十字炎上(クロスファイアー)現象について

「殺すぞぉー」ドスのきいた体育教師の声が、体育館に響きわたりました。開
口一番これですか。「ええか、これから村山先生の講演があるから、静かに聞く
ように。わずか15分や。これしきのことに耐えられんようでは、どんな現場も
務まらんぞ」......忍耐力鍛錬のために、全校生徒は私の話を聞かされるのでしょ
うか。「もうひとつ。三年生男子、くれぐれも去年のようなことがないように。
危険極まりないし、だいいち先生に失礼やろ。」......何があったんです。「しつ
こいようやけど、死んでもしゃべるな。その代わりな。15分を1秒でも過ぎる
ようなことがあったら、わしの出番や」......過ぎません過ぎません。カジュアル
に「殺す」の「死ぬ」のが出てくる修羅場で、何をどうしゃべったのか覚えてい
ませんが、10分ほどで切り上げ、逃げるようにして職員室に駆け込みました。
 もう30年以上前の話ですが、当時は教育現場でそれもかなり公式の場で「殺
す」とか「死ぬ」とかの言葉が使われていました。もちろん、ただの比喩だとい
うことが全員にわかっているのですから、誰も問題にもしませんでした。
 それから数年後、娘たちが通った地域の小学校で自分の研究の一環として、ゲー
ム機を使った自習用のネットワークシステムを開設しました。メーカーから機材
を無料提供されての結構本格的なやつです。結構人気が出て、放課後、私の作っ
た拙い計算ゲームにまで、何人かのマニアまで生まれました。
 ある日、下校時間にマニア君のひとりが、続きやりたいからマシンを「持って
帰っていいか」と、いたずらっぽい顔をして言うので、「殺すで。家では家のこ
とをしとき」と軽くたしなめると、「やっぱりそうですよね」と頭をかきながら
帰って行きました。
 片付けを終わって帰ろうとすると、たまたま横にいた教頭先生から「殺す」は
やめてくださいね。と深刻な顔でわざわざ注意されて驚いたことがありました。
もちろん、誰にも殺意なんかあるわけないですし、冗談以前の軽口だということ
も明白、言われた子供も傷つくどころか意にも介してなさそうでした。ちなみに
その子は何事もなく翌日もやってきました。
 確かに品のない表現だったことは認めますが、どう考えても暴力的な話ではな
く、誰も傷つかず、しかも真意(この場合は、「学校の備品を持ち帰ったらだめ
でしょ」)はちゃんと伝わっているのです。それを、命の大切さと絡めた文脈で
批判するような文化が発生しだしたようです。文脈を無視して、死とか殺とかの
文字がはいる表現は全部だめだというのなら、「死にそうに忙しい」とか「黙殺
する」とか「併殺打」とかもいけないのでしょうか。

言葉尻の言葉尻を捉える方法

 BS朝日の報道番組「激論!クロスファイア」が終了しました。報道によれば、
「高市早苗氏の選択的夫婦別姓に対する否定的な姿勢について、ゲストの辻元清
美氏、福島瑞穂氏が批判。その後、田原氏が『あんな奴は死んでしまえと言えば
いい』と発言した」のが原因のようです。メディアによっては「大暴言」とか
「モラル逸脱」とまで言われて批判されていますが、本当にそうなのでしょうか。

BS朝日「激論!クロスファイア」終了を発表 田原総一朗氏の発言「モラル逸脱」
 番組責任者ら懲戒処分,スポニチ,https://www.sankei.com/article/20251024-KGVSIC3IY5HAFBQU4HTXUNZUPA/

