「サイモン・ラトル、ロンドン交響楽団による来日公演(マーラー交響曲第9番)を聴いて」

9月28日、横浜みなとみらいホールでのサイモン・ラトル、ロンドン交響楽団による日本公演を聴いた。

サイモン・ラトルは、今年(2018年)の6月にそれまで16年間務めたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を辞した。そして、9月からはロンドン交響楽団の音楽監督に就任した。
今回の来日公演は、新たに手勢となったロンドン交響楽団を率いての公演ということで、どんな演奏を披露してくれるのだろうとの興味から、公演のことを知った4月、すぐにチケットを手配して5ヶ月後の公演を楽しみに待っていたのだった。

僕がサイモン・ラトルという指揮者のことを知ったのは、確か彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する経緯を取材したテレビ番組であったと思う。その番組内では、ラトルがマーラーの交響曲第7番をリハーサルしている場面が紹介されていた。第4楽章のセレナーデの後半部分を、できるだけ弱音で演奏するようにリハーサルしているシーンが印象的だった。

その指揮者としての実力を思い知ったのは、ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任した直後に演奏したマーラーの交響曲第5番の演奏だった。首席ホルン奏者であるシュテファン・ドールを指揮者のすぐ横に立たせ、まるでホルン協奏曲のように演奏した第3楽章もよかったが、何より感心させられたのは終楽章の演奏であった。
どちらかと言えば、最後のフィナーレに至るまでが間延びしがちな演奏の多いこの楽章を、ラトルは聴き手をまったく飽きさせることなく、それぞれのパッセージを有機的に際立たせながらフィナーレへとなだれ込んでいったのである。僕はすっかり彼の演奏の虜になってしまった。

それから、次々とラトルによるマーラー演奏のCDを買い求めた。ベルリン・フィルとのCDはまだ少ししか発売されていなかったので、ほとんどは前任のバーミンガム市交響楽団との演奏であったが、これが粒揃りの名演(3番はあまりよくなかったですが)ばかりであった。
中でも、とびっきりの名演は交響曲第2番と6番であった。2番は、演奏に25分近くも要する長大な第1楽章が少しも長いと感じることなく聴けた。どうやら、サイモン・ラトルという指揮者は、やや退屈に聴こえるような楽章でも、いかに興味深く聴かせるかというところに特異な能力を発揮するらしいということがわかった。
6番は、第1楽章の出だしから圧倒された。かつて聴いたことのなかった迫力でリズムを刻むコントラバス!そして、まさに阿鼻叫喚という形容が相応しい終楽章。スコアをその細部に至るまで徹底して読み込み、あらゆるパッセージを「意味あるもの」として位置付けるとともに、それらの音符の背後にある作曲者のパッションを余すところなく表現した演奏であった。

そんなサイモン・ラトルが、世界屈指のヴィルトゥオーソの集まりであるベルリン・フィルの首席指揮者に就任したということで、その期待はいやが上にも高まっていったのであった。

ところが、である。もちろん、ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任してからのCDもいくつか買い求めてみたのだが、どうも心にぐっと迫ってくるものがないのである。
典型的だったのは、マーラーの交響曲第9番。かつて、ベルリン・フィルはジョン・バルビローリの指揮で、この交響曲第9番の後世に残る名演を残している。ラトルにもそんな名演を期待したのだが、期待が大きすぎたためか、僕の耳にはバルビローリの演奏を超えるような感動はなかった。
何がよくないのか。バーミンガム市響との演奏では、指揮者ラトルがイニシアチブをとって演奏しているということが実感させられたのだが、ベルリン・フィルとの演奏では、そんなイニシアチブがあまり発揮されていないように感じたのである。サイモン・ラトルといえども、歴史があり世界一と言われる名手揃いのオーケストラを前にして、演奏者の自発性を重んじたところが裏目となって出たのであろうか。
そんなこともあって、それからはサイモン・ラトルとベルリン・フィルによるCDは、あまり買い求めなくなってしまった。
CDは買わなくなったが、ヴァルトビューネ・コンサートやヨーロッパ・コンサートなど、BSで時折り放送されるライブ映像は、録画してよく見ていた。ライブでは、CDから受けるような印象を感じることはなかった。

そして、ついにサイモン・ラトルがベルリン・フィルを去る日がやってきた。最後の定期演奏会に選ばれたのは、マーラーの交響曲第6番。その一部始終がBSで放送されることを知った。かつてバーミンガム市響との名演を思い出して、これは絶対に見逃せないとの思いで、録画予約をして放送される日を待っていた。

7月、録画したマーラーの6番を聴いた。かつて驚愕した第1楽章の出だしは、まあこんなものかという感じ。ところが、テンポが落ちるところになると途端に音楽が流れなくなった。
6番では、サイモン・ラトルは緩徐楽章であるアンダンテ・モデラートを、よく演奏される第3楽章ではなく、第2楽章に置く版で演奏する。今回もそうであったが、この緩徐楽章が流れないのである。まるで、川の水が淀みで流れなくなっているかのように。

僕は、個人的にこの6番の緩徐楽章が、マーラーのすべての交響曲の楽章の中でも特に好きな楽章である。安らぎと平安に満ちた生活も、時にどうしようもない悲しみで包まれることがあるが、この楽章の最後ではそんな人の力ではどうしようもない運命に苛まれる者の慟哭を聴くような感じがするからだ。
かつて、レナード・バーンスタインは、ウィーン・フィルを指揮した演奏で、この場面を唸りながら指揮していた。ところが、ラトルの演奏では、そんな思いが伝わってこないのである。ベルリン・フィルとの最後の定期演奏会なのに。

そんな経緯もあって、今回のロンドン交響楽団とのマーラーの交響曲第9番では、実際にサイモン・ラトルがどんな指揮をするのだろうとの興味から、通常の演奏会では舞台とは反対側の観客席ではなく、舞台側のパイプオルガンが設えられたところの下の席をチョイスすることにした。これなら、最初から最後までサイモン・ラトルの指揮ぶりを堪能することができるからだ。

演奏会は金曜日の夜であった。午前中の仕事を終え、その日が仕事休みだった家内と連れ立って、トゥインゴにて集中工事の期間中であった東名高速道を横浜町田インターまで、さらには保土ヶ谷バイパスを経て、横浜スタジアム近くのホテルにチェックイン。中華街にて早めの夕食を取り、地下鉄にてみなとみらいホールへ。

地下鉄みなとみらい駅の改札を出て3階分のエスカレーターを上ると、ホールは目の前である。既に入口には入場を待つ観客の列ができていた。さすがの人気と思っていたのだが、実際に舞台側の席に着席してみると、反対側の客席にはかなりの空席が目立った。開演直前でも7割弱の入りではなかったろうか。平日の夜ということも空席の理由だったかもしれない。

開演を知らせるゴングが鳴り、楽団員が入場してきた。チューニングが終わって、サイモン・ラトルの登場を待つ。まもなく、黒の詰襟風の服を着用したラトルが登場してきた。
最初は、イギリスの作曲家ハンス・グライムの「織りなされた空間」という現代曲。変拍子を交えた曲なので、指揮をするのは容易ではないと思われるのだが、ラトルは難なく振り分けて、きちんとクライマックスも作り上げていた。

20分間の休憩を挟んで、次はいよいよマーラーである。
第1楽章、前奏に続いて、ところどころにルバート(テンポを加減しながらの演奏)を効かせながら、主題をたっぷりと歌わせる。ゆったりとしたテンポではあったが、ここではベルリン・フィルとの最後の定期演奏会でのような「淀み」は感じられなかった。
第2楽章は、スコアに「レントラー(舞曲)風のテンポで」というマーラー自身の指定があるように3拍子で演奏されるのだが、ここでも主題にルバートを効かせたためか、あまり「舞曲」らしく聴こえない感じがした。
第3楽章では、ロンドン交響楽団の演奏技術の高さに驚愕させられた。中でも、首席トランペット奏者は、フィリップ・コブ(コプ?)という若者が務めているのだそうだが、この奏者が超絶的にうまかった。トランペットの二重奏のところではその抒情性を遺憾なく発揮し、フォルテッシモでは突き刺すような鋭さを付け加える。まちがいなく、彼は世界でもトップクラスのトランペッターであると確信させられた。
また、ラトルはシンバルのキュー(打ち鳴らす際の合図)をほとんど出さなかったのだが、いかにもぴったりのタイミングでシンバルを打ち鳴らしたロンドン響の打楽器奏者もさすがであった。そして第4楽章。この交響曲の中では、最も感動的な楽章だ。それはラトルももちろん心得ていて、時に大仰な身振りも交えながら、楽団員から精一杯の演奏を引き出そうとしていることが、その指揮ぶりからも十分に伝わってきた。

演奏の全体的な印象としては、ベルリン・フィルとの最後の定期演奏会のときのような、テンポの緩いところでの流れの悪さのようなものは感じられなかった。いい演奏であったと思う。
終演後のカーテンコールでは、ラトルが楽団員たちの間を巡回しながら、それぞれのパートの首席たちを讃えていた。就任してちょうど1ヶ月であったが、やはり自分の故国のオーケストラということもあってか、楽団員たちとはいい関係が築かれているように感じた。

以前、佐渡裕がベルリン・フィルにデビューする際のドキュメンタリー番組を見たが、どうやらベルリン・フィルはプレーヤーが指揮者を「値踏み」するようなところがあるらしい。それはそれで、楽団員たちにしてみれば民主的な集団として演奏者の意向が大切にされているという実感が持てるかもしれないが、指揮者からしてみればたいへんに敷居の高い演奏者集団ということになる。

いかなサイモン・ラトルとて、それは感じていたのではなかろうか。彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する前のバーミンガム市響とのレコーディングの数々と、ベルリン・フィルとのセッションとを比較すると、どうも後者の演奏が見劣り(聴き劣り?)するように感じる(もちろん個人的な印象である)のは、そんなところも影響しているかもしれない。

オーケストラと指揮者の関係というのは、そのどちらにイニシアチブがあるかというような単純な問題ではないにしても、どちらかといえば指揮者の方にイニシアチブのあった時代の演奏の方が、聴く者の心に訴えるところがあるように感じてしまう。
尤もそれは、僕らのようなレコードの時代に育った者は、その年代的な印象に左右されすぎているのかもしれないのだが、ことベルリン・フィルの演奏に限っても、フルトヴェングラーやカラヤンの時代の演奏の方が心に迫るものがあるように感じるのはどうしたことか。やはり、指揮者はオーケストラに「君臨」しないと、いい演奏はできないということなのだろうか。

そんなことをあれこれ考えさせられた横浜の夜だった。

<ザルツブルク音楽祭全般とチケット入手に関して>
○「ヨーロッパ音楽の旅」というHPの「ザルツブルク音楽祭チケット購入方法」というページ
http://xn--u9j7ipb4eza3g9248bthgp86i.com/salzburgerfestspiele-ticket/
が最も参考になりました。音楽祭の公式HPからどのようにしてチケットを申し込むのかが懇切丁寧に解説されております。

もちろん、実際には公式HPから申し込みます。
○「ザルツブルク音楽祭公式HP」(ドイツ語か英語かどちらかの表示が選択できます)
https://www.salzburgerfestspiele.at/

音楽祭のプログラムに関しては、JTBの以下のページで。
○「ザルツブルク音楽祭2018公演プログラム」(JTB)
http://www.jtb.co.jp/luxurytravel/live/repertoire/salzburger.asp
期間中の全てのプログラムがまとめられています。

<移動手段について>
オーストリア国内の移動に関しては、
○「オーストリア連邦鉄道」(ÖBB)
https://www.oebb.at/en/
のHPで、行き先に関しては、
http://fahrplan.oebb.at/bin/query.exe/en?
で調べ、
チケットの予約に関しては、
https://tickets.oebb.at/de/ticket
で、出発時間と出発駅、到着駅を入れると、列車の選択から座席の指定、乗り換えのバスの予約と支払いまで全てできました。

