5月10日(金)

5月12日は、「チェコ国民音楽の父」と呼ばれるベドルジハ・スメタナの命日である。
チェコでは、毎年この日に「プラハの春音楽祭」が開幕する。チェコ・フィルハーモニーがホストとなって、著名な音楽家やオーケストラも招かれ、管弦楽や室内楽の演奏会がおよそ3週間にわたって開かれるのである。

この「プラハの春音楽祭」では、忘れられない演奏会がある。1990年のオープニング・コンサートである。
指揮をしたのは、ラファエル・クーベリック。何と、42年ぶりに祖国の土を踏んでの演奏会であった。

ラファエル・クーベリックは、1941年チェコ生まれ。父親は、世界的ヴァイオリニストであったヤン・クーベリックである。指揮者を志したのは、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターの演奏に感銘を受けてのことであったという。
プラハ音楽院でヴァイオリン、作曲、指揮を学び、卒業すると同年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューする。そのチェコ・フィルの首席指揮者に就任したのが1936年。
記念すべき第1回の「プラハの春音楽祭」が開催されたのは、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団創設50周年にあたる1946年。オープニングに演奏されたスメタナの「わが祖国」を指揮したのは、もちろんクーベリックであった。
しかし大戦終結後の1948年にチェコスロバキアでチェコスロバキア共産党を中心とした政権が成立すると、チェコの共産化に反対したクーベリックは、同年のエディンバラ音楽祭へ参加するために渡英、そのままイギリスへと亡命したのであった。(@Wikipedia)

クーベリックがチェコに戻ってきたのは、1989年11月に、「ビロード革命」と称される民主化革命が共産党の一党支配を倒したからであった。ベルリンの壁崩壊の年である。
このオープニング・コンサートに先立って、クーベリックは1ヶ月前からチェコに入り、父の墓を詣でるなどして、チェコ・フィルとのゲネプロに臨んだとのことである。
かつて首席指揮者を務めたチェコ・フィルの指揮台に、42年ぶりに立ったクーベリックの感慨は、いかばかりであったろう。

この日の演奏は、日本でもFM東京系民放FM各局により日本でも生中継され、大きな話題を呼んだ。
実際にこの演奏会に立ち会った歌崎和彦氏は、その日の感動を以下のように記している。
“5月12日のオープニング・コンサートは、クーベリックとチェコ・フィルにとっても、また会場の美しいスメタナ・ホールをぎっしりと埋めつくしたチェコの人々にとっても、やはり特別のものであったにちがいない。
ファンファーレとともにハヴェル大統領夫妻が入場し、チェコ国歌が演奏されると、クーベリックがまだ祖国を去った時にはまだ生まれていなかったような若い女性までが、感きわまったようにハンカチで目蓋を押さえていたのも印象的だった。そして、そうした感激と興奮を抑えるように固唾を飲んで見守る聴衆に静かに語りかけ、万感の思いを噛みしめるようにじっくりとしたテンポではじまった「ヴィシェフラト(高い城)」の演奏には、クーベリックの長年にわたる望郷の念と、42年ぶりに祖国の土を踏んだ感慨が交差しているように思わずにはいられなかった。”
そんな記念すべき「わが祖国」のライブ演奏を、わたしたちはCDで聴くことができるし、DVDで試聴することもできる。

「わが祖国」は、6つの曲から成るスメタナの連作交響詩である。
1、ヴィシェフラト(高い城)
ヴィシェフラトとは、プラハの南部にある古城のこと。かつてボヘミア国王が居城としていたこともあった城跡で、吟遊詩人がいにしえの王国の栄枯盛衰を歌うという曲である。
2、モルダウ
3、シャールカ
シャールカとは、チェコの伝説に登場する女戦士のことである。恋人に裏切られ、全男性への復讐を誓ったシャールカの戦いが描かれている。
4、ボヘミアの森と草原から
5、ターボル
ターボルとは南ボヘミア州の古い町で、フス派の重要な拠点であった。フス派とは、チェコのヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)信者たちのことである。
6、ブラニーク
ブラニークとは中央ボヘミア州にある山で、ここにはフス派の戦士たちが眠っており、また讃美歌に歌われる聖ヴァーツラフの率いる戦士が眠るという伝説もあるのだそうだ。

さて、クーベリックの演奏である。
実際の演奏会でも、前半の3曲が終わったところで休憩が入るのが通例であるが、前半の3曲は会場の興奮に呑み込まれまいとしているかのような、どちらかと言えば「抑え気味」の演奏である。
でも、やはりチェコに生を享けた血は争えないのであろう、「モルダウ」での農民の踊りの場面や、「シャールカ」での宴会の場面などでは、いかにも「ご当地ソング」を歌うかのような「乗り」が聴ける。当日、会場にいたチェコの聴衆は、思わず踊り出したくなったことであろう。

後半なると、ぐいぐいとクーベリックのドライブが始まる。
前半の「乗り」は、「ボヘミアの森と草原から」の中の、農民たちの収穫の踊りや、喜びの歌でも存分に披露される。
しかし、なんと言っても白眉は最後の2曲である。
フス教徒たちの厳しい戦いを暗示するかのような「ターボル」の冒頭。フス教徒の賛美歌から取られたというモチーフが繰り返されながら、曲は実際の戦いを描写するような音楽となっていく。
その音楽に、クーベリックは亡命後の自身の姿を重ね合わせていたのであろう。鬼気迫る演奏である。

そんな雰囲気は、「ターボル」からアタッカで続く最後の「ブラニーク」に入っても維持されている。だんだん明るさを帯びてくる音楽は、最後のフィナーレに入って金管楽器によって奏される「ヴィシェフラト」のテーマによって最高潮に達する。感動的な演奏である。

この「プラハの春音楽祭」の翌年、クーベリックとチェコ・フィルは来日公演を行った。そのときの演奏がNHKで放映された。録画して何度も視聴した。演奏そのものとしては、前年の「プラハの春音楽祭」でのライブ録音より、演奏の質は高いように思った。「こなれて」いたのである。
このときは、演奏が終わってクーベリックが楽団員を立たせようとしても、楽団員たちがひたすらクーベリックに拍手を贈っていて、立たずにいた場面が印象的だった。いかにクーベリックが楽団員たちから深く尊敬されているかということがよくわかる感動的なシーンであった。

そのクーベリックも、この歴史的な音楽祭から6年後の1996年8月11日にこの世を去った。今は、父と共にチェコのヴィシェフラット民族墓地に眠っている。
きっと、父子ともに、泉下で今年の「プラハの春音楽祭」をさぞや楽しみにしていることであろう。

4月22日(月)

一週間前の今月14日、指揮者のサー・コリン・デイヴィスが亡くなった。

初めてコリン・デイヴィスの演奏を聴いたのは、彼がボストン・シンフォニーを振ったシベリウスの交響曲第5番のレコード(1975年録音)であった。
第1楽章冒頭のホルンの主題提示とそれに続く部分を聴くほどに、もうこんなすばらしい演奏が聴けないかと思うと、やるせない寂しさで思わず胸が塞がる思いにさせられる。

コリン・デイヴィスは、1927年9月25日 生まれのイギリスの指揮者である。
“生まれた家が貧しく、指揮者になるためのピアノを買うお金がなくて、まず一番安い楽器のクラリネットから始める。王立音楽大学で更にクラリネットを学ぶが、ピアノの演奏能力の欠如を理由に指揮法の履修は禁じられていた。しかし、同級生とカルマー管弦楽団を結成し、しばしば指揮を執っていた。
1950年代後半からBBCスコティッシュ交響楽団を指揮する。1959年に病身のオットー・クレンペラーの代理でモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を指揮して一躍名声を馳せる。(…)
1960年代は、サドラーズ・ウェルズ・オペラやロンドン交響楽団、BBC交響楽団を指揮。1971年には、ゲオルグ・ショルティの後任として、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の首席指揮者に就任。1986年までそのポストを務める。この間、ボストン交響楽団の首席客演指揮者も務め、シベリウスの交響曲全集・管弦楽曲選集を録音した。
1977年には、イギリス人指揮者として初めてバイロイト音楽祭に出演。
1980年にナイトに叙される。その後は、バイエルン放送交響楽団首席指揮者、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団名誉指揮者などを歴任し、1995年に母国イギリスのロンドン交響楽団首席指揮者に就任した。
”(@Wikipedia)

