝顔、拝聴の儀である。

鷲田先生のご著書は、ほろほろと読んでいた。文体が好きで、さらさらと吸い込まれるような心地よい感触と、どこかおしゃれな感じがするからだ。そこには哲学のこと、が書かれているのを忘れそうなくらい。

さて、本物の鷲田先生にお会いして、お話を拝聴しているうち、私はこれまで、鷲田先生の本はすべて、いわゆる標準語音階で読んでいたことに気付いた。

「関西弁をしゃべる関西人は、関西弁で新聞雑誌、本を読んでいて、関西弁でモノを書いている」(@江弘毅)には、じつに毎回納得するところがある。

援用すれば、これは関西弁を話される鷲田先生(京都のご出身)のご著書は、関西弁で書かれていたということになろうか。さあらば、関西弁で読むべきかとも。しかし、それらがもし「標準語」の音声で書かれていたのなら、その音階で読むほうがリズムに合っているかもしれないと思う。

それにしても鷲田先生のコーディネートは、とても素敵だ。眼鏡もアクセサリーも、何もかもイカしている。つくづく服装や身につけるものは、その人を現すのだなあと思った。(途中、自分がいやになって、すぐさまうちに帰って、箪笥のなかのもの全部捨ててやろうかと思ったくらいである)。

「はんなり」という言葉が、そのまま生きて歩いているような方と、哲学。

哲学は、いいなあ。

ああ、哲学しよ。

8月11日(水)
 『野菊の墓』と『マイ・フェア・レディ』と『負け犬の遠吠え』と『スラムダンク』(完全版①~⑥)と『マルホランド・ドライブ』。

8月10日(火)
「帰って来いよ~」というので帰る。

8月9日(月)
先日、急に胃が痛くなった。
夕食も終わって、ひと段落し、ゆるゆると、その日一日を振り返っている夜も深く更けたころのことだった。
明日も早いし、すぐには眠れなくとも、今日は、そろそろ床に着いておこうか、というころであった。ふいに、急激な痛みが胃の辺りを襲ってきたのである。

急なことで最初は訳もわからず、のたうちまわっていた。ただただ横になっても、縦になっても、起き上がっても、斜めを向いても、痛く、治まるどころか激しい痛みが襲ってくる経験だけするばかりだった。
はじめのうちは、それがなんだとわからず、夕食に食べたモノか何かにあたったと思い込み、整腸剤を飲んだ。
だが、それなりの時間が経っても一向に治まらない。いつものように、腹具合が治まる気配はどこにもないのだ。
そうこうするうち身体はだんだんと眠くなってきた。眼がとろんとしてくる。しかし眠ることができない。
どの向きに面していても、胃が、おそらく胃の辺りが痛いからである。
眠い、痛い、眠い、痛い・・・。この繰り返しだ。
あまりの痛さに耐えかねて、薬の連続服用は身体によくないことはわかってはいても、たとえ市販の胃薬であっても、飲もうとした。しかし、普段はめったに服用しない胃薬である。それがいったい、どこに置いてあるのか即座にはわからないのだ。元気な状態なら、探し出すのはわけないことなのだが、今回は探し出すのに起き上がるだけで痛い。動いても痛い、動かなくても痛い。

こうなるとあとは、最小限の動きでそれがどこにあるのかを瞬時に思い出すことが先になってくる。電話も遠く、誰かに聞くことも呼ぶこともできない。(かといって、まともに話なんて、まずできなかっただろうが)。
それにしても、身体のどこかの痛さを伴った状態で物事を考える、というのは、まことにもって困難な状態である。

何度目かの痛みをこらえて、力を振り絞って、記憶を辿り、胃薬を見つける。
コップに水を入れ、飲む。しかし、当然だが、飲んだからと言って、すぐさま薬が効くわけではない。さっきまでと変わらず、横になっても、縦になっても、起き上がっても、斜めを向いても、痛い。治まるどころか激しい痛みが襲ってくる。もう真夜中もいいところである。
結局、落ち着いて目を閉じることができたのが、翌日のいつ頃なのかわからぬまま、朝を迎えた。全身、汗びっしょりだった。