ウィーン市内の交通機関に関しては、
○「48時間ウィーンチケット」(Wiener Linien)
https://shop.wienerlinien.at/index.php/product/5/show/0/0/0/0/buy
地下鉄・トラム・バスなどの48時間フリーパスのチケット(14.1ユーロ、約1,800円)です。もちろん、デイチケット、24時間、72時間パスなど、いろんな種類のチケットが用意されています。
支払いはカード決済で、予約が完了するとチケットがPDFでメールに添付されて送られてきます。

<入場チケット>
○「シシィチケット」(Imperial Austria)
https://www.imperial-austria.at/hofburg-vienna/sisi-ticket.html
ウィーンのホーフブルク(王宮)博物館と、シェーンブルン宮殿の入場料がセットになったチケットです。29.9ユーロ(約3,800円)でちとお高いですが、どちらもスマホの画面をQRコードを見せるだけで、待つことなく入場できます。シェーンブルン宮殿については、公開されている40室が全てが見学できる「グランドツアー」に参加できます。

<役に立ったモノ>
○「撥水オーガニックコットン 疲れにくいスリッポンスニーカー」(無印良品)
https://www.muji.net/store/cmdty/detail/4549738777939?searchno=13
これは優れモノでした。相当歩き回ったと思うのですが、確かに「疲れにくい」と実感しました。スリッポンの靴なので、飛行機内での靴の脱ぎ履きも楽ちんでした。

○「海外用マルチ変換タップ」(ヤザワ)
https://kakakumag.com/seikatsu-kaden/?id=12444
世界150カ国以上のコンセントに対応している変換プラグです。日本の電化製品用のコンセント2つに、USBポートも2つ付いているので、スマホやタブレットだけでなく、カメラやモバイルバッテリーの充電にも重宝しました(ただし日本では使えません)。

○「携帯ウォッシュレット」(TOTO)
https://jp.toto.com/products/toilet/travel_washlet/
日本ではウォシュレットを備えているホテルが多くなってきたものの、海外のホテルではほとんど普及していません。ふだんからウォシュレットを使っていると、どうしても海外でも使いたくなります。そんなときに、この携帯ウォシュレットはとても便利なのです。

○「KLAXのSIMカード」(T-Mobile)
https://www.t-mobile.at/internet/internet-fuer-unterwegs/ohne-bindung/
1ヶ月8GBで10ユーロ(約1,300円)のSIMカード(通話なし)です。持参したSIMフリータブレットに装着して使ってみました。データ量を気にすることなく使えるので、タブレットをテザリングしてアプリをアップデートしたり、たくさんの写真をネットにアップしたりすることができました。

<コンサートについて>
○客席の照明
ザルツブルク祝祭大劇場では、演奏が始まっても客席の照明はそのままでした。日本の演奏会場では、演奏が始まる前には例外なく客席の照明を落とします。「静かにしろよ」という合図の代わりなのでしょうか?あるいは「集中してありがたく聴くんだぞ」というコンサート主催者の暗黙の指示なのでしょうか?映画を見るわけでもないので、客席の照明は落とすなら少し暗くするだけでいいと思います。

○カーテンコール
アンドリス・ネルソンスとウィーン・フィルによる演奏終了後は、スタンディングオベーションの拍手喝采だったのですが、カーテンコールはわずかに3回でした。日本では、5回も6回も呼び出されるので、指揮者がやたらとプレーヤーを立たせて拍手に応えるようなことが行われていますが、はっきり言って必要ないと思います。「では」という合図をして、3回で舞台から退場したウィーン・フィルのコンサートマスターはカッコよかったです。

<その他>
○航空会社のウェブ(オンライン)チェックイン
フィンエアーの場合は、出発の36時間前からチェックインができました。たぶん、どこの航空会社も同様のサービスをしていると思います。これは本当にラクです。とにかく、出発の当日チェックインカウンターに並ばなくていいんですから。海外旅行の場合は2時間前に空港へと言われますが、このウェブチェックインを済ませておけば、1時間前でも十分なのです。

○改札
鉄道の駅に改札がないというのは、最初はヘンな感じがするんですけど、慣れてくると便利でいいと感じました。オーストリアのレイルジェット(特急列車)の場合は車掌が検札に来ましたが、ウィーンのトラムや地下鉄では、検札を見かけることはありませんでした。日本も改札をなくせば、自動改札機や人件費の大幅な削減になると思うのですが。どうなんでしょう?

○チップ
オーストリアはチップの国なので、いろいろと戸惑うことが多かったです。チップのための小銭を用意しておかないといけないという面倒なこともありますが、最も面倒だったのはレストランなどでカード支払いしようとするときでした。チップを払うかどうかを聞いてくるのでOKすると、チップだけの金額を打ち込んだり、チップ込みの金額を打ち込んだりしないといけません。チップなどというものは、まことに不便な制度です。一律にサービス料込みにしてもらう方がややこしくなくていいです。
ホテルでは、よく枕の下にチップを置いておくと言われますが、僕らはメモ用紙に「Danke!」と書いて目立つところへ置いておくようにしました。そうすると、部屋の掃除をしてくれた人によっては、ご丁寧に返事を認めてくれる人もいました。ちょっとした交流ができた感じがしました。
家内の話では、公衆の女子トイレには清掃のためのオバさんがいて、しっかりチップを要求しているとのことでした。
そもそも、どうしてチップなどという制度ができたのでしょう?貴族と平民という身分制度が長く続いた国家ほど、地位の上の者が下の者に小遣いを与えるというようなしきたりができたのでしょうか?一度その起源を調べてみたくもなりました。

○ネックピロー
ホームセンターで売っていたアイマスクとセットになったもの(空気を入れて膨らませるタイプ)を持参したのですが、首回りが暑苦しい感じになって、とても眠ったりすることはできなかったです。周囲を見ると、ビーズなどでできたものを手に挟んだりして持参している人がけっこういました。今度はビーズタイプのものを使ってみようと思いました。

○バスタブ
今回は、旅行社の方にお願いをして、すべてバスタブ付きのホテルを予約してもらうようにしました。どうしても歩き回ることが多くなるので、一日の疲れを癒すためにはゆっくりとお風呂に浸かるのがいちばんなのであります。

○エアコン
ヨーロッパの宿にエアコンは必要なしと思っていましたが、今回のようにヨーロッパが熱波に襲われてしまうと、エアコンは必需品です。幸い、ザルツブルクのホテルにはエアコンが設置されていましたが、ヨーロッパの多くのホテルにはエアコンがないと思われます。部屋の窓も、上部が斜めに15センチほど開くだけなので、今夏のような状況の場合はエアコンのあるホテルを選ぶことも必要かと思います。

○宿泊保証金?
ザルツブルクのホテルでは、チェックインの際にいきなり100ユーロ(約13,000円)を要求されました。どうやら宿泊保証金のような名目だったと思います。もちろん、チェックアウトの際には返金されるとのことだったのですが、いきなり100ユーロ要求されたのには驚きました。そんなことは、ホテルの予約の際にはどこにも記載されてはいませんでした。

○物価
ヨーロッパの物価は総じてあれこれ高いと思いました。スーパーはさほどでないかもしれませんが、レストランや、施設への入場料などは高いです。日本に帰ってから外食をしたときには、ユーロ換算してみるとずいぶん安いなあと実感いたしました。

以上、今回の旅で役立ったことや気がついたことをまとめてみました。
旅をするということは、基本的に日常を離れて、非日常の世界に身を置くという経験です。だから、日常とは違うことが生起して当然だと思うのですが、どうも私たちは旅先でも日常を求めようとするところがあるように思います。
Wi-Fiのルーターを借りてスムーズにネット接続できる環境を整えたり、現地での移動ができるだけ支障をきたさないよう事前に準備をしたりするのも、できるだけふだんの日常に近い形で旅をしたいという無意識が働いているのかもしれません。

僕が38年前にウィーンに来たときは、パスポートと少しのお金、行き帰りの航空券、そしてユーレイルパス(ヨーロッパ中の鉄道に乗れるフリーパス)を持って来ただけの旅でした。それでも、なんだかんだと見たいところや行きたいと思っていたところはちゃんとその目的を果たして、無事帰国することができました。
もちろん、若かったということはありますが、どうも年齢を重ねると、旅で非日常を経験するなどと思っているほどには、日常から抜け出せていないのかもしれません。

これからも旅に出ることはあると思いますが、日常と非日常のどこで折り合いをつけるかということを考えながら、旅の計画を立てることも必要かと思っております。
とりあえず、次の旅まで少しだけ休息します。

ウィーン滞在の二日目、この日は午前中にシェーンブルン宮殿を訪ね、午後はケルントナー通りで買い物をしようという予定であった。
まずは地下鉄にてシェーンブルン宮殿へ。カールスプラッツ駅から地下鉄4番線にて6駅目のシェーンブルン駅にて下車、そこから宮殿まで歩く。朝早かった(午前9時半)からか、観光客はまだそんなには多くない。ここも僕は38年ぶりの再訪である(そのときは宮殿内の見学はしなかった)。

iPhoneのシシィチケット(シェーンブルン宮殿への優先入場券)の画面を準備して宮殿内の受付へ。
手荷物を預け、入口を入ったところでトランシーバー様の音声ガイドを受け取る。僕らの前には中国人の団体客がいた。そのすぐ後に並んでいたからであろうが、音声ガイドは中国語仕様のものを渡されてしまった。どうチャンネルを合わせても、中国語しか聞こえてこないのである。すぐに音声ガイド窓口のところにいた係員に「僕ら中国人とちゃいます、日本人です。なので日本語の音声ガイドに設定し直してください」とお願いすると、なにやら音声ガイドのボタンを操作して日本語仕様に変更してくれた。

シェーンブルン宮殿内の見学には、二種類のコースが用意されている。「インペリアルツアー」と「グランドツアー」である。それぞれの違いは、「インペリアルツアー」が22室見学で14.2ユーロ(約1,800円)、「グランドツアー」は40室見学で17.5ユーロ(約2,250円)である。僕らのシシィチケットは、「グランドツアー」に対応していた。

中国人の団体客からできるだけ離れようと思い、最初のいくつかの部屋はほぼスルーして、静かに見学ができる部屋から、音声ガイドを聞きながらじっくり見ていった。宮殿内の写真撮影は禁止されている。ところが、ある部屋で急に警報が鳴り出した。見ると、中国人のオッさんがタブレットPCを持ち出して写真を撮っていたのである。警報を聞くと、そのオッさんはすぐにその場を立ち去った。また、壮麗なシャンデリアがある部屋では、中国人のオネーさんが持っていた水筒の中身をいきなりカーペットにこぼしたので、係員が慌てて駆けつけて来た。どうも中国の人は、団体で来ている気安さからか、マナーに欠ける行動を取りがちのように思う。このままでは、早晩世界各国から顰蹙を買うこと必定であろう。

最初の22室を見終わると、ルートはさらに奥の部屋へと続くコースと、そのまま出口へ向かうコースとに別れる。そこにはチケットを確認するオバちゃんがいて、グランドツアーのチケットをチェックしていた。僕らはiPhoneの画面を見せて、そのまま奥の部屋へ。ここからは中国人の団体客が一気に減ったので、落ち着いて一つ一つの部屋を見ていった。
奥の部屋は、それまでの部屋とは全く異なる部屋であった!琥珀ばかりでできている「琥珀の間」、ナポレオンが会議を行った「漆の間」、6歳のモーツァルトが演奏を披露した部屋や、インドとペルシャの細密画が飾られた部屋など、次から次へと思わずため息が出るような部屋ばかりを見ることができたのである。「インペリアルツアー」と「グランドツアー」は、わずかに450円ほどの違いである。この両者に関しては、迷わず「グランドツアー」を選択するべきだと、『地球の歩き方』にもぜひ書いておいていただきたい。

