7月10日(火)
昨年の「内田ゼミ卒業生全員集合バリ島ツアー」でご一緒して以来、「チャッ友」にもなった「北新地」ことフルタ妹さんから、「チャイコフスキーまってます\(^-^)/」とのご要望があった。
チャイコフスキーですか。
チャイコフスキーを初めて聴いたのが、いつのことだったかは判然としない。例えば、「くるみ割り人形」とか、「白鳥の湖」の一節ならば、どこかで耳にしていたかもしれないからだ。
はっきりとその作曲家のことを意識したのは、中学3年生のときだったと思う。
所属する吹奏楽部の顧問が、一枚のレコードを紹介してくれた。「日本の吹奏楽’70」と題された、前年の全日本吹奏楽コンクールの実況録音盤だった。
中でも驚いたのは、自分と同じ中学生による演奏だった。とても、中学生の演奏などとは思えなかったからだ。
中学校の部は、西宮市立今津中学校が演奏したショスタコーヴィチの「祝典序曲」と、豊島区立第十中学校が演奏したチャイコフスキーの「交響曲第4番より第4楽章」が入っていた。
どうしてもそのレコードがほしいと思って買い求め、何度も何度も繰り返し聴いた。
そのうちに、チャイコフスキーの交響曲第4番の全曲が聴きたいと思うようになった。
レコード店に行ってあれこれと品定めをした結果選んだのは、カラヤンがベルリン・フィルを指揮したレコード(1960年録音、EMI盤)だった。
もちろん、初めは吹奏楽の演奏で聴いた第4楽章や、カップリングされていた「1812年」ばかりを聴いていた。
でも、だんだんと他の楽章も聴くようになってくると、特に第1楽章がお気に入りになった。
この交響曲については、Wikipediaに以下のような記述がある。
“1877年にヴェネツィアを訪れたチャイコフスキーは、当地の風光明媚なスキャヴォーニ河岸にあるホテル・ロンドラ・パレス(当時はホテル・ボー・リヴァージュと言う名であった)にてこの曲を書き上げた。(…)
この時期、メック夫人がパトロンになったことにより、経済的な余裕が生まれた。これによってチャイコフスキーは作曲に専念できるようになり、これが本作のような大作を創作する下地となった。このことに対する感謝の意を表して、本作はメック夫人に捧げられた。”
メック夫人とは、ナジェージダ・フォン・メック(未亡人)。チャイコフスキーのパトロンとして、一度も会うことがないまま文通を繰り返し、年間6000ルーブルもの資金援助を1877年から14年間にわたって続けた人物のことである。
そのメック夫人に捧げられたとあって、このシンフォニーについては、作曲者自身からメック夫人に宛てて詳細な解説の手紙が書かれている(以下、手紙文の邦訳は岡俊雄氏による)。
確かに、宛先はメック夫人だが、内容はどうも自分自身に宛てて書いたかのような印象を受ける。
第1楽章
「序奏部が交響曲の核心をなすものです。それは運命です。幸福を求めるものが目的に達しようとすることを妨げ、平和と安楽などを打ちひしぎ、空から雲を追い払うことは出来ぬと嫉妬深く主張する運命的な力です。」
とあるように、冒頭の金管のファンファーレ(序奏部)が収まると、弦楽器による第1主題が入ってくるが、これが暗く憂鬱な雰囲気を醸し出す。木管による第2主題が出てくると、一転して夢を見ているような静かな世界が現出するが、そんな明るい雰囲気も冒頭の「運命のファンファーレ」の再現で断ち切られる。
「私たちの人生は去りゆく夢と幸福と陰鬱な現実の交錯にすぎないことを知るのです。安らかな天国はありません。あなたは人生の波に投げ出され、呑まれてしまいます。」
書かれているとおりの悲劇的な結末で締めくくられる。
第2楽章
「仕事に疲れ果てたものが、ひとり家で座っている憂愁の風景です。手にした本はすべり落ち、わきおこる回想が心から溢れ出てしまいます。なんと多くのことが過ぎ去ってしまったのだろうと悲しげです。」
そんな悲しさをオーボエが奏する。終始、人生に倦み疲れた者が昔を回想する楽章である。
第3楽章
「これは気まぐれなアラベスクで、酒を飲み酔ったとき幻想のように通り過ぎて行く、捕えがたい姿です。」
弦楽器のピチカートがドライブする幻想的な楽章。しかし、雰囲気はだんだんと明るさを帯びてくる。
第4楽章
「あなたが、自分自身に何の楽しみも見い出せなかったら、周囲を見るのです。人々の中に身を投ずるのです。みんなが、どんなに楽しんで、陽気になるために打ちこんでいるかを見ることです。(…)それは単純で、元気に溢れた、素朴な喜びなのです。みんなの幸福を喜ぶべきです。そこにあなたはなお生きて行けるのです。」
Allegro con fuocoと指定されているように、生き生きと元気のいい始まりである。途中、「ほんとうにそうなのか」と自問自答するようなところもあり、そこへ第1楽章の「運命」のファンファーレが戻ってくるが、それも自分で「いや、やはりこれでいいんだ」と納得していく過程が描かれる。
最後は圧倒的な肯定感に満ち溢れて曲を閉じる。
余談だが、この終楽章の最後は、かなりのスピードで続けざまにシンバルを叩くことが要求される。打楽器奏者にとっては「腕の見せどころ」とも「シンバリスト泣かせ」言えるところであろう。
かのフルトヴェングラーがウィーンフィルを振った1951年録音盤では、最後のフルトヴェングラーのあまりのアッチェレランドに、途中からシンバル奏者が面食らったか、慌ててそのスピードについていくという演奏が、そのままに残されている。
これはこれで、とびきりのレコードである。
そんなこんな思いもあって、チャイコフスキーの特に後期の交響曲である4,5,6番は、もちろんどれも捨てがたいのであるが、やっぱり4番がいいのである。
演奏は、誰が何と言ってもカラヤンで!
生涯に5度もこの曲を録音した「帝王」の演奏、お聴きになればそのすばらしさが納得できます。