悪いのは沖縄県民?

 そろそろまとめましょう。今回の西田議員の講演および関連する会見での事件は、知識でも理解力でも判断力も大きく劣る人が、沖縄県民の幸せや憲法「改正」よりも、北陸新幹線問題で危なくなったこの夏の再選のために、軽い気持ちで過激なことを言ってしまい、弁明会見でさらに墓穴を掘ったというものです。
 ここまで、二重三重の無茶をしたのですから、擁護する声はほとんど上がってきません。例外として参政党の神谷宗幣代表の発言がありますが、よく読んでみると西田議員の歴史観に賛意を示しているだけで、講演の内容を擁護しているわけではありません。「言い間違いとか表現の違いはあったにしても」などと、問題の存在を認めています。祇園のドンキホーテと一緒にされては堪らないからでしょう。けれども、そうでありながら、炎上の残り火に燃料を投下して一騒動起こそうという、せこい魂胆が見え隠れしています。
 失言を批判する野党の側にも控えめな印象があります。もとの講演は、つたない観察を元に過激な言葉で沖縄を攻撃している訳ですから、批判は「デタラメはやめろ」としか言えないのです。歴史観うんぬんまで議論が続きません。けれども、心配は御無用です。2回目の会見で、ご本人が炎上の燃料を追加したからです。

「私はあの自分のことを言ってることは事実という前提で今も喋ってますけど、問題は、事実だけじゃないんですよ。事実じゃなくて、県民の心県民の感情をね、そのとき私は感じて、わかってなかったということに気がついた」
「そのTPOが、私はわきまえて喋ったつもりだったんだけれども、沖縄県民の心の傷がね。要するに、ひめゆりの塔という言葉がね、もたらす彼らの心の何か傷つく、そういう言葉なんですよね」
「トラウマのようにいろんな沖縄の方々がね、いろんな思いや苦しみが思い出されてきてしまう」
【自民・西田参院議員「ひめゆり発言」訂正会見(下);琉球新報】
https://ryukyushimpo.jp/news/politics/entry-4218365.html
 「自分の言ったことは正しかったが、こころに傷を負った県民の前で話すべきではなかった」というのは、謝罪・撤回というより、正当化・侮辱の追加というのが正確でしょう。「要するに、ひめゆりの塔という言葉がね、もたらす彼らの心の何か傷つく」......ついに県民全体をノイローゼ扱いですが。今気がつきましたが、このひとの場合、「要するに」と言った直後に失言のホームランが良く飛び出すようですね。確信歩きというやつですか。
 ひめゆりの塔周辺には、「ひめゆりそば」とか「ひめゆりステーキ」などという、かなり不謹慎なネーミングの店が堂々と営業しているぐらいですから、別に「ひめゆり」という言葉がタブーだとか、トラウマの引き金を引くとかの話ではありません。ありもしない展示を妄想して沖縄を誹謗中傷したから、幅広い層の怒りを買ったのです。

 ハットトリックの夏

 皮肉なことに、2回目の会見を境に、西田批判は急速に沈静化しました。飽きられたということもありますが、批判を理解する能力のない人を批判してもしかたないからでしょう。これだけ説明されても自分の誤解に気がつかず、さらに「ひまわりの塔」などと「華」のある言い間違いをしているのですから、議論は「政治家としての資質」から「責任能力」のような話に移ってきているように思います。
【自民・西田昌司議員が"ひめゆりの塔"発言を撤回 謝罪の場で「ひまわりの塔は‥」と言い間違う 沖縄への歴史認識"誤っていない"】https://www.qab.co.jp/news/20250512250117.html


 夏の参議院選挙前に、ただでさえ旗色の悪い政権与党は頭の痛いところです。特に公明党は迂闊にこの人を推薦すると、京都ばかりか全国津々浦々の支持者を失うことになりかねません。比例代表など目も当てられないことになりそうです。できれば、西田先生には議員辞職していただき、出直し禊ぎ選挙として無所属ででも登場してほしいものですね。
 逆に野党は、これほど高性能の炎上発生装置を失うのは、もったいないと思うのでしょう。相手がバイデン氏からハリス氏に交代したことで、トランプ氏がかなり苦戦したのと同じ構図は避けたいところです。だから、議員辞職やら引退勧告と言った「正解」再編に向けた話はしたがりません。
 もともと親から引き継いだ強固な地盤があり、前回2019年には安倍内閣のもと圧勝したとは言え、今回は危機感を感じた本人が保守票固めを狙って、さらに別の過激発言をしてしまったら、北陸新幹線、ひめゆりの塔に続く、ハットトリックです。ただしオウンゴールのですが。
 個人的には、夏の参議院選挙直前の北陸新幹線の山岳トンネルをめぐるトンデモ発言は避けて欲しいところです。緊急取材に向かう丹波山地の真夏の暑さは、しばしば糸満市をも凌ぐからです。

広島長崎あるいは各都市空襲被害の資料の展示では、バランスを取るためにという発想で、被害と同時に日本軍による加害についても触れているところが良くあります。西田議員が「ひめゆりの塔」の近く?で20年前に見た年表も、このタイプだったのではないでしょうか。
 私は、この手の解説は極力控えるべきだと思います。たとえば、ひめゆりの場合、満州事変や日中戦争の話を持ち出すのは良くありません。理由は、盧溝橋が沖縄島にあるわけではないからです。また、柳条湖事件の首謀者にひめゆり学徒隊員はいないからです。つまり関係ないのです。第二次大戦という大きな構図の中で、関連の薄い2つの話を敢えて並べてしまうと、あたかも直接関連するように見えかねません。
 旧軍の大陸侵攻と沖縄戦。確かに、歴史の流れの中では因果関係があり、その解釈は歴史観というものでしょうが、「ひめゆりの塔」の横で論争的な問題提起をするよりは、単純に「80年前に沖縄本島南部でどんなことがあったのか」に展示を絞る方が、資料館の趣旨に合っているのではないでしょうか。
 本日、現地を見てきましたが実際そうなっておりました。個人的には印象に残ったのは、日本軍の無責任さと米軍の残虐性、これはとても東京裁判史観とは呼べないと思います。あきらかな非戦闘員を大量に殺したわけですから、むしろアメリカとしては触れられたくない過去です。
 西田議員のように内容を完全に誤解してしまう方がおられたことを考えると、「被害と加害のバランスを取る」のが展示として適切であるのかどうか疑問の残るところです。展示する側が、批判を恐れて安易にバランス感覚を強調することで、「ひめゆりも酷いけど、南京も酷いから、どっちもどっちだよな」というようなニュアンスだと誤解されるとしたら、極めて残念なことだと思います。西田議員風に言えば、「亡くなった方々、本当に救われませんよ」ということになります。
 もちろん、一方的な誤解に基づく評価で、「ひどい」「歴史を書き換え」などと言い切りながら、論破されても事実関係を訂正しないというのが許されるわけではありません。ここまで酷いのはもう許してあげよう、という少数意見もありますが......。

 投降・玉砕の浪花節

 一度、先入観できてしまうと、見るもの聞くもの全て東京裁判史観に見えてしまうのでしょう。
「確かにアメリカ兵は、はとても優しい人たちと表現したコメントや、15年に訪れた方にはで すね、2015年に訪れたという方は、沖縄平和祈念館を見れば日本軍が悪い鬼のように思える」
【自民・西田参院議員「ひめゆり発言」訂正会見(上);琉球新報】
https://ryukyushimpo.jp/news/politics/entry-4218278.html
 これは沖縄住民から見れば当然のことです。「アメリカ兵」と住民が接する写真は、戦いの終わったあとのものですから「優し」くて当然です。一方、「日本軍」の絵はというと、戦闘中しかも玉砕直前という状況です。「鬼のよう」であるのも仕方ないことです。
 ただし、こうした展示が行われているのは、沖縄戦の悲劇の原因となった「米兵は鬼のような連中で、捕まれば男は八つ裂きにされ女は辱めを受けるから、自決するのがましである」という風説(日本軍部自体が誤解していたのか住民の投降を防止するためにながしたウソなのかは別として)が、少なくとも結果的には間違っていたということを説明するためでしょう。日本軍は、必ずしも沖縄住民を守らなかったというのは本当のこと、沖縄戦の本質なのです。
 ちなみに、戦争の目的から考えると玉砕というのは、米軍に利することになります。たとえば、女性の場合など、どうせ手榴弾を爆発させるなら、辱めを受けかけてからの方が効果的でしょう。必ず隙が出来ますから。
 抗戦・降伏そして玉砕まで、旧日本軍には戦略が欠けていて、そのことが住民の犠牲をいたずらに増やしたのではないでしょうか。米軍など、捕虜になるときのマニュアルがあるそうです。
 先日、自衛隊の幹部候補生向けの教育資料が、大問題になっています。何だか旧日本軍の将兵やら沖縄住民の犠牲を美化した浪花節資料になっているようですが、本気で、次の戦争に勝って国民を守るためなら、こういう点は米軍に学んだ方が良いのでは無いでしょうか。

