民度ファーストの日本人 【裸婦像をめぐるラフな議論 その7】

 高松での裸婦像の撤去について議論は今回で終わります。もし、以前の記事をこれから読んでくださる方がおられましたら、以下のリンクをお使いください。

 日本人ファーストの民度【裸婦像をめぐるラフな議論 その1】,http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/12_0749.html
 困難な彫刻 【裸婦像をめぐるラフな議論 その2】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/13_0750.html
 多産の量産、もうたくさん 【裸婦像をめぐるラフな議論 その3】,
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/15_0820.html
 金属ポルノの恥ずかしさ 【裸婦像をめぐるラフな議論 その4】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/17_0902.html
 「脱ぐ文脈」と「脱いじゃう文脈」 【裸婦像をめぐるラフな議論 その5】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/19_0733.html
  無難な選択 【裸婦像をめぐるラフな議論 その6】
http://nagaya.tatsuru.com/murayama/2025/09/22_0738.html 

 数年前、自宅から脱走した愛犬を探していて、夕刻に大阪市内の靱公園に迷い込んだことがあります。近くの方はご存じかもしれませんが、あの公園には、等身大で着色までされたリアルな人物像が数体設置されています。散歩中の近所の方かと思い「白い迷子犬を見かけませんでしたか?」と声をかけそうになり、ギョっとしました。人間でないものが人間の形をしているのです。なんとも不気味なでした。
前にも書きましたが、私自身はリアルな人物像が苦手です。それだけではなく、公共の場所には、メッセージ性のあるアートは極力置かないでほしいと思っています。「勝手に税金を使って趣味や主張をするな」と言いたい方なので、裸婦像の撤去を求める方の気持ちも分からないではありません。今回は、像に抗議している側の違和感や嫌悪感について考えてみたいと思います。

性表現規制が育てた暴力的性風土

 中世と言われる時代から世界中どこでも、性を規制する側の論理は「猥褻からの社会秩序の防衛」でした。一時期、ヌードが反体制的で解放の象徴とされたのは、それに対する反発が発端だったのでしょう。
 けれども、歴史を経て生き残った近代国家の社会体制はガッチリと仕上がっており、良くも悪くも猥褻ごときではビクともしそうにありません。一方、商業的な性表現は氾濫することになります。典型例はバブル期の我が国です。
 けれども、日本では直接的な性器や性行為の露出は規制されています。陰毛でさえ公然と写真集に掲載されたのはバブル崩壊期の1991年。そのためなのか、我が国の商業的性表現はかなり歪み、一部は男性の攻撃性と強く結びついたものになりました。極端に言えば、「力ずくで女性が嫌がる事をさせる」のが最大の関心事で、昨年(2024年)大炎上したCX文化(例;オールナイトフジ)などその典型でした。これを「脱がせる文脈」と呼びたいと思います。暴力的な性コンテンツの氾濫により、「性表現には必ず性被害が伴う」という、極論気味ですが無視できない視点も登場しました。
 もともと性被害というのは流血に匹敵する残酷さと、被害者の子孫にまで影響しかねない拡大性がありながら、本質的には心理的なものです。目に見えないものは過小評価や過大評価の恐れが大きい......というより、性被害は過小評価か過大評価しかできないのかもしれません。「大丈夫、ひと風呂浴びたらチャラでしょ」と言うのは明らかに過小評価、「あなたは事実上、殺されたのです」と言うのは過大評価。でも、本当に本気で被害者に本気で寄り添うつもりなら、どちらの視点も必要なものです。
 加えて、PTSDなど、他者が評価すること自体が被害を拡大させる(セカンドレイプ化)こともあります。結局、性被害をめぐる論争は感情のぶつけ合いになり、声が大きい方が勝つことになりがちです。

