4月1日(木)
新年度を迎えた。
本日より、教務主任を拝命した。
実は、広島への旅行から帰ってからというもの、春休みというのに、山のような仕事に忙殺されていた(とても日記を書く余裕などなかったのです)。
前任の教務主任の教頭への昇任(と転出)が決定したため、その後任として手前に教務主任のお鉢がまわってきたのである。
もちろん、手前は今までに教務主任の経験はない。
何もかもが初めての経験で、仕事の何をどこから手をつけていいのか皆目見当がつかなかった。
何より難儀だったのは、それぞれの先生方の授業の持ち時間を決定することであった。
前教務主任も、新年度の教育課程をそれなりに御準備してくれてはあった。
しかし、実際には新年度になってから、それぞれの教科担当の意見を聞きながら調整していかなければならないこともあり、そう簡単には作成ができないのである。
前教務主任は、「全ては教務主任の考え一つで決まるんだよ」などと宣わっていたが、何せ経験のない手前などにはきわめて難問なのである。
というわけで、毎日エクセルに数字を打ち込みながら、あーでもないこーでもないと考えていた。
手前のように数字に弱い者にとっては、まさに拷問に等しい作業なのである。
そればかりではない。
職員会議のレジュメを作成するのも教務の仕事である。
例えば、本日行われた第1回の職員会議の提案は、そのほとんどが教務主任からの提案である。
カリキュラムのことは言うに及ばず、始業式が始まるまでの準備作業日程から、入学式の仕事の割り振り、その他こまごまとした準備作業一般まで、すべて一手に引き受けて提案しなければならないのである。
もちろん、印刷・製本までやらなければならないことは言うまでもない。
さらに、年度当初、市の教育委員会や教育事務所に報告しなければならない書類が山積している。
昨日(3/31)も、一人だけ夜遅くまで学校に残って、その準備作業に没頭していた。
毎週水曜日は合気道のお稽古があるのだが、とても参加することはかなわなかった。
もー、このままだと、デスクワークに鞅掌されて太る一方のような気がしてしまう。やばいのである。
部活動へも顔を出せなくなった。
例年、春休みには、大学女子ソフトテニス界の名門である神戸松蔭女子学院大学を生徒とともに訪問し、大学生と合同練習をさせていただいている。
神戸松蔭女学院大の表(おもて)監督とは、かれこれ17年来の御交誼があり、いわば手前のソフトテニス指導のお師匠様なのである。
今年も、2泊3日で訪問させていただいた(宿泊は六甲山上にある松蔭大のセミナーハウスでしたが、その場所をさがしている際に、ナビの勘違いで神戸女学院大のセミナーハウスに行ってしまいました)が、得るところ大なるものがあった。
その練習もやりたいのであるが、何せコートに行くことができない。
本校のテニスコートは、2階にある職員室から眼下に見えるところある。
コートからは、生徒たちの元気のいい声が聞こえてくる。
しかし、コートに行くことができないのである。
ああ、この悔しさを何と表現しよう!
かような状態で、ストレスはたまる一方。
うー、誰か助けてくれーい!
3月22日(月)
先週は、18日卒業式、19日修了式と、慌ただしく週末を迎え、この土日は学年の先生方と親睦(お別れ?)旅行で広島へ。
たぶん、浜松市は他の地域よりも春休みに入るのが早いと思われる(その分、学期の始まりが早い)。
他地域がまだ授業を行っている時に、「もう春休みだもんねー」というのは、なんか得した気分になれるのである(始まりが早いのなら同じなのですが・・・)。
広島への旅行は、「日本三景」のひとつであり、「世界遺産」にも登録された宮島の厳島神社を訪れるのが目的であった。
初めて新幹線の「のぞみ」に乗って、一路広島へ。
広島駅からは、在来線を乗り継いで「宮島口」駅にて下車。宮島へは、船で渡るのである。
対岸には、小さく赤い鳥居が見えた。「おお、あれが厳島神社だあ」などと思わず独り言ちてしまう。
ほどなく宮島に到着。土産物屋が立ち並ぶ参道を通って、厳島神社本殿へ。
それにしても、宮島って鹿が多いんですね!
思わず、「ここは奈良公園か!」って言いたくなってしまうほど鹿が多いのである。
当然、至る所「ベビーチョコ」みたいな糞だらけなのである(うっかり風景に見とれてなどいようものなら、その糞を踏んでしまうこと必定なのである)。
さて、その厳島神社なのであるが、なんと、この日は結婚式が行われていた。
厳島神社で結婚式を挙げるって、いったいいくらかかるのでしょうか(きっと、高額なんだろうなあ)。
この日は、あいにく干潮の時間にあたってしまい、鳥居のだいぶん先まで潮が引いている状態であった(潮干狩している人たちがたくさんいました)。
そのため、写真などで見るイメージとはだいぶん違った印象であった。
しかし、潮が満ちた時のことも考慮しながらこの神社を建造したということを考えると、全体のデザインを考案した人物は只者ではないと思ってしまう。
本殿に参詣後、お守りの「しゃもじ」を購入する。
当日は、土曜日ということもあり、団体客が多数参詣していた。本殿はすべて禁煙であるにもかかわらず、出口付近で欄干に腰掛けながら喫煙している赤ら顔のオヤジを見かける。何とも不愉快な気分になる。
こういうオヤジがいるから、ただでさえ肩身の狭い思いをしている喫煙者(手前も含む)は、さらに引け目を感じなければならなくなるのである(そういえば、JTの「あなたが気づけばマナーは変わる!」の広告、何とかならないものでしょうか。あんな広告を出すなら、煙草を製造販売するのヤメればいいじゃんって思ってしまいます)。
参詣後は、「宝物館」にて「平家納経」を拝する(コピーでしたが)。
帰りに、参道の土産物屋で作りたての「もみじまんじゅうクリーム味」を試食。「う、う、うまい!」と感動して、その場で購入(「もみじまんじゅう」って、宮島の名産だったんですね)。
宮島から帰って、夜は「芸州本店」にて「牡蠣づくし会席」。
広島の牡蠣って、大きいんですね!しかも、大きいだけでなく、たいへん美味なのである。
正直、手前は牡蠣はあんまり積極的に食す方ではなかった。その手前でさえ、他の先生に「食べなきゃもらうよ」って言ってしまったほどなのである。
「鮃の刺身」に始まり、殻付きの「牡蠣の瀬戸焼き」、続いて「「牡蠣フライ」、メインディッシュは「牡蠣の土手鍋」。
いやあー、堪能しました。
翌日曜日は、原爆ドームや平和資料館を見学に行く学年の先生方と別れて(手前は以前に見学したことがあったのです)、「そごう」の中にある紀伊國屋書店と、パルコの中にあるタワーレコードへ。
紀伊國屋書店では、内田先生お勧め本の中の1冊、『思想する「からだ」』(竹内敏晴/晶文社)を見つけ、さっそく購入。
タワーレコードでは、カールリヒターとミュンヘンバッハ管弦楽団による『マタイ受難曲』の輸入盤(安い!)を購入。
幸せな気分になって、待ち合わせの広島駅へ。
駅ビルの中にあるお好み焼き屋(「麗ちゃん」というオバちゃんだけで切り盛りしているお店。行列ができていた)で広島のお好み焼きの昼食。
このお好み焼き、とにかく量が多い!食べても食べてもいっこうに減らないのである。
満腹になって、再び「のぞみ」に乗車。
途中、名古屋で「ひかり」に乗り換えて、無事浜松に帰着。
広島は、食べ物がおいしいところでした。ぜひ、また行きたい!と思いました。
3月15日(月)
この土日は、クラブチームとして「滋賀・近隣府県中学生ソフトテニス研修大会」に参加するため、滋賀県へ。
例年、この大会は長浜市にある「長浜ドーム」で行われていたが、今年はドームの改修工事のため、彦根市の総合運動場テニスコートにて行われた。
大会は日曜日であったが、水口中学校のニシカワ先生(滋賀県中体連ソフトテニス専門部委員長で、近畿ブロックの専門委員長でもある)のおはからいで、前日の土曜日に甲賀町で地元の強豪校である甲賀中学校(甲賀中は1月に行われた近畿インドア大会で団体準優勝)と練習試合ができるようになったため、土曜日の午前中から甲賀町へ。
「甲賀流忍術の里」として知られる甲賀町は、町の近郊に水田が広がる何とものんびりした風光の地である。
毎年、5月の連休中は、この地で行われるソフトテニスの研修大会に参加するために甲賀町を訪れているが、いつ来てもそののどかな風景には、まるで古里に帰って来たかのような感慨を覚えさせられる。
実は、連休中に甲賀町に来るようになって、もうかれこれ16年になるのである。
ニシカワ先生とは、そのとき以来のおつき合いである。
夕方、甲賀中との練習試合を終え、城山中ソフトテニス部顧問であるデグチ先生(このデグチ先生とも、かれこれ15年来のおつき合いである)に先導されて、その日の宿舎である「長浜ドーム宿泊研修館」に移動する。
甲賀町から長浜までは、およそ1時間半。
試合会場の彦根市に宿舎をとってもよかったのだが、長浜から彦根までは車でおよそ15分程度であることと、何より安価に宿泊できる(1泊2食で5千円)ということで、ニシカワ先生にお願いして宿泊研修館をとっていただいた。
この宿泊研修館であるが、料金が安いだけでなく、何より食事がおいしいのである。また、琵琶湖の湖畔に建てられているというロケーションもいい。
みなさん、長浜に御用の節は、ぜひ「長浜ドーム宿泊研修館」を御利用くださいませ(ただし、門限が午後11時です)。
