「殺すぞぉー」ドスのきいた体育教師の声が、体育館に響きわたりました。開
口一番これですか。「ええか、これから村山先生の講演があるから、静かに聞く
ように。わずか15分や。これしきのことに耐えられんようでは、どんな現場も
務まらんぞ」......忍耐力鍛錬のために、全校生徒は私の話を聞かされるのでしょ
うか。「もうひとつ。三年生男子、くれぐれも去年のようなことがないように。
危険極まりないし、だいいち先生に失礼やろ。」......何があったんです。「しつ
こいようやけど、死んでもしゃべるな。その代わりな。15分を1秒でも過ぎる
ようなことがあったら、わしの出番や」......過ぎません過ぎません。カジュアル
に「殺す」の「死ぬ」のが出てくる修羅場で、何をどうしゃべったのか覚えてい
ませんが、10分ほどで切り上げ、逃げるようにして職員室に駆け込みました。
 もう30年以上前の話ですが、当時は教育現場でそれもかなり公式の場で「殺
す」とか「死ぬ」とかの言葉が使われていました。もちろん、ただの比喩だとい
うことが全員にわかっているのですから、誰も問題にもしませんでした。
 それから数年後、娘たちが通った地域の小学校で自分の研究の一環として、ゲー
ム機を使った自習用のネットワークシステムを開設しました。メーカーから機材
を無料提供されての結構本格的なやつです。結構人気が出て、放課後、私の作っ
た拙い計算ゲームにまで、何人かのマニアまで生まれました。
 ある日、下校時間にマニア君のひとりが、続きやりたいからマシンを「持って
帰っていいか」と、いたずらっぽい顔をして言うので、「殺すで。家では家のこ
とをしとき」と軽くたしなめると、「やっぱりそうですよね」と頭をかきながら
帰って行きました。
 片付けを終わって帰ろうとすると、たまたま横にいた教頭先生から「殺す」は
やめてくださいね。と深刻な顔でわざわざ注意されて驚いたことがありました。
もちろん、誰にも殺意なんかあるわけないですし、冗談以前の軽口だということ
も明白、言われた子供も傷つくどころか意にも介してなさそうでした。ちなみに
その子は何事もなく翌日もやってきました。
 確かに品のない表現だったことは認めますが、どう考えても暴力的な話ではな
く、誰も傷つかず、しかも真意(この場合は、「学校の備品を持ち帰ったらだめ
でしょ」)はちゃんと伝わっているのです。それを、命の大切さと絡めた文脈で
批判するような文化が発生しだしたようです。文脈を無視して、死とか殺とかの
文字がはいる表現は全部だめだというのなら、「死にそうに忙しい」とか「黙殺
する」とか「併殺打」とかもいけないのでしょうか。

言葉尻の言葉尻を捉える方法

 BS朝日の報道番組「激論!クロスファイア」が終了しました。報道によれば、
「高市早苗氏の選択的夫婦別姓に対する否定的な姿勢について、ゲストの辻元清
美氏、福島瑞穂氏が批判。その後、田原氏が『あんな奴は死んでしまえと言えば
いい』と発言した」のが原因のようです。メディアによっては「大暴言」とか
「モラル逸脱」とまで言われて批判されていますが、本当にそうなのでしょうか。

BS朝日「激論!クロスファイア」終了を発表 田原総一朗氏の発言「モラル逸脱」
 番組責任者ら懲戒処分,スポニチ,https://www.sankei.com/article/20251024-KGVSIC3IY5HAFBQU4HTXUNZUPA/

 言葉尻を捉えるという表現があります。多義的な言葉をわざと発言者とは別の
意味に解釈したり、比喩であることを無視したりして、意図的な誤解に基づいて
発言者を批判することぐらいでしょうか。
 例を挙げましょう。「言葉尻という表現はセクハラだからやめてよ」というや
つです。こういうときに「尻といっても、あなたの両足の間にある薄汚い穴の周
辺の事じゃなくて、言語解釈上の妥当性の話をしているのです。だから、この議
論にあなたの醜く歪んだ性感覚や陳腐で貧しい美意識を持ち込まないでください」
なんてやると、本格的な暴言になりますから、穏当に「揚げ足取り」と言い直し
ておきましょう。細かいニュアンスは違いますが仕方ありません。
 言葉尻を捉えることや揚げ足取りは、きわめて生産性の低い行為です。よくて
ただの時間の無駄。たいていの場合は、やったほうが顰蹙を買います。唯一効能
があるとすれば、相手のペースで議論が進みそうなときに、話の腰を折って流れ
を変えられることですが、これはボクシングで言えばクリンチのようなもので、
よほどうまくやらないと、論破の先送りにしかなりません。それどころか、せっ
かくのチャンスを逃すこともあります。
 有名な高市自民党新総裁の「就任スピーチ」で、「(自民党議員には)馬車馬
のように働いていただきます」と言ったことに対して、共産党の志位議長は、
「『全員に馬車馬のように働いてもらう』にものけぞった。人間は馬ではない。
公党の党首が使ってよい言葉とは思えない」と反論しました。典型的な揚げ足取
りです。Xの一般ユーザーが「じゃあ出馬もしないでください」と返されてしまい
ました。公平に見て、議長の一本負けでしょう。
 けれども、総裁の発言には問題はなかったのでしょうか。前後にあった「ワー
クライフバランスを捨てる」との発言との関連で、労働強化につながる発想だと
いう批判はあり売るでしょう。志位議長の批判もこの方向からなのですが、ほか
にも大きな問題があります。
 比喩としての馬車馬という言葉は一般の騎乗馬との比較で使われます。車を引
かされている馬は、急坂を駆け下りたり障害物を飛び越えたりは出来ません。た
だただ、目の前の道を進むのみです。だから、馬車馬という言葉は通常悪い意味
で使われます。つまり、何も考えずに、命令されたことをただただ実行するタイ
プの労働者のことです。
 目下の人間に「馬車馬になれ」という場合、二つの意味があります。ひとつは
「余計な判断はせずに言われたことだけやれ」という意味、もうひとつは単純に
「さぼってないで働け」というやつです。今回の高市新総裁はどうだったのでし
ょう。ほとんどの批判者は後者の意味にとっています。直前に「だって今、人数
少ないですし、もう全員に働いていただきます」とおっしゃっているので、まあ
妥当な解釈なんでしょう。
 けれども、今の自民党の危機の原因は、国会議員をはじめとする党員の怠慢な
のでしょうか。どちらかと言えば、裏金作りやら統一教会との関係やら、一所懸
命にいらんことをして国民の顰蹙をかったことが大きいのではないでしょうか。
 とすれば、総裁の発言には「これからは妙なことを考えずに党本部の指示にし
たがって動け」という含意があったのではないでしょうか。だとすれば、国民の
代表である国会議員に対して随分失礼な言い草です。志位議長はなんでこのあた
りを批判しなかったのでしょうか。「うちじゃ昔からやってるから」なんて言わ
ないでくださいね。

高市総裁の「馬車馬」発言批判の志位議長に 「では出馬もしないで」とツッコミ,
zaqzaq,https://www.zakzak.co.jp/article/20251006-5L3GTAIPLFBQRHMYZ7WUKYXWMM/


昭和と令和がクロスするとき

 さて、田原総一朗氏のケースです。一番詳細かつ正確に報道されていると思わ
れるサイトから引用します。

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福島氏は「今までの言動で、選択的夫婦別姓に反対で、ジェンダー平等にも後
ろ向きだと思っている」と高市氏の姿勢を批判し、「全く男性原理そのもので
(政治を)やるんだったら、女性であることの意味もないじゃないですか。だか
ら、やっぱり(選択的夫婦別姓に)賛成してほしいと思いますよ」とした。
田原氏は福島氏の発言に割り込むようなかたちで、「高市に、大反対すればい
いんだよ。なんで高市を支持しちゃうの?」と切り込んだ。辻元氏と福島氏が
「支持してないよ!」とすると、田原氏は「あんなやつは死んでしまえと言えば
いい」とした。
辻元氏が「田原さん、そんな発言して...高市さんと揉めたでしょ、前も」と
嗜めるも、田原氏は「僕は高市と激しくやり合った」と主張していた。

田原総一朗氏「あんなやつは死んでしまえ」発言、ネット民は「死んでくださー
い」発言のフワちゃん想起「この差はなに?」,Jcasニュース,
https://www.j-cast.com/2025/10/22508581.html
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 これ、暴言というより語彙の貧困じゃないでしょうか。「殺す」ではなく「死
んでしまえ」を使い、さらに「と言えばいい」と発言を他者に委ねる形にする...
...殺人教唆やら脅迫やらにしては、えらい腰の引けた発言です。要は、もっと
「大反対」しろと言いたいのですが、ほかにアイキャッチーな表現が見つからな
かったので「死」を使っちゃったということです。
 辻本さんにたしなめられてもきちんと対応できなかったのは、意地になってし
まったのでしょう。録画後の編集を当てにして気が緩んでいたのかも知れません
が、正直に言えば、やはりお年かなという気がします。
 もし、福島氏や辻本氏が「夫婦別姓を指示しないなら死んでしまえ」なんて言
ったら、高市さんだったら「そんなん言われんでも50年もしたら死にますがな。
あんたらも同じやろ」ぐらいの「答弁」はしそうです。なにしろ「お茶を飲む」
を「茶ぁしばく」、「食事をする」を「飯どつく」と言うこともある関西の言語
環境を3方とも、よくご存じでしょうから、うまく処理してしまうでしょうが、だ
れかがネタに回収できなかったらスベったまま収集がつかなくなるのが、今回の
田原発言なのです。
 あちこちで指摘されていることですが、この件の責任は田原氏よりも番組にあ
ります。録画なんですから、うまく編集すれば何事も無かったはずです。なぜそ
うしなかったのか。私には可能性が2つあると思います。ひとつは、辻本氏の窘め
が面白かったからです。党派を超えて窘められる司会者なんてあんまりいません。
 もうひとつは、ノスタルジーです。「出演者の中途半端な発言を煽って、より
過激な本音を引き出す」というのは、バブルを代表する硬派の深夜番組で「朝生
(朝まで生テレビ!)」で一世風靡した田原氏の十八番です。私自身、この発言を
最初に聞いたとき「懐かしい。田原さんらしいな」と思ってしまいました。「激
論!クロスファイアー」を見ている人の大部分は、朝生の栄光を知っていると思
われますから、番組担当者は「ちょっとばかり、昭和の(バブルの)香りをお茶
の間にお届けするか」などと考えたのではないでしょうか。そして、発言の平成
的な意味での不適切さが、令和のマスゴミ嫌いのSNS世論とクロスしてしまい大炎
上したわけです。

朝まで生テレビ!,Wikipedia,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E3%81%BE%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93
!


