父の死

死んだ父は寡黙な人だった。

僕が、父と生涯に喋った時間を合わせても、たぶん1時間に満たないのではなかろうか。
例えば、僕が学生時代に実家へ仕送りの電話をした際など父が電話を取ると、会話は「今月入り用なので仕送りしてほしいんだけど」ー「わかった」と、ほとんど1,2秒で済んでしまうというような具合で、父とのほとんどすべての会話はこんなふうだったのである。

若い頃の父がどんなふうだったのかは、父の母、すなわち僕の祖母から、「あんたのお父さんにはホントに匙を投げたよ」と聞いたことがある。さぞかし無頼をしていたのであろう。

反物を風呂敷に包んで背中に背負い、村から村へと歩いて呉服の行商していた祖母が、浜名湖畔のかつては村で名主をしていた家の娘を、そんな無頼の息子の嫁にと懇望して祝言を挙げさせたのも、行商をしながらの出来事であったろうか。
そして、どういう経緯かは知らないが、祝言を挙げた父と母は、母の実家である屋敷の一角に小さな家を建て、祖母の行商のツテもあってか、村でただ一軒の呉服屋を営むようになったのである。

しかし、もともと無頼が性で寡黙な父が、客相手の商売などに向くはずはなく、そのうちに父は競艇やオートレースなどの公営ギャンブルにのめり込み、店の売り上げをそれらのギャンブルに流用していた(僕が小学生のときには、父から預金通帳を渡され「これで3万円出してこい」と使いを頼まれたことが再三あった)のではないか。

そのうちに、たぶん母方の伯父から父に話があって、呉服店を営むかたわら、オートバイの部品加工(エンジンのシリンダーヘッドにゴムパッキンを接着する)の仕事を内職として始めることになった。
この仕事に父は夢中になった。それまでどちらかと言えばあまり身の入らなかった呉服店の仕事は母に任せきりになり、自分は母の実家の叔母や祖母にその内職を手伝ってもらいながら、それまでとは見違えるような熱心な働き手となった。

内職で始めた仕事がほとんど本業に近くなるほど軌道に乗り始めた矢先、とある出来事があって、その浜名湖畔の家を出なければならない事態が生じた。僕が中学校3年生のときである。
とりあえずは住むところを何とかしなければということで、ちょうど母の兄が他所に自宅を新築して空き家になっていた家を借りることになり、内職の仕事もそこで行うようになった。

それからほどなくして、父は郊外の二軒続きの借家を買い上げ、一軒を仕事場として使い、もう一軒を住家として使うようになった。家の西側には茶畑が広がり、遠くに見える三方原台地の松林の向こうに沈む美しい夕日が見えた。

僕が大学に進学してからのことは、実家を離れていたので断片的にしかわからないが、日本の高度経済成長期とも重なって仕事は順調で、かなりの収入に恵まれているらしかった。
僕は、大学を卒業した翌年に地元の教員採用試験に合格して採用が決まったので、5年ぶりに地元に帰ってくることになった。

ちょうどその頃、自宅を新築する話が持ち上がっていた。買い上げた借家と、さらにその前の土地も合わせて買い上げて宅地とし、その敷地に仕事場と自宅を建てるということで、その間だけ僕は自宅から少し離れたアパートの一室を借りて、自宅を建てる間そこに住むことになった。
建前の日の夜、父は珍しく上機嫌で、お祝いに駆けつけてくれた僕の友人を相手に、酒の勢いも手伝ってか野鄙な話も持ち出したりして、一人で盛り上がっていたことを思い出す。

僕の結婚の際には、きちんと結納を交わしたいということで、父が主導してわざわざ結納の場を設けたこともあった。まさか父がそんなことを言い出すとは思わなかったので、ひどく意外な感じがした。

それから数年後、さらに仕事場を拡張するために、従来の仕事場を潰して新たな仕事場兼事務所を建てることになった。そして、それまでの仕事場のあったところに、僕の家を建てることになった。

バブルが崩壊してほどなくであったか、取引をしていた事業所が浜松から移転したことをきっかけにして、それまでの仕事がなくなった。
年齢的なこともあってか、父は積極的に次の仕事を探そうともせず、家の補修をしたり、庭木を植えたりしながら、自分は事務所だった離れの二階の部屋を自分専用の部屋にして、読書をしたり、ラジオを聴いたり、相変わらずオートレースの予想をしたりして、悠々自適の生活をするようになっていった。

ほとんど僕の家にも顔を出したことのない父が、「具合が悪いので病院まで連れて行ってくれや」と珍しく僕のところへ頼みに来たのが昨年(2018年)の夏(8月)のことであった。
「息が苦しい」とのことで、地元の総合病院で検査を受けた結果、「間質性肺炎」との診断であった。医師の話では、「原因不明、したがって有効な治療法もなし、とりあえずは経過観察するしかない」とのことであった。

それから二ヶ月後の10月、また父親が顔を出して、「オレはもう1週間後に死ぬから、家の権利書とか受け取ってくれや」と言いに来た。そのままいつもの総合病院に連れていって診察を受けたが、入院するほどではないと言われ、そのまま家に帰ってきた。

容体が悪化したのは、年の瀬も押し迫った12月、件の総合病院に入院したことを知らされ、担当医師からは病気の進行と合併症のことを知らされた。すぐにどうこうということはないだろうが、常に酸素を吸入できるようにしておくことが必要だと言われた。

初めは自宅で療養することも考えていたのだが、酸素吸入のことやらも含めると、長期療養できる病院で世話してもらった方がいいのではないかという医師や看護師からのアドバイスもあり、自宅から車で20分ほどの赤十字病院で療養する手筈を整えた。

見舞いに行っている家内から、どうやら父親が出された食事をほとんど口にしていないどころか、看護師には食べたと言って、実は食事をティッシュなどに包んでベッド内に隠したりしているらしいことがわかった。
母親や看護師にその旨を伝え、ちゃんと食事を摂るように促してもらうよう依頼したのだが、僕が見舞いに行ったときも、もう昼前になるというのに、朝食で出された膳がまだ目の前に置かれたままということもあった。

入院して10日後の早朝、病院から父親危篤の連絡が入った。まさかと思いつつ病院に駆けつけると、時おり呼吸の止まる様子がモニターに見て取れた。これは覚悟を決めなければならないと思った。
父親の死亡連絡が入ったのは、その翌日の早朝であった。死に際には間に合わなかったが、看護師の話では静かに息を引き取ったとのことであった。

ちゃんと食事を摂り、リハビリもしていれば、もう少し長く生きられた可能性もあったと思われるが、どうやら父は自分で死期を早めたのではないかと思われる。
自宅療養や、長期療養病院への入院等で家族に迷惑をかけたくないとの思いもあったのであろうか。そういう意味では、父らしいまことにあっぱれな最後であったと思う。

初七日、そして四十九日の法要と納骨を済ませ、少しずつ父の遺品整理をしていく中で、離れの二階からびっくりするようなものがたくさん出てきた。

一つは、大量のカセットテープである。何を録音していたか一つ一つ確認はしなかったが、どうやら謡曲を中心に録音していたらしい。確かに、晩年はどこかから三味線を手に入れて時おり練習をしていたらしいが、それらのカセットに録音したものを手本にしていたであろう。

もう一つは、大量の趣味や教養のNHKテキスト類である。語学を除いて、ありとあらゆるジャンルのテキストで、そこから園芸や木工の知識を得ていたらしいことがわかった。

仏教関係の書物もたくさん出てきた。自宅近くの寺院をわが家の菩提寺にして、親戚からの援助も得て墓を建立したのも父だったが、どうやら寺院の選定については、それらの仏教の知識が役立ったのではないか。

その他、週刊朝日百科の「日本の国宝」と「世界の美術」が全巻、そして英字新聞も出てきた。
まさか英語がすらすら読めたとは思わないが、アメリカ合衆国の大きな地図が二階へ行く階段の途中に貼ってあったことを考えると、アメリカへの憧れがあったのかもしれない。

父は若い時分に耳疾を煩い、以来左耳の聞こえが悪かった。寡黙になったのは、そんなことも影響していたのだろう。
そんな自分の障害に重ね合わせたのであろうか、父はベートーヴェンが特にお気に入りだった。自分も独学でヴァイオリンを弾いたりしていたらしいが、僕も小学生の低学年のときには子供用のヴァイオリンを弾かされたことを覚えている。もちろん、僕の場合は熱心に練習する子どもではなかったのでそれきりになってしまったが。

それでも、僕がクラシック音楽に親しむようになったのは、そんな父の影響があってのことであった。自宅には、ベートーヴェンの交響曲の古びたオーケストラスコアが何冊かあった。レコードでそれらの曲を聴く際には、スコアを見ながら聴くことで、さらに曲への親しみが増したことを覚えている。

完成こそ叶わなかったが、父は仕事場の一角に茶室を建てていた。大工仕事の覚えもないのに、ありあわせの材料を使い、見よう見まねで作っていたのである。家内には、「茶室を完成するのが俺の夢なんだよ」と語っていたらしい。

義務教育の学歴しかなかった父は、「無知の知」ということを身をもって実践した人だった。晩年になっても、自らの教養を高めることを忘れていなかった。そして、芸術に親しむ心を忘れなかった。
菩提寺の住職は、父の戒名に「自楽」という文字を入れてくれた。生涯「自ら楽しむ」ことを実践して生きた、いかにも父に相応しい戒名であった。

1分56秒の奇跡

2018年5月、悪質タックル問題の被害側となった関西学院大学アメリカンフットボール部であったが、昨年末そんな彼らがすばらしい試合を見せてくれた。
幸いにもスタジアムでその試合を観戦できた一部始終を書き残しておきたい。

人は時に、常識では考えられないような出来事に遭遇することがある。巷間、そんな出来事は通常「奇跡」と呼び慣わされている。

2018年12月2日、大阪の万博記念競技場で繰り広げられた全日本大学アメリカンフットボール選手権西日本代表校決定戦「ウェスタンジャパンボウル」では、関西学生リーグの優勝校である関西学院大学ファイターズと、西日本代表校4回戦の勝者である立命館大学パンサーズの試合で、そんな「奇跡」のような出来事を目の当たりにすることになった。

西日本代表校決定戦に到るまでは、初戦で中四国代表校と北陸代表校が、2回戦ではその勝者と九州代表校が、3回戦ではその勝者と東海代表校が、4回戦ではその勝者と関西学生リーグ2位校とが対戦し、その勝者が西日本代表校決定戦で関西学生リーグ1位校と対戦することになっている。今年の4回戦の勝者は、関西学生リーグ2位の立命館大学パンサーズであった。

大学日本一を決める「甲子園ボウル」は、全日本大学選手権の東日本代表と西日本代表との間で争われる。甲子園ボウルに出場するためには、東西の代表校決定戦を勝ち抜かなければならないのだ。

既に、両校は関西学生リーグの最終戦で一度対戦していた。そのときには、関学ファイターズが終始試合の主導権を握り、31−7で圧勝していた。
一度対戦したチームが再戦する際には、よほどの力の差がないかぎり、追いかける方=前回の対戦で負けたチームの方が有利と言われる。敗戦の教訓を生かし、技術面や戦術面で立て直しを図ってくるだけでなく、何より「やり返してやる」という精神面でのモチベーションが高まるからだ。

現に、2017年のウェスタンジャパンボウルでは、関西学生リーグ最終戦で立命館大に敗れた関学ファイターズが、34−3で関西学生リーグ1位の立命館大に勝利している。やはり「追いかける方が有利」だったのだ。
2017年とはまったく逆の立場になった両校が、さてどんな試合を展開するのか興味は尽きないままに、2018年の「ウェスタンジャパンボウル」を迎えたのである。

キックオフは14:05。試合開始直後からそんな通説通りの試合が展開されていった。
パンサーズのオフェンスは、ファイターズのお株を奪うかのようなノーハドル(ハドルとは、オフェンスチームが事前に戦術の打ち合わせをすることで、それをせずにどんどんオフェンスを進めるやり方)のオフェンスで幸先よく先制、得点後のTFP(トライ・フォー・ポイント、得点後のボーナスポイント。キックで1点、エンドゾーンにランまたはパスで持ち込めば2点が追加される)こそファイターズのディフェンスに阻まれたものの、試合のモメンタムを引き寄せる貴重なタッチダウン(6点)を奪った。