そのシベリウスの交響曲第5番。
シベリウス生誕50年の年に祝賀演奏会が行われることになり、その演奏会で初演される交響曲として作曲された3楽章から成る交響曲は、シベリウス自身が散歩の途中で、近づいてくる春の気配にこの交響曲のインスピレーションを得たことを書き記しているほどで、全体的に明るいトーンが支配的である。
また、シベリウス自身が喉の腫瘍の手術から回復して、死の恐怖から解放された喜びが表現されているとも言われている。

第1楽章は、速さの異なる二つの部分(前半はモルト・モデラート、後半はアレグロ・モデラート)から構成されている。形式面でも、前半はソナタ形式、後半がスケルツォとなっている。これは、初稿の段階では二つの楽章となっていたものが、改訂されて融合されたとのことである。冒頭のホルンのソロが、曲全体の明るさを象徴している。
第2楽章は変奏曲である。弦のピチカートで奏される美しい旋律が、都合6回変奏される。
第3楽章は、二つの主題に、ホルンが奏する鐘の音のようなモチーフが加わってのフィナーレ。最後は、休符を置いた6つの和音が力強く連打されて曲を閉じる。

コリン・デイヴィス指揮のこの第5交響曲の演奏を何度か聴くうちに、曲の途中で聞こえてくるノイズのようなものは、どうやら指揮者が発しているらしいということに気がついた。コリン・デイヴィスは、曲の途中で唸っていたのだ。
これは、指揮者にはよくあることらしい。つまり、実際に自身が鼻唄を歌うようにしながら指揮しているというものである。
例えば第1楽章、ソナタ形式の展開部に入ってすぐ、弦楽器が第2主題を奏するところで。また、展開部後半、弦楽器が長き引き伸ばした旋律をユニゾンで弾くところで。
第2楽章では、第3変奏で弦楽器が主題を弾くところで。
第3楽章では、第2主題が弦楽器群に引き継がれるところで。

指揮者が、その曲の感情移入してしまって、我を忘れて指揮をするというのは、曲全体を統括するという役目を負っていることを考えれば、あまり褒められたことではないのかもしれない。あくまで、スコアに表現されていることが忠実に再現されているのかを監督するのが、指揮者の大切な役目の一つだからだ。
でも、指揮者が曲に感情移入できなくて、どうして100人もの人数で構成されるオーケストラの団員に、熱い演奏をさせることができよう。まるでコンピュータが管理しているかのような、杓子定規の演奏というのは、概ね聴衆に感動をもたらすことができない。

指揮者が、「ここはこうして演奏してほしい!」というメッセージを伝えるからこそ、楽団員はそんな指揮者の思いを表現しようとするのではないか。
そうして、指揮者とオーケストラとが一体となって熱い演奏を繰り広げるとき、それを聴いていた聴衆は、曲そのもののすばらしさと、演奏者たちのすばらしさを同時に感じ取ることができ、そのことが深い感動につながっていくのではないか。
機械ではなく、人間が演奏するというのは、そんな意義を持っているのだと思う。

確かに、「笛吹けども踊らず」ということわざがあるように、ただ指揮者一人が舞い上がってしまって、逆に演奏者たちが冷めてしまっていては、感動的な演奏などできるはずはない。感動的どころか、演奏そのものが崩壊してしまうことだってある。
指揮者の難しいところは、そんなところでもある。ただ機械的に演奏するわけにはいかない、かと言って、自分一人だけ全体から浮き上がってしまうわけにもいかない。
でも、それをきちんとやれる指揮者こそが、所謂マエストロと言われる指揮者たちである。

コリン・デイヴィスは、まちがいなく、そんな「マエストロ」の一人であった。彼が唸り声を挙げているところでは、特に弦楽器群が得も言われぬ音色を奏でているのである。つまりは、楽団員たちの心を燃え上がらせているのである。

もう一つ、サー・コリンのすばらしさを挙げておきたい。
それは、スコアに表現されている音符の一つ一つが、とても大切に扱われているということである。まるで、「スコアには無駄な音など一つとして書かれていないのです」とでも言っているかのように。
このシベリウスの第5交響曲で言えば、全体的にメロディーラインと伴奏の区別があまりはっきりと付けられていないように聞こえること。例えば、第3楽章では、弦楽器のトレモロの伴奏に木管楽器が旋律を吹くところがあるのだが、次には弦楽器の伴奏の音形が旋律に変わってゆくところなど、どちらが旋律でどちらが伴奏なのか判然としない。どちらも、とても「よく聞こえる」のである。
でも、それが「交響的」ということなのではないか。いろんな音が混ざり合って聞こえることこそが、交響曲の交響曲たる所以なのである。

自然の中では、いろいろな音が聞こえる。
この第5交響曲にも、明らかに自然の音を模倣したと思わるパッセージが随所に聞ける。
例えば、第1楽章で頻繁に鳴らされるティンパニは遠くで鳴っている雷のようだし、第3楽章で弱音器を付けた弦楽器のトレモロは、明らかに凍った北の大地を吹き渡る風の音に聞こえる。
演奏の成果は、それらが遠雷や風の音に聞こえるかどうかだ。
サー・コリンの演奏では、それらの音が正しくそのとおりに聞こえるのである。

シベリウスの第5交響曲は、最後に休符を挟んで6つの和音が連打されて終わる。サー・コリンのレコードでは、その一つ一つの和音が聴こえる前に、たぶん体全体を使ってその和音を紡ぎ出そうとしているサー・コリンの、指揮台を踏み鳴らす音が聞こえる。
それは、まるで音楽の神ミューズに、サー・コリンが全身全霊を捧げているかのようだ。

そのミューズの御許にサー・コリン・デイヴィスは召された。
すばらしい指揮者だった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

4月15日(月)

かつては、日曜の夜9時からNHK Eテレにて放送されていた「N響アワー」をよく視聴していた。
NHKの女性アナ(または女優)と作曲家の組み合わせで、管弦楽曲を中心とした様々な曲が、作曲家の解説とともに、基本的にはNHK交響楽団の演奏で紹介されるという番組であった。
調べてみると、この番組はなんと1980年から2012年まで、32年の長きにわたって放送されていた長寿番組なのであった。

その「N響アワー」が昨年の3月末に終了した。後の番組は、どうも司会者たちのおしゃべりばかりが目立ち、演奏中心の番組ではなくなってしまったような感じがして、最初の一、二回を見ただけで視聴しなくなってしまっていた。

それが、この4月から、同時間帯で「クラシック音楽館」なる番組が放送されるようになったのである。放送時間枠も従来の倍の2時間に増やし、解説は極力少なめにして、曲目中心の番組に変わったのである。
放送時間枠が拡大されたことで、長い曲もカットされることなく放送されるようになったし、実際の演奏会でのプログラムほとんどそのままに再現してくれることで、まるで演奏会場にいるような感じを味わえることが何よりうれしい。

第1回は、デーヴィッド・ジンマンの指揮で、シェーンベルクの「浄夜」、エレーヌ・グリモーのピアノでブラームスのピアノ協奏曲第2番、第2回では、バーンスタインの交響曲第2番が放送された。
バーンスタインとは、もちろんレナード・バーンスタインのことである。指揮者として著名であることは言うまでもないが、作曲者としてもミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」や「キャンディード」などの曲で人気を博した。