そろそろフラジャイルのついて研究しませんか

 セクハラやパワハラについても、大炎上が起こるのは、昭和の価値観と令和の
価値観が交差する場合です。悪いと知りつつこわごわやっているような事例は、
炎上などせずに、内々にか適正にか知りませんが処分されて終わりです。けれど
も、「コミュニケーションの一環だ」とか「俺たちもみんな経験したことだ」と
かを、開き直りではなく本気で言い出す加害者がいて、誰かがそれを拾い上げて
パスを繋ぐと大炎上劇場の始まりになります。
 まあ、今の日本人がなんとなく合意している価値観では当然のころでしょう。
けれども、潜在的被害者があまりにもフラジャイルに(傷つきやすく)なったり
して、みんなが防衛的になり、少しでもリスクのあることはしなくなるのが良い
とも思えません。
 もう20年前の話ですが、研究者としてのキャリアの最後で赴任した本務校では、
セクハラ研修を受けたのをきっかけに(念のため言っておきますが全教員向けの
研修です。私個人向けのものではありません)、それまでの勤務先とは明らかに
違う冷たい対応を学生にするようになりました。
 特に、女子学生には「男女が密室で二人きりになることはリスクのある行為で
ある。ほかの先生はどうか知らんが、私の研究室にひとりで来るときは、レイプ
される覚悟をしておくように。そうそう、最近はジェンダーフリーで芸域を広げ
ているから、本年度からは男子も同様である」などとゼミや授業で言い放ち、用
事のある学生とは事務室で会うようにしました。あるいはオンライン(当時はテ
キストベース)を利用しました。
 やってみると、これが楽なんですね。二人きりでないと出来ないような深い話
をシャットアウトできるからです。やるにしても、通り一遍の対応で済ませられ
ます。家族や友人関係のことなら「まあ、仲良くやりなさい」、進路のことなら
「頑張れ」でOKです。何年かこれをやると、以前のような濃厚な指導や相談は面
倒でもうできなくなります。
 心理学の故河合隼雄先生なら、「学生にレイプの覚悟をさせるのなら、教員の
方もレイプ冤罪の覚悟をしろ」とおっしゃるでしょう。まあ、幸か不幸かそれほ
どの思い入れを持てそうな学生とはついに出会いませんでした。
 話が「揚げ足取り」から随分離れました。「殺す」とか「死んでしまえ」とい
う言い方は、たとえ比喩であっても嫌がるひとが一定数出てきたの事実です。発
言者がAIなどを使って逃げてしまうことは可能でしょうが、これを際限なくや
りだすと基本的なコミュニケーションにも、いずれ支障が出てくるでしょう。そ
うなると必ず、「言葉で傷つくのは傷ついた方に責任がある。勝手に傷ついとけ」
なんて言い出すやつが出て来るでしょう。
 フラジャイル問題はどうやら先進国共通のようです。恐らく「人間とはどうい
う場合によりフラジャイルになるのか」とか「言葉で傷ついた人はどういう過程
で回復するのか」みたいな問題意識は、これから重要になると思われます。心理
学や言語学などの研究者に期待したいところです。

移民問題の本音

 嫌なニュースでした。後味の悪さではトランプ・ミャクミャク・熊・早苗、の四天王を押さえて、この夏一番だったと思います。
 JICA(独立行政法人国際協力機構)が、アフリカの4ヶ国と国内4都市をペアリングして国際交流をすすめる「アフリカ・ホームタウン」構想を今年8月に発表しながら、移民の大量受け入れにつながるとの批判を受け、9月に撤回してしまいました。
 昨今の排外主義化の一例とされそうな話ですが、この件は一方的にJICAの不手際と考えるべきだと思います。まず、あまりにも関係諸国、諸都市に対して失礼だからです。こちらから声をかけながら、移民に来て欲しくないという理由で一方的に話を壊したのですから、先方の担当者はかなり顔を潰されているはずです。もしかしたら、熱心な反日主義者の誕生です。
 一方、国内の都市では、「今の行政は市民に隠れて移民を大量に受け入れようとしている」との勘ぐりを受けました。自治体の側にそこまで遠大な計画があったとは思えないですが。これだけ話が広がってしまうと、日本人が排外主義的だとの第三国での評判も結構深刻です。
 つまり、「アフリカ・ホームタウン」は、構想結構な額の税金を使いながら、あちこちに迷惑をかけたあげく、成果どころか多額の「借金」を残して撤退したわけです。なんでこんなことになったのでしょう。

 ジャイカがわしい独立行政法人

 もともと、公益法人とか行政法人とかいう組織には、利権や腐敗の温床になりやすい構造があります。つまり、「本当に公益やら行政やらを実行するなら、選挙という統治が(曲がりなりにも)機能している国なり自治体に、なぜさせないのか」という疑問をどうしてもつきまとうからです。
 JICAの場合も、国際協力一般に関与する団体であり、ODAを事実上司り昨年度の行政コスト(予算?)が、約3000億円もある組織です。青年海外協力隊をやっていることでも有名です。独立行政法人とのことですが、何のために何から「独立」しているのでしょうか。世論から独立して官僚やOBの利権を守る組織......とまでは言いませんが、「感情的で無知な俗論から外交の専門家の判断を守る」ぐらいのイメージだと思うのですがいかがでしょうか。
 ただし単純にこうした発想を、傲慢で非民主的であると断罪してしまうことにも問題はあります。最高裁判所・日本銀行そして「今は亡き」日本学術会議など、世論と一定の距離をおくことで社会の安定を守る組織というのは、どんなに民主的な国でも必要ありそうです。JICAに関して例を考えれば、たとえばODAにふるさと納税のような制度を持ち込み、途上国どうしの返礼品競争になるのは、さすがに具合が悪いでしょう。
 けれども、意図的に世論から距離をおく組織というのは、戦前の統帥権干犯問題と同じ構造とメンタリティーがあり暴走する可能性が常にあるということは、当事者を含めて警戒をしておくべきことです。

 一発退場ホームタウン

 今回の「アフリカ・ホームタウン」構想がいきなり炎上したのは、JICAという組織のわかりにくさも根底にありそうです。特に移民労働者に対する態度が不明なことです。たとえば、ホームページに「NGO、民間企業、地方自治体等のパートナーと連携した活動や、日本に対する適正な労働者の送出しの促進を目的とした開発途上国と術協力事業の推進のために活用いたします」などというすごい言葉が出てきます。いつから「労働者」を途上国から受け入れを推進する国に、日本はなったのでしょうか。普通なら「研修」やら「高度人材」やらの言い訳を付けて書くところですが、ダイレクトに本音の?「労働者」という言葉を使っています。外国人労働者の受け入れの是非以前に、こんな大問題を平然と広報していられる組織が、何千億の税金を使っていることの方が恐ろしい気がします。
 ところが、「アフリカ・ホームタウン」構想撤回を伝えるページでは、「その上で(今後も国際交流を促進する取組を支援していく上で)、JICAとしては、これまで移民を促進するための取組は行ってきておらず、今後も行う考えはないということを、改めてこの機会に表明いたします」と断言しています。「労働者」と「移民」の違いはあっても、矛盾したことを平気で書いているのです。
 セキショナリズムの意思統一ができていないのなら、国際的な分断に手を付ける前に、組織内の分断をなんとかしてくれと言いたくなります。もし、広報の統括責任者がこの矛盾を放置して良いと考えているのなら、国際世論どころか国内世論をなめるなと言いうべきでしょう。いや、せめてもう少し上手な嘘をついてくれとお願いしましょう。

外国人材受入れ・多文化共生支援,https://www.jica.go.jp/activities/schemes/multicultural/index.html
「JICAアフリカ・ホームタウン」構想について,https://www.jica.go.jp/information/notice/2025/1573131_66416.html
 さらに 「アフリカ・ホームタウン」構想について調べてみましょう。まず、対象国と相方になる自治体を並べます。(かっこ)内はおよその人口や公用語、主な鉱産資源です。また、自治体の方も人口を入れておきました。

モザンビーク(3100万 ポルトガル語 LPG)  → 愛媛県今治市(14.1万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E5%B8%82
ナイジェリア(2億3200万 英語 石油) → 千葉県木更津市(13.7万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%B4%E6%B4%A5%E5%B8%82

ガーナ(3200万 英語 金 石油) → 新潟県三条市(8.9万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%B8%82

タンザニア(6700万 英語 金 ニッケル) → 山形県長井市 (2.4万)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E5%B8%82
 場所を確認しておきましょう。ナイジェリアとガーナは大西洋に、モザンビークとタンザニアはマダガスカル島の裏側でインド洋に面した国です。日本を基準にすれば地球の裏側にあるような場所で、直行の航空便はなく乗り換えを含めて15時間以上。格安航空券をつかっても往復で15万円ぐらいはします。はっきり言えば、地理的に遠い国々なのです。
鉱産資源にも恵まれ、これからの経済発展に期待ができそうで、念のため言えば、戦乱や大規模な自然災害などで大量の難民が出るような失敗国家ではありません。欧米列強の元植民地ということで、旧宗主国の言語などが国内の共通語・公用語として使われており、小学校以上の授業は英語という国もあります。つまり、大量の移民希望者が出る理由も、移住先にわざわざ日本を選ぶ理由もないのです。
 JICAは、こんな遠方から多数の移民を呼び込むことを本気で考えていたのでしょうか。おそらく違うと思います。事実上最大の移民呼び込みプロジェクトである悪名高き技能実習生制度の胴元は、厚生労働省とその関係法人です。何か移民利権のようなものは、基本的にこっちに行くはずです。
 JICAは良くも悪くも国際交流を促進するための組織です。なぜ、国際交流を進めるかといえばJICAだからです。よく言われるように、日本人の作る官僚型組織は、最初に組織の目的が与えられると、そこを疑うことは一切せずに、価値が形骸化しようが弊害化しようが、いつまでも動き続けるものです。おそらく国際交流のために作られた組織は、誰かが叩き潰すまで国際交流活動をやっているのでしょう。
 もう少し具体的に説明すると、官僚組織は予算と権限を守るために実績を上げ、それを大げさにアピールするものです。JICAとしては、おとなりの中国と比べて、見劣りするアフリカ諸国とのパイプを太くして、関係予算と権限と人員を確保することに最大の関心があるのです。
 だから、今回のように現地との関係悪化の可能性が大きくなると、さっさと撤退するのです。多くの日本人の作る組織は、こういう場合には延々と悪あがきをして傷を拡げるのですが、さすがは国際社会の荒波で鍛えられた逃げ足、見事でした。