対するファイターズのオフェンスは思うように進まない。何とかパンサーズゴール前には迫ったもののタッチダウンは奪えず、FG(フィールドゴール、ボールを蹴ってゴールポストを通過させること)の3点を返すに止まった。
逆に、前半終了間際には、ファイターズのQB(クォータバック)奥野#3が投じたパスをパンサーズのディフェンスがインターセプト、そのまま一気に68ヤードを走り切ってタッチダウン、差を13−3と広げる。

後半に入ってもパンサーズのオフェンスは好調で、第3Qにはパンサーズのキッカーが44ヤードのFGを決めて16−3。さらに点差は開くばかりであった。
しかし、第3Qに入ってようやくファイターズも反撃に出る。完全にパンサーズへと傾きつつあった流れに待ったをかけたのは、前半から今一つ波に乗れない奥野#3に代わった、主将でQBの光藤#10だった。その光藤がWR(ワイドレシーバー、主にパスを受けることが専門のポジション)阿部#81への24ヤードパスを決めてようやくタッチダウン、点差を16−10と詰める。

これでファイターズに流れが来たかと思いきや、次のオフェンスシリーズでは奥野がこの日3本目のインターセプトを喫し、攻撃権を奪われてFGを決められ、点差はまたもや19ー10と開いてしまう。

試合は、第4Qに入ってファイターズの敗色濃厚という雰囲気であったが、ここからファイターズが息を吹き返す。奥野のパスとランで陣地を進めたファイターズは、さらに光藤のランでエンドゾーンに迫り、最後はRB(ランニングバック、主に走ってボールを運ぶポジション)中村#26が飛び込んでタッチダウン、19-17の2点差に迫った。
直後のパンサーズの攻撃をディフェンスが凌いで、オフェンスに攻撃権を渡す。試合終了まで残り1分56秒。ボールオンはファイターズの自陣36ヤード、相手エンドゾーンまで60ヤード以上の距離が残っている。

「奇跡」はここから始まった。

ここでファイターズのベンチが送り出したのは、流れを変えた光藤ではなく、この日インターセプトを3本も献上した奥野だった。観客席からも「奥野じゃダメだ、光藤を出せ!」という声が聞こえた。
その奥野が、WR松井#85へ矢のような24ヤードパスを通す。続けて、WR阿部#81へもミドルパスを決め、阿部はボールキャッチ後のランでそのまま一気に28ヤードをゲインし、パンサーズのエンドゾーン10ヤード付近まで迫った。ファイターズ応援席はほとんど総立ちになった。

試合終了まで1分を切って、次にファイターズが選択したのはランプレーだった。ランプレーの場合、ボールキャリアがファーストダウン(4回の攻撃で10ヤード進んだ場合に与えられる新たな攻撃権)を獲得せずにフィールド内で倒されると時計は進む。
ゲインは2ヤードほど。時間は刻々と過ぎていく。観客席からは「何してんねん、タイムアウト取らんかい!」と怒号が飛ぶが、試合終了まで残り2秒となったところで、ようやくファイターズベンチはタイムアウト(前後半それぞれ3回ずつタイムアウトが取れる)をコールした。相手に攻撃時間を残さないためにあえて時間を進ませ、24ヤードのFGトライを選択したのだ。

すべてはK(キッカー)の安藤#8に託された。パンサーズの観客席からは大ブーイング、ファイターズの観客席は手を合わせて祈るばかりだ。
タイムアウトが解け、安藤がポジションにつく。ゴールポストを越えれば20-19でファイターズの勝利、失敗すれば19-17でパンサーズの勝利である。勝ったチームが甲子園ボウルへの出場権を得る。

ボールを後ろにスナップするスナッパー鈴木#67が、ボールをセットするホルダー中岡#14へボールを送り、中岡がセットしたボールを安藤がゴールポスト目がけて蹴り込む。
ゴールポスト下に控えた2人の審判の両手が高々と挙げられた。ボールは見事ゴールポストの間を通過したのである。ファイターズ観客席からはうなりのような声が挙がった。試合終了と同時のファイターズ1点差の勝利であった。

観客席の誰もが「1分56秒の奇跡」と感じたこの試合であるが、その布石は第1Qから始まっていた。
「布石」のその1は、第1Qにパンサーズの先制タッチダウン直後のキックによるPAT(1点)をファイターズのディフェンスがブロックしたことである。
ファイナルスコアは1点差。このブロックがなければ、最後のFGを決めても同点だった。その場合、ファイターズは勝つために最後はどうしてもタッチダウンを取りにいかなければならなかったはずだ。ゴール前のディフェンスは守りやすいと言われる。残り時間を考えても、それはFGを決めるより困難であったろう。

「布石」のその2は、試合開始から終始健闘していたファイターズディフェンスチームの粘りである。
パンサーズに2本のタッチダウンを許したのは前半だけだったし、そのうちの1本はオフェンスチームがインターセプトされてのタッチダウンだった。後半も、パンサーズには2本のFGを決められたが、そのうちの1本はまたもやオフェンスチームがインターセプトされての失点であった。
残り時間が少なくなった第4Qで、パンサーズオフェンスに時間も使わせず、ゲインもほとんど許さずに1分56秒をオフェンスチームに残したことが、オフェンスチームを奮起させたことは想像に難くない。これが「奇跡」のお膳立てとなった。

「布石」その3は、主将でQBの光藤の存在である。今季のファイターズは、3人のQB(2年生の奥野#3、昨年のエースQBだった4年生の西野#18、そして光藤#10)を場面に応じて使い分けていた。
この試合では、先発の奥野が3本のインターセプトを喫するなどして精彩を欠いた。流れを変えるべく途中から出場した西野も、プレー中に手を骨折してしまった。そんな状況の中で、光藤は冷静に自分のやるべきことに徹していた。
試合後、光藤は「前半から相手にリードされている展開を予想して練習していました」と語った。光藤にとっては、予想通りの試合展開だったのだ。その光藤が、後半2本のタッチダウンを演出した。光藤のクォーターバッキング無くして、ファイターズが接戦に持ち込むことはできなかったのである。

このように、一見するとまるで奇跡のように思えることでも、そこに至るまでの過程を振り返ってみると、いろいろな要素がお膳立てとなって「奇跡」へと収斂していったことが判明する。
もちろん、そんな「お膳立て」をするのは、日々の精密な練習の積み重ねであり、戦略と戦術を含めたコーチ陣のゲームプランであり、試合中の選手たちのメンタルの持ちようなのであろう。

最後にFGを決めた安藤は、「あれはミスキックでした」と語っていた。相当のプレッシャーがあったのだろう。しかし、見事に成功させたのは、日ごろからこういう場面を想定して練習してきたからであろうし、コーチ陣もそんなキッカーの力量をしっかりと見極めていたのだ。

そして、何より忘れてはならないのは、スポーツにおける「奇跡」を演出するためには、実力が伯仲したライバルがいなければならないことだ。
関西学生アメリカンフットボールリーグにおいては、この10年ほどは、ほとんど関西学院大と立命館大でその覇権が争われてきた。ライバルの存在を意識するからこそ、さらなる高みを目指そうと互いに切磋琢磨する気運は生まれる。
それは、実際の試合においても、僅差を争う好ゲームにつながる。僅差のゲームだからこそ、試合終了までその行方を予想することは難しく、両チームの応援席では固唾を飲んで試合の展開を見守ることになる。そんな観客の存在が、時に「奇跡」を生む土壌ともなるのだ。

今季、ウェスタンジャパンボウルを制した関西学院大学ファイターズは、甲子園ボウルでも東日本代表の早稲田大学ビッグベアーズを圧倒、2年ぶり29回目の甲子園ボウル制覇を遂げ、大学日本一に輝いた。もちろん、ファイターズの面々はパンサーズの思いも背負って甲子園ボウルに臨んだはずである。

かつてファイターズと互いに甲子園ボウルで覇を競った日本大学フェニックスOBの宍戸博昭氏は、「週刊TURNOVER」誌上で関学ファイターズを次のように評していた。
「仲間を信じ、スタッフを含めた全員が勝利を目指して死力を尽くす。他大学が憧れリスペクトしてやまないK.G.ファイターズとは、そういうチームなのである。」

スポーツ、特に学生スポーツってすばらしい。
来季、関西学院大学ファイターズはどんな戦いぶりを見せてくれるのだろう。

<十大ニュース2018>

1、父親が亡くなった
秋口から「呼吸が苦しい」と訴えて、総合病院で精密検査を受けた結果、「間質性肺炎」と診断され、とりあえず現時点で治療法はないと医師から告げられたときから、自らの死を決意していたであろう父親が、年末の12月に入院してわずか10日で亡くなった。
入院した直後は、今後の療養のために介護認定を受ける準備をしていたのだが、日に日に病状が悪化し、自宅での療養は難しい状況と判断された時点から、長期療養先の病院を決めていた矢先、病院から危篤の報を受け取り、翌朝には帰らぬ人となった。
病院食をほとんど口にしなかったことから、急激に痩せ細って、体力的にも限界を迎えての死だったのであろうが、父親の性格から想像するに、たぶんわざと食事を摂らず、自ら死に向かっていったのだと思う。父親らしい、まことに見事な死に様であった。

2、ザルツブルク音楽祭へ
以前からぜひ行ってみたいと思っていたオーストリア、ザルツカンマーグートのシュタインバッハ・アム・アッターゼ。その湖畔には、グスタフ・マーラーが夏のオフシーズンに交響曲第2番と3番を作曲した作曲小屋が今も残されている。
せっかくザルツブルクまで行くのなら、ついでにザルツブルク音楽祭を鑑賞できないものかと調べたところ、なんと音楽祭が開幕した直後に、ウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番の演奏会が開催されることを知った。
さっそく、音楽祭のサイトにアクセスし、チケットを申し込んでみた。チケットが確約されるかどうかは2ヶ月ほど待たねばならないとのことだったが、それから2週間後にチケットが確約された旨のメールが入った。天にも登る気持ちだった。音楽祭で聞いたアンドリス・ネルソンス指揮、ウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番は、生涯忘れることがないであろう。
演奏会は7月の終わりだったので、約5ヶ月をかけてツアーの準備をした。いちばん頭を悩ませたのは、シュタインバッハ・アム・アッターゼへ行く方法だった。オーストリア連邦鉄道のHPにアクセスして、電車のバスのチケットを予約し、なんとかザルツブルクから日帰りできる日程を組んで、無事に作曲小屋にはたどり着くことができた。
それにしても、今夏のヨーロッパは暑かった。エアコンのないホテルでの滞在は、なかなかにきついものがあった。

3、ウェスタンジャパンボウル
この10年ほど、大学アメリカンフットボール界で毎年のようにレベルの高い試合を展開してくれている関西学院大学ファイターズと立命館大学パンサーズ。今年も、12月に開催されたウェスタンジャパンボウル(全日本大学選手権西日本代表校決定戦)では、期待に違わぬすばらしい試合を見せてくれた。
リーグ戦ではパンサーズを圧倒したファイターズであったが、この日は終始パンサーズがリードを奪った。「奇跡」は、試合終了まで1分56秒を残してファイターズ2点ビハインドというところから始まった。
それまでパスを3度もインターセプトされていたファイターズのQB奥野(5月の日大戦で悪質タックルを受けた選手)が、自陣から目の覚めるようなパスを2本通してパンサーズ陣内に攻め込む。さらに、ランを織り交ぜてパンサーズのゴール前へ前進。最後は、残り2秒を残してキッカーの安藤に逆転のFGを託す。関学の応援席からの大歓声を受けたキックは、見事ゴールポストを越えて、ファイターズの逆転勝利となった。
スポーツは筋書きのないドラマだと言われる。まさにその言葉通りのすばらしい試合だった。両チームの監督、選手、コーチにあらためて敬意を表したい。

4、サイモン・ラトル、ロンドン交響楽団演奏会
6月にベルリン・フィルの首席指揮者兼芸術監督を辞したサイモン・ラトルが、新たに就任したロンドン交響楽団を率いて来日公演をするとの報に接し、しかもその演奏曲目がマーラーの交響曲第9番と知り、これは何をさておいても聴きに行かず場なるまいとのことで、9月の終わり、横浜のみなとみらいホールへ。
ベルリン・フィルに比べると、自国のオーケストラであるということも手伝ってか、演奏はたいへんに感動的な演奏であった。今後の活躍が楽しみである。