そのバーンスタインの第2交響曲。「不安の時代」と題されるこのシンフォニーを指揮したのは、若き新鋭ジョン・アクセルロッド。いずれは、世界のメジャー・オーケストラの音楽監督になるであることを予感させられたほどの、すばらしい指揮ぶりであった。
こうやって、新しい指揮者や聴いたことのない曲の演奏に触れることができるのも、この番組のよいところである。

さて、バーンスタインの交響曲のことである。
今回演奏された第2番もそうだが、実はバーンスタインの3つの交響曲は、残念ながらミュージカルほどには知られていない。
3曲とも表題が付されているが、一つには、それらがあまりにユダヤ教の宗教的色彩を帯びていることや、取り上げられているテクストが難解なイメージを与えることなどが、演奏機会の寡少につながっているのであろうか。
確かに、そういう意味では、2番と3番の交響曲はやや玄人好みのような印象もあるのだが、第1番はそんなことはない。
今までバーンスタインの交響曲を聴いたことがないという方は、まずその第1交響曲を聴いてみてほしい。

バーンスタインの「エレミヤ」と命名された最初の交響曲は、彼が24歳の時に完成された。作曲家としてのデビュー曲である。全3楽章から構成され、最後の第3楽章にはソプラノの独唱が加わる。
表題の『エレミヤ」とは、旧約聖書の『エレミヤ書』に登場する古代ユダヤの預言者のことである。
この曲について、バーンスタイン自身はインタビューに次のように答えている。
“『エレミア』では、ひとりの人間のドラマが繰り広げられます。彼は、自分の生きる社会の頽廃や堕落を悟り、自分の民族を、彼らが陥ってしまった道徳の崩壊から救い出そうとします。けれども、その人間はたったひとりで、絶望しているのです。”(バーンスタイン、カスティリオーネ『バーンスタイン 音楽を生きる』青土社)

紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半、エレミヤのユダ王国は、台頭してきたバビロニアの勢いに恐れをなしていた。そこで、ユダ国王はエジプトと手を結んで自国の生き残りを図り、だんだんとエホバへの信仰も失っていった。このとき王を諌めたのがエレミヤであった。しかし、王はむしろエレミヤ疎んじて殺そうとしたため、彼は身を隠した。
それからしばらくしてバビロニアがユダ王国に侵攻、王国は滅んだ。多くの捕虜がバビロンの都に連れて行かれた(バビロンの虜囚)。エレミヤはこれを神罰だと叫び、今こそ信仰を取り戻して正しい生活を送る時だと説いた。しかし、誰もエレミヤの言葉に耳を貸す者はなかった。
混迷の時代にひたすら正しい道を説いた生涯であった。

曲は、そんなエレミヤの生涯を、「予言」、「冒涜」、「哀歌」の3楽章で象徴的に表現する。
第1楽章:「予言」
音楽は、エレミヤの将来への不安を象徴するようなホルンのソロで始まり、そのテーマが弦楽器群に受け継がれる。そのテーマに合いの手のように入る金管楽器の印象的な8分音符の連打。エレミヤが自らの予言への確信を強めているかのようである。
しかし、いくらエレミヤが説こうとも、耳を貸そうとしない民衆たち。どうしようもない悲しみに沈むエレミヤの姿が、美しくも悲痛な音楽で綴られる。
最後は、低弦の不気味なフェルマータ。まるで予言の成就を思わせるかのようである。

第2楽章:「冒涜」
表題からすると、異教の神を崇め奉る民衆の姿が描かれているか。そんな異教の神を讃えて踊る人々。ないがしろにされるエホバ。こんなことをしてはいけないと説くエレミヤ。しかし、エレミヤの声は異教の神に熱狂する人々にかき消される。
後のバーンスタインのリズミカルな音楽を予感させる楽章である。

第3楽章:「哀歌」
旧約聖書の「エレミヤ哀歌」からの歌詞によるメゾ・ソプラノ独唱で始まる。
自らの予言が成就し、バビロニアに侵攻され、荒れ果てた故国を前に、為す術がなかった自身の無力さを嘆くエレミヤ。
「エホバよ、願わくば我らをして汝にかえしたまえ」というエレミヤの絶望が歌われる。
しかし、音楽は、そんなエレミヤの生涯が未来に多くの共感を呼ぶことを暗示して終わる。

自らの信じることが、世になかなか実現されないと託つ人も多かろう。
どうしてこんな為政者の元に生まれてしまったのかと、自らの不条理を嘆く人もいよう。
エレミヤの生涯は、今に生きるそんな人たちの大いなる励ましとなるのではないか。バーンスタインのそんな確信が、この第1交響曲から聴こえてくるような気がする。

演奏は、もちろん作曲者でもあるバーンスタインが、手勢であるニューヨーク・フィルを指揮して自作自演したもの(1961年)。メゾ・ソプラノ独唱はジェニー・トゥーレル。思いのこもった感動的な演奏である。
バーンスタインとニューヨーク・フィルの60年代の録音群は、このコンビにおける一つの頂点を極めているとの印象で、個人的にもたいそう好きなのである。

4月9日(火)

今日は矢代秋雄の命日である。

矢代秋雄(1929年9月10日~1976年4月9日)は、昭和の日本を代表する作曲家である。
“若い頃より英才として将来を期待され、東京音楽学校作曲科、東京藝術大学研究科を卒業した後、パリ国立高等音楽院に留学。和声法で一等賞を得る等、優秀な成績を修めて卒業。
晩年は、作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として、後進の指導にあたった。門下より、野田暉行、池辺晋一郎、西村朗など現在の日本を代表する作曲家を輩出している。
完璧主義、寡作主義で知られ、残された作品はどれも完成度が高く、再演も多い。”(@Wikipedia)

寡作主義とのことだが、確かに彼が生涯に作曲したのは全部で26曲。厳しい自己批判によって廃棄された作品が多かったことと、わずか47歳で生涯を閉じたことも与ってのことであろう。
その26曲の内訳は、以下のとおりである。
○交響曲1
○管弦楽曲1
○吹奏楽曲2
○協奏曲3(ピアノ2、チェロ1)
○室内楽曲6
○ピアノ曲11
○歌曲2

今回は、その中からピアノ協奏曲(1967年)を取り上げてみたい。
矢代は、ピアノ協奏曲を2曲作った。最初のピアノ協奏曲は、1948年に金子登指揮、東京音楽学校管弦楽部により初演され、ピアニストの園田高弘に献呈されている。しかし、この曲は生前には出版されなかった。
彼の名を一躍高めたのは、NHKから文部省芸術祭のために委嘱され、1964年から作曲が始められて1967年に完成して初演された2番目のピアノ協奏曲である。

第1楽章。ピアノの独奏で、変拍子の印象的な主題提示から始まる。
第2主題はピアノのアルペジオに乗ってフルートが奏する。この第2主題が提示された後のピアノのモノローグは印象的である。そのモノローグをオーケストラが受け継いでクライマックスを作ると、ピアノのカデンツァが入ってくる。
展開部は、提示部の主題が変奏されながら緊張感のある雰囲気が醸し出される。その緊張感を維持しつつ、冒頭の第1主題が再現され第1楽章が終わる。

第2楽章。雨だれのようなハ音のオスティナート。このオスティナートがこの楽章を最後まで支配する。それはまるで、何かが近づいてくる足音のようでもある。
だんだんとクレシェンドしながら「それ」は近づいてくる。何かのイメージが浮かぶような気もするのだが、それはとりとめのないイメージである。何だろうと思っているうちに、「それ」は遠ざかってゆく。

