10月29日(火)

今年の全日本吹奏楽コンクールが終わった。
今月の19日には、福岡サンパレスホールにて大学の部が行われ、われらが大学の吹奏楽部が11年ぶりに出場、銀賞を得たとの報告に接した。
現役諸君の健闘と、指導にあたられた方々のご労苦をあらためて労いたいと思う。

もちろん、コンクールであるのだから、最上級の賞を得るに若くはない。
しかし、そのことばかりが目的になってしまうと、勝つためには手段を選ばないという勝利至上主義に囚われてしまい、大切なことが抜け落ちていくような気もする。
そのことについて、少し考えてみたい。

例えば、指揮者のことである。
全日本吹奏楽連盟の規定によれば、指揮者は職業演奏家でも問題はないとのことだ。
ということは、極端な話、小澤征爾氏が指揮をしてもよいということである(しないだろうけど)。一昨年、ベルリン・フィルを指揮した佐渡裕氏が指揮をしてもよい(たぶんしないだろうけど)ということである(実際、佐渡氏は学生時代に京都の高校のブラスバンド部を指揮していたこともある)。
もし、小澤征爾や佐渡裕が大学の吹奏楽部を指揮してコンクールに出場した際、最上級の賞をつけない審査員がはたして何人いるだろう。

全国大会での最上の結果を至上命令としている大学については、さすがに小澤征爾や佐渡裕というわけにはいかないが、それなりに知名度のある職業演奏家なり音楽大学の先生なりを指揮者に迎えて、実際のコンクールもその指揮者に指揮してもらえば全国大会で最上級の賞を得るための近道になる、と考えるのは自然な成り行きであろう。
実際、自分たちの学生時代(1970年代)には、某オーケストラの管楽器奏者が指揮してコンクールに出場している大学は存在した。もちろん、毎年のように連続して最上級の賞である金賞を受賞していた。

でも、それってどうなのだろう。
自分たちが学生の頃は、学生のクラブ活動の世界に大人が介入してきているようで、あまり気持ちがいいものではないと思っていたのだが、その気持は今でも変わっていない。

学生のクラブは、学生が自主的に活動するべきものである。
それでは、演奏も含めて、よりレベルの高い音楽活動ができないという向きもあるだろう。
でも、学生の活動というのはそういうものなのではなかろうか。
要は、何を「学生にとって大切なもの」と考えるかということだ。

学生の自主的な活動で、コンクールに関してならば、
①まず出場するかどうかの話し合いから始めて、出場するのなら何を目標とするかということや、具体的にどのように取り組むかということを話し合う。
②課題曲と自由曲の具体的な選曲はそれからだ。
③曲が決まったら、どう解釈するかを話し合う。曲づくりに関しては、この過程が最も重要と思われる。
④曲の解釈についてのコンセプトが決まったら、コンクールの地区予選に合わせて、具体的な練習計画を練る。
⑤あとは、ひたすら猛練習を積み重ねる。それも時間にゆとりのある学生の特権だからである。
⑥ひとしきり曲が仕上がってきたら、そこでようやく大人の出番だ。「この人なら」という人物に交渉し、実際に自分たちの演奏を聴きに来てもらって、具体的なアドバイスを受ける。
⑦そのアドバイスを受けて、さらに話し合いと練習を積み重ね、曲を仕上げていく。
⑧そうしてコンクールに臨む。もちろん、コンクール当日に指揮をするのは学生である。

結果はどうであれ、こんな取り組みが学生を成長させるのではなかろうか。
あれこれ話しあったり、練習を進めていく過程で、互いにぶつかり合うこともあるだろうし、その取り組みから袂を分かつ者が出てくることもあるだろう。
でも、その過程で、互いのコミュニケーション能力やマネジメント能力を磨いたり、自らの音楽性を高めたりというようなことが修得されていくであろう。
トップダウンで、指導者である大人の言われるがままにハイハイと言うことを聞いているだけでは得られない多くことを、コンクールへの取り組みの中で学んでいくのである。
大人が関わるのであれば、「大切なことは、結果よりも過程である」という、「大人の目」で学生たちの成長を見守ってほしいのである。