 奴隷としての技能研修生

 世界中でほとんど誰も言っていないことですが、移民にならない権利というのがあるべきだと思います。多くの人は、自分が生まれた国で幸せに生涯を送りたいと思うはずです。ただし、一部の例外として外国に祖国より魅力的な「何か」を見つけた人のみが、一時的にしろ永久的にしろ異国で生活をすることになる。「何か」は仕事や宗教かもしれません。自然環境やスポーツかも知れません。かけがえのない誰かなのかもしれません。文化や民族などという「ばけばけしい」方もおられるでしょう。
 けれども、祖国にいては健康で文化的な生活どころか命さえ守れないというような難民じみた移民。もうすこし言えば、自国に大きな不満がありどこか別の国で生きたいという国民が大量に出る場合の話です。「大きな不満」には、所得の少なさ、治安や衛生環境の悪さ、教育問題、いわれのない差別などがありそうです。こういう場合、移民を受け入れることは緊急援助としての意味はあっても、問題の根本的な解決とはほど遠いものです。どう考えても、不満を持っている人のうちごく一部しか、移民として脱出することは出来ないのですから。さらに言えば受け入れ国側には、「帰れない移民」の弱みにつけ込んで、思う存分に搾取してやろうという輩が、官民を問わずウヨウヨ居ます。
 さっきも名指しにした技能実習生制度など、公設民営のタコ部屋です。こう言うと、制度の本来の趣旨やら成功例やらを持ち出しての反論がありそうですが、一定の期間やってみて一定以上の失敗例が出るものを、いつまでも税金でやってはいかんと思うのですが。ちなみに、「一定」というのは幅のある概念ですが、技能実習生制度に関しては十分、ボロクソに批判されるだけの「一定」でしょう。
 もう少し具体的にやりましょうか。途上国から連れてこられた「実習生」は、多くの場合、日本の若者が寄りつかないような劣悪な職場で実習することになります。もちろん、まともなオンジョブトレーニングなんかある訳ありません。
 現場で先輩の背中を見て「技」を「盗め」などと寝言を言わないで下さい。語学の壁もなく故郷からの移動も楽な日本人が、一向に「盗み」に来ない「技」って何なんでしょう。猿にでもできそうな仕事を、猿以下の待遇でやらされている例だって少なくありません。何を学ぶのでしょう。
 さらに、たとえば農業の場合、気候も食習慣も違う国で技術を身につけても、故郷でどの程度役に立つのか心許ない話です。工業製品の場合も、同じような機械で同じような製品を作るときにしか使えないノウハウを学んでも仕方ないでしょう。確かに鋳物や旋盤など町工場系の職人技というのも確かにありますが、こういうのは機械に代替される可能性が常にあります。製品もろとも技術自体が不要になることさえあります。日本人の若者が学びに来ないものを、日本語の通じない外国人に短時間で教えようとして、うまく行くと考える発想が恐ろしいと思います。
 途上国の若者を騙して連れてくるとハッキリ自覚しているのなら古典的悪人ですが、工場や畑から実習生が大量に脱走したあと、「最近の若者は辛抱が足らん」などとピンボケした感想をもつ経営者は古典的愚者です。。

 ならない権利・出さない義務

 この長屋の大家さんは、昨今の排外主義的な動きを見て「日本人は幼児的なので、これ以上移民を入れる能力がない」とおっしゃっていますが、少し補足が必要かと思われます。幼児的なのは排外主義者だけではなく、移民受け入れ主義者の大部分がそうなのではないでしょうか。
 我が国で少子化対策など労働力不足の話をすると必ず出てくるのは、IT化と外国人の受け入れのセットです。つまり外国人は機械と同列なのです。機械とはある目的を達成するための人造物で、破損や劣化で機能しなくなったり、より効率的な新しい機械を入手したり、目的自体が消滅したりすれば、粗大ゴミになる代物です。生身の人間をこういう風に扱えば、それは立派な奴隷制度です。
 移民を積極的に受け入れる側は彼らを「連れてこられた連中」だと思い、排除する側は「乗り込んできた連中」と見なす。それだけの違いです。これらを幼児的と呼ぶのは、さすがに幼児に失礼な気がします。どちらも、ただただ薄汚い思想です。そして、さらに救いがないのは、移民というものの実体を見れば、こうした見立てはあながち間違っているとも言い切れないことです。前者の例は、バビロン捕囚、奴隷貿易......、後者はゲルマン民族大移動、メイフラワー号......、「連れてこられた」わけではなく、「乗り込んできた」わけでもない移民なんて、地球上に存在したことがあるのかどうか不明です。
 移民という発想には、多かれ少なかれ人間の醜い部分が投影されやすく、このことは受け入れ側だけではなく、一旗揚げにやってくる側にも言えると思います。言い方を変えれば、人間の「悪い意味で幼児的」な部分を反映してできた社会システム、つまり必要悪のひとつが移民なのでしょう。
 理想を言えば「人間には移民にならない権利があり、統治者には移民を出さない義務がある」とするべきです。そしてこのことを誤魔化さずに、何をやっても矛盾がでる現状にゲッソリしながら、それでもなお目の前にいる人たちに何をしたら良いのか悩むのが、大人の態度だと思います。

移民問題の本質,http://blog.tatsuru.com/2025/09/23_1430.html

 高松での裸婦像の撤去について議論は今回で終わります。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html
 「脱ぐ文脈」と「脱いじゃう文脈」 【裸婦像をめぐるラフな議論 その5】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/19_0733.html
  無難な選択 【裸婦像をめぐるラフな議論 その6】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/22_0738.html 

 数年前、自宅から脱走した愛犬を探していて、夕刻に大阪市内の靱公園に迷い込んだことがあります。近くの方はご存じかもしれませんが、あの公園には、等身大で着色までされたリアルな人物像が数体設置されています。散歩中の近所の方かと思い「白い迷子犬を見かけませんでしたか?」と声をかけそうになり、ギョっとしました。人間でないものが人間の形をしているのです。なんとも不気味なでした。
前にも書きましたが、私自身はリアルな人物像が苦手です。それだけではなく、公共の場所には、メッセージ性のあるアートは極力置かないでほしいと思っています。「勝手に税金を使って趣味や主張をするな」と言いたい方なので、裸婦像の撤去を求める方の気持ちも分からないではありません。今回は、像に抗議している側の違和感や嫌悪感について考えてみたいと思います。

性表現規制が育てた暴力的性風土

 中世と言われる時代から世界中どこでも、性を規制する側の論理は「猥褻からの社会秩序の防衛」でした。一時期、ヌードが反体制的で解放の象徴とされたのは、それに対する反発が発端だったのでしょう。
 けれども、歴史を経て生き残った近代国家の社会体制はガッチリと仕上がっており、良くも悪くも猥褻ごときではビクともしそうにありません。一方、商業的な性表現は氾濫することになります。典型例はバブル期の我が国です。
 けれども、日本では直接的な性器や性行為の露出は規制されています。陰毛でさえ公然と写真集に掲載されたのはバブル崩壊期の1991年。そのためなのか、我が国の商業的性表現はかなり歪み、一部は男性の攻撃性と強く結びついたものになりました。極端に言えば、「力ずくで女性が嫌がる事をさせる」のが最大の関心事で、昨年(2024年)大炎上したCX文化(例;オールナイトフジ)などその典型でした。これを「脱がせる文脈」と呼びたいと思います。暴力的な性コンテンツの氾濫により、「性表現には必ず性被害が伴う」という、極論気味ですが無視できない視点も登場しました。
 もともと性被害というのは流血に匹敵する残酷さと、被害者の子孫にまで影響しかねない拡大性がありながら、本質的には心理的なものです。目に見えないものは過小評価や過大評価の恐れが大きい......というより、性被害は過小評価か過大評価しかできないのかもしれません。「大丈夫、ひと風呂浴びたらチャラでしょ」と言うのは明らかに過小評価、「あなたは事実上、殺されたのです」と言うのは過大評価。でも、本当に本気で被害者に本気で寄り添うつもりなら、どちらの視点も必要なものです。
 加えて、PTSDなど、他者が評価すること自体が被害を拡大させる(セカンドレイプ化)こともあります。結局、性被害をめぐる論争は感情のぶつけ合いになり、声が大きい方が勝つことになりがちです。

  裸婦像のもたらす性被害    

 話を高松の裸婦像に戻しましょう。この作品による「被害」について2つに分けて考えてみましょう。モデルさん本人のものと現在の公園訪問者のものです。言い換えれば「見られることの被害」と「見せられることの被害」です。
 像の建立は1988年とのことですから、当時10代前半ならおそらく団塊ジュニア世代でしょうか。モデルになられた理由、アトリエではどんな姿でおられたのか、完成時にどう思ったか、今はどう感じているのか、いろんな問いが思い浮かびます。けれども、本人からの申し出がない以上、勝手に性被害者扱いするのはお節介というものです。もしかしたら、特定のモデルさんは、もともと実在しなかったのかも知れません。
 もうひとつ屋外彫刻固有の問題があります。寿命がやたらに長いのです。よく、ウェブ上のコンテンツは流失したら削除不能と言われますが、ほとんどの場合、飽きられれば消えていき数年もすれば検索すら難しくなるります。けれども、公が管理するブロンズ像は、意図的に撤去されなければ、最大何百年も公然と存在するでしょう。もし不本意な作品だった場合、これはモデルさんにとっては致命的なことです。
 仮に、制作時には気に入っていても、若いときの裸像をいつまでも(成長後・老後・そして死後も)公園に展示されていることを、気持ちよく容認できるとは限りません。その街に住むことや、その公園を訪問することが楽しいかどうかも、さらにまた別の問題です。
 この記事で、再三指摘した来たようにほとんどの裸婦像は抽象性に徹して、モデルが特定されないものも多数ありますが、それにはこうした理由もありそうです。今回の撤去騒動についても、モデルさん(おられればですが)はどう感じているのでしょうか。ホっとしているのか、寂しく思っているのか、腹が立つのか、どうでもいいのか......御本人が声をあげておられない以上、考えても仕方ないことかも知れませんが。

 ミラーニューロンの被害

 さて、もうひとつの「見せられる側」の話です。最初に引用した記事では、「未成熟な少女像は同世代の子どもたちに"自分がさらけ出されている"かのような感覚を呼び起こし、それが抵抗感につながっているのかもしれない。」とされています。眼前にある他人の痛みや不快を自分のことのように感じる感覚、これは脳内のミラーニューロンの働きとされていて、極めて人間的なものです。想像力の源泉、民度の基盤とも言えそうです。
 芸術としての裸婦が崇拝され、作品への批判がタブー視されているところで、「(女)王様は裸だ」と、最初に声を上げた方は賞賛に値します。像をただの飾りものと考えず、モデルの心情に想像力を拡げたのは、地域の民度の高さを示すものでしょう。
 ただ、できればもう一歩進んで、「なぜ、この子は、"さらけ出"ることを選んだのだろう」「彫刻家は何を表現したかったのだろう」ということも、考えてみて欲しかったとも思います。
 この記事では、長々と公共の場所に裸婦像が多数建てられることについて論じてきました。抽象的なテーマを人物像で表すには、余計な個別性をもたない裸婦が都合が良く、喩えて言えば、「裸婦は白飯のようなもの」で見る側に解釈が委ねられている。というようなことを書きました。