 鬼の日本軍が優しい米兵をもたらした

 ただし、旧日本軍が戦ったことが住民にとって全く無意味だったわけでは無いと思います。沖縄に限らず占領軍がかなり紳士的だったというのは、敗戦色が濃厚になっても日本人が軍民一体で、しつこい抵抗や壮絶な玉砕を繰り返したことも大きな影響があったと、私は思います。

 投降後の兵士や住民に、不用意に苦痛や侮辱を与えて玉砕する気に戻られては、占領する側は堪らないからです。この解釈の是非はともかく、米兵の優しい姿の写真を「切り取って」、「東京裁判史観に基づくむちゃくちゃな地上戦の解釈だ」などと単純に言われても、そこまでレベルの低い議論には反論のしようがありません。しかも、「いつどこで見た、何の写真で、それは現在はどう展示されているのか」というような具体的な話は一切なしで、いきなり「むちゃくちゃ」と言われても、無視するか笑うしかないじゃないですか。 

「要するに、日本軍がどんどん入ってきてひめゆり隊が死ぬことになっちゃった。そしてアメリカが入ってきて沖縄は解放された」......何度読んでも、すごい発言ですね。破壊力抜群です。それにしても西田議員は何を間違えたのでしょう。
 沖縄が日本の領土になったのは、旧日本軍が編成されるよりもはるか昔のことですから、「侵略」することなどできないはずです。
 また、ひめゆり学徒隊の戦死者の半分以上は、米軍に殺された事がはっきりしています。残りは原因不明・行方不明で、いわゆる集団自決者も少数ながらこれに含まれている感じです。なんでそれを「解放」と記念館が書くのでしょうか。

 大きな年表

 ここから先は、私の推測です。西田議員の2回目の会見で、「年表」という言葉が繰り返し出てきました。たとえば、

「完全に大きな年表でずっと書いてあって、そこにね、まず沖縄戦が始まった日本の侵略によってはじまった、そうですね、終わりがアメリカの犯行とか侵攻とかいう言葉になっていた」
【18年後に受けた啓示...沖縄戦「展示変更問題」とは何だったのか<沖縄発> 琉球新報】
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1312546.html

 わかりました。どうやらこの「大きな年表」は、どこにあったのかは知りませんが、アジア・太平洋戦争全体を指すものだったのではないでしょうか。つまり、年表の範囲は沖縄戦だけではなかったのです。大戦の中での沖縄戦の位置づけを説明する年表だったのでしょう。
 「侵略」というネガティブな言葉が使われていることと、日本軍が戦闘を始めたことにどの程度の正当性を認めるかを別にすれば、アジア太平洋戦争は日本軍の侵攻で始まり米軍の反攻で終わったというのは、史観が問題になるような話ではなく常識論です。
 ただし、それを沖縄戦の年表だと勘違いした西田先生が、日本軍の沖縄侵攻と米軍による沖縄解放を妄想し、「歴史の書き換え」だと叫び、「亡くなった方々、本当に救われませんよ」と反発を感じたのではないでしょうか。もしそうなら、歴史修正主義者などと立派な肩書きよりは、歴史混乱主義者、京都のドンキホーテ、粗忽者のボンボン議員ぐらいが似合うと思います。「歴史の書き損じ」「亡くなった方々、本当に嘲笑しておられますよ」

軽々しい言動の裏には無知以上に無関心があるとしか思えません。だったら沖縄にかかわらなければ良さそうなものですが。

「終戦直前に沖縄がアメリカに占領されるという情報が入ってきて、これを何とかしなきゃいかんというので、日本軍が沖縄を守るために入ってきたけれども、結果的に戦争に島民の方々も巻き込まれて多くの犠牲を出した」
【5/7の1回目の記者会見:自民・西田昌司議員「切り取られ誤解を生み非常に遺憾だ」 ひめゆりの塔の関連発言について真意を説明;FNNプライム】https://ryukyushimpo.jp/newspaper/entry-4213429.html
 那覇での講演内容を批判された後の反論会見でさえ、このレベルでした。全く理論武装をしていない非武装年寄です。もし万一これが本当の戦況なら、旧日本軍はアホの集まりだったという事になります。終戦直前まで、米軍の沖縄侵攻を予測できず「何とかしなきゃいかん」と慌てて、「どんどん入ってき(た)」というのですから。
 もちろん実際は違います。旧日本軍の増強は沖縄戦の前年(1944年)に終わっています。サイパンや硫黄島を占領されれば、「本土」上陸のために米軍がここにやってくるのは両軍にとって当然のことで、直前に情報が入ってくるような話ではありません。
 ちなみに、ひめゆり学徒隊が活動をはじめたのは、1945年の3月末のことですから、「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり(学徒)隊が死ぬことになっちゃった」なんて、時期的にもあり得ない話です。

 要衝の悲劇

 沖縄が大陸と太平洋の間にある要衝であることは、ペリーの時代から知られていました。今でも膨大な兵力の米軍が駐留しているのは、別に「沖縄が中国に占領されるという情報が入ってきて、これを何とかしなきゃいかんというので、米国軍が沖縄を守るためにどんどん入ってきた」からではありません。
 戦略の要にあるということは、今後も基地が残るということと、戦争になれば激戦地になるということを意味します。いつ何時、また住民の中から学徒隊にされてしまう若者が出るかわからない沖縄にとって、ひめゆりの塔は単なる歴史上の遺物ではないのです。
 沖縄本島で発行されている日刊二紙「沖縄タイムス」「琉球新報」が、いずれも極めて反戦色が強く、太平洋戦争で米軍に素通りされたため、地上戦どころか空襲の経験も少ない石垣島・宮古島が本拠の「八重山新報」が、かなりお気楽な「平和ぼけタカ派」であるのと対照的なのは当然のことなのです。況してや、空襲すらあまりなかった我々京都の人間が、沖縄の歴史教育について発言するときは、慎重であるべきでしょう。
【「防衛費GDP比2%」は"平和ぼけタカ派"の空公約;田岡俊次】
https://diamond.jp/articles/-/287137

 沖縄軽視が見え隠れ

「かつて私もなんかひめゆりの塔ですかね。なんか何十年か前ですね、まだ国会議員になる前でしたけれども、お参りに行ったことあるんですけれども。あそこ、今どうか知りませんけどひどいですね」 
【5/3の講演内容;"ひめゆり"は「歴史の書き換え」 自民党・西田昌司参院議員発言の全容と真意は 独自映像;琉球放送】 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rbc/1898522?page=2
 「なんかひめゆりの塔ですかね」......西田議員は塔そのものを、「なんか」最初から揶揄しているん「ですかね」。「あそこ、今どうか知りませんけどひどいですね」も二重三重の意味で侮辱です。まず「あそこ」は無いでしょう......ぼったくりの飲み屋じゃあるまいし。「今はどうか知りませんけど」......なら知ってから発言しましょう。
 案の定、展示内容の理解は完全に間違っていました。それを指摘されても撤回どころか補足もせず、メディアの「切り取り」だと開く直る。「切り取り」だと言うのなら、本来の自分の発言とメディアの切り取った部分とを並べてみせるべきでしょう。
そして、いよいよ身内からまで批判が出てくると、沖縄在住の「知人」とやらの曖昧な談話を並べて、責任をぼやかします。北陸新幹線の問題でも正体不明の「専門家」とやらを登場させ、「琵琶湖にトンネルを掘るようなものだから、京都の地下水にはほとんど影響がない」などという珍論を展開していました。

【北陸新幹線延伸"京都府民に寄り添う姿勢"からルート案を選定せず 「財源は国が責任をもって手当てを」 西田・与党整備委員長インタビュー全文<前編>;福井テレビ;「専門家」で検索すると当該カ所が出てきます】
https://www.fukui-tv.co.jp/?fukui_news=%E3%80%90%E5%8D%98%E7%8B%AC%E3%80%91%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A%E5%BB%B6%E4%BC%B8%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E6%B0%91%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%82%8A%E6%B7%BB%E3%81%86%E5%A7%BF
「さっき言った沖縄の県の平和記念資料館も、実際にこれについては沖縄のその●●、子供だった方がですよ、修学旅行なんか見られたんですかね。そこで日本兵が島民に向かって、銃を持ってるというね、そういう表示があったとも明確にそれを聞いてますからね、それは間違いなくあったんでしょう。だからしかしそれは今ないと。それもだから展示が変わったんですね」......その展示は今でも変わっていません。写真入りの直近の記事が出ています。
【18年後に受けた啓示...沖縄戦「展示変更問題」とは何だったのか<沖縄発> 琉球新報】
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1312546.html
 設置直後から論争になっている展示ですから、撤去や改変をされたら大問題になるはずです。そうした報道もありませんから、今もそのまま残っていると考えられます。西田議員は「ひどい」と批判する側の人です。ろくに調べもせずに、今でもしっかりあるのに、正体不明の知人に「今はない」と言われて納得できるのでしょうか。この知人は自民党の人ではないとのことですが、沖縄自民党は事実確認の手助けはしてくれなかったのでしょうか。私は、この知人の実在自体あやしいと思っています。
 それにそもそも、この展示内容は沖縄戦という事以外には「ひめゆり学徒隊」とは、全く関係がありません。どちらかと言うと、もう一つの炎上ネタである「地上戦の解釈」関連です。なんでこれが「ひめゆりの塔」の話と混同されるのでしょう。