吹奏楽コンクール大学の部に限って言うなら、「その大学に在籍する学生が指揮するものとする」という規定を新たに設けてはどうだろうか。
「それなりの大人が指揮すれば、もっといい演奏ができるのに」というような思いを持つ人も多かろうと思われるので、連盟が中心になって、学生指揮者向けに指揮法クリニックを実施するようにしてはどうだろう。大学3年生の時から、連盟が推薦する指導者たちの中から、この人に教えてもらおうという指導者を学生が選び、個人的にレッスンを受けさせるのである。個人負担を減らすために、学生連盟から供託金を拠出して補助するようにしてもよいであろう。
そうやって、学生が自信を持って指揮できるようにするのである。

そんなことを考えながら、久しぶりに吹奏楽のCDを聴いてみた。
「LegendaryⅡ(吹奏楽の伝説)」と題されて、1998年にブレーン社から発売されたシリーズCDの中の一枚、「関西学院大学応援団総部吹奏楽部」の演奏である。
学生指揮でも、これだけすばらしい演奏ができるという好個の例である(もちろん身贔屓である)。

9月11日(水)

8月最後の週末は東京に行っていた。
家内の誕生日に合わせて休暇をもらい、一緒にお台場にある日本科学未来館で開催中の「サンダーバード博」を見に行き(それはほとんど夫の希望だったのであるが)、夜は娘とも合流して家族揃って家内の誕生祝いをしようとの目論見であった。

初めてレインボーブリッジを渡ってお台場へ。お目当ての「サンダーバード博」では、懐かしのメカ類の模型や展示を堪能してその日の宿へ。
宿泊は、お台場のちょうど西向かい、東品川の京浜運河沿いのハートンホテル東品川である。行ってみると、特別に予約したわけではなかったのに、最上階の部屋だった。ちょうど角部屋で景色はよし、家内が喜んでくれたのが何よりであった。

娘は、新宿にある中古クラシックレコード・CDを扱うお店に勤めている。仕事の終わるのが午後8時ということで、少し早めに行って実際にお店を見てみることにした。
ホテルから最寄りの駅はりんかい線の品川シーサイド駅。ここから新宿へは、りんかい線まで乗り入れている埼京線で乗り換えなしで行けることがわかった。そのまま新宿駅で下車、やや迷いつつもiPhoneのナビアプリで、何とかお店に辿り着く。

娘が帰省の度に自慢していたとおり、確かにレコードもCDも品数は豊富であった。あれこれ見ているうちに、「おお、こんなCDが出ているのか」と思わず手に取ったのは、クリストファー・ホワイトなる編曲者兼演奏者による、マーラーの交響曲第10番(デリック・クック編曲の全曲版)のピアノ演奏のCDであった。
せっかく娘の働くお店に来たのだからという気持ちも手伝って、すかさずそのCDを買い求めることにした。

マーラーの交響曲をピアノ演奏したCDは、これまでにも何枚か購入していた。
シルビア・ゼンカーとエヴェリンデ・トレンカーの2手のピアノ・デュオによる6番と7番。
ブリギッテ・ファスベンダー(アルト)とトマス・モーザー(テノール)、シプリアン・カツァリスのピアノによる「大地の歌」である。
ピアノ演奏盤のおもしろいところは、大オーケストラでは聴けない音が聴けることだ。
ピアノ版では、いっぺんにたくさんの音は出せないから、いきおい主要な音に限って編曲がなされるはずである。もちろん、どの音をチョイスするかというのは、編曲者の考えによるところが大きいのであろうが、その編曲者がどの音を曲の構成上主要な音としてとらえたか、というところがたいへんに興味深いところなのである。時に「おお、この場面はこの音だったのか」という発見をすることもあるのだ。

東京から帰って、件のCDを何度か繰り返し聴いてみたが、やはり何箇所か「新たな発見」があった。
例えば、第4楽章の終結部での打楽器群の音。こんな音程だったのかと、やや意外な感じであった。さらには、最後に叩かれるバスドラムの音。音程はないはずなのだけれど、低音の不協和音での演奏は何の違和感もなく聞こえたりした。

