8月9日(木)

立秋は過ぎたものの、相変わらず厳しい残暑の日々である。
そんな暑い日が続くこともあってか、大阪天神祭ではたいへんお世話になった「西成の叔父貴」ことホリノ社長から、「涼しくなる曲を取り上げてほしい」とのリクエストがあった。

「涼しくなる曲」ですか。

地球上でいちばん「涼しい場所」と言えば極地、それも北極より南極の方が寒いとのことだ。
ならば、南極の曲を聴けばきっと涼しくなるに違いない。
でも、南極の曲なんてあるのだろうか?
それが、ちゃんとあるのだ。ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第7番「南極交響曲」である。

曲のもとになっているのは、ロバート・スコットの南極探検隊を描いたイギリス映画『南極のスコット』(1947年)のための音楽で、第7番はこの映画音楽を再構成して一つの交響曲として完成されたとのことである。初演は1953年。ジョン・バルビローリ指揮、ハレ管弦楽団によって行われた。

以下は、曲についての詳細である。
“楽章数は5つあり、第3楽章と第4楽章は連結されている。総譜では、おのおのの楽章の開始に先立ち、文学作品の引用句が掲げられている。このように、作品成立の由来からもわかるように、交響曲とはいうものの、形式の拘束とは無縁に作曲されており、内容的にも標題交響曲と連作交響詩との中間にあり、実質的には交響組曲のようになっている。極地における自然界の猛威と愛すべき動物たち、氷山・氷原・オーロラ・ブリザードの描写、危機を目前に進退窮まった人間の無力感と自己犠牲といったものが、ロマン派的な構成原理や印象主義的な音楽語法を駆使して描き出されている。”(@Wikipedia)

第1楽章:前奏曲。アンダンテ・マエストーゾ(引用句:シェリーの詩『鎖を解かれたプロメテウス』)
まるでどこかの惑星のような雰囲気を感じさせる、夜明け前の南極。やがて夜が明けると、荒涼たるその大地が姿を現す。実際に風の音を起こすウィンドマシーンに乗せて、初めて南極後に踏み入れた人々の不安を象徴するかのような女性のヴォカリーズ。しかし、すぐにそんな不安もかき消され、南極点を目指す意気込みを表すような明るく希望に満ち溢れたコーダで曲が閉じられる。

第2楽章:スケルツォ。モデラート~ポコ・アニマンド(引用句:詩篇第104篇)
描かれているのは、ペンギンをはじめとする南極の動物たちであろうか。まだここでは雰囲気は明るい。

第3楽章:風景。レント(引用句:コールリジ『シャモニー渓谷の日の出前の讃歌』)
どこまでも続く昼の氷原。夜ともなれば、空には幻想的なオーロラ。やがて迎える夜明け。極点に到達したスコット隊を描くかのように、オルガンが荘厳な音色を響かせる。

第4楽章:間奏曲。アンダンテ・ソステヌート(ジョン・ダン『夜明けに』)
ハープの伴奏に乗せて、平穏な夜明けのメロディーを吹くオーボエ。しかし、後半ではまるで行く手を何かに阻まれるかのように遅々とした足音も聞こえる。

第5楽章:終幕。アラ・マルチア、モデラート(スコット大佐の最後の日記より)
悲劇を予感させるようなおどろおどろしい始まり。一歩一歩踏みしめるかのような足音をあざ笑うかのように、ウィンドマシーンが風の音を鳴らし、女声合唱がとヴォカリーズがスコット隊を弔うかのような歌声を聞かせる。最後に残る風の音…。

ご存じの方も多かろうと思われるが、世界で初めて南極点に到達したのはノルウェーのアムンセン隊であった。スコット隊よりも先んずること1ヶ月。南極点に達したスコット隊が見たのは、ノルウェーの国旗だったのである。
失意のスコット隊をブリザードが襲う。
“吹雪は10日間も吹き荒れテントに閉じ込められたが、スコット隊の持っていた食料はたったの2日分だけだった。スコットは日記に1912年3月29日付で「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい」と書き残し、寝袋に入ったまま3人ともテント内で息を引き取った。”(@Wikipedia)

家にあるCDは、サー・アンドリュー・デイヴィスがBBC交響楽団を指揮したヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集(現在は廃盤)。
この第7番に関しても、悲劇性を過度に強調したりすることなく、かと言って単なる情景描写に終始するということもない、たいへん端正な演奏である。こういう演奏を聴くと、イギリスの作曲家の演奏はやっぱりイギリスの指揮者・交響楽団がいいのだと思わせられる。
HMVで検索してみたら、全集は他にスラトキン・フィルハーモニア管、ボールト・ロンドンフィル盤などがヒットした。特に、マーラーで意欲的な演奏を聴かせたスラトキン盤は、ぜひ聴いてみたい気がする。

ホリノの叔父貴、この交響曲と、映画「南極のスコット」のDVDを併せて視聴すれば、たぶん涼しくなると思われます。お試しあれ。

7月31日(火)

学校が夏休みに入って1週間。暑い日が続く。
青い空、湧き上がる入道雲、遠くの山の緑。
自分にとって、この時期に最もぴったりの音楽は、特にその第1楽章に「牧神(パン)が目覚め、夏が行進してくる」と副題の付けられたこともある、マーラーの交響曲第3番である(前回もマーラーでしたね)。

この交響曲が作曲されたのは、マーラー36歳のとき。この当時、マーラーは指揮者をしていたハンブルク市立劇場の6~8月にかけての休暇を、ザルツブルクの東方50kmにあるシュタインバッハ・アム・アッターゼに建てられた作曲小屋にて過ごすようになっていた。3番は、そのアッターゼ湖畔の豊かな自然を存分に取り込んだと言われている(この作曲小屋は、現在でもマーラーが実際に作曲に使用したピアノとともに、ちゃんと残されているとのことである)。
Wikipediaには、以下のような記述がある。
“指揮者のブルーノ・ワルターは、1894年から1896年までハンブルク歌劇場でマーラーの助手をつとめていたが、1896年の夏マーラーに招かれてシュタインバッハを訪れた。ワルターの回想によれば、このとき、汽船で到着したワルターが険しく聳えるレンゲベルクの岩山に眼をとめて感嘆していると、迎えにきたマーラーが「もう眺めるに及ばないよ。あれらは全部曲にしてしまったから。」と冗談っぽく語ったという。”

最初、この交響曲は二部に分けられ、各楽章には表題が付けられていた。
第一部
第1楽章: 「牧神(パン)が目覚め、夏が行進してくる(バッカスの行進)」 
第二部
第2楽章:「野原の花々が私に語ること」
第3楽章:「森の動物たちが私に語ること」
第4楽章:「夜が私に語ること」
第5楽章:「天使たちが私に語ること」
第6楽章:「愛が私に語ること」
のちにこれらの表題は破棄されたが、それぞれの楽章の特徴をとらえるには格好のヒントとなろう。

