「脱ぐ文脈」と「脱いじゃう文脈」 【裸婦像をめぐるラフな議論 その5】

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html

 表現力が限定された塑像では、着衣が大きな発言力を発揮することは、前回【その4】でお話ししました。だから、抽象性をキープするための裸像という考えなのでしょう。実は、高松の像の作者も、「着物(服)は階級を表す」という理由で、裸像を選択したとおっしゃっています。けれども、それならばなんで女性なのでしょうか。考えてみれば、著名な男性の裸像は、特に近現代のものは皆無です。たった一つの大傑作を除いて。
 原因を考えてみましょう。ひとつは、【その2】でも書きました男子生殖器の処理の難しさです。【その3】のジーンズと同様、柔らかいものを金属で表現することは困難を極め、ひとつ間違えれば安物のアニメに出てくる安物のロボットの安物のノズルになってしまいます。素人や学生さんの作品なんかでよく見かけます。逆に言えば、ブロンズ像の男性器で明快な猥褻を表現できたら、それは類を見ない傑作になるでしょう。少なくとも私は見たことがありません。
 ただし、性器自体をモティーフにした広い意味での作品も多数存在します。私が知っているものでは2つのグループに分けられます。まずは、日本各地の神社にある男女の生殖器をかたどった各種の御神体です。
 もうひとつのグループと考えているは、小便小僧でほぼほぼ100%が男児です。ルーツはベルギーらしいのですが、「若き日の王が戦場で敵に向かって放尿した」とか「おしっこで火事を消した」というのが由来だそうです。この話もフロイト的に、「男性器の攻撃性や射精の象徴」と考えられなくもありません。
 けれども、オリジナルの小便小僧も世界中にあるほとんどのレプリカ像も、こうしたイメージにはほど遠い、あどけない姿です。御神体にも共通することですが、男性器を彫塑にすると豊穣どころか、退廃や攻撃性までも失い、「微笑ましさ」という言葉がぴったり来る造形になりがちです。
 男性裸像、特に成人の股間に何もつくらないのはあまりにも不自然ですし、だからと言ってリアルな性器を配置すると、単純に笑われてしまうリスクがあります。妥協案なのでしょう。屈強な成人男子の像に、小便小僧のような幼児の男性器を配置して誤魔化すというのがよく見られる手法です。

 ダビデ像,【イタリア】なぜ彫刻には包茎が多いのか?,フィレンツェからボンジェルノ,http://yukipetrella.blog130.fc2.com/blog-entry-261.html
 おそらく女性器でも同様なのでしょう。生殖器が見える裸婦像は皆無です。それどころか、性を徹底的に回避しているように見えます。やはり多産(生殖)から豊穣への連想で、裸婦のモティーフが多用されるようになったいう推測には、無理があるようです。

 ちょっとだけよ

 どうも、性表現というものは猥褻よりも笑いに強い親和性があるようです。「古事記」にある有名な話ですが、女神アマノウズメが性器を露出して踊ったところ、八百万の神々は大笑いをしました。でも、なんで笑うのか分かりません。幼児が「ちんちん」などと連呼して一人で笑い転げている姿をよく見かけますが、同じ感覚なのでしょうか。
 もうひとつ、1970年代に一世を風靡したドリフターズのTVコント番組「8時だョ!全員集合」。一時期、最大の見せ場のは加藤茶氏(かとちゃん)の「ちょっとだけよ」でした。令和の今では説明が必要ですね......当時のストリップショーでの踊り子のセリフなので、「裸を見せてあげるのは、ちょっとだけよ」という意味です。
 ところが、「ちょっとだけよ」はそれまでのコントの流れとは全く関係のないところで、突然登場します。武士・警官などから踊り子姿への早変わり、照明、音楽(生バンドでした)なども突然転換する大がかりなギミックでした。かとちゃんが出てくれば「ちょっとだけよ」が始まることは、見ている全員が知っていたはずで意外性は全く無いのですが、いつも唐突にはじまりました。