宮殿内の見学を終えて外へ出た。今度は庭園を見ようということで、宮殿受付の左側に回って、庭園内に入ろうと試みた。ところが、その入口がわからない。有料の入場口があったので、まさか庭園見学も有料か?と思い、その受付で聞いてみると、そこは有料の「皇太子の庭園」への入園口で、庭園へはそこから100メートルくらい先の入口から入れるとのことであった。
その入口と思しきところから中に入った。目指すは宮殿から正面の小高い丘の上にある「グロリエッテ」。ところが、行けども行けども宮殿は見えないし、広大な庭園も見えない。38年前に来たはずなのに、あまりの広大さに迷ってしまったのである。仕方がないので、Googleマップでグロリエッテを検索してみた。どうやら、僕らは庭園東側の林の中にいるらしい。Googleマップに従ってグロリエッテの方角を目指す。しかし、どちらを見回しても同じような景色が広がっているばかりで、自分たちのいるところがいまいちはっきりとしないのである。何度もGoogleマップを見直して、ようやく宮殿正面の庭園と大きな噴水のあるところに出ることができた。

ここからグロリエッテまでは、丘を登っていかなければならない。なるべく日陰の道を選んで、グロリエッテを目指す。だんだんと登っていくと、宮殿と庭園がいかにも美しく眺められる。
ようやくのことでグロリエッテへ。38年前と違って、グロリエッテの屋上まで上がるのは有料になっていた。屋上からでなくとも、そこからは遠くシュテファン寺院までもが望める絶景が見られた。しばし、その絶景に暑さを忘れた。
シェーンブルン宮殿を後にするころには、僕らが来たときとは違って、すごい数の観光客がチケット売り場に列をなしていた。早く来て良かったと思った。来たときと同じ地下鉄4番線にてホテルに戻る。

ケルントナー通り周辺にはいろんなレストランがある。こちらに来てから麺類を食べていなかったので、昼食はイタリアンのレストランにて、アラビアータのパスタとビール。日本で食べるパスタを思い出した。昼食後はケルントナー通りのスーパーにて買い物。ヨーグルトや100%果汁のジュース、日本へのお土産などをあれこれ購入してホテルへと戻る。

シャワーを浴びてのんびりしながら、お隣のオペラ座の見学ツアーのことをネットで調べていると、日本語のガイドによるツアーが一日に二回あるとわかった。時間は午後1時と3時である。時計を見るとちょうど2時半だった。シャワーを使っていた家内にそのことを告げ、急いで支度をしようということになった。
こういうときにオペラ座の近くのホテルはありがたかった。小走りでオペラ座へと向かい、日本語ガイドのツアーを申し込んだのが3時10分前。ツアーの待機場所には、既に10人以上の日本人が待っていた。
当然、日本人のガイドが案内するのだろうと思いきや、僕らの前に現れたのは日本で暮らしたこともあるという現地の青年であった。この青年の日本語はうまかった。全然現地の人であるという感じがしなかった。
この青年ガイドの案内で、皇帝の席や舞台裏などオペラ座の様々な場所を見学することができた。
中でも感激したのは、オペラ座内の「マーラーの間」であった。そこには、マーラーの胸像とともにマーラーがシーズンオフの作曲の際に使用していたという小さなピアノが展示されていた。まさかそんなものが見られるとは夢にも思っていなかったので、まるで身内のことを紹介されているかのような感動を覚えた。やっぱり、最後の最後までマーラーに導かれているのだと実感した。

マーラーのオペラ座監督在任中は、監督就任時から民族的偏見(マーラーはユダヤ人だった)による反感もあったが、何より芸術的レベルの高さを求めるあまり、歌手やオーケストラに厳しい練習を強いたり、縁故で採用された演奏者を出演させなかったりしたことで劇場側と折り合いが悪くなり、熱狂的な支持者もいたのだが、結局監督就任から10年後にマーラーは自らウィーンを去ることになる。
そんなウィーンのオペラ座が「マーラーの間」なる部屋を設けているということをマーラーが知ったら、いったいどんな顔をするのだろうということを想像した。
オペラ座出口のところのショップにて、マーラーの肖像写真の絵葉書を購入してホテルに戻った。

オーストリア最後の夜は、昨晩と同じくレストラン「ミュラーバイスル」へ。日本語メニューのあることがわかっていたので、「日本語メニューちょーだい」とお願いして、ウィーン名物の「ヴィーナーシュニッツェル(子牛肉のカツレツ)」をオーダーする。
会計時、昨晩の店員がやってきて、「ウチのお客さんの6割は日本人ですねん」と言う(その割には僕らの他に日本人客はいませんでしたが)。そのうちに、中国人の団体客が100人ほど!やって来た。そのまま店内に入って行ったが、さすがにこれだけの人数は入れないでしょと思っていたら、半分ほどの人が出て来て別の店へ行ってしまった。それでも50人ほどは店内に入ったのである。
件の店員に「よお儲かりますなあ。今度は中国語のメニューを用意しときなはれ」と冷やかしながら、「僕ら明日日本に帰るんやけど、もしこちらへ来るようなことがあったらまた寄せてもらいますわ」と話してお店を後にする。

ウィーンの最後の夜も、相変わらず暑かった。でも、翌朝はずいぶんと涼しくなっていた。スーツケースを転がしながら、ケルントナー通りをシュテファン寺院方面へ。またこの寺院を見ることはあるのかなあと思いつつ、その威容を目に焼き付けておく。
空港行きのバス乗り場であるモルツィンプラッツには、予定より30分ほど早く着いた。そのまま待機していたバスに乗り込み、ウィーン国際空港へ。モルツィンプラッツからは30分もかからずに空港へ到着した。
ウィーン国際空港は、思っていたよりも大きな空港であった。バスが到着したところからフィンエアーのチェックインカウンターがあるターミナルまではかなりの距離を移動した。
例によって、前日にウェブチェックインを済ませていたので、既に10人以上が列を作っていたチェックインカウンターには並ばず、すぐ隣のバゲージドロップ前にて受付を待つ。程なく係員が現れて受付をしてくれたので、荷物を預け航空券を受け取り、搭乗口の確認をする。ホッと一息である。
航空券をかざして中に入り、近くのカフェにて遅めの朝食を食べ、混雑するセキュリティゲートを抜けると、あとは搭乗を待つだけとなった。いよいよオーストリアともお別れである。

まさか、実際に訪れる日が来るとは思ってもいなかったシュタインバッハ・アム・アッターゼのマーラーの作曲小屋と、まさか現地で聴けるとは思ってもいなかったウィーン・フィルによるマーラーをザルツブルク祝祭大劇場にて聴き、ウィーンへの38年ぶりの再訪も果たした、まことに充実した旅であった。
それもこれも、すべてはミューズの神とマーラーのお導きであったように思う。
マーラーだけではなく、モーツァルトの生まれたザルツブルクの街に滞在し、ベートーヴェンが生活していたウィーンの家を訪れたことで、モーツァルトやベートーヴェンがより身近な存在として感じられるようになったことも、今回の旅の大きな収穫であった。

11:15ウィーン国際空港を発つ。14:40ヘルシンキ着。トランジットの間に軽食を取り、17:15ヘルシンキを発つ。ほとんど眠れないまま、翌朝8:15セントレア着。ポケットWiFiを返し、トゥインゴの待つ駐車場へ。途中、何度か眠りそうになりながらも、無事浜松まで帰り着く。
帰国して最初に食べたのは、味噌ラーメンだった。

感動冷めやらぬザルツブルクを後にして、ウィーンへと移動する。
今回の旅の大きな目的二つ(マーラーの作曲小屋を訪れることと、ザルツブルク祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーを聴くこと)は果たしたので、ウィーンはおまけの観光である。でも、ウィーンはマーラーが10年以上にわたってオペラ座の監督をしており、マーラーとは因縁浅からぬところだ。
ザルツブルクからウィーンへはレイルジェットで2時間22分。列車に乗り込むと、僕らの席には別の日本人と思しき夫婦が座っていたので「すみません、ここは予約席なんですけど」と声を掛けると、謝りながら慌てて別の席へと移動していった。

10:08ザルツブルク発。車窓の風景を楽しみながら、12:30ウィーン中央駅着。
ホテルは国立オペラ座のすぐ近くだったので、日本で事前に購入しておいた地下鉄・トラム・バス用の48時間フリーパスを取り出し、地下鉄1番線のプラットホームへ。中央駅から二つ目のカールスプラッツ駅にて下車。例によって地下鉄にも改札はないので何だかヘンな感じがする。

僕は38年ぶりのウィーン再訪であった。もちろん、38年前には地下鉄はなかった。だからというわけではなかろうが、駅から出ると方向感覚を失った。あまりの都会化に狼狽して、ホテルとは反対方向へと行ってしまったのである。いつまでたってもオペラ座が見えてこないのでGoogleマップで確認すると、進行方向とは逆方向の通り沿いにオペラ座の屋根が見えた。

こんな感じだったかなあとオペラ座の前を通過して、そろそろホテルが見えてくるはずだと思っていたのだが、これまたそれらしき建物が見えてこない。事前に調べておいた地図では、ホテルはオペラ座のすぐ北側にあるはずだった。しかし、そこには美術館らしき建物があるだけで、目指すホテルの姿は見えない。再びGoogleマップで確認してみるのだが、どうも自分のいる位置がはっきりしない。辺りを徘徊して途方に暮れつつあったのだが、やっとのことでホテルの入口を見つけることができた。

宿泊先のホテルは、オペラ座のすぐ近くという一等地にあったためか、古くからの格式を感じさせるホテルであった。
チェックインを済ませ、部屋へと上がるエレベーターに乗り込む。なんとも旧式なエレベーターであった。宿泊する4階に到着、蛇腹式の内側のドアがまったりと開く。でも、そのすぐ外側のドアが開かない。「あれ?」とか言っているうちに、エレベーターは1階まで戻ってしまった。もう一度4階のボタンを押して、エレベーターが上がる。蛇腹式のドアが開く。やはりその先のドアが開かない。すると家内が「これ、押すんじゃない?」と目の前のドアをぐっと押してみた。なんと外側のドアは自動ドアではなかったのである。

部屋に入ろうとすると、このドアも二重になっていた。外側のドアには鍵は付いておらず、内側のドアを開錠して部屋に入った。どうしてドアが二重になっていたのかは今もって謎である。
暑かったので、とりあえずシャワーを浴びることにした。と、あることに気がついた。シャワーを使っていると、お湯がどんどんバスタブに溜まっていくのである。排水栓が閉まっているんだと思い、栓開閉のための大きなダイヤル様のものを開く方向に回してみたのだが、手を離すとすぐに元に戻って栓は閉まってしまう。何度やっても変わらなかったので、ひょっとして排水のためにはダイヤルをずっと手で持っていなければならない構造になっているのかとも思ったのだが、まさかそんなことはなかろうとフロントに事情を話してみた。
ホテルマンが部屋にやってきて栓の様子を見ていたのだが、「これは私たちの手には負えない。部屋を代わってもらうようフロントに話をするのでしばし待たれよ」と言い残して部屋を出ていった。待つこと数分、僕らを別の部屋に案内してくれた。念のためバスタブの栓の様子も見てみたが、こちらは正常に機能した。

昼食もまだだったので、市内見物へと出かける前にホテル近くのレストランにてランチ。初めは店内で食べようと思っていたのだが、とにかく暑くていられないので外のテーブル席へ。ビールの追加を頼んだのだがいつまでたっても持ってきてくれないので、店員のおっちゃんに「おお、びいる、びいるをくれ〜」と喉を抑えながらジェスチャーすると、笑って謝りながらビールを持ってきてくれた。会計の際には、ビールを忘れていたことに配慮してくれたのか、50セントほど減額してくれた。

