前回に続いて、高松での裸婦像の撤去について議論していきます。もし、最初から読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。
日本人ファーストの民度 【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
学生時代、日本画を専攻していた友人が「彫刻のやつはいいなぁ。いまだにギリシャ時代と同じ裸婦を作ってりゃいいんだから」とぼやいていたことがあります。これを彫刻専攻の友人に伝えると、
「絵描きさんはええなぁ。どんな形でも筆先ひとつで作れる。おれたちには物理的な限界があって、マルグリットの城みたいなのはとても無理。どうしても人物が題材になる」
「確かに、お前の抽象彫刻、公園に置いたら本格的な粗大ゴミや」
「熔けたブロンズ、頭からぶっかけて固めてやろうか」
「現代美術を代表する傑作を作りたいのやな」
「いや、どこかに穴でも掘って捨てる」
「なるほど、埋蔵文化財ねらいか」
ルネ・マグリット「ピレネーの城」,artpedia,https://www.artpedia.asia/the-castle-of-the-pyrenees/
その年の卒業制作展。こやつの同級生は巨大なアスパラガスの素焼き像を出品しましたが、高評価を受けたという記憶はありません。確かに、絵画と比べて、石膏・ブロンズなどの彫塑(彫刻)は、色彩がなく細部を作り込みにくくなっています。緑でも白でも無いアスパラガスは、やはり辛かったようです。
そして何よりも、彫刻にはこの長屋の大家さんのおっしゃる「額縁」がなく、背景も基本的にないことが特徴です。ゆえに彫刻は絵画にはない圧倒的な訴求力を持つ反面、そのパワーが作品の方向性の制御を難しくしています。企画段階でも制作段階でも、ちょっとした計算違いや些細な不手際で、とんでもない代物が出来あがってしまいます。
額縁とコミュニケーション,内田樹の研究室,http://blog.tatsuru.com/2025/08/12_0927.html
さらに、学生など無名の作者の場合、材料費や展示・運搬上の制約も無視できません。失敗作の処分といった敗戦処理も、絵画よりはるかに面倒です。つまり、彫刻というメディアは極めて制約が大きく、困難なアートなのです。
「慰安婦像」の失敗
このように、彫刻というのはまことに不器用な表現方法だと思います。だから、企画から設置までの総合的なプロデュースを誰かがする必要がありそうです。そのせいで失敗した例として、有名な通称「従軍慰安婦像」をあげたいと思います。
この作品には「旧日本軍の組織的性暴力を糾弾する」という明確なメッセージが、最初からありました。作品として特徴的なのは、モデル座ってるのと同じ椅子が、左にもう一脚配置されていることです。また、参加型芸術なので鑑賞者はその椅子に座ることが出来ます。
これはよくできた仕掛けで、「不特定多数の一時的なパートナーがめまぐるしく交代し、しかも女性の側には選択権も拒否権もない」という状況を表しているのでしょう(あくまで私の解釈です;以下同様)。そして、椅子に座ることで「誰でも状況によっては加害者側になってしまうことがある」ことに気付いてもらうみたいなことが、意図されているのでしょうか。
ところで、この作品では「被害者」をどこまで一般化しているのでしょう。特定の「慰安婦」個人なのか、「従軍慰安婦」全体なのか、近現代の韓国人女性、もっと言えば地球上の女性全員なのでしょうか。
オリジナル作品は、この点に関して明確な意図を持ち、注意深く設計されていると思われます。モデルは当時11歳で、像の制作者御夫婦のお嬢さんでした。いわゆる「従軍慰安婦」は建前上17歳以上でしたので、まずこの点で史実とかけ離れています。また、椅子は小学校にあるような明るい色で木製のもの。「慰安所」を意識するような造形は避けられ、作品の具体化を巧妙に避けています。
けれども問題はチマチョゴリです。テーマがテーマですから裸婦というわけには行きません。一方、ジーンズなど、「慰安婦」が着たはずのない衣類も使えません。そこで、当時の朝鮮で最も一般的な衣装にしたわけです。けれども、この女性は近現代の韓国・朝鮮人のみを表していて、それ以外はとりあえず対象外なのでしょう。チマチョゴリは民族衣装であるだけに、アフリカや欧米の女性に想像を広げることを邪魔しています。
この「慰安婦像」。コンセプトは良かったと思うのですが、出来上がった作品は素人目で見ても(意図的だったのかも知れませんが)完成度が低すぎるように思います。素材は、強化プラスチック、少なくとも日本では真面目な人物像にはほとんど使われません。不二屋の「ペコちゃん」や奈良の「せんとくん」など、ゆるキャラ向きの素材なのです。政治的な意図は別として、「なんでこんな脱力系の素材を使ったのか」とため息が出ます。
もうひとつ、レプリカなのでしょうか。同じ配置(右にモデルが着席、左に空席の椅子)のブロンズ像がありますが、素材の違いで女性の年齢や服装は分かりにくくなっています。日本で報道されている「慰安婦像」と言えば、ほとんどがこちらのタイプです。屋外展示用とのことですが、プラスチック製のオリジナルとは全くの別物です。
さらにあとひとつ、ソウル市内を走るバスに一時期設置されていた像は、プラスチック製ですが横の空き椅子がありません。もしかしたら、チマチョゴリ姿の若い女性像を展示してしまえば、なんでも「慰安婦像」として機能すると考えていたのでしょうか。アート、特に彫刻の場合、不用意に政治の世界に踏み込んでしまうと、作品が本質的にどんどん小さくなるような気がします。
さらに、屋外展示の「慰安婦像」ではボランティアスタッフが、日本人と見れば横に座らせ写真をとるということが行われていたそうです。作品のメッセージを届けたいという気持ちは分かるのですが、来館者を無理にでも加害者ポジションに座らせるというのは、「アーティスティック・ハニートラップ」とか「3D美人局」などと呼びたくなります。ピカソの「ゲルニカ」の前に、来館者をわざわざ鍵十字の軍服姿で立たせるようなものです。政治的意図は嫌というほど伝わっても、芸術性は雲散霧消してしまうでしょう。一言で言えば、悪趣味です。
慰安婦少女像の展示中止愛知の国際芸術祭,日本経済新聞,https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48186080T00C19A8CZ8000/
日韓関係が少しずつ安定してきている昨今、できれば同じ作者が腰を落ち着けて、同じモティーフをリメイクしたら、また新しい展開があるのではないでしょうか。