第3楽章。ピアノの動きのあるパッセージによって始まり、その楽想が自由に変奏されながらオーケストラにも受け継がれて曲が進行する。時折り、第1楽章冒頭主題が思い出したかのように顔を出す。
さらに動きのあるパッセージは変奏され、オーケストラと掛け合いながらクライマックスを作って曲が閉じられる。

この曲を聴いたことのない人に、誰が作曲したのかと問えば、バルトークやストラヴィンスキーなどの名前が挙げる人もいるかもしれない。それほどに(そうした偉大な作曲家の作品と見紛うほどに)、このピアノ協奏曲は佳曲である。
まず、曲の始まりに聴ける主題が印象的である。これは、名曲となり得る第一の条件と言ってもよいであろう。
それから、構成が緻密である。「次は?」と思わず耳を澄ませて続く楽想を聴きたくなるのである。これは、曲を繰り返し聴くことにつながるし、その繰り返しに耐えるものを担保している。
さらには、第2楽章の繰り返されるオスティナートのように、思い切った手法が使われていること。これは、意表をつくという目的で使用されれば陳腐に堕するが、必要に迫られての使用は深い印象を残す。このオスティナートは、正しく後者である。

とりわけ日本風の旋律を使用したというわけでもない。日本の伝統楽器を使っているわけでもない。むしろ、矢代はそういうことを意図的に避けたのではないか。「いかにも日本的」などという賛辞は、彼には必要なかったのだ。
彼はただ、自分が好きで好きでたまらない、そこから多くの恩恵を受けたであろう西洋古典音楽の作曲技法に忠実に則って、その歴史と伝統を受け継ぐ作品を作りたかったのだ。「日本的」などというレッテルは、逆に貼ってほしくはなかったに違いない。それは、このピアノ協奏曲が、第1楽章はソナタ形式、第3楽章はロンド形式という「枠」の中で書かれていることからも想像される。
例えて言うなら、英語で書かれた小説が好きで好きでたまらない日本人が、実際に英語で小説を書いてみたところ、実際に英語圏で書かれた傑作小説とも肩を並べる程の出来栄えであった、というところであろうか。

演奏は、初演者である中村紘子のピアノ、岩城宏之指揮、N響のレコード。初演の翌年に世田谷区民会館で録音されたものである。
初演の感動をそのままに残した感動的な演奏だが、残響の少ない録音は多少なりとも気になるところである。

もう少しいい録音が聴きたいとCDを検索してみたのだが、残念ながらこれだけの名曲であるのにCDはそう多く発売されてはいない。
あれこれ探しているうちに、NAXOSのレーベルから交響曲とのカップリングで出ているものを見つけた。さっそくネットで注文して聴いてみた。岡田博美のピアノ、湯浅卓雄指揮、アルスター管による演奏である。当然のことだが、オケが変わると受ける印象も違うものである。初めてこの曲を聴くような感じがして、たいへんに新鮮であった。

このピアノ協奏曲が初演されたのは、西洋音楽を日本人が学び始めてちょうど100年が経過した年である。その1世紀に亘った西洋音楽修得の精華を、矢代秋雄は西洋音楽への満腔の敬意と感謝を込めて作曲した。
そんな日本が世界に誇るべきピアノ協奏曲を、彼の37回忌にじっくりと聴く。

3月30日(土)

桜が満開である。
そんな満開の桜を愛でに外へ繰り出したいところだが、そろそろ終わりを迎えようとしている花粉症もまだまだ気になるところだ。
となると、満開の桜を想像しながら、あるいはニュース番組で各地の桜の様子を見ながら、部屋の中で桜を嘆賞するしかない。

そんな桜を想像しながら聴く音楽は、アーロン・コープランドの「アパラチアの春」だ。
コープランド(1900年11月14日〜1990年12月2日)は、20世紀のアメリカを代表する作曲家の一人である。
“アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られる。指揮や著述、音楽評論にも実績を残した。”(@Wikipedia)とある。
代表作は、「エル・サロン・メヒコ」(1936年)、「ビリー・ザ・キッド」(1938年)、「ロデオ」(1942年)、「アパラチアの春」(1944年)などのバレエ音楽。他に、交響曲(5曲)、協奏曲、室内楽、ピアノ曲、声楽曲、さらには歌劇、映画音楽、吹奏楽曲など数多くの曲を残している。

さて、「アパラチアの春」である。
この曲は、もともと3人編成の室内楽オーケストラのための作品として、振付師でダンサーのマーサ・グレアムの依頼と、エリザベス・クーリッジ夫人の委嘱により作曲された。その後、作曲者自身の手によってオーケストラ用組曲として編曲(1945年)され、広く一般に親しまれるようになった。
バレエ音楽は、1800年代のペンシルベニア州で、アメリカ開拓民達が新しいファームハウスを建てた後の春の祝典の様子を描いている。中心となる人物は、新婚の夫婦、隣人、復興運動の説教者とその信徒たちである。

表題は、初演の直前にマーサ・グレアムが、ハート・クレインの詩の一節である(バレエの物語と直接関係はないが)、『アパラチアの春』という題を提案したことによって付された。
“タイトルはハート・クレインの偉大だが不完全な詩の連作『橋』、とくに「ダンス」のセクションから取られている。
ーおお、アパラチアの春!私は岩棚にたどり着いた
東へと曲がっていく険しく近寄りがたい微笑み
北に向かってはアディロンダック山地の
紫色のくさび形にまで達している…”(アレックス・ロス『20世紀を語る音楽』みすず書房)

コープランド自身は、人々が、まるで彼がアパラチア山脈の美しさを捉えて作曲をしたかのように語りかけてくると、しばしば笑ったという。
そう、この曲はアパラチア山脈の春の美しさを讃えた曲ではないのである。
オーケストラ組曲は、8つの部分から成っていて、それぞれに速度の指示と、いくつかの部分では簡単なコメントが付けられている。
1、非常にゆっくり。
2、アレグロ。
3、モデラート:花嫁とその婚約者。
4、かなり速く:復興運動主義者とその信徒たち。
5、アレグロ:一人で踊る花嫁。
6、メノ・モッソ。
7、穏やかに、流れるように:シェーカー派の主題の変奏曲。
8、モデラート:コーダ。
かように、この曲は、開拓民たちの居住地での新婚夫婦を囲んでの穏やかな日曜日を描いた音楽なのである。

それにしても、表題の力というものは大きい。
表題の経緯を詳しく知らずにこの曲を聴けば、誰しもが「アパラチア山脈の春の美しい風景と、麓に暮らす人々の素朴な生活」を思い描くのではないだろうか。

作曲者がバレエ音楽とは直接関係のない表題を付けたのなら、それを聴く者が自分で自由に連想を膨らませるのも許されるであろう。
そこで、「桜」をテーマに、以下のような連想をしてみる。
1、まだ寒さの残る春三月。春分の日を過ぎてだんだんと気温も上がり、桜の蕾が少しずつ膨らみ始める。
2、各地から桜の便り。暖かくなった春を実感する。桜の開花と同時に、新年度への新たな希望も湧いてくる。
3、花に無情の雨。夜桜を見ながら、咲き始めた花が散りはしないかと心配をする。
4、お花見に。桜の木の下では、お酒も入ってつい踊り出す人も。
5、花を散らす春疾風。春塵を巻き上げる南風。時折り雨も交じる。
6、風雨の収まったあとの静けさ。花が散らずに残った桜の凛としたたたずまい。夕桜の美しさ。
7、しきりに散る花びら。まるで雪のような花吹雪。そんなに急いで散らなくても、という人の気も知らないかのように。水たまりを赤く染める桜蘂。桜はいつしか葉桜に。
8、また来年の春の桜の美しさを想う。

演奏は、こういう曲を振らせたら右に出るものはないと思われるレナード・バーンスタインが、手勢のニューヨーク・フィルを振った旧盤。ロサンジェルス・フィルを振った新盤は未聴だが、きっとすばらしい演奏に違いない。
実際のバレエ音楽では、第7曲にかなり長い移行部があるそうだが、それはスラトキン&セントルイス響の盤で聴ける。こちらも、情感溢れる名演である。