昼食を済ませ、まずは双頭の鷲の門をくぐってホーフブルク(王宮)へ。38年前には訪れなかった場所である。
あまりの大きさに圧倒される。
事前にシシィ・チケット(王宮とシェーンブルン宮殿の優先入場券)を購入しておいたので、iPhoneの画面のQRコードを見せて博物館へ。こんなにたくさんの食器が本当に必要だったのだろうか?と思えるほどの多数の食器に圧倒された。

ホーフブルクを出て、リンク(外周道路)を市庁舎方面へ。それにしても暑い。日陰を選んで歩かないと、すぐに汗まみれになってしまう。ヨーロッパはもっと涼しいと思っていたのだが、日向は日本とそう変わらない暑さであった。
なにやら修復作業中らしく一部カバーのかけられた国会議事堂、巨大なブルク劇場などを見ながら市庁舎へ。最近はここで夏の間だけ「フィルム・フェスティバル」という音楽祭のようなもの(コンサートなどの多彩な映画が上映される)が開かれているとのことで、市庁舎前には巨大なスクリーンが設置され、観賞用の椅子も多数用意されていた。飲食の露店も軒を連ねていたが、値段を見ると飲み物などもけっこう高価に設定されているものばかりであった。
あまりに暑いので、近くのスーパーマーケットを探して何か飲み物を買おうとしたのだが、検索されたスーパーまで行ってみると、その日が日曜日だったためか、ほとんどが営業していなかった。背に腹はかえられなかったので、足元を見られているとは思いつつ、高価な飲料水を買わざるを得なかった。

ウィーン大学の近くには、ベートーヴェンの住んでいた家があるというので訪れてみようと思っていた。
確かにこの建物だということはわかったのだが、入口がどこかわからない。ぐるりと一周してみると、どうやらここが入口ではないかと思われる場所があった。
大きなドアを押して中に入ると、中は真っ暗である。電灯のスイッチらしきものを探して明かりをつけると、すぐ目の前が螺旋階段であった。「ベートーヴェンの住んでいた部屋は4階である」との表示がされている。日曜日だから見学はできないかもしれないと訝りつつ階段を登ると、受付にオッちゃんとオバはんがいた。「見学は可能ですか?」と尋ねると、「どうぞどうぞ、でも入場料は現金のみで支払ってくださいな」と言われた。
いくつかの部屋を回りながら、この部屋にベートーヴェンが住んでいたのかと思うと感無量であった。
オバはんは私たちの様子をずっとモニターしていたらしく、ちょっとでも展示ケースのガラスに顔を近づけたりすると、「触ったらアカン」などといちいち注意をしてくれるのであった。
それにしても、なんという商売っ気のなさであろうか。かのベートーヴェンが住んでいた家ですよ?立派な観光資源じゃないですか!なのに、入口の表示もよくわからず、ドアは開いておらず、階段は真っ暗。なんだかなあという感じで見学を終えた。

さすがに歩き疲れたので、あとは帰るときの空港行きバス乗り場だけを確認してホテルに帰ろうということで、そのバス乗り場近くまで行くトラムへ乗ることにした。
トラムが来たので乗車した。エアコンが効いた涼しい車内を期待した僕らが甘かった。窓は開いていたが、そこからは熱風が入ってくるだけだったのである。もうトラムに乗るのはやめようと思った。

空港行きのバス乗り場は、ドナウ運河のすぐ近くであった。運河を見ると、壁という壁いちめんに落書きがしてある。とても芸術などとは言えない単なる落書きであった。そこからホテルまでは歩いて行くしかないので、シュテファン寺院を目指して歩く。シュテファン寺院からホテルまではほんの5分ほどなのである。
多少は迷いながらも、なんとかシュテファン寺院までたどり着くことができた。いやはや、その大きさときたら!中に入ることもできたので、38年前には見られなかった寺院内へ。多くの見学客がいたが、やはり寺院の中には厳粛な空気が流れていた。

ようやくのことでホテルへと戻り、シャワーで汗を流す。それにしても、ウィーンは暑い。もちろん、部屋にエアコンはなかった。
部屋にいるより外に出ている方が涼しいので、しばらく休憩してから夕食を食べに行くことにした。事前に調べておいた「ミュラーバイスル」というケルントナー通りから少し南に入ったところのレストランである。メニューを見て注文を終えると、別の店員が「日本語のメニューもありまっせ」と日本語メニューを持ってきてくれた。早く言ってよ!
こちらに来てから肉やソーセージばかり食べていたので、この日はお魚のフライを注文。こちらのレストランは一皿の量が多いので、二人で一皿がちょうどいい分量である。

ホテルに帰り、疲れていたのでお風呂に入ってすぐに床に就いたのだが、扇風機だけでは暑くて眠れない。仕方がないので、扇風機側に枕を移動してようやく眠ることができた。夜まで暑いウィーンであった。

いよいよ祝祭大劇場でウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番を聴くときがやってきた。この演奏会を聴くために、はるばるザルツブルクまでやってきたのだ。
演奏会は午前11時からなので、時間的には少しゆとりがあった。ホテル近くで朝早くから営業しているカフェにて簡単な朝食を済ませ、歩いて5〜6分のところにあるミラベル宮殿へ行ってみることにした。

ミラベル宮殿に入るための入場料などは特にないので、東側の入口から庭園に入ると、中央の噴水のある池の右手に宮殿、左手に庭園が広がっている。宮殿側から見ると、正面の小高い山(メンヒスベルク)の頂にあるホーエンザルツブルク城が庭園の借景となって、まことに見事な景観を呈している。
宮殿の中から庭園を見られるだろうかと宮殿の建物内に入ってみたりしたが、残念ながら宮殿内から庭園が見られる部屋はなかった。その代わり、この日音楽祭の一環としてこの宮殿内で予定されていた、室内楽のコンサート会場を見ることができた。
宮殿内を歩いていて気が付いたことがある。それは、どの扉もひどく大きいことだ。ドアノブがちょうど僕の頭くらいの高さについている。しかも、扉自体はオーク材か何かでできているのだろうか、とにかくひどく重い。昔のオーストリア人は巨人だったのかと錯覚してしまうほどであった。

ミラベル宮殿の見学からホテルに戻り、僕は夏用のブレザーにネクタイ、家内はベージュのワンピースという出で立ちに着替えて、祝祭大劇場へと向かう。石畳の道をザルツァッハ川へ向かって下ると、橋の向こうに旧市街地が見えた。
その橋(シュターツ橋)の欄干には、オーストリア国旗とザルツブルク音楽祭のシンボルマークが風に揺れ、いかにも華やかな雰囲気が感じられる。橋を渡り、旧市街地の市壁をくぐると、中世さながらの狭い通りに所狭しと露店が軒を連ねている。

まずは祝祭大劇場の場所を確認しておこうと歩いていると、いきなり後ろから「祝祭大劇場へ行くのかね?」と老爺に声を掛けられた。「ついて来なさい」と言われるままにその後をついて行くと、「ここが祝祭大劇場だよ。まだ扉は開いていないけど、開演時間が近づいたら開けてくれる。それまではモーツァルトの生家とか見てきたらいい。ここからまっすぐ通りを二つ越えて右に曲がったところだ。ところで、今日は確かウィーン・フィルの演奏会だったな。マーラーをやるんだろ?指揮者は誰だっけ?マリス・ヤンソンス?」と言われたので、「いえ、アンドリス・ネルソンスです」と答えると、笑いながら「そうか、ヤンソンスじゃなくてネルソンスか!」と言い、「コンサートを楽しみなさい、じゃあね!」と行ってしまった。

教えられたとおりに、モーツァルトの生家へ行ってみた。祝祭大劇場のすぐ近くだった。入場料を支払って中に入ると、実際にモーツァルトが生まれた部屋などがそのまま残されていた。部屋の窓からは、モーツァルトが洗礼を受けたザルツブルク大聖堂の塔が見える。幼いモーツァルトが弾いたとされる小さなピアノが印象的だった。

開演時間が近づいてきた。祝祭大劇場の前まで行ってみると、既に入口の扉は開けられていた。開演を待つ客が入口前のスタンドでワインなどを飲んでいる。日本人もちらほら見かけることができた。
チケットを出して、祝祭大劇場の中に入る。とりあえず席を確認しておこうと二階席まで行ってみたが、座席への扉は閉じられたままで、開けて入ろうとすると係員から「まだ入れません」と言われた。その間にトイレに行ったりして開場を待つ。
開演20分前くらいになって、ようやく扉が開けられた。係員にチケットを見せると、だいたいどの辺りの席か教えてくれた。言われたとおりに座席を探して着席する。ステージが右斜め下に見える。シートは木製。背もたれが高い。前の座席とは重ならないように配置されているのでステージがよく見える。

ステージでは、ギターやサックスの奏者が開演前の練習をしていた。マーラーをやるはずなのに、なんでギターやサックスが?と思っていたのだが、マーラーの交響曲の前にツィンマーマンの曲を演奏するということを忘れていた。
開演時間を知らせるチャイムが鳴り、楽団員が登場してきた。ウィーン・フィルの実際の演奏を聴くのはこれが初めてである。日本の音楽ホールと違って、客席の照明は多少は暗くなったかと思われるくらいで、ほとんど暗くはならない。指揮者のアンドリス・ネルソンスが登場して、ツィンマーマンの曲が始まった。

休憩を挟んで、いよいよマーラーである。ザルツブルクに行く前から、ぜひとも聴いてみたいと思っていたのは、8分の3拍子で演奏される第2楽章であった。3拍子のリズムはメヌエットやワルツのリズムと言われる。ウィンナ・ワルツの本場、ウイーン・フィルがどのように3拍子を演奏するのか楽しみにしていたのである。

第1楽章が始まって、終楽章の終わりまで約1時間半。身じろぎもせず、全身を耳にして聴いた。
およそ、今までのどの演奏会でも経験したことのない感動に包まれた。
個人的には、大きく三つの点が印象的だった。

一つめは、事前に聴きたいと思っていたウィーン・フィルによる3拍子のリズムである。
第2楽章の始まりから、いきなりその演奏に引き込まれた。
3拍子のリズムは、実際に演奏するときには、「イチ・ニイ・サン」ではない。第1拍にアクセントが置かれるから「イチ、ニッ、サンッ」となる。第1拍をどの程度のアクセントで鳴らすのか、続く第2、3拍をどの程度軽く演奏するのか、そしてそのリズムをベースにしてどうメロディを奏でるのかが、3拍子の音楽の聴かせどころである。
もちろん、指揮者がそれらを細かいところまで指示をすることもあろうが、例えばヴァイオリン・パートの全員がボウイング(弓の上げ下げ)を揃えて演奏するのは、パート全員がまるで一つの楽器であるかのように演奏しなければならないのだから、いくら指揮者が指示しようとも奏者がそれを揃えるためには、パートを構成する全員が「3拍子はこうやって演奏する」ということを身体化していなければ不可能であろう。
ウィーン・フィルの弦楽セクションは、これが絶妙だった。まるで船頭さんの手漕ぎの舟に乗って琵琶湖の水郷巡りをしているかのような、「3拍子の音楽はかくあるべし」という手本のような演奏であった。

二つめは、オーケストラのアンサンブルである。
ウィーン・フィルは、どんなに楽器数が少ない箇所でも、逆にフルオーケストラの大音響の箇所でも、ハーモニーとして響かせることを第一にして演奏しているようであった。
例えば、第4楽章冒頭のアルトのソロに続くトランペットの二重奏。通常の演奏だと、主旋律の音の方が際立つのだが、ウィーン・フィルの演奏は対旋律が主旋律とほぼ同様の音量で演奏されていた。
音の重ね方によって実際にどんなハーモニーとして響くのかということを、それぞれの演奏者が熟知しているのだ。まるで、画家がいろんな絵の具を混ぜ合わせることで、どんな色になるのかを知り抜いているかのように。