夜は、長浜の町なかに繰り出して、ニシカワ、デグチ両先生とウチのコーチとで小宴。
ところが、手近な店はほとんど歓送迎会(そういう時期なんですねえ)で満席のため、駅前の「グリーンホテルYes長浜」で、手頃な居酒屋さんを紹介していただく(フロントさん、宿泊客でもないのにわざわざ電話で空席状況まで確認していただき、ありがとうございました)。
駅前の道を東に5分ほど歩いたところにある居酒屋「創」へ。
何とも雰囲気のいいお店であった。料理もおいしい。
しこたまビールを飲んで、宿舎に戻る。
さて、日曜日は大会である。
試合は、予選リーグと、その結果をもとにした決勝トーナメントで行われた。
本校は、予選リーグで地元の彦根南中に敗れて2位。
決勝トーナメントでは、2回戦で滋賀県選抜(都道府県対抗戦に出場する滋賀県代表チーム)に敗れてベスト8。まだまだ全国レベルには程遠いのである。
ただ、ウチの大将前衛だけは、何とか全国レベルに近づいてきたとの実感を得ることができた。それが収穫といえば収穫である(そういえば、前回京都で敗れた桂中に予選リーグで勝つことができたことも収穫であった)。
いくらいい前衛がいても、その前衛を生かすためには、後衛がある程度ボールを持たせてくれなければならない。そういう意味では、ウチの後衛陣はまだまだなのである。
試合会場の彦根総合運動場のテニスコートは、井伊家35万石の居城であった彦根城のすぐ隣にあり、コートからは国宝であるその天守閣がよく見えた。
お城が見えるテニスコートって、なかなかいいのである。
そういえば、一昨年全国中学校大会が行われた長浜市民テニスコートも、長浜城のすぐ隣にあるのである。
滋賀県って、いいテニスコートがありますよね。
というわけで、ニシカワ、デグチ先生、2日間お世話になりました。ありがとうございました。
また5月に、甲賀町でお会いできるのを楽しみにしています。
3月4日(木)
先日神戸に行った際に購入してきた『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(岩木秀夫/ちくま新書)を読了した。
好著である。 何より、80年代臨教審からの教育界の流れが丹念にマップされているのがいい。
また、その流れを踏まえ、現在の教育界がおかれている状況を、政治・経済・文化と関連させて明らかにしつつ、今後の教育の課題が展望されているのもいい。
手前のように、実際の教育現場にあるものは、いわば「流れの渦中にいる」ようなものである。
流れの中にいると、「今、自分は流れのどのへんにいて、どこへ流されていこうとしているのか」ということがよくわからないままに、そのまま流れにのって流されていってしまうというようなことが起こりがちだ。
この著作や、以前御紹介した佐藤学のブックレットなどを読むと、自分がその「流れ」から一度岸に上がって、現在自分のおかれている「位置」を確認することができるような思いにさせられる。
「教育」という「大きな流れ」の中での「自分の立ち位置」を確認できるのである。
こういう「確認作業」を行わないと、たとえば「習熟度別指導」などを、「子どものために」などという美名に誑かされて、何の違和感もなく受け入れていってしまうというようなことが起こってしまう。
そのことで将来的に不利益を蒙るのは、その教育を受けた子どもたちである。
そんな「未必の故意」のようなことをしてはならない。
上記著作の「あとがき」には、特に感動させられた。ちょっと長いが引用させていただく。
強い個人を前提した、予定調和的な理性的世界像を、高らかに謳いあげられるのもごめんです。その裏には、心の健康は我々にお任せをという「心の専門家」たちのセールストーク、あるいは社会安全は我々にお任せをという治安や司法の専門家たちのセールストークがワンセットです。かといって、なにやら訳のわからないうちに、教育基本法が改正されて、「国民」アイデンティティーを法的に強制されるのもごめんです。(…)われわれ大人が、じぶん自身、このポスト産業社会において散乱した自我を、「心の専門家」や「安全の専門家」、そしてまたお仕着せの「国民」アイデンティティーに頼ることなく、いかにして一つにまとめるのか。次世代を「教育する」という作業は、結局、まわりまわって、ポスト産業社会の毒にどっぷり浸かったわれわれ大人世代に、このことを問いかけてくるのです。われわれは、次世代に、グローバル・エリートになるための平等な機会を用意しなければならないのはもちろんです。それは学力論争の最後に登場した新自由主義的改革論と、その後の教育政策が実現に向けて動き出しました。だが、それよりももっと重要なのは、次世代の一人ひとりが、一つのまとまりのある人格を築くための平等な機会を用意するという課題です。(…)ポストモダン思想に深く浸された「ゆとり教育」はイディオンクラシー(生理・心理的特性が素材のままで珍重される個性浪費社会)を招くに終わる公算が大です。そうではなく、一人ひとりがもって生まれたイディオンクラシーを努力によって鍛練し、その人格的成果が尊敬されるような、そのようなことを可能にする社会的基盤がもっと多様に用意される必要があるのです。そうなってはじめて、「ゆとり教育」は心理主義的な偏向を脱して、社会的に有意義な理念になれるのです。
こういう本を、はたして全国でどのくらいの教員が読んでいるのだろう。
「日常の多忙さに感けて、読書をする余裕もない」などと言うなかれ。それは「怠慢」と同義ではなかろうか(なーんて、あんまりエラソーに言ってはいけませんよね、実際忙しいんだから)。
とにかく、この著作は現場の多くの教員に読まれるべきである。
そうして、何らかの啓発を受けた教員が、「自分のできる範囲でやれることは何だろう」と模索していくことこそ、「教育」を真に実のあるものにしていくのではなかろうか。
みなさん、読んでくださいね。
特に、大学院内田ゼミに参加されていた院生のマツムラさん、きっと好まれそうな本だと思います。ぜひ読んでみてください(よろしければ感想をお聞かせください)。
3月1日(月)
この土日は、ゼミ打ち上げ宴会参加のために神戸へ。
土曜日は、大坪先生の車に同乗して昼前に浜松を出発。
神戸まではおよそ3時間あまり。途中2度ほど休憩して、ちょうど3時に宿泊先である三宮のホテルに到着した。
午前中静岡市に出張していたため、新幹線で後を追いかけてきた小野先生とホテルで合流して芦屋まで移動。
集合時間の5時にウッキーと谷口さんが迎えに来られて、そのまま宴会場の内田先生宅へ。
とりあえず、シャンパンにて乾杯。
みなさんがそれぞれ持参してきた料理に舌鼓を打ちながら、ワインをぐいぐいと飲む。
とにかくまあ、よく食べ、よく飲み、よくしゃべった。
浜松から持参したうなぎはかなり好評であった。
特に、白焼きを山葵醤油でいただくというのは、みなさんあまり召し上がったことがないらしく、あっという間に平らげていただいた。よかったよかった。
それにしても、夢のような宴会であった。
何にも況して、手前には「内田先生の御自宅で宴会をしている」というのが、なかなか実感できなかった。
そのためか、ワインをしたたかに飲んでいたのに、ほとんど酔いを感じなかった。
自分の意識が夢の中を浮遊しているような状況のときには、その状況そのものが酔いの中にいるようなものなので、アルコールによる「酔い」を感じないというようなことが出来するのであろうか。
それはきっと、浜松から参加した大坪・小野先生も同様ではなかったかと思われる。
5時から始まった宴会は止まるところを知らず、内田先生のところを辞したのは結局11時過ぎ。
延々、6時間以上も食べ、飲み、しゃべっていたのである。
そのまま雨の中を三宮のホテルに戻って朝まで熟睡。
しかし、翌日曜日は頭痛、吐き気に苛まれ、「このまま無事に浜松に帰れるのであろうか」と思ったほど(特に、大坪先生の二日酔いはひどく、朝食をほとんど口にできないほどであった)。
しばらく正常に戻るまで三宮を散策しようということで、ホテルをチェックアウトしてセンター街へ。
ジュンク堂で『蘇東坡100選』(石川忠久/NHKライブラリー)と『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(岩木秀夫/ちくま新書)を、さらにHMVでベートーヴェンの『田園』(ワルター/コロンビア響)を、またモロゾフでみやげのクッキーを購入して帰途につく。
帰りは、大坪先生がどうしても「京風ラーメン」を食べたいというので、草津パーキングに寄ってやや遅めの昼食(ちなみに、「京風ラーメン」は名神草津パーキング上り線でしか食べられません)。
無事、夕方4時に浜松に到着。
「今日は酒は飲むまいぞ!」と思っていたのだが、「そういえば夕べはビールをあんまり飲まなかったよなあ」と言いつつ、ビールを2缶ほど飲んでしまう自分が悲しい。
というわけで、誕生日を迎えた今日になっても、まだ頭痛が残っているのです。うー。
2月24日(火)
週明けの月曜日、前日の地元新聞(静岡新聞)書評欄に紹介されていた著者の本を探しに書店を廻った。
経済関係の本だからきっと置いてあるだろうと思ったのは早計で、3店鋪ほど廻ったのだが、お目当ての本を置いている書店はなかった(これだから田舎は困る)。
仕方がないので、アマゾンで注文することにした。
今日の内田先生の日記を見て一驚!
