3月10日(日)

先週の土日は娘が帰省していた。日曜日に、家内の勤務する浜松子ども館(遊びを通じた体験と交流機会を提供する施設)で 高校時代の友だちとちょっとしたコンサートを開くとのことであった。
そのため、その友だちと金曜日の夕方からわが家で「合宿」をして、プログラムを練り、披露する曲の練習をしていたのである。

ミニコンサートの聴衆は、主に幼児とその保護者。クラシックの曲ばかりを歌えば、堅苦しい感じになってしまうだろうし、かと言ってできれば本物の歌のよさも感じてほしいところだ。
実際、どんな感じのコンサートになるのか気になって、会場へと足を運んでみることにした。

浜松子ども館へ足を踏み入れるのは、実は初めてであった。さすがに、家内の勤務するところへ行くのは多少なりとも気が引けるものである。
この施設のコンセプトは、「子どもたちが子どもらしさを十分に発揮して、安心して思い切り遊ぶことができる愛情ある環境づくりを目指します。その中で多くの人とかかわりを持ち、社会性や創造性を高めていくことを期待します。なお、未来を担う大事な子どもを育てている親たちが、相互扶助のネットワークを広げ、併せて、子育ての専門的支援を受けながら、子育てを楽しむ環境を醸成します」とある。
浜松駅前のビルの2フロアには、様々な遊びの場が提供されていた。そうして、いろいろな場で子どもたちと保護者がいかにも楽しそうに遊んでいた。

娘たちのミニコンサートは、そんな遊び場の一つ、扉が閉められると防音になるフロアで行われた。
高校の音楽科で声楽を専攻した友だち(イジチさんと言います)が進行役となって、クラシック曲(「オンブラ・マイ・フ」)あり、この日のために制作されたコミカルなオリジナル曲(「チャップリン」)あり、保護者も子どもと一緒になってのアクションありという、歌を中心にけっこう盛り沢山のプログラムが組まれていた。
幼児が対象なので、そんなに長い時間やるわけにはいかない。それでも、ほぼ1時間近く、子どもたちを飽きさせもせず、最後はみんなで「となりのトトロ」と「おかあさん」を歌って、無事にミニコンサートは終了した。

それにしても、一つのジャンルにとらわれないコンサートというものは、なかなかおもしろいものだと実感させられた。
ベースはクラシック音楽であるにしても、そこにミュージカルのような要素が入っていたり、童謡が入っていたり、はたまたリトミックのようなものも取り入れられていたり。
こういうコンサートなら、いろんな人が参加できるし、楽しめる。既成の音楽ジャンルを超えた、コラボレーションの可能性や発展性を感じさせられた。

そんなことをぼんやりと考えていて、ふとFacebookでお気に入りにしているEMI & Virgin Classicsが紹介していた、youtubeの動画のことを思い出した。カール・ジェンキンスの「カンティレーナ」と題された映像である。http://www.youtube.com/watch?v=BU8AOIbS_04
演奏しているのは、コリー・バンドという金管楽器アンサンブルと、カントリオンという男声合唱団それにしても、そのアンサンブルの見事なこと!
コリー・バンドの金管楽器とは思えないほどの柔らかな音色に、カントリオンの男声合唱がいかにもマッチしているのである。

カール・ジェンキンスは、1944年イギリスの南ウェールズ生まれ。かつて、先進的ジャ ズ・ロック・アンサンブル、ソフト・マシーンの一員として活躍し、現在も作曲家、プロデューサーとして幅広く活動している。1990年代に、彼がプロデュースする「アディエマス」のデビューアルバム「ソング・オブ・サンクチュアリ」が世界的にヒットしたことで、広くその名を知られるようになった。
「アディエマス」とは、カール・ジェンキンスが、古くからのバンドメイトで盟友でもあるマイク・ラトリッジと共に結成した前衛クラシック音楽ユニットのことで、架空の言語「アディエマス語」でのコーラスをその特徴としている。

さっそく、その「カンティレーナ」が入っているCDアルバム「THIS LAND OF OURS」を買い求めてみた。
聞き知った曲がいくつか入っていた。ドボルザークの「新世界から」の有名な「遠き山に日は落ちて」や、「ダニーボーイ」、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」から「夕べの祈り」などである。
ジェンキンスのオリジナル曲では、「レクイエム」からの「ピエ・イエス」、「The Armed Man」からの「ベネディクトゥス」などが秀逸だった。まるで、フォーレのレクイエムを聴いているような感じで、癒されることこの上ない。

何度かこのアルバムを聴いているうちに、このような一つの音楽ジャンルにとらわれない、いろんなコラボレーションが広まっていくことで、新たな音楽が生み出されていくのではないかということを想像した。
新たな音楽は、新たな聴衆を生み出す。新たな聴衆が生まれることで、より多様なコラボレーションが創り出される。
そんなコラボが広まっていくことで、より多くの音楽プレーヤーたちがそれに参加するようになっていく。

日本には、若くて優秀な音楽演奏者たちがたくさんいる。音大を卒業して、海外にも留学経験のある演奏者たちである。でも、実際に演奏者として生活していける人はごくわずかだ。日々の糧を得るために、ピアノ先生などをしながら口を糊する人たちの方が多かろう。
そんな演奏者たちが活躍できる場がもっとあっていい。

いろんな音楽ジャンルのクロスセッションが、そんな若くて優秀な音楽家たちに演奏機会を提供する場となればいい。そうして、そんなコンサートが広く社会一般にも受け入れられていくことで、スポンサードしてくれる団体や聴衆が出てくるようになれば言うことなしである。

西洋音楽が日本に輸入されてからそろそろ150年。新たな音楽が生まれ出る下地は十分に整えられている。

2月27日(水)

前週の金曜日から3日間、信州白馬村の八方尾根スキー場にてスキーをしていた。
土曜日、朝から夕方まで終日滑って宿に戻り、お風呂に入ってほっとひと息、夕食までの間メールのチェックをしていると、NHKネットクラブから登録しておいた「番組表ウォッチ」メールが入っていた。日曜日の早朝にいつも放送している、BSプレミアム「特選オーケストラ・ライブ」の案内だった。

今回の放送は、昨年12月7日にNHKホールにて行われたN響の第1743回定期公演で、曲目はベルリオーズの「ローマの謝肉祭」序曲、リストのピアノ協奏曲第2番、そうしてメインがレスピーギの「ローマ三部作」(交響詩「ローマの祭り」・「ローマの噴水」・「ローマの松」)であった。ピアノはルイ・ロルティ、シャルル・デュトワの指揮である。
いつもは、興味惹かれる演奏しか録画しないのであるが、ローマ三部作の連続演奏となれば、これはぜひとも録画しておきたい。すぐに家内のところにメールを入れ、BDに録画予約してもらうよう頼んだ。
スキーから帰ってさっそく視聴したが、ローマ三部作は特に「松」と「祭り」が熱演だった。

ローマ三部作はレスピーギの代表作で、どの曲も管弦楽曲中の傑作である。好みはいろいろと別れるであろうが、自分の場合は「ローマの祭り」がいちばんのお気に入りである。
曰く、とにかく派手、ご機嫌なリズム、色彩豊かでいろんな音色が楽しめ、抒情も味わえる、などがその主たる理由である。
作曲された順は、「噴水」(1916年)→「松」(1924年)→「祭り」(1928年)。もちろん、年を経るにしたがって、作曲技法にも円熟味が増していったであろうことは想像に難くない。