また、大音響でアンサンブルが破綻しないことに大きな役割を追っていたのは、ホルンであった。ウィーン・フィルのホルンセクションが使用している楽器は、「ウィンナ・ホルン」と言われるどちらかといえば古楽器に近いホルンである。古楽器に近いということは、あまり機能的ではない楽器ということである。もちろん、演奏技術も現代のホルンに比べれば格段に難しいに違いない。このホルンを使用しているオーケストラは、もちろん世界中でウィーン・フィルだけである。そんな楽器をどうして採用しているのか。それはもちろん、困難な演奏技術から得られる音色が捨てがたいからだ。
ウィンナ・ホルン独特の野太い音は、特に大オーケストラのテュッティ(全奏)の場面でその底力を発揮するということを、今回の演奏会で初めて知った。中音域のホルンが、弦楽器と管・打楽器の橋渡し役を果たすことで、全体のハーモニーが崩れることなく、バランスを保つことができていたのである。

三つめは、これが最大の感動であったが、ふだんの生活ではなかなか感じることができない崇高なもの、それによって自分が浄化されたと感じるものに触れることができたことである。
第4楽章のアルト独唱や、終楽章での「復活」の合唱が静かに始まったとき、そしてその合唱に続くトランペットのソロを聞いたとき、さらには終結部でオーケストラと合唱団にオルガンが加わってクライマックスを迎えたとき、悲しかったわけでもなく、もちろんうれしかったわけでもないのに、思わず涙が零れてきた。そうさせたものは、いったい何だったのであろうか。
悲しみでもなく、喜びでもない涙とは、人知を超えるものに出会ったとき流される涙である。
そんな「人知を超えるもの」を、ある人々は「神」と呼び、また別の人々は「イデア」とか「涅槃」とか呼び習わした。特定の宗派にとらわれることのない「宗教的法悦」を感じたとも言えるかもしれない。
まさしく、そのとき祝祭大劇場にはミューズの神が舞い降りていたのだ。

終演後のカーテンコールは、スタンディング・オベーションにもかかわらず、わずかに3回。3度目が済むと、コンサートマスターが合図して、楽団員たちはさっさと引き上げ始めた。日本での演奏会が5〜6度もカーテンコールされるのと違って、さっぱりして好印象だった。
興奮冷めやらぬままにロビーへ。もう生涯この劇場に来ることはないかもしれないと思い、出口近くにいた制服の男性に写真を撮ってもらうようお願いしてみたのだが、「それならあそこにいる警備員に頼め」と言われたので、出口のところでセキュリティのビブスを付けていた女性に頼んで写真を撮ってもらった。

劇場の外に出て、近くのレストランで遅めの昼食を取り、ホテルに帰って着替え、もう一度旧市街地へと出向いて、ホーエンザルツブルク城に登ってみた。登ると言っても、ケーブルカーであっという間に登れるのだが。このお城からは、ザルツブルクの街全体を見渡すことができた。
あらためて、美しい街だと思った。美しい街には、美しい音楽こそが相応しい。
そうやってザルツブルクの街並みを眼下に見渡している僕の耳には、この日に聴いたマーラーの交響曲第2番第2楽章のメロディが、いつまでもいつまでも聞こえているのだった。

ミュンヘンの朝は涼しかった。ホテル内にて朝食を済ませ、荷物を整えてホテルをチェックアウト。これからいよいよザルツブルクへと移動するのである。
ホテルフロントのお姉さんに、ミュンヘン駅構内の行き先を表示する電光掲示板について尋ねると、「大丈夫です、ちゃんと行き先から発着番線まで表示されてますから」とのお返事。「ザルツブルクまで行かれるんですね。とっても美しい街ですから、ぜひ滞在を楽しんできてください」と言われた。うれしかった。

ミュンヘン中央駅はプラットホームが36もある。改札口はなく、それぞれのプラットホームには入線している列車が間近に見られる。構内には、サンドイッチなどの軽食を売るスタンドや、雑誌などを売るお店、スーパーマーケットのような店まで、多種多様な店舗で賑わっている。
さすがに乗車1時間前にはまだ発着番線が表示されていない。とりあえず目にすることができるホームは、11番から始まって26番まで。それ以外のホームからの発着の可能性もあるので、ホームの位置を確認しておこうと思い、駅構内を端から端まで歩いてみた。1〜10番までと、27〜36番までのホームは、それぞれ駅の東と西の奥まったところにあった。もしザルツブルク行きがそれらのホームだったら、早めにプラットホームまで移動しておかなければならない。

駅の電光掲示板の下にはインフォメーションがあった。掲示板には表示されていなくても、そこなら発着番線を教えてもらえるかもしれないと思い、日本からプリントアウトしてきた切符を見せて、どの番線からの発着かを尋ねた。「12番です」と教えてくれた。ちょうどそのとき、電光掲示板にも僕たちが乗る列車レイルジェット63号が表示されたところだった。
12番プラットホームで待つことしばし。ほどなくレイルジェット63号が入線してきた。日本の新幹線に比べると「ゴツい車体」という印象だ。ホームにいた駅員と思しき制服のオッちゃんに、僕らが乗る予定の22号車はどの辺りに停車するか尋ねた(つもりだった)ところ、「ザ・ラスト・ワン」と言われたので、最後尾かと思って待っていたのだが、入線後の列車から降りてきた女性の乗務員に尋ねると「もっとずっと向こうですよ」と言われたので、慌ててキャリーを引きながらホームを移動する。

どの車両が22号車なのかよくわからないまま、とりあえず列車に乗り込んだ。事前に日本で予約した座席番号がわかっていたので、その番号の席を探すと、既にノートPCを前にしたおじさんが座っていた。「すみません、ここは僕らの席かと思うのですが」と問いかけると、「え?本当?そんなはずはないと思うんだけど」と言われるので、僕らの切符を見せると「ここは21号車です。あなたたちの席は隣の号車ですよ」と教えてくれた。平謝りに謝って22号車へ。
ところが、その22号車の席にも二人組の若者が座っていた。もう一度切符を確認して、「すみません、ここ僕らの席だと思うんですけど」と言うと、「オー、ソーリー」と言いながらすぐに席を空けてくれて、向かいの席に座り直してくれた。そればかりか、大きなキャリーを網棚に上げるのに手間取っていると、すぐに手伝ってくれた。ありがたかった。

ザルツブルクまでは1時間42分。ミュンヘンの市内を抜けると、車窓には北海道かと見紛う風景が広がっている。どこまでも続くかと思われる刈り込まれた牧草地。低い潅木。時おり見られる赤い屋根の町並みと教会の尖塔。旅をしている実感が湧いてくる。
レイルジェットは特急列車なので、ザルツブルクまで途中の駅には停車しない。向かいの二人組は途切れることなくひっきりなしにおしゃべりしている。よほど仲がいいのだろう。そんなおしゃべりを聞いているうちに、ザルツブルク駅に到着した。

プラットホームからエスカレーターを下ると、そこはさながらショッピングセンターかと思われるほどに現代的な駅の構内であった。南口からエスカレータを上がり、地図を見ながらホテルへと向かう。この日はこれから、ザルツカンマーグートのアッター湖畔にあるマーラーの作曲小屋を訪ねる予定になっているのである。
ホテルは駅から南東方向であったが、どうも道をまちがえたらしく、そのまま西の方へ向かってしまった。グーグルマップを見ながら、なんとかホテルへとたどり着く。チェックインはまだできないとのことだったので、荷物を預かってもらい、アッター湖畔の「ホテル・フェッティンガー」に電話をかけてもらって、午後3時半くらいにマーラーの作曲小屋を見学に行くから作曲小屋の鍵を貸してほしい旨の連絡をしてもらった(『地球の歩き方』に「ホテルへの事前連絡が必要」と書かれていたのである)。

アッター湖畔へ行くための列車の時間までは2時間ほど余裕があったので、ザルツブルク駅に戻り、駅近くのファストフード店にて軽い昼食。ザルツブルク駅は、南口は普通の出口なのだが、北口の駅舎は白亜のたいそう立派な建物である。
事前に北口のショッピングセンター内にT-Mobileの店舗があると調べておいたので、そこで1ヶ月限定のシムを手に入れることにした。日本で調べたときには10GBで15ユーロとのことであったが、お店でそのシムをお願いすると、8GBで10ユーロのものに変更されたとのことだった。もちろんそれで十分なので、その場で購入してファーウェイのSIMフリータブレットに装着してみた。4G-LTEでサクサク繋がる。テザリングもできるのでiPhoneのルーターとしても使用することにした。

アッター湖畔には、ザルツブルクからレイルジェットで40分のフェックラブルック駅にて下車、そこからバスにてマーラーの作曲小屋のあるアッター湖畔へと移動する。レイルジェットに乗車して気がつくのは、とにかく車内がたいへん静かなことだ。走行音がほとんど車内には聞こえない。座席のシート番号のところをよく見ると、僕らが指定した席は、特に静かにするエリア(サイレントエリア)だった。

フェックラブルック駅に到着、駅舎内のインフォメーションにてバス停の場所を確認して、バスを待つ。アッター湖の北端にあるカンマー・シェルフリンクというところまで行くバスである。乗客は僕らの他に一人だけ。ほとんど貸切状態である。
カンマー・シェルフリンクにて、すぐ隣に停車していたバスを乗り換える。今度はアッター湖畔を南へ下るバスである。途中、いくつかのバス停で乗降客もあったが、マーラーの作曲小屋のあるゼーフェルト(シュタインバッハ・アム・アッターゼの近く)に近づく頃には、僕らの他に一人が乗車しているだけだった。
バスの車窓からは、アッター湖畔で日光浴や湖水浴をする人たちが見える。対岸の山々が青い湖水面に映え、いかにも美しい風景が続く。

ゼーフェルトのガストホーフ・フェッティンガーのバス停にて下車、ホテル・フェッティンガーへと向かう。バス停からほんの数メートル先のホテルだ。このホテルに、マーラーは夏のシーズンオフの間ずっと滞在していた。そして、ホテルから湖畔へ下ったところに作曲小屋を建て、そこで交響曲第2番と3番を作曲したのである。

ふと見ると、湖とは反対側に高く白く聳える山々が見えた。
その瞬間、僕の頭にはマーラーの交響曲第3番第1楽章のトロンボーンのソロが鳴り始めた。
そうか、第1楽章の始まりは、あの山の姿を写したんだ!と確信した。
交響曲第3番の第1楽章は、8本のホルンの斉奏で始まる。どことなく厳しさを感じさせるパッセージだ。その前奏に続いて、遠くの雷鳴を思わせるバスドラムの弱い連打をバックに、トロンボーンがモノローグのようなソロを奏でる。時おり入る弱音器付きトランペットの三連符は、まるで広がってきた黒雲から放たれる稲妻のようだ。
すべては、あの白い岩石の露出した山々の威容、それも雷雲が立ち込めてその山々の頂までは見ることのできない様子が再現されていたのだ(帰国後にその山のことを調べたところ、「ヘレンゲビルゲ(地獄)」という名称の山であることがわかった)。
これは予想外の発見だった。
やはり現地へ実際に行かなければわからないことがあるのだ。しみじみ来てよかったと思った。

ホテルのフロントへ行き、「ザルツブルクのホテルから電話を入れてもらいましたが、マーラーの作曲小屋の鍵を借りにきました」と告げると、応対してくれた若いお姉さんは、そのことを知らされていなかったらしかったが、「ああ、作曲小屋の鍵ですね?これです」と言ってすぐに鍵を出してくれた。
ホテルのすぐ横の道を湖の方へ下ると、ゲートのようなものがあって、そこから先はキャンピングカー専用のキャンプ地になっていた。ゲートが少し開けてあったので、そこから湖畔へ。少し歩くと、「マーラーの作曲小屋」と書かれた小さな掲示板があった。そこを曲がると、すぐ目の前に作曲小屋があった!