ようやく時間の取れた今日、朝から内科に行く。
胃薬をたっぷりもらって帰って来た。しばらくは、きちんと朝夕の服用を命じられる。忘れないように、ちゃんと飲まなければなければならないな。
胃の痛くなる原因は、遅めの夕食、疲れ、睡眠不足、冷たいものの取り過ぎ、ストレスなどがある、と医者は言う。あと、いつもと違う日常を送るなどで、緊張による痛さもあるということらしい。「試験前の学生さんにも多いですよ」とも。
これまでも胃の痛くなる原因に、そういうことを聞かないでもなかった。
しかし誠にもって、心理的作用とは不思議なもので、「ストレスでしょうか?何か精神的な疲れはありませんでしたか?」と白衣を着た人に言われると、なんとなくその気になってしまうのだ。(とても穏やかな、感じのよい先生なので、まったくそこまで思い込むことはないのだが)
しかし、この身体の、いったいどこにストレスがあるというのだろう。
あるいは、見かけより、いくらか繊細にできているのだろうか。

2004年8月25日

ヒマヒマ星人合宿免許で修行中

8月24日(火)

一日抜けたせいか、スケジュールが乱れている。

普通免許では、実技は第一段階で一日二課程までと決まっている。

しかし、ワタシにはひとつしかない。

学科も終わっているので、昨日よりさらに暇暇状態。

気の毒に思ってくれたのか、朝の指導員は、受けていた実技が終わるなり、
すぐさま次の実技を探してくれたが、その甲斐虚しく、撃沈。残念無念。


だったら、宿にでもかえってりゃーぁいーじゃん、
てな話にもなりそうなもんですが、世の中そううまい話はないもんです。

ワタシがいるところは、午後3時までは開きませぬ。

3時になったら戻れる宿泊先には、時間が来たらすぐさま帰って、そのまま倒れこむよ
うに昼寝。

疲れてるかもしれないとはいえ、3時間まったく起きることなく眠り続ける。

どれだけでも眠れる、この体質!


8月23日(月)

これを書くことで、かろうじて曜日の感覚を捉えている。

暇という近代の感覚にもいくらか慣れてきた。

しかしまだ、学科や運転教本以外の本を日中に開く気にはなれないのだ。

それにしても道路交通法。

意外や意外、あんなにたくさんの例外があるもんなんですねー。

決定版なんて永遠に出ない法律でしょうね。

実技は無線教習。
はじめ、うっかりルートを間違えて、
例によって汚いことばでどやされるが、何とか気を取り直して修正、無事通過。

ひとりで運転するのは初めてで、たしかに緊張したが、ある意味、
隣に座ってとわやされて、嫌味を言われて、怒られるよりは、ましで、
よかったのではないか。

今日の指導員が、
わりとまともなことを言う部類だったからかもしれないけれど。

8月21日(土)

学科0の日。実技までだいぶ時間がある。

これが噂の空き時間、と気付くが早いか、
暇なのと練習とで、効果測定をまた二回受け、解説まで出る。

それでもまだ時間があったので、
『買い物バス』とかいう田舎に放り込まれた一群のために出される、

いかにもバスに乗って買い物に行く。
…って別に何もタランモノはないんですが。

ある種、息抜きです。

夕方が夜になった頃、実技。

わけのわからん理屈で、叱りとばす指導員。

ここの人ら、じんせーたのしーんかいな。
まあ、ひとのことやから、いいけどさ。

8月20日(金)