その「ローマの祭り」。曲は4つの部分からできているが、実際の演奏では切れ目なしに演奏される。各部には、作曲者による標題と簡単なコメントが付されている。
第1曲「チルチェンセス」
“チルチェンセスとはアヴェ・ネローネ祭ともいい、古代ローマ帝国時代にネロが円形劇場で行った祭で、捕らえられたキリスト教徒たちが衆人環視の中で猛獣に喰い殺される残酷なショーである。咆吼する金管群が飢えた猛獣を、中間部の聖歌が猛獣に襲われるキリスト教徒の祈りを表している。”
標題のとおり、惨劇の雰囲気を伝えるかのような弦楽器群のトゥッティに続いて、バンダのブッキーナ(古いトランペット)がチルチェンセスの始まりを高らかに宣言する。中低音の金管楽器群が、猛獣の不気味な足音を想像させる。聖歌を歌いながら恐れおののくキリスト教徒たち。その歌をかき消すかのように襲いかかる猛獣たち。阿鼻叫喚の地獄絵が映し出される。

第2曲「五十年祭」
“古い賛美歌をモチーフとし、ロマネスク時代の祭(聖年祭)を表している。世界中の巡礼者たちがモンテ・マリオ (Monte Mario) の丘に集まり、「永遠の都・ローマ」を讃え、讃歌を歌う。それに答えて、教会の鐘がなる。”
前曲とは打って変わって、静かな巡礼の足音で始まる。その中の一人が歌い始めた賛美歌は、やがて鐘の音も加わっての大きく盛り上がった讃歌となる。

第3曲「十月祭」
“ローマの城で行われるルネサンス時代の祭がモチーフ。ローマの城がぶどうでおおわれ、狩りの響き、鐘の音、愛の歌に包まれる。やがて夕暮れ時になり、甘美なセレナーデが流れる。”
実りの秋の祭りの始まリを告げるかのようなソロ・ホルンのファンファーレ。弱音器付きのトランペットが合いの手を入れながら、祭りは陽気に盛り上がってくる。いったん静まると、どこからか鈴の音が聞こえ、また別の踊りが始まる。それらが一段落した後は、マンドリンが導く夜曲。ソロ・ヴァイオリンのメロディが哀愁を誘う。そのまま辺りは夜の深い帳に包まれていく。遠ざかる鈴の音…。

第4曲「主顕祭」
“ナヴォーナ広場で行われる主顕祭の前夜祭がモチーフ。踊り狂う人々、手回しオルガン、物売りの声、酔っ払った人などが続く。強烈なサルタレロのリズムが圧倒的に高まり、狂喜乱舞のうちに全曲を終わる。”
クラリネットが祭りの開始を告げる。強烈なリズムに乗って、人々の踊りが始まる。祭りが行われている広場のありとあらゆるものが音で描写される。物売りの声はトランペット、酔っぱらいはトロンボーン。そうして、祭りは最高潮に達する。

演奏は、もちろん初演者(1929年)でもあるトスカニーニとNBC交響楽団によるもの。
1949年~1953年にかけて録音されたモノラル盤であるが、その迫力たるや、いかなすばらしい録音であろうとも他の追随をまったく許さないほどである。
圧巻は終曲の「主顕祭」。特に、練習番号46の4分の4拍子が2分の2拍子に変わるところでは、ほとんどの演奏が、「ストリンジェンド・モルト」というスコアの指示を、「だんだんせき込んで」という意味でとらえているのか、いったんテンポを落としてからだんだんと速めていくのだが、トスカニーニは「きわめて速度を速めて」という意味にとらえているのであろう、インテンポのままどんどんとスピードアップしていく。それが、いかにも歯切れのいいリズムと迫力を作り出して、クライマックスへと雪崩れ込む。思わず、快哉を叫びたくなるような演奏なのである。

この「ローマの祭り」が完成した1928年は、イタリアで王国議会が解散させられ、政治権力がムッソリーニに集中して独裁体制が確立された年である。そんな政治的な背景から、まるで「ビバ!イタリアーノ」と叫んでいるようにも聴こえるこの作品を、「ファシズムの台頭がもたらした芸術家のイタリア礼賛と無縁ではないとみなされることもある」(@Wikipedia)そうだが、それはいかにも眇めというものではなかろうか。

レスピーギの大きな功績の一つとして、17世紀とその前後のイタリア音楽に対する熱心な研究・調査から、モンテヴェルディやヴィヴァルディの作品を校訂して出版したことが挙げられる。それらの研究は、例えば「リュートのための古代舞曲とアリア」という管弦楽曲などとして結実した。自らの私利私欲や、権力欲を満足させるためにこれらの研究・作曲を行ったわけではないのだ。
レスピーギの作品が、結果としてファシスト政権に好評だったとしても、それは彼の作品群が多くのイタリア人の心の琴線に深く触れるものがあったからなのである。

レスピーギの死後わずか10年も経ずしてファシスト政権は崩壊した。
しかし、レスピーギの作品は、現代に至るまで世界中の人々に愛され、演奏され続けている。イタリア人の心を揺り動かした音楽は、その後、世界中の人々を魅了したのである。
いい音楽とは、そういうものなのだと思う。

2月4日(月)

今日は立春。暦の上では今日から春になった。
とは言え、まだまだ寒い日が続くし、本格的に春になったことが実感できるのは、1ヶ月以上先の3月中旬以降になってからである。
そんな、まだ寒い中での春の訪れを描いた曲と言えば、「ロシアの暴虐な春、それはたちまちにして起こり、あたかも大地全体がバリバリと音をたててくだけるようである」と作曲者自身が書いた曲、ストラヴィンスキーの「春の祭典」である。

「春の祭典」は、当時ロシアにおける「芸術プロデューサー」のような役割を果たしていた、ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために作曲されたバレエ音楽である。
ディアギレフは、バレエ・リュスに多くの芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という、これまでになかった芸術スタイルを確立した。
動員された芸術家としては、フォーキン、ニジンスキー、マシーン、ニジンスカ、バランシンらの振付師、ストラヴィンスキーのほかに、ラヴェル、ドビュッシー、プロコフィエフ、サティ、 レスピーギ、 プーランクらの作曲家、そうして、舞台美術を手がけたピカソ、マティス、ローランサン、ミロなどの画家たちが挙げられる。錚々たるメンバーである。当時の最先端をゆく芸術家たちばかりが集められたと言ってよいだろう。

そんな流れの中で「春の祭典」は生み出された。初演は、バレエ・リュスが結成されてから2年後の1913年。今からちょうど100年前(大正2年)のことである。
上演は、パリのシャンゼリゼ劇場。ピエール・モントゥーの指揮、振付け担当はニジンスキーであった。
このニジンスキーの振付けがまた変わっていた。それまでのクラシック・バレエでは考えられなかった、足を内股にし、頭を曲げるという振付けだったのである。しかし、この振付けがまさに20世紀バレエの扉を開くことになった。

変わっていたのは振付けだけではない。音楽も、強烈な変拍子のリズムと不協和音が連続して、当時の聴衆からすれば、まるで騒音のように聴こえたのではないかと想像される音楽だったのである。
そんな従来のバレエやクラシック音楽の常識を覆すような上演であったから、初演時は大混乱であった。
“曲が始まると、嘲笑の声が上がり始めた。野次がひどくなるにつれ、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、殴り合りあい、野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなくなり、ついにはニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどであった。
ディアギレフは照明の点滅を指示し、劇場オーナーのアストゥリュクが観客に対して「とにかく最後まで聴いて下さい」と叫んだほどだった。
サン=サーンスは冒頭を聞いた段階で「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」といって席を立ったと伝えられる。ストラヴィンスキーは自伝の中で「不愉快極まる示威は次第に高くなり、やがて恐るべき喧騒に発展した」と回顧している。”(@Wikipedia)