 熱いですねぇ。実は私、いま那覇にいます。別件で沖縄にやってきたのですが、西田議員のトンデモ発言の記事をたまたま書いていたので、取材方々ひめゆりの塔を再訪することにしました。那覇からバスで往復3時間、かなりハードでした。
 西田昌司参議院議員。不思議なご縁です。京都選挙区の方ですから、ポスターは良くお見かけしました。典型的な二世議員ですが、お姿は「上品な上岡龍太郎」、藤本義一さんにも似ておられます。正直格好ええなと思っていました。北陸新幹線小浜ルートの最強推進者で、根拠不明の議論を延々としても、京都では誰もいぶかしがりません。「ぼんぼんはしゃあないなあ」という訳です。
 けれども、沖縄ではそうは行きませんでした。

 大事な議論を暴論にしてしまう

 実は西田議員の今回の講演には大切な論点が含まれていたと思います。「ひめゆりの塔に象徴される歴史観は完全に適切なのか」というものです。一言で言えば、この小さな塔が象徴する学徒隊の「理不尽」や「被害性」に注目するのか、「愛国心」や「貢献」に注目するのかで、沖縄戦の様相はがらっと変わってしまうのです。
 米軍による「解放」という西田議員の(むちゃくちゃな)指摘の裏にも、「戦場の住民にとって重要なのは、勝敗ではなく停戦なのか」というパラドックスがあります。言い換えれば、「国家の正義」か「国民の生命」かの話。これが厄介なのは、どちらかに片寄ると、両方を失うということです。
 正義など最初から興味なく、国民こぞって「命あっての物種」という国は、武力侵略に極端に弱くなります。そういう国だとプーチンに思われていたウクライナは、いきなり侵攻されました。実際は全く違いましたが。
 一方、80年前に我が国が最後まで「正義」に拘り、ポツダム宣言を拒否して本土決戦・一億玉砕となっていたら、その時点で正義も終わっていました。ですから、どう言い訳しても負けた以上は、いわゆる東京裁判史観とも折り合いを付けながら、国としての正義を再構築していくよりないでしょう。
 いきなり、東京裁判史観全面廃棄のチャブ台返しをすると、世界に向かってウソをついたことになり信用を失います。正義と現実、バランスを取っていくよりありません。
 「国家の正義」には困ったことがもうひとつあります。正義に守られて生き残る者と正義の犠牲になる者が多くの場合に一致しないことです。たとえば、「戦いの起こる地域」と「その戦いで守られる地域」が一致しないことです。地政学的に考えれば、ある戦争の激戦地は次の戦争でも激戦地になる可能性が高いわけですから、遠く離れた首都住民に、「共に戦おう」と言われても、かつての戦場の住人は簡単には「わかりました」とは言えません。戦略の要衝に住むことの理不尽さと悲しみ......それを象徴するのが「ひめゆり」なのです。

 炎上狙いの計算違い

 今回、西田議員はわざわざ那覇までやってきて沖縄戦の話をするのに、題材は「20年以上前」の記憶と「地上戦の解釈」だけです。それも、強烈な印象があったというのではなく、「要するに日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり(学徒)隊が死ぬことになっちゃったと」などとうろ覚えの代物です。茶髪の中学生の感想文でも、もう少しまともな内容を、もう少しましな日本語で書きそうなものです。
 「要するに」沖縄戦のことなど興味も熱意も、西田議員にはないのです。憲法改正を叫び、戦後教育を誹ることで、夏の選挙で票を集めたいだけでしょう。遠い沖縄で少し乱暴なことを言って、京都の保守派の注目を集めたかったとういうことです。
 だから、「今はどうか知りませんけど」 とか「そういう文脈で書いているじゃないですか」などと、言い逃れの布石を打ちながら、抽象的な論拠で罵詈雑言「ひどい」「歴史を書き換えられる」を並べて、適度に顰蹙を買うことを計算をしていたのでしょう。
 これはデジャブ感のある手法です。思い出しました。北陸新幹線で京都の地下を掘り返しても、「地下水には全く影響が出ない」というのと同じ論法です。根拠が無くても勢いのある話には支持者が喝采してくれるという訳です。
 けれども、今回はそうは行きませんでした。地質や地下水の話なら、思いつきでいい加減な事をおっしゃっても、その場でウソを見抜ける人はあまりいませんが、那覇で沖縄戦の話となると、当事者や当事者の話を聞いた人が山ほど残っておられて、粗雑な議論が見逃されなかったわけです。

 観光気分で「ひめゆり参り」

 「(ひめゆりの塔に)お参りに行った」とはすごい表現です墓地や神社仏閣じゃあるまいし......「お参り」ですか。おみくじは引きましたか。何か御利益がありましたか......嫌味を言いたくなるぐらいの不適切な表現です。「お参り」と「お祈り」は全く別のもので、どちらが相応しい場所か言うまでも無いでしょう。

【5/3の講演内容;"ひめゆり"は「歴史の書き換え」 自民党・西田昌司参院議員発言の全容と真意は 独自映像;琉球放送】 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rbc/1898522?page=2

 それが、四日後の会見では、「国会議員になる前の20年以上前に視察に行ったことがある」ですか。どうやら、お参りも視察もちゃんとはしなかったようですね。ただの物見遊山の観光客でしたか。
【5/7の1回目の記者会見;自民 西田参院議員"ひめゆりの塔 歴史書き換え発言"撤回せず;NHK】
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250507/k10014798941000.html
 仮に京都市内での講演なら、「ネタ」のひとつとしてこんな失言をしても、せいぜい、「即時に議員辞職して夏の選挙で禊ぎ」ぐらいで済みそうです。けれども、このとっておきの「大ネタ」をわざわざ那覇に持ち込んで炸裂させてしまいました。京都府および沖縄県の自民党政治家にとっては、突然爆発した大量破壊兵器みたいなものでしょう。

私の布教対策

 平均的な日本人と比べて、自分は宗教というものに寛容な方だと思っています。元科学者である一方、ローマカトリックの信者ということになっていて、「誰しも、今の科学ではわからない問題や本質的に科学で扱えない問題に直面したときには、宗教的な思考にすがるものだ」などと思っています。
 学生時代、ある教授が「自分は大事な事を決めるのに感情に流されないようにしている」とおっしゃったので、「そう考えておられる理由は感情ですか」と聞き返して嫌われたことがあります。
 理性のみでは処理できないことや、理性に飽き飽きしたときなど、人は感情で動きます。その感情を体系化して共有するものの一つが、宗教なのだではないでしょうか。
 と、いつになく高尚な書き出しですが、それゆえに私には、理性的にも感情的にも忌み嫌っているものがあります。布教活動です。たいていの宗教は信者を増やすための仕組みがあります。というより、それを持たない宗教は、短期間で歴史の闇に消えて行ったのでしょう。
 けれども、不特定多数、たいていの場合、その場であったばかりの他人に、いきなり自らの信仰について熱く語る、新興宗教風の『布教』には違和感を覚えます。第一にみっともないから、第二にインチキ臭いから、第三に面倒臭いからです。今よりさらに血の気の多かった学生時代には、随分とトラブルがおこりました。

 君、人生について考えた事ある?