5、黒岳登頂
今年の北海道旅行は、時期を例年とは1ヶ月ほどずらして、9月に行くことにした。目的は、日本でいちばん早いと言われる黒岳の紅葉を見るためである。
せっかく黒岳のロープウェイに乗るのならば、そこからリフトを乗り継げば7合目までは行けると知り、ならば登頂を目指してみようかということになった。
とりあえず登山靴だけあれば、あとはなんとかなるだろうと高を括っていたが、豈図らんや、そんなに甘いものではないということを思い知らされた。7合目から登り始めた時には薄日が差していたのに、8合目を過ぎたあたりから雨が降り始め、9合目を過ぎるころには吹き降りとなった。なんとか頂上にはたどり着いたものの、山頂は猛烈な風と雨と寒さで5分といられなかった。
早々に下山し、麓の層雲峡の宿の温泉に浸かって、ようやく生きた心地を取り戻した。あらためて自然の厳しさを実感させられた。

6、京都の桜と紅葉
3月の終わり、桜を愛でに京都へ。山科の勧修寺や大石神社、西陣の本法寺、蹴上インクラインや平安神宮の庭園などを回った。特に、本法寺ではちょうど公開していた長谷川等伯の佛涅槃図に圧倒された。夜は、中華料理店のハマムラにてナガミツくんと再会、久闊を叙した。
紅葉を愛でに京都に宿泊したのは、ウェスタンジャパンボウルが開催された12月の初め。雨上がりの北野天満宮内、御土居のもみじ苑を朝のうちに訪れたが、ほとんど訪れる人もなくて「紅葉の錦」を堪能することができた。

7、年間100冊超
今まで1年間に100冊以上の本を読んだ年はなかったのだが、今年は初めて100冊を超えた(102冊)。きっかけは、1月に千葉雅也『勉強の哲学』を読んだこと。この本を読んで、本の読み方が劇的に変わった。
今年読んだ本の中でベスト5は、①村上春樹『職業としての小説家』(スイッチパブリッシング)、②内田樹『日本の覚醒のために』(晶文社)、③生島美紀子『天才作曲家 大澤壽人』(みすず書房)、④立花隆『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』(文藝春秋)、⑤千葉雅也『勉強の哲学』(文藝春秋)

8、ライフワーク
昨年定年退職してから2年目、ようやくこれから自分のライフワークにしようと思えることを見つけることができた。きっかけは村上春樹の『職業としての小説家』を読んだこと(もちろん小説家になることを目指すわけではありません、念のため)。なかなか難しいが、それだけにやりがいもあるし、何より楽しいと思えること。それがライフワークというものであろう。

9、陶器まつり
今年は各地の陶器まつりによく出かけた。5月は岐阜県土岐市の「美濃焼まつり」へ。9月は愛知県瀬戸市の「せともの祭」へ。そして、10月は滋賀県信楽町の「信楽焼まつり」へ。それぞれの土地での焼物の微妙な違いも少しはわかるようになってきた。個人的には信楽焼の素朴な感じがお気に入りである。

10、神保町ブックフェスティバル
10月、東京で香月泰男の作品が見られると知り、新宿まで出かけたついでに、神保町にて開催されていたブックフェスティバルに立ち寄った。あまりの出店の多さに驚いた。家内は、いろんな絵本がほとんど半額で売られていると知り、あれこれ買い求めていた。当日は、140Bのブースや、ブリコルール・パブリッシングの島田さんにもお会いすることができた。行ってよかった。

番外
年明けの1月、芦屋の光安さんからのご案内で、京都での「京響ニューイヤーコンサート」終演後に、指揮とオーボエ独奏のシェレンベルガー氏を囲んでの打ち上げに同席させていただいた。シェレンベルガー氏は、カラヤンの時代のベルリン・フィル首席オーボエ奏者である。至福の時間であった。

それでは、どちら様もよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

「サイモン・ラトル、ロンドン交響楽団による来日公演(マーラー交響曲第9番)を聴いて」

9月28日、横浜みなとみらいホールでのサイモン・ラトル、ロンドン交響楽団による日本公演を聴いた。

サイモン・ラトルは、今年(2018年)の6月にそれまで16年間務めたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を辞した。そして、9月からはロンドン交響楽団の音楽監督に就任した。
今回の来日公演は、新たに手勢となったロンドン交響楽団を率いての公演ということで、どんな演奏を披露してくれるのだろうとの興味から、公演のことを知った4月、すぐにチケットを手配して5ヶ月後の公演を楽しみに待っていたのだった。

僕がサイモン・ラトルという指揮者のことを知ったのは、確か彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する経緯を取材したテレビ番組であったと思う。その番組内では、ラトルがマーラーの交響曲第7番をリハーサルしている場面が紹介されていた。第4楽章のセレナーデの後半部分を、できるだけ弱音で演奏するようにリハーサルしているシーンが印象的だった。

その指揮者としての実力を思い知ったのは、ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任した直後に演奏したマーラーの交響曲第5番の演奏だった。首席ホルン奏者であるシュテファン・ドールを指揮者のすぐ横に立たせ、まるでホルン協奏曲のように演奏した第3楽章もよかったが、何より感心させられたのは終楽章の演奏であった。
どちらかと言えば、最後のフィナーレに至るまでが間延びしがちな演奏の多いこの楽章を、ラトルは聴き手をまったく飽きさせることなく、それぞれのパッセージを有機的に際立たせながらフィナーレへとなだれ込んでいったのである。僕はすっかり彼の演奏の虜になってしまった。

それから、次々とラトルによるマーラー演奏のCDを買い求めた。ベルリン・フィルとのCDはまだ少ししか発売されていなかったので、ほとんどは前任のバーミンガム市交響楽団との演奏であったが、これが粒揃りの名演(3番はあまりよくなかったですが)ばかりであった。
中でも、とびっきりの名演は交響曲第2番と6番であった。2番は、演奏に25分近くも要する長大な第1楽章が少しも長いと感じることなく聴けた。どうやら、サイモン・ラトルという指揮者は、やや退屈に聴こえるような楽章でも、いかに興味深く聴かせるかというところに特異な能力を発揮するらしいということがわかった。
6番は、第1楽章の出だしから圧倒された。かつて聴いたことのなかった迫力でリズムを刻むコントラバス!そして、まさに阿鼻叫喚という形容が相応しい終楽章。スコアをその細部に至るまで徹底して読み込み、あらゆるパッセージを「意味あるもの」として位置付けるとともに、それらの音符の背後にある作曲者のパッションを余すところなく表現した演奏であった。

そんなサイモン・ラトルが、世界屈指のヴィルトゥオーソの集まりであるベルリン・フィルの首席指揮者に就任したということで、その期待はいやが上にも高まっていったのであった。

ところが、である。もちろん、ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任してからのCDもいくつか買い求めてみたのだが、どうも心にぐっと迫ってくるものがないのである。
典型的だったのは、マーラーの交響曲第9番。かつて、ベルリン・フィルはジョン・バルビローリの指揮で、この交響曲第9番の後世に残る名演を残している。ラトルにもそんな名演を期待したのだが、期待が大きすぎたためか、僕の耳にはバルビローリの演奏を超えるような感動はなかった。
何がよくないのか。バーミンガム市響との演奏では、指揮者ラトルがイニシアチブをとって演奏しているということが実感させられたのだが、ベルリン・フィルとの演奏では、そんなイニシアチブがあまり発揮されていないように感じたのである。サイモン・ラトルといえども、歴史があり世界一と言われる名手揃いのオーケストラを前にして、演奏者の自発性を重んじたところが裏目となって出たのであろうか。
そんなこともあって、それからはサイモン・ラトルとベルリン・フィルによるCDは、あまり買い求めなくなってしまった。
CDは買わなくなったが、ヴァルトビューネ・コンサートやヨーロッパ・コンサートなど、BSで時折り放送されるライブ映像は、録画してよく見ていた。ライブでは、CDから受けるような印象を感じることはなかった。

そして、ついにサイモン・ラトルがベルリン・フィルを去る日がやってきた。最後の定期演奏会に選ばれたのは、マーラーの交響曲第6番。その一部始終がBSで放送されることを知った。かつてバーミンガム市響との名演を思い出して、これは絶対に見逃せないとの思いで、録画予約をして放送される日を待っていた。

7月、録画したマーラーの6番を聴いた。かつて驚愕した第1楽章の出だしは、まあこんなものかという感じ。ところが、テンポが落ちるところになると途端に音楽が流れなくなった。
6番では、サイモン・ラトルは緩徐楽章であるアンダンテ・モデラートを、よく演奏される第3楽章ではなく、第2楽章に置く版で演奏する。今回もそうであったが、この緩徐楽章が流れないのである。まるで、川の水が淀みで流れなくなっているかのように。

僕は、個人的にこの6番の緩徐楽章が、マーラーのすべての交響曲の楽章の中でも特に好きな楽章である。安らぎと平安に満ちた生活も、時にどうしようもない悲しみで包まれることがあるが、この楽章の最後ではそんな人の力ではどうしようもない運命に苛まれる者の慟哭を聴くような感じがするからだ。
かつて、レナード・バーンスタインは、ウィーン・フィルを指揮した演奏で、この場面を唸りながら指揮していた。ところが、ラトルの演奏では、そんな思いが伝わってこないのである。ベルリン・フィルとの最後の定期演奏会なのに。

そんな経緯もあって、今回のロンドン交響楽団とのマーラーの交響曲第9番では、実際にサイモン・ラトルがどんな指揮をするのだろうとの興味から、通常の演奏会では舞台とは反対側の観客席ではなく、舞台側のパイプオルガンが設えられたところの下の席をチョイスすることにした。これなら、最初から最後までサイモン・ラトルの指揮ぶりを堪能することができるからだ。

演奏会は金曜日の夜であった。午前中の仕事を終え、その日が仕事休みだった家内と連れ立って、トゥインゴにて集中工事の期間中であった東名高速道を横浜町田インターまで、さらには保土ヶ谷バイパスを経て、横浜スタジアム近くのホテルにチェックイン。中華街にて早めの夕食を取り、地下鉄にてみなとみらいホールへ。

地下鉄みなとみらい駅の改札を出て3階分のエスカレーターを上ると、ホールは目の前である。既に入口には入場を待つ観客の列ができていた。さすがの人気と思っていたのだが、実際に舞台側の席に着席してみると、反対側の客席にはかなりの空席が目立った。開演直前でも7割弱の入りではなかったろうか。平日の夜ということも空席の理由だったかもしれない。

開演を知らせるゴングが鳴り、楽団員が入場してきた。チューニングが終わって、サイモン・ラトルの登場を待つ。まもなく、黒の詰襟風の服を着用したラトルが登場してきた。
最初は、イギリスの作曲家ハンス・グライムの「織りなされた空間」という現代曲。変拍子を交えた曲なので、指揮をするのは容易ではないと思われるのだが、ラトルは難なく振り分けて、きちんとクライマックスも作り上げていた。

20分間の休憩を挟んで、次はいよいよマーラーである。
第1楽章、前奏に続いて、ところどころにルバート(テンポを加減しながらの演奏)を効かせながら、主題をたっぷりと歌わせる。ゆったりとしたテンポではあったが、ここではベルリン・フィルとの最後の定期演奏会でのような「淀み」は感じられなかった。
第2楽章は、スコアに「レントラー(舞曲)風のテンポで」というマーラー自身の指定があるように3拍子で演奏されるのだが、ここでも主題にルバートを効かせたためか、あまり「舞曲」らしく聴こえない感じがした。
第3楽章では、ロンドン交響楽団の演奏技術の高さに驚愕させられた。中でも、首席トランペット奏者は、フィリップ・コブ(コプ?)という若者が務めているのだそうだが、この奏者が超絶的にうまかった。トランペットの二重奏のところではその抒情性を遺憾なく発揮し、フォルテッシモでは突き刺すような鋭さを付け加える。まちがいなく、彼は世界でもトップクラスのトランペッターであると確信させられた。
また、ラトルはシンバルのキュー(打ち鳴らす際の合図)をほとんど出さなかったのだが、いかにもぴったりのタイミングでシンバルを打ち鳴らしたロンドン響の打楽器奏者もさすがであった。そして第4楽章。この交響曲の中では、最も感動的な楽章だ。それはラトルももちろん心得ていて、時に大仰な身振りも交えながら、楽団員から精一杯の演奏を引き出そうとしていることが、その指揮ぶりからも十分に伝わってきた。