曲は2部構成で、それぞれ「大地の讃仰」、「生贄」と題されている。
第1部は、ファゴットの高音域のソロによる「序奏」から始まる。春の喜びを表現するというよりは、何か神秘的なことが始めることを予感させるような音色だ。
序奏に続く「春の兆しと若い娘の踊り」では、弦楽器の足踏みするような8分音符が刻まれる。アクセントが2拍→3拍→4拍と変化して付けられる有名な部分である。
激しい「誘拐遊戯」を経て、静かな「春のロンド」へ。美しいロンドも途中激しく盛り上がってはまた静まり、「競い合う部族の戯れ」の場面に移る。低音弦の唸るような伴奏に乗せてホルンを中心とする金管楽器群が咆哮する。「賢者の行列」が静かに入場して大地への祈りを捧げると、最後はその大地を礼賛する「大地の踊り」で終わる。

第2部は、静かな序奏で始まる。神秘的で美しい「若い娘たちの集い」を経て、激しい4分の11拍子に続いて「選ばれた乙女」の踊りが始まる。1小節ごとに拍子が変化する印象的な場面である。
神秘的な「祖先への呼びかけ」と「儀式的行為」が終わって、最後の「いけにえの踊り」。3/16拍子、フェルマータ休符、2/16、3/16、3/16、2/8、2/16と、目まぐるしく拍子が入れ替わって、最後に生贄は息絶える。

初めてこの曲を聴いたのは、ピエール・ブーレーズ指揮、クリーブランド管弦楽団によるレコードだった。いかにも精密な演奏の中に、静かな抒情も感じさせられるすばらしい演奏であった。
第2部の変拍子がどうなっているのか知りたくて、オーケストラスコアも購入した。ブージー・アンド・ホーク社のポケットスコアシリーズの中の一冊(輸入版)である。
自分が指揮しろと言われたら、どうやって指揮するのだろうと思いながらスコアを眺めていたが、とてもこのような楽譜の指揮はできないと絶望的になるようなスコアだった。
一説によると、作曲者ストラヴィンスキーは、自身がこの曲を指揮する際には、単純に2拍子で指揮をしていたとのことであるが、はたして真実はどうだったのであろうか。
いずれにしても、このスコアを小澤征爾などは暗譜で指揮するとのこと。マエストロとは、そういう人たちのことなのである。

「春の祭典」と言えば、映画「RHYTHM IS IT」(邦題、「ベルリン・フィルと子どもたち」)のことも忘れられない。子どもたちにもっとクラシック音楽のよさを感じてほしいと、サイモン・ラトルの呼びかけによって発足した教育プロジェクト(2003年)を追ったドキュメンタリー映画である。
出身国、社会階層の異なる8歳から20歳代前半の子どもたち250人が、ベルリン・フィルの演奏をバックに、「春の祭典」の踊りに挑む。
振り付けを担当したのは、ロイストン・マルドゥーム。物珍しさに参加した踊りの素人である若者たちを、まずは私語を慎むことから教え、悪戦苦闘の末に、何とか4週間で舞台に載せようとする。その過程で、何かと斜に構えていた若者たちが確実に変わっていく。
最後の本番の舞台は感動的である。「音楽にできるのは、人々を分断するでなく、結びつけることだ」というサイモン・ラトルの言葉が心に残る。

「春の祭典」の初演から100年。一世紀を経た今でも、「春の祭典」はその新しさをまるで失ってはいない。

1月20日(日)

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、今年に入ってから読んでいる『聴衆の誕生』(渡辺裕、中公文庫)が、とてもいい。
現在のクラシック音楽文化について社会学的な分析を試みた論考であるが、その視野の広さと視点の確かさにはひどく感心させられた。

今日もその続きを読んでいたのだが、第Ⅳ章まで読み進むと、マーラーのことが書かれていた(「マーラーの流行」)。現在のマーラー・ブームの原因を、「マーラーの音楽自体のありようを手がかりとし、現代においてそのどのような側面がクローズ・アップされているかを見てみる」ことによって、聴衆たちの聴き方がどのように変容していったのかということが論じられていた。
例として取り上げられていたのは、エリアフ・インバルによるマーラーの第5交響曲の第4楽章、有名な「アダージェット」の演奏についてである。

実は、昨日は横浜まで出向いて、そのインバル・都響のコンビによるマーラーの第5交響曲を聴いてきたばかりだったのである。何というシンクロニシティであろうか。

インバルによる「アダージェット」について、著者である渡辺氏は、
“インバルの演奏を聴くと、静かに始まりだんだんと高揚し、また静寂に戻ってゆくという伝統的な流れがいたることで破られ、奇妙な音がそのまま噴き出してくるような印象を受ける”(232頁)
と書かれている。
具体的には、中間部の頂点におけるインテンポの遵守や、主部の回帰部分での強烈なリタルダンドとそれに伴う第1ヴァイオリンのグリッサンドなどが挙げられている。それは、他の指揮者による演奏ではあまり聴くことのできないものだということだ。
ところが、それはインバルの恣意的な演奏などではなく、作曲者マーラー自身が実際にスコアに記した指示であったということが判明する。マーラーは、「細部の造形に異常にこだわった」のである。

渡辺氏は、そんなマーラーの細部へのこだわりを忠実に再現したインバルの演奏を、「彼は細部の個性・特性を生かすことのために、全体の統一を犠牲にしたのである」と評し、それが「マーラーの音楽がいかに「全体」を無視して細部にこだわるという特質をそなえているかということ」を明らかにしたことで、そんな「もっぱら細部の目立つところだけに耳を傾けるような聴き方、万華鏡のごとくに眼前に展開される音の絵巻にひたすら身をまかせるような聴き方」をする聴衆、曰く「軽やかな聴衆」を生み出したと結論づける。

ところで、最近のインバル、東京都交響楽団による一連の「マーラー・ツィクルス」の人気はすさまじい。
実は、この「新マーラー・ツィクルス」と銘打たれた一連の演奏会については、今回の第5交響曲が第Ⅰ期の最後を飾る演奏で、第6〜9交響曲が演奏される第Ⅱ期は、今年の11月から来年の3月にかけて演奏される予定になっている。
中でも、第8交響曲は「千人の交響曲」と言われ、大規模な管弦楽と合唱による壮大なスペクタクルのような交響曲で聴く機会もあまりないことから、とりわけ人気が集中することが予想され、チケットは入手至難になることはほぼ確実であった。

そんなことを見越してか、第6〜9交響曲のチケットがすべてセットになった「セット券」なるものがこの18日に発売された。
公演は、東京芸術劇場コンサートホールと、横浜みなとみらいホール(9番だけはさらにサントリーホールでも)で予定されていた。日程を確認してみると、どうやら東京芸術劇場での公演の方が行きやすい(平日に休暇を取らなくてもよい)ように思われた。
というわけで、「芸劇セット」と名付けられた東京芸術劇場での公演セット券を購入することにした。受付は電話か窓口、支払いはカードか現金のみ。電話のみかあ、きっと繋がりにくいんだろうなあと思っていた。
用意されていたセット券は、都響の窓口で40セット、芸術劇場では100セットとのこと。うまく手に入れることができればいいのだけれど、と祈るような気持ちだった。