マーラーの交響曲第10番は、マーラーの遺作である。オーケストレーションまで全て完成されているのは第1楽章のみ。国際マーラー協会によるスコアの全集版でも、10番は第1楽章しか出版されていない。
作曲が始められたのは、マーラーの死の前年である1910年の7月。しかし、それから1年も経たないうちにマーラーはこの世を去ってしまう(1911年5月)。

10番については、略式総譜(4段ないし5段のもの)が全5楽章の最後まで書かれており、そのうちの第1楽章と第2楽章については、オーケストレーションを施した総譜の草稿が作られていたとのことだ。
第3楽章は、最初の30小節までオーケストレーションされていたが、第4楽章以降は略式総譜の各所に楽器指定が書き込んである程度だったという。

マーラーは、完成できなかったこの10番については、妻のアルマにスコアを焼却するよう言い残していたそうだが、アルマはその楽譜を形見として所持していた。
以後、その残された楽譜をめぐって、さまざまな人たちが全曲補筆完成に取り組むことになった。
○マーラーの死後10年以上が経過した1924年、妻のアルマが娘婿であるエルンスト・クルシェネクに10番の補筆完成を依頼、第1楽章と第3楽章が総譜に仕立てられ、同年ウィーン・フィルが初演。
○1946年、クリントン・カーペンターが補筆に着手し、3年後に全曲版が完成。
○1951年、ジョー・フィーラーが補筆に着手、翌年全曲版が完成。
○1959年、デリック・クックがマーラーの自筆楽譜を研究、翌年のマーラー生誕100年を記念して完成したクック版(全曲完成版)をフィルハーモニア管が初演。
○1963年、アルマが欠落していた部分のコピーを提供、翌年それを取り入れたクック版第2稿が完成。その後、クック版は第3稿まで改訂される。
○1983年、レーモ・マゼッティが補筆に着手、6年後に初演。
○2000年、ニコラ・サマーレとジュゼッペ・マッツーカによる版が完成、2001年にウィーン響が初演。
○2001年、ルドルフ・バルシャイによる補筆完成版の初演。
○2011年、イスラエルの指揮者ヨエル・ガンツーによる補筆完成版の初演。
現在、最もよく演奏される全曲版はクック版であろうか。発売されているCDのラインナップを見ても、クック版(第3稿)が圧倒的である。

その10番とは、どんな曲であろうか。
第1楽章:アダージョ
マーラーが自身で完成した楽章である。印象的なのは、クライマックスで長く鳴らされるトランペットのA音。まるで絶叫するかのように聞こえる。
第2楽章:スケルツォ
レントラー(南ドイツの民族舞踊)風の変拍子の楽章である。
第3楽章:プルガトリオ(煉獄)
第2楽章と、続く第4楽章の2つのスケルツォをつなぐような短い楽章である。マーラーの初期の歌曲集である「少年の魔法の角笛」からモチーフが引用されている。
第4楽章:スケルツォ
「悪魔が私と踊る」と作曲者自身が書き込みしているように、金管楽器の強烈なトリルで始まる。印象的なのは、バスドラムが静かに連打するコーダ。最後に、そのバスドラムが強烈な一打を鳴らす。アルマによれば、ニューヨークのホテルの一室でマーラーと共に見た葬列で叩かれた太鼓の記憶だそうだ。
第5楽章
前楽章から続いてバスドラムが連打される中、低音楽器が上昇音を鳴らす。やがてフルートのソロに導かれて、限りなく美しい旋律が奏でられる。盛り上がったところで打たれるバスドラム。
テンポが速められて下降動機が現れる。そうして第1楽章のトランペットのA音が再び響き渡る。曲は静まり、終結部へと向かってゆく。マーラーが「君のために生き!君のために死す!」と、その妻の名とともに書き込んだ部分である。マーラーの書いた音楽の中でも、とりわけ美しい旋律が奏でられる。

