高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。
日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
それにしても、戦後、公共の場所に量産された人物像は、なんで女性が圧倒的に多く、それも裸像なんでしょう。よくある説明は、「多産ということが豊穣につながるから伝統的に女性の性が強調される」というものです。ギリシャのペルセポネー、縄文のビーナスなどを引き合いに出す議論です。
けれども、出産や性交をリアルに表現した像は、一神教による性的タブーが強くなった中世以降どころか、ギリシャ・ローマ、東洋美術でも、さらには埋蔵文化財でも皆無です。人間の生殖と農業の豊穣を無理に結びつけるよりは、すなおに健康的な体型の人物像は豊かな社会の象徴、ぐらいに考えた方が実体に合うような気がします。人間にかかわる全てのことを、性や性欲に結びつけて解釈しようとするのは、フロイト信者の常習的勇み足なのではないでしょうか。
ペルセポネー,ウィキペディア,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%83%BC
縄文のビーナス,ウィキペディア, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E3%81%AE%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9
ただし、性器自体をモティーフにした広い意味での彫塑は多数存在します。よく知られているものは2つのタイプに分けられると思います。まずは各地の神社にある男女の生殖器をかたどった各種の御神体です。
もうひとつのグループと考えているは小便小僧、ほぼほぼ100%が男児です。ルーツはベルギーらしいのですが、「若き日の王が戦場で敵に向かって放尿した」とか「火事を消した」というのが由来だそうです。この逸話からフロイト的に、「性的抑圧の強いキリスト教文化圏で、男性器や射精の攻撃性を象徴してる」と考えられなくもありません。
けれども、オリジナルの少年像も世界中にある多数のレプリカも、こうした攻撃的なイメージを表現しているとはとても言えない、あどけない姿です。御神体にも共通することですが、生殖器を立体的に造形すると豊穣どころか退廃や攻撃性までも失い、「微笑ましさ」という言葉がぴったりくる造形になりがちです。
実は、高松の像の作者も、生命力の象徴として少女を選ぶ理由に生殖を上げていますが、よくある形式的な説明だと思います。ある個体を自身の生命力と別の個体を作る生殖とは、似ているようで全く別の概念だからです。近未来に新たな生命を宿す可能性があることを理由に、「女児は男児にはない特別な生命力がある」というは、よく考えてみれば変な理屈なのです。
誰かが発見した「生命力に溢れた女児」というモチーフが、あちこちで採用されているうちに、いつのまにか「女児は男児にはない生命力に満ちている」という、ぼんやりした話になってしまったのではないでしょうか。女児のみが多用されるようになった本当の理由が、別にあるように思います。もう少し別の議論も見てみましょう。
母性とはほど遠い裸婦像
類似の思想に、裸婦は母性を通じて豊穣を表しているという考え方があります。ちなみに、「母性」という言葉も誤解が多いものだですが、もともとは、「子供を産み育てる機能」ぐらいの即物的な言葉なのでしょう。「母性保護」なんていう言い方もありました。「女性従業員の母性保護のために、社員食堂を禁煙とします」なんていう感じです。
フェミニズム界隈では、ジェンダー差別の要因のひとつだからという理由で、「母性など存在しない」とか「母性神話」などとクソミソですが、母性というモノが存在するのかという議論と、もし存在するとしたらフェミニズム的な「男女平等の徹底」というイデオロギーと、どう整合させるかという議論は分けて考えるべきです。
フェミニズムは価値判断を含むのですからイデオロギーの一種で、それが正しいかどうかは、主観ないしは宗教でしか判断できないはずです。言い換えれば「正しい」かどうかの議論は無意味。「なんで男女は平等なのか」と聞かれたら、答えようがないでしょう。
ついでにもうひとつ、「フェミニズム的な社会がうまく機能するか」というのも、さらに別の問題です。男女平等を尊重する西洋文明的な国(日本やロシア、イスラエルなんかも含む)で、多かれ少なかれ少子化がおこっていない所はありません。社会が消滅したらどんなイデオロギーも同時に消滅します。この論点だけで本一冊ぐらい書けそうですので、今は深入りしませんが、いずれ長屋でやってみたいと思います。で、裸婦像への母性の影響の話に戻ります。
単体の人物像で明確に母性を表現しようとしたら乳房ぐらいしか、アイテムがありません。確かに、縄文のビーナスなど一部の埋蔵文化財では乳房が異様に強調されています。ほぼ草食だった古代のホモサピエンスにとって、一番身近な動物性タンパク食品は母乳でしたから、母性が豊穣の象徴だった時代や文化があったとしても不思議ではありません。
けれども、同じ母性のイメージが近現代の裸婦像にまで継続していると考えるのは、無理がありそうです。現代人の感覚では、性器ほどではありませんが乳房も、やはり強調してしまうと滑稽になります。巨乳という言葉には少なからず侮辱的な響きがあります。戦後日本で量産された裸婦像で、胸が強調されたものはあまり見かけません。
聖書に源泉をもつ聖母子彫刻など、母性が重要なモチーフになっているアートもありますが、絵画と比較すれば作品数が少なく、またそれらを裸婦と呼ぶことにも無理があります。そもそも異教徒の国日本では、およそはやらないテーマです。
それどころか、特に戦後の日本に限定すれば像のモデルは年少者が多く、ときには「ロリコン」呼ばわりされるぐらいで、これらが母性を表現しているとはとても言えません。なぜ低年齢の女性の像が多いのかは後で考察するつもりでが、ほとんどの裸婦像作者は最初から母性など表現する気はないのでしょう。
戦後のある特定の時期に、日本で裸婦像が量産された理由については、その前の時代のことなども含めて、じっくり検討したほうが良さそうです。