さて、桜もこの週末が見頃である。
花粉症などと言っておらず、外に出て今年の桜を愛でてくることにしようか。

3月10日(日)

先週の土日は娘が帰省していた。日曜日に、家内の勤務する浜松子ども館(遊びを通じた体験と交流機会を提供する施設)で 高校時代の友だちとちょっとしたコンサートを開くとのことであった。
そのため、その友だちと金曜日の夕方からわが家で「合宿」をして、プログラムを練り、披露する曲の練習をしていたのである。

ミニコンサートの聴衆は、主に幼児とその保護者。クラシックの曲ばかりを歌えば、堅苦しい感じになってしまうだろうし、かと言ってできれば本物の歌のよさも感じてほしいところだ。
実際、どんな感じのコンサートになるのか気になって、会場へと足を運んでみることにした。

浜松子ども館へ足を踏み入れるのは、実は初めてであった。さすがに、家内の勤務するところへ行くのは多少なりとも気が引けるものである。
この施設のコンセプトは、「子どもたちが子どもらしさを十分に発揮して、安心して思い切り遊ぶことができる愛情ある環境づくりを目指します。その中で多くの人とかかわりを持ち、社会性や創造性を高めていくことを期待します。なお、未来を担う大事な子どもを育てている親たちが、相互扶助のネットワークを広げ、併せて、子育ての専門的支援を受けながら、子育てを楽しむ環境を醸成します」とある。
浜松駅前のビルの2フロアには、様々な遊びの場が提供されていた。そうして、いろいろな場で子どもたちと保護者がいかにも楽しそうに遊んでいた。

娘たちのミニコンサートは、そんな遊び場の一つ、扉が閉められると防音になるフロアで行われた。
高校の音楽科で声楽を専攻した友だち(イジチさんと言います)が進行役となって、クラシック曲(「オンブラ・マイ・フ」)あり、この日のために制作されたコミカルなオリジナル曲(「チャップリン」)あり、保護者も子どもと一緒になってのアクションありという、歌を中心にけっこう盛り沢山のプログラムが組まれていた。
幼児が対象なので、そんなに長い時間やるわけにはいかない。それでも、ほぼ1時間近く、子どもたちを飽きさせもせず、最後はみんなで「となりのトトロ」と「おかあさん」を歌って、無事にミニコンサートは終了した。

それにしても、一つのジャンルにとらわれないコンサートというものは、なかなかおもしろいものだと実感させられた。
ベースはクラシック音楽であるにしても、そこにミュージカルのような要素が入っていたり、童謡が入っていたり、はたまたリトミックのようなものも取り入れられていたり。
こういうコンサートなら、いろんな人が参加できるし、楽しめる。既成の音楽ジャンルを超えた、コラボレーションの可能性や発展性を感じさせられた。

そんなことをぼんやりと考えていて、ふとFacebookでお気に入りにしているEMI & Virgin Classicsが紹介していた、youtubeの動画のことを思い出した。カール・ジェンキンスの「カンティレーナ」と題された映像である。http://www.youtube.com/watch?v=BU8AOIbS_04
演奏しているのは、コリー・バンドという金管楽器アンサンブルと、カントリオンという男声合唱団それにしても、そのアンサンブルの見事なこと!
コリー・バンドの金管楽器とは思えないほどの柔らかな音色に、カントリオンの男声合唱がいかにもマッチしているのである。

カール・ジェンキンスは、1944年イギリスの南ウェールズ生まれ。かつて、先進的ジャ ズ・ロック・アンサンブル、ソフト・マシーンの一員として活躍し、現在も作曲家、プロデューサーとして幅広く活動している。1990年代に、彼がプロデュースする「アディエマス」のデビューアルバム「ソング・オブ・サンクチュアリ」が世界的にヒットしたことで、広くその名を知られるようになった。
「アディエマス」とは、カール・ジェンキンスが、古くからのバンドメイトで盟友でもあるマイク・ラトリッジと共に結成した前衛クラシック音楽ユニットのことで、架空の言語「アディエマス語」でのコーラスをその特徴としている。

さっそく、その「カンティレーナ」が入っているCDアルバム「THIS LAND OF OURS」を買い求めてみた。
聞き知った曲がいくつか入っていた。ドボルザークの「新世界から」の有名な「遠き山に日は落ちて」や、「ダニーボーイ」、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」から「夕べの祈り」などである。
ジェンキンスのオリジナル曲では、「レクイエム」からの「ピエ・イエス」、「The Armed Man」からの「ベネディクトゥス」などが秀逸だった。まるで、フォーレのレクイエムを聴いているような感じで、癒されることこの上ない。

何度かこのアルバムを聴いているうちに、このような一つの音楽ジャンルにとらわれない、いろんなコラボレーションが広まっていくことで、新たな音楽が生み出されていくのではないかということを想像した。
新たな音楽は、新たな聴衆を生み出す。新たな聴衆が生まれることで、より多様なコラボレーションが創り出される。
そんなコラボが広まっていくことで、より多くの音楽プレーヤーたちがそれに参加するようになっていく。

日本には、若くて優秀な音楽演奏者たちがたくさんいる。音大を卒業して、海外にも留学経験のある演奏者たちである。でも、実際に演奏者として生活していける人はごくわずかだ。日々の糧を得るために、ピアノ先生などをしながら口を糊する人たちの方が多かろう。
そんな演奏者たちが活躍できる場がもっとあっていい。

いろんな音楽ジャンルのクロスセッションが、そんな若くて優秀な音楽家たちに演奏機会を提供する場となればいい。そうして、そんなコンサートが広く社会一般にも受け入れられていくことで、スポンサードしてくれる団体や聴衆が出てくるようになれば言うことなしである。

西洋音楽が日本に輸入されてからそろそろ150年。新たな音楽が生まれ出る下地は十分に整えられている。

2月27日(水)

前週の金曜日から3日間、信州白馬村の八方尾根スキー場にてスキーをしていた。
土曜日、朝から夕方まで終日滑って宿に戻り、お風呂に入ってほっとひと息、夕食までの間メールのチェックをしていると、NHKネットクラブから登録しておいた「番組表ウォッチ」メールが入っていた。日曜日の早朝にいつも放送している、BSプレミアム「特選オーケストラ・ライブ」の案内だった。

今回の放送は、昨年12月7日にNHKホールにて行われたN響の第1743回定期公演で、曲目はベルリオーズの「ローマの謝肉祭」序曲、リストのピアノ協奏曲第2番、そうしてメインがレスピーギの「ローマ三部作」(交響詩「ローマの祭り」・「ローマの噴水」・「ローマの松」)であった。ピアノはルイ・ロルティ、シャルル・デュトワの指揮である。
いつもは、興味惹かれる演奏しか録画しないのであるが、ローマ三部作の連続演奏となれば、これはぜひとも録画しておきたい。すぐに家内のところにメールを入れ、BDに録画予約してもらうよう頼んだ。
スキーから帰ってさっそく視聴したが、ローマ三部作は特に「松」と「祭り」が熱演だった。

ローマ三部作はレスピーギの代表作で、どの曲も管弦楽曲中の傑作である。好みはいろいろと別れるであろうが、自分の場合は「ローマの祭り」がいちばんのお気に入りである。
曰く、とにかく派手、ご機嫌なリズム、色彩豊かでいろんな音色が楽しめ、抒情も味わえる、などがその主たる理由である。
作曲された順は、「噴水」(1916年)→「松」(1924年)→「祭り」(1928年)。もちろん、年を経るにしたがって、作曲技法にも円熟味が増していったであろうことは想像に難くない。