第1楽章は、まるで牧神の目覚めを告げるかのような8本のホルンの斉奏で始まる。静かな大太鼓の連打が葬送行進曲のような雰囲気を醸し出す。モノローグのようなトロンボーンのソロ。弱音器を付けたトランペットの切り裂くような雄叫び。まるで、黒雲立ち込める空に時おり稲妻が走って嵐がやってくるような印象である。
しかし、「夏(バッカス)の行進」の部分に入ると、ようやく雨も上がって鳥の囀りがあちこちから聞こえ、音楽はゴキゲンにドライブし始める。夏の青い空と白い雲!
行進曲の盛り上がりの頂点では、何か悲しいことを思い出したかのように短調が戻ってくる。トロンボーンのモノローグ。一時的に音楽はその歩みを止める。
一旦止まった行進だが、また少しずつ動き始める。今度は軍楽隊も加わって、いかにも賑やかな行進となる。
再現部は、小太鼓のロールに乗って、再び冒頭のホルンの斉奏。トロンボーンのモノローグ。三度、夏の行進が始まる。今度は何か割り切ったような清々しさがある。そうして迎える堂々たるクライマックス!
演奏に30分を超える長大なこの楽章は、交響音楽が持つ様々な音色を存分に楽しむことができるのである。

何とも優雅で、その終わり方も印象的な第2楽章を経て第3楽章。
何を隠そう、自分はこの第3楽章がマーラーの全交響曲の楽章中、特に好きな楽章の一つなのである。
弦のピチカートに乗って、クラリネットが続いてピッコロが鳥の鳴き声のようなパッセージを奏する。何とも愛らしい始まりである。
でも、この楽章の白眉は、何と言っても中間部のポストホルンのソロ!
ポストホルンとは、文字通り郵便馬車がその配達を告げるために吹いた小型の無弁ホルンのことである。舞台裏で演奏されるこのポストホルンのソロは、舞台上のホルンと絶妙の掛け合いをしつつ、思わず耳を澄ませて聴き入ってしまう美しいメロディーを聴かせてくれる。
夏の早朝の爽やかな雰囲気を感じさせてくれる楽章である。

続く第4楽章。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』から採られたテキストによるアルト独唱。低音の弦楽器の神秘的な伴奏で「おお、人間よ!注意せよ!」と始まる。
夏の夜、一人静かに星からの声を聴くかのようである。
曲はそのままアタッカで第5楽章へ。
十戒の破戒を懺悔するアルト独唱に、児童合唱と女声合唱が「泣いてはならぬ」と諭すことで、終楽章の神の愛への道が整えられる。

そうして、弦楽器で静かに始まる終楽章のアダージョ!
さまざまな感情や思いや祈りをその中に取り込みつつ、最後は偉大な神の愛を高らかに奏することで全曲が閉じられる。

自分にとってベストの演奏は、バーンスタインが手勢のニューヨーク・フィルを指揮した旧盤(1961年録音)の2枚組のレコードである。
エネルギッシュな第1楽章もいいが、何より第3楽章の John Waroによるポストホルンのソロ!
たくさんの3番の演奏を聴いたが、これを上回るポストホルンの演奏を未だかつて聴いたことがない。
この演奏だけでも、このレコードの価値は十分にあると思わるほどのすばらしさである。
そうして感動的な終楽章。若き日のバーンスタインが思いの丈をぶつけた、まさに入魂の演奏と言えよう。

5年ほど前には、より音のよいSACD盤も出ているそうだが未聴である。
自分が所有しているCDは、2009年に限定プレスで発売された12枚組の全集版(今年の6月にも限定で、しかも「密林」では何と1999円!で現在も発売中とのこと)である。
この名演をかくも安価に手に入れて聴けるとあらば、これを購入しない手はありますまい。

7月18日(水)

今年の海の日は、名古屋の愛知県芸術劇場大ホールへ。
名古屋マーラー音楽祭の最後を飾るマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」を聴くためである。

名古屋マーラー音楽祭とは、
“グスタフ・マーラーの没後100年にあたる2011年に、マーラーの全交響曲を名古屋を中心に活動するアマチュア・オーケストラ団体が連帯し、作品によっては合唱団の協力を得て演奏される”
音楽祭のことで、
“マーラーの記念年にあたり、各プロオーケストラもマーラー作品を取り上げるだろうが、その全交響曲をアマチュア・オーケストラ団体の統一企画により、合唱団体の協力によって演奏されることは、名古屋の音楽文化の活力を示す画期的音楽祭”(@名古屋マーラー音楽祭運営委員会運営委員長 藤井知昭氏)
として、昨年1月の第1回「さすらう若人の歌」から始まって、毎月1回ずつ、8番を除く全交響曲が演奏されてきたという経緯を持つ。
それぞれの演奏会は、毎回異なったオーケストラが担当してきたが、最後はそれらのオーケストラからの選抜メンバーに合唱団を加えた編成で、8番を合同演奏することになっていたのである。

2年間にわたって、全てアマチュアのオーケストラで、マーラーの交響曲全曲を演奏するという、何よりその心意気を多としたい。
実際には様々な困難もあったと想像されるが、何とか最後の8番まで漕ぎ着けたというのは、演奏者の並々ならぬ熱意と、それをサポートしたスタッフの支えがあってこそのことだと思う。
個人的には、聴きに行こうと思っていた演奏会もあったのだが、残念ながら日程が合わず、集大成とも言うべき今回の8番だけは何があってもチケットを購入し、少しでも音楽祭の一助となればと思っていた。

マーラーの8番は、その副題が示しているように、オーケストラ(バンダのトランペットとトロンボーンを含む)に、8人の独唱者、混声四部合唱団2セットと児童合唱を加えた、文字通り約千人の演奏者によって演奏される大交響曲である。
この曲についてマーラーは、ウィレム・メンゲルベルクに宛てた手紙で以下のように書いている。
“「これまでに作曲した中でもっともすぐれた作品だ。内容においても形式においても非常にユニークで他に例を見ない。宇宙が音楽を奏で始める場面を想像して欲しい。その音楽はもはや人間の声ではなく、軌道を巡っている惑星や恒星のようなものだ。」”(『マーラー 交響曲のすべて』コンスタンティン・フローロス、前島良雄・前島真理訳、藤原書店)
マーラーには自信があったのである。
「宇宙が音楽を奏でる」のであるから、当然演奏者も宇宙的規模でなければならないということなのだろうか。とにかく、マーラーの全作品中、最大規模の曲であるばかりでなく、音楽的にも集大成的位置づけを持つ作品とされている。

初演は、1910年9月12日~13日。マーラー自身の指揮で、ミュンヘンにて行われた。
以下は、そのときの様子である。
“初演時には出演者1030人を数え、文字どおり「千人の」交響曲となった。内訳は、指揮者マーラー、管弦楽171名、独唱者8名、合唱団850名。管弦楽はカイム管弦楽団(ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の前身)。合唱団には音楽祭に参加していたウィーン楽友協会合唱団250名、リーデル協会合唱団250名に、ミュンヘン中央歌唱学校の児童350名が加わった。(…)
初演は鳴り物入りで予告・宣伝され、12日、13日ともに3000枚の切符が初演2週間前には売り切れた。演奏会には各国から文化人らが集まり、演奏後は喝采が30分間続いたという。”(@Wikipedia)
大成功を収めたのだ。

このように書かれていると、レコードではなく、どうしてもその実際の千人による演奏を聴いてみたいと誰しも思ってしまうのではないか。
自分の場合は、高校3年生のときに読んだ音楽雑誌の記事がきっかけだった。その音楽雑誌とは、今も刊行されている『音楽現代』(芸術現代社)である。
自分がマーラーを聴き始めた70年代には、マーラーの交響曲のレコードは今のようにはたくさん出ていなかった。入手可能な指揮者としては、わずかにバーンスタイン、ワルター、クーベリックを数えるくらいであった。
マーラーに関する著作も、そう多くはなかった。
そんな中、『音楽現代1975年3月号』が、マーラーの特集を組んだ。松下真一と大町陽一郎による対談(「マーラーはなぜ若者に聴かれるか」)に始まって、全ての交響曲の作品論とレコードが紹介されていたのである。それこそ、繰り返し繰り返し擦り切れるほどにむさぼり読んだ。

