9月3日(金)
だんだん疲れてきたみたいだ。
その様子は、明らかに表に現われているようである。
とくに顔。
すごくねむたそうに見えるらしい。
顔には、「くま」があるみたいに見えるらしい。
受付の人は「元気?」と声をかけてくれた。
だが、すみません、わりと昔からこんな顔なんです。
生まれつきです。これ。
元気と言えば元気。
そうでないと言えば、そうでない。
一昨日などは、先日と同じように机に椅子の場所で座っていたら、
見知らぬおばさんまでが声をかけてくれた。
「すごくねむたそうよ、よかったらガムでも食べて」と言ってガムをくれた。
(しかし、どうしておばさんなるものは、
ああもカバンにお菓子を忍ばせているものなのだろう)
もらったガムをかみ、他愛のない世間話をするうち、
おかげで、だんだんと目も覚めてきた。
そのおばさんは、昨日は、のど飴をくれた。
(やっぱり違うお菓子がちゃんと出てくる!)
教習時間の加減で昼抜きになってしまったワタシを、
気の毒に思って、くれたみたいである。
のど飴はあんまり好物じゃないのだけど、ちょっとうれしかった。
9月2日(木)
朝食には、ゆでたまごが出る。
普段、つくってまで食べることがないので、
最初は珍しさも手伝って、もそもそと食べていた。
しかし、毎日のように出てくると、当然のように飽きもくる。
どちらかといえば、朝の卵は目玉焼きかオムレツが好みで、
時間と気が向いたら卵焼きをする派なのだ。
(卵焼きはもちろん甘い…。
中学に入るまで、それが標準的な卵焼きの味だとずっと思っていた。
どうやら地域によっては、塩味もあるらしい)。
言い忘れついたが、ここの食事は朝昼夜とあって、
味噌汁とご飯はお代わり自由、おかずは日替わりで、
入口に飾られた見本の献立に従って、セルフサービスで
盛り付けていくシステムになっている。
たくさん食べたい人は予め山のように盛り、
少ない少なくてすむ人は少ないままに、
嫌いなものや苦手なものがあれば、取らずに見過ごすこともできる。
おそらくは、ゴミを残飯を出さないための方法だろう。
とにかく、こういうわけで、ゆでたまご選択権を大いに活用し、
気が向けば食べ、気に食わなかったら見向きもしないでいる。
ところで、ゆでたまごを食べるとき、気づいたことがある。
これまで、なぜ一度も気づかなかったのかというくらい単純なことだ。
ですから、ここからは適当に飛ばして読んでください。
卵には殻がある。
ゆでたまごになっても「殻がある」という事情は同じで、
通常食べるときは、その殻をむく。
あるいは、殻を割って中身を取り出す。
殻をむくとき、ワタシは右手で、コンコンッと、
堅い面やモノに力を加えて殻に罅を入れ、それからむく。
むくのは左手。
右手でコンコンッ。
左手でバリバリッ。
むいていく。
右手は卵を全体的に支え、左手が細かな作業を行う。
最後まできれいにむけたら、卵を右手におさめ、塩をつけて食べる。
この一連の動作のなかで、ワタシは右利きなので、
これまでずっと右手でむいて、右手で食べていたと思っていた。
しかし事実は逆で、左手でバリバリッとむいていた。
右手は単なる支えだった。
試しに左右動作を逆にして殻をむいてみたが、
どうも気持ち悪いし、手や指がうまく使えない。
途端、使い勝手が悪い手になる。
何かほかに、これに似たものはないかと思い出してみたら、
みかんの皮を剥くとき、というのがあった。
右手でみかんを支え、左手でむく。
そして、右手で食べていた。
携帯電話もかけるときや受けるとき、左手を主流に使っていた。
もちろん番号を押すときも、メールを打つときも、みな左手だ。
左手の親指だ。
これも試しに右手で使ってみたが、無理矢理な感じがして、とてもやりづらい。
ほかにも探せば、生活全般のいろんなところで、
知らないうちに左手を使っているかもしれない。
ところで、利き腕が何十年かに一度変われるものなら、
世の中はもっとすごしやすい気がする。
そして、きっと多くの「左利きかもしれない症候群」が存在し、
「右手がこんなに使えていいかしら」と喜びに溢れるひとびとがあり、
「右利きなんて怖くない」とか言い出すかもしれないだろう。
ほらね。
だから、どーよって話なわけだ。