何と内田先生が言及されていた『虚妄の成果主義』(高橋伸夫/日経BP)こそ、手前が探し求めていた著作だったのである。
こんなことって、あるんですねえ。
まさに、師匠はすべてを見そなわされ、常に弟子の先を行っていらっしゃるのである。
実は、義務教育の現場にも「成果主義」を導入しようとする動きがあるのである。
教員も、その「成果」に応じて賃金が支払われるようになるかもしれないのだ。
自分の賃金に反映されることとなれば、関心を持たないではいられない。
というわけで、上記の著作を読もうと思っていた矢先のことだったのである。
いやあ、驚きました。
そう言えば、先週は東浩紀と大澤真幸との対談集である『自由を考える』(NHKブックス)を読んでいた。
そしたら、先週の土曜日、同じく静岡新聞に「オウム事件後の社会像」と題し、東浩紀・宮台真司・大澤真幸へのインタビューが掲載されていた。
あららー、(宮台を除いて)この2人って、いまオイラが読んでいる本で対談していた人たちだあと思い、何だか妙な符合に、「オイラの勘って冴えてるじゃん」などと、バカなことを思っていたのである。
その『自由を考える』だが、「現代社会をどうとらえるか」ということに論点が絞られていて、大学院内田ゼミで「現代日本論」を聴講した者の端くれとしては、ちょっと見過ごすことができない本だったのである。
いくつか、印象に残ったところを挙げてみます。
フィルタリングは、ユーザーが勝手に設定するわけですから、ユーザーたちに可能な限り選択肢を許容し、推奨してさえいるわけです。古典的な権力の図式を用いる限り、この場合にも、権力が作用していると見なすことは難しい。しかし、僕は、こういうケースでも、ある観点からすると、やはり権力が作用している、と言えると思うのです。そして、そこにこそ、現代的な権力の真の狡猾さがある。?(大澤)
生徒や保護者に選択させるというのも、そこには実は「権力」が作用しているということなのだろうか。
また、インターネットに「日記サイト」が無数に作られている背景について、
溢れるデータのなかで、人々は「私が私である」根拠をかぎりなく失っている。だからこそ日記サイトで自分の日常生活を詳細に書き記す。でもほんとうはそれもデータでしかない。ほんとうの自分にはけっして辿りつけない。(…)今までは匿名性は、社会空間の複雑さと情報の追跡可能性がアンバランスであるために、特に意識しないでも確保されていた。だからこそ固有名の感覚も生まれていた。しかし、後者の制度が飛躍的に上がってしまったため、今そのバランスが壊れている。その結果、誤配可能性の量(なるものが計測できるとして)がきわめて低くなり、人々は自分が固有の存在だと感じられなくなっている。僕はその状況を憂えているわけです。(東)
うーん、でも別に手前などは「自分が固有の存在だと感じられなくなっている」から日記を書いているわけではないんだけどなあ。
さらに、
いま必要なのはこんな作業だと思うんです。たとえば、労働者が自分の労働力を売って対価をもらっている。何が悪いんだと言われたら悪いわけではない。この状況を「疎外」という概念でとらえ返すことで、マルクス主義が出てきたわけですよね。それは概念の発明です。今求められているのも、同じタイプの発明だと思うんです。(…)これは何かが間違っているんのではないかと、多くの人々が不安を抱いているということです。その感覚を言葉や論理に変えていかなければならない。(東)
などというところは、「前代未聞の状況に対し、頭で考えるのではなく、体で考え言語化する、または言葉を生み出して対応しなくてはならない」という、内田ゼミ第1回の講義で先生がおっしゃられた言葉を思い出した。
なかなか刺激的な著作であった。
また機会があれば、彼らの他の著作も読んでみようと思う。
<おわびと訂正>
先日御紹介した『習熟度別指導のどこが問題か』は、書名が『習熟度別指導の何が問題か』の誤りでした。慎んでおわびして訂正させていただきます。
2月16日(月)
『習熟度別指導のどこが問題か』(佐藤学/岩波ブックレット)を読んだ。
それまで、「習熟度別学習」については、「教育委員会も積極的に導入を進めようとしているし、学力低下論に対応するためにも、まあやっていくしかないんだろうなあ」などと思っていた自らの不見識を深く愧じた。
佐藤先生は、「習熟度別指導」の有効性について、アメリカを中心に1970年代から80年代にかけて行われた膨大な数の調査と研究の中から、カリフォルニア大のジェニー・オークスによる論考(Keeping Tracks : How Schools Structure Inequality, Yale University Press, 1985)を論拠にしつつ、「習熟度(能力)別指導」に関する結論を以下のように総括されている。
@小学校では、「上位」「中位」「下位」のどのグループでも有効性はない。
A中学校では、「上位」グループにおいて適切な教育が行われた場合に限って有効性を主張する調査研究も存在する。
B小、中いずれの場合も学力格差は拡大する。
C学校全体の学力向上にはつながらない。
D階級や階層や人種間の学力格差と差別につながる。
E教育内容の段階的組織と学習集団の均質化により学びの経験を狭め、競争と失望を促進して歪んだ優越感と劣等感を助長する。
F教師の仕事を「責任」から「サービス」へと転換させ、教師の子どもの見方や教育の考え方におけるモラルの低下をまねき、学校教育における平等と民主主義を破壊し「学校の塾化」を促進する。
なーんだ、「習熟度別指導」って、なーんにもいいことないじゃないの!
いいことないどころか、有害なのである。
「能力別学習」については、昭和30〜40年代にかけて、教育界においてはそのことを語ること自体が「おぞましいタブー」とされていた。
ところが、昭和53年の『改定高等学校学習指導要領』より高等学校に学習習熟度別学級編制の実施が要請され、平成2年には教育課程審議会の『審議のまとめ』で中学校にも習熟度別指導を取り入れる方針が打ち出され、平成12年の教育改革国民会議による『最終報告』によって小学校での習熟度別学習が推進されるようになった。
およそ、10年おきに「習熟度別学習指導」は、高校から始まって小学校にまでおりてきたのである。
「習熟度別学習指導」などという「昭和30年代の亡霊」とでもいうべきものが、今になってよみがえってきたのは、「個性重視の教育」へとシフトしていった教育界の流れと無関係ではあるまい。
佐藤先生の言葉を借りれば、「学びを個人主義の枠に閉じ込め」たことと密接にリンクしているのである。
この流れは、そう簡単には止められるものではあるまい。
本校においても、この4月からは英語と数学において「少人数指導」が実施される予定である。
うーん、どうしよう。
佐藤先生によれば、T総じて、授業の経験と技量を欠いている教師が、低いレベルの内容を形式的に教育する場合に「習熟度別指導」は有効Uだそうだ。
うーん、手前など(授業技量の低い教師)には合っているということか。
それにしても、これだけ問題の多い「習熟度別学習指導」を、そう簡単に導入するわけにはいかない。
佐藤先生も述べられているように、「習熟度別指導が有効と思われるほんの一部分に限定して導入する」しかないであろう。
具体的な方法については、今後精密に検討していかなければならない。
佐藤先生のブックレットを読みながら、昨年手前が大学院のゼミ(後期)で発表した内容が、いかに短慮で生半可なものであったかも思い知らされた。
手前の提案は、ただ単に生徒指導上の困難さを解決しようとするための「間に合わせ」的なものであっただけではなく、逆に生徒指導上の困難さを助長してしまう可能性があるものだ、ということに気づかされた。
まったく、これだから無知は困るのである(「もう一度内田ゼミで発表させてください」とも言えないしなあ)。
とにかく、『習熟度別指導のどこが問題か』は、教育に関心を持つ一人でも多くの国民必読の書であると信じます。
たった480円(税込)です。
みなさん、ぜひ購入してお読みください。
2月8日(日)
今日は、不肖の娘も出演するコンサート(「ジュニアオリジナルコンサートinしらかわホール」)があったため、午後から名古屋市中心部にある「しらかわホール」へ。
実は、今日は富士宮でソフトテニスの研修大会が行われるのだが、そちらの方はコーチにお願いして行ってもらうことにした(まあ、第2日曜ですから)。
午前中にリハーサルを行うということで、妻と娘を浜松駅まで送り、手前は開演の午後4時に間に合うよう、ゆっくり出かけることにする(帰りはもちろん、浜松までアッシーくんなのである)。
そもそも、「ジュニアオリジナルコンサート」なるものは、1972年に当時のヤマハ音楽振興会の川上源一理事長の提唱により発足したコンサートで、「ヤマハ音楽教室」に通う15歳以下の子どもたちが、自分で創作した曲を自分で演奏するコンサートだそうだ(「だそうだ」なんて、手前の娘が出演しているのにまるで他人事みたいな言い方ですね)。
一応、15歳までに創作した曲を演奏することになっているので、娘は今回が最後の「ジュニアオリジナルコンサート」出演になるのである。
そんな事情もあって、今回は富士宮へは行かずに名古屋へと出かけたのである。
浜松から名古屋までは、車で約1時間。東名名古屋インターから会場までは約30分。まあ、2時間前に出れば十分だろうと思い、午後2時に家を出た。
ところが、東名名古屋インターから市の中心部に出るまでかなりの渋滞。
何とか「しらかわホール」に辿り着いたのが、ちょうど午後4時。
すぐに地下駐車場へと車を入れ、慌てて客席へと走る。何とか滑り込みセーフ。
今回のコンサートには、名古屋市から4人、豊橋、浜松市からそれぞれ1人ずつの合計6人(小学6年生〜高校1年生)が出演した(リージョナルなコンサートだったのである)。
(親バカもありますが)それぞれの演奏のレベルはかなり高いという印象であった。