演奏は、どの版で演奏されているかということもあるが、個人的に好きなのはマゼッティ版を使用したレナード・スラトキン指揮、セントルイス響によるCDである。
マゼッティ版は、クック版よりも厚めのオーケストレーションが特徴と言われているが、スラトキンの演奏は特に弦楽器をよく鳴らした名演である。

マーラーが完成していない楽曲を、補筆完成したものはどうなのかという議論もあろう。
でも、補筆完成版があるおかげで、マーラーが生涯の最後にたとえようもない美しい音楽を残してくれたということを知ることができる。
それはそれで、聴く者にとっては十分に幸せなことなのである。

8月28日(水)

気がつけば、今日が夏休み最後の日。
今年の夏休みもいろいろなことがあった。
いちばんのできごとは、家内の母が亡くなったことである。

昨年の11月、デイケアからの帰りに転倒して大腿骨を骨折、手術は成功したものの、その後のリハビリははかどらないままに介護老人保健施設へ入所、車椅子の生活となり、思うように身体が動かせない状態が続いていた。
仕事が休みのときには毎回様子を見に行っていた家内の話によれば、痛い痛いと訴えられるのだけれど、どうしてやることもできないので、見ていて辛いとのことだった。

今月に入って、感染症の治療のため総合病院へ転院していたが、異常とも思える猛暑日の続いたお盆前の9日、肺炎に罹って高熱を出した。幸いなことに、翌日には熱は下がったとのことだったので、11日の午後に家内が父親を伴って見舞いに訪れた。父親が声をかけると、まるで安心したかのように、そこから呼吸が止まってしまったとのことだった。
家内からのメールで、すぐに病院に駆けつけたものの、病室を訪れたときには、既に帰らぬ人となっていた。

悲しみに浸る余裕もなく、家内の姉夫婦とともに、葬祭センターと慌ただしく葬儀の段取りを進めていった。
亡くなったからといって、すぐに通夜や葬儀ができるわけではない。会場の空き状況などを見ながら、葬祭の日程を決めることになり、葬儀は神式、通夜祭は14日、神葬祭が15日ということになった。
実は、翌12日から3日間、県外チームが浜松に参集して例年開催されている研修大会が予定されていた。通夜祭は、大会最終日である。まるで、義母が「しょうがないねえ」と言ってくれているような気がした。

義母については、忘れらない思い出がある。そのことを記して、義母へのせめてもの追弔の辞にしたいと思う。

家内と知り合うことになったきっかけは、転勤してソフトテニス部の顧問になった際、前任の顧問の先生から、「ウチの家内の妹と会ってみないか」と誘われたことだった。
実際に会って話をしてみると、よく人の話を聞いてくれるいい人だなあと感じた。
しかし、その後しばらくして、相方は二人姉妹で姉は既に嫁入りをしていることから、結婚をするならば、できれば婿養子として迎えたいという意向であることを知らされた。
自分としては、別に婿養子でも構わないと思っていたのだが、そのことを自分の両親に話すと、確かにわが家は大した家系ではないが長男を養子に出すことはできない、と言われた。
仕方がないので、その旨を相方に伝えた。
それきり、この話はご破算になってしまった。

それからしばらくして、いつものように部活動の練習をしていたある日曜日、テニスコートにひょっこり義母があらわれた。
びっくりして、「どうしました?」と尋ねると、「先生、いまどなたかとお付き合いされています?」と聞かれたので、「いえ、ご覧のとおり部活動してます」と答えると、「よろしければ、もう一度ウチの娘とお付き合いしていただけますか?」と言われた。
咄嗟のことで、「でも、婿養子は無理だと思うんですけど」と答えると、「いえ、もうその話はいいんです」とのことだった。
どうやら、それまでに家庭内でいろいろと話し合われた末のことだろうと推察された。
すぐに、「こちらこそ、よろしくお願いします」と答えた。

そうして、今の家内と結婚した。
娘が生まれた。
娘は、典型的な「おばあちゃん子」だった。生まれたときから、たいそうかわいがってくれたのである。
あの日、義母がテニスコートに来なかったら、今の家内と結婚することもなかったし、娘が生まれてくることもなかった。
義母がご縁を紡いでくれたのである。