18日の発売は午前10時。仕事の関係でさすがに10時きっかりに電話はできなかったが、仕事の合間を見ては電話をかけてみた。予想どおり、ずーっとお話中だった。何度も「かけ直し」ボタンを押してみたが、つながらなかった。
あまりにつながらないので、芸術劇場ではなくて都響の窓口にかけてみた。すぐにつながった。発売から1時間ほどたってからである。しかし、「すべて完売です」との返事が返ってきた。
仕方がないので、再び芸術劇場へ電話することにした。何度も挑戦してみたのだが、繋がらなかった。もう諦めて、多少日程的には厳しいところあるが、通い慣れたみなとみらいホールでの「横浜セット」にしようかと考えたが、やはり諦めきれずに電話をかけてみることにした。かけ直しは既に500回超になっていた。
午後3時、ようやくつながった。「すみません、S席A席ともにすべて完売しておりまして、B席のみご用意できますが」とのことであった。ひどく落胆した。「で、席はどのへんですか?」と一応尋ねてみたが、「3階の前から4列目になります」とのことだった。みなとみらいホールの座席が目に浮かんだ。「じゃあ結構です」と電話を切った。

すぐにみなとみらいホールに電話をかけてみた。こちらもなかなか繋がらなかったが、4回ほどかけ直すとつながった。「都響のマーラーのセット券ですが、まだA席とか残っていますか?」と尋ねると、「はい、ございます」とのお返事。最初からこちらにかければよかったと思った。
セット券はコンサート4回分だから、決して安価ではない。事前にセットで購入するメリットとして2割引きという特典が付いている。それでも、4回で2万円超(A席の場合)である。
それがまさに飛ぶように売れていたのである。まるで、人気アイドルグループのチケットのように。
「軽やかな聴衆」によるマーラー人気の凄まじさを実感させられた。

さて、そのインバル、都響による第5交響曲の演奏である。
件の第4楽章「アダージェット」。この演奏を聴けただけでも、わざわざ横浜まで来た甲斐があったと思った。
弦楽器独特の得も言われぬ柔らかな音色は、残念ながらレコードやCDでは再現することができない。特に、自宅の貧弱な音響再生装置では。
その弦楽器による弱音の出だし。どこか異世界から音が「降りてくる」ような始まりだった。
渡辺氏の言うような「奇妙な音が噴き出してくるような」印象はなかったが、目を閉じて聴くと確かに細部にへのこだわりは随所に感じられた。
曲の進行に連れ、ディナーミクとアゴーギクの変化は、それぞれの弦楽器のいかにも細やかな表情の違いとなって表れていた。もちろんそれは、都響弦楽器セクションのアンサンブルの高いレベルを表してもいた。限りなく美しいアダージェットであった。

いい音楽は身体的である。
「万華鏡のごとくに眼前に展開される音の絵巻にひたすら身をまかせるような聴き方」は、まっすぐ身体性へと繋がっている。
それは、ことクラシック音楽に限らず、全ての音楽について言えることなのではないかと思う。

渡辺氏の言う「軽やかな聴衆」は、ともすれば「精神性」を重要視したクラシック音楽の世界に、「身体性」を取り戻したのである。

12月31日(月)

2012年の10大ニュースです。

1)旅行
今年もいろんな所へ行った。
1月は家族で四国の丸亀へ。守さん主催のTFT講習会参加のためである。途中、神戸に前泊して「燕京」にて美味しい中華をいただいた。丸亀では、守さんにたいへんな歓待をしていただいた。
3月は熱海の梅園と河津桜を見物。梅と桜がいっぺんに見られるという贅沢な旅であった。
5月は西伊豆岩地の大漁祭りへ。カツオのなますは、ほんとうにおいしかった。
7月は大阪天神祭へ。「西成の叔父貴」ことホリノさんのご案内で、初めての大阪天神祭を見学。そのあまりの人出に圧倒された。昼は、サニーくんのご案内でお好み焼きを、夜はホリノさん、奈良のオーヤマ先生ご夫妻と焼肉。初物尽くしの旅だった。
10月は西伊豆の雲見温泉海賊料理まつりへ。伊豆の山中で突然プリウスが動かなくなった。JAFに連絡したら、車はそのまま浜松に回送するとのこと。とりあえず雲見まではバスで。帰りは、「救世主」スガイ先生に新富士駅まで送っていただいた。感謝してもしきれません。
11月は、スガイくんとアメフトの立命戦観戦後、京都へと移動して紅葉を見物。夜の永観堂のライトアップには感動。翌日は雨の紅葉見物となったが、それもいい思い出になった。

2)合気道の昇段審査
いつもにもまして合気道の稽古に熱が入った年だった。11月に昇段審査があったためである。
昇段審査は約40分。最後まで体が動くか心配だったが、何とか審査を終えることができた。
最近は、週に一度は稽古着を着けないと何かヘンな感じがするほどである。

3)インバル、都響のマーラー
3月、サントリーホールにて「大地の歌」、9月と10月は、横浜みなとみらいホールにて、それぞれ第2番「復活」と3番。どの演奏も深く心に沁みる演奏であった。
3月は、少し早めに行って両国界隈を散策した。柳橋とか見ることができて感動した。コンサートの翌日は築地にて海鮮丼を賞味。
インバルではないが、7月には「名古屋マーラー音楽祭」の最後を飾る8番も聴きに行った。アマオケによる演奏であったが、なかなかの演奏を聴かせてくれた。

4)オーサコくんとカンキくんの華燭の宴へ
4月はオーサコくん、12月はカンキくんの華燭の宴へ。
特にオーサコくんの結婚式では、仏前結婚式というものを初めて見た。内田先生をはじめ、本部のいろいろな方とお会いでき、ほんとうに楽しいひとときを過ごすことができた。本部の人たちと一緒になると、あまりに楽しくて、つい飲み過ぎてしまうのであった。

5)iPhone5
11月、iPhone5に機種変更した。iPhone5は、4に比べて軽いし速いし、快適そのもの。
ついでに、自宅の初代インテルmac miniがあまりに虹色風車頻発のため、最新のCore i7搭載モデルを購入。こちらも、サクサクそのもの。ネット環境は、モバイルを含めて劇的に改善された。

6)K.G.Fightersの応援
11月、関西学生アメリカンフットボールリーグ最終戦の立命戦へ。何とシャットアウトでリーグ優勝を決めてくれた。
12月の甲子園ボウルでは、法政大トマホークスと熾烈な勝負を繰り広げ、試合終了まで残り4分を切ってからの逆転劇を見せてもらった。最後のフィールドゴールは、手を合わせて祈っていた。すばらしい試合だった。
いよいよ年明けはライスボウルである。

7)鏑射寺の護摩行
守さんのオススメもあって、夏休みの終わり、ぜひ例祭に参加してみようということになった。
鏑射寺は、静かでとても居心地のいいところだった。護摩行と法話が終わって、中村山主が参加者全員をお見送りしていたのにも驚いた。機会があれば、またぜひ行きたいと思う。

8)健康診断
指定年齢健診で5年ぶりの人間ドックへ。膵臓のアミラーゼ値が高すぎるとのことで、MRIによる再検査を受けることになった。結果、異常なしだった。ほっとした。
ついでに、今まで受けたことのなかった脳ドックも受診してみることにした。こちらも異常なしだった。健康であることはありがたいことである。