ピアノソロが3人、他の3人は、それぞれフルート、バイオリン、チェロとの共演(共演者は音大生)であった(ちなみに、手前の娘はチェロとの共演)。
ピアノソロもいいのだが、他楽器との共演もなかなかである(創作はさぞかしタイヘンだったのだろう、だって共演楽器の音域も考えて創作しなければならないのだから)。
それぞれの創作曲は、「メロディを紡ぎ出す」という点で共通していた。
やっぱり、何と言っても、音楽の基本はメロディ(うた)なのだ(と手前などは勝手に思い込んでいる)。
20世紀のクラッシック音楽は、特に第2次大戦後に十二音音楽(ドデカフォニー)での作曲技法が広まるにつれ、袋小路へと入っていってしまったのではないだろうか(いや、逆にメロディを紡ぎ出す音楽が袋小路へと入ってしまったから十二音技法が生み出されたのだ、ということもあるのでしょうか)。
少なくとも、手前程度のトーシローの耳には、(いくつかの曲を除いて)十二音音楽やセリー音楽は馴染まない。
いかな紆余曲折があろうとも、クラッシック音楽はいずれメロディへと回帰していくような気がする。
娘たちの演奏が一通り終わって、第2部は「ヤマハ音楽教室」出身で、海外でも演奏活動を行っている先輩ピアニストによる独奏会。
さすがに、力強いタッチで、テクニックもすばらしい。
だけど…音がこちらの身体に染み込んでこないのである。
最初は、曲目(プロコフィエフのピアノソナタ)にもよるのかと思っていたが、2曲目のショパンや3曲目のラベルを聴いても同様なのである。
アンコールで再び(演奏者が大好きだという)ショパンを弾いたが、これも同様。
げに、音楽は難しい。
聴衆には、好みがあるのである。
すべての聴衆が納得する演奏なんてできはしない。
いや、それでも、(曲目の如何にかかわらず)否応無しに身体に染み込んでくる演奏はあるはずだ(と信じたい)。
会場の「しらかわホール」のことを書いておかなくてはならない。
音がよく響く、いいホールであった(浜松のアクト中ホールよりもいいと思う)。
ホール職員の応対も、感じがいい。
観客席は700席ほどだが、独奏会や室内楽をやるにはちょうどよいホールである。
コンサート終了後、富士宮に行ってもらったコーチに連絡を入れる。
本校は、予選リーグで神奈川県選抜チームと対戦(団体戦)し、神奈川県のエースペアを倒した!が、3番勝負で敗戦とのことであった。
勝った試合は、前衛が活躍してポイントが取れたそうだ。
よしよし、着々と「前衛育成」が奏功しつつあるのだ(と思いたい)。
東名名古屋インターまでの道すがら、名古屋のテレビ塔を見ながら「こんなところに東京タワーがあるの?」などとアホなことを言っている不肖の娘に呆れながら、帰途に就く。
2月3日(火)
<親バカの辞>
不肖の娘の高校合格発表の日であった。
おかげさまで、無事合格することができました。
だいたい、親が小才であるのだから、娘に過大な期待をかけるわけではない。
親(バカ)の目から見て、娘が多少なりとも人様より優れているものがあるとするなら、それは「音楽(ピアノ)」である。
というわけで、娘は私立高校の「音楽科」を選んだのである(ちなみに、「音楽科」のある高校は全国でも数少ない)。
浜松市は、ピアノ製造が日本一(全国の100%を生産)である。
最近では、「楽器のまち」から「音楽のまち」への変貌を遂げようと、1991年から「浜松国際ピアノコンクール」なども開催されるようになってきた。
「ヤマハ」や「カワイ」などメーカーは、ピアノを生産するだけでなく、市内各所に「音楽教室」を設け、幼少期からピアノに親しめる環境を提供してきた。
ご多聞に漏れず、手前の娘も4歳のときから「ヤマハ音楽教室」へと通うようになった。
途中で「もうやりたくない!」などということは聞いたことはなかった(手前が知らなかっただけなのかもしれない)ので、けっこう気に入ってやっていたのだろう(と思われる)。
いつの頃かは忘れたが、それまで練習していたアップライトピアノ(妻の実家から持ってきたもの)は音が悪いとのことで、わが家の居間にはグランドピアノが鎮座するようになった。
中学1年生の時には、三重県の合歓の郷にて行われた「第30回インターナショナル・ジュニアオリジナルコンサート」に、小6の時に作曲した自作曲で出演することができた(ピアノの先生のおかげです)。
手前はよく知らなかったのだが、そのコンサートは国際大会(「インターナショナル」ですから)で、めったに出場などできないとのことで、「これだけは聴きに行かねば」と、妻と二人で台風一過の三重県まで出かけていったこともある。
その後、そのコンサートに出演した演奏者たちが東京に集い、コンサートで演奏した曲をCDに録音した。
このCDはその後発売され、手前の自宅には娘宛に「印税」が入った旨の通知が来たこともあった(150円!でした)。
中3になり、進路を決めなくてはならない時期を迎えたのだが、そんな経緯もあり、娘なりに熟慮した結果、「音楽科」への進学を決意した、というわけである。
親としては、終始「自分が進みたい道に進めばよい」というスタンスであった。
これは、手前の親がそうであった。
基本的に、手前は自分の進路を決定する際、親にあれこれ言われた記憶がまったくない。
娘にも、自分の好きな道に邁進してもらえばそれでよいのである。
それにしても、「音楽科」はお金がかかるのである。
これで、音大に進学するなどと言われたら、たいへん困るのである(言うだろうなあ)。
それまでに、せっせと貯金をしておかねばならない(だけど金利安いしなあ)。
合格祝いということで、家族で食事に出かけることにした。
娘に、「どこへ行く?」と尋ねると、「デニーズがいい!」との返事。
何とも、親孝行な娘なのである(デニーズには行かなかったけど)。
1月31日(土)
今日は、浜松市中学校ソフトテニス1年生大会(団体戦)が行われた。
このところ、毎週のように試合である(次週は、富士宮に関東の強豪校が参集しての研修大会)。
本校は、準決勝で敗退して3位(またしても、本校に勝ったチームが優勝である)。
それにしても(負けたチームの監督が言うことじゃないとは思いますが)、手前の学校も含めて、レベルの低い大会であった(まあ1年生だからね)。
先週は、京都で和歌山県チームの1年生エースを見てきたばかりなので、よけいにその感が強い。
このままだと、小学生の時から競技経験のある選手と、中学生になってから競技を始めた選手との差はさらに広がっていくばかりであろう。
ソフトテニスでは、1993年に国際化を目指してルール改正が行われた。
改正前のルールでは、ダブルスの場合、主としてコート後方に位置して配球を行うプレーヤー(後衛)と、サービスを行わずに主としてネットプレーを行うプレーヤー(前衛)と分業して試合を行っていた。
ルール改正は、こともあろうにネットプレーを行う前衛をコートに入れない状態にしてサービスを始めるという特異なものであった。
経緯は、国際大会において他国の前衛が相手のサービスリターンをうまくディフェンスできなかったことに端を発しているらしい。
曰く、「相手のリターンを前衛のところに打たれて、簡単にポイントが決してしまうのは、競技としておもしろくない」
曰く、「前衛にもサービスが打てるようにしてほしい」
かくして、何とかソフトテニスをオリンピックの正式競技にしたい日本連盟は、それらの意見を取り入れつつ、ルールの改正を実施したというわけである(当時は「グローバル・スタンダード」が流行語だったしね)。
私見では、このルール改正によって、少なくとも中学生の競技においては、小学生の時から競技経験のある選手と中学生から競技を始める選手との差が致命的に拡大した。
何しろ、サービスも含め、前衛のやるべきプレーが頗る増えたのである。
競技経験の差が、如実に試合結果に反映されるようになっていった。
同時に、かつてのような「華」のある前衛がだんだん見られなくなっていった。
配球の上手な後衛ばかりが目立つようになり、それに翻弄されて前衛はミスを繰り返すばかりのみじめな姿を晒すようになった。
もともとソフトテニスは、明治17年に日本で発祥した競技である(当時の技術では、硬式テニスのボールが製作できず、ゴムボールを代用することでテニスを始めたことがきっかけとなって、ソフトテニス競技がスタートしたらしい)。
発祥国であるのだから、国際大会で何と言われようが、「ソフトテニスはこれでいいの!勝ちたいのならもっと練習してきなさい!」って突っぱねちゃえばよかったんだよね。
今回、再びルールが改正された(中学生は都道府県対抗戦から正式に適用の予定)。
前衛のポジションの制約がなくなったのである(サービスは打たなくてはならない)。
これは朗報である(やや遅きに失した感はありますが)。
また、以前のように「華」のある前衛が見られるようになるかもしれない。
小学生からの競技経験豊富な配球のうまい後衛にも、何とか太刀打ちできるようになるかもしれない。
中学生から競技を始める選手たちにも、かすかな光明が見えてきたと言えるのかもしれないのである。
しかし、この10年の間に姿を消してしまった(中学生では全国大会でわずかに見ることができた)「前衛」を復活させるのは、容易なことではない。
10年余も続いたプレースタイルは、かなり定着している。指導する側も、なかなかかつてのような前衛のイメージを持てなくなっているのではなかろうか。
この10年余は、まさにソフトテニス界における「失われた10年」だったのである。
それでも、中学生から競技をスタートする選手たちを勝たせるためには、とにかく前衛を育てるしかない。
それより何より、手前は「ソフトテニスは前衛が目立ってなんぼ」と思っている。
中学生であっても、試合を見ていて「そのプレーぶりに思わず拍手したくなる」ような前衛が見られるようになってほしいものだ(もちろん、自分もそんな前衛を育てたい)。
1月27日(火)
今日は、放課後に「防犯研修会」なる会が催された。
本校校区の幼稚園・小学校の先生方も参加されての研修会である。