演奏の全体的な印象としては、ベルリン・フィルとの最後の定期演奏会のときのような、テンポの緩いところでの流れの悪さのようなものは感じられなかった。いい演奏であったと思う。
終演後のカーテンコールでは、ラトルが楽団員たちの間を巡回しながら、それぞれのパートの首席たちを讃えていた。就任してちょうど1ヶ月であったが、やはり自分の故国のオーケストラということもあってか、楽団員たちとはいい関係が築かれているように感じた。

以前、佐渡裕がベルリン・フィルにデビューする際のドキュメンタリー番組を見たが、どうやらベルリン・フィルはプレーヤーが指揮者を「値踏み」するようなところがあるらしい。それはそれで、楽団員たちにしてみれば民主的な集団として演奏者の意向が大切にされているという実感が持てるかもしれないが、指揮者からしてみればたいへんに敷居の高い演奏者集団ということになる。

いかなサイモン・ラトルとて、それは感じていたのではなかろうか。彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する前のバーミンガム市響とのレコーディングの数々と、ベルリン・フィルとのセッションとを比較すると、どうも後者の演奏が見劣り(聴き劣り?)するように感じる(もちろん個人的な印象である)のは、そんなところも影響しているかもしれない。

オーケストラと指揮者の関係というのは、そのどちらにイニシアチブがあるかというような単純な問題ではないにしても、どちらかといえば指揮者の方にイニシアチブのあった時代の演奏の方が、聴く者の心に訴えるところがあるように感じてしまう。
尤もそれは、僕らのようなレコードの時代に育った者は、その年代的な印象に左右されすぎているのかもしれないのだが、ことベルリン・フィルの演奏に限っても、フルトヴェングラーやカラヤンの時代の演奏の方が心に迫るものがあるように感じるのはどうしたことか。やはり、指揮者はオーケストラに「君臨」しないと、いい演奏はできないということなのだろうか。

そんなことをあれこれ考えさせられた横浜の夜だった。

<ザルツブルク音楽祭全般とチケット入手に関して>
○「ヨーロッパ音楽の旅」というHPの「ザルツブルク音楽祭チケット購入方法」というページ
http://xn--u9j7ipb4eza3g9248bthgp86i.com/salzburgerfestspiele-ticket/
が最も参考になりました。音楽祭の公式HPからどのようにしてチケットを申し込むのかが懇切丁寧に解説されております。

もちろん、実際には公式HPから申し込みます。
○「ザルツブルク音楽祭公式HP」(ドイツ語か英語かどちらかの表示が選択できます)
https://www.salzburgerfestspiele.at/

音楽祭のプログラムに関しては、JTBの以下のページで。
○「ザルツブルク音楽祭2018公演プログラム」(JTB)
http://www.jtb.co.jp/luxurytravel/live/repertoire/salzburger.asp
期間中の全てのプログラムがまとめられています。

<移動手段について>
オーストリア国内の移動に関しては、
○「オーストリア連邦鉄道」(ÖBB)
https://www.oebb.at/en/
のHPで、行き先に関しては、
http://fahrplan.oebb.at/bin/query.exe/en?
で調べ、
チケットの予約に関しては、
https://tickets.oebb.at/de/ticket
で、出発時間と出発駅、到着駅を入れると、列車の選択から座席の指定、乗り換えのバスの予約と支払いまで全てできました。

ウィーン市内の交通機関に関しては、
○「48時間ウィーンチケット」(Wiener Linien)
https://shop.wienerlinien.at/index.php/product/5/show/0/0/0/0/buy
地下鉄・トラム・バスなどの48時間フリーパスのチケット(14.1ユーロ、約1,800円)です。もちろん、デイチケット、24時間、72時間パスなど、いろんな種類のチケットが用意されています。
支払いはカード決済で、予約が完了するとチケットがPDFでメールに添付されて送られてきます。

<入場チケット>
○「シシィチケット」(Imperial Austria)
https://www.imperial-austria.at/hofburg-vienna/sisi-ticket.html
ウィーンのホーフブルク(王宮)博物館と、シェーンブルン宮殿の入場料がセットになったチケットです。29.9ユーロ(約3,800円)でちとお高いですが、どちらもスマホの画面をQRコードを見せるだけで、待つことなく入場できます。シェーンブルン宮殿については、公開されている40室が全てが見学できる「グランドツアー」に参加できます。

<役に立ったモノ>
○「撥水オーガニックコットン 疲れにくいスリッポンスニーカー」(無印良品)
https://www.muji.net/store/cmdty/detail/4549738777939?searchno=13
これは優れモノでした。相当歩き回ったと思うのですが、確かに「疲れにくい」と実感しました。スリッポンの靴なので、飛行機内での靴の脱ぎ履きも楽ちんでした。

○「海外用マルチ変換タップ」(ヤザワ)
https://kakakumag.com/seikatsu-kaden/?id=12444
世界150カ国以上のコンセントに対応している変換プラグです。日本の電化製品用のコンセント2つに、USBポートも2つ付いているので、スマホやタブレットだけでなく、カメラやモバイルバッテリーの充電にも重宝しました(ただし日本では使えません)。

○「携帯ウォッシュレット」(TOTO)
https://jp.toto.com/products/toilet/travel_washlet/
日本ではウォシュレットを備えているホテルが多くなってきたものの、海外のホテルではほとんど普及していません。ふだんからウォシュレットを使っていると、どうしても海外でも使いたくなります。そんなときに、この携帯ウォシュレットはとても便利なのです。

○「KLAXのSIMカード」(T-Mobile)
https://www.t-mobile.at/internet/internet-fuer-unterwegs/ohne-bindung/
1ヶ月8GBで10ユーロ(約1,300円)のSIMカード(通話なし)です。持参したSIMフリータブレットに装着して使ってみました。データ量を気にすることなく使えるので、タブレットをテザリングしてアプリをアップデートしたり、たくさんの写真をネットにアップしたりすることができました。

<コンサートについて>
○客席の照明
ザルツブルク祝祭大劇場では、演奏が始まっても客席の照明はそのままでした。日本の演奏会場では、演奏が始まる前には例外なく客席の照明を落とします。「静かにしろよ」という合図の代わりなのでしょうか?あるいは「集中してありがたく聴くんだぞ」というコンサート主催者の暗黙の指示なのでしょうか?映画を見るわけでもないので、客席の照明は落とすなら少し暗くするだけでいいと思います。

○カーテンコール
アンドリス・ネルソンスとウィーン・フィルによる演奏終了後は、スタンディングオベーションの拍手喝采だったのですが、カーテンコールはわずかに3回でした。日本では、5回も6回も呼び出されるので、指揮者がやたらとプレーヤーを立たせて拍手に応えるようなことが行われていますが、はっきり言って必要ないと思います。「では」という合図をして、3回で舞台から退場したウィーン・フィルのコンサートマスターはカッコよかったです。

<その他>
○航空会社のウェブ(オンライン)チェックイン
フィンエアーの場合は、出発の36時間前からチェックインができました。たぶん、どこの航空会社も同様のサービスをしていると思います。これは本当にラクです。とにかく、出発の当日チェックインカウンターに並ばなくていいんですから。海外旅行の場合は2時間前に空港へと言われますが、このウェブチェックインを済ませておけば、1時間前でも十分なのです。

○改札
鉄道の駅に改札がないというのは、最初はヘンな感じがするんですけど、慣れてくると便利でいいと感じました。オーストリアのレイルジェット(特急列車)の場合は車掌が検札に来ましたが、ウィーンのトラムや地下鉄では、検札を見かけることはありませんでした。日本も改札をなくせば、自動改札機や人件費の大幅な削減になると思うのですが。どうなんでしょう?

○チップ
オーストリアはチップの国なので、いろいろと戸惑うことが多かったです。チップのための小銭を用意しておかないといけないという面倒なこともありますが、最も面倒だったのはレストランなどでカード支払いしようとするときでした。チップを払うかどうかを聞いてくるのでOKすると、チップだけの金額を打ち込んだり、チップ込みの金額を打ち込んだりしないといけません。チップなどというものは、まことに不便な制度です。一律にサービス料込みにしてもらう方がややこしくなくていいです。
ホテルでは、よく枕の下にチップを置いておくと言われますが、僕らはメモ用紙に「Danke!」と書いて目立つところへ置いておくようにしました。そうすると、部屋の掃除をしてくれた人によっては、ご丁寧に返事を認めてくれる人もいました。ちょっとした交流ができた感じがしました。
家内の話では、公衆の女子トイレには清掃のためのオバさんがいて、しっかりチップを要求しているとのことでした。
そもそも、どうしてチップなどという制度ができたのでしょう?貴族と平民という身分制度が長く続いた国家ほど、地位の上の者が下の者に小遣いを与えるというようなしきたりができたのでしょうか?一度その起源を調べてみたくもなりました。

○ネックピロー
ホームセンターで売っていたアイマスクとセットになったもの(空気を入れて膨らませるタイプ)を持参したのですが、首回りが暑苦しい感じになって、とても眠ったりすることはできなかったです。周囲を見ると、ビーズなどでできたものを手に挟んだりして持参している人がけっこういました。今度はビーズタイプのものを使ってみようと思いました。

○バスタブ
今回は、旅行社の方にお願いをして、すべてバスタブ付きのホテルを予約してもらうようにしました。どうしても歩き回ることが多くなるので、一日の疲れを癒すためにはゆっくりとお風呂に浸かるのがいちばんなのであります。

○エアコン
ヨーロッパの宿にエアコンは必要なしと思っていましたが、今回のようにヨーロッパが熱波に襲われてしまうと、エアコンは必需品です。幸い、ザルツブルクのホテルにはエアコンが設置されていましたが、ヨーロッパの多くのホテルにはエアコンがないと思われます。部屋の窓も、上部が斜めに15センチほど開くだけなので、今夏のような状況の場合はエアコンのあるホテルを選ぶことも必要かと思います。

○宿泊保証金?
ザルツブルクのホテルでは、チェックインの際にいきなり100ユーロ(約13,000円)を要求されました。どうやら宿泊保証金のような名目だったと思います。もちろん、チェックアウトの際には返金されるとのことだったのですが、いきなり100ユーロ要求されたのには驚きました。そんなことは、ホテルの予約の際にはどこにも記載されてはいませんでした。

○物価
ヨーロッパの物価は総じてあれこれ高いと思いました。スーパーはさほどでないかもしれませんが、レストランや、施設への入場料などは高いです。日本に帰ってから外食をしたときには、ユーロ換算してみるとずいぶん安いなあと実感いたしました。

以上、今回の旅で役立ったことや気がついたことをまとめてみました。
旅をするということは、基本的に日常を離れて、非日常の世界に身を置くという経験です。だから、日常とは違うことが生起して当然だと思うのですが、どうも私たちは旅先でも日常を求めようとするところがあるように思います。
Wi-Fiのルーターを借りてスムーズにネット接続できる環境を整えたり、現地での移動ができるだけ支障をきたさないよう事前に準備をしたりするのも、できるだけふだんの日常に近い形で旅をしたいという無意識が働いているのかもしれません。

僕が38年前にウィーンに来たときは、パスポートと少しのお金、行き帰りの航空券、そしてユーレイルパス(ヨーロッパ中の鉄道に乗れるフリーパス)を持って来ただけの旅でした。それでも、なんだかんだと見たいところや行きたいと思っていたところはちゃんとその目的を果たして、無事帰国することができました。
もちろん、若かったということはありますが、どうも年齢を重ねると、旅で非日常を経験するなどと思っているほどには、日常から抜け出せていないのかもしれません。

これからも旅に出ることはあると思いますが、日常と非日常のどこで折り合いをつけるかということを考えながら、旅の計画を立てることも必要かと思っております。
とりあえず、次の旅まで少しだけ休息します。