その「ローマの祭り」。曲は4つの部分からできているが、実際の演奏では切れ目なしに演奏される。各部には、作曲者による標題と簡単なコメントが付されている。
第1曲「チルチェンセス」
“チルチェンセスとはアヴェ・ネローネ祭ともいい、古代ローマ帝国時代にネロが円形劇場で行った祭で、捕らえられたキリスト教徒たちが衆人環視の中で猛獣に喰い殺される残酷なショーである。咆吼する金管群が飢えた猛獣を、中間部の聖歌が猛獣に襲われるキリスト教徒の祈りを表している。”
標題のとおり、惨劇の雰囲気を伝えるかのような弦楽器群のトゥッティに続いて、バンダのブッキーナ(古いトランペット)がチルチェンセスの始まりを高らかに宣言する。中低音の金管楽器群が、猛獣の不気味な足音を想像させる。聖歌を歌いながら恐れおののくキリスト教徒たち。その歌をかき消すかのように襲いかかる猛獣たち。阿鼻叫喚の地獄絵が映し出される。

第2曲「五十年祭」
“古い賛美歌をモチーフとし、ロマネスク時代の祭(聖年祭)を表している。世界中の巡礼者たちがモンテ・マリオ (Monte Mario) の丘に集まり、「永遠の都・ローマ」を讃え、讃歌を歌う。それに答えて、教会の鐘がなる。”
前曲とは打って変わって、静かな巡礼の足音で始まる。その中の一人が歌い始めた賛美歌は、やがて鐘の音も加わっての大きく盛り上がった讃歌となる。

第3曲「十月祭」
“ローマの城で行われるルネサンス時代の祭がモチーフ。ローマの城がぶどうでおおわれ、狩りの響き、鐘の音、愛の歌に包まれる。やがて夕暮れ時になり、甘美なセレナーデが流れる。”
実りの秋の祭りの始まリを告げるかのようなソロ・ホルンのファンファーレ。弱音器付きのトランペットが合いの手を入れながら、祭りは陽気に盛り上がってくる。いったん静まると、どこからか鈴の音が聞こえ、また別の踊りが始まる。それらが一段落した後は、マンドリンが導く夜曲。ソロ・ヴァイオリンのメロディが哀愁を誘う。そのまま辺りは夜の深い帳に包まれていく。遠ざかる鈴の音…。

第4曲「主顕祭」
“ナヴォーナ広場で行われる主顕祭の前夜祭がモチーフ。踊り狂う人々、手回しオルガン、物売りの声、酔っ払った人などが続く。強烈なサルタレロのリズムが圧倒的に高まり、狂喜乱舞のうちに全曲を終わる。”
クラリネットが祭りの開始を告げる。強烈なリズムに乗って、人々の踊りが始まる。祭りが行われている広場のありとあらゆるものが音で描写される。物売りの声はトランペット、酔っぱらいはトロンボーン。そうして、祭りは最高潮に達する。

演奏は、もちろん初演者(1929年)でもあるトスカニーニとNBC交響楽団によるもの。
1949年~1953年にかけて録音されたモノラル盤であるが、その迫力たるや、いかなすばらしい録音であろうとも他の追随をまったく許さないほどである。
圧巻は終曲の「主顕祭」。特に、練習番号46の4分の4拍子が2分の2拍子に変わるところでは、ほとんどの演奏が、「ストリンジェンド・モルト」というスコアの指示を、「だんだんせき込んで」という意味でとらえているのか、いったんテンポを落としてからだんだんと速めていくのだが、トスカニーニは「きわめて速度を速めて」という意味にとらえているのであろう、インテンポのままどんどんとスピードアップしていく。それが、いかにも歯切れのいいリズムと迫力を作り出して、クライマックスへと雪崩れ込む。思わず、快哉を叫びたくなるような演奏なのである。

この「ローマの祭り」が完成した1928年は、イタリアで王国議会が解散させられ、政治権力がムッソリーニに集中して独裁体制が確立された年である。そんな政治的な背景から、まるで「ビバ!イタリアーノ」と叫んでいるようにも聴こえるこの作品を、「ファシズムの台頭がもたらした芸術家のイタリア礼賛と無縁ではないとみなされることもある」(@Wikipedia)そうだが、それはいかにも眇めというものではなかろうか。

レスピーギの大きな功績の一つとして、17世紀とその前後のイタリア音楽に対する熱心な研究・調査から、モンテヴェルディやヴィヴァルディの作品を校訂して出版したことが挙げられる。それらの研究は、例えば「リュートのための古代舞曲とアリア」という管弦楽曲などとして結実した。自らの私利私欲や、権力欲を満足させるためにこれらの研究・作曲を行ったわけではないのだ。
レスピーギの作品が、結果としてファシスト政権に好評だったとしても、それは彼の作品群が多くのイタリア人の心の琴線に深く触れるものがあったからなのである。

レスピーギの死後わずか10年も経ずしてファシスト政権は崩壊した。
しかし、レスピーギの作品は、現代に至るまで世界中の人々に愛され、演奏され続けている。イタリア人の心を揺り動かした音楽は、その後、世界中の人々を魅了したのである。
いい音楽とは、そういうものなのだと思う。

2月4日(月)

今日は立春。暦の上では今日から春になった。
とは言え、まだまだ寒い日が続くし、本格的に春になったことが実感できるのは、1ヶ月以上先の3月中旬以降になってからである。
そんな、まだ寒い中での春の訪れを描いた曲と言えば、「ロシアの暴虐な春、それはたちまちにして起こり、あたかも大地全体がバリバリと音をたててくだけるようである」と作曲者自身が書いた曲、ストラヴィンスキーの「春の祭典」である。

「春の祭典」は、当時ロシアにおける「芸術プロデューサー」のような役割を果たしていた、ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のために作曲されたバレエ音楽である。
ディアギレフは、バレエ・リュスに多くの芸術家を動員し、「総合芸術としてのバレエ」という、これまでになかった芸術スタイルを確立した。
動員された芸術家としては、フォーキン、ニジンスキー、マシーン、ニジンスカ、バランシンらの振付師、ストラヴィンスキーのほかに、ラヴェル、ドビュッシー、プロコフィエフ、サティ、 レスピーギ、 プーランクらの作曲家、そうして、舞台美術を手がけたピカソ、マティス、ローランサン、ミロなどの画家たちが挙げられる。錚々たるメンバーである。当時の最先端をゆく芸術家たちばかりが集められたと言ってよいだろう。

そんな流れの中で「春の祭典」は生み出された。初演は、バレエ・リュスが結成されてから2年後の1913年。今からちょうど100年前(大正2年)のことである。
上演は、パリのシャンゼリゼ劇場。ピエール・モントゥーの指揮、振付け担当はニジンスキーであった。
このニジンスキーの振付けがまた変わっていた。それまでのクラシック・バレエでは考えられなかった、足を内股にし、頭を曲げるという振付けだったのである。しかし、この振付けがまさに20世紀バレエの扉を開くことになった。

変わっていたのは振付けだけではない。音楽も、強烈な変拍子のリズムと不協和音が連続して、当時の聴衆からすれば、まるで騒音のように聴こえたのではないかと想像される音楽だったのである。
そんな従来のバレエやクラシック音楽の常識を覆すような上演であったから、初演時は大混乱であった。
“曲が始まると、嘲笑の声が上がり始めた。野次がひどくなるにつれ、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、殴り合りあい、野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなくなり、ついにはニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどであった。
ディアギレフは照明の点滅を指示し、劇場オーナーのアストゥリュクが観客に対して「とにかく最後まで聴いて下さい」と叫んだほどだった。
サン=サーンスは冒頭を聞いた段階で「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」といって席を立ったと伝えられる。ストラヴィンスキーは自伝の中で「不愉快極まる示威は次第に高くなり、やがて恐るべき喧騒に発展した」と回顧している。”(@Wikipedia)