教頭先生のお話によると、京都府宇治市の小学校への不審者侵入事件等に鑑み、 県教育委員会より県内全ての幼稚園・小・中学校教員を対象に、園・校内への不 審者侵入に備える「防犯研修会」実施の通達を受けてのことだという。
通達内容は、以下の4点である。
1.不審者侵入時の対応マニュアルの作成(学校独自のもの)
2.不審者侵入を想定した教職員の防犯研修会(訓練)の実施
3.幼児児童生徒に対し、不審者侵入を想定した防犯(避難)訓練の実施
4.幼児児童生徒が不審者に遭遇した場合の対処法(大声を出す、逃げる、近く の家に助けを求める等)の指導
とりあえず、本日は2の研修会が行われたというわけである。
研修会は、校区にある交番の警察官たちも参加され、実際に不審者が刃物を持って校内に侵入したという想定で行われた。
まず、不審者に扮した警察官が教室に侵入するところから始まった。対応したの は、本校の女性教員(手前の学年の家庭科教諭であるエマ先生)である。
不審者は、問答無用で生徒たちに斬り付けようとする。必死に生徒たちを避難さ せようと不審者に立ち向かうエマ教諭。しかし、隣の教室で授業をしていた教員 が職員室に通報し、他の先生たちが駆けつける間に、エマ教諭はあえなく不審者 の兇刃に倒れて瀕死の重傷を負う(これは不審者への対応が不適切であった結果とのこと)。
駆けつけた教員たちが奮闘して不審者を取り押さえ、交番から駆けつける警官の 到着を待つ。その時間が長い。暴れる不審者を5分以上も押さえつけておくのはタイヘンなのである。
何とか警察官が到着するまで押さえつけ、不審者は手錠をかけられて御用となる。
想定対応の2回目、今度は小学校の女性教諭が不審者に立ち向かった。
若く、剣道の心得もあるという先生である。
しかし、生徒を避難させながら果敢にも不審者に立ち向かっていったその女性教諭も、兇刃に倒れることとなる。
警察官からは、「不審者との間合いが近すぎる」との指導を受ける。「何とかしようという気持ちはわかるが、それより自分の身を守ることを第一に考えなければならない」とのことである。
想定対応の3回目、別の小学校の女性教諭が立ち向かう。
さすがに3度目ともなると、立ち向かう教員も必死である。
不審者に机を向けて間合いを取りつつ、生徒を避難させ、自らは不審者に椅子を投げ付けながら(交番の警察官もタイヘンである)、他の教員たちが駆けつける時間をかせぐ。
防戦一方の不審者が怯んだ隙に、駆けつけた教員たちが一斉に飛びかかって不審 者を取り押さえる(見ていた先生たちからは期せずして拍手!)。なかなか迫真の対応であった。
だけど、小中学校には不審者を取り押さえる男性教員がいるからまだいい。
女性ばかり5,6名の教員しかいない幼稚園はどうなるのだろう。
考えたくもない問題であるが、万が一の対応も考えておかなくてはならないだろう。
それにしても、物騒な世の中になったものである。
教師も、護身術を身につけなければならないのである。
手前などは、合気道を受講しているからまだいい(今日も、不審者を取り押さえたあと動けなくしておくには、「第二教」で十分ではないかと思っていました)。
何の心得もない先生は、どうすればいいのだろう。
というわけで、手前は全ての先生方に合気道の受講を強く勧める次第である(みなさん、合気道をやりましょう!)。
1月26日(月)
この土日は、京都四条中アキタ先生のお招きで、ソフトテニス「西京都カップ」(団体戦)に参加するため、選手・コーチらとともに京都へと遠征(それにしても、京都は寒かった!)。
もちろん、学校のチームとして県外での大会に参加するわけにはいかないので、「クラブチーム」としての参加である。
本市では、中学校の部活動は、基本的に第2・4土日の活動を行わないことになっている。
だけど、生徒の中には「家にいてもやることないから、テニスしてる方がいい」とか「テニスがもっと上手になりたい」と思っている生徒もいる。
そんな生徒のニーズに応えようということで、本校では保護者の方が代表者となって、「天竜ソフトテニスクラブ」を組織し、第2・4土日でも活動ができるようにしてくださっている。もちろん、指導にあたるのは保護者である(顧問はお手伝い)。
いずれは、地域の小学生などとも一緒に活動できる「地域総合型スポーツクラブ」に発展解消されていけばよいのであるが、なかなかそこまで組織を拡大していくことが難しい。とりあえず、それぞれの部で「クラブチーム」を組織することから始めようということなのである。
県外への遠征とは言うものの、しょせんは中学生、あまり多額の遠征費をかけるわけにはいかない。
いきおい、できるだけ安価な宿舎を探さなければならなくなる。
今回は、コーチがインターネットで安価な宿を探してくれた。素泊まり(4人1部屋)で1人2,500円(税別、サービス料込み)!なのである。
いやあ、その気になって探せば、京都でも(休日前宿泊であっても)安い宿があるんですねえ。
実際にその宿に宿泊したのだが、市内中心部にありながら閑静な場所にあり、新京極や四条河原町へも歩いて5分、コンビニがすぐ隣にあるという利便さに加え、部屋もきれい、地下大浴場の湯加減も程よいというたいへん結構なお宿だったのである。
土曜の夜は、京都府中体連ソフトテニス部専門委員長のキシ先生が、わざわざ手前たちの宿までお迎えに来てくださったので、さっそく四条河原町へと繰り出す。
とりあえず、ビアホールに入って一杯。さらに場所を変えてお好み焼き屋で一杯。テニス談義に花が咲き、何とも楽しい時間を過ごす。
日曜日は、桂中学校にて試合。4チームの予選リーグと1,2位校による順位別決勝トーナメント。
残念ながら、本校は予選3位で決勝トーナメントには進出できず。
だって、参加校のレベルが高いのである。
ソフトテニスでは、日本ソフトテニス連盟主催で、毎年春休みに「都道府県対抗全日本中学生大会」が開催されている(国体の中学生版みたいなものです)。
その大会に向け、各都道府県は選りすぐりの選手を選抜してチームを編制する。
今回の大会には、近畿ブロック各県(京都・大阪・兵庫・和歌山)から、その選抜チームが参加していたのである。
優秀な選手ばかりを集めたチームに、単独チームはなかなか勝てない。
ちなみに、本校の予選リーグには和歌山選抜チームが入っていた。和歌山県チームには、1年生ながら昨年の近畿大会個人戦で優勝し、北海道で行われた全国大会でも2回戦まで進出した選手がいる。
現時点での本校選手の実力では、とても太刀打ちできないのである。
実際対戦したのだが、やはりそのペアには1ゲームも取れずに敗戦。他の2チームも、それなりに善戦はしたものの結局敗戦(和歌山はそのまま優勝)。
帰りの時間が遅くならないよう、すごすごと尻尾を巻いて撤収する(京都まで遠征したのに情けない)。まあ、本校の選手たちにはいい経験になったことと思う。
この敗戦を肝に銘じ、捲土重来を期すまでである。
帰途、名神草津パーキングで「京風ラーメン」を食す。
高速道路のパーキングやサービスエリアの食べ物はあまり美味しいものがないのが大概であるが、この草津パーキングの「京風ラーメン」はなかなかなのである(キムチも付けてくれるし)。
というわけで、大会にお招きくださったアキタ先生、夜おつきあいくださったキシ先生、お世話になりました。もう少し強くしておくので、これに懲りずまた声をかけてくださいね。
1月20日(火)
今日は、内田ゼミ(大学院)の最終講義。
午後から神戸女学院大まで出かけていくのも、今日が最後である(さびしい)。
思えば、内田ゼミHPで「聴講生募集」の案内を知ったのがちょうど1年前。
仕事や交通費のこともあり、応募しようかどうか1週間ほど考えたあげく、直接内田先生のところに(恐る恐る)問い合わせのメールをお送りしたところ、先生からは懇切丁寧なお返事をいただき、感激して「ようし、応募するぞ!」と決意したことを思い出す。
「また、なんでわざわざ浜松から…」と思われる方もいらっしゃいますよね。
それはすべて、「厄年」から始まったのです(ちょっと長くなりますが、よろしければお読みください)。
手前の場合、四十路を過ぎて迎えた厄年(前後厄も含めて)は、(今から思えば)インケツだった(厄年ってほんとにあるんですね)。
大病を患ったとか(病気と言えば病気だったのかもしれないけど)、身内に不幸があったとか、そんなことではない。
今まで自分のしてきたことすべてがイヤになってしまったのである。
それまでは、あんまりそういうことは考えずに生きてきた。仕事も、特に部活動を中心に力を入れて取り組んできた。それなりの成果をあげてきた自負もあった。
前任校に転任した時には、部活動で「3年で全国大会に出場する」という目標を立てた。実際に、3年目には目標であった全国大会に生徒を出場させることができた。
しかし、いくら手間ひまをかけて指導しても、「しょせん小学生の時から競技してきた選手にはかなわないよね」という思いが澱のように残った。
ちょうどそのころ、勤務先の学校が荒れ始めた。生徒が校内でやりたい放題をし始めた。「何とかしなくては」とは思うものの、周囲の同僚・上司との齟齬や自らの怠慢もあり、校内の状況を変えていくことができなかった。前厄の年である。
だんだん部活動にも力が入らなくなった。仕事も、「自分の守備範囲だけを守る」ようになってしまった。
周囲から、「スズキはダメになった」という声が聞こえてくるようになった(こういう時って、弱みにつけこみ誹毀する人物は誰であるか、ということがほんとうによく分かるものです)。心配して諌言を呈してくれる先生もいた。が、意にも介さなかった。本厄の年である。
厄払いにも行った。しかし、何も変わらなかった(自分で変えようとしなかったのだから当然である)。
そんな閉息状況で迎えた年度末、以前別の学校でお世話になった校長先生が「ウチの学校へ転勤して来ないか」と声をかけてくださった。
自分でも「これからオイラはどうなってしまうんだろう」と思っていた矢先だったので、藁をも縋る思いでお願いした。希望どおり、転勤することができた。