8番については、「大地を揺がす音の世界」と題して、大阪フィルハーモニー第100回定期演奏会を記念して1972年6月に行われた朝比奈隆指揮によるライブ演奏の模様を、音楽評論家の 相沢昭八郎氏が紹介されていた。
“私はあの日、大阪フェスティヴァル・ホールに湧き上がった、なんとも名状し難い叫びと、耳を聾するばかりの拍手を、今でもまざまざと思い出すことができる。本当に感激し、興奮してしまったら、日本人の口から「ブラボー!」という言葉は出ないのだということも、その時はじめて知った。合唱団からオーケストラまでが、指揮者朝比奈隆に惜しみなく拍手を送り、客席に三千人、ステージに千人、合わせて四千人の拍手と歓声がホールを振動させ、鳴り響いた。マーラーには、どうしても四〇段にも及ぶスコアの、大地をゆるがすような音の世界が必要だったのだ。いく度となく第八交響曲を聴いているうちに、彼の八番目のシンフォニーが《千人の交響曲》になった理由が、やっと解ったような気がしてきた。”(103頁)

爾来、いつかは実際の演奏を聴いてみたいと思いつつ、なかなか実際の演奏には触れる機会がないままに33年の月日が流れた。
ようやく宿念が叶ったのは、2008年4月、エリアフ・インバルの東京都交響楽団プリンシパル・コンダクター就任披露公演として、三夜にわたって行われた第8番の演奏会であった(そのときの詳しい様子については過去日記に記してあります。 http://nagaya.tatsuru.com/susan/2008/05/01_1028.html)。
どれほど感激したのかは、「もうこの世に思い残すことはない」と記したことでご想像いただけよう。
生涯忘れえぬ演奏会であった。

今回のマーラー音楽祭の8番も熱演であった。
さすがに大合唱団が後ろに控えていたためか、オケの、特に弦楽器はやや音量不足の感があったが、管楽器群はベルアップするなどして、よく鳴らしていたと思う。
独唱者は、総じて高レベルの歌を披露してくれていたが、特に第2ソプラノの小川里美さんのいかにも叙情的な声が印象に残った。
多くの合唱団員を舞台に乗せるために、通常はステージの後ろにある反響板を取ってしまった関係か、あるいは比較的ステージに近い座席だったからか、全体的に硬質の音色がやや気にはなった。
が、それとて指揮者井上道義のリードと、何よりアマオケとは言え、各楽団から選りすぐりのメンバーの熱演が帳消しにしていた。特に、バンダが入る第1部と第2部のフィナーレでは、舞台と一体となって溶け合った音色が、
いかにも宇宙的な響きを感じさせてくれた。
あらためて、このような音楽祭を企画、運営、演奏して多くの方々に敬意を表したい。

かように、8番は何と言っても実演に限るのであるが、そう度々8番の演奏会はあるものではない。となればCDかDVDでということになろうが、取り立てて誰の演奏ということもない。
自分がいちばん最初に買った8番のレコードは、バーンスタインがロンドン響を指揮した輸入盤であった。LP2枚組で箱入り、ジャケットには実際の演奏会の写真が使われていた。
レコードだと、第2部は途中で盤面を裏返したり、2枚目に入れ替えたりしないといけない。突然、音楽が途切れてしまうのである。そういう意味では、マーラーの8番を聴く者にとって、CDの出現は大きな朗報であった。
映像で忘れられないのは、サイモン・ラトルがナショナルユース管を指揮した2002年のプロムス。この8番もすばらしい盛り上がりだった。
やっぱり、8番は実演に限るのである。

7月10日(火)

昨年の「内田ゼミ卒業生全員集合バリ島ツアー」でご一緒して以来、「チャッ友」にもなった「北新地」ことフルタ妹さんから、「チャイコフスキーまってます\(^-^)/」とのご要望があった。
チャイコフスキーですか。

チャイコフスキーを初めて聴いたのが、いつのことだったかは判然としない。例えば、「くるみ割り人形」とか、「白鳥の湖」の一節ならば、どこかで耳にしていたかもしれないからだ。
はっきりとその作曲家のことを意識したのは、中学3年生のときだったと思う。
所属する吹奏楽部の顧問が、一枚のレコードを紹介してくれた。「日本の吹奏楽’70」と題された、前年の全日本吹奏楽コンクールの実況録音盤だった。
中でも驚いたのは、自分と同じ中学生による演奏だった。とても、中学生の演奏などとは思えなかったからだ。
中学校の部は、西宮市立今津中学校が演奏したショスタコーヴィチの「祝典序曲」と、豊島区立第十中学校が演奏したチャイコフスキーの「交響曲第4番より第4楽章」が入っていた。
どうしてもそのレコードがほしいと思って買い求め、何度も何度も繰り返し聴いた。

そのうちに、チャイコフスキーの交響曲第4番の全曲が聴きたいと思うようになった。
レコード店に行ってあれこれと品定めをした結果選んだのは、カラヤンがベルリン・フィルを指揮したレコード(1960年録音、EMI盤)だった。
もちろん、初めは吹奏楽の演奏で聴いた第4楽章や、カップリングされていた「1812年」ばかりを聴いていた。
でも、だんだんと他の楽章も聴くようになってくると、特に第1楽章がお気に入りになった。

この交響曲については、Wikipediaに以下のような記述がある。
“1877年にヴェネツィアを訪れたチャイコフスキーは、当地の風光明媚なスキャヴォーニ河岸にあるホテル・ロンドラ・パレス(当時はホテル・ボー・リヴァージュと言う名であった)にてこの曲を書き上げた。(…)
この時期、メック夫人がパトロンになったことにより、経済的な余裕が生まれた。これによってチャイコフスキーは作曲に専念できるようになり、これが本作のような大作を創作する下地となった。このことに対する感謝の意を表して、本作はメック夫人に捧げられた。”
メック夫人とは、ナジェージダ・フォン・メック(未亡人)。チャイコフスキーのパトロンとして、一度も会うことがないまま文通を繰り返し、年間6000ルーブルもの資金援助を1877年から14年間にわたって続けた人物のことである。
そのメック夫人に捧げられたとあって、このシンフォニーについては、作曲者自身からメック夫人に宛てて詳細な解説の手紙が書かれている(以下、手紙文の邦訳は岡俊雄氏による)。
確かに、宛先はメック夫人だが、内容はどうも自分自身に宛てて書いたかのような印象を受ける。

第1楽章
「序奏部が交響曲の核心をなすものです。それは運命です。幸福を求めるものが目的に達しようとすることを妨げ、平和と安楽などを打ちひしぎ、空から雲を追い払うことは出来ぬと嫉妬深く主張する運命的な力です。」
とあるように、冒頭の金管のファンファーレ(序奏部)が収まると、弦楽器による第1主題が入ってくるが、これが暗く憂鬱な雰囲気を醸し出す。木管による第2主題が出てくると、一転して夢を見ているような静かな世界が現出するが、そんな明るい雰囲気も冒頭の「運命のファンファーレ」の再現で断ち切られる。
「私たちの人生は去りゆく夢と幸福と陰鬱な現実の交錯にすぎないことを知るのです。安らかな天国はありません。あなたは人生の波に投げ出され、呑まれてしまいます。」
書かれているとおりの悲劇的な結末で締めくくられる。