  裸婦像のもたらす性被害    

 話を高松の裸婦像に戻しましょう。この作品による「被害」について2つに分けて考えてみましょう。モデルさん本人のものと現在の公園訪問者のものです。言い換えれば「見られることの被害」と「見せられることの被害」です。
 像の建立は1988年とのことですから、当時10代前半ならおそらく団塊ジュニア世代でしょうか。モデルになられた理由、アトリエではどんな姿でおられたのか、完成時にどう思ったか、今はどう感じているのか、いろんな問いが思い浮かびます。けれども、本人からの申し出がない以上、勝手に性被害者扱いするのはお節介というものです。もしかしたら、特定のモデルさんは、もともと実在しなかったのかも知れません。
 もうひとつ屋外彫刻固有の問題があります。寿命がやたらに長いのです。よく、ウェブ上のコンテンツは流失したら削除不能と言われますが、ほとんどの場合、飽きられれば消えていき数年もすれば検索すら難しくなるります。けれども、公が管理するブロンズ像は、意図的に撤去されなければ、最大何百年も公然と存在するでしょう。もし不本意な作品だった場合、これはモデルさんにとっては致命的なことです。
 仮に、制作時には気に入っていても、若いときの裸像をいつまでも(成長後・老後・そして死後も)公園に展示されていることを、気持ちよく容認できるとは限りません。その街に住むことや、その公園を訪問することが楽しいかどうかも、さらにまた別の問題です。
 この記事で、再三指摘した来たようにほとんどの裸婦像は抽象性に徹して、モデルが特定されないものも多数ありますが、それにはこうした理由もありそうです。今回の撤去騒動についても、モデルさん(おられればですが)はどう感じているのでしょうか。ホっとしているのか、寂しく思っているのか、腹が立つのか、どうでもいいのか......御本人が声をあげておられない以上、考えても仕方ないことかも知れませんが。

 ミラーニューロンの被害

 さて、もうひとつの「見せられる側」の話です。最初に引用した記事では、「未成熟な少女像は同世代の子どもたちに"自分がさらけ出されている"かのような感覚を呼び起こし、それが抵抗感につながっているのかもしれない。」とされています。眼前にある他人の痛みや不快を自分のことのように感じる感覚、これは脳内のミラーニューロンの働きとされていて、極めて人間的なものです。想像力の源泉、民度の基盤とも言えそうです。
 芸術としての裸婦が崇拝され、作品への批判がタブー視されているところで、「(女)王様は裸だ」と、最初に声を上げた方は賞賛に値します。像をただの飾りものと考えず、モデルの心情に想像力を拡げたのは、地域の民度の高さを示すものでしょう。
 ただ、できればもう一歩進んで、「なぜ、この子は、"さらけ出"ることを選んだのだろう」「彫刻家は何を表現したかったのだろう」ということも、考えてみて欲しかったとも思います。
 この記事では、長々と公共の場所に裸婦像が多数建てられることについて論じてきました。抽象的なテーマを人物像で表すには、余計な個別性をもたない裸婦が都合が良く、喩えて言えば、「裸婦は白飯のようなもの」で見る側に解釈が委ねられている。というようなことを書きました。

 もはや「白飯」ではない

 けれども、高松の像が完成したころと、日本社会の状況は大きく変化しました。まず栄養状態の向上による性の早熟化、そしてそれに伴う性対象の低年齢化があります。そしてもうひとつ、性的な自己決定権の明確化です。「脱がせる文脈」の登場し、その後、それに対する嫌悪感が社会的に共有されました。
 なにしろ、小学校教師が勤務校で盗撮をする時代です。子供も親も防衛的に考えざるを得ません。また、誰かが(この件ではモデルさんが)性的自己決定権を奪われている(いた)可能性があれば、抗議するのが市民の義務のようになっています。もはや裸婦像は当たり障りのない「白飯」ではないのです。

 ブロンズ像も成長する

 ここまで書いていて、ふと......古くなった白飯はどうなるのかと考えていて、うまく行けば麹になると気づきました。白飯と違ってアルコールを分泌したりするので、どこにでも出せるものではありませんが、ただの白飯よりは麹の方が値打ちがあります。汎用性は失われますが、ある種の価値が醸し出されています。
 古い裸婦像が「脱がせる文脈」での抗議を受けることも困ったことばかりではない、という気もしてきました。ブロンズ像の少女が、地域の同世代の女性(「少女」とは敢えて書きません)の口を借りて「私、もう恥ずかしい」と言い出したとしたら、成長の証であり、建立時に意図された「郷土の発展」が、十分に表現できてたことにならないでしょうか。