「心機一転して勤めよう」と思ってはいたものの、2年間で身についた怠惰な生活はそうおいそれとは改まらない。御多分に漏れず、この学校の生徒も荒れていた。それでも、かつてその校長先生と一緒に勤務していた頃のことを思い出しながら、少しずつ学校がよくなっていくよう自分も努力した。後厄の年である。
後厄も終わり、自分なりに「だいぶん、まともになってきたかな」という実感が持てるようになってきた。学校も落ち着いてきた。
それまで少しずつ読書もしてはいたが、その年の夏休み、『脳を鍛える』(立花隆/新潮社)を読んだことがきっかけとなって、読書にのめり込むようになった。
それこそ、ありとあらゆる分野の本を読むようになった。読書の楽しさを改めて知った。
同時に、「これから自分が何をしていくべきか」というような方向性が、読書をとおしてわずかながらも見えてくるようになってきた。
そんな矢先、手前を現在校に誘ってくださった校長先生が病に倒れられた。尊敬し、頼りにもしていた先生がいなくなってしまったのである。暗然とした。
嘆いてばかりもいられない。学校のことは心配なさらず、治療に専念していただくためにも、「現場の自分たちがしっかりしなければ」との思いを強くした。
しかし、凡愚の悲しさ、とても校長先生のように、さまざまな出来事に的確なコメントや指示はできない。どうすればいいのだろうと思っていたときに、内田先生の著作と出会った。
朝日新聞の書評欄で紹介されていた『おじさん的思考』である。
とにかく、形容ができないほどの衝撃を受けた。
それから、手に入る限りの内田先生の著作(訳書以外)を読むにつれ、「この人こそ師と仰ぐべし」と確信するようになった。
そして、「聴講生」の御案内に接したというわけである。
後任の現校長先生は、「大学院の聴講生に行きたいのですが…」と申し出た手前に、「いいよ、しっかり勉強してこいよ」と快諾してくださった。ありがたかった。御迷惑をおかけする分、しっかり勉強してこなければ、と思った。
1年間の内田ゼミは、ほんとうに勉強になった。無理してでも参加してよかった。
今まで、「ん?どうかなあ?」と思ったりしていたことでも、「それはこういうことなんだよ、きっと」と思えるようになった。そう思えるようになることこそ、自分がもっとも自分に求めていたことだったのである。
残念なことに、お世話になった前校長先生は、1年間の闘病空しく御逝去されてしまった。
でも、今なら亡き前校長先生に「スズキもちょっとはマシになったじゃないか」と言ってもらえそうな気がする。
それもこれも、内田ゼミ、そして何より、内田先生という希有の知性と出会うことができたことのおかげである。
まさに、聴講生の御案内は、手前にとっては天恵ともいうべきものであったのである。
内田先生、そして聴講生、院生・学部生の皆様、この「ご縁」を契機に、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
1月18日(日)
サッカーゴールが転倒して中学3年生が死亡した中学校の校長先生が、縊死された。
慎んで御冥福をお祈りいたします。
1月17日(土)
浜松は、朝から雪である。
温暖な静岡県の中でも、とりわけ浜松周辺は滅多に雪が降らない。風花が舞うことはあっても、積もるなどということはほとんどない。
ところが、今日は朝から牡丹雪が静かに降り続け、辺りを真っ白にするほどに積もったのである。
ふだん見なれている風景が白一色に変わってしまうと、まるで別の風景に見えてしまうから不思議だ。
テニスコートはとても使用できないので、午後から予定していた部活動の練習はお休み(ハンカチ落としができなくて残念)。
せっかくの休みなので、午後から寺田先生の「浜名湖道場」にて行われる「特別稽古」に出かける。
幸い、朝からの雪は道路が凍結するほどには積もらず、昼前からは雨に変わったため、車の運転には支障がなかった。
「浜名湖道場」は、浜名湖西岸の湖西市にある(手前の自宅からはけっこう遠く、車で約1時間弱)。寺田先生の御自宅の敷地内に建てられている。
広さは約30畳。まだ建てられたばかりのたいへんきれいな道場である。
床の間には「合気道」と揮毫された軸が掛けられ、何とも清澄な雰囲気を醸し出している。
道場に足を一歩踏み入れただけで、「よし!しっかり稽古するぞ!」という気分にさせられるのである。
1ヶ月に1回行われる「特別稽古」は、杖と木剣、短刀取りを中心に行われる。
実は、手前、杖と木剣の稽古は初めてなのである。準備運動と呼吸を行い、さっそく杖の稽古に入る。
いやあ、杖って楽しいですね。
次は木剣。まずは、素振りを100回!寺田先生は、100回振り終えてもまったく息が乱れない。さすがである(当然ですよね)。続いて、型を教えていただく。
いやあ、木剣も楽しい!
最後は徒手の稽古。呼吸投げを教えていただく。これもなかなかおもしろい。
「特別稽古」は、3時間休みなしで行われる。途中で先生に、「休憩しないんですか?」と尋ねたら、「休憩?そんなこと言ったのはあなたが初めてですよ!」と大笑いされた(まだまだ修行が足りないのである)。
稽古終了後に、「徒手の稽古より、杖や木剣の方が楽しいですよね」などと言っていたら、「スーさんは“武器”を持ってやるのが好きなんだよ」などと稽古仲間のナカムラさんやサトウくんたちからたしなめられる。うーん、そうかもしれない。
さわやかな汗をかいて帰途に着く。
<お詫びと訂正>
1/10の日記で、三ヶ日中女子テニス部顧問の先生を、「サゲサカ先生」と御紹介いたしましたが、「サゲガミ先生」のまちがいでした。旧姓はよく存じていたのですが、たいへん失礼をいたしました。慎んでお詫びと訂正をさせていただきます。サゲガミ先生、ごめんね。まちがいを指摘してくれた県中体連ソフトテニス専門部長であるヨシダ先生、ありがとう。
1月16日(火)
13日から3日間、静岡県内は冷たい強風が吹き荒れた。
最も風の強かった13日、痛ましい事故が起きた。
静岡市に合併された旧清水市の中学校で、昼休みにサッカーをしていた中学3年生が、強風で転倒したサッカーゴールで頭部を強打し、搬送先の病院で亡くなってしまったのである。
何とも痛ましい事故である。
家族の悲嘆はいかばかりかと、お悔やみの言葉もない。
この事故に触れ、1/16日付けの地元静岡新聞新聞朝刊のコラム「大自在」には、以下のように記されていた。
学校関係者は「まさか」と衝撃を受けた。風でサッカーゴールが倒れることなど予想もしていなかったという。(…)静岡市教委は昨春、移動式体育器具の転倒を防止するよう小中学校に通知していた。件の中学校は授業や部活で運動場を使うためゴールを動かす必要があるとして転倒防止策をとっていなかった。(…)通知があったことは予想の範囲であり「まさか」とは言えないのである。大阪池田小の校内児童殺傷事件が象徴するように学校は安全な場所と言えなくなっている。それでも大半の親は学校を信頼して子供たちを送り出している。学校が校内での安全確保に万全を期すと思うからこそだ。しかし静岡市内の中学校の約半数が転倒防止の措置を講じていなかった。「まさか」と思うことがほかにもないか。やるべきは校内から「まさか」を一掃すること、これに尽きる。
蓋し、指摘のごとくである。
学校は、「校内での安全確保に万全を期」さなければならない。
「運動場が他目的に使用されるため、目的に応じてサッカーゴールも移動できるよう、固定しておきませんでした」は言い訳にはならない。
教員の職務には、子どもを「指導」することと、「管理」することとがある。これは、車の両輪のようなもので、どちらがより肝要であるということはない。
「管理」面で言えば、コラム氏の指摘のとおり、校内から「まさか」を一掃しておかなければならない。
それはそのとおりである。
でも、「これに尽きる」と言われてしまうと、「でも、指導面もあるんですけど…」と言わざるを得ない。
今回のような事故に関し、子どもたちに「指導」すべき喫緊の要は何であろう。
それは(内田先生の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』をお読みの方々には、自明のことと思われますが)、「危険を感知したらそこを避ける」という判断ができるよう、ふだんから子どもたちの身体感受性を習練させることである。
指導面は、「これに尽きる」。
でも、具体的にどう「指導」すればいいのだろう。
内田先生は、「ハンカチ落とし」を事例に挙げられている。「ハンカチ落とし」の遊びをとおして、「鬼」の心に浮かんだ「邪念」を敏感に察知できるように錬磨するというのである。昔からの遊びも、ないがしろにはできないということなのである。
というわけで、さっそく明日の女子テニス部の練習では、「ハンカチ落とし」をやってみようと思っています。
1月13日(火)
今日は、内田ゼミ(大学院)の新年初講義である。
と言っても、来週(1/20)をもって、内田ゼミも最終講義となる。1年なんて、早いものです。
何がうれしいって、内田先生のお話を拝聴できるのはもちろんのこと、聴講生のみなさんにお会いできるのが何よりの楽しみである。
とにかく、みなさんとてもフレンドリーな人たちばかりなのである。まるで10年来の知己のように思ってしまう。こういう人たちと出会えただけでも、内田ゼミに参加してよかった!としみじみ思う。
今回のゼミ発表者は、聴講生のナガミツくん。
さてどんな発表を・・と思いきや、いきなり聴講生のミツヤスさんのところに連絡が入って、「10分ほど遅刻します」とのこと(あとで聞くところによると、急いでいたナガミツくんは西宮北口からタクシーに乗ったということだが、慌てていたため降車の際にタクシーのドアに頭をしたたか打ったらしい。御愁傷さま)。
ナガミツくんの到着を待つ間、内田先生から、4月からの大学院のゼミ内容についてお聞きする。
テーマは「アメリカン・スタディーズ」。日本の政治的・文化的パートナーとしてのアメリカについて、データを整え、知識を確保し、問題点を明らかにしていくとのことである。
ああ、ぜひとも参加したい!