ウィーン滞在の二日目、この日は午前中にシェーンブルン宮殿を訪ね、午後はケルントナー通りで買い物をしようという予定であった。
まずは地下鉄にてシェーンブルン宮殿へ。カールスプラッツ駅から地下鉄4番線にて6駅目のシェーンブルン駅にて下車、そこから宮殿まで歩く。朝早かった(午前9時半)からか、観光客はまだそんなには多くない。ここも僕は38年ぶりの再訪である(そのときは宮殿内の見学はしなかった)。

iPhoneのシシィチケット(シェーンブルン宮殿への優先入場券)の画面を準備して宮殿内の受付へ。
手荷物を預け、入口を入ったところでトランシーバー様の音声ガイドを受け取る。僕らの前には中国人の団体客がいた。そのすぐ後に並んでいたからであろうが、音声ガイドは中国語仕様のものを渡されてしまった。どうチャンネルを合わせても、中国語しか聞こえてこないのである。すぐに音声ガイド窓口のところにいた係員に「僕ら中国人とちゃいます、日本人です。なので日本語の音声ガイドに設定し直してください」とお願いすると、なにやら音声ガイドのボタンを操作して日本語仕様に変更してくれた。

シェーンブルン宮殿内の見学には、二種類のコースが用意されている。「インペリアルツアー」と「グランドツアー」である。それぞれの違いは、「インペリアルツアー」が22室見学で14.2ユーロ(約1,800円)、「グランドツアー」は40室見学で17.5ユーロ(約2,250円)である。僕らのシシィチケットは、「グランドツアー」に対応していた。

中国人の団体客からできるだけ離れようと思い、最初のいくつかの部屋はほぼスルーして、静かに見学ができる部屋から、音声ガイドを聞きながらじっくり見ていった。宮殿内の写真撮影は禁止されている。ところが、ある部屋で急に警報が鳴り出した。見ると、中国人のオッさんがタブレットPCを持ち出して写真を撮っていたのである。警報を聞くと、そのオッさんはすぐにその場を立ち去った。また、壮麗なシャンデリアがある部屋では、中国人のオネーさんが持っていた水筒の中身をいきなりカーペットにこぼしたので、係員が慌てて駆けつけて来た。どうも中国の人は、団体で来ている気安さからか、マナーに欠ける行動を取りがちのように思う。このままでは、早晩世界各国から顰蹙を買うこと必定であろう。

最初の22室を見終わると、ルートはさらに奥の部屋へと続くコースと、そのまま出口へ向かうコースとに別れる。そこにはチケットを確認するオバちゃんがいて、グランドツアーのチケットをチェックしていた。僕らはiPhoneの画面を見せて、そのまま奥の部屋へ。ここからは中国人の団体客が一気に減ったので、落ち着いて一つ一つの部屋を見ていった。
奥の部屋は、それまでの部屋とは全く異なる部屋であった!琥珀ばかりでできている「琥珀の間」、ナポレオンが会議を行った「漆の間」、6歳のモーツァルトが演奏を披露した部屋や、インドとペルシャの細密画が飾られた部屋など、次から次へと思わずため息が出るような部屋ばかりを見ることができたのである。「インペリアルツアー」と「グランドツアー」は、わずかに450円ほどの違いである。この両者に関しては、迷わず「グランドツアー」を選択するべきだと、『地球の歩き方』にもぜひ書いておいていただきたい。

宮殿内の見学を終えて外へ出た。今度は庭園を見ようということで、宮殿受付の左側に回って、庭園内に入ろうと試みた。ところが、その入口がわからない。有料の入場口があったので、まさか庭園見学も有料か?と思い、その受付で聞いてみると、そこは有料の「皇太子の庭園」への入園口で、庭園へはそこから100メートルくらい先の入口から入れるとのことであった。
その入口と思しきところから中に入った。目指すは宮殿から正面の小高い丘の上にある「グロリエッテ」。ところが、行けども行けども宮殿は見えないし、広大な庭園も見えない。38年前に来たはずなのに、あまりの広大さに迷ってしまったのである。仕方がないので、Googleマップでグロリエッテを検索してみた。どうやら、僕らは庭園東側の林の中にいるらしい。Googleマップに従ってグロリエッテの方角を目指す。しかし、どちらを見回しても同じような景色が広がっているばかりで、自分たちのいるところがいまいちはっきりとしないのである。何度もGoogleマップを見直して、ようやく宮殿正面の庭園と大きな噴水のあるところに出ることができた。

ここからグロリエッテまでは、丘を登っていかなければならない。なるべく日陰の道を選んで、グロリエッテを目指す。だんだんと登っていくと、宮殿と庭園がいかにも美しく眺められる。
ようやくのことでグロリエッテへ。38年前と違って、グロリエッテの屋上まで上がるのは有料になっていた。屋上からでなくとも、そこからは遠くシュテファン寺院までもが望める絶景が見られた。しばし、その絶景に暑さを忘れた。
シェーンブルン宮殿を後にするころには、僕らが来たときとは違って、すごい数の観光客がチケット売り場に列をなしていた。早く来て良かったと思った。来たときと同じ地下鉄4番線にてホテルに戻る。

ケルントナー通り周辺にはいろんなレストランがある。こちらに来てから麺類を食べていなかったので、昼食はイタリアンのレストランにて、アラビアータのパスタとビール。日本で食べるパスタを思い出した。昼食後はケルントナー通りのスーパーにて買い物。ヨーグルトや100%果汁のジュース、日本へのお土産などをあれこれ購入してホテルへと戻る。

シャワーを浴びてのんびりしながら、お隣のオペラ座の見学ツアーのことをネットで調べていると、日本語のガイドによるツアーが一日に二回あるとわかった。時間は午後1時と3時である。時計を見るとちょうど2時半だった。シャワーを使っていた家内にそのことを告げ、急いで支度をしようということになった。
こういうときにオペラ座の近くのホテルはありがたかった。小走りでオペラ座へと向かい、日本語ガイドのツアーを申し込んだのが3時10分前。ツアーの待機場所には、既に10人以上の日本人が待っていた。
当然、日本人のガイドが案内するのだろうと思いきや、僕らの前に現れたのは日本で暮らしたこともあるという現地の青年であった。この青年の日本語はうまかった。全然現地の人であるという感じがしなかった。
この青年ガイドの案内で、皇帝の席や舞台裏などオペラ座の様々な場所を見学することができた。
中でも感激したのは、オペラ座内の「マーラーの間」であった。そこには、マーラーの胸像とともにマーラーがシーズンオフの作曲の際に使用していたという小さなピアノが展示されていた。まさかそんなものが見られるとは夢にも思っていなかったので、まるで身内のことを紹介されているかのような感動を覚えた。やっぱり、最後の最後までマーラーに導かれているのだと実感した。

マーラーのオペラ座監督在任中は、監督就任時から民族的偏見(マーラーはユダヤ人だった)による反感もあったが、何より芸術的レベルの高さを求めるあまり、歌手やオーケストラに厳しい練習を強いたり、縁故で採用された演奏者を出演させなかったりしたことで劇場側と折り合いが悪くなり、熱狂的な支持者もいたのだが、結局監督就任から10年後にマーラーは自らウィーンを去ることになる。
そんなウィーンのオペラ座が「マーラーの間」なる部屋を設けているということをマーラーが知ったら、いったいどんな顔をするのだろうということを想像した。
オペラ座出口のところのショップにて、マーラーの肖像写真の絵葉書を購入してホテルに戻った。

オーストリア最後の夜は、昨晩と同じくレストラン「ミュラーバイスル」へ。日本語メニューのあることがわかっていたので、「日本語メニューちょーだい」とお願いして、ウィーン名物の「ヴィーナーシュニッツェル(子牛肉のカツレツ)」をオーダーする。
会計時、昨晩の店員がやってきて、「ウチのお客さんの6割は日本人ですねん」と言う(その割には僕らの他に日本人客はいませんでしたが)。そのうちに、中国人の団体客が100人ほど!やって来た。そのまま店内に入って行ったが、さすがにこれだけの人数は入れないでしょと思っていたら、半分ほどの人が出て来て別の店へ行ってしまった。それでも50人ほどは店内に入ったのである。
件の店員に「よお儲かりますなあ。今度は中国語のメニューを用意しときなはれ」と冷やかしながら、「僕ら明日日本に帰るんやけど、もしこちらへ来るようなことがあったらまた寄せてもらいますわ」と話してお店を後にする。

ウィーンの最後の夜も、相変わらず暑かった。でも、翌朝はずいぶんと涼しくなっていた。スーツケースを転がしながら、ケルントナー通りをシュテファン寺院方面へ。またこの寺院を見ることはあるのかなあと思いつつ、その威容を目に焼き付けておく。
空港行きのバス乗り場であるモルツィンプラッツには、予定より30分ほど早く着いた。そのまま待機していたバスに乗り込み、ウィーン国際空港へ。モルツィンプラッツからは30分もかからずに空港へ到着した。
ウィーン国際空港は、思っていたよりも大きな空港であった。バスが到着したところからフィンエアーのチェックインカウンターがあるターミナルまではかなりの距離を移動した。
例によって、前日にウェブチェックインを済ませていたので、既に10人以上が列を作っていたチェックインカウンターには並ばず、すぐ隣のバゲージドロップ前にて受付を待つ。程なく係員が現れて受付をしてくれたので、荷物を預け航空券を受け取り、搭乗口の確認をする。ホッと一息である。
航空券をかざして中に入り、近くのカフェにて遅めの朝食を食べ、混雑するセキュリティゲートを抜けると、あとは搭乗を待つだけとなった。いよいよオーストリアともお別れである。

まさか、実際に訪れる日が来るとは思ってもいなかったシュタインバッハ・アム・アッターゼのマーラーの作曲小屋と、まさか現地で聴けるとは思ってもいなかったウィーン・フィルによるマーラーをザルツブルク祝祭大劇場にて聴き、ウィーンへの38年ぶりの再訪も果たした、まことに充実した旅であった。
それもこれも、すべてはミューズの神とマーラーのお導きであったように思う。
マーラーだけではなく、モーツァルトの生まれたザルツブルクの街に滞在し、ベートーヴェンが生活していたウィーンの家を訪れたことで、モーツァルトやベートーヴェンがより身近な存在として感じられるようになったことも、今回の旅の大きな収穫であった。

11:15ウィーン国際空港を発つ。14:40ヘルシンキ着。トランジットの間に軽食を取り、17:15ヘルシンキを発つ。ほとんど眠れないまま、翌朝8:15セントレア着。ポケットWiFiを返し、トゥインゴの待つ駐車場へ。途中、何度か眠りそうになりながらも、無事浜松まで帰り着く。
帰国して最初に食べたのは、味噌ラーメンだった。

感動冷めやらぬザルツブルクを後にして、ウィーンへと移動する。
今回の旅の大きな目的二つ(マーラーの作曲小屋を訪れることと、ザルツブルク祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーを聴くこと)は果たしたので、ウィーンはおまけの観光である。でも、ウィーンはマーラーが10年以上にわたってオペラ座の監督をしており、マーラーとは因縁浅からぬところだ。
ザルツブルクからウィーンへはレイルジェットで2時間22分。列車に乗り込むと、僕らの席には別の日本人と思しき夫婦が座っていたので「すみません、ここは予約席なんですけど」と声を掛けると、謝りながら慌てて別の席へと移動していった。

10:08ザルツブルク発。車窓の風景を楽しみながら、12:30ウィーン中央駅着。
ホテルは国立オペラ座のすぐ近くだったので、日本で事前に購入しておいた地下鉄・トラム・バス用の48時間フリーパスを取り出し、地下鉄1番線のプラットホームへ。中央駅から二つ目のカールスプラッツ駅にて下車。例によって地下鉄にも改札はないので何だかヘンな感じがする。

僕は38年ぶりのウィーン再訪であった。もちろん、38年前には地下鉄はなかった。だからというわけではなかろうが、駅から出ると方向感覚を失った。あまりの都会化に狼狽して、ホテルとは反対方向へと行ってしまったのである。いつまでたってもオペラ座が見えてこないのでGoogleマップで確認すると、進行方向とは逆方向の通り沿いにオペラ座の屋根が見えた。

こんな感じだったかなあとオペラ座の前を通過して、そろそろホテルが見えてくるはずだと思っていたのだが、これまたそれらしき建物が見えてこない。事前に調べておいた地図では、ホテルはオペラ座のすぐ北側にあるはずだった。しかし、そこには美術館らしき建物があるだけで、目指すホテルの姿は見えない。再びGoogleマップで確認してみるのだが、どうも自分のいる位置がはっきりしない。辺りを徘徊して途方に暮れつつあったのだが、やっとのことでホテルの入口を見つけることができた。