 花も恥じらう新入生当時、露骨にキャンパスで布教していた宗教(なのかな)団体に、歎異抄研究会というのがありました。彼らは出会った人にいきなり「君、人生について考えたことある?」と話しかけるのです。たいていの相手は「いいです」とか「急ぎますから」とか言って去っていきます。
 しかし逃げるということは、宗教というものに対するリスペクトの少ないやり方です。私は、どんなに忙しくても「やかましわい。黙れ。殺すぞ」と応答することだけは心がけていました。時間のあるときや機嫌のよいときは、「はい。人生について熟慮した結果、あなたの人生を今すぐ終わらせることにしました」と静かに言い渡し、ニヤニヤしながら胸ぐらに手を伸ばしました。「宣教師」たちは飛んで逃げていきます。
 もっと暇で暇で困っているときは、「今考えていました。でも、君が声をかけたせいで、ひらめいた人生の真理を忘れてしまった。それがあれば何億という人が救われるはずだったのに、どうしてくれます。全人類にあやまりなさい」などと、ネチネチ絡みました。
 見ず知らずの相手の人生にいきなり介入しようという、非常識な試みをしてきたのですから、どんな対応をされても文句は言えないでしょう。

 必殺、邪宗拳

 戦後の邪教大賞確実な統一教会もいました。けれども、組織的に私の悪評を把握していたのか、滅多に相手にしに来ませんでした。
 たまに近寄ってくる信者は、なぜか私がカトリックと知っていることが多く、「きみの教会は罪深い歴史を持っている」などとお節介なことを言いだします。「おお、そのとおりや。だいたい原罪があるから人間やというのがわしらの教えや。魔女狩りの時には無実の娘を何万人も火あぶり......あれは熱いぞ。十字軍は地中海沿岸の街を、次々と焼き払った。どや、うらやましいやろ。お前らも、もっと血なまぐさい歴史を積み上げてから来い。いっぱしの邪宗と認めてやろう。邪宗門はいいぞ、北原白秋も歌っている。邪宗ぅ~すぅ~るなら、こういう具合にしやしゃんせ」人だかりが出来ました。相方にされた宣教師君は困った顔をしていました。

 謡曲「鶴甲」

 ワークショップ型の布教といのもあります。一番多いのは、「平和のために鶴を折って下さい」というやつです。いろんな宗教がやっていたようです。折った鶴を受け取りながら募金を求めたり、集会へさそったりするのですから、あまり気持ちのよいものではありません。

 30年以上前の神戸大の友人と正門前で待ち合わせしていたときに、声がけされました。銀縁メガネ、女子校の生徒会長あがりみたいな、小学校時代から苦手としていたタイプに迫られ、思わず引き受けてしまいました。
 20年ぶりぐらいの、しかも立ったままでの折り紙です。しかも恐ろしい事に、わたしはそれまで鶴を完成させたことがなかったのです。
 悪戦苦闘、時には全部ほどいて一枚の紙にもどして5分経過。怪訝な表情が見えました。私がもだえ苦しんでいる間、他の通行人は寄りつきませんから、鶴は一羽も増えません。10分経過、舌打ちが聞こえてきました。「ほんとに日本人なの」......みたいな独白も。15分経過、ついに「もういいです」と一言。私の手から白い固まりを取りあげ、丸めて公衆便所前のゴミ箱に投げ込み、女子宣教師は去っていきました。
 普通は「お持ち帰りになって、ゆっくり仕上げてください」とか、取りあげるにしろ「あとはこちらにお任せ下さい」とでも言うものでしょう。私は友人の待つ教室へトボトボ歩いて行きました。
 その日から一週間、数学科幾何学専攻で折り紙が趣味という友人の下宿を訪ね、特訓を受けました。翌週、私はあの正門に向かいました。鞄には赤い色紙を一枚、友人から借りた「解析幾何学入門」に挟んで準備しています。あの宣教師は私にはもう紙をくれないでしょうから。
 先週と同じ曜日、同じ時間帯、彼女は現れました。「先日は大変失礼しました。練習してきましたので」と言って作業開始です。今回は長々と「営業妨害」される恐れは無いにしろ、私が何のために現れたのか、よほど不安だったのでしょう。鶴を糸に通すための千枚通しを鞄から出して握りしめています。
 異教徒の襲撃には差し違える覚悟。それがかなわず辱めを受けたら自害する気だったのかどうかしりませんが、こちらを睨みつけています。どうやらただ者ではなさそうです。私はというと、特訓の成果の「流ちょうな」手さばきを披露し続けました。
 出来上がりました。私は宣教師のもとに歩み寄ると、「いくら鶴を集めて平和を祈ってもあなたには無意味です。これは心ばかり餞です」とだけ言い、あっけにとられている彼女の頭の上に、折ったばかりの赤い小さなカブトのせると、振り返りもせず去ろうとしました。
 そのときです。足下に集められた色とりどりの鶴が一斉に羽ばたき、糸を振り切って大空に向かいました。後には大きな丹頂鶴が続きます。頭には赤い飾り羽根となったカブトが揺れていました。
 その昔、京の都から福原へと落ち延びる平家一門のうち、清盛の三女で幼名を鶴女という数え十八の姫君が、源義経の三男義男の軍に追われ、この地で自ら命を絶ちました。その死顔のあまりの美しさに、義男は被っていた白い甲を供えたとの言い伝えがあります。赤い旗印の平家者にとって、白い甲の傍らでは浮かばれるはずもありません。
 千年の時を経て取り戻した赤い甲を戴き、鶴姫はようやく往生できたのでしょう。爾来、あたりの山々は『鶴甲』と呼ばれ......ごめんなさい。創作に走って、フェイク歌枕まで作ってしまいました。平鶴女や源義男は史実にも平家物語に出てきません。「つるじょ」は上方落語『延陽伯』から、「よしお」は亡き愛犬の名前を流用しました。ちなみに、「前シテ」がトボトボと引き上げるあたりまでは、場所が渋谷であること以外、実話です。

 施術のパラドックス

 一時流行したのが「手かざし」です。相手の額に手のひらをかざして、パワーを送ったり、邪気を吸い取ったりするということなのですが......

 悪友と二人で歩いていると、「あなたのために3分間祈らせて下さい。宇宙のパワーを送信します」と友人が声がけされました。瞬間、アイコンタクトを送ると「やるぞ」返事。「施術」が始まりました。30秒後、「ウッ、ウッ」と短いうめき声が聞こえ、悪友はノドをかきむしりはじめました。「大丈夫か」と背中を叩いた瞬間、「オー」と叫びながらしゃがみ込んでしまいました。
 「オイ、お前。手かざし何年目なんや」と尋ねると、青白き術者は「い、い、一週間ほとです」と震える声で答えました。「連絡先教えてくれ。訴えるから。このままこいつが死んだら、実刑は覚悟しとけよ」と詰め寄っていると。悪友はフラフラと立ち上がりました。「とにかく病院へ行こう」と肩を貸して歩き始めると。「それじゃ僕はこれで」と、術者は一目散で逃げていきました。横で悪友は息も絶えだえの......大笑いです。
 それにしても、その宗教団体はもし訴えられたら、どう答弁するのでしょうか。仮に、手かざしにそれなりの有効性があるなら、医師でもない者が不特定多数に施術をしていることの責任を問われるでしょう。だからといって、「手かざしなど医学的にはなんの意味もありません。そんなの常識でしょ」と一生懸命、主張するのでしょうか。
 安易な布教すべてに言える事ですが、よく知りもしない他人に、軽い気持ちでいきなり深く関与しようとするのは、逆に自分たちの教えを軽んじているとしか思えません。

 タブラ・ラサなど、なんぼのもんじゃい

 これも布教の一種なのでしょうが、20年周期ぐらいで流行する自己開発セミナーというのも、同じ質のうさん臭さがあります。キーワードは「本当の自分探し」。長屋の大家さんは「修行の代替物」とお考えのようです。大部分は「修行の劣化コピー」と言った方が正確だと思います。

「アジアでは修業で、西欧では『本当の自分探し』で自己陶冶する」,AERA.com,2023/09/27/ 07:00,https://dot.asahi.com/articles/-/202304?page=1
 私が『本当の自分』という考え方を嫌っている理由は、2つあります。ひとつは、今の自分自身を過大評価も過小評価もしたくないということです。
 たとえば、私がこの文章を書くことが出来るのは、漢字仮名交じり文の知識とパソコンの電源を入れる技能を持っているからで、修行とまで言うのはおこがましいですが、幼少時よりいろいろなことを経験しながら身につけてきたものです。そして何より、親や先生方、先輩、友人、そして家族、時には教え子たちからの膨大な「おかげ」の上に乗っかっています。
 これは全ての人間(もしかしたら脳を持った動物全て)について言えることです。それなの、見ず知らずの人間に、『本当の自分』より『今の自分』は劣るのだと評価して欲しくないというのが第一の理由です。
 もうひとつの理由は、もともと『本当の自分』など、そんなに素晴らしいものなのでしょうか。タブラ・ラサ(生まれたときの白紙状態)と言えば聞こえは良いのですが、何も知らない何もできない人間を、そこまで持ち上げてよいものなのでしょうか。裏返して言えば、成長や成熟には価値がないのでしょうか。それどころか、『本当の自分』には、とんでもない可能性もあると思います。