曲は2部構成で、それぞれ「大地の讃仰」、「生贄」と題されている。
第1部は、ファゴットの高音域のソロによる「序奏」から始まる。春の喜びを表現するというよりは、何か神秘的なことが始めることを予感させるような音色だ。
序奏に続く「春の兆しと若い娘の踊り」では、弦楽器の足踏みするような8分音符が刻まれる。アクセントが2拍→3拍→4拍と変化して付けられる有名な部分である。
激しい「誘拐遊戯」を経て、静かな「春のロンド」へ。美しいロンドも途中激しく盛り上がってはまた静まり、「競い合う部族の戯れ」の場面に移る。低音弦の唸るような伴奏に乗せてホルンを中心とする金管楽器群が咆哮する。「賢者の行列」が静かに入場して大地への祈りを捧げると、最後はその大地を礼賛する「大地の踊り」で終わる。

第2部は、静かな序奏で始まる。神秘的で美しい「若い娘たちの集い」を経て、激しい4分の11拍子に続いて「選ばれた乙女」の踊りが始まる。1小節ごとに拍子が変化する印象的な場面である。
神秘的な「祖先への呼びかけ」と「儀式的行為」が終わって、最後の「いけにえの踊り」。3/16拍子、フェルマータ休符、2/16、3/16、3/16、2/8、2/16と、目まぐるしく拍子が入れ替わって、最後に生贄は息絶える。

初めてこの曲を聴いたのは、ピエール・ブーレーズ指揮、クリーブランド管弦楽団によるレコードだった。いかにも精密な演奏の中に、静かな抒情も感じさせられるすばらしい演奏であった。
第2部の変拍子がどうなっているのか知りたくて、オーケストラスコアも購入した。ブージー・アンド・ホーク社のポケットスコアシリーズの中の一冊(輸入版)である。
自分が指揮しろと言われたら、どうやって指揮するのだろうと思いながらスコアを眺めていたが、とてもこのような楽譜の指揮はできないと絶望的になるようなスコアだった。
一説によると、作曲者ストラヴィンスキーは、自身がこの曲を指揮する際には、単純に2拍子で指揮をしていたとのことであるが、はたして真実はどうだったのであろうか。
いずれにしても、このスコアを小澤征爾などは暗譜で指揮するとのこと。マエストロとは、そういう人たちのことなのである。

「春の祭典」と言えば、映画「RHYTHM IS IT」(邦題、「ベルリン・フィルと子どもたち」)のことも忘れられない。子どもたちにもっとクラシック音楽のよさを感じてほしいと、サイモン・ラトルの呼びかけによって発足した教育プロジェクト(2003年)を追ったドキュメンタリー映画である。
出身国、社会階層の異なる8歳から20歳代前半の子どもたち250人が、ベルリン・フィルの演奏をバックに、「春の祭典」の踊りに挑む。
振り付けを担当したのは、ロイストン・マルドゥーム。物珍しさに参加した踊りの素人である若者たちを、まずは私語を慎むことから教え、悪戦苦闘の末に、何とか4週間で舞台に載せようとする。その過程で、何かと斜に構えていた若者たちが確実に変わっていく。
最後の本番の舞台は感動的である。「音楽にできるのは、人々を分断するでなく、結びつけることだ」というサイモン・ラトルの言葉が心に残る。

「春の祭典」の初演から100年。一世紀を経た今でも、「春の祭典」はその新しさをまるで失ってはいない。

1月20日(日)

あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、今年に入ってから読んでいる『聴衆の誕生』(渡辺裕、中公文庫)が、とてもいい。
現在のクラシック音楽文化について社会学的な分析を試みた論考であるが、その視野の広さと視点の確かさにはひどく感心させられた。

今日もその続きを読んでいたのだが、第Ⅳ章まで読み進むと、マーラーのことが書かれていた(「マーラーの流行」)。現在のマーラー・ブームの原因を、「マーラーの音楽自体のありようを手がかりとし、現代においてそのどのような側面がクローズ・アップされているかを見てみる」ことによって、聴衆たちの聴き方がどのように変容していったのかということが論じられていた。
例として取り上げられていたのは、エリアフ・インバルによるマーラーの第5交響曲の第4楽章、有名な「アダージェット」の演奏についてである。

実は、昨日は横浜まで出向いて、そのインバル・都響のコンビによるマーラーの第5交響曲を聴いてきたばかりだったのである。何というシンクロニシティであろうか。

インバルによる「アダージェット」について、著者である渡辺氏は、
“インバルの演奏を聴くと、静かに始まりだんだんと高揚し、また静寂に戻ってゆくという伝統的な流れがいたることで破られ、奇妙な音がそのまま噴き出してくるような印象を受ける”(232頁)
と書かれている。
具体的には、中間部の頂点におけるインテンポの遵守や、主部の回帰部分での強烈なリタルダンドとそれに伴う第1ヴァイオリンのグリッサンドなどが挙げられている。それは、他の指揮者による演奏ではあまり聴くことのできないものだということだ。
ところが、それはインバルの恣意的な演奏などではなく、作曲者マーラー自身が実際にスコアに記した指示であったということが判明する。マーラーは、「細部の造形に異常にこだわった」のである。

渡辺氏は、そんなマーラーの細部へのこだわりを忠実に再現したインバルの演奏を、「彼は細部の個性・特性を生かすことのために、全体の統一を犠牲にしたのである」と評し、それが「マーラーの音楽がいかに「全体」を無視して細部にこだわるという特質をそなえているかということ」を明らかにしたことで、そんな「もっぱら細部の目立つところだけに耳を傾けるような聴き方、万華鏡のごとくに眼前に展開される音の絵巻にひたすら身をまかせるような聴き方」をする聴衆、曰く「軽やかな聴衆」を生み出したと結論づける。

ところで、最近のインバル、東京都交響楽団による一連の「マーラー・ツィクルス」の人気はすさまじい。
実は、この「新マーラー・ツィクルス」と銘打たれた一連の演奏会については、今回の第5交響曲が第Ⅰ期の最後を飾る演奏で、第6〜9交響曲が演奏される第Ⅱ期は、今年の11月から来年の3月にかけて演奏される予定になっている。
中でも、第8交響曲は「千人の交響曲」と言われ、大規模な管弦楽と合唱による壮大なスペクタクルのような交響曲で聴く機会もあまりないことから、とりわけ人気が集中することが予想され、チケットは入手至難になることはほぼ確実であった。

そんなことを見越してか、第6〜9交響曲のチケットがすべてセットになった「セット券」なるものがこの18日に発売された。
公演は、東京芸術劇場コンサートホールと、横浜みなとみらいホール(9番だけはさらにサントリーホールでも)で予定されていた。日程を確認してみると、どうやら東京芸術劇場での公演の方が行きやすい(平日に休暇を取らなくてもよい)ように思われた。
というわけで、「芸劇セット」と名付けられた東京芸術劇場での公演セット券を購入することにした。受付は電話か窓口、支払いはカードか現金のみ。電話のみかあ、きっと繋がりにくいんだろうなあと思っていた。
用意されていたセット券は、都響の窓口で40セット、芸術劇場では100セットとのこと。うまく手に入れることができればいいのだけれど、と祈るような気持ちだった。

18日の発売は午前10時。仕事の関係でさすがに10時きっかりに電話はできなかったが、仕事の合間を見ては電話をかけてみた。予想どおり、ずーっとお話中だった。何度も「かけ直し」ボタンを押してみたが、つながらなかった。
あまりにつながらないので、芸術劇場ではなくて都響の窓口にかけてみた。すぐにつながった。発売から1時間ほどたってからである。しかし、「すべて完売です」との返事が返ってきた。
仕方がないので、再び芸術劇場へ電話することにした。何度も挑戦してみたのだが、繋がらなかった。もう諦めて、多少日程的には厳しいところあるが、通い慣れたみなとみらいホールでの「横浜セット」にしようかと考えたが、やはり諦めきれずに電話をかけてみることにした。かけ直しは既に500回超になっていた。
午後3時、ようやくつながった。「すみません、S席A席ともにすべて完売しておりまして、B席のみご用意できますが」とのことであった。ひどく落胆した。「で、席はどのへんですか?」と一応尋ねてみたが、「3階の前から4列目になります」とのことだった。みなとみらいホールの座席が目に浮かんだ。「じゃあ結構です」と電話を切った。