9)スクーターとカメラを買った
なぜか突然、スクーターが欲しくなった。あれこれ健闘の末、ホンダのジョルノの中古を購入することにした。さっそく、浜名湖周辺を走り回ってみた。風が爽快だった。
カメラは、オリンパス・ペンのE-PL2というミラーレス一眼デジカメを購入した。それまで使っていたコンパクトデジカメと違って、雲の色の違いまではっきりくっきり写すことができて感激した。いろんな写真を撮ってみたいと思った。

10)村上春樹にハマった
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文春文庫)を読んで以来、どうしても村上春樹の小説やノンフィクションを読んでみたくなった。
実際読んでみたら、どの本もほとんど一気読みだった。村上春樹のよさを再発見した。

長屋住まいも8年目を迎え、ホリノさんの勧めもあって途中から音楽日記を書くことになった。実際に音楽のことを書いてみると、音楽を言葉で表現することの難しさをいろいろと実感させられた。今後も、自分への挑戦のつもりで音楽のことを書いていきたい。

では、どちらさまもよいお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

12月27日(木)

2012年も残すところあと数日。
というわけで、今年仕事の行き帰りの車の中でいちばんよく聴いた曲のことについて書いてみたい。

その曲とは、武満徹の「From me flows what you call Time」である。
この曲は、昨年の5月に佐渡裕がベルリン・フィルを指揮した際に演奏したことでよく知られている。

作曲されたのは1990年。武満徹60歳の時の作品である。カーネギーホール創立百周年記念委嘱作品として作られ、小澤征爾指揮のボストン交響楽団とネクサス(打楽器演奏集団)によって初演された。
「5人の打楽器奏者とオーケストラのための」と題されているように、様々な打楽器とオーケストラが共演を繰り広げる。
佐渡裕がベルリン・フィルを指揮した時には、ステージ上の照明灯の近くから吊り下げられたチューブラーベルを、打楽器奏者が五色の布で引きながら演奏していたのが印象的だった。

作曲者自身の言葉を借りると、以下のとおりである。
「私がこの作品を書くように求められた、ちょうどそのとき、私はチベットの風習に関する書物を読んでいた。季節風がチベットに吹いてくるとき、人々は国の別な場所へ移動する。そのとき彼らはとても美しい祭礼をする。それは、'rlung-ta'(風の馬)と呼ばれている。
彼らは平原に長い紐を張り、五色(青、赤、黄、緑、白)の美しい着物を掛ける。これは幸運のシンボルであり、それぞれの色は特別な意味を持っている。青は空にかかわりがあって、白は透明だがあらゆる色を含んでいる。黄は収穫とかかわりがある等々。春になって季節風が吹きはじめると、彼らはこの風の馬と共にどこへ移動するかを決める。
そういうことで私は次のようなアイディアを得た:五つの色、五人の打楽器奏者。それぞれの奏者は、それぞれの色に照応して、独自の特別な役割をもっている。私はカーネギー・ホールにそのコンサート・ホールの全部を使いたいと言った。ホールに小さな鈴を垂らすつもりである。 − バルコニーの下に、右にも五つの鈴を、リモート・コントロールのように五つの色のリボンを結び付けて」。(@「翡翠の千夜千曲」)

また、この曲のタイトル「From me flows what you call time」については、
“題名は、大岡信の詩「澄んだ青い水」 −英訳は、大岡とトーマス・フィッツシモンズにより《Clear Blue Water》と題されている−の一節から、詩人の諒解をえて引用された。この詩を読んだ時、私はカーネギー・ホールから、その100周年を記念するための作曲委嘱を受けた直後だったが、From me flows what you call Timeという一節から、強く触発されるものを感じた。”(引用同じ)
とある。
以下の一節である。

“雪をかぶった青いこぶしを
天に振りあげ、
古代のその水の精は
叫んでゐるー

「この俺から
お前らの『時』は流れ出す」と。”

曲は、下降する5音と上昇しつつ戻る3音のフルートのソロで始まる。この主題の役割を果たすかのような音列が、曲全体を終始支配する。
オーケストラの前奏のようなパッセージに続いて、いろいろな鐘の音が響く。冒頭の主題音列をホルンが引き継ぎ、しばらくオーケストラの演奏が続いたあとで、打楽器群のソロとなる。
オーケストラとの掛け合いを経て、曲は新たな局面に入る。しかし、前進するかのようなオーケストラの響きは、鐘の音によって中断され、打楽器のソロが入ってくる。ここの響きの美しさと言ったら!まるで、どこか違う世界から響いてくるかのようだ。
暫しの沈黙の後、変形された主題音列が繰り返される。それにドラムが加わる。多少は野趣を感じさせる雰囲気は、再び主題音列によって中断されるが、最後はそのドラムのソロが戻ってくる。鐘の音に続いて、オーケストラが小さなクライマックスを作る。コーダは、低弦の伴奏をバックに五色の布に結び付けられたベルが消え入るように鳴らされて曲を閉じる。

家から職場までは、車でおよそ30分の道のりである。この「From me flows what you call time」の演奏時間が約35分であるから、行き帰りに聴くにはちょうどよい長さということもあってか、何度も繰り返し聴いた。
何より、打楽器群の得も言われぬ響きが気持ちを随分とリラックスさせてくれ、仕事へ向かう気持ちや、仕事を終えたあとの疲れを癒してくれたように思う。

愛聴のCDは、初演のネクサスの打楽器、カール・セント=クレア指揮、パシフィック・シンフォニ・ーオーケストラによる演奏(輸入盤)である。
初演者ということもあって、曲の雰囲気と作曲者の意図を伝えてくれるいかにもいい演奏である。

音楽は、現実の音符や楽器を使用して「結界」を作り出し、聴く者を異世界へといざなってくれるものである。
よい演奏とは、畢竟そんな「結界」を作り出せる演奏のことである。
異世界へといざなわれたわたしたちは、そこで過去を回想したり、未来を夢見たりしながら、この上ない癒しと励ましを受ける。そうして、現実の世界で生きていくための勇気をもらって異世界から戻ってくる。

そんな音楽を、これからもたくさん聴いていきたい。

12月11日(火)

師走もそろそろ中旬、日本列島も本格的な冬将軍の到来を迎える時期となった。
特に、この週末は強風とともに気温もぐっと下がり、ふだんはほとんど雪など降ることのない浜松でも風花が舞ったりした。

寒くなるとお鍋が恋しくなるように、音楽はショスタコーヴィチが聴きたくなる。
もちろん、ショスタコーヴィチが旧ソ連という寒いお国柄の作曲家であるということもあるのかもしれないが、空気が冷たく乾燥してくると、どうもそれがショスタコーヴィチの音楽とよくマッチするような感じがするのである(だからといって、ショスタコーヴィチの音楽が冷たく乾燥した音楽であるというわけではない、
もちろん)。

ショスタコーヴィチは、生涯に150曲近くの作品を残している。多産な作曲家だったのである。
そんな数多くの曲の中から、とりあえず1曲だけを取り上げようというのはなかなか難しいのであるが、今回はちょうど1ヶ月前にNHKのBSプレミアムの「特選オーケストラ・ライブ」で放映されたスラトキン指揮、N響による演奏がなかなかの名演だった交響曲第7番を取り上げてみたい。