 ワイの「本当の自分」を見せたろか

 大学院時代のことです。義理のある友人から、当時流行の「自己啓発セミナー」に来て欲しいと頼まれました。院入試勉強で英作文の添削をお願いした人ですから、すげなく断る訳にも行かず。まずはセミナーの幹部の人と、夕食を共にすることになりました。
 曰く、自分たちのセミナーはいかにすばらしいか。来た人は皆、「本当の自分」にたち返り、すばらしい人生を送るようになる。とにかく来て欲しい。役に立たないと思ったら参加費は返すから。とのこと。私の天誅スイッチが作動しました。
 「わかりました。行きましょう。丸一日潰れるのですから、バイト代下さい。家庭教師なんかの時給は5000円が相場ですから、8時間で4万。交通費込みで10万ほどいただいておきましょうか(どういうボッタクリ計算やら)。もちろん、内容が気に入れば、参加費と一緒にお返しします。それと、セミナーの前後1時間で良いですから、私にブースを開かせて下さい。参加者に壺や多宝塔を売りつけます。日本中からアホが数十人集まるのですから、とことん、むしり取りましょう。利益に1割はマージンとして寄付させていただきます」
「うちは物販はやっていません」
「そんな甘っちょろいこと言っているから、あんたのとこは、いつまでたっても統一教会に勝てないのとちゃいますか」
「そんなこと言わないで来て下さいよ。きっと本当の自分がみつかりますから」
「私のほんまもんの自己でっか。それやったら、セミナーは机と椅子が床に固定されている教室でお願いします。ゴリラのように凶暴な『ほんまの私』が暴れ出すかもしれませんから。筆記具の持ち込みは、クレヨン以外禁止して下さい。ハゲタカのように残酷な『ほんまの私』が、ペンや鉛筆を奪って、持ち主の眼球に打ち込むかもしれませんから。それと、講師を含めて女性には全員、当日までにピルを飲ませておいて下さい。猿のように好色な『ほんまの私』がDNAをコピーしたがっているでしょうから」つかみ合いにはなりませんでしたが、5000円のディナーは自腹になりました。やっぱり壺の一つも売っておくべきでした。

 ちなみに、私はゴリラやハゲタカや猿のようなタイプの『自己』を全否定するものではありません。地球上に生命が誕生して以来、先祖たちが時には凶暴で残酷で好色だったからこそ今の自分がいるのですから。けれども、それらを『本当の自己』と言うのなら、無理矢理呼び出したり、平時に人前でお見せするものではありません。
 むしろ、『本当の自己』が必要になるような本当の有事には、決して巡り会わないよう、いつも精進しているべきなのでしょう。有事大好きの私が言うのですから、間違いありません。

ここまで書き上げて、最後に「落ち」でも付けて出稿しようと思っていると、SBIをはじめ昔懐かしい投資ファンドの面々が雄叫びを上げて帰ってきました。以前、フジテレビに手を出して、臭い飯を食ったヤツまでいます。
 彼らの狙いの本当のところは分かりませんが、投資ファンドを回すような輩が牧歌的にテレビ放送の将来に期待しているとは思えません。もしそうなら、具体的なイメージがわくような戦略で動き出すはずですが、送り込もうとしている役員の顔ぶれを見れば、なんらかの目論見があるようには見えません。解体的出直しを狙うなら、かえって現経営陣からの引き継ぎが重要です。特に、視聴者とスポンサーの継続的支持が必須であることを考えれば、懲罰的に役員の総替えなどもってのほかです。
 だとすれば、彼らの狙いは2通りに分けられます。まずシンプルに、「無茶苦茶やるぞ」という揺さぶりを経営陣と一般株主にかけることで、持ち株を高く売り抜ける作戦です。もうひとつは、解体的出直しの名のもと、儲かる部門だけを残して会社を縮小させ、配当で儲けるか売り飛ばすかというやや手の込んだ作戦です。
 フジの場合、「ハゲタカ」たちの狙いは後者のように思えます。なぜなら、不動産部門の別会社化という提案が出ているからです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/0c05006078061a3d5618c1371c661dd42ecfdffa
https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/900022877.html

 一応、「不動産依存の甘えから脱却させて、コンテンツ制作能力を鍛える」という建前を示していますが、額面通りに信じている関係者はどいないでしょう。不動産部門を別会社化すれば、株主は、不動産会社と放送会社の株の両方を、それぞれ別々に持つ事になり、どちらかだけを売ることも可能になります。
 不動産会社は超優良企業になりそうですから、仮に放送会社の方が倒産しても株主としては引き合う、という計算が成り立ちそうです。フジテレビよりもさらに収益構造に問題がある産経新聞社も切り離せます。短期的に儲けてさっさと逃げ出す芸風の株主たちは大満足でしょう。
 さて、ここでいつもの問題が出てきます、すなわち公共性の話です。「新聞社や放送局は民主主義を支える無くてはならない公器であるから、経済情勢の変化で経営や雇用の安定姓が損なわれる事があったはならない」というあれです。
 ノコギリとジャーナリストは、切れ味の悪いやつほどコーキコーキとうるさいと思うのですが、それ以前に産経新聞はともかく、フジテレビを報道機関と考えられるのでしょうか。もともと、娯楽番組が放送時間の大半をしめ、独自の取材力では週刊誌にも遠く及ばない会社です。「たまに報道もやるコンテンツ製作会社」ぐらいが妥当な評価でしょう。そこでさらに今回の性上納事件です。風俗店まがいの会社が自ら公共性を主張するのは、悪い冗談にしか聞こえません。

 初夏のジャングル株主総会

 今春の株主総会直前には、一般株主を巻き込んだ委任状収集合戦が起こるでしょう。公職選挙法みたいなものはありませんから、現生が飛び交うこともありそうです。当然、株価も上がります。経営に対する一般株主の要求水準もあがります。だからと言って経営陣には株主配当を上げて、ご機嫌をとるということはできそうもありません。現状維持を訴えて株主に納得ないし同情してもらうしかないでしょう。
 一方、ハゲタカたちには余裕があります。仮に、今次の総会で株主提案が否決されても、慌てることはありません。さらに経営が悪化したり、新たなスキャンダルが発覚したりすれば、保守的だった一般株主の空気も激変します。満を持して、臨時総会を要求すればいいわけです。今後、危機が深まったりクラッシュがおこりそうな理由はあちこちにありますが、時間を稼いだところで状況が劇的によくなる可能性はほぼ無いでしょう。フジテレビには解体的出直しが必要とのことですが、株主一同が望む解体は必須でも、誰も期待していない出直しの方は不可能、というのは当然です。

何度もしつこいようですが、私は性上納を含む昭和的なメディア企業のセクハラ容認体質を擁護するつもりはありません。過去のこうした問題に対しては、いろいろな意見があるにしと、今後もこの文化を温存すべきではないということでは、国民的社会的な合意があることも確かです。
 けれども一方では、こうしたシステムがなんのために存在し、どのように機能したかは善悪とは完全に切り離して議論しておく必要があります。邪悪なシステムを見つけたときには、その存在理由とメカニズムを解明して根本から対策をしておかないと、邪悪さは別のシステムとして復活してしまうからです。

プライベートまで管理したがる業界文化

 テレビ業界の性上納文化は、芸能人のプライバシーのなさが根本にあると思います。古くは宝塚、近年ではAKBなど、所属女性に恋愛を禁じているところはざらにあります。男性タレントに関しては明文化されていなくても、事務所の方針として恋愛は不可能な立場におかれがちでした。そして、そこをカバーするのが性上納文化だったのではないでしょうか。
 実際、女子アナの側でも上納されるとこでキャリアアップを目指していた人も、いなかったとは言えますまい。自由恋愛(つまり上納される側の拒否権)が完全に保障されているのなら、部外者が口を出す問題ではありません。ただし、圧倒的な力関係がある場では、自由恋愛とは社会的強姦の別名だったりします。
 けれども、こうしたおぞましさを一定程度容認するなら、上納される側にも余沢がある、それなりに機能するシステムでした。実際、こうしたシステムは昭和の芸能界を安定的に利益のあがる業界にするための一要素であったわけです。
 今回の奇妙な事件は、性上納廃止の不徹底によるというのが本質のように思われます。女子アナの性被害を避けるには、出演者や関係者から性的な交際を求められた場合の対応策を徹底しておき、出演者や関係者にも周知させておくべきでした。逆に、性上納文化的なものをを温存させるつもりなら、女子アナのプライバシーを把握して、出演者や関係者との交際は会社が、コンプライアンス上適正に管理すべきでした。こっそり連絡先を交換させるなどもってのほかです。
 以上をまとめると、今回のフジテレビはシステムがもう機能しないのに、性上納文化を温存させたことで墓穴を掘りました。言い換えれば、性上納という悪事を満足に実行できなかったために、一人の女性に耐えがたい心の傷を負わせ、一人の有能な男性タレントを失い、会社の屋台骨まで破壊しました。
 わが国のインフラやシステムの劣化はいろいろな場面で聞かれる話ですが、どうやら悪事でさえ過去と比較して情けない状態になっているようです。
 今ではまともな芸能人なら、テレビ局のスタッフから「うちの○○アナのことお気に入りだったみたいですから、一度、ご自宅に遊びに行かせます......」などと上納を匂わされても、喜ぶどころか困ってしまいます。そして警戒するでしょう。弱い立場の女性に上納をさせるような会社は、今度は自分の弱みを握りに来るからです。