神葬祭が終わった週末の土日には、家内と京都へ行く予定にしていた。土曜日の午後から、大学のクラブのOB有志の会で、貴船の川床料理を楽しむことになっていたのである。でも、どうせ行くのならと、家内が葬祭の休みを取っていたこともあって、16日の金曜日から思い立って京都へ行くことにした。ちょうどその日が京都五山の送り火の日だったからである。
前日に神葬祭を終えたばかりの義母の霊を、五山の送り火とともに見送ることができればとの思いだった。

京都への往還の道すがら、車内で聴く音楽は、レクイエムとミサ曲だった。

①ドボルザーク「スターバト・マーテル」(ラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送響)
「悲しみの聖母」と呼ばれるミサ曲。わが子キリストの死を悲しむ聖母の姿が描かれる。第7曲がとりわけ美しい。

②ヤナーチェック「グラゴル・ミサ」(チャールズ・マッケラス指揮、チェコ・フィル)
レクイエムではないためか、いきなり金管のファンファーレから始まる。「グラゴル」とは、スラブ人が使った最古の文字という意味で、教会スラブ語の典礼文に曲付けされたのだそうだ。
特に、独唱・合唱・オーケストラの掛け合いが見事な第3曲「スラヴァ」(栄光の賛歌)は聴きものである。
この曲を聴いているうちに、死者を悼むというのは、悲しむだけではないということをあらためて実感させられた。

③フォーレ「レクイエム」(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、フィルハーモニア管)
個人的には、レクエムといえばこの曲が定番である。

④カール・ジェンキンス「レクイエム」(カール・ジェンキンス指揮、西カザフスタン・フィル)
ロックバンド「ソフト・マシーン」に参加していたカール・ジェンキンスによるソロ・プロジェクト第6作。日本の俳句なども取り入れた新鮮な曲作りが印象的である。
中でも、ラテン語の歌詞で歌われる合唱曲の第5曲「Confutatis」。
“呪われた者たちが罰せられ
激しい炎に飲み込まれるとき
選ばれたものの一人として私を招きたまえ。
灰のように砕かれた心もて
ひざまずき、ひれ伏して願い奉る。
私の終わりの時をはからいたまえ。”
思わず頭を垂れて祈りを捧げたくなるような、心洗われる名曲である。

京都五山の送り火の夜は、たいそうな人出だった。
京都に住まう友人であるN氏と、ちょうど送り火が点火される時間近くまで久闊を叙し、人と車で混み合う三条大橋に出て大文字を探した。
と、人混みと建物の間から、「大」の字をはっきりと見ることができた。
亡き義母の御霊を無事に送り出せたような気がした。

7月8日(月)

ちょうど1週間前の今日、家内から「明日19時開演、プラハ放送交響楽団、ブーニンのピアノ、オンドレイ・レナルトの指揮、新世界よりなど。招待チケットあるって。行く?」とメールが入った。
曲目と演奏者から、どうしても聴きに行きたいという感じではなかったし、部活動の大会も迫っていたので、どうしようかと一瞬考えたが、最近はオケのコンサートも聴いていないし、ブーニンもピアノってどんなだろうという興味も少しあったので、「んじゃ、行く」と返事して、当日を迎えた。

会場は、浜松駅すぐ近くのアクト大ホール。座席は、1階席左寄りの前から18列目。指揮者もピアニストもよく見えるよい席であった。
会場を見渡してみると、自分たちの席の後ろは6列ほど空席。たぶん、席が高価だったからだろうと推測される。2,3階席はわからなかったが、1階席で見るかぎりではほぼ7割程度の入りかと思われた。

曲目は、最初が「モルダウ」。プラハ放送交響楽団とあらば、何をさておいても演奏されるべき曲なのであろう。
全体的に落ち着いた演奏で、クライマックスもそれなりの感動を味わうことができた。まあ、こんなものかという印象であった。