この第7交響曲は、「レニングラード」と呼ばれる。
レニングラードは、今は世界地図上に存在しない都市(現在の都市名はサンクトペテルブルク)である。この第7シンフォニーがそのかつての都市名で呼ばれるのは、作曲者自身が「わが故郷レニングラードに捧げる」と表明した(1942年3月29日、プラウダ)ことに由来している。
さらには、作曲の開始された時期が、その後900日に及んだ凄惨な「レニングラード攻囲戦」が開始された直後であったということも大きく関与しているのであろう。

ナチス・ドイツがソ連への侵攻作戦を開始したのは1941年6月。短期間に侵攻して8月の終わりにはレニングラードに通じる全ての鉄道・道路が遮断され、9月には市内への砲撃が開始された。
ショスタコーヴィチが作曲を開始したのは、まさにレニングラードが包囲されようとしていた8月のことであった。
作曲を開始して間もなく、ショスタコーヴィチは市民に向けて以下のようなラジオ放送を行なった。レニングラード市内への砲撃が始まって2週間ほど経った9月17日のことである。
「わたくしは、かつて一度も故郷を離れたことのない根っからのレニングラードッ子です。今の厳しい張り詰めた時を心から感じています。この町はわたくしの人生と作品とが関わっています。レニングラードこそは我が祖国、我が故郷、我が家でもあります。何千という市民の皆さんも私と同じ想いで、生まれ育った街並み、愛しい大通り、一番美しい広場、建物への愛情を抱いていることでしょう。」
と述べ、現在作曲中の交響的作品を市民の前で発表することを誓っている。(@Wikipedia)

作曲はわずかに4ヶ月ほどで終了した。
これからどうなるのであろうかという、漠然とした不安を抱えた市民をどう励ますか。ショスタコーヴィチの念頭にあったのは、ただそのことのみであったろう。その思いが、作曲者をして異例の速さで曲を完成させることに駆り立てた。

実際に曲を聴いてみよう。
第1楽章。元気よく始まる第1主題は「人間の主題」と呼ばれる。さらに「平和な生活の主題」と呼ばれる第2主題。戦争が始まる前の平穏な生活が描かれる。
展開部に入ると、小太鼓のリズムに乗って「戦争の主題」が始まる。ラヴェルの「ボレロ」を彷彿とさせる技法で徐々にクレシェンドしていくのだが、どうもメロディの明るさが気になる。とても「戦争の主題」とは思えない、まるでピクニックにでも行くかのようなメロディなのである。軽妙な旋律にすることで、ドイツ軍の侵攻が大したものではないということをアピールしようとしたのかもしれない。
「戦争の主題」は、フルオーケストラによるクライマックスを迎えて再現部に入る。再現部はファゴットのソロで静かに始まり、戦争の暗い雰囲気を感じさせながら終わる。

第2楽章と第3楽章は、戦争前の平和な生活が回想される。全編に哀愁に満ちたメロディと祈りが溢れる。
曲はそのままアタッカで終楽章へ。
漠然とした不安を感じさせる始まりに続いて、実際の戦いを描写していると思しきモチーフが奏される。重苦しい雰囲気の中から、少しずつ光明が見えてくる。
まるで、「この戦いは辛く苦しい戦いになるであろう。しかし、最後まで希望を捨てずに戦い抜こう。勝利は約束されているのだ。」とショスタコーヴィチが市民に語りかけているかのようだ。
そうして、第1楽章の冒頭の「人間の主題」が戻ってくる。約束された勝利が高らかに宣言されて曲が閉じられる。

レニングラードでの初演は、攻囲戦最中の1942年8月9日に行われた。この曲の演奏が、絶望の淵にあったレニングラード市民をどれほど勇気づけたかは想像に難くない。
この曲が、旧ソ連のプロパガンダであるとして、「壮大なる愚作」と評されたこともあったとのことであるが、それこそ「後知恵」と言うべきであろう。
ショスタコーヴィチは、自分と周囲の人間が置かれている状況の中で、自分が音楽家として何ができるのかを問うた。そうして、止むに止まれぬ思いでこの第7交響曲を作曲した。傑作と言わずに何と言おうか。

しかし、ショスタコーヴィチの思いとは裏腹に、実際の「レニングラード攻囲戦」が終結したのは、この第7交響曲が作曲されてから2年以上経過してからであった。
その間の攻囲戦は悲惨を極めた。特に、補給路を遮断されたことによる寒さと飢餓が、さながらこの世の地獄のような様相を呈したとのことである。何より、死者の数の多さ(一説によれば100万人と言われる)がそのことを物語っている。
ショスタコーヴィチは、市民を勇気づけるつもりで作曲した7番だけでは、その凄惨な攻囲戦を物語ることができなかった。暗く悲しみに満ちた交響曲第8番は、こうして生み出されるのである。

この第7交響曲を初めて聴いたのは、ヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルによる演奏であった。確か、大学のクラブの先輩が持っていたレコードを聴かせてもらったのだと思う。
ひどく感動して、同様のレコードを買い求めようとも思ったのだが、違う指揮者の演奏も聴きたいと思い、バーンスタイン指揮のレコードを買い求めたことを覚えている(残念ながら、バーンスタインの演奏は録音の悪さも手伝ってか、ノイマンのような深みのある演奏ではなかった)。

CDでは、バルシャイによる全集版と、ロストロポーヴィチとナショナル管によるものがある。
バルシャイ盤は、指揮者がショスタコーヴィチに師事していたこともあって、作曲者へのリスペクトが随所に感じられる好演である。ロストロポーヴィチ盤は、残念ながらチェロを弾くようにはオーケストラを鳴らすことができなかったという感じがする。
こうして書いていると、どうしても初聴のノイマン盤を聴きたくなってきた。

第7交響曲が完成したのは12月17日である。その日までには、ノイマン盤を手に入れて聴いてみようと思う。

11月27日(火)

今日は、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」が初演された日である。

“1931年11月27日、ウィーンでロベルト・ヘーガー指揮、ウィトゲンシュタインのピアノで初演が行われたが、ウィトゲンシュタインは楽譜通りに弾き切れずに勝手に手を加えて演奏し、その上ピアノがあまりにも難技巧にこだわりすぎていて音楽性がないと非難したため、ラヴェルとウィトゲンシュタインとの仲はこれ以降険悪となった。その後、1933年1月27日に、ジャック・フェヴリエの独奏によりパリで再演されたのが、楽譜どおり演奏された初めての演奏となった。”(@Wikipedia)

ちなみに、初演のピアノ演奏をしてラヴェルと険悪な関係になったピアニストは、かの有名な哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの兄である。
彼は、第一次世界大戦に参戦して右腕を失ったため、左手だけで演奏ができるピアノ協奏曲をラヴェルに作曲依頼した。依頼を受けたラヴェルは、当時既に構想していたピアノ協奏曲と並行してこの曲を作曲することに挑戦した。結果、この「左手のためのピアノ協奏曲」の方が一年早く完成し、これがラヴェルの初めてのピアノ協奏曲となった。

ピアノを弾いたことのない方でも、鍵盤の左側ほど低い音で、右側が高い音という配列になっていることはご存知であろう。そういう鍵盤の配列から、一般的に左手は低音の伴奏パートを、右手は中音から高音域の旋律パートを受け持つことで、一つの楽曲を演奏することが多い。
そんな基本的には両手で弾くピアノを、左手だけで演奏しようというのだから、これは通常の演奏よりもかなり高度な技術を要求されるということは想像できよう。