 異界としてのテレビ局

 今回、第三者委員会の報告書に対して、「短期間でよくこれだけ調べた」という評価が一般的ですが、短期間で見つかるような問題が、長年手つかずだったとも言えます。裏付けや詳細は追加されましたが、『性犯罪事件』の大筋は、もとになった週刊誌報道とほとんど変わっていません。
 また、これだけの騒ぎになってもMeTooの告白や、HerTooやらHimTooやらの暴露は、今のところ皆無です(ごく最近になって少しだけ出てきましたが)。表に出にくい話なのはわかりますが、常識的にはAさんが唯一の被害者などとは考えにくく、他の事例は関係者一同で隠蔽しているのか、そもそも問題意識がなかったかのいずれかでしょう。
 事件後にAさんが受けた仕打ちを考えても、こうした性上納文化には大かれ少なかれ全社的なコンセンサスがあったと思われます、中居氏に対する刑事訴追やらB氏への社内的な処分も全く進んでいません。
 性に関しての倫理観も美意識も世間一般と大きく異なる集団が、社会の中で存在し続けることは不可能です。たとえば、ジャニーズ事務所など加害者本人はすでに消滅しているのですから、被害救済などの手続きを完了して、ほとぼりが冷めればまた復活できそうなものです。けれども、アイドルグループを見る世間の視線が、事件によって変化してしまいました。
 事務所解散時点でのジャニーズ系アイドルには被害者が多数ふくまれていました。けれども、彼らはあたかも連帯責任のように干されました。犯罪に対する社会的制裁で、その犯罪の被害者が一番困窮するなど理不尽極まりない話です。けれども、彼らがアイドルの地位を得るために払ったおぞましい犠牲を想像したとき、もう楽しく番組を見られなくなった視聴者が多数いたこともまた事実です。
 フジテレビでもこれから同様のことが起こりそうです。衣食住と違い本質的には別に無くても誰も困らないコンテンツ制作の世界では、文化的不適切さは。直ちに不潔さや不快さと認識され、加害者ばかりか被害者を含む組織全体の価値を、致命的な規模で毀損するということです。
 今後、フジテレビで創意工夫あふれた新番組や、知性に満ちた新人キャスターの起用があったとしても、見る側には割り切れない感情が残りそうです。となると、そこに広告を流すということは、「性犯罪に甘い」とまでは言わなくとも「何も考えていない無責任な企業」という評価を甘んじる覚悟がいります。大金を払ってリスクを引き受けることを、スポンサー企業の株主がどこまで容認できるのでしょうか。
 当然ながら他局も無事では済みません。フジテレビは突出はしていたかも知れませんが、他局とは性的な文化が全く異質だったとは、とても考えられないからです。ほとぼりもさめなうちに、どこの局で同じような事件が発覚したら、只でさえ「金が無い」→「コンテンツが劣化する」→「視聴率が下がる」→「CMで稼げない」→「金が無い」の悪循環にあえいでいるテレビ業界全体が、一気に詰んでしまうでしょう。

守る仕組みが改革を阻む

 ここまで読まれた方は、この記事の結論、落としどころを予想してられるでしょう。つまり「フジテレビには解体的出直しが必要である」というやつです。ご期待にそえられなくて申し訳ないのですが、「フジテレビには解体は不可欠でも、出なおしは不可能である」としか思えないのです。
 諸外国との比較で、日本のメディアの特異性のひとつなのですが、新聞メディアと放送メディアは資本的に融合した何個かのグループとして存在しています。すなわち、読売・日経・朝日・毎日・産経の5つのグループです。
 これらは日本的な株の持ち合いをし、グループの中心にある新聞社には日刊新聞紙法という時代錯誤的な特例法が適用されます。創業家や社員持ち株会などに株主を限定し、再販制度に守られた各新聞社が持ち株会社だと、外部の資本が手出しをすることはほぼ不可能です。
 近年、オーストラリアの新聞王ルパートマードック氏によるテレビ朝日株の取得や、いわゆるホリエモン事件、日本経済新聞社事件など、メディア企業株式をめぐる小事件がしばしば起こっていますが、結果的にはいずれの経営者も安泰でした。
 こうした構造には良い面と悪い面がありした。良い方は、金の力で言論を買うということが、事実上不可能になっていたことでした。新聞の論調が不偏不党であるべきだなどと19世紀の寝言を言う気はありませんが、現在アメリカで三大テレビ局とFOXニュースがそれぞれ極端(あくまで私の感想です)な報道をしているのを見ると、日本の論調が安定したメディアも悪くない気がします。
 悪い方の面は、株主構成が一定でしかも同室的だと、どうしても改革が後手後手になるということです。たいていの場合で創業家は大改革には後ろ向きですし、リストラに積極的な社員持ち株会など幻の珍獣みたいなものです。現状維持をズルズルしていて、改革のタイミングを逸し、会社が茹でガエル状態になりかねません。

 十年ほど前に朝日新聞社でおこったこと

 朝日新聞の信用を一気に崩してしまった従軍慰安婦問題などこの典型です。敢えて言いますが本質的にはただの誤報、それも数十年前に記事になった、それからさらに数十年前の話です。きちんと検証して誠実に謝罪していれば、あんな騒ぎにはならなかったはずです。けれども、検証というよりは言い訳じみた謝罪記事を書くわ、池上問題に飛び火するわ、社長の首を差し出すのが遅すぎるわで、世論から批判されたというよりは徹底的に嫌悪されてしまいました。ネトウヨどもが勢いづくきっかけも作りました。こんなことなら、一切の批判を無視して放っておいたほうが良かったぐらいでした。
 もしこのとき株主総会がきちんと機能していたら、言い換えれば役員会に脅威を与えられる株主がいたら、経営トップの交代が円滑に進んで、ここまで酷いことにはならなかったはずですが、実際には株主総会が最後の砦としての機能せず、朝日新聞は大きなクラッシュを迎えました。
 随分話がそれました。今回、フジテレビでも日枝氏の辞任が遅れたのは、株主総会がぬるかったことの他に、まさか突然退場するとは誰も思っていなかったために、後継の経営陣がまったく準備されていなかったこともあります。そして、最初の下手な謝罪会見が却って炎上に油を注ぐ事になったのは、朝日新聞社のケースとよく似ています。
 株主総会が機能しない巨大企業グループ。ガバナンスは会社法とは異次元の、はっきり言えばジャングルの掟のようなものが支配しています。
 法的には、フジサンケイグループ内で日枝氏が権力をもっていた理由が全くわかりません。強いて言えば日枝氏は日枝氏だからでした。同じような構造は、読売グループのナベツネさんにも当て嵌まりました。そして、こうした独裁者が登場するのは、そのグループの最盛期というのが相場です。

 オワコンとしての放送免許

 放送局というのは不思議な存在です。放送免許(つまり電波を出す権利)という公共性の極めて高い権益を持ちながら、一方では一営利企業なのです。この特権は、21世紀の初頭ぐらいまではかなり強力なものでしたが、ネット環境がこれだけ普及してしまうと、ある意味でマヌケな存在です。たとえば、NHKなど「この番組は見逃し配信で、これから一週間いつでも何回でもご覧になれます」などと言っていますが、だったらなんで電波を飛ばしているのでしょう。一方そのネットコンテンツは海外では視聴できないように、わざわざ作ってあります。放送法の規定や発想がネットの世界にまで及んでいるからです。
 もうひとつ奇妙なのは、今回の事件でフジテレビは一時的に広告収入の大部分を失うという重傷を負いましたが、単年度単体企業でも赤字にはなりませんでした。不動産収入が大きいからです。
 だとすれば、製作部門などはスカスカにリストラしてしまい、24時間、空の雲や星でも映しておけば、製作経費がほぼゼロになり収支は改善するはずです。それが極端過ぎるというのなら、古今の名画や各種アマチュアスポーツの中継(当然、外注)でも流しておけば、格安の経費で最小限の視聴者は確保できます。もっと徹底するなら、放送権など設備・人員もろとも売却してしまえば、稼ぎの良いビル会社に生まれ変われます。
 メディアグループが、なぜそうした過激なリストラをしないのかと言えば、放送免許には一定の権威があると考えられているからです。今でも、あらゆる取材先でテレビ局の腕章があれば便宜を図ってもらえます。不動産やイベントなどの関連事業でも、テレビ局の権威や信用はグループ全体に有利に働くでしょう。
 けれども、このアドバンテージは多分に気分的なものです。特に、「マスゴミ」という概念が論壇にまで定着してしまった近年、その社会的信用は形骸化してきています。そこへさして今回の性上納騒ぎです。権威どころか汚名が定着してしまうと、放送局を抱えていることは、ホールディングス全体の負担になりかねません。
 よって、過激リストラの可能性は年々増していくことになります。もしかすると近い将来、サンケイ新聞社の輪転機とフジテレビの電波を一気に止めて、フジサンケイHDがネット上の言論・報道・娯楽コンテンツとして統合されるようなメディア再編が、あるかも知れません。