第2楽章
「仕事に疲れ果てたものが、ひとり家で座っている憂愁の風景です。手にした本はすべり落ち、わきおこる回想が心から溢れ出てしまいます。なんと多くのことが過ぎ去ってしまったのだろうと悲しげです。」
そんな悲しさをオーボエが奏する。終始、人生に倦み疲れた者が昔を回想する楽章である。

第3楽章
「これは気まぐれなアラベスクで、酒を飲み酔ったとき幻想のように通り過ぎて行く、捕えがたい姿です。」
弦楽器のピチカートがドライブする幻想的な楽章。しかし、雰囲気はだんだんと明るさを帯びてくる。

第4楽章
「あなたが、自分自身に何の楽しみも見い出せなかったら、周囲を見るのです。人々の中に身を投ずるのです。みんなが、どんなに楽しんで、陽気になるために打ちこんでいるかを見ることです。(…)それは単純で、元気に溢れた、素朴な喜びなのです。みんなの幸福を喜ぶべきです。そこにあなたはなお生きて行けるのです。」
Allegro con fuocoと指定されているように、生き生きと元気のいい始まりである。途中、「ほんとうにそうなのか」と自問自答するようなところもあり、そこへ第1楽章の「運命」のファンファーレが戻ってくるが、それも自分で「いや、やはりこれでいいんだ」と納得していく過程が描かれる。
最後は圧倒的な肯定感に満ち溢れて曲を閉じる。

余談だが、この終楽章の最後は、かなりのスピードで続けざまにシンバルを叩くことが要求される。打楽器奏者にとっては「腕の見せどころ」とも「シンバリスト泣かせ」言えるところであろう。
かのフルトヴェングラーがウィーンフィルを振った1951年録音盤では、最後のフルトヴェングラーのあまりのアッチェレランドに、途中からシンバル奏者が面食らったか、慌ててそのスピードについていくという演奏が、そのままに残されている。
これはこれで、とびきりのレコードである。

そんなこんな思いもあって、チャイコフスキーの特に後期の交響曲である4,5,6番は、もちろんどれも捨てがたいのであるが、やっぱり4番がいいのである。
演奏は、誰が何と言ってもカラヤンで!
生涯に5度もこの曲を録音した「帝王」の演奏、お聴きになればそのすばらしさが納得できます。

7月3日(火)

大学時代のクラブの1級上の先輩であるヒラノさんが、先日Facebookにニールセンの交響曲について書かれていた。
6曲の交響曲それぞれの特徴に続いて、ブロムシュテット、サンフランシスコ響の演奏について、
「ブロムシュテッドのサンフランシスコ響は、Tubaのゴリゴリ感やパリパリのTimp、フロントベルのようなHornの雄叫びなど、性能の良いマシンを想像させますが、でも本当はもう少し奥深いオケの演奏で聞いてみたいな。」と感想を述べられている。
そうですか、ニールセンですか。さすがはヒラノさん、今もってクラシック音楽を幅広く聴いておられると感心しきりであった。

カール・ニールセンについては、あまりご存知でない方もおられよう。
シベリウスと同年の生まれで、デンマークの作曲家である。6曲の交響曲が最も有名であるが、その他にも協奏曲やオペラなども残している。
かく言う自分もニールセンの交響曲全集のCD(ダグラス・ボストック指揮、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団)は持ってはいるが、ヒラノさんようにじっくりと聴いたわけではなかった。
というわけで、今回はニールセンについて何か書くというわけにはいかない。

ヒラノさんには、いろいろなことを教えていただいた。音楽のことだけでなく、それこそ「いかに生くべきか」というようなことについても貴重なご意見をいただいたりした。ほんとうにいろんな面でお世話になった先輩なのである。
今回は、そんなヒラノさんから紹介していただいたレコードで、特に忘れ難いレコードのことである。

そのレコードは、ウォルフガング・サヴァリッシュがドレスデン国立歌劇場管弦楽団を指揮した、シューマンの交響曲全集である。(CDは、http://www.hmv.co.jp/product/detail/3872768)
どうしてヒラノさんがこのレコードを紹介されたのかはよくわからない。どこで聴かせてくれたのかもよく覚えていない。ただ、「これ、エエでえ」とだけ言って紹介してくれたのではないかと記憶している。
ほんとうに、これはすばらしいレコードだった!

未聴の方は、まず3番の「ライン」から聴いていただきたい。
まずは、この交響曲の白眉とも言うべき第1楽章。「生き生きと」と指示されたとおりの第1主題にまず魅せられる。何となくわくわくしてしまうのである。さらに、再現部の前のホルンによる主題の斉奏!
この交響曲では、それぞれの楽章でホルンの果たす役割がたいへんに大きい。
第2楽章はスケルツォであるが、中間部のホルンの二重奏がなんとも美しい。静かな第3楽章を経て、第4楽章はホルンにトロンボーンを加えた金管楽器のコラールが厳かに響く。一変して、第5楽章はうきうきするような楽しい行進曲である。

シューマンの交響曲については、その管弦楽法について言及されることが多い。曰く、
“管弦楽法の構成では、ホルン群を除けば各楽器を独奏で扱うことが少なく、弦楽器と管楽器を重ねて同時に全合奏で演奏させることが多い。大改訂後に出版された交響曲4番で改訂前に比べてオーケストレーションは全般的に分厚くなっているなど、シューマンは意図してそのようなオーケストレーションを行っているが、くすんだ響きになって機能的でないとして(人によっては「ピアノ的」「楽器の重ねすぎ」と称する)、後世に非難の対象となっており、手を加えられることが多い。
特に指揮者としてシューマンの曲を自身で演奏する機会も少なくなかったグスタフ・マーラーが、楽器編成はそのままに指揮者としての観点からオーケストレーションに手を加えた編曲はよく知られており、今でも一部を採用する指揮者が少なくなく、またマーラー版として全面的に採用した録音もある。”(@Wikipedia)

かのマーラーも、オーケストレーションには手を入れていたのだ。
でも、このサヴァリッシュ盤では、くすんだ響きがすると言われればそんな感じもしないではないが、逆にそれがいかにも上品な響きに聴こえてくるのだ。
それは、たぶんドレスデン国立歌劇場管弦楽団の演奏レベルの高さによるものであろう。
ドレスデン国立歌劇場管弦楽団と言えば、世界でも最古の歴史と伝統のあるオーケストラと言われ、ウェーバーやワーグナーなど錚々たるメンバーが音楽監督に名を連ねている名門中の名門オーケストラである。
つまりは、オーケストラのレベルが高ければ、多少のオーケストレーションの不具合など、瑕疵とするに足らずということなのである。