赤い屋根に白い壁。バックにはアッター湖の青い湖面と対岸の緑の山が見える。鍵を開けて中に入ると、いきなり交響曲第3番の第1楽章が鳴り出した。そういう仕掛けになっていたのだ。やっぱり交響曲第3番の第1楽章なのだ!
小屋の中には、古びたピアノが一台置かれていて、四方の壁面にはマーラーの写真や楽譜の写し、当時の新聞記事などが所狭しと掲示されていた。ピアノ以外には、何も置くスペースがないほどの小さな小屋である。入口の他の三方の壁にはそれぞれ小さな窓が開いていて、湖と山がいつでも見られるようになっている。
入口左の窓から外を見ると、先ほど目にした白い岩石の山の頂が見えた。ブルーノ・ワルターも、あの山と眼下の湖とを見たに違いない。すべてはこの窓から見える景色だったのだ。

少しでも長くその場に居たかったのだが、この作曲小屋の周囲にも日光浴や湖水浴のためのサマーベッドが置かれていて、あまりその周辺をうろつくのもためらわれたので、ほどなくホテルへと戻り、お礼を言って鍵を返した。ちなみに、この作曲小屋の見学は無料である。
ホテルの反対側の道の奥には草原が広がっていた。もし、マーラーの時代からこの光景のままだったとしたなら、マーラーはこの光景を交響曲第3番の第2楽章にしたのかもしれない。山裾に広がる草原。ところどころに咲く花。シュタインバッハ・アム・アッターゼは美しい場所だった。

再びバスにてカンマーシェルフリンクまで戻り、そこで1時間に1本しかないローカル線の電車を待つ。待つ間、湖畔のカフェにてアイスクリームを食べながら、もう二度と訪れることはないであろうアッター湖畔の、湖岸近くを泳ぐ白鳥や湖水浴する人々をぼんやり眺めていた。

ローカル線にてフェックラブルック駅まで戻り、そこからはレイルジェットでザルツブルクへ。もう午後の7時近くだったので、ホテルへの帰り道にて夕食。
祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番が翌日に控えていた。

ザルツブルク音楽祭への旅路は、出発日前日の空港(中部国際空港セントレア)前ホテルへの宿泊から始まった。そのホテルに宿泊すると、10日間無料でホテル付設の駐車場を利用できるからだ。宿泊するのは二度目だが、ここはどこの国かと錯覚を起こすほどに、今回もホテルのロビーは某国の宿泊客で溢れていた。
ホテルのチェックインを済ませ、空港内のレストラン街にて夕食。空港内ということも手伝ってか、レストラン内は街なかのレストランとはちょっと違った空気に支配されている。食事客の服装も含め、どこか華やいだ感じがするのは、空港という場所が日常から非日常へと移行する境界に位置しているからなのであろう。

自宅を出発する前に、ジェットウェイ・トラベルのナカガワさんから、搭乗機であるフィンエアーはウェブで24時間前からチェックインができると聞いていた。実際に、出発日前日にはフィンエアーからオンラインチェックインの案内メールが入ったので、指示されるままに予約番号やパスポート番号等を入力すると、座席の指定と搭乗券の発券まで簡単に終えることができた。
これで、出発日当日はチェックインカウンターに並ばずに、いきなりバゲージドロップのカウンターで荷物を預けるだけになった。便利な時代になったものだ。

出発日当日の朝、某国の人たちの凄まじい喧騒の中でホテルの朝食を済ませ、空港へと向かう。レンタルWi-Fiのカウンターでルーターを受け取って、フィンエアーのバゲージドロップカウンターへ。
自宅でプリントアウトしてきた搭乗券のコピーを見せると、すぐにバーコードの入った通常の搭乗券と交換してくれた。荷物を預ける際、「僕の知り合いが最近パリからフィンエアーで帰ってきたんですけど、ロストバゲージだったんですよ。大丈夫ですかね?」と応対してくれた係員に尋ねると、「フィンエアーって、ロストバゲージが多いんですよね。ヘルシンキ空港がハブ空港なので、けっこう積み残しとかあるみたいで」などとおっしゃる。そんな人ごとみたいに言われても困るのである。
イミグレを通過して、搭乗を待つ。これからの旅路に思いを馳せ、いちばんわくわくする時間である。トランジットのヘルシンキまでは約10時間、1時間半後の便でミュンヘンまでは約2時間半。ミュンヘン空港から市内まではエアポートバスにて約40分。ホテルにチェックインするまで、トータルで少なくとも約15時間。長い旅路である。

10:30セントレアを発つ。
座席に座ったときから、前のシートに備え付けられているモニターが見られなかったので、CAにその旨を伝えると「再起動してみますからちょっとだけお待ちください」とのことであった。シートベルトサインが消えてもモニターの状態は変わらなかったので再びCAに伝えると、そこよりも前の4人掛けの席が空いているので、そちらの座席へと移動してはどうかと提案された。家内と相談して、提案に従うことにした。ベルトサインが消えてしばらくすると機内食が出た。フィンエアーの機内食は、はっきり言っておいしくない。狭い座席で、窮屈な思いをして食べるので、なおさらおいしくない。さっさと食事を終えて、持参したタブレットで電子書籍を読む。選んだ本は、釈先生と内田先生による『聖地巡礼リターンズ』。今回の旅は、グスタフ・マーラーをめぐる巡礼の旅である。巡礼の旅には巡礼の本が相応しい。

14:10(現地時間、日本との時差は6時間)ヘルシンキ空港着。
乗り継ぎ手続きへと向かう。セキュリティチェックを通り、パスポートコントロールへ。すると、後ろから「日本人の方はこっちですよ!」という声が聞こえた。振り返ると、日本人ではない男性が流暢な日本語で「日本人の人はこちらの入口です」と指差して教えてくれた。そこには、ちゃんと日本と韓国の国旗のマークが掲示されていた。お礼を言ってパスポートコントロールを通過。あとは、ミュンヘンまでの搭乗口近くで待機するだけである。
ほどなくミュンヘン行きの搭乗が始まった。この機では、機上でWi-Fiを使用することができた。フィンエアーのHPにアクセスして簡単な手続きをするだけである。いつでもどこでもWi-Fiが使用できるようになる時代が来るのも、そう遠い将来ではないと実感した。
16:15ヘルシンキ空港を発つ。

17:50(現地時間、ヘルシンキとの時差1時間)ミュンヘン空港着。
荷物を受け取り(ロストバゲージしなくてよかった!)、ルフトハンザ・エアポートバス乗り場へ。ターミナル2にバス停があるとのことで、案内板に従ってターミナル2へ。しかし、行けども行けどもターミナル2には行き着かない。ようやくターミナル2なる場所までたどり着いたが、今度はエアポートバスの乗り場がどこかわからない。
近くのインフォメーションで尋ねると、そこに座っていたおっちゃんが「ストレイト・フォワード」とまっすぐ指差した。そこからすぐ近くの出口を出たところが、エアポートバスの乗り場だったのである。ホッと一息ついたものの、バス停は2箇所あった。出口右側のバス停に行こうとすると、家内が「こっちじゃない?」と左側のバス停を指差した。よく見ると、「ルフトハンザ・エアポートバス」の表示がされてあった。安心して、バスが来るのを待った。

バスがやって来てバス停の前で止まると、サングラスにヒゲのドライバーが下りてきて、バスの荷物室を開けて荷物を乗せ始めた。日本でプリントアウトしてきた乗車券を見せ、バスへと乗り込む。乗客は数人。バスは高速道路に入ってビュンビュン飛ばす。すぐ横をベンツやBMWがそれよりも早い速度で追い抜いていく。ドイツの高速道路は制限速度がないと聞いたことがあるが、まさしくそんな感じであった。
高速道を下り街なかに入ると、バスの車窓からドイツの家並みが見える。どの建物も、鋭角の屋根に屋根裏部屋と思しき窓が設えられている。壁はベージュか淡いグリーンで統一されているのが特徴的だ。

ミュンヘンのホテルは、中央駅のすぐ近くに取った。チェックインを済ませて部屋に入り、旅装を解く。暑いのでエアコンをつけようと思ったが、エアコンは設置されておらず、代わりに扇風機が置かれていた。窓を開けようと思ったが、どの窓も窓の上部が15センチほど斜めに開くだけで、開け放つことができないようになっていた。

とりあえず、夕食(夜食?)を食べに街へと繰り出した。事前に日本語メニューのあるレストランをチェックしておいたので、Googleマップを頼りにカールスプラッツへ。カールス門という大きくて立派な門をくぐると、そこからマリーエン広場までは広い歩行者天国となっている。
しばらく歩くと、大きな教会が見えてきた。Googleマップでは聖ミヒャエル教会とある。教会の壁には大きな羽根のある天使が剣で何者かを退治しているような大きなレリーフが飾られている。
さらに、その教会のすぐ隣には、聖母教会の二つの高いドームが聳え立っている。近くまで行ってみると、カメラのレンズには収まりきらないほどの高さだ。その聖母教会は中に入ることができた。ひっそりとした教会の内部では、静かに祈りを捧げている人もいた。

既に、この時点で起床から20時間以上経過している。早めに食事を済ませ、明朝のザルツブルクへの移動に備えなければならない。しかし、聖母教会近くの件のレストランは、閉店したか移転したかわからないが、とにかく営業していなかった。仕方がないので、そこまで来る途中にあったビヤホールへ行くことにした。
ミュンヘンでは、ヴァイスブルスト(白ソーセージ)とビールが飲めればいいと思っていたので、サラダとともに注文。ヴァイスブルストは、陶器の器の湯の中に沈められた状態で供された。直径4〜5センチ、長さは15センチほどだ。少しずつナイフで切って、別添えの辛子(のようなもの、全然辛くはない)をつけて食べるのである。ブルストを食べ、ビールを飲む。ああ、ミュンヘンまでやって来たという実感に浸る。
ミュンヘンのビールは、後味が日本のビールと全く違う。麦なのかホップなのかよくはわからないが、たぶんそのどちらかの味が立ち上ってくるのである。僕があまりにおいしそうに飲んだからか、ふだんはアルコールを一切口にしない家内も「一口飲ませてよ」と言ってきた。

ミュンヘンは、マーラーが自身の指揮で交響曲第8番を初演したところである。市内のドイツ博物館の敷地内には、実際に初演された建物が残されているとのことだが、とてもそこまで足を延ばす余裕はなかった。食事を済ませ、ホテルに戻り、入浴してすぐに就寝。眠いはずであったが、その日の夜は興奮してなかなか寝付けなかった。明朝はいよいよザルツブルクへと移動するのである。

僕がクラシック音楽を聴くようになったきっかけは、クラシック音楽が好きな父親の影響であった。父がどういう経緯でクラシック音楽に親しむようになったのかは知らないが、父はベートーヴェンが何よりもお気に入りであった。たぶん、父自身が難聴の持病を持っていたので、ベートーヴェンが後年難聴に苛まれたことを自身のそれに重ね合わせて、自然と親近感を持つようになったのではなかろうか。
大晦日、居間では家族が「紅白歌合戦」を見ているのに、父親は一人別の部屋のテレビでNHK交響楽団による「第九」を見ていて、途中「いいところだから見にこい」とその部屋に僕を呼んで、一緒に「第九」を見るというようなこともあった。

