スーさん、ショスタコーヴィチを語る

12月11日(火)

師走もそろそろ中旬、日本列島も本格的な冬将軍の到来を迎える時期となった。
特に、この週末は強風とともに気温もぐっと下がり、ふだんはほとんど雪など降ることのない浜松でも風花が舞ったりした。

寒くなるとお鍋が恋しくなるように、音楽はショスタコーヴィチが聴きたくなる。
もちろん、ショスタコーヴィチが旧ソ連という寒いお国柄の作曲家であるということもあるのかもしれないが、空気が冷たく乾燥してくると、どうもそれがショスタコーヴィチの音楽とよくマッチするような感じがするのである(だからといって、ショスタコーヴィチの音楽が冷たく乾燥した音楽であるというわけではない、
もちろん)。

ショスタコーヴィチは、生涯に150曲近くの作品を残している。多産な作曲家だったのである。
そんな数多くの曲の中から、とりあえず1曲だけを取り上げようというのはなかなか難しいのであるが、今回はちょうど1ヶ月前にNHKのBSプレミアムの「特選オーケストラ・ライブ」で放映されたスラトキン指揮、N響による演奏がなかなかの名演だった交響曲第7番を取り上げてみたい。

この第7交響曲は、「レニングラード」と呼ばれる。
レニングラードは、今は世界地図上に存在しない都市(現在の都市名はサンクトペテルブルク)である。この第7シンフォニーがそのかつての都市名で呼ばれるのは、作曲者自身が「わが故郷レニングラードに捧げる」と表明した(1942年3月29日、プラウダ)ことに由来している。
さらには、作曲の開始された時期が、その後900日に及んだ凄惨な「レニングラード攻囲戦」が開始された直後であったということも大きく関与しているのであろう。

ナチス・ドイツがソ連への侵攻作戦を開始したのは1941年6月。短期間に侵攻して8月の終わりにはレニングラードに通じる全ての鉄道・道路が遮断され、9月には市内への砲撃が開始された。
ショスタコーヴィチが作曲を開始したのは、まさにレニングラードが包囲されようとしていた8月のことであった。
作曲を開始して間もなく、ショスタコーヴィチは市民に向けて以下のようなラジオ放送を行なった。レニングラード市内への砲撃が始まって2週間ほど経った9月17日のことである。
「わたくしは、かつて一度も故郷を離れたことのない根っからのレニングラードッ子です。今の厳しい張り詰めた時を心から感じています。この町はわたくしの人生と作品とが関わっています。レニングラードこそは我が祖国、我が故郷、我が家でもあります。何千という市民の皆さんも私と同じ想いで、生まれ育った街並み、愛しい大通り、一番美しい広場、建物への愛情を抱いていることでしょう。」
と述べ、現在作曲中の交響的作品を市民の前で発表することを誓っている。(@Wikipedia)

作曲はわずかに4ヶ月ほどで終了した。
これからどうなるのであろうかという、漠然とした不安を抱えた市民をどう励ますか。ショスタコーヴィチの念頭にあったのは、ただそのことのみであったろう。その思いが、作曲者をして異例の速さで曲を完成させることに駆り立てた。

実際に曲を聴いてみよう。
第1楽章。元気よく始まる第1主題は「人間の主題」と呼ばれる。さらに「平和な生活の主題」と呼ばれる第2主題。戦争が始まる前の平穏な生活が描かれる。
展開部に入ると、小太鼓のリズムに乗って「戦争の主題」が始まる。ラヴェルの「ボレロ」を彷彿とさせる技法で徐々にクレシェンドしていくのだが、どうもメロディの明るさが気になる。とても「戦争の主題」とは思えない、まるでピクニックにでも行くかのようなメロディなのである。軽妙な旋律にすることで、ドイツ軍の侵攻が大したものではないということをアピールしようとしたのかもしれない。
「戦争の主題」は、フルオーケストラによるクライマックスを迎えて再現部に入る。再現部はファゴットのソロで静かに始まり、戦争の暗い雰囲気を感じさせながら終わる。

第2楽章と第3楽章は、戦争前の平和な生活が回想される。全編に哀愁に満ちたメロディと祈りが溢れる。
曲はそのままアタッカで終楽章へ。
漠然とした不安を感じさせる始まりに続いて、実際の戦いを描写していると思しきモチーフが奏される。重苦しい雰囲気の中から、少しずつ光明が見えてくる。
まるで、「この戦いは辛く苦しい戦いになるであろう。しかし、最後まで希望を捨てずに戦い抜こう。勝利は約束されているのだ。」とショスタコーヴィチが市民に語りかけているかのようだ。
そうして、第1楽章の冒頭の「人間の主題」が戻ってくる。約束された勝利が高らかに宣言されて曲が閉じられる。

レニングラードでの初演は、攻囲戦最中の1942年8月9日に行われた。この曲の演奏が、絶望の淵にあったレニングラード市民をどれほど勇気づけたかは想像に難くない。
この曲が、旧ソ連のプロパガンダであるとして、「壮大なる愚作」と評されたこともあったとのことであるが、それこそ「後知恵」と言うべきであろう。
ショスタコーヴィチは、自分と周囲の人間が置かれている状況の中で、自分が音楽家として何ができるのかを問うた。そうして、止むに止まれぬ思いでこの第7交響曲を作曲した。傑作と言わずに何と言おうか。

しかし、ショスタコーヴィチの思いとは裏腹に、実際の「レニングラード攻囲戦」が終結したのは、この第7交響曲が作曲されてから2年以上経過してからであった。
その間の攻囲戦は悲惨を極めた。特に、補給路を遮断されたことによる寒さと飢餓が、さながらこの世の地獄のような様相を呈したとのことである。何より、死者の数の多さ(一説によれば100万人と言われる)がそのことを物語っている。
ショスタコーヴィチは、市民を勇気づけるつもりで作曲した7番だけでは、その凄惨な攻囲戦を物語ることができなかった。暗く悲しみに満ちた交響曲第8番は、こうして生み出されるのである。

この第7交響曲を初めて聴いたのは、ヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルによる演奏であった。確か、大学のクラブの先輩が持っていたレコードを聴かせてもらったのだと思う。
ひどく感動して、同様のレコードを買い求めようとも思ったのだが、違う指揮者の演奏も聴きたいと思い、バーンスタイン指揮のレコードを買い求めたことを覚えている(残念ながら、バーンスタインの演奏は録音の悪さも手伝ってか、ノイマンのような深みのある演奏ではなかった)。

CDでは、バルシャイによる全集版と、ロストロポーヴィチとナショナル管によるものがある。
バルシャイ盤は、指揮者がショスタコーヴィチに師事していたこともあって、作曲者へのリスペクトが随所に感じられる好演である。ロストロポーヴィチ盤は、残念ながらチェロを弾くようにはオーケストラを鳴らすことができなかったという感じがする。
こうして書いていると、どうしても初聴のノイマン盤を聴きたくなってきた。

第7交響曲が完成したのは12月17日である。その日までには、ノイマン盤を手に入れて聴いてみようと思う。