6月12日(火)
週末の支部例会時、このところ熱心に手前の日記を読んでくれているオノちゃんから、「ベートーヴェンはまだですか?」とのご指摘をいただいた。
ベートーヴェンですか。
何を隠そう、自分が生涯初のLPレコードを購入したのは、ベートーヴェンだった。
確か中学2年生の時だったと思う。アンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルを指揮した「運命」である。
どうしてクリュイタンスのものを購入したのかはよく覚えていない。たぶん、指揮者ではなく「ベルリン・フィル」というそれまで耳にしたことのあるオーケストラの名前で選んだのだと思う。
家には、父親が購入した「運命」のポケットスコアがあった。昭和28年に全音楽譜出版社から発行されたものだった。それを見ながら聴いた。
楽譜を目で追いながらオーケストラの演奏を聴くのは、たいそう楽しい経験だった。
父親は、浜名湖畔の田舎で衣料品を販売する小さな店を出していた。どちらかと言うと接客の苦手な父親は、専ら仕入れに専念し、接客と販売は母親がやっていた。
子どもが生まれ、小学生くらいになったとき、父親は息子に子供用のヴァイオリンを購入した。自分が若い時に独学で弾いていたヴァイオリンを、その子どもにも好きになってもらいたいとでも思ったのではなかろうか。
そうして、持ち方や弾き方の基本的なことだけを息子に伝え、田舎のこととて誰かのところに習いに行かせるところもなく、あとは息子がそのヴァイオリンで遊ぶに任せていた。
初めは物珍しさも手伝ってヴァイオリンをギコギコしながらで遊んでいた息子も、やはり家の中でヴァイオリンを弾くよりも、神社の境内で友だちと遊ぶ方が楽しかったらしく、そのうちにヴァイオリンもどこかへしまい込まれたままになってしまった。
息子が中学生になって、部活動で吹奏楽部を選んだことを聞いた父親は、「何の楽器がいいかねえ?」と尋ねる息子に、「そりゃあトランペットだろう」と即座に答えた。言われるままに、息子は吹奏楽部の顧問に、希望の楽器をトランペットと報告した。
中学2年生の時に手に入れた「運命」は、第4楽章の初めに輝かしいトランペットのファンファーレを聴くことができた。暗いトンネルを抜け、日の当たるところを堂々と歩むように感じられるその部分は、「運命」の中でも息子が特に惹かれるところだった。
いつも大みそかになると、ご多分に洩れずわが家でも紅白歌合戦を見るのが習わしになっていた(これは母親が特にお気に入りだったからでもある)が、父親は途中から隣の内職用の仕事場に行き、そこに置いてあったテレビで「第九」を見ていた。
父親は、何よりベートーヴェンが好きだったのである。
実は、父親も若いときに中耳炎を患って以来、どちらかの耳があまりよく聞こえなくなったと母親から聞かされていた。
そんな自分と、ベートーヴェンの境遇(ベートーヴェンは、20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化し、26歳の頃には中途失聴者となった。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになった@Wikipedia)を重ねあわせていたのかもしれなかった。
途中、紅白歌合戦を見ていると、父親から「こっちに来い」と呼ばれた。「これを聴いたほうがいい」と言われて、「第九」を最後まで視聴させられた。
大オーケストラに合唱団と独唱者が加わるその曲は、息子にも強い印象を与えた。
こうして、息子は知らぬ間にクラシック音楽が好きになっていった。
その息子は、大学時代に再び「運命」のレコードを購入した。フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮したものである。
このレコードは、第二次大戦後、戦時中のナチ協力を疑われ演奏禁止処分を受けたフルトヴェングラーが、晴れて無罪判決を受け、音楽界に復帰した年の連続演奏会(1947年5月)の記念すべきレコードであった。
この演奏会については、以下のような記述がある。
“ベルリンの人びとは、最初の演奏会の入場券を手に入れるため徹夜して行列を組んだ。ティターニア館の入場券売場の売子は、この数日のあいだになんとも奇妙な、そしてまた感動的な申し出に出会った。(…)ある人びとは、お金がないので、一枚の券を手に入れるため陶器を、あるいは油絵を、またある人は一足の靴、それもまだ真新しいのを差し出した。かと思うとまた他の人々は、もうとっくに売切れの赤札が貼り出されているのに、まだなんとかして券を出させようとして、当時貨幣のように通用していていたコーヒーやタバコを差し出した。開演直前まで、切符売場には人波が押し寄せた。
彼が現われた時歓声が起こった。ハンカチが振られ、拍手がどよめいた。しかし、この感動が度はずれたものになる前に、指揮者は毅然として向きを変え、あの堂々とした態度で両腕を広げて、たちまち聴衆を静まらせた。一瞬の静寂の後、「エグモント序曲」の最初の音が鳴り響いた。そして、このまがいもない「フルトヴェングラーの音」に、すべても思慮、すべての憶測はかなたへ押しやられた。彼はまさにそこにいた。ふたたび彼の音楽は、人びとの心を包みとらえた。”(『フルトヴェングラーとの対話』カルラ・ヘッカー著、薗田宗人訳、音楽之友社)
戦後まだ2年ほどしか経っていない時期である。音楽よりもパンを求めることの方が切実だったのではなかろうか。
しかし、人々は音楽を求めた。フルトヴェングラーとベルリン・フィルのベートーヴェンを!
件のレコードは、そのときの連続演奏会3日日目(5月27日)のライブ録音(近年の研究によれば、この日の演奏会は「ベルリンのイギリス占領地区にあるソ連管轄の放送局」に聴衆を入れての演奏会とのこと)である。
モノラル録音であるが、音の状態はたいへんによく、そのときの演奏会の様子を伝えて余りある録音である。
有名な第1楽章の冒頭、いわゆる「運命の動機」と言われるところは、待ちきれなくなったクラリネットが先に音を出してしまうようなところもあるのだが、その動機の提示のあとは、音楽がぐいぐいとドライブする。ビオラとチェロがよく歌う第2楽章、そして第3楽章最後のクレッシェンドを経て輝かしい第4楽章へ。
この演奏会を聴いた当時のベルリンの市民は、この第3楽章から第4楽章への移り変わりを、暗い戦争が終わってようやく平和が戻ってきたという実感とともに聴いたのではないか。
それは、指揮者フルトヴェングラーも、演奏しているベルリン・フィルの楽団員たちも同様の思いだったであろう。
そんな思いも感じたくて、久しぶりにこのレコードを棚から引っ張り出して聴いてみたが、これが意外なことに、全体的に極めて端正な演奏という印象だった。
どうしてだろうと思って、もう一度『フルトヴェングラーとの対話』を読んでみた。
以下のような記述があった。
“彼は洪水のように押し寄せる熱狂の数日間を、ことさら努めて完全に冷静な客観的な雰囲気に保とうとした。(…)演奏の明澄さ、客観性、簡素が、この時以来彼のスタイルの目立った特徴になった。それはまた指揮の身振りにも現われた。どこにも誇張がなくなり、勝手な感情的な陶酔は前面に現われなくなった。”(同書、81頁)
不可解な「非ナチ化」裁判に半ば呆れながらも、淡々とそれを乗り切ったフルトヴェングラーには、最早「勝手な感情的な陶酔」に身を任せるということはなかったのである。
かつて、ヴァイオリンとベートーヴェンに夢中になった父親は、80歳を過ぎても息災で、「ヴァイオリンとおんなじだよ」と言いながらときどき三味線を弾いている。