裸婦像は時代に合わない?,FNNプライムオンライン,https://www.fnn.jp/articles/-/923656

 感動ポルノじみて来ますので下手な文学的表現はもうやめますが、作品に創作時の意図を超えた新たな文脈が加わるとしたら、それはそれで素晴らしいことでしょう。
 少なくとも、作者に卓越した技能があってのことです。実際、日本中で乱造された裸婦像の中には、批判さえ受けずに、劣悪なメンテと酸性雨のせいで劣化が進み、あわれな骸をさらしているものも山ほどあります。
 高松の公園の作品は市が委託して作った作品です。「時代が変わったから、お前の作った猥褻物を撤去する」では、あまりにも作者に失礼です。「あの娘も、どうやら大人になったみたいですね。このままでは可哀想です。きっと先生の腕が良すぎたんでしょう」という発想で、まずは議論を始めていれば良かったのではないでしょうか。
 もう一度、創設時点に戻って考えてみたいと思います。まず、裸婦像でないなら、瀬戸大橋の見える公園に何を置いたら良かったのか考えてみましょう。着衣の人物像、「軍服、白衣、スーツ、作業着」何を着ても「郷土の偉人」に見えてしまい、これまた感動ポルノに一直線です。男性裸像の場合は、生殖器の処理や体型の選択という難題があります。
 結局、無難に人物像をつくるなら裸婦になってしまいます。そして高松での例でもそうでしたが、「未来」や「発展」をテーマにすると少女像になりがちです。これを差し障りがあると考えるなら、構想の段階で人物像を造ること自体を断念すべきだったと思います。
 また逆に「裸婦はいやらしくない」と無条件で考えている人は、「脱ぐ文脈」からの距離で発言しているのでしょう。モデル自身が性的アピールをしているわけではありませんから、彫刻家が真面目に作っている限り裸婦像は「いやらしくない」という考え方です。

「いやらしさを感じるバカはいない」設置当時の市長は驚き にわかに物議醸す"裸婦像"の行方 「時代遅れで今の時代にそぐわない」と静岡市長が苦言 中には印象派の巨匠・ルノワールの作品も,
https://www.fnn.jp/articles/-/804363

 むしろ製作時には「脱いじゃう文脈」の混入の方を、彫刻家は警戒していたはずです。渾身作を笑われてはたまりませんから。
 けれども、その後に猖獗を極めた「脱がせる文脈」で考えれば、「裸婦像は性犯罪の一場面を描写している」ようにも見えるわけです。作品に「脱ぐ文脈」や「脱いじゃう文脈」がないことも災いして、「なぜ裸なのか」について説明責任のようなものが生じます。当初は全く想定していなかった視点からの批判が後になって出てきたのですから、設置者にとっては言いがかりみたいなものです。けれども、公共性が求められる場所では決して無視できない論点です。

 民度の高い議論の必要性

 ではどうすべきなのか。裸婦像というものの現代的な位置づけを再定義してみたり、「見る権利」と「見せられない権利」との折り合いを考えることもしないで、いきなり問答無用の撤去では、あちこちにタチの悪い分断のタネを残すことになると思います。「性被害者に冷淡な街」にも「大きな声にはアッサリおもねる街」にも、「芸術観がころころ変わる街」にも、高松市はなりたくないでしょう。
 できれば、制作者側と撤去希望者側が、現地で話し合う機会がつくられるべきだと思います。私が担当者だったら、撤去希望者側には像設立の意図や経緯を理解してもらい、一度何も考えずに(文脈との切り離し)、モノとして像の美しさを見て欲しいと言いうでしょう。一方、制作者側には、あえて性的ないやらしい目(脱がせる文脈)で像を見ることを勧めます。そして市側など中立の立場の方には、両方の視点で見てほしいと言います。
 また、どうしても像を見ることが嫌だという方には、「なんで嫌なのか」を制作者にも理解してもらえるように語って欲しいと思います。さらに、こういう場で全く発言する気も無い人がいても、それもまた大切な立場です。そういう方がおられたという事実も参加者で共有するべきです。まずは像への向き合い方の多様性を大事にしましょう。
 その後、力づくのイデオロギーのぶつけ合いではなく、想像力を駆使して多用な立場・視点・趣味・価値観に近づいてみる。こうした民度の高い議論できたのならば、最終的には職権による強制力で解決せざるを得ないことになったとしても、参加者全員にとって得るものが大きいのではないでしょうか。
 今後、経済的に落ち目になることを避けられない我が国で、最後まで誇りに出来る、あるいは誇りにすべきは、われわれ自身の民度しかないでしょう。「金だけ今だけ自分だけ」に居着いている余裕は、今の日本人にはないと思います。