ちなみに、マーラーによるオーケストレーション改訂版の演奏も聴いてみた。リッカルド・シャイーがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して録音した全集盤(CD)である。
3番は、確かに具体的なオーケストレーションの変更が聴ける。最も顕著なのは、第1楽章再現部前のホルンによる第1主題の斉奏のところである。ここでは、朗々としたホルンの響きがいかにも格好いいのであるが、マーラー版では何とゲシュトップ奏法(右手でベルを密閉状態にして、吹き込む息の圧力を増し、約半音高い鋭い金属的な音を出す奏法)が指示されている。
でも、これではちょっと拍子抜けしてしまう感じがする。かのマーラーを持ってしても、オーケストレーションの改変は一筋縄ではいかなかったようなのである。
やっぱり、多少はオーケストレーションに問題があろうがなかろうが、サヴァリッシュ盤がいいのである。
そんなサヴァリッシュ盤を選んだヒラノさんの慧眼ぶりに、あらためて敬意を表したい。

近年では、「シューマンのオーケストレーションの特徴をこの作曲家の味や魅力と解釈する見方も増えてきている」(@HMV )とのことだ。
泉下のシューマンも、さぞや溜飲を下げておられることであろう。

6月26日(火)

ドイツの3大B、ベートーヴェン、ブラームスと書いたので、今回はバッハである。
バッハが遺した曲はどれも粒よりの名曲揃いである。そんな名曲の数々から、「この一曲」を選ぶのは至難の業であると言えよう。
それでも、あえて「この一曲」を選ぶとすれば、まずは「ブランデンブルク協奏曲」である。

ブランデンブルク協奏曲を初めて聴いたのは、大学時代、一級上のクワハラ先輩の下宿においてであった。
聴かせてくれたのは、コレギウム・アウレウム合奏団が演奏したレコードである。
「まあ、これ聴いてみ」と掛けてくれたのは第4番。
いきなり、2本のブロックフレーテの音色が聞こえてきた。「な、このブロックフレーテ、めちゃカワイイやろ」と先輩。確かに、まずその可憐な音色に居着いてしまった。

ブロックフレーテとは、リコーダーのことだ。
え?あの中学校の音楽の時間に練習させられたリコーダー?
そう、リコーダーは英名、そのドイツ名がブロックフレーテである。
確かに、聞こえてくる音色はリコーダーである。しかし、この演奏からは、とてもリコーダーのものとは思われない音色が聞こえてくる。何か「特別なリコーダー」で演奏しているかのようなのだ。
特に、その高音の美しさと言ったら!
あとで知ったのだが、このレコードでブロックフレーテを吹いていたのは、名手と謳われたハンス=マルティン・リンデ(1930年ドイツ生まれ、フライブルク音楽大学でグスターフ・シェックに学んで頭角を現したのち、古楽器の名手を集めたバーゼル音楽のブロックフレーテとフルートの教授を務めた大家@BQクラシックス)。
並の吹き手ではなかったのである。

でも、よく聴いてみると、名手ハンス=マルティン・リンデを引き立てているのは、もう1本のブロックフレーテを吹いているギュンター・ヘラーであることがよくわかる。
この4番の第1楽章の演奏に関しては、2本のブロックフレーテがまるで同一の奏者によって吹かれているかのようにメロディーラインを形成している。それほどに両者の息はぴったりなのである。
しかも、決して主旋律を吹いているハンス=マルティン・リンデよりも目立つということがない。あくまで引き立て役に徹しているのである。このアシストは見事という他はない。つまり、ギュンター・ヘラーも、ハンス=マルティン・リンデと同等の技量を有していたということなのである。

ブランデンブルク協奏曲の4番が聴きたくて、当時JR神戸三宮駅のすぐ北側にあった「マスダ名曲堂」にて、さっそくこの2枚組のレコードを買い求めた。
ジャケットは、壁のいたるところには肖像画が、天井には細かい彫刻が施されたどこかの宮殿の間と思しき美しい写真である。
録音データを見ると、どうやらそこが実際に演奏が録音された場所であるらしい。ドイツのバイエルン州、キルヒハイム・フッガー城の「糸杉の間」とある。

コレギウム・アウレウム合奏団は、この「糸杉の間」を常に録音のために使用していたとのことである。楽団名である「コレギウム・アウレウム」は、「黄金の楽団」と訳すのだそうだが、それは、この「糸杉の間」の構造が「黄金分割」(建築や美術的要素の一つ。 縦横2辺の長さの比が黄金比になっている長方形は、どんな長方形よりも美しく見えるという)だったことに由来しているとのことである(@HMV)。
黄金比の部屋だから音楽も輝いて聴こえるなどというわけではなくて、杉でできた部屋の音響がバロック音楽にはちょうどよいというようなことで選ばれたのであろう。
確かに、どの楽器の音もクリアに聞こえるし、残響も程よい感じで、とても1966〜7年にかけての録音という感じはしない。

古楽器を使用するコレギウム・アウレウムの演奏であるが、「人々を楽しませるという目的で一貫」(@HMV)していたためか、昨今古楽器とセットのようになっているノン・ヴィブラート奏法(ピリオド奏法)ではなく、古楽器を使用しながらも、ノン・ヴィブラートにはこだわらないというスタイルで演奏されている。
実際に聴き比べたわけではないので、ヴィブラートの如何についてはコメントできないが、少なくともこの演奏に関してはすばらしいのひと言である。

このコレギウム・アウレウムのブランデンブルク協奏曲、4番以外にも2番第3楽章のクラリーノトランペット(高音域用のトランペット)のいかにも楽しそうな演奏や、つい踊り出したくなってしまうような始まりの第3番や第6番、有名なグスタフ・レオンハルトのチェンバロの長いカデンツァが聴ける第5番第1楽章など、全6曲どの曲をとっても聴きどころ満載なのである。

踊り出したくなると言えば、娘がまだ幼いころにこの協奏曲をかけると、とたんに腰を振って踊り出したことを思い出した。
いつも4番が聴きたかったので、レコードはその4番が入っている1枚目のB面から掛けるのだが、B面の最初の曲は第3番から始まる。この3番の第1楽章が始まると、娘は決まって腰を振りながら踊り出したのである(そのうちに、3番だけではなくて、5番でも6番でも第1楽章から踊り出すようになった)。
それが楽しくて、家に誰かが遊びに来ると、ついブランデンブルク協奏曲を掛けて、娘の踊りを見せたということもあった。

そうだ、今度娘が帰省した際には、ぜひブランデンブルク協奏曲をかけてみることにしよう。
まさか踊り出すことはないと思うが。

6月19日(火)

前回はベートーヴェンのことを書いた。
近代指揮法の創始者とされるドイツのハンス・フォン・ビューローは、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツの3大B」と呼んだそうだが、ベートーヴェンのことを書いたとなると、残る二人のことも書かずばなるまい(などという必然性など何もないのであるが)。

で、今回はブラームスである。
取り上げる曲は、晩年の「ピアノのための6つの小品」(作品118)。
特に自分のような、知命を過ぎて老境を迎えんとする人間にとっては、同じような時期にブラームスが作曲したものとして、とても他人ごとのようにしては聴けない作品である。

この曲「6つの小品」を初めて聴いたのは、娘の高校時代のピアノの恩師一門の演奏会でのことであった。娘よりも年上の青年が、この6つの小品から何曲かを選んで弾いてくれたのである。
思わず瞑目して聴き入ってしまったのは、有名な第2曲の「間奏曲」であった。
すぐにこの曲の入ったCDを買い求めた。
1992年にレコード・アカデミー賞を受賞した、アファナシエフの「ブラームス:後期ピアノ作品集」である。http://www.hmv.co.jp/product/detail/127285