学科三つ、実技一つ。

ここに来てから、腹具合がよくない。
水があわないんだろうか?(生水なんて飲んでないけど)。

狭路の運転をする。

いわゆるS字カーブやクランクなんかですよ。これ。

なんとか突破。

しかし、できれば、
あんな道を運転しないといけないようなことには、人生なりたくないですね。

仮免前の効果測定を受ける。合格。


8月19日(木)

学科四つ、実技一つ。

実技では、わりと基本をしっかり学ばせてくれた。復讐いや復習。

ここに放り込まれて数日、世の中には、ほんといろんなひとがいるんだねー、
と思ってばかりいる。

ああ、もうこれは修業ですね。免許ってのは。

でも、修業できる身であることは、ありがたくもあるわけなんかかなー。
などと思うしかない。ね。


8月18日(水)

教習三日目。

学科一つ、実技二つ。

自分の運転にごちごちになる。
しかも今日当たった最初の指導員はかなり感じが悪い。

ぶつぶつ怒るは、文句は言うわ、怒ってくるわ。
かなり人を嫌な気にさせてくれます。

あのなー、おっさん。

誰が初めて乗った車で間違いなく、車線やウィンカーを定位置で出せますか!?

できたらフツーにできたら、あんた、そりゃ無免許運転ってことよ。

それを迎合するわけ?

二人目の指導員は、まあまあ話のわかる人だった。
言っていることがまともだ。

若い指導員、というだけでも、まだ救われただろう。

8月17日(火)

初めて技能講習。

つまりハンドル握って、アクセル踏んで、
ブレーキ使って、車に乗ってみるの。

しかし、生憎と雨。

きょう当たった指導員は、わりに親切な人だったが、終わり3分くらいで、
「あ、私、ちょっと、お腹が痛くなってきました」。

と覚えたての日本語を話すヨーロッパ人みたいな発音で、
最後は説明もそこそこ、早足に車を降りて行った。

模擬実技をひとつ。学科をひとつ。


8月16日(月)

合宿で自動車免許を取りに岡山へ。

地元のひとが見てたら悪いけど「岡山」とは名ばかりのところ。

だってここいら、コンビニや銀行まで自転車で往復1時間なんだそうであるよ。

「えっ?」と勢い聞き返してしまいました。

近隣の施設がこれですってさー。

別に普段からコンビニにそんな行かないですけど、
ないって言われると行きたくなる、これ人間の性。

尋ねた答えに、かなり暗い表情をしたのか、合宿係のひとに同情されました。

来たのが西宮と知れると、さらに同情は続きます。

2004年8月26日

ダメ出しうっきー、バルタン星人を想う

8月25日(水)

きょうは朝一の実技。

まだ太陽も高く昇る前の1限からである。(8:30〜9:20)

日差しを眩しく感じる暇などないまま、もくもくと無線教習。

見通しの悪い交差点の曲がり角は、やたらと出るタイミングが難しい。

たとえば右折する場合。

進行方向から曲がりたい方向(この場合は右)に車体を運びつつ、
左右と前方から車両が来ていないかを確かめるその過程で、
基本的に止まらず徐行し、中央線を横切ったり、踏んだりすることなく
曲がらなければならないからである。(ああ、書くだけでもややこしい)

ややこしや〜ややこしや〜


そんなことを言っていると、
先日、近所にお住まいのサトウ氏から、
思わぬ挑戦を受けてしまった期間限定名付け役のイワモト氏。

ま、ワタシのなんざ、たわいのないことオンパレードなので、
困るこたないでしょな。(あ、余計困るって?)

でもでも、「ヒマヒマ星人」って、なんだかさあ…。

そりゃたしかに、今、異世界にいますから、そう大きくは間違いでないんですけど。

でもねえ。

「星人」って聞くと、反射的にバルタン星人を思い出します。

バルタン星人って、どこかザリガニっぽいですよね。

ザリガニに似てますよね。

ザリガニからヒントを得たんでしょうか?