 もはや「白飯」ではない

 けれども、高松の像が完成したころと、日本社会の状況は大きく変化しました。まず栄養状態の向上による性の早熟化、そしてそれに伴う性対象の低年齢化があります。そしてもうひとつ、性的な自己決定権の明確化です。「脱がせる文脈」の登場し、その後、それに対する嫌悪感が社会的に共有されました。
 なにしろ、小学校教師が勤務校で盗撮をする時代です。子供も親も防衛的に考えざるを得ません。また、誰かが(この件ではモデルさんが)性的自己決定権を奪われている(いた)可能性があれば、抗議するのが市民の義務のようになっています。もはや裸婦像は当たり障りのない「白飯」ではないのです。

 ブロンズ像も成長する

 ここまで書いていて、ふと......古くなった白飯はどうなるのかと考えていて、うまく行けば麹になると気づきました。白飯と違ってアルコールを分泌したりするので、どこにでも出せるものではありませんが、ただの白飯よりは麹の方が値打ちがあります。汎用性は失われますが、ある種の価値が醸し出されています。
 古い裸婦像が「脱がせる文脈」での抗議を受けることも困ったことばかりではない、という気もしてきました。ブロンズ像の少女が、地域の同世代の女性(「少女」とは敢えて書きません)の口を借りて「私、もう恥ずかしい」と言い出したとしたら、成長の証であり、建立時に意図された「郷土の発展」が、十分に表現できてたことにならないでしょうか。

裸婦像は時代に合わない?,FNNプライムオンライン,https://www.fnn.jp/articles/-/923656

 感動ポルノじみて来ますので下手な文学的表現はもうやめますが、作品に創作時の意図を超えた新たな文脈が加わるとしたら、それはそれで素晴らしいことでしょう。
 少なくとも、作者に卓越した技能があってのことです。実際、日本中で乱造された裸婦像の中には、批判さえ受けずに、劣悪なメンテと酸性雨のせいで劣化が進み、あわれな骸をさらしているものも山ほどあります。
 高松の公園の作品は市が委託して作った作品です。「時代が変わったから、お前の作った猥褻物を撤去する」では、あまりにも作者に失礼です。「あの娘も、どうやら大人になったみたいですね。このままでは可哀想です。きっと先生の腕が良すぎたんでしょう」という発想で、まずは議論を始めていれば良かったのではないでしょうか。
 もう一度、創設時点に戻って考えてみたいと思います。まず、裸婦像でないなら、瀬戸大橋の見える公園に何を置いたら良かったのか考えてみましょう。着衣の人物像、「軍服、白衣、スーツ、作業着」何を着ても「郷土の偉人」に見えてしまい、これまた感動ポルノに一直線です。男性裸像の場合は、生殖器の処理や体型の選択という難題があります。
 結局、無難に人物像をつくるなら裸婦になってしまいます。そして高松での例でもそうでしたが、「未来」や「発展」をテーマにすると少女像になりがちです。これを差し障りがあると考えるなら、構想の段階で人物像を造ること自体を断念すべきだったと思います。
 また逆に「裸婦はいやらしくない」と無条件で考えている人は、「脱ぐ文脈」からの距離で発言しているのでしょう。モデル自身が性的アピールをしているわけではありませんから、彫刻家が真面目に作っている限り裸婦像は「いやらしくない」という考え方です。

「いやらしさを感じるバカはいない」設置当時の市長は驚き にわかに物議醸す"裸婦像"の行方 「時代遅れで今の時代にそぐわない」と静岡市長が苦言 中には印象派の巨匠・ルノワールの作品も,
https://www.fnn.jp/articles/-/804363

 むしろ製作時には「脱いじゃう文脈」の混入の方を、彫刻家は警戒していたはずです。渾身作を笑われてはたまりませんから。
 けれども、その後に猖獗を極めた「脱がせる文脈」で考えれば、「裸婦像は性犯罪の一場面を描写している」ようにも見えるわけです。作品に「脱ぐ文脈」や「脱いじゃう文脈」がないことも災いして、「なぜ裸なのか」について説明責任のようなものが生じます。当初は全く想定していなかった視点からの批判が後になって出てきたのですから、設置者にとっては言いがかりみたいなものです。けれども、公共性が求められる場所では決して無視できない論点です。

 民度の高い議論の必要性

 ではどうすべきなのか。裸婦像というものの現代的な位置づけを再定義してみたり、「見る権利」と「見せられない権利」との折り合いを考えることもしないで、いきなり問答無用の撤去では、あちこちにタチの悪い分断のタネを残すことになると思います。「性被害者に冷淡な街」にも「大きな声にはアッサリおもねる街」にも、「芸術観がころころ変わる街」にも、高松市はなりたくないでしょう。
 できれば、制作者側と撤去希望者側が、現地で話し合う機会がつくられるべきだと思います。私が担当者だったら、撤去希望者側には像設立の意図や経緯を理解してもらい、一度何も考えずに(文脈との切り離し)、モノとして像の美しさを見て欲しいと言いうでしょう。一方、制作者側には、あえて性的ないやらしい目(脱がせる文脈)で像を見ることを勧めます。そして市側など中立の立場の方には、両方の視点で見てほしいと言います。
 また、どうしても像を見ることが嫌だという方には、「なんで嫌なのか」を制作者にも理解してもらえるように語って欲しいと思います。さらに、こういう場で全く発言する気も無い人がいても、それもまた大切な立場です。そういう方がおられたという事実も参加者で共有するべきです。まずは像への向き合い方の多様性を大事にしましょう。
 その後、力づくのイデオロギーのぶつけ合いではなく、想像力を駆使して多用な立場・視点・趣味・価値観に近づいてみる。こうした民度の高い議論できたのならば、最終的には職権による強制力で解決せざるを得ないことになったとしても、参加者全員にとって得るものが大きいのではないでしょうか。
 今後、経済的に落ち目になることを避けられない我が国で、最後まで誇りに出来る、あるいは誇りにすべきは、われわれ自身の民度しかないでしょう。「金だけ今だけ自分だけ」に居着いている余裕は、今の日本人にはないと思います。

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html
 「脱ぐ文脈」と「脱いじゃう文脈」 【裸婦像をめぐるラフな議論 その5】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/19_0733.html


 考える人を考えない人

 もうひとつ男性裸像で厄介なのは体型の選択ではないでしょうか。クレッチマー博士の三分類で考えるとしましょう。博士によれば、人間の体型には細長型、肥満型、闘士(筋肉)型の三種類があるそうで、少なくとも西洋文化圏では、体型をこの三種類に分ける思想が一般的であったと言えるでしょう。 

クレッチマーの性格類型論(体格タイプ論),ITカウンセリングLab,https://it-counselor.net/psychology-terms/kretschmer-type-theory
 男性像でガリガリに痩せた細長型を採用したらどうなるでしょう。おそらく、飢餓、感染、虐待、奴隷などと言った方向に作品は向かっていくでしょう。嫌でも政治的な物語になります。
 逆に、ふくよかな肥満型にすると、退職、傲慢、搾取、などという印象が立ち上がって来ます。裕福で鷹揚な東洋人が連想されることもありそうです。まあ鼓腹撃壌の物語ぐらいですか。
 古代ギリシャローマの男性裸像は圧倒的に、いかにも健康的な筋肉型です。もちろん傑作も多い定番スタイルなのでしょうが、闘士型という別名の通り戦士かアスリートにしか見えなくなってしまいます。男性裸像では体型が、衣服と同様に作品の固有性・具体性を勝手に表現しがちで、抽象的なイメージの造形をしたい場合には、厄介なノイズになります。
 中肉中背の目立たない体型にすれば良いようなものですが、特徴のない退屈な男性像に限定されるぐらいなら、裸婦の方がよほど自由度があります。中肉中背の男性裸像での、ほとんど唯一の成功例はロダンの「考える人」でしょう。

考える人 (ロダン),ウィキペディア(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA_(%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3)

 この作品は、裸像であることがすぐには思い出せないほどの自然な造形になっています。体型や生殖器も全く印象に残りません。けれども今後、同様のポーズの作品を誰かが作ると、二番煎じとかアイデアの盗用などと言われて終わりです。あまりにもナチュラルな造形で、ブロンズ像である限り変化のつけようがないのです。だから彫刻家はこの手の企画を、はじめから考えないでしょう。
 裸婦では、体型が固有性具体性を主張することはあまりないでしょう。かなり乱暴な言い方ですが、平均的で目立たない乳房を付けておけば、体型が自己主張することは避けやすそうです。乳房が一種のコートのような働きをするので、「すこし痩せ型」か「ぽっちゃり型」ぐらいしか印象に残りません。言い換えれば、中肉中背のありふれた体型でも乳首がアクセントになって、「いかにも退屈な造形」にはなりにくいのでしょう。かなり抽象性の高い造形でも、乳首が省略されにくい理由の一つだと思います。
 ただし、抽象を目指す作者としては、裸婦の胸には「コレハ、ラフゾウデアル」以上の余計なことは喋ってほしくないはずで、目立たない造形が望まれます。そういえば、いわゆる「巨乳」やいわゆる「貧乳」の裸婦像はほぼありません。あえて採用すれば、男性裸像の体型と同じ問題がおこります。だから抽象的なテーマであればあるほど、胸が目立たない少女像になりがちなのでしょう。

 白御飯の柔軟性

 これまでの議論をまとめてみましょう。人物像の場合、着衣や体型は作品に固有性・具体性をもたらす強い作用があます。そうした方向性を嫌う抽象的なテーマを求めるなら、それらは不都合なノイズとして作用してしまうので、結局、裸婦像それも少女像が一番自然でやりやすいということになります。
 だから、モデルさんの名前のついた裸婦像(「○子像」とか)は極めて少なく、かなり写実的なものでもモデルが特定されているものは少数のようです。美術史的な理由でモデルを詮索することも、あまり積極的に行われているようではありません。あくまで抽象性が尊重されています。
 何度も書きますが、抽象性が高く鑑賞者に多様な解釈を許すような趣旨の場合、着衣などの脇役が無要な自己主張をしない裸婦像は定番なのです。言い換えれば、何かを訴えるための裸婦ではなく、余計なメッセージを抑制するための裸婦なのです。そして、あらゆる不要な文脈から距離を置く造形が求められるからです。
 たとえて言えば、裸婦は白御飯です。一椀の白飯だけを見ても、どのような料理が出てくるのかわかりません。けれども、千枚漬けと沢庵と塩昆布が添えてあれば、懐石のシメの赤だしが横に並べられそうです。アラレと刻み海苔とわさびが添えられていれば、お茶漬け......それも鯛の刺身と出汁が出てきそうです(ごまダレなんか、たまらないですね)。趣を変えてラッキョウと福神漬けなら、インド方面へ向かう......主役に柔軟性があるほど、力のある脇役に方向性を決められてしまうことが多いのです。
 これが、チャーハンや炊き込み御飯なら、何を添えても自分の世界に持っていってしまいます。コース料理の自由度を一番阻害しないのが白飯なのです。
 このことは、裸婦像と水着像との比較で考えればよくわかるでしょう。まずスーパーの二階で売ってるようなビキニやサザエさんが着そうな水着を着せて、瀬戸大橋に臨む公園で像を建てたら「近くに海水浴場があるんだ」と思われそうです。競泳用水着なら、「夏の国体があったらしいね」となります。古めかしいスクール水着なら「廃校の思い出」あたりでしょう。水着一枚で像の方向性がきまってしまい、どうしても話が小さくなります。