そんな父親の影響もあって、僕は小学生の頃から自然とクラシック音楽を聴くようになっていった。
小学6年生のときには、音楽好きの担任の先生が聴かせてくれたショパンの「英雄ポロネーズ」が聴きたくて、初めて自分の小遣いで安川加寿子が弾いたショパンのピアノ曲集のEP盤(外径17㎝の小型レコード盤)を買った。ターンテーブルとスピーカーが一体になった再生機器で、何度も何度も繰り返し聴いた覚えがある。

初めてLPレコードを買ったのは中学生のときで、アンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とエグモント序曲、シューベルトの「未完成」交響曲がカップリングされたレコードであった。もちろん、有名な「運命」を聴きたかったからだが、どうしてその演奏家のレコードを選んだのかはよく覚えていない。
アンドレ・クリュイタンスなどという指揮者のことなど、中学生の自分がもちろん知るはずはなかったので、どこかで耳にしたベルリン・フィルというオーケストラ名で購入を決めたのではないかと思われる。
このレコードも、それこそ「擦り切れる」ほど聴いた。たまたま父の購入した「運命」のポケット・スコア(オーケストラ・スコア)が家にあったので、そのページをめくりながら聴いたことを思い出す。

1970年代当時は、大盤のLPレコードは1枚2,000円もしたので、中学生や高校生の小遣いでは手軽に買える代物ではなかった。いきおい、LPレコードを買おうというときには、選びに選んで「極めつきの名盤」を買おうとするようになったのは自然な成り行きであった。
そんなときにレコード選びの参考になったのは、CBS・ソニーから出ていた「ベスト・クラシック100選」というカタログであった。交響曲から室内楽曲、器楽曲や歌曲まで、クラシック音楽の幅広いジャンルから、定評のある名盤が演奏者のカラー写真と楽曲解説付きで紹介されていたので、それを見ながら少しずつアルバムを買っていった。レナード・バースタインや、ブルーノ・ワルターという指揮者のことも、その「ベスト・クラシック100選」で知った。
バーンスタインが指揮するチャイコフスキーやシベリウスの交響曲、ワルターが指揮するブラームスの交響曲のアルバムなどを購入して聴きながら、次なる関心はグスタフ・マーラーの交響曲のアルバムへと向けられていった。

最初に買ったマーラーの交響曲のレコードは、バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した交響曲第1番であった。初めて聴いたときは、変わった曲だなあという印象であった。そもそも、第1楽章の出だしから変わっていた。弦楽器が、まるで霧が立ち込める森の朝のような雰囲気を弱音で醸し出す中、遠くから起床ラッパのような音や鳥の鳴き声が聞こえ、そんな中で目覚めた主人公がゆっくりと歩き始めるかのように主題が始まるのである。
しかし、この交響曲で最も印象的だったのは、第3楽章であった。静かな足音のようなティンパニの伴奏に乗って、ソロのコントラバスがすすり泣くようなメロディーを奏でる。まるで葬送行進曲のようだ。
作曲家の廣瀬量平は「音楽現代」1975年3月号のマーラーの特集で、この交響曲第1番の第3楽章について、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の一部を引き、「悔恨と郷愁としての陳腐な甘い調べというものがありうるのであり、それがたくみな配置と誘導によってこの自伝的青春小説のような長大な曲の一つのエピソードになっていて、少しの不自然もない」とし、「トーマス・マンの描く主人公の小説家は何とマーラー自身に似ているのだろう」と書いている。

廣瀬量平が引用した『トニオ・クレエゲル』の一部とは、以下の箇所である。
「彼はあの頃から今日までの歳月を顧みた。己の経て来た官能と神経と思想との、すさみ果てた冒険を思い起こした。風刺と精神とにむしばまれ、認識に荒らされ、しびらされ、創造の熱と悪寒とに半ば摩滅され、頼るところもなく、良心をさいなまれつつ、森厳と情欲という烈しい両極端の間をあっちこっちへ投げ飛ばされ、冷ややかな、わざとえりぬいた高揚のために、過敏にされ貧しくされ疲らされた揚句、乱れてすさみ切って責めぬかれて、病み衰えてしまった自分の姿を眺めた。そして、悔恨と郷愁にむせび泣いた。」(実吉捷郎訳、岩波文庫)

このマーラーの交響曲第1番の第3楽章によって、僕はすっかりマーラーの音楽の虜になってしまった。最も惹かれたのは、その音楽が濃厚な文学性を保持しているということを発見したことであった。1曲の交響曲が、まるで一編の小説を読むかのごとくに聴くことができると感じたのである。
それからは、件の「音楽現代」のマーラー特集号で紹介されていた他の交響曲も、ぜひ聴いてみたいと思うようになった。

ところが、70年代当時はマーラーの交響曲のレコードはほとんど手に入れることができなかった。比較的入手しやすかったレコードは、バーンスタインが指揮した1番・2番・4番・「大地の歌」、ワルターが指揮した1番と2番くらいで、他の交響曲はなかなか地方のレコード店の店頭では見かけることがなかった。
しかも、マーラーの交響曲は演奏時間が長時間にわたる曲が多いので、そのほとんどがLP2枚組だった。さすがに2枚組4,000円もするレコードを次から次へと購入することなど高校生の小遣いでは不可能であった。
それでも、どうしても聴きたいという思いは抑え難く、高校3年生の夏にはバーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した3番を、秋には同じくバーンスタインがイスラエル・フィルを指揮した「大地の歌」を入手して、大学受験の勉強の合間に何度も何度も聴いていた。

交響曲第3番は、全体が夏休みの雰囲気にぴったり(第1楽章には「牧神が目覚め、夏が行進してくる」という表題が付けられていたことがある)だったこともあり、特に第3楽章は夏の朝に聴くと、舞台裏で吹かれるポストホルン(トランペットのような音色の小型楽器)のソロと舞台上のホルンの掛け合いがいかにも清々しく、この長大なシンフォニーの中でもとりわけ好きな楽章になった。
「大地の歌」は、特に最終楽章が忘れられないものとなった。冬枯れの景色から少しずつ春に近づいていくという時節に、終楽章の最後の詩句(マーラー自身が特に付け加えたもの、「愛しい大地に春が来れば、至るところに花は咲き、緑は新たに萌え出でて、遥か彼方には輝く青い光。永遠に、永遠に...」)とその音楽は、これから地元を離れて大学生活を送るようになるという当時の自分の心情を代弁してくれているように響き、ひどく胸が締め付けられるように感じられた。こうして、マーラーの交響曲は僕にとってなくてはならないものとなっていった。

今回のザルツブルク音楽祭では、マーラーの交響曲第2番「復活」を聴く。オーケストラは、マーラーが指揮者を務めたこともあるウィーン・フィル。終楽章での「復活」の合唱も聴きどころだが、いちばん楽しみにしているのは第2楽章だ。ウィーン・フィルのいかにも艶やかなワルツの響きが聴けるのではないかと、今から期待に胸を膨らませているのである。

(その2)移動の手段とホテル

ザルツブルク音楽祭のチケット確定通知から2ヶ月後の4月、音楽祭のチケットセンターから国際郵便でチケットが郵送されてきた。
チケットを申し込む際には、チケットを郵送してもらうか、現地で受け取るかを選ぶことができるようになっている。現地で受け取ってもよかったのであるが、もしも当日何かトラブルがあったりする(ないと思うけど)と嫌なので、送料はかかる(12ユーロ、約1,500円)のだが、郵送してもらうことにしたのである。
チケットには、「私たちはあなた方の訪問を楽しみにしています」というメッセージが添えられていた!

まずは航空券だ。
航空券は、地元浜松で個人営業をしているジェットウェイ・トラベルのナカガワさんにお願いすることにした。できるだけ安価に海外旅行ができるプランをあれこれアドバイスしてくれるので、過去二度のイタリア行きでも航空券や現地でのガイドさんの紹介などをお願いした経緯がある。
ナカガワさんが勧めるヨーロッパへの航空会社はフィンエアー。お勧めの理由は、最短時間(10時間)でヨーロッパ(ヘルシンキ)まで行けるからだそうだ。ヘルシンキ空港は、ヨーロッパでも有数のハブ空港である。ヘルシンキからは、ヨーロッパのほとんどの都市へ2時間ほどで行ける。
初めは、ウィーン空港からザルツブルクまで行こうと思っていたのであるが、地図を見るとウィーンよりは、お隣のドイツ・ミュンヘンからの方がザルツブルクに近いということがわかった。さっそく、ナカガワさんに連絡をして、行きはミュンヘンまでと、帰りはウィーンからの航空券をお願いすることにした。

ミュンヘン空港に到着してから、宿泊先のホテルがあるミュンヘン中央駅までは、安価だし所用時間も電車とほとんど変わらないとのことだったので、「ルフトハンザ・エアポートバス」というシャトルバスを利用することにした。チケットもオンラインで買うことができる(片道1人10.5ユーロ、約1,350円)。
チケットの有効期限がよくわからなかったので、日本のルフトハンザのお問い合わせ窓口に電話してみた。「すみません、ルフトハンザのエアポートバスのチケットについてお聞きしたいんですけど」
「フランクフルト空港からストラスブール駅までですね?日本語対応のホームページがありますよ」
「いえ、違います、ミュンヘン空港からミュンヘン中央駅までのエアポートバスのことですけど」
「ああ、それはウチではないです」
「え?でも、ルフトハンザのバスですよ?」
「すみません、ここではわかりません」(以下略)
やんぬるかな。
諦めて、もう一度ルフトハンザ・エアポートバスのホームページをドイツ語版から英語版にして、隅から隅まで見てみることにした。すると、FAQのところにチケットの有効期限についてもちゃんと書かれていた。それはいいのだが、どうもルフトハンザのお問い合わせ窓口の対応には、いささか憮然としたものを感じた(後日メールで同様のことを問い合わせたところ、「ご搭乗に関しましてのお問い合わせにつきましては、最寄の予約センターまでご連絡くださいますようお願い申し上げます」という、まことにトンチンカンな返信があったことを申し添えておく)。

問題は、マーラーの作曲小屋のあるザルツカンマーグートのシュタインバッハ・アム・アッターゼへの移動の手段であった。
シュタインバッハ・アム・アッターゼへは、ミュンヘンからザルツブルクへと移動した日の午後に行く予定であった。グーグルマップで経路を調べてみると、電車とバスを利用する場合は約2時間、車なら1時間弱で行けることがわかった。車なら電車&バスの約半分の時間で行けるのだ。
移動は午後からなので、移動時間の短縮を考えるのなら車の方が無駄がない。車で行くのなら、タクシーをチャーターするか、国際免許を取得してレンタカーを借りる必要がある。
国際免許は、国内の運転免許証があれば、パスポートと渡航を証明するもの(旅行計画書)等を提出して、案外簡単に手に入れることができる。しかし、通行区分の違う国で知らない道を走るというのは、事故などのリスクが大きいのではないかと心配されるし、レンタカーを借りたり返却したりする手続きの煩わしさもある。
タクシーをチャーターする場合でも、シュタインバッハ・アム・アッターゼまで、いったいどれほどの料金がかかるのかがわからなかった。
どうしようかと迷った。Facebookにその旨を呟くと、旧知である奈良のオーヤマ先生からは「ヘリコプターはないんですか?」というコメントが入った。困った人である。

