無難な選択 【裸婦像をめぐるラフな議論 その6】

 高松での裸婦像の撤去について議論を続けます。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html
 「脱ぐ文脈」と「脱いじゃう文脈」 【裸婦像をめぐるラフな議論 その5】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/19_0733.html


 考える人を考えない人

 もうひとつ男性裸像で厄介なのは体型の選択ではないでしょうか。クレッチマー博士の三分類で考えるとしましょう。博士によれば、人間の体型には細長型、肥満型、闘士(筋肉)型の三種類があるそうで、少なくとも西洋文化圏では、体型をこの三種類に分ける思想が一般的であったと言えるでしょう。 

クレッチマーの性格類型論(体格タイプ論),ITカウンセリングLab,https://it-counselor.net/psychology-terms/kretschmer-type-theory
 男性像でガリガリに痩せた細長型を採用したらどうなるでしょう。おそらく、飢餓、感染、虐待、奴隷などと言った方向に作品は向かっていくでしょう。嫌でも政治的な物語になります。
 逆に、ふくよかな肥満型にすると、退職、傲慢、搾取、などという印象が立ち上がって来ます。裕福で鷹揚な東洋人が連想されることもありそうです。まあ鼓腹撃壌の物語ぐらいですか。
 古代ギリシャローマの男性裸像は圧倒的に、いかにも健康的な筋肉型です。もちろん傑作も多い定番スタイルなのでしょうが、闘士型という別名の通り戦士かアスリートにしか見えなくなってしまいます。男性裸像では体型が、衣服と同様に作品の固有性・具体性を勝手に表現しがちで、抽象的なイメージの造形をしたい場合には、厄介なノイズになります。
 中肉中背の目立たない体型にすれば良いようなものですが、特徴のない退屈な男性像に限定されるぐらいなら、裸婦の方がよほど自由度があります。中肉中背の男性裸像での、ほとんど唯一の成功例はロダンの「考える人」でしょう。

考える人 (ロダン),ウィキペディア(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA_(%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3)

 この作品は、裸像であることがすぐには思い出せないほどの自然な造形になっています。体型や生殖器も全く印象に残りません。けれども今後、同様のポーズの作品を誰かが作ると、二番煎じとかアイデアの盗用などと言われて終わりです。あまりにもナチュラルな造形で、ブロンズ像である限り変化のつけようがないのです。だから彫刻家はこの手の企画を、はじめから考えないでしょう。
 裸婦では、体型が固有性具体性を主張することはあまりないでしょう。かなり乱暴な言い方ですが、平均的で目立たない乳房を付けておけば、体型が自己主張することは避けやすそうです。乳房が一種のコートのような働きをするので、「すこし痩せ型」か「ぽっちゃり型」ぐらいしか印象に残りません。言い換えれば、中肉中背のありふれた体型でも乳首がアクセントになって、「いかにも退屈な造形」にはなりにくいのでしょう。かなり抽象性の高い造形でも、乳首が省略されにくい理由の一つだと思います。
 ただし、抽象を目指す作者としては、裸婦の胸には「コレハ、ラフゾウデアル」以上の余計なことは喋ってほしくないはずで、目立たない造形が望まれます。そういえば、いわゆる「巨乳」やいわゆる「貧乳」の裸婦像はほぼありません。あえて採用すれば、男性裸像の体型と同じ問題がおこります。だから抽象的なテーマであればあるほど、胸が目立たない少女像になりがちなのでしょう。

 白御飯の柔軟性

 これまでの議論をまとめてみましょう。人物像の場合、着衣や体型は作品に固有性・具体性をもたらす強い作用があます。そうした方向性を嫌う抽象的なテーマを求めるなら、それらは不都合なノイズとして作用してしまうので、結局、裸婦像それも少女像が一番自然でやりやすいということになります。
 だから、モデルさんの名前のついた裸婦像(「○子像」とか)は極めて少なく、かなり写実的なものでもモデルが特定されているものは少数のようです。美術史的な理由でモデルを詮索することも、あまり積極的に行われているようではありません。あくまで抽象性が尊重されています。
 何度も書きますが、抽象性が高く鑑賞者に多様な解釈を許すような趣旨の場合、着衣などの脇役が無要な自己主張をしない裸婦像は定番なのです。言い換えれば、何かを訴えるための裸婦ではなく、余計なメッセージを抑制するための裸婦なのです。そして、あらゆる不要な文脈から距離を置く造形が求められるからです。
 たとえて言えば、裸婦は白御飯です。一椀の白飯だけを見ても、どのような料理が出てくるのかわかりません。けれども、千枚漬けと沢庵と塩昆布が添えてあれば、懐石のシメの赤だしが横に並べられそうです。アラレと刻み海苔とわさびが添えられていれば、お茶漬け......それも鯛の刺身と出汁が出てきそうです(ごまダレなんか、たまらないですね)。趣を変えてラッキョウと福神漬けなら、インド方面へ向かう......主役に柔軟性があるほど、力のある脇役に方向性を決められてしまうことが多いのです。
 これが、チャーハンや炊き込み御飯なら、何を添えても自分の世界に持っていってしまいます。コース料理の自由度を一番阻害しないのが白飯なのです。
 このことは、裸婦像と水着像との比較で考えればよくわかるでしょう。まずスーパーの二階で売ってるようなビキニやサザエさんが着そうな水着を着せて、瀬戸大橋に臨む公園で像を建てたら「近くに海水浴場があるんだ」と思われそうです。競泳用水着なら、「夏の国体があったらしいね」となります。古めかしいスクール水着なら「廃校の思い出」あたりでしょう。水着一枚で像の方向性がきまってしまい、どうしても話が小さくなります。

 マヌケな力士像と手抜きの裸婦像

 だからと言って男性の裸像は、よほどの傑作以外はこっけい感が出ます。特に日本人で裸体の男性像を作ると力士風になりかねません。まわしの無いおすもうさん。「全裸山」とか「小便小結」(要給水設備)とか言われそうです。ゆるキャラにでもすれば見物客が集まり、「脱いじゃう文脈」での町おこしと言えば町おこしですが、自治体も住民もたまったものではありません。彫刻家のキャリアにも暗い影を落とすでしょう。大相撲協会も激怒......誰がこんなチャレンジをするもんですか。
 こう考えると、自治体などが依頼製作をするときに裸婦が選ばれやすい理由もわかります。像が具体的になればなるほど、後年にモデルについて物議をかもしやく、また逆に忘れられて時代遅れにもなりやすいからです。だから、公共の場で抽象的なテーマで人物像を作る場合、「消去法も含めていろいろ考えた末に裸婦」というパターンになりがちだったのでしょう。
 さらに、各地で同じような意図の像が量産されはじめると、この傾向には拍車がかかります。無難で前例があるものほど行政に選ばれやすいからです。ただし、流行があまり極端になり粗製濫造気味になると、見る側に飽きられて「なんだ、また裸婦か」と思われ、無視されるようになります。実際、素人目でも「チャチャっと適当に作ったな」と言いたくなる像は日本中にあります。ひどい場合には、どこかの裸像をモデルにした裸像ではないかと思われるのもありますが、こういうのは、あまり問題にもなりません。
 今回の高松の例のように、不愉快を感じてもらえたということは、ある意味では芸術家としては勝利なのかも知れません。見る人の心に強いインパクトを与えられたわけですから。けれども、それだけに勿体ないとも言えますし困ったことだとも言えるでしょう。