 マヌケな力士像と手抜きの裸婦像

 だからと言って男性の裸像は、よほどの傑作以外はこっけい感が出ます。特に日本人で裸体の男性像を作ると力士風になりかねません。まわしの無いおすもうさん。「全裸山」とか「小便小結」(要給水設備)とか言われそうです。ゆるキャラにでもすれば見物客が集まり、「脱いじゃう文脈」での町おこしと言えば町おこしですが、自治体も住民もたまったものではありません。彫刻家のキャリアにも暗い影を落とすでしょう。大相撲協会も激怒......誰がこんなチャレンジをするもんですか。
 こう考えると、自治体などが依頼製作をするときに裸婦が選ばれやすい理由もわかります。像が具体的になればなるほど、後年にモデルについて物議をかもしやく、また逆に忘れられて時代遅れにもなりやすいからです。だから、公共の場で抽象的なテーマで人物像を作る場合、「消去法も含めていろいろ考えた末に裸婦」というパターンになりがちだったのでしょう。
 さらに、各地で同じような意図の像が量産されはじめると、この傾向には拍車がかかります。無難で前例があるものほど行政に選ばれやすいからです。ただし、流行があまり極端になり粗製濫造気味になると、見る側に飽きられて「なんだ、また裸婦か」と思われ、無視されるようになります。実際、素人目でも「チャチャっと適当に作ったな」と言いたくなる像は日本中にあります。ひどい場合には、どこかの裸像をモデルにした裸像ではないかと思われるのもありますが、こういうのは、あまり問題にもなりません。
 今回の高松の例のように、不愉快を感じてもらえたということは、ある意味では芸術家としては勝利なのかも知れません。見る人の心に強いインパクトを与えられたわけですから。けれども、それだけに勿体ないとも言えますし困ったことだとも言えるでしょう。

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html

 表現力が限定された塑像では、着衣が大きな発言力を発揮することは、前回【その4】でお話ししました。だから、抽象性をキープするための裸像という考えなのでしょう。実は、高松の像の作者も、「着物(服)は階級を表す」という理由で、裸像を選択したとおっしゃっています。けれども、それならばなんで女性なのでしょうか。考えてみれば、著名な男性の裸像は、特に近現代のものは皆無です。たった一つの大傑作を除いて。
 原因を考えてみましょう。ひとつは、【その2】でも書きました男子生殖器の処理の難しさです。【その3】のジーンズと同様、柔らかいものを金属で表現することは困難を極め、ひとつ間違えれば安物のアニメに出てくる安物のロボットの安物のノズルになってしまいます。素人や学生さんの作品なんかでよく見かけます。逆に言えば、ブロンズ像の男性器で明快な猥褻を表現できたら、それは類を見ない傑作になるでしょう。少なくとも私は見たことがありません。
 ただし、性器自体をモティーフにした広い意味での作品も多数存在します。私が知っているものでは2つのグループに分けられます。まずは、日本各地の神社にある男女の生殖器をかたどった各種の御神体です。
 もうひとつのグループと考えているは、小便小僧でほぼほぼ100%が男児です。ルーツはベルギーらしいのですが、「若き日の王が戦場で敵に向かって放尿した」とか「おしっこで火事を消した」というのが由来だそうです。この話もフロイト的に、「男性器の攻撃性や射精の象徴」と考えられなくもありません。
 けれども、オリジナルの小便小僧も世界中にあるほとんどのレプリカ像も、こうしたイメージにはほど遠い、あどけない姿です。御神体にも共通することですが、男性器を彫塑にすると豊穣どころか、退廃や攻撃性までも失い、「微笑ましさ」という言葉がぴったり来る造形になりがちです。
 男性裸像、特に成人の股間に何もつくらないのはあまりにも不自然ですし、だからと言ってリアルな性器を配置すると、単純に笑われてしまうリスクがあります。妥協案なのでしょう。屈強な成人男子の像に、小便小僧のような幼児の男性器を配置して誤魔化すというのがよく見られる手法です。

 ダビデ像,【イタリア】なぜ彫刻には包茎が多いのか?,フィレンツェからボンジェルノ,http://yukipetrella.blog130.fc2.com/blog-entry-261.html
 おそらく女性器でも同様なのでしょう。生殖器が見える裸婦像は皆無です。それどころか、性を徹底的に回避しているように見えます。やはり多産(生殖)から豊穣への連想で、裸婦のモティーフが多用されるようになったいう推測には、無理があるようです。

 ちょっとだけよ

 どうも、性表現というものは猥褻よりも笑いに強い親和性があるようです。「古事記」にある有名な話ですが、女神アマノウズメが性器を露出して踊ったところ、八百万の神々は大笑いをしました。でも、なんで笑うのか分かりません。幼児が「ちんちん」などと連呼して一人で笑い転げている姿をよく見かけますが、同じ感覚なのでしょうか。
 もうひとつ、1970年代に一世を風靡したドリフターズのTVコント番組「8時だョ!全員集合」。一時期、最大の見せ場のは加藤茶氏(かとちゃん)の「ちょっとだけよ」でした。令和の今では説明が必要ですね......当時のストリップショーでの踊り子のセリフなので、「裸を見せてあげるのは、ちょっとだけよ」という意味です。
 ところが、「ちょっとだけよ」はそれまでのコントの流れとは全く関係のないところで、突然登場します。武士・警官などから踊り子姿への早変わり、照明、音楽(生バンドでした)なども突然転換する大がかりなギミックでした。かとちゃんが出てくれば「ちょっとだけよ」が始まることは、見ている全員が知っていたはずで意外性は全く無いのですが、いつも唐突にはじまりました。

 裸婦の方向性を決定する「物語」

 おそらく、性的なコンテンツが、「エロスを醸し出すか笑いを呼ぶか」、「あるいは嫌らしくなるか可笑しくなるか」の分岐は、背景にある物語との文脈にありそうです。
 現代人が意図的に自らの裸を誇示するのは他者との性的コミュニケーションを求めていると考えられると前にも書きましたが、コンテンツがその本来の性的な物語に乗っかれれば、普通の性的コンテンツになります。
 エロ本には最初に着衣の写真があります。全ての風俗嬢は服を着て客の前に現れます。裸そのものではなく裸になることで、性的なコミュニケーションを求めている女性を演じるわけです。とりあえず、こうしたコンテンツと物語の関係を「脱ぐ文脈」と呼ぶことにしましょう。
 浮世絵が春画として世界的に評価されたのは、一幅の屏風で物語を表現できる日本美術独特の表現が影響していると思います。磁気ビデオテープにはじまり、DVD、そして動画配信、物語を表現できる映像メディアの普及を、性的コンテンツ需要が支えたことは、家電関係者の間では常識です。
 一方、「古事記」や「ちょっとだけよ」の場合、性的ではない状況にいきなり裸(またはそれを暗示する人物)が登場して爆笑がおこります。どうやら、あるべき物語と不似合いな性表現には、笑いで反応するような回路が私たちの脳にはあるのでしょう。混入が唐突であればあるほど、この回路は活性化します。こうした状況を「脱いじゃう文脈」としましょう。
 アートの世界では、デッサンも写真も基本的に一枚一枚が独立しています。モデルが画家やカメラの前に出てから、私服を脱ぐこともありません。前後のあらゆる文脈を断ち切った、それ以上でもそれ以下でもない即物的な裸体が求めらます。
 このとき、何らかの理由(技術的未熟さなど)や作為で、無関係な物語が混入すると、「脱いじゃう文脈」が成立し、裸体やそれを暗示するキャラ(「ちょっとだけよ」の踊り子さんなど)は、笑いの素材になってしまいます。
 それなりのエロ小説を書ける高校生は結構いそうですが、彼らに紙粘土を渡して「何か、エロいモノを作ってごらん」と言えば、ほぼ確実に笑いのおこるような「作品」を作ってしまうでしょう。「無理です」と断る子が大半かも知れません。
 物語りと折り合いの悪い彫像。特に屋外展示では、日常という最強の物語の中に作品がいきなり放り込まれ、時として意図しない「脱いじゃう文脈」が登場して嘲笑をあびてしまいます。

 競艇場の悲しきポルノ

 一昔前には「感動ポルノ」という言い方がよくありました。不幸な生い立ちや傷害を乗り越えた話などの場違いな押しつけが、「脱いじゃう文脈」で読まれてしまうため、性的な要素が全く無くてもポルノなのでしょう。
 たとえば、あるギャンブル団体のボスが実母を背負った像が日本中にあるのは有名ですよね。子供のとき「どこへ捨てに行くの」と母に聞いて激怒されたことあります。前の晩に読んでもらった「姨捨山」が頭に残っていたのでしょう。せめて、「ババア汁作るんだよね」とでも言うべきでした。確かに下で背負っていたのは狸でしたから。
 それにしても、私なら、息子ともども後世の人にまで笑われるより、人知れず山奥に捨てられるかジジイ汁にでもされた方が、まだマシのようにも思います。たとえば競艇場など、親子関係とも老人問題ともおよそ無関係な場所に、唐突に親孝行などというモチーフを持ち込むから、「脱いじゃう文脈」の親孝行ポルノになってしまうのです。
 以上をまとめると、裸体をコンテンツにする場合、純粋なアートにしたいのなら物語性を極力排除し、エロスを求めるならそれに相応しい物語を添付し(脱ぐ文脈)、笑いを取りたいなら唐突に不適切な物語をぶつける(脱いじゃう文脈)と、成功率が上がるということになりそうです。
 前回も書きましたが、男性裸像がコミカルになることを防ぐ最もありふれた方法は、ミケランジェロのダビデ像のように、乳幼児の性器をつけて誤魔化してしまうことです。つまり日常生活の場への性の持ち込みを最小化する戦略です。いかにもわざとらしい造形が「作品の傷」になりがちですが、仕方ないのでしょう。この問題は決して、裸婦ではおこりません。生殖器が見えないほうがむしろ自然だからです。