宿泊先のホテルは、オペラ座のすぐ近くという一等地にあったためか、古くからの格式を感じさせるホテルであった。
チェックインを済ませ、部屋へと上がるエレベーターに乗り込む。なんとも旧式なエレベーターであった。宿泊する4階に到着、蛇腹式の内側のドアがまったりと開く。でも、そのすぐ外側のドアが開かない。「あれ?」とか言っているうちに、エレベーターは1階まで戻ってしまった。もう一度4階のボタンを押して、エレベーターが上がる。蛇腹式のドアが開く。やはりその先のドアが開かない。すると家内が「これ、押すんじゃない?」と目の前のドアをぐっと押してみた。なんと外側のドアは自動ドアではなかったのである。

部屋に入ろうとすると、このドアも二重になっていた。外側のドアには鍵は付いておらず、内側のドアを開錠して部屋に入った。どうしてドアが二重になっていたのかは今もって謎である。
暑かったので、とりあえずシャワーを浴びることにした。と、あることに気がついた。シャワーを使っていると、お湯がどんどんバスタブに溜まっていくのである。排水栓が閉まっているんだと思い、栓開閉のための大きなダイヤル様のものを開く方向に回してみたのだが、手を離すとすぐに元に戻って栓は閉まってしまう。何度やっても変わらなかったので、ひょっとして排水のためにはダイヤルをずっと手で持っていなければならない構造になっているのかとも思ったのだが、まさかそんなことはなかろうとフロントに事情を話してみた。
ホテルマンが部屋にやってきて栓の様子を見ていたのだが、「これは私たちの手には負えない。部屋を代わってもらうようフロントに話をするのでしばし待たれよ」と言い残して部屋を出ていった。待つこと数分、僕らを別の部屋に案内してくれた。念のためバスタブの栓の様子も見てみたが、こちらは正常に機能した。

昼食もまだだったので、市内見物へと出かける前にホテル近くのレストランにてランチ。初めは店内で食べようと思っていたのだが、とにかく暑くていられないので外のテーブル席へ。ビールの追加を頼んだのだがいつまでたっても持ってきてくれないので、店員のおっちゃんに「おお、びいる、びいるをくれ〜」と喉を抑えながらジェスチャーすると、笑って謝りながらビールを持ってきてくれた。会計の際には、ビールを忘れていたことに配慮してくれたのか、50セントほど減額してくれた。

昼食を済ませ、まずは双頭の鷲の門をくぐってホーフブルク(王宮)へ。38年前には訪れなかった場所である。
あまりの大きさに圧倒される。
事前にシシィ・チケット(王宮とシェーンブルン宮殿の優先入場券)を購入しておいたので、iPhoneの画面のQRコードを見せて博物館へ。こんなにたくさんの食器が本当に必要だったのだろうか?と思えるほどの多数の食器に圧倒された。

ホーフブルクを出て、リンク(外周道路)を市庁舎方面へ。それにしても暑い。日陰を選んで歩かないと、すぐに汗まみれになってしまう。ヨーロッパはもっと涼しいと思っていたのだが、日向は日本とそう変わらない暑さであった。
なにやら修復作業中らしく一部カバーのかけられた国会議事堂、巨大なブルク劇場などを見ながら市庁舎へ。最近はここで夏の間だけ「フィルム・フェスティバル」という音楽祭のようなもの(コンサートなどの多彩な映画が上映される)が開かれているとのことで、市庁舎前には巨大なスクリーンが設置され、観賞用の椅子も多数用意されていた。飲食の露店も軒を連ねていたが、値段を見ると飲み物などもけっこう高価に設定されているものばかりであった。
あまりに暑いので、近くのスーパーマーケットを探して何か飲み物を買おうとしたのだが、検索されたスーパーまで行ってみると、その日が日曜日だったためか、ほとんどが営業していなかった。背に腹はかえられなかったので、足元を見られているとは思いつつ、高価な飲料水を買わざるを得なかった。

ウィーン大学の近くには、ベートーヴェンの住んでいた家があるというので訪れてみようと思っていた。
確かにこの建物だということはわかったのだが、入口がどこかわからない。ぐるりと一周してみると、どうやらここが入口ではないかと思われる場所があった。
大きなドアを押して中に入ると、中は真っ暗である。電灯のスイッチらしきものを探して明かりをつけると、すぐ目の前が螺旋階段であった。「ベートーヴェンの住んでいた部屋は4階である」との表示がされている。日曜日だから見学はできないかもしれないと訝りつつ階段を登ると、受付にオッちゃんとオバはんがいた。「見学は可能ですか?」と尋ねると、「どうぞどうぞ、でも入場料は現金のみで支払ってくださいな」と言われた。
いくつかの部屋を回りながら、この部屋にベートーヴェンが住んでいたのかと思うと感無量であった。
オバはんは私たちの様子をずっとモニターしていたらしく、ちょっとでも展示ケースのガラスに顔を近づけたりすると、「触ったらアカン」などといちいち注意をしてくれるのであった。
それにしても、なんという商売っ気のなさであろうか。かのベートーヴェンが住んでいた家ですよ?立派な観光資源じゃないですか!なのに、入口の表示もよくわからず、ドアは開いておらず、階段は真っ暗。なんだかなあという感じで見学を終えた。

さすがに歩き疲れたので、あとは帰るときの空港行きバス乗り場だけを確認してホテルに帰ろうということで、そのバス乗り場近くまで行くトラムへ乗ることにした。
トラムが来たので乗車した。エアコンが効いた涼しい車内を期待した僕らが甘かった。窓は開いていたが、そこからは熱風が入ってくるだけだったのである。もうトラムに乗るのはやめようと思った。

空港行きのバス乗り場は、ドナウ運河のすぐ近くであった。運河を見ると、壁という壁いちめんに落書きがしてある。とても芸術などとは言えない単なる落書きであった。そこからホテルまでは歩いて行くしかないので、シュテファン寺院を目指して歩く。シュテファン寺院からホテルまではほんの5分ほどなのである。
多少は迷いながらも、なんとかシュテファン寺院までたどり着くことができた。いやはや、その大きさときたら!中に入ることもできたので、38年前には見られなかった寺院内へ。多くの見学客がいたが、やはり寺院の中には厳粛な空気が流れていた。

ようやくのことでホテルへと戻り、シャワーで汗を流す。それにしても、ウィーンは暑い。もちろん、部屋にエアコンはなかった。
部屋にいるより外に出ている方が涼しいので、しばらく休憩してから夕食を食べに行くことにした。事前に調べておいた「ミュラーバイスル」というケルントナー通りから少し南に入ったところのレストランである。メニューを見て注文を終えると、別の店員が「日本語のメニューもありまっせ」と日本語メニューを持ってきてくれた。早く言ってよ!
こちらに来てから肉やソーセージばかり食べていたので、この日はお魚のフライを注文。こちらのレストランは一皿の量が多いので、二人で一皿がちょうどいい分量である。

ホテルに帰り、疲れていたのでお風呂に入ってすぐに床に就いたのだが、扇風機だけでは暑くて眠れない。仕方がないので、扇風機側に枕を移動してようやく眠ることができた。夜まで暑いウィーンであった。

いよいよ祝祭大劇場でウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番を聴くときがやってきた。この演奏会を聴くために、はるばるザルツブルクまでやってきたのだ。
演奏会は午前11時からなので、時間的には少しゆとりがあった。ホテル近くで朝早くから営業しているカフェにて簡単な朝食を済ませ、歩いて5〜6分のところにあるミラベル宮殿へ行ってみることにした。

ミラベル宮殿に入るための入場料などは特にないので、東側の入口から庭園に入ると、中央の噴水のある池の右手に宮殿、左手に庭園が広がっている。宮殿側から見ると、正面の小高い山(メンヒスベルク)の頂にあるホーエンザルツブルク城が庭園の借景となって、まことに見事な景観を呈している。
宮殿の中から庭園を見られるだろうかと宮殿の建物内に入ってみたりしたが、残念ながら宮殿内から庭園が見られる部屋はなかった。その代わり、この日音楽祭の一環としてこの宮殿内で予定されていた、室内楽のコンサート会場を見ることができた。
宮殿内を歩いていて気が付いたことがある。それは、どの扉もひどく大きいことだ。ドアノブがちょうど僕の頭くらいの高さについている。しかも、扉自体はオーク材か何かでできているのだろうか、とにかくひどく重い。昔のオーストリア人は巨人だったのかと錯覚してしまうほどであった。

ミラベル宮殿の見学からホテルに戻り、僕は夏用のブレザーにネクタイ、家内はベージュのワンピースという出で立ちに着替えて、祝祭大劇場へと向かう。石畳の道をザルツァッハ川へ向かって下ると、橋の向こうに旧市街地が見えた。
その橋(シュターツ橋)の欄干には、オーストリア国旗とザルツブルク音楽祭のシンボルマークが風に揺れ、いかにも華やかな雰囲気が感じられる。橋を渡り、旧市街地の市壁をくぐると、中世さながらの狭い通りに所狭しと露店が軒を連ねている。

まずは祝祭大劇場の場所を確認しておこうと歩いていると、いきなり後ろから「祝祭大劇場へ行くのかね?」と老爺に声を掛けられた。「ついて来なさい」と言われるままにその後をついて行くと、「ここが祝祭大劇場だよ。まだ扉は開いていないけど、開演時間が近づいたら開けてくれる。それまではモーツァルトの生家とか見てきたらいい。ここからまっすぐ通りを二つ越えて右に曲がったところだ。ところで、今日は確かウィーン・フィルの演奏会だったな。マーラーをやるんだろ?指揮者は誰だっけ?マリス・ヤンソンス?」と言われたので、「いえ、アンドリス・ネルソンスです」と答えると、笑いながら「そうか、ヤンソンスじゃなくてネルソンスか!」と言い、「コンサートを楽しみなさい、じゃあね!」と行ってしまった。

教えられたとおりに、モーツァルトの生家へ行ってみた。祝祭大劇場のすぐ近くだった。入場料を支払って中に入ると、実際にモーツァルトが生まれた部屋などがそのまま残されていた。部屋の窓からは、モーツァルトが洗礼を受けたザルツブルク大聖堂の塔が見える。幼いモーツァルトが弾いたとされる小さなピアノが印象的だった。

開演時間が近づいてきた。祝祭大劇場の前まで行ってみると、既に入口の扉は開けられていた。開演を待つ客が入口前のスタンドでワインなどを飲んでいる。日本人もちらほら見かけることができた。
チケットを出して、祝祭大劇場の中に入る。とりあえず席を確認しておこうと二階席まで行ってみたが、座席への扉は閉じられたままで、開けて入ろうとすると係員から「まだ入れません」と言われた。その間にトイレに行ったりして開場を待つ。
開演20分前くらいになって、ようやく扉が開けられた。係員にチケットを見せると、だいたいどの辺りの席か教えてくれた。言われたとおりに座席を探して着席する。ステージが右斜め下に見える。シートは木製。背もたれが高い。前の座席とは重ならないように配置されているのでステージがよく見える。

ステージでは、ギターやサックスの奏者が開演前の練習をしていた。マーラーをやるはずなのに、なんでギターやサックスが?と思っていたのだが、マーラーの交響曲の前にツィンマーマンの曲を演奏するということを忘れていた。
開演時間を知らせるチャイムが鳴り、楽団員が登場してきた。ウィーン・フィルの実際の演奏を聴くのはこれが初めてである。日本の音楽ホールと違って、客席の照明は多少は暗くなったかと思われるくらいで、ほとんど暗くはならない。指揮者のアンドリス・ネルソンスが登場して、ツィンマーマンの曲が始まった。

休憩を挟んで、いよいよマーラーである。ザルツブルクに行く前から、ぜひとも聴いてみたいと思っていたのは、8分の3拍子で演奏される第2楽章であった。3拍子のリズムはメヌエットやワルツのリズムと言われる。ウィンナ・ワルツの本場、ウイーン・フィルがどのように3拍子を演奏するのか楽しみにしていたのである。