この「6つの小品」は、シューマンの妻であったクララ・シューマンに献呈されている。
ブラームスとクララについては、Wikipediaに以下のような記述がある。
“ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララと知り合い、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡って親しく交流を続けることになった。1855年ごろのクララへの手紙の中で彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。”
実際に結婚こそしていないが、「恋愛に近い関係」だったのだ。

「6つの小品」が完成したのは1893年。ブラームスとクララが親しく交流するようになってから、40年近くの歳月が経っている。
「恋愛関係」にあったならば、そんなに長く交流が続くということはなかろう。ということは、互いに尊敬し合い、相互扶助し合うようなよい関係を保ってきたのではないか。

しかし、そんな二人にも、老いは確実にやってきていた。
自らの死期がそう遠くはないかもしれないということを悟ったブラームスは、生涯の思い出であるクララとのことを回想しながら、これらの曲を書いたに違いない。

そんなことを思いながら、第2曲の「間奏曲(アンダンテ・テネラメンテ)」を聴いてみる。「テネラメンテ」とは、「愛情をもって優しく」と訳すのだそうだ。
その名のとおり、冒頭の主題からまず魅せられる。ゆっくり深呼吸するような始まり。昔の思い出を静かに語っているかのようだ。
そんな楽しい思い出も、ときに悔恨の情にとらわれてしまうこともある。60歳を迎えれば、誰しもそんな後悔の一つや二つはあるはずだ。ああ、あのときもっとこうすればよかったと、誰に詫びるでもないそんな悲しさが漂う中間部。
そうして、もう一度冒頭の主題が戻ってくる。静かな諦観。

これは、まちがいなくブラームスのクララへの「ラブレター」である!
ブラームスは、60歳になってようやく「私はあなたのことを心から愛しています」と、74歳のクララに告白したのである。

ブラームスがこの「6つの小品」を完成してから3年後、クララはこの世を去る。
“ブラームスはクララの危篤の報を受け取り汽車に飛び乗ったが、間違えて各駅停車の列車に乗ったために遠回りとなり葬儀に立ち会えず、ボンにある夫ロベルト・シューマンの墓へ埋葬される直前にやっと間に合い、閉じられた棺を垣間見ただけであったという。”(@Wikipedia)
ブラームスは、クララの最後に立ち会うことはなかったのである。
「6つの小品」最後の第6曲は、そんなことを暗示しているかのような暗い曲である。
クララの亡くなった翌年、まるでその後を追うかのように、ブラームスも病気で亡くなる。

アファナシエフは、テンポをゆったりと取り、どちらかと言えばブラームスの宗教的境地を強調しているかのような演奏である。
でも、この「6つの小品」に限っては、もう少しロマンティックな面を強調したアプローチでよかったのではないか。
もちろん、演奏のレベルはとても高いのだろうけれど。

ブラームスはお好きですか?

6月12日(火)

週末の支部例会時、このところ熱心に手前の日記を読んでくれているオノちゃんから、「ベートーヴェンはまだですか?」とのご指摘をいただいた。
ベートーヴェンですか。

何を隠そう、自分が生涯初のLPレコードを購入したのは、ベートーヴェンだった。
確か中学2年生の時だったと思う。アンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルを指揮した「運命」である。
どうしてクリュイタンスのものを購入したのかはよく覚えていない。たぶん、指揮者ではなく「ベルリン・フィル」というそれまで耳にしたことのあるオーケストラの名前で選んだのだと思う。
家には、父親が購入した「運命」のポケットスコアがあった。昭和28年に全音楽譜出版社から発行されたものだった。それを見ながら聴いた。
楽譜を目で追いながらオーケストラの演奏を聴くのは、たいそう楽しい経験だった。

父親は、浜名湖畔の田舎で衣料品を販売する小さな店を出していた。どちらかと言うと接客の苦手な父親は、専ら仕入れに専念し、接客と販売は母親がやっていた。
子どもが生まれ、小学生くらいになったとき、父親は息子に子供用のヴァイオリンを購入した。自分が若い時に独学で弾いていたヴァイオリンを、その子どもにも好きになってもらいたいとでも思ったのではなかろうか。
そうして、持ち方や弾き方の基本的なことだけを息子に伝え、田舎のこととて誰かのところに習いに行かせるところもなく、あとは息子がそのヴァイオリンで遊ぶに任せていた。
初めは物珍しさも手伝ってヴァイオリンをギコギコしながらで遊んでいた息子も、やはり家の中でヴァイオリンを弾くよりも、神社の境内で友だちと遊ぶ方が楽しかったらしく、そのうちにヴァイオリンもどこかへしまい込まれたままになってしまった。

息子が中学生になって、部活動で吹奏楽部を選んだことを聞いた父親は、「何の楽器がいいかねえ?」と尋ねる息子に、「そりゃあトランペットだろう」と即座に答えた。言われるままに、息子は吹奏楽部の顧問に、希望の楽器をトランペットと報告した。
中学2年生の時に手に入れた「運命」は、第4楽章の初めに輝かしいトランペットのファンファーレを聴くことができた。暗いトンネルを抜け、日の当たるところを堂々と歩むように感じられるその部分は、「運命」の中でも息子が特に惹かれるところだった。

いつも大みそかになると、ご多分に洩れずわが家でも紅白歌合戦を見るのが習わしになっていた(これは母親が特にお気に入りだったからでもある)が、父親は途中から隣の内職用の仕事場に行き、そこに置いてあったテレビで「第九」を見ていた。
父親は、何よりベートーヴェンが好きだったのである。
実は、父親も若いときに中耳炎を患って以来、どちらかの耳があまりよく聞こえなくなったと母親から聞かされていた。
そんな自分と、ベートーヴェンの境遇(ベートーヴェンは、20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化し、26歳の頃には中途失聴者となった。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになった@Wikipedia)を重ねあわせていたのかもしれなかった。
途中、紅白歌合戦を見ていると、父親から「こっちに来い」と呼ばれた。「これを聴いたほうがいい」と言われて、「第九」を最後まで視聴させられた。
大オーケストラに合唱団と独唱者が加わるその曲は、息子にも強い印象を与えた。
こうして、息子は知らぬ間にクラシック音楽が好きになっていった。

その息子は、大学時代に再び「運命」のレコードを購入した。フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮したものである。
このレコードは、第二次大戦後、戦時中のナチ協力を疑われ演奏禁止処分を受けたフルトヴェングラーが、晴れて無罪判決を受け、音楽界に復帰した年の連続演奏会(1947年5月)の記念すべきレコードであった。
この演奏会については、以下のような記述がある。
“ベルリンの人びとは、最初の演奏会の入場券を手に入れるため徹夜して行列を組んだ。ティターニア館の入場券売場の売子は、この数日のあいだになんとも奇妙な、そしてまた感動的な申し出に出会った。(…)ある人びとは、お金がないので、一枚の券を手に入れるため陶器を、あるいは油絵を、またある人は一足の靴、それもまだ真新しいのを差し出した。かと思うとまた他の人々は、もうとっくに売切れの赤札が貼り出されているのに、まだなんとかして券を出させようとして、当時貨幣のように通用していていたコーヒーやタバコを差し出した。開演直前まで、切符売場には人波が押し寄せた。
彼が現われた時歓声が起こった。ハンカチが振られ、拍手がどよめいた。しかし、この感動が度はずれたものになる前に、指揮者は毅然として向きを変え、あの堂々とした態度で両腕を広げて、たちまち聴衆を静まらせた。一瞬の静寂の後、「エグモント序曲」の最初の音が鳴り響いた。そして、このまがいもない「フルトヴェングラーの音」に、すべても思慮、すべての憶測はかなたへ押しやられた。彼はまさにそこにいた。ふたたび彼の音楽は、人びとの心を包みとらえた。”(『フルトヴェングラーとの対話』カルラ・ヘッカー著、薗田宗人訳、音楽之友社)
戦後まだ2年ほどしか経っていない時期である。音楽よりもパンを求めることの方が切実だったのではなかろうか。
しかし、人々は音楽を求めた。フルトヴェングラーとベルリン・フィルのベートーヴェンを!