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html

 次に、「アジア太平洋戦争後平和になり、戦前戦中に作られた軍人さんの立像の代わりに、公的な場に裸婦像が多作されるようになった」とする説を検証してみましょう。
 武士や軍人の銅像は造りやすそうです。戦わせて良し、武器を持たせてよし、倒れてより、耐え忍ぶもよし、ビッグネームなら平服で前を睨んでいても絵になります。寄付も公金も獲得しやすかったでのしょう。
 すぐには何の人か分からない文民では、こうは行きません。たとえば、財界人にソロバンを持たせるわけにもいかず、別に説明がいります。文民の像で一番多いのは、おそらく学者さんたちでしょう。たいていの大学には、創立者の胸像があります。毎年末には、サンタクロース姿の碩学も多数おられます。歴史のあるキャンパスでは、そこらじゅう像だらけだったりします。
 面白いところでは、渋谷のハチ公の飼い主さんも駒場の大学におられます。もちろん研究者としての功績によるもので、模範愛犬家としてではありません。キャンパスの改装で一時撤去するとき、わざわざ学生たちが渋谷まで運んで、ハチ公と対面(再会?)させたという話もあります。
 けれども、戦後は軍人に代わって研究者や文化人の胸像が量産されるようになったわけではありません。民主的な価値観の中で、そんなことを望むのは恥ずかしいと思う人が増えたからでしょう。
 院生時代の私の指導教授。学生たちと各種胸像の横を歩くとき、「間違ってもこういうの作るなよ」と何度もつぶやいておられました。私たちは「これだけおっしゃるのは、よほどお姿を残されたいのだな」と解釈して、「オレたち成功したら、カニ鍋屋の看板みたいにギッチンギッチン動く巨大なやつを建てよう」と誓い合いました。幸い今のところ誰一人として成功しないまま、世間に散らばっています。代わりに、この長屋で大家さんの......やめておきましょう。
 さて、軍人・政治家・作家・科学者......偉人には全て固有名詞があります。建ててしまったあと、革命のスキャンダルでモデルが極悪人認定されてしまうと、叩き壊さざるを得ないことになります。一種の公開処刑ですから像の芸術性は一切考慮されません。
 こうした事情もあり、固有名詞のある像やイデオロギー色の強い像の建立を、本人も含めて誰も希望しなくなったことが、裸婦像量産の契機になったというのはありそうな話です。    
 けれども、二つの大きな疑問が残ります。まず第一に着衣ではだめなのかということ、第二になぜ女性ばかりなのか、ということです。一つずつ見て行きましょう。

 昔、ジーンズにはメッセージがあった

 第一の問いのヒントになりそうな作品を、数年前に見かけました。ジーンズをまとい上半身だけが裸という女性のブロンズ像です。この作品で一番印象に残ったのはジーンズ生地の質感でした。金属で布を表現するのですからかなり無理があり、デニム地が、ブリキ製のバケツのように見えてしまいました。材質上の違和感が強烈過ぎて、モデルさんの事などは全く覚えていません。
 けれども、考えてみれば県立美術館に出品するような彫刻家が、技術的な難しさを知らずにジーンズを使用しとは考えられません。また、美術館がわざわざ失敗作を収蔵品にするとも思えません。
 歴史的にジーンズは思想性の強いアイテムでした。まず、黒人奴隷の労働着という暴力的なルーツがあります。学園紛争のころ若い女性がジーンズを着用するのには、「私たちは、男性と同じように活動する」という強いメッセージがありました。
 約半世紀前の学生運動全盛期の話ですが、大阪大学で外国人非常勤講師がジーンズ着用の女子学生を授業から閉め出したため、学生たちから猛反発を受けて辞任に追い込まれるという騒動までありました。ちなみに、その先生の本務校は、この長屋の大家さんが長年教鞭をとっておられらた泣く子も黙る某女子大で、決して女性差別的な人ではなかったようです。逆に言えば、それだけ強烈な意味が、当時は女性のジーンズ姿にはあったのでしょう。

働く女性の50年史(9),福沢恵子公式サイト,http://www.keiko-fukuzawa.jp/15733036764245
北原恵,ウィキペディア,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%81%B5https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%81%B5

 話を作品にもどしますが、おそらく制作者は何らかのメッセージを込めて、モデルにジーンズを着用させたのでしょう。たとえば私が思いついたのでは、伝統的なジェンダー(上半身)と男性と同等に活動する女性(下半身)との分裂です。
 こういう作品には時間の概念もはいってきます。裸婦がジーンズを着用したのか、さらに何か着衣が加わる途中なのか、逆に脱ごうとしているのか......多様な解釈が可能とは言え、作品の方向性が、着衣によってかなり限定されているように思います。言い方を変えれば「ジーンズが威張っている」のです。当然、制作者の意図なのでしょうが、こうしたことを避けたい場合もあるでしょう。
 もうひとつ、日用的な衣類が登場したことで、その裸婦の具体性・個別性に注目が集まります。こうなってしまうと、「この女性(実在するとして)はどこまで納得してモデルになったのか」とか「この作品は彼女の人生に、どんな影響をおよぼしたのだろうか」とか「有名作品として自分の裸像が半永久的に展示されることを、どう思っているのか」などと余計なことを考えてしまいます。こうした思慮を芸術に持ち込むことが適切なのかどうかは、議論の余地がありそうですが、少なくとも制作者が意図したことではなさそうです。ですから、着衣像を裸婦像とでは、意図するものがまるで違い、抽象的なテーマの場合、着衣がノイズになってしまう可能性がありそうです。
 さて、今回記事をまとめるにあたって、記憶をたよりに該当の像をさがしてみました。おそらく滋賀県守山市の佐川ミュージアムで見た佐藤忠良の作品だったようです。残念ながら、その彫像そのものの画像は公開されていませんので、別の場所にあるよく似た像の画像を示しておきます。

「ジーンズ・夏」佐藤忠良,屋外彫刻の青空広場,https://publisann.com/%E3%80%8C%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%BB%E5%A4%8F%E3%80%8D%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%BF%A0%E8%89%AF/

 また、唯一の着衣が大きな意味を持つという私の考えは、どうやら作者なり佐川美術館の意図だった(知らなかった)らしいということも付け加えておきます。

佐藤忠良 身にまとう,佐藤忠良館,https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/2014/02/post-38.html

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html

困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 それにしても、戦後、公共の場所に量産された人物像は、なんで女性が圧倒的に多く、それも裸像なんでしょう。よくある説明は、「多産ということが豊穣につながるから伝統的に女性の性が強調される」というものです。ギリシャのペルセポネー、縄文のビーナスなどを引き合いに出す議論です。
 けれども、出産や性交をリアルに表現した像は、一神教による性的タブーが強くなった中世以降どころか、ギリシャ・ローマ、東洋美術でも、さらには埋蔵文化財でも皆無です。人間の生殖と農業の豊穣を無理に結びつけるよりは、すなおに健康的な体型の人物像は豊かな社会の象徴、ぐらいに考えた方が実体に合うような気がします。人間にかかわる全てのことを、性や性欲に結びつけて解釈しようとするのは、フロイト信者の常習的勇み足なのではないでしょうか。

ペルセポネー,ウィキペディア,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%83%BC  

縄文のビーナス,ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E3%81%AE%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9

 ただし、性器自体をモティーフにした広い意味での彫塑は多数存在します。よく知られているものは2つのタイプに分けられると思います。まずは各地の神社にある男女の生殖器をかたどった各種の御神体です。
 もうひとつのグループと考えているは小便小僧、ほぼほぼ100%が男児です。ルーツはベルギーらしいのですが、「若き日の王が戦場で敵に向かって放尿した」とか「火事を消した」というのが由来だそうです。この逸話からフロイト的に、「性的抑圧の強いキリスト教文化圏で、男性器や射精の攻撃性を象徴してる」と考えられなくもありません。
 けれども、オリジナルの少年像も世界中にある多数のレプリカも、こうした攻撃的なイメージを表現しているとはとても言えない、あどけない姿です。御神体にも共通することですが、生殖器を立体的に造形すると豊穣どころか退廃や攻撃性までも失い、「微笑ましさ」という言葉がぴったりくる造形になりがちです。
 実は、高松の像の作者も、生命力の象徴として少女を選ぶ理由に生殖を上げていますが、よくある形式的な説明だと思います。ある個体を自身の生命力と別の個体を作る生殖とは、似ているようで全く別の概念だからです。近未来に新たな生命を宿す可能性があることを理由に、「女児は男児にはない特別な生命力がある」というは、よく考えてみれば変な理屈なのです。
 誰かが発見した「生命力に溢れた女児」というモチーフが、あちこちで採用されているうちに、いつのまにか「女児は男児にはない生命力に満ちている」という、ぼんやりした話になってしまったのではないでしょうか。女児のみが多用されるようになった本当の理由が、別にあるように思います。もう少し別の議論も見てみましょう。

 母性とはほど遠い裸婦像

 類似の思想に、裸婦は母性を通じて豊穣を表しているという考え方があります。ちなみに、「母性」という言葉も誤解が多いものだですが、もともとは、「子供を産み育てる機能」ぐらいの即物的な言葉なのでしょう。「母性保護」なんていう言い方もありました。「女性従業員の母性保護のために、社員食堂を禁煙とします」なんていう感じです。
 フェミニズム界隈では、ジェンダー差別の要因のひとつだからという理由で、「母性など存在しない」とか「母性神話」などとクソミソですが、母性というモノが存在するのかという議論と、もし存在するとしたらフェミニズム的な「男女平等の徹底」というイデオロギーと、どう整合させるかという議論は分けて考えるべきです。
 フェミニズムは価値判断を含むのですからイデオロギーの一種で、それが正しいかどうかは、主観ないしは宗教でしか判断できないはずです。言い換えれば「正しい」かどうかの議論は無意味。「なんで男女は平等なのか」と聞かれたら、答えようがないでしょう。
 ついでにもうひとつ、「フェミニズム的な社会がうまく機能するか」というのも、さらに別の問題です。男女平等を尊重する西洋文明的な国(日本やロシア、イスラエルなんかも含む)で、多かれ少なかれ少子化がおこっていない所はありません。社会が消滅したらどんなイデオロギーも同時に消滅します。この論点だけで本一冊ぐらい書けそうですので、今は深入りしませんが、いずれ長屋でやってみたいと思います。で、裸婦像への母性の影響の話に戻ります。
 単体の人物像で明確に母性を表現しようとしたら乳房ぐらいしか、アイテムがありません。確かに、縄文のビーナスなど一部の埋蔵文化財では乳房が異様に強調されています。ほぼ草食だった古代のホモサピエンスにとって、一番身近な動物性タンパク食品は母乳でしたから、母性が豊穣の象徴だった時代や文化があったとしても不思議ではありません。
 けれども、同じ母性のイメージが近現代の裸婦像にまで継続していると考えるのは、無理がありそうです。現代人の感覚では、性器ほどではありませんが乳房も、やはり強調してしまうと滑稽になります。巨乳という言葉には少なからず侮辱的な響きがあります。戦後日本で量産された裸婦像で、胸が強調されたものはあまり見かけません。
 聖書に源泉をもつ聖母子彫刻など、母性が重要なモチーフになっているアートもありますが、絵画と比較すれば作品数が少なく、またそれらを裸婦と呼ぶことにも無理があります。そもそも異教徒の国日本では、およそはやらないテーマです。
 それどころか、特に戦後の日本に限定すれば像のモデルは年少者が多く、ときには「ロリコン」呼ばわりされるぐらいで、これらが母性を表現しているとはとても言えません。なぜ低年齢の女性の像が多いのかは後で考察するつもりでが、ほとんどの裸婦像作者は最初から母性など表現する気はないのでしょう。
 戦後のある特定の時期に、日本で裸婦像が量産された理由については、その前の時代のことなども含めて、じっくり検討したほうが良さそうです。