ましてや、ラヴェルが作曲したこの「左手のためのピアノ協奏曲」は、左手だけで簡単に弾けるようには作られてはいない。初演者が「難技巧にこだわりすぎ」と非難したように、たとえ左手だけであってもラヴェルは一切の妥協をせず、自らが表現しようとしたことを最優先させて作曲したはずなのである。

実際に曲を聴いてみよう。
全曲は単一楽章であるが、一般的なピアノ協奏曲のように3部から構成されている。
冒頭、低弦が何やら地下でうごめくものをあらわすかのように、不気味な雰囲気を醸し出す。そんな中からテーマらしきものが形作られ、それがフルオーケストラによって奏でられたところで、ややエキゾチックに彩られた独奏ピアノがお出ましする。そうして、長いカデンツァを奏する。
このカデンツァ、とても左手だけで演奏しているとは思われないカデンツァである。
そのカデンツァが終わって、オーケストラの間奏が入る。間奏が終わると、再びピアノが戻ってくる。それにしても、ここでのピアノソロの美しさと言ったら!
ピアノソロは、途中から木管楽器との掛け合いになって、第2部への橋渡しとなる。

第2部は行進曲のように刻まれるリズムに乗って、ピアノが自在にメロディーを紡ぎ出す。途中、ピッコロやフルートとの掛け合いの部分が、これまたたいへんに可愛らしいくていい。

再び第1部の主題がフルオーケストラで戻ってきて、曲は第3部に入る。この第3部のピアノの最後のカデンツァは、まさに凄絶と言えるほどの美しさである。
そう、とにかくこの「左手のためのピアノ協奏曲」は、特に独奏ピアノのカデンツァがとても美しい曲なのである。

愛聴盤は、サンソン・フランソワのピアノ、アンドレ・クリュイタンス指揮、パリ音楽院管弦楽団の演奏である。
フランソワについては、以下のように記されている(@Wikipedia)。
“フランソワの演奏は他の演奏家とは一線を画す独特なもので、非常に個性的であるため、ピアノを演奏をする人の範とはなり難い。それでも、フランソワの演奏は文化的価値の高いものであるため、没後も何度も版を重ねてCDが発売されている。”

そんなフランソワの演奏であるが、「左手のためのピアノ協奏曲」が演奏至難の曲であったことと、きわめて個性的であったことが、同じく個性的なフランソワの自負心をいたく刺激したのであろう、思い入れと熱のこもったすばらしい演奏を聴かせてくれる。
まず、第1部のカデンツァの出だしを聴かれよ。これほどの音色を他の何人が出せるであろう。
速い音の動きの部分の流麗さ、そうして、何より随所に聴くことができる濃厚な抒情…。

ロン=ティボー国際コンクールにわずか19歳で優勝したこの早熟な天才は、ショパンやドビュッシー、ラヴェルなどの限られたレパートリーに、その天才ぶりを遺憾なく発揮した。
そうなのだ。別にオールラウンダーでなくてもいいのだ。
わたしたちは、どんな作曲家の曲でもそれなりの演奏で聴かせてくれる演奏家を求めているのではない。
自分の感性が訴えかけてくるところを信じて、その内奥から湧き出てくるところのものを、それこそ全身全霊を傾けて演奏するような演奏家をこそ求めているのだ。

フランソワが、このラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」をレコーディングしたのは、彼が35歳のとき。まさに無人の荒野を行くがごとき、他の追随を全く許さないほどのすばらしい演奏である。
もちろん、クリュイタンスのサポートも、単にサポートに徹しているというのではなく、フランソワの感性に火を点けるようにオーケストラを鳴らしている。
つまり、両者が互いに刺激し合いながら、曲が持つ芸術性をより高めている演奏なのである。

初演者が「難技巧にこだわりすぎていて音楽性がない」と非難したこの「左手のためのピアノ協奏曲」は、サンソン・フランソワという天才を得て、その曲の持つ音楽性がいかに高いものであるかということを多くの人に知らしめることになった。
この演奏を聴けば、作曲者であるラヴェルもさぞかし喜んだことであろう。

11月15日(木)

今日は、指揮者フリッツ・ライナーの命日である。
誰それ?と言われる方のために略歴(@Wikipedia)を。

1888年、ブダペスト生まれ。リスト音楽院に学び、バルトーク、コダーイ等に師事。
1910年(22歳)のときに、ビゼーのオペラ『カルメン』で指揮者デビュー。
1914年(24歳)、ドレスデン国立歌劇場指揮者。リヒャルト・シュトラウスと親交を持つ。
1922年(32歳)、渡米してシンシナティ交響楽団音楽監督、ピッツバーグ交響楽団音楽監督、メトロポリタン歌劇場指揮者などを歴任。
1953年(63歳)、シカゴ交響楽団の音楽監督。死去までの10年間、同楽団の黄金時代を築く。
1960年(70歳)、心臓病の発作で入院。それ以降、指揮活動に制限が加わる。
1963年11月15日、ニューヨークで死去。

ライナーは独特の指揮をする人だったらしい。
実際、1950年代前半にライナーの指揮ぶりを目の当たりにした音楽評論家の吉田秀和氏は、そのときの印象を以下のように書かれている。
“いまだに一番はっきり思い出すのは、彼のバトンのふり方である。バトンを下にさげてぶらぶら振っている指揮者の姿は、私は、後にも先にも、この時のライナーのほか見たことがない」「とにかく指揮棒の先端が上を向いていなくて、下を向いているのだから、びっくりした」「楽員たちは、頼るものがなくなるから、当然恐ろしくなり、全神経を集中し、緊張そのものといった表情で演奏する」と述懐し、ライナーの指揮を「指揮の技巧の巧拙というものが考えられるとしたら、ライナーはまれにみる指揮のヴィルトゥオーゾであった”(『世界の指揮者』、ちくま文庫)

そんなライナーは、主にシカゴ交響楽団との多くの録音をRCAに残している。レパートリーは広く、ハイドンから始まってバルトークまで多岐にわたっている。
そんな数多の録音の中からとびきりの演奏を探すのは至難の業だが、自分の持っているレコードやCDの中から一枚を選ぶとするなら、レスピーギの「ローマの松」であろうか。これは、ほんとうにすばらしい演奏なのである。

当時のシカゴ交響楽団は、特にブラスセクションにヴィルトゥオーゾが揃っていた。トランペットのアドルフ・ハーセス、ホルンのデール・クレヴェンジャー、トロンボーンのジェイ・フリードマン、チューバのアーノルド・ジャイコブスなどの錚々たるメンバーである。
そんな名人たちをまとめ上げ、その持てる力を十分に発揮させたのがライナーだったのである。

「ローマの松」の第1部は、「ボルゲーゼ荘の松」。いきなりファンファーレ風トランペットのいかにも賑やかな吹奏で始まる。作曲者自身の解説によれば、「ボルゲーゼ荘の松の木立の間で子供たちが遊んでいる。彼らは輪になって踊り、兵隊遊びをして行進したり戦争している。夕暮れの燕のように自分たちの叫び声に昂闘し、群をなして行ったり来たりしている。」とある。
突然、曲は中断されて第2部へ。

