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雨降りだからサイードでも読んでみよう

9月28日(火)

突然な話だが文化というものは、それに何の疑いを持つことなく、
当たり前のように受け容れてしまうところがある、
といった面を持っているのではないか、といま改めて強く感じている。

ここで挙げる「文化」というのは、日本の場合を例にとれば、
なにも日本に来た外国人が、いたく興味や関心を抱くような
能狂言など伝統文化や茶華道、武道など、確定した形ある文化を指すのではない。

外国に行ったり旅行したりした日本人が、訪れた先の人間に、
「日本の文化って何ですか?」と尋ねられるときの、
いわゆるあの「日本文化」について触れているということでもない。

それよりも、もっと根本的に生活習慣根ざしたもの、
たとえば冠婚葬祭の仕方や礼儀作法、挨拶、コミュニケーションの図り方、
いわば限定的な場所やひと、地域を選ぶ「文化」についてなのである。
それについて、気になることがある。

なぜ、こんなことを言うのかと言えば、「ポストコロニアリズム」ということばを聞いて、
これまでどこかひっかかっていた衝撃というか流れというか、思考について、
漠然とだが確かなものを感じたわけだからである。

「文化」と呼ばれるものは何であれ、背景には、それを何らかのかたちで支え、
形成するための発生源とでもいえよう土壌(国や地域など)が深く関わっている。
これは、少し考えれば、誰でも容易に想像が付くことだろう。

ならば、その土壌たるものに、アイデンティティに深く根ざさない人々は
どのような文化を持つことになるのか。

自らで、自前の文化を創るのか。
あるいは、「母国」とされる場所から取り入れて来たものを
そのままのかたちで持ってくるのか。

「え?そんなひといるの?」とここで話をそらしたくはないが、
現に、そういうひとびとは、いるのである。

歴史的なことを振り返れば、いくらでもわかることだ。
望んでそうなったのではなく、求めてそうなったのではなく、
といった状況で生きているひとびとは世界中にいくらでもいることを。
(もちろん幸、不幸の感情は抜きにして考えた場合のことだと理解したい)。

ユダヤ人、アメリカの「黒人」と呼ばれる人びと、
韓国人、朝鮮人、中国人など植民地支配を受けた国や地域の人びと。

歴史的な流れの中で、自らの先祖の、または自分自身にとっての、
たとえそこに一度も足を踏み入れたことが無くとも「母国」とされるところから、
目に見える形で場所を奪われ、植民地支配をする国、支配を受けた国へと
送られてきたひとびと。

そういうひとびとは、「母国」とされる国と「植民地支配を行った国」との間で、
望むと望まないに関わらず、自らを感じていくことになってしまう。

だから、このようなひとびとにとっての文化とは、
簡単に「わたしのお国は~です」と言ってしまえるひとびととは、
まったく形成のされ方が違うはずである。

かといって、このひとびとは、どちらもの文化の両方を持つというわけでもない。
どちらの文化も持ち得ない状況にあることのほうが多いようだ。

一方でもなく他方でもない。
中間の立場であり、ハザマの人間なのである。

そして、ハザマに立つ人間にあるのは、どちらでもないという位置だけである。

また当事者としての語り口を持つ反面、
どこにも(どちらにも)帰属しない(できない)という語り口を持つ。

いつしか、このどちらでもないハザマであることは、
有効性を持ち、問題提起のきっかけとなり得た。

「ポストコロニアル」への理解が間違っていなければ、
その枠組を発生させたひとつの結果としてハザマに立つ人間があり、
ハザマに立つ人間が発生したからこそ名づけられた思想であるといえるだろう。
この際、どちらが先かは問題ではない。

問題は、私たちは、ハザマに立たされた人間を通して
さまざまな状況がじつはあることに気づかなければ、意味がないということである。

さて、何が言いたいのかといえば、
何かが当たり前の状況としてある状態にまったく疑うことなく浸りまくり、
誰しもに当然ある状況として、意味やゆがめられた過去などを汲み取ることが、
まるでできないままでいることは、どこか問題があるのではなかろうか
ということである。

自らの持つ用語で意味が通じないときは、通じない先の事柄や状況を
排除以前に受け入れない(いわゆる「なかったこと」にしてしまう)こと、
そして、通用する場所のみで話したり、ものを考えたりするのは、
ときにはかなり危険なことであるだろう、ということである。

文化とは、かなり身近なところにある印象がある。
それだけに生活に根ざしているものでもある。

文化に関わる出来事を、誰にとっても当たり前だと思い込み、
誰もが知る共通言語のようになってしまっている考え方や見方や捉え方が
発生しているそのことに気づかないのは、そうそう意外なことではない気がする。
知らぬうち、気づかぬうちの刷り込みは、なんでもかんでも受け容れている事態。