本当はフジテレビは被害者

 今回の『性犯罪事件』で一番奇妙なことは、最も世間の批判が集まるフジテレビから誰も逮捕者が出ず、また今後も出そうなにない事です。当然と言えば当然の話で、報告書に出てくるAさんの性被害には、フジの社員は誰も関与していないからです。
 かなり以前から性的関心があったと思われるのに、加害者が被害者Aさんの連絡先を知ったのは事件の二日前で、加害者が直接被害者から聞き出しています。一番関係の深いはずのB氏でさえ、当日、二人が会っていることを事件発覚まで知らなかったようです。普通に考えれば加害者も被害者も一人だけの単純な構造の事件で、フジとは無関係などころか被害者側の立場です。
 当時Aさんは自社のアナウンサーであり、中居氏がAさんを呼び出すためにB氏の名前を勝手に使ったわけですから、全社的に怒り狂ってもおかしくないぐらいです。実際、発覚直後には、会社の関与しない個人的な問題であるとして逃げ切ろうとしました。
 けれども、それ以降は中居氏以上にフジが責められる形で話が進行しています。なぜなのでしょうか。

 美人局アナ説はフェイクニュース

 ここでAさんが酷いPTSDについて考えていてみましょう。事件直後に示談で、Aさんには1億円近い賠償金が支払われましたようです。一般的な傷害事件での、失明や片腕切断の慰謝料でも3千万~5千万円ということを考えれば、かなりの高額です。
 最初から、Aさんが慰謝料目当てに中居氏に接近したというフェイクニュースが流れましたが、それならAさん側は取材されても絶対に外部にコメントはしないはずです。もちろんフジもです。そのほうが後々、さらに中居氏から巻き上げることもでき、大金を手にした後に騒ぎをおこしても良い事は何もないからです。
 ちなみに、性的な関係を利用した恐喝のことを美人局(つつもたせ)などと呼びますが、「美人局アナのAさん」などという一部の週刊誌(だったかな)などの表現は誤解の元です。敵対的売春とでも呼ぶべきなのかも知れませんが、Aさんについては考えられない話です。

 ヒントは長屋の大家さんがお持ちでした

 では、なぜ、こんな巨額の慰謝料に見合う性被害が発生したのでしょうか。さらに話は飛びます。この長屋の管理人室のライブラリで見つけた文献に、「教育に関わっている人たちにお願いしたいのは、子どもたちが心を開いたときに、フラジャイルな状態になったときに、絶対に傷を負わせないということです。」という一節がありました。

学校図書館は何のためにあるのか?
http://blog.tatsuru.com/2023/09/09_0927.html
【長い講演記録の終わりの最後の部分にあります。非常に面白い記事なので、全文読む事をおすすめしますが、お急ぎの方は「教育に関わって」ぐらいで検索すると、当該の話が出てきます】

 もともとこれは学校教育に関する話なのですが、多くの職場でも若者が何かを本気で学び吸収しようとする場では、同様にフラジャイルな状態になることは当然です。師匠と弟子のような関係で、今回も芸能界の大御所と意識の高い若手アナウンサーが番組作りを繰り返す中で出会っていれば、そのような構図になることはあり得たでしょう。
 Aさんにとっての中居氏は、業界の大御所で可愛がってくれる父親のような人であるというのが、極めて常識的な認識でしょう。学校でいえば、担任ではないがときどき個人的に話をする授業担当教員のような感じでしょうか。「フラジャイルな自己」をかなりさらけ出していたとしても不思議はありません。
 一方、中居氏の方は自分の邪悪な関心をB氏が承知の上で、上納の段取りを進めていると考えたとすれば(能天気で危険で身勝手極まりない話ですが)、Aさんが連絡先を教えたこともあって、「なんとかなるわ」ぐらいに考えていた訳です。
 一般的に性犯罪は、相手の抵抗覚悟で思いを遂げようとする加害者より、とりあえず遊んでやろうという加害者の方が、被害者を深く傷つけるものですが、このときの中居氏はその典型でしたのでしょう。性上納文化の権化のような状態と言えます。
 フラジャイルな心を侮辱の刃がえぐるわけです。悪意の上に不幸な行き違いが重なってしまい最悪の結末を迎えました。

 B氏の逡巡

 おそらく、B氏の危険性をある程度は認識していたようです。自分が場をセッティングするときは、他の芸能人も呼ぶなりして中居氏とAさんを二人だけにすることは避けていたようですし、Aさんの連絡先も中居氏には教えていませんでした。
 もし私がB氏の立場でしたら、Aさんに「中居氏が君に関心を持っているから気をつけて。何かあったら私にすぐに私に連絡して」と当然の注意喚起をしておいたでしょう。中居氏側にも、「最近はウルサいですから......お願いしますよ」とでも言って牽制をしておきます。トラブルを避けるための職務上の最低限の気配りでしょう。
 なぜ、百戦錬磨のB氏がこんな基本中の基本を怠ったのでしょうか。ここから先はさらに自信のない推理ですが、ひとつの仮説として考えて下さい。B氏にとっての、ベストシナリオは、二人が交際を始めてめでたくゴールインしてしまうことです。「つきあっちゃえば」などと背中を押すような発言もしていたようです。
 芸能界の大御所がいわば局の身内になるわけです。いろいろと他局よりは有利です。性的な管理はAさんがやってくれます。自分もビッグカップル結ばせた男として、局内でさらに大きな顔ができます。B氏は勝手な夢を諦められず、Aさんの側にそんな気はなさそうだと感じていても、下手に釘をさすことで、この都合の良いシナリオの芽を摘みたくはなかったではないでしょうか。
 ここでB氏の中途半端さが致命傷になりました。令和のコンプライアンスに徹するのなら、厳重に二人に釘を刺した上で、それとなくAさんを中居氏から遠ざけて、事故の可能性をなくしてしまうべきでした。
 逆に、昭和の性上納文化で行くのなら、「会社のために中居氏と関係をもってほしい」とAさんに求めるべきでした。その際、「新番組でキャスターを探してるんだけど、誰がいいかな?」と利益誘導したり、「不景気なのに女子アナ多すぎるんだよね」と脅迫したりすれば最低の鬼畜プロデューサーですが、結果を考えればむしろこっちの方が数段マシだったのではないでしょうか。
 事前に、こういう折衝があれば、Aさんはフラジャイルでいることを止めてしまい、心の防御を固めるでしょう。逃げるにしろ、戦うにしろ、(万一)受け入れるにしろ、最悪の心理状態で不意打ちを食らうことにはならなかったはずで、ここまでひどいPTSDにはならずに済んだのではないかと思います。
 B氏が中途半端な対応をしたために、中居氏は「上納」を受けたと思い、Aさんは「大御所が、今時そんなバカなことはないだろう」と思う、という食い違いが、惨劇の原因になりました。

 ここまで、思いっきり誤解されそうなことを書いたので、付け加えておきますが、「性上納文化にも良い点がある」などと言っているわけではありません。中途半端なところで改革を止めて良しとしてしまうと、何もしなかったときより酷い事がおこることもある、と言いたいのです。

最後の最後まで中途半端

 事故後の対応も中途半端です。普通に考えればB氏はもっと怒るべきでした。性犯罪の道具に自分名前つまり自分の信用(=顔)が『性犯罪事件』に使われ、被害者は後輩社員です。被害届を出すようにAさんに促し、一緒に戦うべきでした。さすがにそれが無理なら、「あくまで個人対個人の問題であり、会社としてはどちらの味方もしない」というのも、一つの筋の通し方でした。中居氏とは完全な決別ですが文句は言わせません。
 逆に、どうしても中居氏を使い続けたいのなら、とりあえず自宅に怒鳴り込み、「今後はオレの言いなりかつ言い値で働いてもらう」と宣言することも出来ました。そしてAさんに何回も「土下座」させます。恐らく犯罪になる行為なのでしょうが、こうした「おぞましい昭和の対応」、まさに美人局アナですが、こんなのですら現実よりは、Aさんにとってはマシだったと思われます。
 B氏は、中居氏に貸しを作りながら穏便におさめるため、事件の矮小化と金銭解決をはかろうとし、経営陣を含む局全体もこの路線に追随しました。Aさんから見れば、事件の矮小化とは、自分を「『些細な』性被害で大騒ぎするヒステリー女」と評価することです。金銭解決とは、自分を「一晩9000万円の娼婦」と認定することになります。
 一方的に加害者側の弁護に腐心し、よりにもよって、かつてAさんと一緒に番組を作った弁護士まで局側についてしまいました。よくもこれだけ「効率的に」PTSDを加速させるような事ばかりやったものです。もしかしたら、『性犯罪事件』自体よりも、会社ぐるみのセカンドレイプの方がダメージが大きかったのかもしれません。あまりにも失礼で残酷な話です。
 フジの側から「事件発覚後も中居氏を使い続けたのは、騒ぎを大きくしてAさんが自殺してはいけないからだ」などと、ふざけた言い訳が出てきました。テレビ局文化の無責任で前近代的な体質によるものであると、せめて私は信じたいと思います。
 悪く勘ぐれば、口封じのために自死に追い込もうと、あえて心の傷に楔をぶち込むようなことを繰り返したとも考えられますが、いくら私もで人間というものに、そこまで絶望したくはありません。甘い考えかもしれません。お許し下さい。