 裸婦の方向性を決定する「物語」

 おそらく、性的なコンテンツが、「エロスを醸し出すか笑いを呼ぶか」、「あるいは嫌らしくなるか可笑しくなるか」の分岐は、背景にある物語との文脈にありそうです。
 現代人が意図的に自らの裸を誇示するのは他者との性的コミュニケーションを求めていると考えられると前にも書きましたが、コンテンツがその本来の性的な物語に乗っかれれば、普通の性的コンテンツになります。
 エロ本には最初に着衣の写真があります。全ての風俗嬢は服を着て客の前に現れます。裸そのものではなく裸になることで、性的なコミュニケーションを求めている女性を演じるわけです。とりあえず、こうしたコンテンツと物語の関係を「脱ぐ文脈」と呼ぶことにしましょう。
 浮世絵が春画として世界的に評価されたのは、一幅の屏風で物語を表現できる日本美術独特の表現が影響していると思います。磁気ビデオテープにはじまり、DVD、そして動画配信、物語を表現できる映像メディアの普及を、性的コンテンツ需要が支えたことは、家電関係者の間では常識です。
 一方、「古事記」や「ちょっとだけよ」の場合、性的ではない状況にいきなり裸(またはそれを暗示する人物)が登場して爆笑がおこります。どうやら、あるべき物語と不似合いな性表現には、笑いで反応するような回路が私たちの脳にはあるのでしょう。混入が唐突であればあるほど、この回路は活性化します。こうした状況を「脱いじゃう文脈」としましょう。
 アートの世界では、デッサンも写真も基本的に一枚一枚が独立しています。モデルが画家やカメラの前に出てから、私服を脱ぐこともありません。前後のあらゆる文脈を断ち切った、それ以上でもそれ以下でもない即物的な裸体が求めらます。
 このとき、何らかの理由(技術的未熟さなど)や作為で、無関係な物語が混入すると、「脱いじゃう文脈」が成立し、裸体やそれを暗示するキャラ(「ちょっとだけよ」の踊り子さんなど)は、笑いの素材になってしまいます。
 それなりのエロ小説を書ける高校生は結構いそうですが、彼らに紙粘土を渡して「何か、エロいモノを作ってごらん」と言えば、ほぼ確実に笑いのおこるような「作品」を作ってしまうでしょう。「無理です」と断る子が大半かも知れません。
 物語りと折り合いの悪い彫像。特に屋外展示では、日常という最強の物語の中に作品がいきなり放り込まれ、時として意図しない「脱いじゃう文脈」が登場して嘲笑をあびてしまいます。

 競艇場の悲しきポルノ

 一昔前には「感動ポルノ」という言い方がよくありました。不幸な生い立ちや傷害を乗り越えた話などの場違いな押しつけが、「脱いじゃう文脈」で読まれてしまうため、性的な要素が全く無くてもポルノなのでしょう。
 たとえば、あるギャンブル団体のボスが実母を背負った像が日本中にあるのは有名ですよね。子供のとき「どこへ捨てに行くの」と母に聞いて激怒されたことあります。前の晩に読んでもらった「姨捨山」が頭に残っていたのでしょう。せめて、「ババア汁作るんだよね」とでも言うべきでした。確かに下で背負っていたのは狸でしたから。
 それにしても、私なら、息子ともども後世の人にまで笑われるより、人知れず山奥に捨てられるかジジイ汁にでもされた方が、まだマシのようにも思います。たとえば競艇場など、親子関係とも老人問題ともおよそ無関係な場所に、唐突に親孝行などというモチーフを持ち込むから、「脱いじゃう文脈」の親孝行ポルノになってしまうのです。
 以上をまとめると、裸体をコンテンツにする場合、純粋なアートにしたいのなら物語性を極力排除し、エロスを求めるならそれに相応しい物語を添付し(脱ぐ文脈)、笑いを取りたいなら唐突に不適切な物語をぶつける(脱いじゃう文脈)と、成功率が上がるということになりそうです。
 前回も書きましたが、男性裸像がコミカルになることを防ぐ最もありふれた方法は、ミケランジェロのダビデ像のように、乳幼児の性器をつけて誤魔化してしまうことです。つまり日常生活の場への性の持ち込みを最小化する戦略です。いかにもわざとらしい造形が「作品の傷」になりがちですが、仕方ないのでしょう。この問題は決して、裸婦ではおこりません。生殖器が見えないほうがむしろ自然だからです。