スーさん、『聴衆の誕生』を読む

1月20日(日)

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、今年に入ってから読んでいる『聴衆の誕生』(渡辺裕、中公文庫)が、とてもいい。
現在のクラシック音楽文化について社会学的な分析を試みた論考であるが、その視野の広さと視点の確かさにはひどく感心させられた。

今日もその続きを読んでいたのだが、第Ⅳ章まで読み進むと、マーラーのことが書かれていた(「マーラーの流行」)。現在のマーラー・ブームの原因を、「マーラーの音楽自体のありようを手がかりとし、現代においてそのどのような側面がクローズ・アップされているかを見てみる」ことによって、聴衆たちの聴き方がどのように変容していったのかということが論じられていた。
例として取り上げられていたのは、エリアフ・インバルによるマーラーの第5交響曲の第4楽章、有名な「アダージェット」の演奏についてである。

実は、昨日は横浜まで出向いて、そのインバル・都響のコンビによるマーラーの第5交響曲を聴いてきたばかりだったのである。何というシンクロニシティであろうか。

インバルによる「アダージェット」について、著者である渡辺氏は、
“インバルの演奏を聴くと、静かに始まりだんだんと高揚し、また静寂に戻ってゆくという伝統的な流れがいたることで破られ、奇妙な音がそのまま噴き出してくるような印象を受ける”(232頁)
と書かれている。
具体的には、中間部の頂点におけるインテンポの遵守や、主部の回帰部分での強烈なリタルダンドとそれに伴う第1ヴァイオリンのグリッサンドなどが挙げられている。それは、他の指揮者による演奏ではあまり聴くことのできないものだということだ。
ところが、それはインバルの恣意的な演奏などではなく、作曲者マーラー自身が実際にスコアに記した指示であったということが判明する。マーラーは、「細部の造形に異常にこだわった」のである。

渡辺氏は、そんなマーラーの細部へのこだわりを忠実に再現したインバルの演奏を、「彼は細部の個性・特性を生かすことのために、全体の統一を犠牲にしたのである」と評し、それが「マーラーの音楽がいかに「全体」を無視して細部にこだわるという特質をそなえているかということ」を明らかにしたことで、そんな「もっぱら細部の目立つところだけに耳を傾けるような聴き方、万華鏡のごとくに眼前に展開される音の絵巻にひたすら身をまかせるような聴き方」をする聴衆、曰く「軽やかな聴衆」を生み出したと結論づける。

ところで、最近のインバル、東京都交響楽団による一連の「マーラー・ツィクルス」の人気はすさまじい。
実は、この「新マーラー・ツィクルス」と銘打たれた一連の演奏会については、今回の第5交響曲が第Ⅰ期の最後を飾る演奏で、第6〜9交響曲が演奏される第Ⅱ期は、今年の11月から来年の3月にかけて演奏される予定になっている。
中でも、第8交響曲は「千人の交響曲」と言われ、大規模な管弦楽と合唱による壮大なスペクタクルのような交響曲で聴く機会もあまりないことから、とりわけ人気が集中することが予想され、チケットは入手至難になることはほぼ確実であった。

そんなことを見越してか、第6〜9交響曲のチケットがすべてセットになった「セット券」なるものがこの18日に発売された。
公演は、東京芸術劇場コンサートホールと、横浜みなとみらいホール(9番だけはさらにサントリーホールでも)で予定されていた。日程を確認してみると、どうやら東京芸術劇場での公演の方が行きやすい(平日に休暇を取らなくてもよい)ように思われた。
というわけで、「芸劇セット」と名付けられた東京芸術劇場での公演セット券を購入することにした。受付は電話か窓口、支払いはカードか現金のみ。電話のみかあ、きっと繋がりにくいんだろうなあと思っていた。
用意されていたセット券は、都響の窓口で40セット、芸術劇場では100セットとのこと。うまく手に入れることができればいいのだけれど、と祈るような気持ちだった。

18日の発売は午前10時。仕事の関係でさすがに10時きっかりに電話はできなかったが、仕事の合間を見ては電話をかけてみた。予想どおり、ずーっとお話中だった。何度も「かけ直し」ボタンを押してみたが、つながらなかった。
あまりにつながらないので、芸術劇場ではなくて都響の窓口にかけてみた。すぐにつながった。発売から1時間ほどたってからである。しかし、「すべて完売です」との返事が返ってきた。
仕方がないので、再び芸術劇場へ電話することにした。何度も挑戦してみたのだが、繋がらなかった。もう諦めて、多少日程的には厳しいところあるが、通い慣れたみなとみらいホールでの「横浜セット」にしようかと考えたが、やはり諦めきれずに電話をかけてみることにした。かけ直しは既に500回超になっていた。
午後3時、ようやくつながった。「すみません、S席A席ともにすべて完売しておりまして、B席のみご用意できますが」とのことであった。ひどく落胆した。「で、席はどのへんですか?」と一応尋ねてみたが、「3階の前から4列目になります」とのことだった。みなとみらいホールの座席が目に浮かんだ。「じゃあ結構です」と電話を切った。

すぐにみなとみらいホールに電話をかけてみた。こちらもなかなか繋がらなかったが、4回ほどかけ直すとつながった。「都響のマーラーのセット券ですが、まだA席とか残っていますか?」と尋ねると、「はい、ございます」とのお返事。最初からこちらにかければよかったと思った。
セット券はコンサート4回分だから、決して安価ではない。事前にセットで購入するメリットとして2割引きという特典が付いている。それでも、4回で2万円超(A席の場合)である。
それがまさに飛ぶように売れていたのである。まるで、人気アイドルグループのチケットのように。
「軽やかな聴衆」によるマーラー人気の凄まじさを実感させられた。

さて、そのインバル、都響による第5交響曲の演奏である。
件の第4楽章「アダージェット」。この演奏を聴けただけでも、わざわざ横浜まで来た甲斐があったと思った。
弦楽器独特の得も言われぬ柔らかな音色は、残念ながらレコードやCDでは再現することができない。特に、自宅の貧弱な音響再生装置では。
その弦楽器による弱音の出だし。どこか異世界から音が「降りてくる」ような始まりだった。
渡辺氏の言うような「奇妙な音が噴き出してくるような」印象はなかったが、目を閉じて聴くと確かに細部にへのこだわりは随所に感じられた。
曲の進行に連れ、ディナーミクとアゴーギクの変化は、それぞれの弦楽器のいかにも細やかな表情の違いとなって表れていた。もちろんそれは、都響弦楽器セクションのアンサンブルの高いレベルを表してもいた。限りなく美しいアダージェットであった。

いい音楽は身体的である。
「万華鏡のごとくに眼前に展開される音の絵巻にひたすら身をまかせるような聴き方」は、まっすぐ身体性へと繋がっている。
それは、ことクラシック音楽に限らず、全ての音楽について言えることなのではないかと思う。

渡辺氏の言う「軽やかな聴衆」は、ともすれば「精神性」を重要視したクラシック音楽の世界に、「身体性」を取り戻したのである。