私たちにとって必要なのは、見せられた表象をそのまま鵜呑みにするのではなく、
意識して、さまざまなツールを通して理解していくことなのではなかろうか。

数が多いからと言って、賛成する者がたくさんいるからと言って、
支持者を獲得したからと言って、力を持つものが提唱したからと言って、
それがよきこととは、限らないことに気づかなければならない。

疑う余地もないままに、これまでずっと済ましてこられた表象ばかりに囲まれて、
その陰に潜む何かを見過ごしたままに生きているほうが、
ときには、きっともっと恐ろしいはずだ。


9月27日(月)

先週の木曜日、突如右目が腫れてきて、ひくひくと痛くなった。

最初は単なる疲れだろうよ、と思っていたが、その後も何度か鈍痛があり、
病院で処方された鎮痛剤を飲むと、うまくそれが効いてしまう状態だったので、
危険を感じ、きょうようやく眼科に出かけた。

病院へ足を運ぶのが遅くなったのは、本格的に危険を感じた以外に、
祝日に痛くなったのと、その後、病院に行く時間さえないまま過ごしていたこともある。

眼科医の診断によれば、下瞼の裏側には、
やっぱり何かができていたみたいだった。

眼の裏側を映した画面を見せてもらうと、ぷつっと白く腫れていた。
(あまり見たくない光景だ)。

そのまま放っておくと、やっぱり痛いままで治らないということで、
その場ですぐに点眼麻酔され、針でつぶされることになる。

つぶされるまえには、「ちょっと痛いですよ」と、
いわゆる「これは痛いですよ」の前ふりがある。

点眼麻酔というのがどれほどの即効性があるのかしらないが、
はい、とにかく痛かったです。

麻酔してもしなくても針で刺されることには変わらない。
麻酔しない場合の痛さを知らないから、それが効いているのかどうか、
痛みに関しての想像すらできないまま、「痛いねえ。しくしく」の状態。

おまけに、血の涙がだらだら。
眼の下の部分をいじくられるだけに、恐れを感じても、
瞼を閉じることもできず、どこかをじっと凝視し、眼は開けっ放しなのである。

視点を変えても、それなりに見えるものは見えるものである。
見ないようにするしかないのである。これがつらい。

少しの間とはいえ、なんだか、かるーい手術を受けたようだった。

しばらくはめがね生活。これがまた難儀である。


9月26日(日)

「人生の税金を払う」というのは、
なかなか辛い事実を伴うことがあるのだと痛感す。
しかし、その分、たのしいことも、いいこともあるのだということも実感す。
あるいは、たのしいことがあるのかもしれない。

まあ、いいじゃないか。
結局どこかの過去や未来で、うまく帳尻が合うのだろうよ。


9月25日(土)

きょうは祖父の命日である。

数年前に他界し、その後突如「かめじーさん」の姿で登場したり、
彼岸花を見るたび思い出したりする祖父が、
たぶん住む世界を変えることを決定的にした日である。

この祖父は母方であり、見た目にはわたしとは全く違うが中身のほうが
非常によく似ていたと言われる。(いや、順序からすれば、わたしが似ていたわけですが)。

もうひとり、会ったことはないが父方の祖父というのがいて、
こちらは外見がわたしによく似ていたらしい。

どちらにせよ、いわゆる隔世遺伝ってやつでしょうか。
わたしというのは、まったくもってそういうふうに生まれてきたみたいである。

お彼岸も近いので、祖父の墓参りに出かけることにしていた。
が、その数日前には急遽予定を変更し、この日の孫は、
さっさと合気道の稽古に行く。

心の中では、(じーさん、ごめんよ)と思いつつではあったが、
この変わり身の速さは誰に似たのか、何の悪びれもなく、
いきなり進路変更してしまえる精神はどこからきたのか、
わりとはっきりしているので、これでいいのである。ははは。

稽古には懐かしきたかおくんが、一時帰国で稽古に顔を出すことがわかっていた。
内田先生からは、「お休み」のご連絡を受ける。
そして、急遽わたしが合気道の指導を担当させていただくことになる。
予定変更は正解である。

稽古は偶然にも、全国各地から懐かしきメンバーが顔をそろえ、
汗だくのなか、盛り上がる。

いつもと違う空気のはずなんだけど、やっぱりどこか懐かしい。
何の違和感もなく、するっとそのまま時間が戻る感じがする。

稽古のみならず、その後のご接待!も、
とくに大きな空回りもなく、どこか華やいだ柔らかな雰囲気と
誰もが懐かしく思い出せる心地よい風を吹かせて、無事に終了。

互いに「みんな変わらないね」と感じ、言葉を掛け合う瞬間が多々あった。
でも、「変わらないね」ということばを投げかけあえるような時間の流れがあったこと、
そして、このような落ち着いたことばを掛け合う場面があること、
そこが一番変わったような気がした。

また次に、みんなで会うことがあれば、誰が何を思うだろうか。

とりあえず、どこかへ戻っていったたかおくんには、
来月の多田塾合宿のとき、また何人かは、会えるはずだ。

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2004年9月29日 08:06に投稿されたエントリーのページです。

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