すぐにみなとみらいホールに電話をかけてみた。こちらもなかなか繋がらなかったが、4回ほどかけ直すとつながった。「都響のマーラーのセット券ですが、まだA席とか残っていますか?」と尋ねると、「はい、ございます」とのお返事。最初からこちらにかければよかったと思った。
セット券はコンサート4回分だから、決して安価ではない。事前にセットで購入するメリットとして2割引きという特典が付いている。それでも、4回で2万円超(A席の場合)である。
それがまさに飛ぶように売れていたのである。まるで、人気アイドルグループのチケットのように。
「軽やかな聴衆」によるマーラー人気の凄まじさを実感させられた。

さて、そのインバル、都響による第5交響曲の演奏である。
件の第4楽章「アダージェット」。この演奏を聴けただけでも、わざわざ横浜まで来た甲斐があったと思った。
弦楽器独特の得も言われぬ柔らかな音色は、残念ながらレコードやCDでは再現することができない。特に、自宅の貧弱な音響再生装置では。
その弦楽器による弱音の出だし。どこか異世界から音が「降りてくる」ような始まりだった。
渡辺氏の言うような「奇妙な音が噴き出してくるような」印象はなかったが、目を閉じて聴くと確かに細部にへのこだわりは随所に感じられた。
曲の進行に連れ、ディナーミクとアゴーギクの変化は、それぞれの弦楽器のいかにも細やかな表情の違いとなって表れていた。もちろんそれは、都響弦楽器セクションのアンサンブルの高いレベルを表してもいた。限りなく美しいアダージェットであった。

いい音楽は身体的である。
「万華鏡のごとくに眼前に展開される音の絵巻にひたすら身をまかせるような聴き方」は、まっすぐ身体性へと繋がっている。
それは、ことクラシック音楽に限らず、全ての音楽について言えることなのではないかと思う。

渡辺氏の言う「軽やかな聴衆」は、ともすれば「精神性」を重要視したクラシック音楽の世界に、「身体性」を取り戻したのである。

12月31日(月)

2012年の10大ニュースです。

1)旅行
今年もいろんな所へ行った。
1月は家族で四国の丸亀へ。守さん主催のTFT講習会参加のためである。途中、神戸に前泊して「燕京」にて美味しい中華をいただいた。丸亀では、守さんにたいへんな歓待をしていただいた。
3月は熱海の梅園と河津桜を見物。梅と桜がいっぺんに見られるという贅沢な旅であった。
5月は西伊豆岩地の大漁祭りへ。カツオのなますは、ほんとうにおいしかった。
7月は大阪天神祭へ。「西成の叔父貴」ことホリノさんのご案内で、初めての大阪天神祭を見学。そのあまりの人出に圧倒された。昼は、サニーくんのご案内でお好み焼きを、夜はホリノさん、奈良のオーヤマ先生ご夫妻と焼肉。初物尽くしの旅だった。
10月は西伊豆の雲見温泉海賊料理まつりへ。伊豆の山中で突然プリウスが動かなくなった。JAFに連絡したら、車はそのまま浜松に回送するとのこと。とりあえず雲見まではバスで。帰りは、「救世主」スガイ先生に新富士駅まで送っていただいた。感謝してもしきれません。
11月は、スガイくんとアメフトの立命戦観戦後、京都へと移動して紅葉を見物。夜の永観堂のライトアップには感動。翌日は雨の紅葉見物となったが、それもいい思い出になった。

2)合気道の昇段審査
いつもにもまして合気道の稽古に熱が入った年だった。11月に昇段審査があったためである。
昇段審査は約40分。最後まで体が動くか心配だったが、何とか審査を終えることができた。
最近は、週に一度は稽古着を着けないと何かヘンな感じがするほどである。

3)インバル、都響のマーラー
3月、サントリーホールにて「大地の歌」、9月と10月は、横浜みなとみらいホールにて、それぞれ第2番「復活」と3番。どの演奏も深く心に沁みる演奏であった。
3月は、少し早めに行って両国界隈を散策した。柳橋とか見ることができて感動した。コンサートの翌日は築地にて海鮮丼を賞味。
インバルではないが、7月には「名古屋マーラー音楽祭」の最後を飾る8番も聴きに行った。アマオケによる演奏であったが、なかなかの演奏を聴かせてくれた。

4)オーサコくんとカンキくんの華燭の宴へ
4月はオーサコくん、12月はカンキくんの華燭の宴へ。
特にオーサコくんの結婚式では、仏前結婚式というものを初めて見た。内田先生をはじめ、本部のいろいろな方とお会いでき、ほんとうに楽しいひとときを過ごすことができた。本部の人たちと一緒になると、あまりに楽しくて、つい飲み過ぎてしまうのであった。

5)iPhone5
11月、iPhone5に機種変更した。iPhone5は、4に比べて軽いし速いし、快適そのもの。
ついでに、自宅の初代インテルmac miniがあまりに虹色風車頻発のため、最新のCore i7搭載モデルを購入。こちらも、サクサクそのもの。ネット環境は、モバイルを含めて劇的に改善された。

6)K.G.Fightersの応援
11月、関西学生アメリカンフットボールリーグ最終戦の立命戦へ。何とシャットアウトでリーグ優勝を決めてくれた。
12月の甲子園ボウルでは、法政大トマホークスと熾烈な勝負を繰り広げ、試合終了まで残り4分を切ってからの逆転劇を見せてもらった。最後のフィールドゴールは、手を合わせて祈っていた。すばらしい試合だった。
いよいよ年明けはライスボウルである。

7)鏑射寺の護摩行
守さんのオススメもあって、夏休みの終わり、ぜひ例祭に参加してみようということになった。
鏑射寺は、静かでとても居心地のいいところだった。護摩行と法話が終わって、中村山主が参加者全員をお見送りしていたのにも驚いた。機会があれば、またぜひ行きたいと思う。

8)健康診断
指定年齢健診で5年ぶりの人間ドックへ。膵臓のアミラーゼ値が高すぎるとのことで、MRIによる再検査を受けることになった。結果、異常なしだった。ほっとした。
ついでに、今まで受けたことのなかった脳ドックも受診してみることにした。こちらも異常なしだった。健康であることはありがたいことである。

9)スクーターとカメラを買った
なぜか突然、スクーターが欲しくなった。あれこれ健闘の末、ホンダのジョルノの中古を購入することにした。さっそく、浜名湖周辺を走り回ってみた。風が爽快だった。
カメラは、オリンパス・ペンのE-PL2というミラーレス一眼デジカメを購入した。それまで使っていたコンパクトデジカメと違って、雲の色の違いまではっきりくっきり写すことができて感激した。いろんな写真を撮ってみたいと思った。

10)村上春樹にハマった
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文春文庫)を読んで以来、どうしても村上春樹の小説やノンフィクションを読んでみたくなった。
実際読んでみたら、どの本もほとんど一気読みだった。村上春樹のよさを再発見した。

長屋住まいも8年目を迎え、ホリノさんの勧めもあって途中から音楽日記を書くことになった。実際に音楽のことを書いてみると、音楽を言葉で表現することの難しさをいろいろと実感させられた。今後も、自分への挑戦のつもりで音楽のことを書いていきたい。

では、どちらさまもよいお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。