件のレコードは、そのときの連続演奏会3日日目(5月27日)のライブ録音(近年の研究によれば、この日の演奏会は「ベルリンのイギリス占領地区にあるソ連管轄の放送局」に聴衆を入れての演奏会とのこと)である。
モノラル録音であるが、音の状態はたいへんによく、そのときの演奏会の様子を伝えて余りある録音である。
有名な第1楽章の冒頭、いわゆる「運命の動機」と言われるところは、待ちきれなくなったクラリネットが先に音を出してしまうようなところもあるのだが、その動機の提示のあとは、音楽がぐいぐいとドライブする。ビオラとチェロがよく歌う第2楽章、そして第3楽章最後のクレッシェンドを経て輝かしい第4楽章へ。
この演奏会を聴いた当時のベルリンの市民は、この第3楽章から第4楽章への移り変わりを、暗い戦争が終わってようやく平和が戻ってきたという実感とともに聴いたのではないか。
それは、指揮者フルトヴェングラーも、演奏しているベルリン・フィルの楽団員たちも同様の思いだったであろう。

そんな思いも感じたくて、久しぶりにこのレコードを棚から引っ張り出して聴いてみたが、これが意外なことに、全体的に極めて端正な演奏という印象だった。
どうしてだろうと思って、もう一度『フルトヴェングラーとの対話』を読んでみた。
以下のような記述があった。
“彼は洪水のように押し寄せる熱狂の数日間を、ことさら努めて完全に冷静な客観的な雰囲気に保とうとした。(…)演奏の明澄さ、客観性、簡素が、この時以来彼のスタイルの目立った特徴になった。それはまた指揮の身振りにも現われた。どこにも誇張がなくなり、勝手な感情的な陶酔は前面に現われなくなった。”(同書、81頁)
不可解な「非ナチ化」裁判に半ば呆れながらも、淡々とそれを乗り切ったフルトヴェングラーには、最早「勝手な感情的な陶酔」に身を任せるということはなかったのである。

かつて、ヴァイオリンとベートーヴェンに夢中になった父親は、80歳を過ぎても息災で、「ヴァイオリンとおんなじだよ」と言いながらときどき三味線を弾いている。

6月6日(水)

6月3日、英国ロンドンではエリザベス女王の即位60周年を記念して、テムズ川で盛大な水上パレードが行われたそうだ。

“エリザベス女王の即位60周年を記念する祝賀行事が英国で始まり、3日、ロンドンのテムズ川で1000隻あまりのボートが参加して華やかな水上パレードを繰り広げた。(…)
テムズ川でこれほど壮大な式典が行われるのは数百年ぶりとなる。時折激しく降る雨にもかかわらず、推定100万人の見物客が詰めかけ、王室一家のお面を付けたり持ち寄ったシャンパンで乾杯したりしてお祭り気分を満喫。女王を乗せた王室専用船が通過するとひときわ大きな拍手がわき起こった。
先頭を行く手こぎ船300隻の中では祝賀の鐘を積んだ船がひときわ目を引き、川沿いの教会も呼応して次々に鐘を鳴らした。次いで客船や遊覧船、古いものでは1740年に建造された木造船、軍の兵士や消防、警察などを乗せた船が続き、1897年に行われたビクトリア女王の即位60周年祝賀にも使われたアマゾン号も加わった。”(@CNN)

「1740年に建造された木造船」!ひょっとして、まだヘンデルの生きていた時代のものではないのだろうか?ということは、テムズ川での「数百年ぶり」のパレードということで、ヘンデルの「水上の音楽」も演奏されたのであろうか?

「水上の音楽」については、Wikipediaに以下のような解説がある。
“ヘンデルは、1710年にドイツのハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就いていたが、1712年以降、帰国命令に従わず外遊先のロンドンに定住していた。ところが、1714年にそのハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになる。
そこでヘンデルが王との和解を図るため、1715年のテムズ川での王の舟遊びの際にこの曲を演奏した、というエピソードが有名であるが、最近の研究では事実ではないと考えられている。しかし現在確実とされているのは、1717年の舟遊びの際の演奏であり、往復の間に三度も演奏させたという記録が残っている。他に1736年にも舟遊びが催されているが、この曲はこれらの舟遊びに関係して、数度に分けて作曲、演奏されたものと今日では考えられている。”

作曲の動機はともかく、「水上の音楽」が実際にテムズ川に浮かべた舟の上で演奏されたことと、数度の舟遊びの度に作曲されたことはまちがいないらしい。
そのためか、演奏される楽譜も、
“オリジナルの管弦楽曲は一旦遺失したが、レートリッヒ版(25曲)は、これらを元に管弦楽に復元したものである。他にも管弦楽復元版が数種類存在し、20曲からなるF.クリュザンダー版、6曲からなるH.ハーティ版が知られる”
と各種の版があるとのことだ。

家にある「水上の音楽」は、ニコウラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの古楽器による演奏(1978年、F.クリュザンダー版)である。
古楽器による演奏は、この「水上の音楽」に関してはたいへんにいい感じである。
よく古楽器による演奏は、「音が汚い」とか「美しくない」とか評されることもあるそうなのだが、けしてそんなことはない。

第1曲の序曲は、アレグロに入ったところから、そのドライブ感にいきなり魅せられてしまう。
続く第2曲、いかにも哀愁を帯びたオーボエのソロが美しい。
第3曲は、この演奏で有名になったホルンのフラッター奏法(タンギングをrrrrと連続させる奏法)が聴ける。フラッター奏法は、ともすればやや粗っぽい印象を与えがちなのであるが、流れの中で聴くとさほどの違和感はない。
この初めの3曲を聴いただけでも、このアーノンクールの演奏がいかに魅力的なものであるかということを実感させられる。
さらには、後半のブーレやジーグなど舞曲風の小曲がいかにも可憐で、聴き手を最後まで飽きさせない。
どの曲も、特に川の上で聴くというイメージではなくして、随所に人生のいろんな機微を聴き取ることができるのである。

実は、家にあるこのアーノンクールの演奏は、CDやLPレコードではない。
カセットテープなのである。
つまり、当時のFM放送をカセットテープに録音したものである。

貧乏学生だった時代には、レコードは高価な買い物だった。ほとんどのLPが1枚2千円はしたのだ。
必然的に、身銭を切って買うLPは選りに選んだもののみとなった。
でも、聴きたい曲がそれに伴って減るというわけではない。むしろ、聴いてみたい演奏や曲目は増えるばかりだった。その分をどうやって補ったか。
エアチェック(もう今では死語となりつつある?)である。

当時は、「週間FM」とか「FM fan」などという雑誌が刊行されていた。それらの雑誌を見れば番組の曲目が一目瞭然で、演奏者はもちろん、演奏時間まで確認することができた。あとは、その放送の時間に合わせて聴きたい曲目を録音すればよかったのである。
カセットテープは、LPレコードに比べればはるかに安価だった。オーディオのコンポにカセットデッキを組み込み、チューナーを合わせてれば、そのまま目的の番組をカセットに録音することができたのである。