 前回に続いて、高松での裸婦像の撤去について議論していきます。もし、最初から読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html

 学生時代、日本画を専攻していた友人が「彫刻のやつはいいなぁ。いまだにギリシャ時代と同じ裸婦を作ってりゃいいんだから」とぼやいていたことがあります。これを彫刻専攻の友人に伝えると、
「絵描きさんはええなぁ。どんな形でも筆先ひとつで作れる。おれたちには物理的な限界があって、マルグリットの城みたいなのはとても無理。どうしても人物が題材になる」
「確かに、お前の抽象彫刻、公園に置いたら本格的な粗大ゴミや」
「熔けたブロンズ、頭からぶっかけて固めてやろうか」
「現代美術を代表する傑作を作りたいのやな」
「いや、どこかに穴でも掘って捨てる」
「なるほど、埋蔵文化財ねらいか」

ルネ・マグリット「ピレネーの城」,artpedia,https://www.artpedia.asia/the-castle-of-the-pyrenees/

 その年の卒業制作展。こやつの同級生は巨大なアスパラガスの素焼き像を出品しましたが、高評価を受けたという記憶はありません。確かに、絵画と比べて、石膏・ブロンズなどの彫塑(彫刻)は、色彩がなく細部を作り込みにくくなっています。緑でも白でも無いアスパラガスは、やはり辛かったようです。
 そして何よりも、彫刻にはこの長屋の大家さんのおっしゃる「額縁」がなく、背景も基本的にないことが特徴です。ゆえに彫刻は絵画にはない圧倒的な訴求力を持つ反面、そのパワーが作品の方向性の制御を難しくしています。企画段階でも制作段階でも、ちょっとした計算違いや些細な不手際で、とんでもない代物が出来あがってしまいます。

額縁とコミュニケーション,内田樹の研究室,http://blog.tatsuru.com/2025/08/12_0927.html

 さらに、学生など無名の作者の場合、材料費や展示・運搬上の制約も無視できません。失敗作の処分といった敗戦処理も、絵画よりはるかに面倒です。つまり、彫刻というメディアは極めて制約が大きく、困難なアートなのです。

「慰安婦像」の失敗

 このように、彫刻というのはまことに不器用な表現方法だと思います。だから、企画から設置までの総合的なプロデュースを誰かがする必要がありそうです。そのせいで失敗した例として、有名な通称「従軍慰安婦像」をあげたいと思います。
 この作品には「旧日本軍の組織的性暴力を糾弾する」という明確なメッセージが、最初からありました。作品として特徴的なのは、モデル座ってるのと同じ椅子が、左にもう一脚配置されていることです。また、参加型芸術なので鑑賞者はその椅子に座ることが出来ます。
 これはよくできた仕掛けで、「不特定多数の一時的なパートナーがめまぐるしく交代し、しかも女性の側には選択権も拒否権もない」という状況を表しているのでしょう(あくまで私の解釈です;以下同様)。そして、椅子に座ることで「誰でも状況によっては加害者側になってしまうことがある」ことに気付いてもらうみたいなことが、意図されているのでしょうか。
 ところで、この作品では「被害者」をどこまで一般化しているのでしょう。特定の「慰安婦」個人なのか、「従軍慰安婦」全体なのか、近現代の韓国人女性、もっと言えば地球上の女性全員なのでしょうか。
 オリジナル作品は、この点に関して明確な意図を持ち、注意深く設計されていると思われます。モデルは当時11歳で、像の制作者御夫婦のお嬢さんでした。いわゆる「従軍慰安婦」は建前上17歳以上でしたので、まずこの点で史実とかけ離れています。また、椅子は小学校にあるような明るい色で木製のもの。「慰安所」を意識するような造形は避けられ、作品の具体化を巧妙に避けています。
 けれども問題はチマチョゴリです。テーマがテーマですから裸婦というわけには行きません。一方、ジーンズなど、「慰安婦」が着たはずのない衣類も使えません。そこで、当時の朝鮮で最も一般的な衣装にしたわけです。けれども、この女性は近現代の韓国・朝鮮人のみを表していて、それ以外はとりあえず対象外なのでしょう。チマチョゴリは民族衣装であるだけに、アフリカや欧米の女性に想像を広げることを邪魔しています。
 この「慰安婦像」。コンセプトは良かったと思うのですが、出来上がった作品は素人目で見ても(意図的だったのかも知れませんが)完成度が低すぎるように思います。素材は、強化プラスチック、少なくとも日本では真面目な人物像にはほとんど使われません。不二屋の「ペコちゃん」や奈良の「せんとくん」など、ゆるキャラ向きの素材なのです。政治的な意図は別として、「なんでこんな脱力系の素材を使ったのか」とため息が出ます。
 もうひとつ、レプリカなのでしょうか。同じ配置(右にモデルが着席、左に空席の椅子)のブロンズ像がありますが、素材の違いで女性の年齢や服装は分かりにくくなっています。日本で報道されている「慰安婦像」と言えば、ほとんどがこちらのタイプです。屋外展示用とのことですが、プラスチック製のオリジナルとは全くの別物です。
 さらにあとひとつ、ソウル市内を走るバスに一時期設置されていた像は、プラスチック製ですが横の空き椅子がありません。もしかしたら、チマチョゴリ姿の若い女性像を展示してしまえば、なんでも「慰安婦像」として機能すると考えていたのでしょうか。アート、特に彫刻の場合、不用意に政治の世界に踏み込んでしまうと、作品が本質的にどんどん小さくなるような気がします。
 さらに、屋外展示の「慰安婦像」ではボランティアスタッフが、日本人と見れば横に座らせ写真をとるということが行われていたそうです。作品のメッセージを届けたいという気持ちは分かるのですが、来館者を無理にでも加害者ポジションに座らせるというのは、「アーティスティック・ハニートラップ」とか「3D美人局」などと呼びたくなります。ピカソの「ゲルニカ」の前に、来館者をわざわざ鍵十字の軍服姿で立たせるようなものです。政治的意図は嫌というほど伝わっても、芸術性は雲散霧消してしまうでしょう。一言で言えば、悪趣味です。

慰安婦少女像の展示中止愛知の国際芸術祭,日本経済新聞,https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48186080T00C19A8CZ8000/

 日韓関係が少しずつ安定してきている昨今、できれば同じ作者が腰を落ち着けて、同じモティーフをリメイクしたら、また新しい展開があるのではないでしょうか。

この夏、高松市の公園に長年展示されていた裸婦像が、市民からの苦情を理由に市が撤去を決定するという事件がありました。1998年に市が彫刻家に委嘱して制作した像でした。いわゆるキャンセルカルチャーの問題です。

裸婦像は時代に合わない?,FNNプライムオンライン,https://www.fnn.jp/articles/-/923656
 
もともとSNSなどでは、キャンセルカルチャーや政治的正しさは問答無用で嫌われています。よって、賛否両論と言われながらも実態は、市側が一方的に糾弾されているように見えます。
 結局は民度の問題なのでしょう。令和を代表する外国人差別語でもある「民度」とは何か。私は「想像力の及ぶ範囲の大きさ」と定義したいと思います。よく日本人の民度の高さの例になる話。「街にゴミを捨てない」のは片付ける人のことが想像できるから。「電車に乗るとき整列する」のは、我勝ちに乗ると発車が遅れることが想像できるからです。
 だから、民度は個人でも集団でも、生きている(存在している)限り常に変化しているものです。「日本人の民度」と言えば、「今現在の日本人の民度」という意味になります。個人の思想の民度や自治体の施策の民度も考えられます。
 ちなみに、街頭インタビューで「日本人ファーストについてどう思いますか?」と聞かれて、「当たり前や。外国人なんかいらん。一塁は大山で決まりやろ」と答える我々タイガースファンの想像力はアルプススタンドを超えません。この秋、世界有数の民度の低さです。でも数年後には、「どこぞにエエ外人おらんかな。日本人なら大谷やで」と地球の裏側まで勝手極まりない想像力を駆使して、民度を向上させているでしょう。
 自分の民度を一気に低下させるスローガンがあります。「今だけ金だけ自分だけ」というやつです。ここまで簡潔に自分の想像力を破壊する言葉は他にないでしょう。ちなみに、私なりの対策は、「今・金・自分」の3つを同時に並べないことです。「今の金のことだけを考えて行動するとき、そのせいで誰かが酷い目にあっていないか配慮する」「今の自分のことを考えるとき、お金だけでなく健康や人間関係にも気を配る」「自分のお金の話なら、将来困らないかも検討してみる」これぐらいで、随分民度があがると思います。
 ちなみに、民度が高ければなんでも良いわけではありません。国体護持のための特攻や大東亜共栄圏構想など、「今・金・自分」よりも想像範囲が広くて、民度が高いのは確かですが、無意味だったり迷惑だったりしました。

文化行政の民度

 今回、像を撤去しようとする高松市に向かって、「田舎者に芸術は無理。像を溶かして鍋にして、讃岐うどんでも茹でてなさい」と言い放つか、逆に「地球上の全ての裸婦像を殲滅せよ」というような極論に居着いているのは、まずは民度の低い態度でしょう。今回から7回に分けて、さまざまな立場や視点から、裸婦像について考えていきたいと思います。芸術、人権、公共、歴史......時には相矛盾するような多用な価値観について、民度という考え方を補助線にして整理・分析していくつもりです。
 素人のことですから荒唐無稽なことを叫んだり、陳腐な自説を延々と説いたりするかも知れませんが、議論の土台がつくれればと思っておりますので、どうかお付き合い下さい。「北陸新幹線」に次ぐ長い論考になりそうです。