第1楽章が始まって、終楽章の終わりまで約1時間半。身じろぎもせず、全身を耳にして聴いた。
およそ、今までのどの演奏会でも経験したことのない感動に包まれた。
個人的には、大きく三つの点が印象的だった。

一つめは、事前に聴きたいと思っていたウィーン・フィルによる3拍子のリズムである。
第2楽章の始まりから、いきなりその演奏に引き込まれた。
3拍子のリズムは、実際に演奏するときには、「イチ・ニイ・サン」ではない。第1拍にアクセントが置かれるから「イチ、ニッ、サンッ」となる。第1拍をどの程度のアクセントで鳴らすのか、続く第2、3拍をどの程度軽く演奏するのか、そしてそのリズムをベースにしてどうメロディを奏でるのかが、3拍子の音楽の聴かせどころである。
もちろん、指揮者がそれらを細かいところまで指示をすることもあろうが、例えばヴァイオリン・パートの全員がボウイング(弓の上げ下げ)を揃えて演奏するのは、パート全員がまるで一つの楽器であるかのように演奏しなければならないのだから、いくら指揮者が指示しようとも奏者がそれを揃えるためには、パートを構成する全員が「3拍子はこうやって演奏する」ということを身体化していなければ不可能であろう。
ウィーン・フィルの弦楽セクションは、これが絶妙だった。まるで船頭さんの手漕ぎの舟に乗って琵琶湖の水郷巡りをしているかのような、「3拍子の音楽はかくあるべし」という手本のような演奏であった。

二つめは、オーケストラのアンサンブルである。
ウィーン・フィルは、どんなに楽器数が少ない箇所でも、逆にフルオーケストラの大音響の箇所でも、ハーモニーとして響かせることを第一にして演奏しているようであった。
例えば、第4楽章冒頭のアルトのソロに続くトランペットの二重奏。通常の演奏だと、主旋律の音の方が際立つのだが、ウィーン・フィルの演奏は対旋律が主旋律とほぼ同様の音量で演奏されていた。
音の重ね方によって実際にどんなハーモニーとして響くのかということを、それぞれの演奏者が熟知しているのだ。まるで、画家がいろんな絵の具を混ぜ合わせることで、どんな色になるのかを知り抜いているかのように。

また、大音響でアンサンブルが破綻しないことに大きな役割を追っていたのは、ホルンであった。ウィーン・フィルのホルンセクションが使用している楽器は、「ウィンナ・ホルン」と言われるどちらかといえば古楽器に近いホルンである。古楽器に近いということは、あまり機能的ではない楽器ということである。もちろん、演奏技術も現代のホルンに比べれば格段に難しいに違いない。このホルンを使用しているオーケストラは、もちろん世界中でウィーン・フィルだけである。そんな楽器をどうして採用しているのか。それはもちろん、困難な演奏技術から得られる音色が捨てがたいからだ。
ウィンナ・ホルン独特の野太い音は、特に大オーケストラのテュッティ(全奏)の場面でその底力を発揮するということを、今回の演奏会で初めて知った。中音域のホルンが、弦楽器と管・打楽器の橋渡し役を果たすことで、全体のハーモニーが崩れることなく、バランスを保つことができていたのである。

三つめは、これが最大の感動であったが、ふだんの生活ではなかなか感じることができない崇高なもの、それによって自分が浄化されたと感じるものに触れることができたことである。
第4楽章のアルト独唱や、終楽章での「復活」の合唱が静かに始まったとき、そしてその合唱に続くトランペットのソロを聞いたとき、さらには終結部でオーケストラと合唱団にオルガンが加わってクライマックスを迎えたとき、悲しかったわけでもなく、もちろんうれしかったわけでもないのに、思わず涙が零れてきた。そうさせたものは、いったい何だったのであろうか。
悲しみでもなく、喜びでもない涙とは、人知を超えるものに出会ったとき流される涙である。
そんな「人知を超えるもの」を、ある人々は「神」と呼び、また別の人々は「イデア」とか「涅槃」とか呼び習わした。特定の宗派にとらわれることのない「宗教的法悦」を感じたとも言えるかもしれない。
まさしく、そのとき祝祭大劇場にはミューズの神が舞い降りていたのだ。

終演後のカーテンコールは、スタンディング・オベーションにもかかわらず、わずかに3回。3度目が済むと、コンサートマスターが合図して、楽団員たちはさっさと引き上げ始めた。日本での演奏会が5〜6度もカーテンコールされるのと違って、さっぱりして好印象だった。
興奮冷めやらぬままにロビーへ。もう生涯この劇場に来ることはないかもしれないと思い、出口近くにいた制服の男性に写真を撮ってもらうようお願いしてみたのだが、「それならあそこにいる警備員に頼め」と言われたので、出口のところでセキュリティのビブスを付けていた女性に頼んで写真を撮ってもらった。

劇場の外に出て、近くのレストランで遅めの昼食を取り、ホテルに帰って着替え、もう一度旧市街地へと出向いて、ホーエンザルツブルク城に登ってみた。登ると言っても、ケーブルカーであっという間に登れるのだが。このお城からは、ザルツブルクの街全体を見渡すことができた。
あらためて、美しい街だと思った。美しい街には、美しい音楽こそが相応しい。
そうやってザルツブルクの街並みを眼下に見渡している僕の耳には、この日に聴いたマーラーの交響曲第2番第2楽章のメロディが、いつまでもいつまでも聞こえているのだった。

ミュンヘンの朝は涼しかった。ホテル内にて朝食を済ませ、荷物を整えてホテルをチェックアウト。これからいよいよザルツブルクへと移動するのである。
ホテルフロントのお姉さんに、ミュンヘン駅構内の行き先を表示する電光掲示板について尋ねると、「大丈夫です、ちゃんと行き先から発着番線まで表示されてますから」とのお返事。「ザルツブルクまで行かれるんですね。とっても美しい街ですから、ぜひ滞在を楽しんできてください」と言われた。うれしかった。

ミュンヘン中央駅はプラットホームが36もある。改札口はなく、それぞれのプラットホームには入線している列車が間近に見られる。構内には、サンドイッチなどの軽食を売るスタンドや、雑誌などを売るお店、スーパーマーケットのような店まで、多種多様な店舗で賑わっている。
さすがに乗車1時間前にはまだ発着番線が表示されていない。とりあえず目にすることができるホームは、11番から始まって26番まで。それ以外のホームからの発着の可能性もあるので、ホームの位置を確認しておこうと思い、駅構内を端から端まで歩いてみた。1〜10番までと、27〜36番までのホームは、それぞれ駅の東と西の奥まったところにあった。もしザルツブルク行きがそれらのホームだったら、早めにプラットホームまで移動しておかなければならない。

駅の電光掲示板の下にはインフォメーションがあった。掲示板には表示されていなくても、そこなら発着番線を教えてもらえるかもしれないと思い、日本からプリントアウトしてきた切符を見せて、どの番線からの発着かを尋ねた。「12番です」と教えてくれた。ちょうどそのとき、電光掲示板にも僕たちが乗る列車レイルジェット63号が表示されたところだった。
12番プラットホームで待つことしばし。ほどなくレイルジェット63号が入線してきた。日本の新幹線に比べると「ゴツい車体」という印象だ。ホームにいた駅員と思しき制服のオッちゃんに、僕らが乗る予定の22号車はどの辺りに停車するか尋ねた(つもりだった)ところ、「ザ・ラスト・ワン」と言われたので、最後尾かと思って待っていたのだが、入線後の列車から降りてきた女性の乗務員に尋ねると「もっとずっと向こうですよ」と言われたので、慌ててキャリーを引きながらホームを移動する。

どの車両が22号車なのかよくわからないまま、とりあえず列車に乗り込んだ。事前に日本で予約した座席番号がわかっていたので、その番号の席を探すと、既にノートPCを前にしたおじさんが座っていた。「すみません、ここは僕らの席かと思うのですが」と問いかけると、「え?本当?そんなはずはないと思うんだけど」と言われるので、僕らの切符を見せると「ここは21号車です。あなたたちの席は隣の号車ですよ」と教えてくれた。平謝りに謝って22号車へ。
ところが、その22号車の席にも二人組の若者が座っていた。もう一度切符を確認して、「すみません、ここ僕らの席だと思うんですけど」と言うと、「オー、ソーリー」と言いながらすぐに席を空けてくれて、向かいの席に座り直してくれた。そればかりか、大きなキャリーを網棚に上げるのに手間取っていると、すぐに手伝ってくれた。ありがたかった。

ザルツブルクまでは1時間42分。ミュンヘンの市内を抜けると、車窓には北海道かと見紛う風景が広がっている。どこまでも続くかと思われる刈り込まれた牧草地。低い潅木。時おり見られる赤い屋根の町並みと教会の尖塔。旅をしている実感が湧いてくる。
レイルジェットは特急列車なので、ザルツブルクまで途中の駅には停車しない。向かいの二人組は途切れることなくひっきりなしにおしゃべりしている。よほど仲がいいのだろう。そんなおしゃべりを聞いているうちに、ザルツブルク駅に到着した。

プラットホームからエスカレーターを下ると、そこはさながらショッピングセンターかと思われるほどに現代的な駅の構内であった。南口からエスカレータを上がり、地図を見ながらホテルへと向かう。この日はこれから、ザルツカンマーグートのアッター湖畔にあるマーラーの作曲小屋を訪ねる予定になっているのである。
ホテルは駅から南東方向であったが、どうも道をまちがえたらしく、そのまま西の方へ向かってしまった。グーグルマップを見ながら、なんとかホテルへとたどり着く。チェックインはまだできないとのことだったので、荷物を預かってもらい、アッター湖畔の「ホテル・フェッティンガー」に電話をかけてもらって、午後3時半くらいにマーラーの作曲小屋を見学に行くから作曲小屋の鍵を貸してほしい旨の連絡をしてもらった(『地球の歩き方』に「ホテルへの事前連絡が必要」と書かれていたのである)。

アッター湖畔へ行くための列車の時間までは2時間ほど余裕があったので、ザルツブルク駅に戻り、駅近くのファストフード店にて軽い昼食。ザルツブルク駅は、南口は普通の出口なのだが、北口の駅舎は白亜のたいそう立派な建物である。
事前に北口のショッピングセンター内にT-Mobileの店舗があると調べておいたので、そこで1ヶ月限定のシムを手に入れることにした。日本で調べたときには10GBで15ユーロとのことであったが、お店でそのシムをお願いすると、8GBで10ユーロのものに変更されたとのことだった。もちろんそれで十分なので、その場で購入してファーウェイのSIMフリータブレットに装着してみた。4G-LTEでサクサク繋がる。テザリングもできるのでiPhoneのルーターとしても使用することにした。

アッター湖畔には、ザルツブルクからレイルジェットで40分のフェックラブルック駅にて下車、そこからバスにてマーラーの作曲小屋のあるアッター湖畔へと移動する。レイルジェットに乗車して気がつくのは、とにかく車内がたいへん静かなことだ。走行音がほとんど車内には聞こえない。座席のシート番号のところをよく見ると、僕らが指定した席は、特に静かにするエリア(サイレントエリア)だった。

フェックラブルック駅に到着、駅舎内のインフォメーションにてバス停の場所を確認して、バスを待つ。アッター湖の北端にあるカンマー・シェルフリンクというところまで行くバスである。乗客は僕らの他に一人だけ。ほとんど貸切状態である。
カンマー・シェルフリンクにて、すぐ隣に停車していたバスを乗り換える。今度はアッター湖畔を南へ下るバスである。途中、いくつかのバス停で乗降客もあったが、マーラーの作曲小屋のあるゼーフェルト(シュタインバッハ・アム・アッターゼの近く)に近づく頃には、僕らの他に一人が乗車しているだけだった。
バスの車窓からは、アッター湖畔で日光浴や湖水浴をする人たちが見える。対岸の山々が青い湖水面に映え、いかにも美しい風景が続く。

ゼーフェルトのガストホーフ・フェッティンガーのバス停にて下車、ホテル・フェッティンガーへと向かう。バス停からほんの数メートル先のホテルだ。このホテルに、マーラーは夏のシーズンオフの間ずっと滞在していた。そして、ホテルから湖畔へ下ったところに作曲小屋を建て、そこで交響曲第2番と3番を作曲したのである。

ふと見ると、湖とは反対側に高く白く聳える山々が見えた。
その瞬間、僕の頭にはマーラーの交響曲第3番第1楽章のトロンボーンのソロが鳴り始めた。
そうか、第1楽章の始まりは、あの山の姿を写したんだ!と確信した。
交響曲第3番の第1楽章は、8本のホルンの斉奏で始まる。どことなく厳しさを感じさせるパッセージだ。その前奏に続いて、遠くの雷鳴を思わせるバスドラムの弱い連打をバックに、トロンボーンがモノローグのようなソロを奏でる。時おり入る弱音器付きトランペットの三連符は、まるで広がってきた黒雲から放たれる稲妻のようだ。
すべては、あの白い岩石の露出した山々の威容、それも雷雲が立ち込めてその山々の頂までは見ることのできない様子が再現されていたのだ(帰国後にその山のことを調べたところ、「ヘレンゲビルゲ(地獄)」という名称の山であることがわかった)。
これは予想外の発見だった。
やはり現地へ実際に行かなければわからないことがあるのだ。しみじみ来てよかったと思った。

ホテルのフロントへ行き、「ザルツブルクのホテルから電話を入れてもらいましたが、マーラーの作曲小屋の鍵を借りにきました」と告げると、応対してくれた若いお姉さんは、そのことを知らされていなかったらしかったが、「ああ、作曲小屋の鍵ですね?これです」と言ってすぐに鍵を出してくれた。
ホテルのすぐ横の道を湖の方へ下ると、ゲートのようなものがあって、そこから先はキャンピングカー専用のキャンプ地になっていた。ゲートが少し開けてあったので、そこから湖畔へ。少し歩くと、「マーラーの作曲小屋」と書かれた小さな掲示板があった。そこを曲がると、すぐ目の前に作曲小屋があった!