大学のクラブの先輩の中には、オープンリールのデッキを持っている人もいた。実際に聴かせていただいたが、これはカセットテープとは比べものにならないほどのすばらしい音質だった。
自分もオープンリールのデッキが欲しいと切実に思った。でも、それはレコードとは比べものにならないほどに高嶺の花だった。

カセットテープへの録音でも、それこそテープが擦り切れるほどに繰り返し繰り返し聴いた。
今のように、CDも安価になって、たやすくいろんな曲のいろんな演奏を手に入れることができるようになったが、その分、昔のように同じ曲を何度も繰り返し聴くということはなくなってしまったような気がする。
それがいいことなのかどうかはわからないのだけれど。

ただ、今はiPodのような携帯型音楽プレーヤーのおかげで、音楽を部屋の外へ、自然の中へ、街なかへと持ち出すことができるようになった。
だから、この「水上の音楽」も、ほんとうに川面で舟に揺られながら聴くこともできるのだ!

急流の川が多い日本では、なかなか舟遊びというわけにもいかない。
でも、例えば大阪天神祭の船渡御を、「水上の音楽」聴きながら見物するというのはどうだろうか。
けっこう乙な楽しみなのかもしれない。

5月28日(月)

レクイエムとミサ曲の違いを知っている人は少なかろう。
Wikipediaの説明は、以下のとおりである。
“カトリック教会において、ミサは「感謝の祭儀」とも言いあらわされる。これは「イエス・キリストの死と復活を記念し、その復活の恵みに与る、喜びに満ちた感謝の祭儀」である(…)ミサ曲の特殊な形としてレクイエムがある。レクイエムは、「死者のためのミサ曲」あるいは「鎮魂ミサ曲」などと訳され、死者ミサの入祭唱の冒頭句から取られた名称である。”
どうやら、キリストの死と復活を喜び感謝するのが「ミサ」で、「ミサ曲」はその際に歌われる声楽曲、死者を鎮魂するのが「レクイエム」ということらしい。

レクイエムといえば、まずいちばんに挙げられるのはモーツァルトのものであろう。中には、ヴェルディやベルリオーズ、はたまたブラームスの「ドイツ・レクイエム」を挙げられる方もあろう。
でも、自分の場合はフォーレである。
この世に、こんなにも美しい曲は、そう何曲もあるものではない。
もちろん、自分はキリスト教徒ではない。ミサにも参加したことはないし、実際に教会でレクイエムを聴いたことはない。
でも、このフォーレのレクイエムを聴いていると、自然に心が浄化されて、思わず祈りの言葉が口をついて出てくるような気持ちになるのだ。

第1曲は「入祭唱とキリエ」。
死者の安息を願う厳かな始まりである。もしも教会で聴いていたなら、亡くなった人にまず祈りを捧げるというところであろうか。
第2曲、「奉献唱」。
第1曲の重々しい雰囲気を引き継いではいるが、中間部のバリトンが“Hostias et preces tibi , Domine”の歌詞を、弦楽器の伴奏をバックに全てA音で歌うところから、突然雰囲気が変わる。「死は嘆き悲しむものではない」ということを静かに諭されているような感じだ。そのバリトンの独唱が終わったところでオルガンが静かな和音で入ってくる。思わず瞑目して頭を垂れてしまう。
第3曲、「聖なるかな」。
弦とハープの分散和音に乗って、“Sanctus”と繰り返される四部合唱が入ってくる。はたして、これはほんとうに死者を悼む音楽なのかと疑ってしまうほどに、明るく清澄な音楽である。そうして、ホザンナ!(キリストのエルサレム入城の時に、それを迎えた群衆があげた歓呼の言葉)。感動的な音楽である。
第4曲、「ああ、イエズスよ」。
オルガン伴奏のソプラノの独唱。“sempiternam requiem”(永遠の安息を与え給え)と2回繰り返される静かな締めくくりが印象的である。
第5曲、「神の子羊」。
個人的には、この第5曲が「レクイエム」中の白眉だと思う。オルガンの和音と弦楽器の何か懐かしさを感じさせる伴奏がとても印象的だ。途中の転調を挟んで盛り上がるところもあるが、それも劇的なものではない。かと言って、諦観しているわけでもない。第1曲の冒頭部分が再現され、やや重々しい雰囲気にもなるのだが、再び懐かしさを感じさせる前奏が戻ってきて、温かな雰囲気のうちに締めくくられる。
第6曲、「われを許し給え」。
バリトンの独唱が暗い雰囲気を醸し出す。“Dies illa , dies irae”(怒りの日)、つまり最後の審判の日の部分は激しく歌われるが、再びバリトンのモノローグのような独唱で曲が閉じられる。そうして、次の終曲を準備するのだ。
第7曲、「楽園にて」
オルガンの分散和音に乗って、女声合唱がまるで天の高いところから聞こえてくるような清らかな歌声を響かせる。許されたあとには、楽園が待っているのである。

このフォーレのレクイエム、愛聴盤はアンドレ・クリュイタンスがパリ音楽院管弦楽団とエリザベート・ブラッスール合唱団を指揮して、1962年に録音したもの。独唱は、ソプラノがヴィットリア・デ・ロス・アンヘレス、バリトンはディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ。夙に名盤として評判の高いレコードである。
このレコードについては、音楽評論家の吉田秀和氏が以下のように書かれていた。
“このレコードをきいてみて、なるほど見事な演奏だと感心したことは事実だが、それと同時に、この名指揮者の剛気で、明快で、一点のごまかしもない棒の下では、たとえば<サンクトゥス>のような、あのハープの甘い響きをともないながら、合唱が、男声と女声で交誦しあう部分など、あまりにも「劇伴音楽」じみた、安手の音楽に聞こえてきはしないか?と言いたくなった。”(『世界の指揮者』ちくま文庫、78頁)
同時に、「この名品でのクリュイタンスの演奏で特に耳にとまるのは」として、第5曲のフィッシャー=ディスカウの独唱を、
“これまでの曲で慎重に避けられてきたドラマティックなクレッシェンドが音楽を土台からーしかし、ヴェルディの曲の場合のように、いかにもこれ見よがしの演劇的けばけばしさではなくて、もっと地下の深いところでーゆさぶるのである。”(同書)
と讃え、
“この率直で純粋な力強さ、クリュイタンスの指揮で、私にとって長く忘れられないものがあるとしたら、その一つはここかもしれないなと、私はこのレコードをききながら考えたものである”(同書)
と記している。
そうして、
“こうかくと、お前は、やはり、この演奏に感心しているではないかと言われそうだが…。”と締めくくっている。もちろん、クリュイタンスのフォーレの「レクイエム」を高く評価していたのである。

そう書いた吉田秀和氏が、今月22日に亡くなられていたことを知った。享年98歳。
そうして、このレコードでバリトンを歌ったディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ氏も、今月18日に亡くなられた。享年86歳。
そのお二人を偲んでのフォーレの「レクイエム」である。

フォーレは1902年に次のような手紙を書いている。
「私のレクイエム……は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかにはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいます。しかし、私には、死はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた開放感に他なりません。」 (@Wikipedia)

慎んでご冥福をお祈りしたい。