しかし、今年度はかなり校長先生に無理をお願いして参加させてもらった経緯があるため、とても「また来年度もお願いします」とはとても言えず、せめて宴会だけでも参加させてもらうことで我慢することになるであろう。
内田先生のお話の間に、ナガミツくんが到着して、発表に入る。テーマは、「外国人労働者」。
義務教育の現場でも、外国人の問題は簡単には看過できない問題である。
浜松市には、外国人登録者が78カ国、2万人以上いる。そのうちの6割近くがブラジル人(約1万2千人)である。
本校にも、外国籍(ブラジルほか)の生徒が数名在籍している。やはり日本語が堪能でないため、それらの生徒は、教科(国語・社会)によって「外国人指導担当」教員による抽出授業を受けることになる。
「外国人指導担当」と言っても、その先生がポルトガル語に堪能であるというわけではない。抽出授業とは言え、日本語で授業が行われるのである。
その瑕疵を補うために、「外国人指導員」が来校する。もちろん、ポルトガル語に堪能な先生である。しかし、週に2回しか来られないのである。理想を言えば、毎日午前中だけでも勤務していただければ、それなりの指導ができると思われるのだが・・。
本市においても、ブラジル人だけの私立学校が設立されてきている。実際、本校からもそちらの学校へ転校した生徒もいた。
しかし、公立学校に比べるとやはり授業料がかかるということから、誰でもブラジル人学校へ通学するというわけにはいかないようだ。
基本的に、外国籍の生徒には就学義務がない。学校に馴染めない生徒の中には、退学してしまう生徒もいる。
そうして退学した生徒の中には、非行に走ってしまう生徒もいたりする、という話も聞く。よくない傾向である。
かように、外国人生徒の問題は、義務教育の現場においても難しい局面があるのである。
ゼミ終了後、阪急西宮北口で、名越先生との対談のため大阪に向かわれる内田先生と合流する。聴講生のカワサキさん、ナガミツくん、カゲウラくんらとわいわい言いながら梅田まで楽しいひとときを過ごす。至福の時間である。
でも、そんな至福の時間も、来週をもってひと区切りとなってしまう。何ともさびしいかぎりである。
1月10日(土)
今日は、ソフトテニスの大会で、生徒たちを連れて引佐郡三ヶ日町の三ヶ日中学校へ。
三ヶ日と言えば?
そう、「みかん」です。
ですから、大会名も「オレンジカップ」!
それにしても、三ヶ日中は環境に恵まれた学校である。
学校の北側は低い丘陵、南側はグランド越しに猪鼻(いのはな)湖(浜名湖北西部にある浜名湖の支湖)が眺望できるのである。
しかも、グランドの周囲をぐるりと高さ8メートルはあると思われる棕櫚の木が取り囲んでいて、その棕櫚の木が、まるで椰子の木のように見え、対岸に見えるリゾートホテルの建物と相俟って、いかにも奥浜名湖らしい雰囲気を醸し出しているのである。
こういう恵まれた環境で勉学に励むことができる三ヶ日中の生徒たちは幸せである。
さて、試合は3ペアの点取り(2点取れば勝ち)による団体戦(中学校のソフトテニス競技は、基本的にダブルスにて行われる)。
参加校は、浜松市3校、浜北市2校、引佐郡と湖西市5校、磐田市ほか3校、愛知県2校の計15チーム。
いずれ、合併により統合される市町村による「プレ合併大会」のような大会である。
試合は、3チームずつの予選リーグを行い、その順位によって組み合わせた決勝トーナメントで行われた。
本校は、決勝で愛知県のタハラ中に敗れて準優勝。
表彰式でいただいた賞品がよかった!
「三ヶ日みかん1箱」(10キロ)なのである。
それも、三ヶ日みかんのブランドを全国に轟かした「青島」銘柄の「マル秀」みかん!
通常の店頭販売で購入すれば、10キロ5,000円は下らないおいしーいみかんなのである。
というわけで、参加した生徒・コーチらと、10キロのみかんを山分け。
一人10個以上のみかんを土産に帰途に着く。
大会は、今回が記念すべき第1回。大会を企画・運営してくれた三ヶ日中女子ソフトテニス部顧問のサゲサカ先生、来年もぜひ参加させてくださいねー。
1月9日(金)
本校には、週に3回、ALTが来校する。
「総合的な学習の時間」を利用して、1、2学期は3年生が英会話の授業を受けているのである。
どうして「総合的な学習の時間」に英会話を?