第2部、「カタコンブ付近の松」。「カタコンブの入り口に立っている松の木かげで、その深い奥底から悲嘆の聖歌がひびいてくる。そして、それは、荘厳な賛歌のように大気にただよい、しだいに神秘的に消えてゆく。」
弦の静かな伴奏にゴングが厳かな雰囲気を添える。舞台裏のソロ・トランペットが、聖歌のようなメロディーを奏する。心に染み入る美しさである。このソロを吹いているのがアドルフ・ハーセスであろうか。
悲嘆の聖歌は、トロンボーンの斉奏で頂点に達する。ここもシカゴ響ブラスセクションの聴きどころの一つである。

第3部は「ジャニコロの松」。ピアノのアルペジオとソロ・クラリネットが静かな夏の夜のような雰囲気を醸し出す。「そよ風が大気をゆする。ジャニコロの松が満月のあかるい光に遠くくっきりと立っている。夜鶯が啼いている。」
曲の終盤では、テープに録音された実際の鳥の鳴き声が流される。そんな夜明けを告げるかのような鳥の鳴き声の中から、静かに足音が聞こえてくる。

第4部、「アッピア街道の松」。有名なローマ軍の行進である。低弦の刻むリズムが遠くから近づいてくるローマ軍の足音を伝える。「アッピア街道の霧深い夜あけ。不思議な風景を見まもっている離れた松。果てしない足音の静かな休みないリズム。詩人は、過去の栄光の幻想的な姿を浮べる。トランペットがひびき、新しく昇る太陽の響きの中で、執政官の軍隊がサクラ街道を前進し、カピトレ丘へ勝ち誇って登ってゆく。」
最後は、客席に配されたトランペットとトロンボーンのバンダに、舞台上の金管楽器群が呼応して壮大なクライマックスをつくり上げる。
このクライマックスでのシカゴ交響楽団の金管楽器群の目も眩むばかりの華麗さは、いかばかりであろうか。まさに、黄金時代と言われたシカゴ交響楽団の実力を耳にすることができるのである。

現代は、「ものわかりのよさ」が求められる時代である。
「よくわからないもの」は「よくわかるもの」に変換され、またそんな変換をしてくれる人を求める。
指揮者についても、まったく同様のことが言えるのではなかろうか。
楽団員からもオーディエンスからも「よくわかる指揮」が求められ、指揮者もできるだけはっきりと分かるように指揮棒でリズムを刻み、キューのサインを出す。
でも、そんな懇切丁寧な指揮などしなくとも、ライナーのようにオーケストラからすばらしい演奏を引き出すことができる指揮者はいたのだ。
団員が「全神経を集中し、 緊張そのものといった表情で演奏する」からこそ生み出される至高の演奏。

そんな指揮者がいなくなった。
さて、次はライナーが生前敬愛していたバルトークの「管弦楽のための協奏曲」を聴くとしよう。

11月9日(金)

今日は、ブラームスのピアノ協奏曲第2番が初演された日である。
今から131年前の1881年、場所はブタペスト、指揮はアレクサンダー・エルケル、ピアノを弾いたのはブラームス自身であった。

このブラームスの2番のピアノコンチェルトは、「不評だったピアノ協奏曲第1番と異なり、この作品は即座に、各地で大成功を収めた。」(@Wikipedia)とある。
ブラームスは、しばしば春のイタリアを訪問し、その際に得たインスピレーションを作曲に生かしたとのことだが、このピアノ協奏曲第2番もそんな明るいイタリアの印象が随所に感じられる曲となっている。それが多くの人々に好印象を持って迎えられた大きな要因ともなっているのであろう。

第1楽章、まるでホルンが語りかけることを、ピアノが頷きながら聞いているような感じで始まる。突然、ピアノが意を決したように自らの思いを語り始める。それに呼応するかのように、全オーケストラが力強く主題を奏でる。
聴きどころは、再現部でピアノの伴奏に乗って冒頭のホルンによる主題が帰ってくるところ。何かと心細い思いをしていたところへ、頼りになる知人がやってきてくれたような感じである。

第2楽章はスケルツォの楽章である。通常3楽章構成をとることが多いピアノ協奏曲では、スケルツォの楽章を置くこと自体が珍しいとされる。そういうところが、この協奏曲をして「ピアノ独奏部を持った交響曲」と言われる所以であろう。
全体を通して、ニ短調という調性が悲劇的な印象を醸し出す。

第3楽章は、第2楽章とは打って変わって、チェロの穏やかなソロで始まる抒情的な楽章である。
この楽章に限って言えば、ピアノは脇役に徹しているような感じだ。こういうところも、第2楽章と同様に「ピアノ独奏部を持った交響曲」と言われるところなのであろう。
それにしても、ため息が出るほどに美しい。春、満開の夜桜の下をそぞろ歩きしているような感じだ。溢れるロマンティシズム。

第4楽章では、副主題がいかにも愛らしい。全曲を結ぶというような印象ではないが、イタリアの明るい印象を思わせるような、舞曲風な軽妙さに溢れた楽章である。

初めて購入したこの曲のレコードは、ウィルヘルム・バックハウスがピアノを弾いたモノラル盤であった。バックはカール・シューリヒト指揮のウィーン・フィル。1952年の録音である。
どうしてバックハウスの演奏を選んだのかはよく覚えていない。たぶん、その前にバックハウスによるベートーヴェンの後期ピアノソナタのレコードを買っていて、それがけっこう気に入っていたからなのかもしれないし、誰かに「ベートーヴェンやブラームスは、誰が何と言ってもバックハウスやで」と教えてもらっていた(例えば、神戸三宮にあった「マスダ名曲堂」のおっちゃんとかに)からかもしれない。
とにかく、何度も何度も繰り返し聴いた。中でも特に第3楽章を。チェロのソロは、モノラル録音でも十分にその細かな演奏のニュアンスまで聴き取ることができた。

その後、ベームとウィーン・フィルが伴奏を務めたバックハウスのステレオ盤(1967年録音)のCDも購入した。さすがのバックハウスも80歳を超え、モノラル盤のときのような凛々しさは感じられなかったが、その分落ち着きのある、いかにも大家らしい堂々たる演奏であった。

バックハウス盤に負けず劣らず何度も繰り返し聴いたのは、スヴャトスラフ・リヒテルのピアノ、ラインスドルフ指揮シカゴ交響楽団のレコードである。
この演奏のことは、大学時代の恩師である畑道也先生から教えていただいた。ご自身もチェロを弾かれた先生は、第3楽章のチェロのソロを弾いたロベルト・ラマルキーナが殊の外お気に入りだった。いかにも天才肌を感じさせる、嫋やかな演奏である。

それにしても、このときのリヒテルの凄さと言ったら!中間部もインテンポでぐいぐいと押しまくる第2楽章など、もう縦横無尽にピアノを鳴らしているという感じだ。
リヒテルがRCAにこの演奏を録音したのは1960年。東西冷戦下で、初めて西側での演奏を許された年である。そんな喜びが、演奏の随所から伝わってくるような気がする。

かように、この2番のコンチェルトに限って言えば、バックハウスとリヒテルの演奏は、もちろんバックの指揮者とオーケストラも含めて、他の追随を許さぬ完成度の高みに達していると思われる。

この2番のコンチェルトにおける独奏ピアノは、かなりの技量が要求される難曲とのことであるが、それを初演したということなのだから、ブラームス自身も、相当な技量を持つピアニストだったのであろう。
そんなことを想像しながら実際の曲を聴いてみたい。
さて、演奏はバックハウスかリヒテルか、どちらの演奏にしようかしら。