 言葉尻を捉えるという表現があります。多義的な言葉をわざと発言者とは別の
意味に解釈したり、比喩であることを無視したりして、意図的な誤解に基づいて
発言者を批判することぐらいでしょうか。
 例を挙げましょう。「言葉尻という表現はセクハラだからやめてよ」というや
つです。こういうときに「尻といっても、あなたの両足の間にある薄汚い穴の周
辺の事じゃなくて、言語解釈上の妥当性の話をしているのです。だから、この議
論にあなたの醜く歪んだ性感覚や陳腐で貧しい美意識を持ち込まないでください」
なんてやると、本格的な暴言になりますから、穏当に「揚げ足取り」と言い直し
ておきましょう。細かいニュアンスは違いますが仕方ありません。
 言葉尻を捉えることや揚げ足取りは、きわめて生産性の低い行為です。よくて
ただの時間の無駄。たいていの場合は、やったほうが顰蹙を買います。唯一効能
があるとすれば、相手のペースで議論が進みそうなときに、話の腰を折って流れ
を変えられることですが、これはボクシングで言えばクリンチのようなもので、
よほどうまくやらないと、論破の先送りにしかなりません。それどころか、せっ
かくのチャンスを逃すこともあります。
 有名な高市自民党新総裁の「就任スピーチ」で、「(自民党議員には)馬車馬
のように働いていただきます」と言ったことに対して、共産党の志位議長は、
「『全員に馬車馬のように働いてもらう』にものけぞった。人間は馬ではない。
公党の党首が使ってよい言葉とは思えない」と反論しました。典型的な揚げ足取
りです。Xの一般ユーザーが「じゃあ出馬もしないでください」と返されてしまい
ました。公平に見て、議長の一本負けでしょう。
 けれども、総裁の発言には問題はなかったのでしょうか。前後にあった「ワー
クライフバランスを捨てる」との発言との関連で、労働強化につながる発想だと
いう批判はあり売るでしょう。志位議長の批判もこの方向からなのですが、ほか
にも大きな問題があります。
 比喩としての馬車馬という言葉は一般の騎乗馬との比較で使われます。車を引
かされている馬は、急坂を駆け下りたり障害物を飛び越えたりは出来ません。た
だただ、目の前の道を進むのみです。だから、馬車馬という言葉は通常悪い意味
で使われます。つまり、何も考えずに、命令されたことをただただ実行するタイ
プの労働者のことです。
 目下の人間に「馬車馬になれ」という場合、二つの意味があります。ひとつは
「余計な判断はせずに言われたことだけやれ」という意味、もうひとつは単純に
「さぼってないで働け」というやつです。今回の高市新総裁はどうだったのでし
ょう。ほとんどの批判者は後者の意味にとっています。直前に「だって今、人数
少ないですし、もう全員に働いていただきます」とおっしゃっているので、まあ
妥当な解釈なんでしょう。
 けれども、今の自民党の危機の原因は、国会議員をはじめとする党員の怠慢な
のでしょうか。どちらかと言えば、裏金作りやら統一教会との関係やら、一所懸
命にいらんことをして国民の顰蹙をかったことが大きいのではないでしょうか。
 とすれば、総裁の発言には「これからは妙なことを考えずに党本部の指示にし
たがって動け」という含意があったのではないでしょうか。だとすれば、国民の
代表である国会議員に対して随分失礼な言い草です。志位議長はなんでこのあた
りを批判しなかったのでしょうか。「うちじゃ昔からやってるから」なんて言わ
ないでくださいね。

高市総裁の「馬車馬」発言批判の志位議長に 「では出馬もしないで」とツッコミ,
zaqzaq,https://www.zakzak.co.jp/article/20251006-5L3GTAIPLFBQRHMYZ7WUKYXWMM/


昭和と令和がクロスするとき

 さて、田原総一朗氏のケースです。一番詳細かつ正確に報道されていると思わ
れるサイトから引用します。

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福島氏は「今までの言動で、選択的夫婦別姓に反対で、ジェンダー平等にも後
ろ向きだと思っている」と高市氏の姿勢を批判し、「全く男性原理そのもので
(政治を)やるんだったら、女性であることの意味もないじゃないですか。だか
ら、やっぱり(選択的夫婦別姓に)賛成してほしいと思いますよ」とした。
田原氏は福島氏の発言に割り込むようなかたちで、「高市に、大反対すればい
いんだよ。なんで高市を支持しちゃうの?」と切り込んだ。辻元氏と福島氏が
「支持してないよ!」とすると、田原氏は「あんなやつは死んでしまえと言えば
いい」とした。
辻元氏が「田原さん、そんな発言して...高市さんと揉めたでしょ、前も」と
嗜めるも、田原氏は「僕は高市と激しくやり合った」と主張していた。

