日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】

この夏、高松市の公園に長年展示されていた裸婦像が、市民からの苦情を理由に市が撤去を決定するという事件がありました。1998年に市が彫刻家に委嘱して制作した像でした。いわゆるキャンセルカルチャーの問題です。

裸婦像は時代に合わない?,FNNプライムオンライン,https://www.fnn.jp/articles/-/923656
 
もともとSNSなどでは、キャンセルカルチャーや政治的正しさは問答無用で嫌われています。よって、賛否両論と言われながらも実態は、市側が一方的に糾弾されているように見えます。
 結局は民度の問題なのでしょう。令和を代表する外国人差別語でもある「民度」とは何か。私は「想像力の及ぶ範囲の大きさ」と定義したいと思います。よく日本人の民度の高さの例になる話。「街にゴミを捨てない」のは片付ける人のことが想像できるから。「電車に乗るとき整列する」のは、我勝ちに乗ると発車が遅れることが想像できるからです。
 だから、民度は個人でも集団でも、生きている(存在している)限り常に変化しているものです。「日本人の民度」と言えば、「今現在の日本人の民度」という意味になります。個人の思想の民度や自治体の施策の民度も考えられます。
 ちなみに、街頭インタビューで「日本人ファーストについてどう思いますか?」と聞かれて、「当たり前や。外国人なんかいらん。一塁は大山で決まりやろ」と答える我々タイガースファンの想像力はアルプススタンドを超えません。この秋、世界有数の民度の低さです。でも数年後には、「どこぞにエエ外人おらんかな。日本人なら大谷やで」と地球の裏側まで勝手極まりない想像力を駆使して、民度を向上させているでしょう。
 自分の民度を一気に低下させるスローガンがあります。「今だけ金だけ自分だけ」というやつです。ここまで簡潔に自分の想像力を破壊する言葉は他にないでしょう。ちなみに、私なりの対策は、「今・金・自分」の3つを同時に並べないことです。「今の金のことだけを考えて行動するとき、そのせいで誰かが酷い目にあっていないか配慮する」「今の自分のことを考えるとき、お金だけでなく健康や人間関係にも気を配る」「自分のお金の話なら、将来困らないかも検討してみる」これぐらいで、随分民度があがると思います。
 ちなみに、民度が高ければなんでも良いわけではありません。国体護持のための特攻や大東亜共栄圏構想など、「今・金・自分」よりも想像範囲が広くて、民度が高いのは確かですが、無意味だったり迷惑だったりしました。

文化行政の民度

 今回、像を撤去しようとする高松市に向かって、「田舎者に芸術は無理。像を溶かして鍋にして、讃岐うどんでも茹でてなさい」と言い放つか、逆に「地球上の全ての裸婦像を殲滅せよ」というような極論に居着いているのは、まずは民度の低い態度でしょう。今回から7回に分けて、さまざまな立場や視点から、裸婦像について考えていきたいと思います。芸術、人権、公共、歴史......時には相矛盾するような多用な価値観について、民度という考え方を補助線にして整理・分析していくつもりです。
 素人のことですから荒唐無稽なことを叫んだり、陳腐な自説を延々と説いたりするかも知れませんが、議論の土台がつくれればと思っておりますので、どうかお付き合い下さい。「北陸新幹線」に次ぐ長い論考になりそうです。

 最初に、私自身の結論を述べておきましょう。

 アートの中で彫刻、特に裸婦という分野は個人的には苦手です。違和感が強すぎて落ち着きません。この記事を書くにあたって、自分の違和感の理由について自省してみたのですが、理由はどうやら「ポルノではないから」のようです。
 成人女性が、自らの裸体を他者に誇示するとしたら、ほぼ確実に性的なアピールです。つまり、誰かと性的なコミュニケーションを望んでいるわけです。当然、誘うような視線や身もだえするような仕草・ポーズが、相応しいはずです。確かに印象派絵画などには、そのような傾向の作品もありますが、彫刻では皆無です。
 詳しくは次回以降に議論しますが、どんな素材を使っても彫刻では技術的に無理があり、ときには猥褻どころか滑稽になってしまうからだと思います。
 もうひとつ、塑像には、「この長屋の大家さん」がおっしゃる「額縁」が存在しません。額縁を通して中の世界を垣間見る絵画と違い、制作者の熱や衝動が向こうから襲いかかって来ます。まして、美術館ではなく公園などでの裸婦像は、檻から抜け出した猛獣が、さらに動物園からも脱走して街をうろつくのと同じです。だから、「公園から裸婦像を撤去して欲しい」という感覚は十分に支持できます。
 そのため、ある種の野外彫刻では日常生活の中に唐突にセクシーでない裸体が登場するように見えます。これは耽美でも妖艶でもなく狂気です。もともと、写実的な人形や胸像は、状況によって気持ちの悪いものですが、それが不条理な佇まいであったとすると、強い恐怖を含んだ違和感を感じることになります。

 ただし、何の議論もせずに強制的な施政権の行使というのは実にもったいない事です。時間はかかるかもしれませんが、作者は像の意図を、抗議者は不快感の理由を、誰にでも理解できる言葉で説明する場(出来れば像の前)を設けるべきです。
 とりあえず数年は、園内で像を移動したり遊歩道を整理したりして、要所に「この先に裸婦像がありますので、見たくない方は進まないで下さい」というような掲示を上げる、ぐらいでどうでしょうか。

額縁とコミュニケーション,内田樹の研究室,http://blog.tatsuru.com/2025/08/12_0927.html

 いくらなんでも、一度委嘱して作った像を撤去するというのは極めて穏当を欠く処置で、極力やめた方がいいと思います。自治体などの公が何かを設置するよりは、何かを撤去する方がはるかに強いメッセージを出してしまうからです。
 嫌がっている市民の存在や時代の変化を理由にしていますが、これほど制作者(幸か不幸か存命の方でした)を侮辱した行為はありません。どう言いつくろっても「君の作品は時代遅れのわいせつ物だ。市は有権者の嫌悪感を公認し、ゴミとして処分する」と宣言しているわけですから。
 自治体からの委嘱制作となれば、ほとんどの彫刻家にとって一世一代の大仕事で、代表作であるのが普通です。後になってこんな仕打ちを受けるのはたまりません。実際、作者は激怒しているそうです。
 「残して欲しい」という側の声も、積極的に調査したのでしょうか。たとえば、幼くして娘を亡くしたある老夫婦が像を心の支えしているとしたら、撤去は残酷な仕打ちです。そこまで行かなくとも、何年も見てきた作品に素朴な親しみを感じている市民がいても、不思議はありません。
 批判者は、特定の芸術作品を公の場に設置することの暴力性を、声を上げた方は指摘したかったのでしょう。けれども、それを撤去することには、それよりはるかに大きな暴力性がありそうです。こんなことが許されるのなら、私も大阪市に言いたいことがあります。「町中にあるミャクミャクとかいう汚物を、さっさと始末してくれ」。