それにしても彼は、わざわざウルトラマン一派を追い掛けて、
はるか宇宙の彼方のから、見知らぬ地球にやって来たんでしょうか。

それとも、地球にある親戚でも会っているうちに、
うっかりウルトラマンに出くわしたんでしょうか。

高い空、運動会のマーチが聞こえる

8月26日(木)

「晴れ渡る空のもと!」なんて言うと、
小学生の頃にあった運動会の始まりの挨拶を思い出します。

運動会というのは、それまでさんざん練習してきて、
予行演習もあり、どの学年の何がどの辺で出てくるのか、
ことばも競技も出し物もみんなわかっているのに、いざ本番となれば、
ただならぬ緊張感とお祭り気分に巻き込まれたものです。

(そ知らぬ顔して、内心はしゃいでいたのは、言うまでもありません。
おや、実際もはしゃいでましたが)。

今日は、そんな日の朝を、懐かしく思い起こさせる朝なのです。

ここいらは、山に囲まれているせいもあってか、かなり涼しく、
風が心地よく、秋がもうそこまで来ていることを感じさせます。

もっとも運動会の日の朝は、大概季節は秋でしたから、
真夏のような暑さとは、すでに無縁な頃でした。

そうそう、そういや、これまた記憶を辿る話なので、
真偽のほどはわかりませんが、年々、運動会の日は
涼しくなっていったように思います。

小学校1年生のときが一番暑く、
6年生のときが一番涼しかったように思うんです。

ただ単に大きくなって、体力がついたわけじゃないでしょう。

どうでしょうか?

素朴な疑問です。

2004年8月27日

法隆寺 鐘の鳴らない 午後三時

8月27日(金)

香り松茸味しめじ。

大捜査線は織田裕二。

世界遺産の城、姫路。

「関口智宏」、これは誤字。

2004年8月29日

おじさん歴の長いおじさんと語らう

8月29日(日)

おめでとう、ぺ・ヨンジュン!


8月28(土)

自動車学校の「ロビー」と呼ばれる休憩所には、
たくさんの机やら椅子が置いてある。

自販機が設置され、ときには合宿参加者が大声で騒いだり、
話したりしているのが聞こえてくる。

ここはまた、二つの建物を行き来する通り道を兼ねているので、
時間帯によっては、ひとの出入りがかなり激しくなる。

わりと大きめのテレビもあって、朝から晩までほぼ一日中、
NHKが流されっぱなしだ。

ここで見たことのない今期、
朝の連ドラの主題歌を歌うミーシャの声を、何度となく聞いた。

そんな場所にある机の一角でコースマップを見ながら
—おそらく難しい顔をしていただろう—座っていたら、
隣に座っていたおじさんが、ふいに話し掛けて来た。

「おじさん」といっても、もうとっくに60は済んだくらいで、
こちらの推測年齢からすれば、すでに「おじいちゃん」の域に入ることに、
何ら違和感を感じさせない頃合だ。

愛用車は、ずばり白の軽4トラックを思わせる。
稲穂がぴったりきそうな、いかにも田舎のおじちゃんである。


「試験、受けに来たんか?」

顔をあげた瞬間の、ふいに急な質問だったので、
「は、はい」と答えるのが精一杯だった。

「そおかあ…」と、なぜかしらおじさんは感慨深げに納得している。

そのままなのも悪い気がして、とっさに
「おじさんは、何をしに来られたんですか?」と尋ねてみた。

というのも、そのおじさんは、
見るからに教習を受けに来た感じではなかったからだ。

同じように椅子に座り、机に向かっている割りには、さっき、
ちらっと見たかぎりでは、携帯電話の説明書や、
なにかコンピューターに接続するための機器の説明書など、
とにかく昨今「取説」の名でとおるあの手のモノをじっと見つめている。

しかも格好は、チェックとおぼしき紺色系の単パンに、
どういうわけか、ふんだんに縦縞か何かの模様のある半袖のシャツを羽織り、
頭にはおじさん調の麦わら帽子、足元は鼻緒は黒の草履という姿。