まず、性上納とは何か、少し煩雑ですが言葉で定義しておきましょう。企業がお得意先を接待するときに、あってはならないこと(でもよくあること)ですが、性的なサービス(ほとんどが、女性による男性接待対象者へのもの;だからこの記事ではそれに限定します)の総称です。
 宴席にコンパニオンを呼んだり、広義の風俗店に案内したり、という女性外注型がほとんどですが、特に重要な接待先などの場合、社員などその企業側の女性を利用する場合があります。現代日本人、特に女性の方はここまで読んで違和感、ないし嫌悪感を感じられたのではないでしょうか。それが平均的な感覚でしょう。性、特に女性の性に恋愛でも生殖でもないところで他人が関与すること自体、おぞましいという感覚もあり得るでしょう。 自分の意思で(意志と何かとか聞かないで下さいね......ごまかしておくつもりですから)、自分の性への他人の関与を否定しない女性(はっきりいえば堅気でない女)ならまだしも容認できるとしても、普通の一般人女性に関しては、許容する人は少数派でしょう。言い換えれば、性犯罪やセクハラに対して、世間の見る評価が厳しきなっているのです。
 そうした、一般女性による企業の性接待の中で、特におぞましいものの一つに、性上納があります。企業がたとえば社員などを特定の接待先に紹介し、普通だったら犯罪になるようなことをさせるという形式です。
 実は、「普通の性接待が観光バスなら性上納はレンタカー」というような不謹慎な比喩を思いつきました。つまり、接待される側が積極的にエンジンをかけないと、何もおこらないという意味で......したが、あまりにも被害者に失礼なので、別の比喩を併記します。
 「据えもの切り」です。普通の人間は、他人の心臓を刺したり、首を切り落としたりするのは、ところが戦場で相手を殺すことを一瞬でもためらうと、本人どころか部隊全員を危険にさらすこともあります。そこで、新人を戦場に出す前に、敵の捕虜などを縛り付けておいて、首を切り落とす練習をするというものです。どうやら古代から行われていたらしい蛮行ですが、中国戦線で旧日本軍も随分とやったようです。
 相手を動けなくし、逃亡や反撃を封じておいてから暴力をふるう。性接待にも同じ匂いの卑怯さが見えませんか。一般的な性暴力よりも、さらにおぞましいように思います。変な正義感と言われるかも知れませんが、いかがでしょうか。

言うまでもないことですが、企業による社員の性上納など、法律以前に道徳的にも倫理的にも許されることではありません。処分や再発防止は当然のことです。けれども、習慣化されている悪を無くしていくことを考えたら、会社としてあるいは社員として、その悪にどんなインセンティブがあるのかを考えなければ、有効な対策は打てません。
 今回の『性犯罪事件』をうけて、社員教育の徹底がフジのみならず、他局のコメンテーターなどからも指摘されていますが、無難ではありますが無意味な意見の典型です。
 研修を受けて「えっ、知らなかったなぁ。嫌がっている女性を押し倒すのは悪い事なんだ。勉強になったなぁ。これからは止めておこう」などと本気で思う不気味な社員が一人でもいたら......そいつきっと面白い番組が作れたでしょう。見る気はしませんが。
 性接待は局ぐるみで、悪いと知りつつやらかしていたのです。一般論での性道徳研修など、次の不祥事でのアリバイ工作以上の意味はありません。具体的に性犯罪者やルール違反者に対する制裁を示しても、手口の巧妙化に繋がるだけです。被害者がいかに傷つくかを説明しても、被害者を獲物だと思っている鬼畜なら、逆に嗜虐心をかき立てる可能性まであります。
 意味がある対策は、加害者側のインセンティブを解明し、それを丁寧に潰すことしかありません。そして、こうした立場で議論するときには、善悪の問題に踏み込まないことです。

そもそも女子アナって何

 NHKニュースでさえAIによる自動音声が多様されている時代に、アナウンサーってどれぐらい必要なのでしょうか。機械音では味気ないから声に表情をつけたい、というのなら声優さんを使った方が効果的でしょう。報道現場からの中継には、自分で取材もできる放送記者が一定のアナウンス技術を身につければ、臨場感も正確性も今よくなりそうです。スポーツの中継なんかでは、そもそもテレビで実況アナウンスが必要なのかどうか不明です。
 こういう突き詰め方をすると、たとえキー局でもラジオ要員を中心に、アナウンサーなど5~6名いれば十分でしょう。もちろん、男女で分けて採用する必要もありません。
 現代の女子アナが担当していることは、特に民放の場合、本質的に女優の仕事です。アナウンサーとは事実を客観的・機械的に言葉にして発声するのが本分ですが、現実には局が作り出したイベントに巻き込まれながら、本人のキャラクターを生かして喋るのが仕事の大部分です。
 昭和の時代には、海開きのニュースや水上運動会の司会に水着姿で出てくる女子アナなど、本人のキャラというより性(昭和の言葉で言えば「お色気」)を全面に押し出していたのですから、お茶の間性上納と言われても仕方ないでしょう。また、これだって、ある種の女優さんの方が、多分よい仕事をするでしょう。
 実際、今回の『性犯罪事件』でも、中居氏がBBQパーティーに女子アナを呼ぶようにB氏に依頼する時に「一般人はさすがに(具合が悪い)」と言っています。何がどう「さすがに」なのか、いくらでも悪く勘ぐれる発言ですが、敢えて突っ込まないでおきましょう。少なくとも、中居氏とB氏の間では女子アナは一般人ではなく、一番穏当な言い方でも「芸人」であると言うような了解があった訳です。
 この報道を知った各局現役アナの中からひとりでも、この部分に抗議はおろか違和感を表明したという話も聞きません。つまり、多かれ少なかれ女子アナは堅気の職業ではないという業界的コンセンサスがあったと考えてもいいでしょう。でもなぜテレビ局は、高給取りで終身雇用の「芸人」を、少なからず採用するのでしょうか。

 性欲をかき立てる知性

 ところで、テレビアナウンサーには「芸人」とは対照的なもうひとつの顔があります。「知識人」です。実際、引退後に評論家や大学教員、また政治家になった古今のアナウンサーは山ほどいます。弁護士や気象予報士などの専門的な資格を引退後に取った例も少なくはありません。医学部に合格した現役局アナのニュースも飛び込んできました。
 採用時にも高度な学科試験があり、多くの局が大学卒業者に限っている訳ですから、知識人予備軍、それもかなり程度の高い知性の集団であることも事実でしょう。そうなると、女子アナは才色兼備で健康的ということで、若い女性のひとつの理想像と見られている訳です。
 私には、ここに女子アナ性上納の鍵があると思われます。「べらぼう」の時代、日本女性の中で和歌・文学・歴史から囲碁・双六に至るまで、最も深く広い教養をもっていたのは吉原の最高位の太夫だったとされています。はっきり言いましょう。女性の性の値段を釣り上げる効果的なツールとして知性が選ばれている訳です。
 男性の性欲、特に恋愛から切り離された娯楽性やステータスのための性欲は攻撃性と一体になることが多く、他のオスが相手にされないようなタイプやそもそも性的でないタイプのメスを、力尽くででも征服したいという方向性があります。
 だから、局のプロデューサーが芸能人に差し出す女性は、広報部員でも受付係でもなくアナウンサーなのです。これはお茶の間上納についても同じで、泳ぎもしないのに水着姿で画面に登場させられるのは、芸人でも女優でもなく女子アナなのです。
 しかし、こういうの昭和の産物でした。水上運動会はほぼ平成の時代には姿を消しましたし、海開きの水着レポートも近年ほとんどなくなったようです。知的な女性を性的なターゲットにするという志向自体が、善悪は別としても過去の遺物なのです。一例をあげれば、姫野カオルコ氏の小説『彼女は頭が悪いから(2018)』です。この作品では加害者の視点が、女性の知性にではなく知性の欠如に向けられています。
 これがフィクションの世界だけの話だったのか、特異な事実をもとにした特異な小説だったのか、さらにこの時期に頻発した「高偏差値」学生による多大女子学生への性犯罪全体に通底する傾向なのか、さらにまた、平成末期から令和の性風俗全体の傾向なのかなどは、小論の扱う範囲をこえています。けれども昭和の一時期に女子アナに向けられていた性的な視線が大きく変化したのは、間違いのないことのように思えます。
 しかしその一方で、テレビ局を中心とする一部の芸能界には、昭和的な性志向の残り火があり、それがセクハラ体質や女子アナを接待要員として考える性上納文化を残存させていたのではないでしょうか。