それは、「外国の文化に触れる」絶好の機会だからです(やや無理があるかな?)。
3学期は、2年生が英会話の授業を受けることになっている。
ALTの英会話の授業は、TTで行われる。ALTだけでは授業を行えないことになっているのだ。
理由はよくわからない。
TTで入る教員は、もちろん英語の教員が望ましい。
しかし、本校の英語の教員は自分が受け持つ授業だけで週22時間以上も持っている。とても、「総合」の英会話までは受け持つことができない。
そこで、比較的授業時数の少ない教科の先生がTTで入ることになる。
手前、同学年に国語の教員がもう1人いるため、授業時数は少ない。担当学年の英会話となれば、当然TTに入るのである(ちなみに、英語はちょっとしか喋れません)。
というわけで、本日初めての英会話のTT授業に入った。
2年生には初めての授業なので、今日はALTの自己紹介と簡単なゲーム。手前は、とりあえず見守るだけである。
ゲームは、音楽を流しながらALTが用意した箱を回し、音楽が止まったところで箱を持っていた生徒が中に入っていた英文(ALTへの質問)を読み、それと同じ質問をALTが生徒に返して、それに英語で答えるというものである。
授業中の生徒の発表の声は、自分の授業でも小さいのだが、それが英語となればさらに小さな声で、何を言っているのかまるで聞こえない。
授業終了後、ALTからは「生徒たちは何ゆえにかく小さき声にて答えたもうか?」と尋ねられた。大きな声で元気よく答えてくれないのが、どうやらALTにはやや不満らしい。
「まあ日本人っていうのは恥ずかしがりですから・・」と答えておく。
生徒の中には、たぶん小学生の時から英語の塾などに通っていたらしく、流暢な英語を話す生徒もいる。だけど、その生徒の英語が流暢であればあるほど、それを冷やかすバカな生徒もいる。
もちろん、自分がそうやって話せないので、羨望と嫉妬が入り交じってのことだろうと思われるが、何とも嫌な気分にさせられる。そんな冷やかしが嫌で、大きな声で喋らないようにしている生徒もいるのではないか。
そんな心ない嫌がらせを言う生徒には、手前の出番である。その生徒のところに歩み寄って、Tshut upUと囁く。
もっとTTとしてやるべきことは他にあると思うのですが・・(それとも、これがTTの本務なのでしょうか)。
そもそも、「英会話」を1(ALT):40(生徒)でやるというのが無理なんですよね。
英会話って、できるだけ少人数でやるのがより効果的ですよね。
これでは、せっかく市が予算を計上して雇用したALTも、宝の持ち腐れになってしまうような気がしてしまう。だけど、現状ではやむを得ないのかもしれない。工夫が必要だ。
それにしても、自分が中学時代にはALTなどというものとは全く無縁であった。それを思えば、今の中学生は恵まれている。
会話の声が少々小さくても、きっと英語が好きになる生徒はいると思う。
手前もTTとして、微力ながら本校の中学生が英語に親しんでもらえるよう、精一杯尽くす所存でございます。みんながんばってね。
1月7日(水)
今日は、合気道「寺田教室」の稽古初め。
先月の24日(そう、クリスマス・イブの夜も稽古していたんですよ)以来、2週間ぶりの稽古である。
寺田先生に新年の御挨拶をし、年末にお願いしておいた杖・木刀・短剣の3点セットを受け取る。
とりあえず、持ち方と振り方を教えていただく。
杖が思ったより重量感があったのには驚いた。せっかく購入したのだから、これから少しでも時間がある時には素振りをしようと決意した。
稽古が始まった。
2週間やっていないと、体捌きもいくつか忘れている。
以前からそうであるが、どうも「継ぎ足をして送り足」という体捌きがうまくできない。
「継ぎ足」を体が覚えようとしないような気がする。稽古あるのみである。
最初の技の稽古は、「逆半身片手取りからの転換」。
転換はうまくできるようになったのであるが、そこから投げへの移行がうまくいかない。
次は「後ろ片手取りから転換しての一教」。最初の一歩が出ない。
最後は「逆半身片手取りからの入り身投げ」。どうも、入り身投げは苦手である。
要するに、「入り身」がうまくできないのである。運び足に問題があるのだが、どうもダイナミックな運び足ができない。
まだ合気道を始めて半年にも満たないのであるが、合気道の技は最初の一歩の出し方が重要なポイントであるように思う。最初の一歩の足さえきちんと出せれば、投げ技は何とかなるような気がするのだが。
って、初心者がエラソーに言ってはいけませんね。
寺田先生からは、「もっと体を柔らかくして!力が入り過ぎ!」とよく注意される。自分では気がつかないうちにガチガチに力が入っているのである。修行が足りないのである。
それにしても、「寺田教室」に集う人たちは、みんなフレンドリーである。偏に寺田先生のお人柄によるところ大なのであろう。
気持ちいい汗をかいて帰宅。これでビールを飲まなければダイエットできるのだが、風呂に入った後に飲むビールは、また格別なのである。
というわけで、せっかくの合気道も、ダイエットには少しも効果がないのである。
1月6日(火)
今日から3学期が始まった。
教科の授業はなく、始業式と学級活動が行われ、午前中で生徒は下校である。
1、2学期に比べると、3学期はあっという間に過ぎてしまう。
1、2学期が4ヶ月間なのに比べ、3学期は3ヶ月しかないというだけでなく、冬休みの関係で始まりが1週間ほど遅いことと、2月が28日しかないということ、そして修了式が3月20日以前に行われるので、実質的には2ヶ月あまりしかないからである。
そういうこともあってか、学校によっては、教育課程編制の際、従来からの3学期制ではなく2学期制を採用するところも増えていると聞く。
資料によれば、静岡県の場合、2学期制を採用している学校は、小学校で9.4%、中学校では8.1%で、小中学校とも1割に満たない。
それはそうだろう。特に中学校の場合は、進路との関係がいちばんのネックになるだろうと予想されるからである。
もしも2学期制を採用するとなると、高校入試の際に合否の重要な判定資料となる調査書(内申書)の成績が、前期(たぶん9月)までのものとなってしまうであろう(3学期制の場合は2学期末までの成績)。
そうなると、例えば保健体育で「球技は得意だが水泳は苦手だ」という生徒などは、あまり成績が芳しくなくなってしまうというようなことが起こってしまう。
「そんなことは知らない、どの時期の成績であっても同じことだ」とは簡単には申せまい。
だって、生徒たちにしてみれば、本県のように調査書重視の高校入試を実施しているところでは、進学に関わる成績は、自らの進学先を決定する最重要案件だからである。
このこと一つとっても、そう簡単に2学期制を採用するわけにはいかないのである。
教師側からすれば、2学期制は成績処理が年2回で済むのであるからラクである。しかし、教師サイドの仕事の都合だけで2学期制を採用するわけにもいかないであろう。
というわけで、手前は2学期制にはどうも遅疑逡巡するところがあるのである。
だってさあ、冬休みに入る前に通信簿をもらい、その結果にお年玉の金額を重ね合わせながら一喜一憂する、という年間行事のようなもの?がなくなってしまうのは、何となくさみしいじゃないですか(自分がそうだったっていうわけじゃないですよ)。
もちろん、2学期制を導入した学校はそんなことは先刻御承知で、メリット、デメリット含め精密な議論を重ねた上に導入されたことであろう。
どなたか、2学期制を採用した学校の関係者の方で、いかようなメリットなりデメリットなりがあったか教えていただければ幸いです。
<追伸>:前回までの日記中に脱字があったのをお詫びします。国語の教員なのに。ああ恥ずかしい。
1月4日(日)
今日は、女子ソフトテニス部の練習初め。
年末の27日をもって練習納めにしてから、1週間ぶりの練習である。
といっても、例年練習初めは「初打ち会」と称し、ソフトテニス部保護者有志のみなさんが、子どもたちに交じって一緒に練習したり、豚汁やお汁粉作ってくだったりする「お楽しみ会」。
顧問は、なーんにもすることがないのである。
午後からは、生徒たちはくじ引きで即席のペアを組み、お父さんペア・お母さんペアも交じって、嬌声を上げながらの試合。参加者全員に賞品も用意されていて、何とものどかな練習初めの場景である。
顧問は、なーんにもすることがないので、内田先生お薦め本の中の1冊、『戦艦大和ノ最期』(吉田満/講談社文芸文庫)を読む。
実はこの本、中学校時代に一度読んでいるのである。もちろん、中学校の図書室にあったもの(中学生向きにカタカナはひらがなに直してあったり、内容をところどころ割愛してあるもの)を借り出して読んだのであるが、とにかく戦闘の悲惨な状況描写だけはよく覚えていた。
今あらためて読んでみると、いたるところ胸打たれる場面が多く(例えば、争って早咲きの桜を見る場面など)、読みながら思わず背筋がきりっと伸びてしまう思いであった。
また、
「死ハスデニ間近シ 遮ルモノナシ 死ニ面接セヨ 死コソ真実ニ堪ウルモノ コノ時ヲ逸シテ、己ガ半生、二十二年ノ生涯ヲ総決算スベキ折ナシ」
などというところなどを読むと、「死を目前にした極限の状況は、人間を精神的に成熟させるものなのか」とさえ思ってしまう(臼淵大尉の言動も同様)。
ありふれた言い方ですが、「名作は読むたびに新たな発見がある」ことを実感させられました。
1月1日(元旦)
2004年の元旦を迎えた。
元日は、いつも朝7時前に起床して、家族で初詣に出かけている。
行き先は、浜松市の北、引佐郡引佐町にある「井伊谷宮(いいのやぐう)」(我が家からは、車で20分程の距離)。かの建武の中興の後醍醐天皇の皇子、宗良親王を祭神として祭っている神社である。
どうしてその神社に行くかと言えば、それは何と言っても「異形の王権」(網野善彦)と言われた建武の新政を成就した後醍醐天皇にまつわる神社だからである。
なーんてウソで、以前友人から「井伊谷宮の交通安全のお守りは効果があるぞー」と教えられ、以来、「車のお守りは井伊谷宮!」と頑なに信じ、元日にそのお守りをゲットするために初詣でに出かけるようになったのである。
御神籤をひいた。
「末吉」であった。
「もえ出ずる若葉の色ぞ美しき花さき実る末も見えつつ」との歌に続き、「あまりに一足とびにとんで事をしようとするとあやまります。時を見て心ながくのぞみを達しなさい」とあった。
なかなか気に入った。
今の自分にぴったりの御神託だと思った。今年1年の自戒にしようと思い、持ち帰ることにた。
初詣でから帰ると、年賀状が来ている。
今年は(例年に比べると)配達時間が早い(8時に配達してくれたバイトのお兄ちゃん、ごくろうさま!)。
早速、出し忘れた人がいなかったかどうかチェック。
どうも、教え子たちから来る年賀状には「私たち、結婚しました!」という内容のものが多い。それはそれでめでたいことなのだが、できれば住所の変更を早めに知らせてほしいものだ。「昨年までの住所に出しちゃったよ」とぼやきつつ、パソコンに入っている今までの住所録を訂正する。
親戚にお年賀に行って帰ると、もうお昼。
昼からは、「趣味の中国語講座」のメンバーたちが我が家にやってきて新年会。
ビールを急ピッチで飲んでからは、お決まりの「実践中国語講座」(要するに麻雀を始めたということです)。
途中から参加した天竜市の消防隊員が、最後に親に「国士無双」をフリ込んでお開き。
結局、家主が負け頭。まあ、ホストが勝ってはいけませんよね。
大体、新年早々役満をアガる人って、1年間のツキを1日で消費したようなもんだよね。
きっと今年1年いいコトないよ(負け惜しみ)。
穏やかな元旦であった。
「今日は空がきれい!」と異口同音に言っていた不肖の妻と娘の言葉が、妙に印象に残った。