独特の素朴さがある。

ともあれ教習には、
おそらく禁止されているはずの出で立ちなのである。

おじさんの答えは次のようなものだった。


「いや、女房のな、つきそいで来とるんよ。
高齢者のな、講習を受けて、その証明を警察に出して、
それから免許が更新されるんよ」

「そうなんですか、そういうのがあるんですね、この頃は」。

「この頃はなあ、年寄りの事故が多いからなあ、
こういうのも、せなあかんようになってきた」。

「なるほど。で、それは、長いことかかるんですか?」

また尋ねてみた。

なぜなら、外は、気のはやい夕立が降りだしていて、
おじさんは、空模様を気にしながら話していたからだ。

「いや、なんや一日で済むらしいわ。いちおう2時間の講習ゆうとるけどなあ…」

「待つのも、たいへんですね」

にっこりと笑いながらこう答えると、
どちらからともなく、目線は互いに元のところへ戻された。

数十分した頃、おじさんの側には「女房」と思われる女性(おばさん)が
近づいてきて、講習は、思ったより時間がかかりそうだと説明していた。

おじさんに、ずっとここで待ってもらったままなのも悪いし…
というようなことも、どこか加えながらのやり取りがなされていた。


そのあとも、結局おじさんは待っていた。

そしてまた、もくもくと、携帯電話の説明書を見ていた。
カメラのところを熱心に見ていた。

ときには空を眺めていた。

2004年8月30日

うっきー一族の家訓!第58条

8月30日(月)

「仮免のとき、脱輪だけは、したらいけないよ」

合宿免許に来る前、ワタシが親から言われたことばである。

「脱輪」というのが、いったいどのような事情や事態によって起きることなのか、
言われた当初、じつは本人は、いまひとつ意味がわかっていなかった。

「脱輪?ふーん」

と答えたものの、とにかくしないでおこう。

そう、心に決めて向かったものである。

なぜ、わざわざそんなことを言われたかといえば、
それは父が免許を取るとき、仮免で脱輪した苦い経験があるからだそうだ。

聞いた話では、父は仮免前日、飲み会か何かがあり、
夜遅くまで、しかも普段飲む以上に多くアルコールを摂ってしまい、
翌日、見事二日酔いがたたったらしい。

以後、我が家では、そして、そのことを知る親戚のあいだでは、
車の免許を取るという人物が現れると聞くが早いか、
必ずどこかで誰かが、「え?仮免受けるの?脱輪せんようにね」
と言うことになっていたようである。

さて、こうして、ひとりのなんでもない出来事が、
時と場所を越えて、限定的な特有の意味をもつ挨拶になり変わってしまった。

しかし実際、脱輪した人など、親戚のなかでは、未だかつて聞いたことがない。

誰も、そんな悪魔の囁きのような言葉に、耳を貸さなかったからだろう。

いやはや。

2004年8月31日

台風より速く走れ

8月31日(火)

昨日は、台風16号の影響で、朝からずっと暴風警報が発令されていた。

ここに来てから三つ目の台風になるが、警報が出されたのは、
これが初めてのように思う。

夕方には、ずばり中国地方に上陸した。

激しい暴風雨という以外は、
普段あまり大きな被害を受けることのない場所なのだそうで、
珍しいことだそうだ。

期間限定的訪問者は、なんとか無事に過ごしている。

だが、全国各地の誰もがみな、そうとは言えない。

見聞きしているニュースでは、あちこちの被害状況が伝えられてくる。

見るたび、うまく、そして早く、日本海にそれ、
台風が何でもなくなればいいと願ってばかりいた。

時速80キロくらいで、どっか行ってくれんかね、とも思った。

そんなワタシは、初めて路上で時速50キロを体験。

アクセルを踏みすぎて、時速60キロにも一瞬達した。

危うく法令違反である。

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