父の死

死んだ父は寡黙な人だった。

僕が、父と生涯に喋った時間を合わせても、たぶん1時間に満たないのではなかろうか。
例えば、僕が学生時代に実家へ仕送りの電話をした際など父が電話を取ると、会話は「今月入り用なので仕送りしてほしいんだけど」ー「わかった」と、ほとんど1,2秒で済んでしまうというような具合で、父とのほとんどすべての会話はこんなふうだったのである。

若い頃の父がどんなふうだったのかは、父の母、すなわち僕の祖母から、「あんたのお父さんにはホントに匙を投げたよ」と聞いたことがある。さぞかし無頼をしていたのであろう。

反物を風呂敷に包んで背中に背負い、村から村へと歩いて呉服の行商していた祖母が、浜名湖畔のかつては村で名主をしていた家の娘を、そんな無頼の息子の嫁にと懇望して祝言を挙げさせたのも、行商をしながらの出来事であったろうか。
そして、どういう経緯かは知らないが、祝言を挙げた父と母は、母の実家である屋敷の一角に小さな家を建て、祖母の行商のツテもあってか、村でただ一軒の呉服屋を営むようになったのである。

しかし、もともと無頼が性で寡黙な父が、客相手の商売などに向くはずはなく、そのうちに父は競艇やオートレースなどの公営ギャンブルにのめり込み、店の売り上げをそれらのギャンブルに流用していた(僕が小学生のときには、父から預金通帳を渡され「これで3万円出してこい」と使いを頼まれたことが再三あった)のではないか。

そのうちに、たぶん母方の伯父から父に話があって、呉服店を営むかたわら、オートバイの部品加工(エンジンのシリンダーヘッドにゴムパッキンを接着する)の仕事を内職として始めることになった。
この仕事に父は夢中になった。それまでどちらかと言えばあまり身の入らなかった呉服店の仕事は母に任せきりになり、自分は母の実家の叔母や祖母にその内職を手伝ってもらいながら、それまでとは見違えるような熱心な働き手となった。

内職で始めた仕事がほとんど本業に近くなるほど軌道に乗り始めた矢先、とある出来事があって、その浜名湖畔の家を出なければならない事態が生じた。僕が中学校3年生のときである。
とりあえずは住むところを何とかしなければということで、ちょうど母の兄が他所に自宅を新築して空き家になっていた家を借りることになり、内職の仕事もそこで行うようになった。

それからほどなくして、父は郊外の二軒続きの借家を買い上げ、一軒を仕事場として使い、もう一軒を住家として使うようになった。家の西側には茶畑が広がり、遠くに見える三方原台地の松林の向こうに沈む美しい夕日が見えた。

僕が大学に進学してからのことは、実家を離れていたので断片的にしかわからないが、日本の高度経済成長期とも重なって仕事は順調で、かなりの収入に恵まれているらしかった。
僕は、大学を卒業した翌年に地元の教員採用試験に合格して採用が決まったので、5年ぶりに地元に帰ってくることになった。

ちょうどその頃、自宅を新築する話が持ち上がっていた。買い上げた借家と、さらにその前の土地も合わせて買い上げて宅地とし、その敷地に仕事場と自宅を建てるということで、その間だけ僕は自宅から少し離れたアパートの一室を借りて、自宅を建てる間そこに住むことになった。
建前の日の夜、父は珍しく上機嫌で、お祝いに駆けつけてくれた僕の友人を相手に、酒の勢いも手伝ってか野鄙な話も持ち出したりして、一人で盛り上がっていたことを思い出す。

僕の結婚の際には、きちんと結納を交わしたいということで、父が主導してわざわざ結納の場を設けたこともあった。まさか父がそんなことを言い出すとは思わなかったので、ひどく意外な感じがした。

それから数年後、さらに仕事場を拡張するために、従来の仕事場を潰して新たな仕事場兼事務所を建てることになった。そして、それまでの仕事場のあったところに、僕の家を建てることになった。

バブルが崩壊してほどなくであったか、取引をしていた事業所が浜松から移転したことをきっかけにして、それまでの仕事がなくなった。
年齢的なこともあってか、父は積極的に次の仕事を探そうともせず、家の補修をしたり、庭木を植えたりしながら、自分は事務所だった離れの二階の部屋を自分専用の部屋にして、読書をしたり、ラジオを聴いたり、相変わらずオートレースの予想をしたりして、悠々自適の生活をするようになっていった。

ほとんど僕の家にも顔を出したことのない父が、「具合が悪いので病院まで連れて行ってくれや」と珍しく僕のところへ頼みに来たのが昨年(2018年)の夏(8月)のことであった。
「息が苦しい」とのことで、地元の総合病院で検査を受けた結果、「間質性肺炎」との診断であった。医師の話では、「原因不明、したがって有効な治療法もなし、とりあえずは経過観察するしかない」とのことであった。