田原総一朗氏「あんなやつは死んでしまえ」発言、ネット民は「死んでくださー
い」発言のフワちゃん想起「この差はなに?」,Jcasニュース,
https://www.j-cast.com/2025/10/22508581.html
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 これ、暴言というより語彙の貧困じゃないでしょうか。「殺す」ではなく「死
んでしまえ」を使い、さらに「と言えばいい」と発言を他者に委ねる形にする...
...殺人教唆やら脅迫やらにしては、えらい腰の引けた発言です。要は、もっと
「大反対」しろと言いたいのですが、ほかにアイキャッチーな表現が見つからな
かったので「死」を使っちゃったということです。
 辻本さんにたしなめられてもきちんと対応できなかったのは、意地になってし
まったのでしょう。録画後の編集を当てにして気が緩んでいたのかも知れません
が、正直に言えば、やはりお年かなという気がします。
 もし、福島氏や辻本氏が「夫婦別姓を指示しないなら死んでしまえ」なんて言
ったら、高市さんだったら「そんなん言われんでも50年もしたら死にますがな。
あんたらも同じやろ」ぐらいの「答弁」はしそうです。なにしろ「お茶を飲む」
を「茶ぁしばく」、「食事をする」を「飯どつく」と言うこともある関西の言語
環境を3方とも、よくご存じでしょうから、うまく処理してしまうでしょうが、だ
れかがネタに回収できなかったらスベったまま収集がつかなくなるのが、今回の
田原発言なのです。
 あちこちで指摘されていることですが、この件の責任は田原氏よりも番組にあ
ります。録画なんですから、うまく編集すれば何事も無かったはずです。なぜそ
うしなかったのか。私には可能性が2つあると思います。ひとつは、辻本氏の窘め
が面白かったからです。党派を超えて窘められる司会者なんてあんまりいません。
 もうひとつは、ノスタルジーです。「出演者の中途半端な発言を煽って、より
過激な本音を引き出す」というのは、バブルを代表する硬派の深夜番組で「朝生
(朝まで生テレビ!)」で一世風靡した田原氏の十八番です。私自身、この発言を
最初に聞いたとき「懐かしい。田原さんらしいな」と思ってしまいました。「激
論!クロスファイアー」を見ている人の大部分は、朝生の栄光を知っていると思
われますから、番組担当者は「ちょっとばかり、昭和の(バブルの)香りをお茶
の間にお届けするか」などと考えたのではないでしょうか。そして、発言の平成
的な意味での不適切さが、令和のマスゴミ嫌いのSNS世論とクロスしてしまい大炎
上したわけです。

朝まで生テレビ!,Wikipedia,https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E3%81%BE%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93
!


そろそろフラジャイルのついて研究しませんか

 セクハラやパワハラについても、大炎上が起こるのは、昭和の価値観と令和の
価値観が交差する場合です。悪いと知りつつこわごわやっているような事例は、
炎上などせずに、内々にか適正にか知りませんが処分されて終わりです。けれど
も、「コミュニケーションの一環だ」とか「俺たちもみんな経験したことだ」と
かを、開き直りではなく本気で言い出す加害者がいて、誰かがそれを拾い上げて
パスを繋ぐと大炎上劇場の始まりになります。
 まあ、今の日本人がなんとなく合意している価値観では当然のころでしょう。
けれども、潜在的被害者があまりにもフラジャイルに(傷つきやすく)なったり
して、みんなが防衛的になり、少しでもリスクのあることはしなくなるのが良い
とも思えません。
 もう20年前の話ですが、研究者としてのキャリアの最後で赴任した本務校では、
セクハラ研修を受けたのをきっかけに(念のため言っておきますが全教員向けの
研修です。私個人向けのものではありません)、それまでの勤務先とは明らかに
違う冷たい対応を学生にするようになりました。
 特に、女子学生には「男女が密室で二人きりになることはリスクのある行為で
ある。ほかの先生はどうか知らんが、私の研究室にひとりで来るときは、レイプ
される覚悟をしておくように。そうそう、最近はジェンダーフリーで芸域を広げ
ているから、本年度からは男子も同様である」などとゼミや授業で言い放ち、用
事のある学生とは事務室で会うようにしました。あるいはオンライン(当時はテ
キストベース)を利用しました。
 やってみると、これが楽なんですね。二人きりでないと出来ないような深い話
をシャットアウトできるからです。やるにしても、通り一遍の対応で済ませられ
ます。家族や友人関係のことなら「まあ、仲良くやりなさい」、進路のことなら
「頑張れ」でOKです。何年かこれをやると、以前のような濃厚な指導や相談は面
倒でもうできなくなります。
 心理学の故河合隼雄先生なら、「学生にレイプの覚悟をさせるのなら、教員の
方もレイプ冤罪の覚悟をしろ」とおっしゃるでしょう。まあ、幸か不幸かそれほ
どの思い入れを持てそうな学生とはついに出会いませんでした。
 話が「揚げ足取り」から随分離れました。「殺す」とか「死んでしまえ」とい
う言い方は、たとえ比喩であっても嫌がるひとが一定数出てきたの事実です。発
言者がAIなどを使って逃げてしまうことは可能でしょうが、これを際限なくや
りだすと基本的なコミュニケーションにも、いずれ支障が出てくるでしょう。そ
うなると必ず、「言葉で傷つくのは傷ついた方に責任がある。勝手に傷ついとけ」
なんて言い出すやつが出て来るでしょう。
 フラジャイル問題はどうやら先進国共通のようです。恐らく「人間とはどうい
う場合によりフラジャイルになるのか」とか「言葉で傷ついた人はどういう過程
で回復するのか」みたいな問題意識は、これから重要になると思われます。心理
学や言語学などの研究者に期待したいところです。