赤い屋根に白い壁。バックにはアッター湖の青い湖面と対岸の緑の山が見える。鍵を開けて中に入ると、いきなり交響曲第3番の第1楽章が鳴り出した。そういう仕掛けになっていたのだ。やっぱり交響曲第3番の第1楽章なのだ!
小屋の中には、古びたピアノが一台置かれていて、四方の壁面にはマーラーの写真や楽譜の写し、当時の新聞記事などが所狭しと掲示されていた。ピアノ以外には、何も置くスペースがないほどの小さな小屋である。入口の他の三方の壁にはそれぞれ小さな窓が開いていて、湖と山がいつでも見られるようになっている。
入口左の窓から外を見ると、先ほど目にした白い岩石の山の頂が見えた。ブルーノ・ワルターも、あの山と眼下の湖とを見たに違いない。すべてはこの窓から見える景色だったのだ。

少しでも長くその場に居たかったのだが、この作曲小屋の周囲にも日光浴や湖水浴のためのサマーベッドが置かれていて、あまりその周辺をうろつくのもためらわれたので、ほどなくホテルへと戻り、お礼を言って鍵を返した。ちなみに、この作曲小屋の見学は無料である。
ホテルの反対側の道の奥には草原が広がっていた。もし、マーラーの時代からこの光景のままだったとしたなら、マーラーはこの光景を交響曲第3番の第2楽章にしたのかもしれない。山裾に広がる草原。ところどころに咲く花。シュタインバッハ・アム・アッターゼは美しい場所だった。

再びバスにてカンマーシェルフリンクまで戻り、そこで1時間に1本しかないローカル線の電車を待つ。待つ間、湖畔のカフェにてアイスクリームを食べながら、もう二度と訪れることはないであろうアッター湖畔の、湖岸近くを泳ぐ白鳥や湖水浴する人々をぼんやり眺めていた。

ローカル線にてフェックラブルック駅まで戻り、そこからはレイルジェットでザルツブルクへ。もう午後の7時近くだったので、ホテルへの帰り道にて夕食。
祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番が翌日に控えていた。

ザルツブルク音楽祭への旅路は、出発日前日の空港(中部国際空港セントレア)前ホテルへの宿泊から始まった。そのホテルに宿泊すると、10日間無料でホテル付設の駐車場を利用できるからだ。宿泊するのは二度目だが、ここはどこの国かと錯覚を起こすほどに、今回もホテルのロビーは某国の宿泊客で溢れていた。
ホテルのチェックインを済ませ、空港内のレストラン街にて夕食。空港内ということも手伝ってか、レストラン内は街なかのレストランとはちょっと違った空気に支配されている。食事客の服装も含め、どこか華やいだ感じがするのは、空港という場所が日常から非日常へと移行する境界に位置しているからなのであろう。

自宅を出発する前に、ジェットウェイ・トラベルのナカガワさんから、搭乗機であるフィンエアーはウェブで24時間前からチェックインができると聞いていた。実際に、出発日前日にはフィンエアーからオンラインチェックインの案内メールが入ったので、指示されるままに予約番号やパスポート番号等を入力すると、座席の指定と搭乗券の発券まで簡単に終えることができた。
これで、出発日当日はチェックインカウンターに並ばずに、いきなりバゲージドロップのカウンターで荷物を預けるだけになった。便利な時代になったものだ。

出発日当日の朝、某国の人たちの凄まじい喧騒の中でホテルの朝食を済ませ、空港へと向かう。レンタルWi-Fiのカウンターでルーターを受け取って、フィンエアーのバゲージドロップカウンターへ。
自宅でプリントアウトしてきた搭乗券のコピーを見せると、すぐにバーコードの入った通常の搭乗券と交換してくれた。荷物を預ける際、「僕の知り合いが最近パリからフィンエアーで帰ってきたんですけど、ロストバゲージだったんですよ。大丈夫ですかね?」と応対してくれた係員に尋ねると、「フィンエアーって、ロストバゲージが多いんですよね。ヘルシンキ空港がハブ空港なので、けっこう積み残しとかあるみたいで」などとおっしゃる。そんな人ごとみたいに言われても困るのである。
イミグレを通過して、搭乗を待つ。これからの旅路に思いを馳せ、いちばんわくわくする時間である。トランジットのヘルシンキまでは約10時間、1時間半後の便でミュンヘンまでは約2時間半。ミュンヘン空港から市内まではエアポートバスにて約40分。ホテルにチェックインするまで、トータルで少なくとも約15時間。長い旅路である。

10:30セントレアを発つ。
座席に座ったときから、前のシートに備え付けられているモニターが見られなかったので、CAにその旨を伝えると「再起動してみますからちょっとだけお待ちください」とのことであった。シートベルトサインが消えてもモニターの状態は変わらなかったので再びCAに伝えると、そこよりも前の4人掛けの席が空いているので、そちらの座席へと移動してはどうかと提案された。家内と相談して、提案に従うことにした。ベルトサインが消えてしばらくすると機内食が出た。フィンエアーの機内食は、はっきり言っておいしくない。狭い座席で、窮屈な思いをして食べるので、なおさらおいしくない。さっさと食事を終えて、持参したタブレットで電子書籍を読む。選んだ本は、釈先生と内田先生による『聖地巡礼リターンズ』。今回の旅は、グスタフ・マーラーをめぐる巡礼の旅である。巡礼の旅には巡礼の本が相応しい。

14:10(現地時間、日本との時差は6時間)ヘルシンキ空港着。
乗り継ぎ手続きへと向かう。セキュリティチェックを通り、パスポートコントロールへ。すると、後ろから「日本人の方はこっちですよ!」という声が聞こえた。振り返ると、日本人ではない男性が流暢な日本語で「日本人の人はこちらの入口です」と指差して教えてくれた。そこには、ちゃんと日本と韓国の国旗のマークが掲示されていた。お礼を言ってパスポートコントロールを通過。あとは、ミュンヘンまでの搭乗口近くで待機するだけである。
ほどなくミュンヘン行きの搭乗が始まった。この機では、機上でWi-Fiを使用することができた。フィンエアーのHPにアクセスして簡単な手続きをするだけである。いつでもどこでもWi-Fiが使用できるようになる時代が来るのも、そう遠い将来ではないと実感した。
16:15ヘルシンキ空港を発つ。

17:50(現地時間、ヘルシンキとの時差1時間)ミュンヘン空港着。
荷物を受け取り(ロストバゲージしなくてよかった!)、ルフトハンザ・エアポートバス乗り場へ。ターミナル2にバス停があるとのことで、案内板に従ってターミナル2へ。しかし、行けども行けどもターミナル2には行き着かない。ようやくターミナル2なる場所までたどり着いたが、今度はエアポートバスの乗り場がどこかわからない。
近くのインフォメーションで尋ねると、そこに座っていたおっちゃんが「ストレイト・フォワード」とまっすぐ指差した。そこからすぐ近くの出口を出たところが、エアポートバスの乗り場だったのである。ホッと一息ついたものの、バス停は2箇所あった。出口右側のバス停に行こうとすると、家内が「こっちじゃない?」と左側のバス停を指差した。よく見ると、「ルフトハンザ・エアポートバス」の表示がされてあった。安心して、バスが来るのを待った。

バスがやって来てバス停の前で止まると、サングラスにヒゲのドライバーが下りてきて、バスの荷物室を開けて荷物を乗せ始めた。日本でプリントアウトしてきた乗車券を見せ、バスへと乗り込む。乗客は数人。バスは高速道路に入ってビュンビュン飛ばす。すぐ横をベンツやBMWがそれよりも早い速度で追い抜いていく。ドイツの高速道路は制限速度がないと聞いたことがあるが、まさしくそんな感じであった。
高速道を下り街なかに入ると、バスの車窓からドイツの家並みが見える。どの建物も、鋭角の屋根に屋根裏部屋と思しき窓が設えられている。壁はベージュか淡いグリーンで統一されているのが特徴的だ。

ミュンヘンのホテルは、中央駅のすぐ近くに取った。チェックインを済ませて部屋に入り、旅装を解く。暑いのでエアコンをつけようと思ったが、エアコンは設置されておらず、代わりに扇風機が置かれていた。窓を開けようと思ったが、どの窓も窓の上部が15センチほど斜めに開くだけで、開け放つことができないようになっていた。

とりあえず、夕食(夜食?)を食べに街へと繰り出した。事前に日本語メニューのあるレストランをチェックしておいたので、Googleマップを頼りにカールスプラッツへ。カールス門という大きくて立派な門をくぐると、そこからマリーエン広場までは広い歩行者天国となっている。
しばらく歩くと、大きな教会が見えてきた。Googleマップでは聖ミヒャエル教会とある。教会の壁には大きな羽根のある天使が剣で何者かを退治しているような大きなレリーフが飾られている。
さらに、その教会のすぐ隣には、聖母教会の二つの高いドームが聳え立っている。近くまで行ってみると、カメラのレンズには収まりきらないほどの高さだ。その聖母教会は中に入ることができた。ひっそりとした教会の内部では、静かに祈りを捧げている人もいた。

既に、この時点で起床から20時間以上経過している。早めに食事を済ませ、明朝のザルツブルクへの移動に備えなければならない。しかし、聖母教会近くの件のレストランは、閉店したか移転したかわからないが、とにかく営業していなかった。仕方がないので、そこまで来る途中にあったビヤホールへ行くことにした。
ミュンヘンでは、ヴァイスブルスト(白ソーセージ)とビールが飲めればいいと思っていたので、サラダとともに注文。ヴァイスブルストは、陶器の器の湯の中に沈められた状態で供された。直径4〜5センチ、長さは15センチほどだ。少しずつナイフで切って、別添えの辛子(のようなもの、全然辛くはない)をつけて食べるのである。ブルストを食べ、ビールを飲む。ああ、ミュンヘンまでやって来たという実感に浸る。
ミュンヘンのビールは、後味が日本のビールと全く違う。麦なのかホップなのかよくはわからないが、たぶんそのどちらかの味が立ち上ってくるのである。僕があまりにおいしそうに飲んだからか、ふだんはアルコールを一切口にしない家内も「一口飲ませてよ」と言ってきた。

ミュンヘンは、マーラーが自身の指揮で交響曲第8番を初演したところである。市内のドイツ博物館の敷地内には、実際に初演された建物が残されているとのことだが、とてもそこまで足を延ばす余裕はなかった。食事を済ませ、ホテルに戻り、入浴してすぐに就寝。眠いはずであったが、その日の夜は興奮してなかなか寝付けなかった。明朝はいよいよザルツブルクへと移動するのである。