それから二ヶ月後の10月、また父親が顔を出して、「オレはもう1週間後に死ぬから、家の権利書とか受け取ってくれや」と言いに来た。そのままいつもの総合病院に連れていって診察を受けたが、入院するほどではないと言われ、そのまま家に帰ってきた。

容体が悪化したのは、年の瀬も押し迫った12月、件の総合病院に入院したことを知らされ、担当医師からは病気の進行と合併症のことを知らされた。すぐにどうこうということはないだろうが、常に酸素を吸入できるようにしておくことが必要だと言われた。

初めは自宅で療養することも考えていたのだが、酸素吸入のことやらも含めると、長期療養できる病院で世話してもらった方がいいのではないかという医師や看護師からのアドバイスもあり、自宅から車で20分ほどの赤十字病院で療養する手筈を整えた。

見舞いに行っている家内から、どうやら父親が出された食事をほとんど口にしていないどころか、看護師には食べたと言って、実は食事をティッシュなどに包んでベッド内に隠したりしているらしいことがわかった。
母親や看護師にその旨を伝え、ちゃんと食事を摂るように促してもらうよう依頼したのだが、僕が見舞いに行ったときも、もう昼前になるというのに、朝食で出された膳がまだ目の前に置かれたままということもあった。

入院して10日後の早朝、病院から父親危篤の連絡が入った。まさかと思いつつ病院に駆けつけると、時おり呼吸の止まる様子がモニターに見て取れた。これは覚悟を決めなければならないと思った。
父親の死亡連絡が入ったのは、その翌日の早朝であった。死に際には間に合わなかったが、看護師の話では静かに息を引き取ったとのことであった。

ちゃんと食事を摂り、リハビリもしていれば、もう少し長く生きられた可能性もあったと思われるが、どうやら父は自分で死期を早めたのではないかと思われる。
自宅療養や、長期療養病院への入院等で家族に迷惑をかけたくないとの思いもあったのであろうか。そういう意味では、父らしいまことにあっぱれな最後であったと思う。

初七日、そして四十九日の法要と納骨を済ませ、少しずつ父の遺品整理をしていく中で、離れの二階からびっくりするようなものがたくさん出てきた。

一つは、大量のカセットテープである。何を録音していたか一つ一つ確認はしなかったが、どうやら謡曲を中心に録音していたらしい。確かに、晩年はどこかから三味線を手に入れて時おり練習をしていたらしいが、それらのカセットに録音したものを手本にしていたであろう。

もう一つは、大量の趣味や教養のNHKテキスト類である。語学を除いて、ありとあらゆるジャンルのテキストで、そこから園芸や木工の知識を得ていたらしいことがわかった。

仏教関係の書物もたくさん出てきた。自宅近くの寺院をわが家の菩提寺にして、親戚からの援助も得て墓を建立したのも父だったが、どうやら寺院の選定については、それらの仏教の知識が役立ったのではないか。

その他、週刊朝日百科の「日本の国宝」と「世界の美術」が全巻、そして英字新聞も出てきた。
まさか英語がすらすら読めたとは思わないが、アメリカ合衆国の大きな地図が二階へ行く階段の途中に貼ってあったことを考えると、アメリカへの憧れがあったのかもしれない。

父は若い時分に耳疾を煩い、以来左耳の聞こえが悪かった。寡黙になったのは、そんなことも影響していたのだろう。
そんな自分の障害に重ね合わせたのであろうか、父はベートーヴェンが特にお気に入りだった。自分も独学でヴァイオリンを弾いたりしていたらしいが、僕も小学生の低学年のときには子供用のヴァイオリンを弾かされたことを覚えている。もちろん、僕の場合は熱心に練習する子どもではなかったのでそれきりになってしまったが。

それでも、僕がクラシック音楽に親しむようになったのは、そんな父の影響があってのことであった。自宅には、ベートーヴェンの交響曲の古びたオーケストラスコアが何冊かあった。レコードでそれらの曲を聴く際には、スコアを見ながら聴くことで、さらに曲への親しみが増したことを覚えている。

完成こそ叶わなかったが、父は仕事場の一角に茶室を建てていた。大工仕事の覚えもないのに、ありあわせの材料を使い、見よう見まねで作っていたのである。家内には、「茶室を完成するのが俺の夢なんだよ」と語っていたらしい。

義務教育の学歴しかなかった父は、「無知の知」ということを身をもって実践した人だった。晩年になっても、自らの教養を高めることを忘れていなかった。そして、芸術に親しむ心を忘れなかった。
菩提寺の住職は、父の戒名に「自楽」という文字を入れてくれた。生涯「自ら楽しむ」ことを実践して生きた、いかにも父に相応しい戒名であった。