でも、そのオーヤマ先生からのコメントから、ネットで質問してみれば返信してくれる人がいるかもしれないと思いついた。そこで、「地球の歩き方」サイトのFAQコーナーで、ザルツブルクからシュタインバッハ・アム・アッターゼまでの移動手段について質問してみることにした。
驚いたことに、投稿するとすぐにお二人の方から返信があった。タクシーでの移動は片道15,000円〜20,000円ほどかかること、オーストリア連邦鉄道のHPからなら詳しい行き方や移動時間まで調べられてチケットの予約もできること、だから電車とバスを利用して移動するのがよいこと、などをご教示していただいた(残念ながら、ヘリコプターでの移動については提案がなかった)。
これで、シュタインバッハ・アム・アッターゼへは、ご教示のとおり電車&バスで行くことが決定された。
さっそく、オーストリア連邦鉄道のHPにアクセスして、乗車可能の列車や料金などを検索してみた。その過程で、マーラーの作曲小屋のある場所は、シュタインバッハ・アム・アッターゼの中でもゼーフェルトのフェッティンガーというところにあって、近くのホテルがその小屋を管理しているということもわかった。ザルツブルクを出発するおおよその時間、そして出発地のザルツブルクと到着地ゼーフェルトを入力すると、利用できる電車・バス、指定席の予約可否までが全て検索できた。
行きは、レイルジェットという特急で、ザルツブルクから東のウィーンに向かって40分ほどのフェックラブルックという駅(アッターゼ湖の北東約15キロ)で乗り換え、そこからはちょうどよい乗り換えの電車がないので、バスでアッターゼ湖北端のカンマー・シェルフリンク駅まで。さらに今度は湖畔を南に向かって走るバスに乗り換えてゼーフェルトに到着する。所要時間は1時間40分ほどだ。
帰りはバスでカンマー・シェルフリンク駅まで戻り、そこからはローカル電車でフェックラブルックまで25分ほど。フェックラブルックからは、行きと同じくレイルジェットでザルツブルクまで40分。行きと同様に1時間40分ほどでザルツブルクまで戻ってこられる。
レイルジェットという特急列車は、ビジネスクラス・1等車・2等車で構成されていたが、2等車でも座席指定(座席指定券は一人3ユーロ、約390円)ができて十分快適らしいということがわかったので、行きも帰りも2等車の座席を指定した。往復の交通費は、指定席券も含めて二人で約84ユーロ(約10,800円)。タクシーよりもかなり安価であった(たぶんヘリコプターよりも)。
ついでに、ミュンヘン〜ザルツブルクと、コンサートが終わった翌朝にはウィーンへと移動するので、ザルツブルク〜ウィーン間の列車も予約した。ミュンヘン〜ザルツブルク間は二人で82ユーロ(約10,600円)、ザルツブルク〜ウィーン間は約54ユーロ(約7,000円)であった(共に、2等の座席指定)。
これで、旅行期間中の主な移動手段は確保することができた。

それにしても、マーラーの作曲小屋があるというだけで、たとえ日程がハードになっても、どうしてそれほどまでにシュタインバッハ・アム・アッターゼへ行きたいのか理解に苦しむ方もあろう。
それは、マーラーのファンにとっては、シュタインバッハ・アム・アッターゼが「聖地」の一つだからだ。つまり、今回の旅はマーラーの「聖地巡礼」の旅なのだ。巡礼の旅には、多少の苦労は付き物なのである。静岡県沼津市は、昨今とあるアニメの舞台となった「聖地」として、週末には多くのファンが訪れるようになっている。実際に、アニメに出てくる場所を訪れることで、アニメに描かれた世界を実感できるからであろう。
シュタインバッハ・アム・アッターゼもそれと同様である。そこを訪れ、周囲の自然の美しさを愛でたブルーノ・ワルターに、マーラーは「そのすべてを(第3交響曲に)作曲してしまったから」と語った。実際にその地へ行き、自分でシュタインバッハ・アム・アッターゼの風景を目にしたとき、第3交響曲のどんなパッセージが響いてくるのか、ただひたすらそれに耳を澄ませ、聴き取ってみたいのである。

旅支度で最も大切なことは想像力だ。
移動、宿泊、観光など、あらゆる場面で、実際に自分たちがそれを経験している場面をどれだけ想像できるかということである。
いろんな場面で、その場にいる自分たちをうまく想像することができなければ、その選択はしてはならない。レンタカーをチョイスしなかったのは、実際にレンタカーを借りて自分たちが現地を走るところをうまく想像できなかったからだ。うまく想像できないことをあえて選択すると、きっとその選択はよからぬ結果をもたらすような気がするのである。

ホテルは、全てジェットウェイ・トラベルにお願いした。荷物のこともあるので、できるだけ駅近くで、バスタブのあるホテルを探してもらうことにした。前回のイタリア旅行では、宿泊した全てのホテルがバスタブのないホテルばかりで、終日歩き回って疲れた体を癒すには、やはりゆっくりとお湯に浸かるのがいちばんだと実感させられたからである。
ジェットウェイ・トラベルのナカガワさんからは、ご自身がウィーンに滞在したこともあるとのことで、「ウィーンだけは国立歌劇場近くのちょっといいホテルになさってはいかがですか?」と提案されたので、駅からは少し離れてはいるが、そのホテルでお願いすることにした。
これでホテルも全て決まった。

あとは、それぞれの場所で食事をするところと、ウィーンの市内観光をどうするかを考えるくらいである。旅の計画で、いちばん楽しいところだ。ミュンヘンのビールとブルスト、ウィーンのザッハトルテが目に浮かんできた。

(その1)チケットを手に入れるまで

昨年秋、東京都交響楽団からのDMにて、大野和士指揮・東京都交響楽団によるグスタフ・マーラーの交響曲第3番の演奏会が、今年の4月に東京文化会館にて開催されることを知った。チケットが発売されたのは昨年の12月。発売日当日、さっそくネットにてチケットを買い求め、演奏会を楽しみに待っていた。

グスタフ・マーラーは、19世紀末から20世紀のはじめに活躍した指揮者・作曲家である。存命中は指揮者として高く評価され、ヨーロッパ各地の歌劇場指揮者を経て、ウィーン宮廷歌劇場(当時)の終身芸術監督にも任命されたほどであった。
18歳でウィーン学友協会音楽院を卒業したマーラーは、生活のために各地の歌劇場で指揮活動をするかたわら作曲にも着手、20歳を過ぎてからはいくつかの歌曲集(「若き日の歌」、「さすらう若人の歌」)や、管弦楽を伴う大規模な合唱曲(カンタータ「嘆きの歌」)などを次々と完成させていった。
マーラーは生涯に11曲の交響曲(未完成作品を含む)を遺したが、交響曲第1番の作曲を始めたのは24歳のときで、5年後の29歳のときにマーラー自身の手で初演された。以降、マーラーの作曲活動は交響曲が中心となった。

交響曲第3番の作曲が始められたのはマーラーが33歳、ハンブルク市立劇場の指揮者をしていたころである。当時は、コレラの流行もあってハンブルクでも多数の死者が出たためか、マーラーは劇場の休暇を利用してハンブルクを離れ、2千メートル級の山々と70以上の湖が点在する風光明媚なザルツカンマーグート(オーストリア)のシュタインバッハ・アム・アッターゼ(アッターゼ湖畔のシュタインバッハ)に滞在、湖畔に小さな作曲小屋を建てて、作曲に明け暮れていた。
ちょうど交響曲第3番を作曲していた折、マーラーの弟子であるブルーノ・ワルターがシュタインバッハ・アム・アッターゼにマーラーを訪れた。周囲の風光に感嘆するワルターに向かって、マーラーは「君はもう何も見なくてもいい。僕がその全てを作曲してしまったから」と言ったそうだ(これは、マーラー・ファンであれば周知のエピソードである)。
休暇中は毎年のようにシュタインバッハ・アム・アッターゼを訪れたマーラーは、ここで34歳のときに交響曲第2番を、36歳のときに第3番を完成させた。

大野和士指揮・東京都交響楽団による交響曲第3番の演奏会を待つあいだ、そんなシュタインバッハ・アム・アッターゼを、機会があればぜひ一度訪れてみたいという思いはいっそう強くなった。
地図で見ると、シュタインバッハ・アム・アッターゼは、オーストリア国内では、ウィーンよりはザルツブルクからの方が近い。ザルツブルクと言えば、そのモーツァルト生誕の地で開催される音楽祭が有名である。もし、シュタインバッハ・アム・アッターゼを訪れるのならば、せっかくなのでザルツブルク音楽祭も鑑賞できないものだろうかと考え始めていた。

クラシック音楽を聴くのが趣味とは言え、実際にザルツブルク音楽祭については、その開催時期からプログラムまで、詳しいことはほとんど知らなかった。学生時代、FM放送のクラシック音楽番組のエアチェックをしている際、「今年のザルツブルク音楽祭から...」というアナウンスで、その音楽祭がクラシック音楽界では由緒ある音楽祭であることを知っていたくらいだ。
そこで、今年の音楽祭はどんなプログラムで開催されるのだろうとネットを検索してみた。すると、7月28日〜29日の両日にわたって、祝祭大劇場にてウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番「復活」が演奏されることを知った!
驚いた。
シュタインバッハ・アム・アッターゼへ行くことを考えていたところに、その場所で作曲された交響曲第2番の演奏会がザルツブルクで開催されるのだ!
3番ではなかったが、「これはきっとマーラーからのお導きである」と思った。
まるで、ふと手に取ったジグソーパズルのピースが空白の部分にぴったりとはまったときのように事態が生起するときには、躊躇することなくその流れに乗らなくてはならない。
7月の終わりならば、今の職場は夏休みに入っている。
行くしかない!と思った。

さっそく、ザルツブルク音楽祭のツアーをネットで検索してみた。例えばJ社の場合は、オペラとコンサートの2種類のチケット付きで1人70〜80万円であった。家内と二人で行けば140〜150万円!とても手を出せる代物ではなかった。
さらにあれこれ調べてみると、ツアーではなく自分でチケットを手配する方法もあるということがわかった。音楽祭の公式ホームページから直接チケットを購入するのである。これならJ社ほどのツアー料金はかからない。往復の航空券と電車等による移動の交通費、ホテル等の滞在費、さらにはチケット代を加えても、J社のツアーの約半額で済みそうであった。もっとも参考になったのは、以下のサイトである。
http://ヨーロッパ音楽の旅.com/salzburgerfestspiele-ticket/

2月、件のザルツブルク祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番の演奏会のサイトにアクセスしてみた。
7月28日は午前11時から、29日は午後8時からのコンサートであることがわかった。夜のコンサートよりは、初日の午前中からのコンサートの方がチケットは取りやすいかもしれないと思った。
28日のコンサートをチョイスして、座席を選ぶところまで進んだ。いちばん高い席は220ユーロ(約2万8千円)。もちろん、日本でウィーン・フィルを聴くことを考えれば安いのかもしれないが、二人で5万円以上もするチケットはあまりに贅沢であった。二階席ならば80ユーロ(約1万円)の席があったので、そちらを選ぶことにした。サイトでは、その座席からは舞台がどう見えるのかも確認することができた。鑑賞には特に支障のない座席であった。
二人分の席を選び、支払いのページに移った。クレジットカードの番号を入力し、エイヤッと気合いを入れて申し込み確定ボタンをクリックした。すると、公式ホームページのチケットセンターからは、以下のような返信が送られてきた。曰く、「汝の予約を受け付けた。しかし、確実にチケットが手配できたわけではない。チケットが確約できるかどうかは3月末日までには連絡するので、それまで待たれよ」とのことであった。
3月末まで猶予がある理由はよくわからなかったが、世界的に人気のある音楽祭だから応募者の中から抽選するのかもしれないなどと思っていた。もちろん、チケットが入手できなければ、ザルツブルク行きは諦めるつもりでいたのである。

すると、そのメールが来てからわずか2週間後、Salzburger Festspieleというところからメールが入っていた。
ザルツブルク音楽祭のチケットセンターからだ!
ドキドキしながらメールを開いてみた。
「汝の申し込んだチケットは確定した」とのメールであった。
ミューズ神は舞い降りたのである。
天にも上る気分であった。
こうして、ザルツブルク音楽祭への旅支度が始まった。