 最初に、私自身の結論を述べておきましょう。

 アートの中で彫刻、特に裸婦という分野は個人的には苦手です。違和感が強すぎて落ち着きません。この記事を書くにあたって、自分の違和感の理由について自省してみたのですが、理由はどうやら「ポルノではないから」のようです。
 成人女性が、自らの裸体を他者に誇示するとしたら、ほぼ確実に性的なアピールです。つまり、誰かと性的なコミュニケーションを望んでいるわけです。当然、誘うような視線や身もだえするような仕草・ポーズが、相応しいはずです。確かに印象派絵画などには、そのような傾向の作品もありますが、彫刻では皆無です。
 詳しくは次回以降に議論しますが、どんな素材を使っても彫刻では技術的に無理があり、ときには猥褻どころか滑稽になってしまうからだと思います。
 もうひとつ、塑像には、「この長屋の大家さん」がおっしゃる「額縁」が存在しません。額縁を通して中の世界を垣間見る絵画と違い、制作者の熱や衝動が向こうから襲いかかって来ます。まして、美術館ではなく公園などでの裸婦像は、檻から抜け出した猛獣が、さらに動物園からも脱走して街をうろつくのと同じです。だから、「公園から裸婦像を撤去して欲しい」という感覚は十分に支持できます。
 そのため、ある種の野外彫刻では日常生活の中に唐突にセクシーでない裸体が登場するように見えます。これは耽美でも妖艶でもなく狂気です。もともと、写実的な人形や胸像は、状況によって気持ちの悪いものですが、それが不条理な佇まいであったとすると、強い恐怖を含んだ違和感を感じることになります。

 ただし、何の議論もせずに強制的な施政権の行使というのは実にもったいない事です。時間はかかるかもしれませんが、作者は像の意図を、抗議者は不快感の理由を、誰にでも理解できる言葉で説明する場(出来れば像の前)を設けるべきです。
 とりあえず数年は、園内で像を移動したり遊歩道を整理したりして、要所に「この先に裸婦像がありますので、見たくない方は進まないで下さい」というような掲示を上げる、ぐらいでどうでしょうか。

額縁とコミュニケーション,内田樹の研究室,http://blog.tatsuru.com/2025/08/12_0927.html

 いくらなんでも、一度委嘱して作った像を撤去するというのは極めて穏当を欠く処置で、極力やめた方がいいと思います。自治体などの公が何かを設置するよりは、何かを撤去する方がはるかに強いメッセージを出してしまうからです。
 嫌がっている市民の存在や時代の変化を理由にしていますが、これほど制作者(幸か不幸か存命の方でした)を侮辱した行為はありません。どう言いつくろっても「君の作品は時代遅れのわいせつ物だ。市は有権者の嫌悪感を公認し、ゴミとして処分する」と宣言しているわけですから。
 自治体からの委嘱制作となれば、ほとんどの彫刻家にとって一世一代の大仕事で、代表作であるのが普通です。後になってこんな仕打ちを受けるのはたまりません。実際、作者は激怒しているそうです。
 「残して欲しい」という側の声も、積極的に調査したのでしょうか。たとえば、幼くして娘を亡くしたある老夫婦が像を心の支えしているとしたら、撤去は残酷な仕打ちです。そこまで行かなくとも、何年も見てきた作品に素朴な親しみを感じている市民がいても、不思議はありません。
 批判者は、特定の芸術作品を公の場に設置することの暴力性を、声を上げた方は指摘したかったのでしょう。けれども、それを撤去することには、それよりはるかに大きな暴力性がありそうです。こんなことが許されるのなら、私も大阪市に言いたいことがあります。「町中にあるミャクミャクとかいう汚物を、さっさと始末してくれ」。

久しぶりに北陸新幹線がメディアを賑わせています。これまで、「一刻も早い大阪延伸」をなどと言っていた面々が、続々と現実路線の「米原」に舵を切り、福井県が悲鳴を上げ始めました。消えたはずの米原ルート......ゾンビに油揚げさらわれたと言いたいところでしょう。けれども油揚げを好むのはゾンビではなくビーガン、そもそも油揚げ自体が幻だったのです。

 小浜いじめが始まった 

 昨年(2024)夏、小浜ルートの詳細が発表されると、これが無茶苦茶なプロジェクトで、技術的問題を意図的に先送りしまくっていることが、少しずつ露見し始めました。正直言って、よくこんなものを人前に出したものだと驚くレベルでした。
 最初に反対運動の狼煙を上げたのは、京都市伏見の酒造組合と京都の仏教会です。大深度地下工事による水質悪化や地盤沈下は死活問題です。彼らの懸念には誰も答えられませんでした。というより、自信をもってルートを選定したはずの技術者たちの声が全く聞こえません。「私がプロジェクトリーダーです」と名乗り出る方もおられません。根拠不明の怪しげなレポートで「影響はほとんどありません」などと言われても、関係者が納得できるわけがありません。脱力と嘲笑あるのみ、反感さえ満足に買えたかどうか疑問です。
 こんな有様で、小浜ルートは泥沼化することが確定的になり、次に思わぬところから火の手があがりました。北陸の「首都」金沢を擁する石川県です。商工会や一部の県議など、もともと米原派(小浜懐疑派)が潜伏していたようですが、ついに県知事自ら、国会議員や各首長など関係者の集まる「北陸新幹線建設促進大会」で、主催者に無断で米原推進のビラを撒きました。さすがは元レスラー、場外乱闘はお手の物です。
 維新軍団の大阪府がこれに続きました。あまり話題になりませんが、小浜ルートは大阪府にも高額の費用負担が来ます。だから、タイミング良く厄介払いにかかったのでしょう。また、政治的には反維新の市長が率いる交野市も、水源をほぼ全て地下水に依存していることから、別働隊のような立場で小浜反対の声を上げています。
 同じ頃、京都市も事実上の小浜反対決議を採択してしまいました。同時に採択された「丁寧な説明」を求める決議は満場一致でした。きちんとした事前調査をして問題が無いことを確認しない限り着工は認めないという、私に言わせれば、やっとまともな状態になったわけです。
 そして、2025夏の参議院選挙で小浜ルート派の「教祖」が大苦戦をしました。トップ当選は米原派の維新の新人。前回ゼロ打ち(開票率0%の段階で当確がでた)の御大は得票数を前回の半分以下の2位というのですから、キモを冷やしたのでしょう。突然、米原ルートの調査を容認すると言い出しました。つまり小浜派から模様見派への撤退です。なんだか、クラスのタブーが破られイジメがスタートするのと同じ構図のようです。素朴に新幹線がやってくるのを待っておられた小浜市民には、気の毒の限りです。
 そして、2026年度の予算。今年もまた北陸新幹線の大阪延伸予算は、時効要求じゃなかった......自公要求じゃなかった......事項要求になりました。つまり金額なしの予算要求。最大でも昨年度並みの予算で、再来年の3月まで細々と調査を続けて、なんとか小浜を維持しようということです。
 肝心の地質ボウリングは年間20本以下、これを米原ルートや丹波山地の山岳トンネルにも振り向けるのですから、京都市内やの新規ボウリングはせいぜい4~5本。京都市民を説得できるようなデータがとれるはずがありません。よって、「丁寧な説明」は来年度中も不可能です。これまでのデータが公表されていないところを見ると、もしかしたら既に、一発で「こらアカンわ」となる恐ろしいデータが出ているのかも知れませんが。
 しかも、財務省が異例である着工決定前の調査(私は良いことだと思うのですが)に、そう何年も予算を付けてくれるかどうか疑問です。特に、推進派はこれまで手つかずだった米原ルートの調査を優先する必要があるのですから、小浜ルートに使えるお金は今年よりかなり少なくなりそうです。
 昨年春に、こうした事態を予想した自分の先見性をひけらかしたいところですが、こんなもの少しばかり地質を勉強をしたことがある人(国内に数万人はいそうです)なら、誰でもが出す常識的結論のはずです。政治と行政がやっと常識に追いついたというべきでしょう。

 露わになる惨状、噴出するホンネ

 ところで、一度消えて復活した米原ルートはどうなんでしょう。
 ここでメンバー紹介。関係団体の本音を確認して行きます。まず、北陸三県、当たり前ですが、福井は小浜ルート死守、早く延伸を完成させたい石川は米原ルートです。真ん中の富山は現在は小浜ですが、本音は模様見と言った方がいいでしょう。
 通過される側の府県。まず、大部分の京都府民は当然ながら小浜阻止。大阪府も模様見から、財政負担のない米原にシフトしました。
 ややこしいのは滋賀です。県民にとって米原ルートには小浜にはない大問題があります。完成してしまう恐れがあることです。そうなれば巨額の負担が発生します。並行在来線(北陸本線・湖西線)の経営を三セクという形で押しつけられかねません。けれども小浜なら、着工後に頓挫することも大いに期待できます。完成するとしても早くて30年後。その頃には並行在来線問題もなんとかなりそうです。だから小浜推しなんです。
 ほぼ同じ事を考えていそうなのがJR西日本。国も地方も既に、財政は思い切りキツい訳ですから、政治家たちはこぞってJRの負担増を口にしています。冗談ではありません。 だからJRも何のかんのと理由をつけて米原ルートのハードルを高くしています。小浜なら完成しないから大丈夫と読んでいるのでしょう。ここいらへんの事情は、前に記事を書いたときとほとんど変わっていませんが、こうも早々に米原ルートが復活してきたのは、やや意外でした。

南北ルートが強いわけ【北陸新幹線 その15】,この長屋,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2024/12/20_0921.html

 これまでのように滋賀県としては、体裁の良いことを言いながら静観して、小浜ルートの自滅を待つ訳には行かなくなって来ました。隣県福井の恨みを一身に受けても、きっぱりと断る日が必ずやって来ます。
 けれども、京都の受け入れ拒否が認められた以上、滋賀だけがババを押しつけられる理由は全くありません。だから京都もダメ・滋賀もダメとって延伸コースがなくなります。よって、今の状態が北陸新幹線の最終形。永遠に敦賀止まりというのが最終結論です。

 昭和の遺物「整備新幹線」

 なんでこんな無様なことになったのでしょう。よく言われることですが「整備新幹線」という田中角栄時代の発想が、地方都市の人口減少が続く現状に合わないのです。虚しい仮定の話ですが、もし今、滋賀県の人口が激増中で湖西線の慢性的な混雑が問題になり、「サンダーバード(もちろんこちらも満員御礼)を新幹線に移して、新快速を増発しろ」という声が沿線から上がって、三セクの話には全国の企業が手をあげて利権まで発生するような状況なら、滋賀県は乗ってくるでしょう。ただし、環境問題や安全問題が大きすぎる京都府は、これさえも拒否せざるを得ないでしょう。つまり様々な理由で新幹線を整備してほしい県といらない府県に分断が発生しているのです。
 鉄道路線の新設で、通過地点の自治体や住民の不利益・負担が大きいのは今に始まったことではありませんが、それに見合うメリットがまるでない状況では、あらゆるところでトラブルになります。整備新幹線の場合、これは北海道や九州でも実際におこっていることです。
 おそらく、JRTT(鉄道・運輸機構)も西九州・北海道・北陸の新幹線の処理だけで、当分の間は手一杯のはずです。人口減少が特に地方でひどいことを考えれば、整備新幹線という枠組みは日本中どこでも、二度と機能することがないでしょう。