2曲めは、ブーニンが登場して、シューマンのピアノ協奏曲。会場内のポスターにはショパンのピアノ協奏曲第2番とあったが、入場時に「演奏者の都合により、シューマンのピアノ協奏曲に変更されました」とのプリントを渡された。
初めて見るブーニンは、ひどく長身のピアニストという印象であったが、舞台の袖から歩いてくる様子が、どこかしら変な感じがした。足か腰を痛めているような歩き方だったのである。

シューマンのピアノ協奏曲と言えば、知る人ぞ知る、かのウルトラセブンの最終回、モロボシ・ダンが自らをウルトラセブンだと告白する場面で流される音楽として、つとに有名である。そんな音楽であるから、曲の始まりは劇的である。
しかし。
どうもブーニンの演奏は、おとなしいのである。きれいに弾いているのだが、伝わってくるものがない。そんな演奏に指揮者も気を遣ったのか、終始オケの音量は抑え目でできるだけ目立たないようにしようとしているかのようであった。
これでは「協奏曲」にならない。協奏曲とは、ときに独奏楽器とオーケストラとが丁々発止のやり取りをするところがその醍醐味の一つである。そうではなくて、オケがただひたすら独奏楽器の裏方に回っているようでは、協奏曲たる面白味に欠けてしまうと言わざるを得ない。

演奏は、第2楽章に入ってもただ静かなだけで終始した。第3楽章では多少の盛り上がりは見せたものの、これがわずか19歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝したピアニストの演奏だろうかと思ってしまった。
演奏直後、2階か3階席からかかった「ブラボー」の声が空々しく聞こえた。
拍手に応えつつ、舞台袖へと戻るブーニンは、舞台に出てきたときと同様に、長身の腰をかがめてひどく猫背で戻っていった。演奏中も、手の汗を気にするのか何度もハンカチを取り出しては神経質そうに手を拭っていたから、体調がすぐれなかったのかもしれない。

休憩が挟まって、最後はドボルザークの交響曲「新世界より」。
第2楽章の聴かせどころであるコールアングレのソロはよかったが、この曲もさしたる印象を残さないままに終わってしまった。

オーケストラの演奏レベルは決して低くはない。なのに、このような印象しか残せないのは、多分に指揮者の所為であったろうか。
まさかアンコールなどあるまいと思っていたのだが、二度目のカーテンコールで、いきなりアンコールが始まった。ドボルザークのスラブ舞曲から第15番。これがこの夜の演奏ではいちばんよかった。

いろいろと考えさせられることが多い演奏会だった。
そんなことのあれこれを、演奏会が終わって遅い夕食を家内と取りながらあれこれと話をしたのだが、そのほとんどはプログラムについてであった。

「モルダウ」とショパン(シューマンに変更されたが)と「新世界から」とは、クラシック音楽の愛好者には、あまりにポピュラー過ぎる選曲である。
「モルダウ」や「新世界より」ならば、CDで聴ける名演奏はそれこそ数限りなくある。レコードの時代と違って、今では安価な、それこそ100円ショップでもポピュラーなクラシック音楽のCDを手に入れることができるようになった。
チケット代を支払って、わざわざコンサート会場まで足を運ぼうとするのは、そんな名曲を聴きたいからと言うよりは、あまり実演を聴く機会に恵まれない曲を聴きたいということもあるのではなかろうか。
例えば、今回のようなチェコのオーケストラの演奏であれば、スメタナの「わが祖国」全曲とか、スラブ舞曲を演奏してくれるならその全16曲など(実際に、福岡での演奏会では「わが祖国」全曲のプログラムが組まれていたとのことだ)のプログラムとか。

オケ団員の滞在費や、会場費、宣伝費を含めると、相当な費用がかかることは想像されるから、主催者としては、何とか集客を図っていろいろなことを勘案されることであろう。
そういう意味では、広く集客するためのポピュラー曲中心のプログラムということもあるだろう。
でも、そこを何とか考えてほしいのである。
例えば、スメタナの「わが祖国」全曲を聴くことによって、「モルダウより次のシャールカの方がかっこいい」と感じて、モルダウ以外の曲が好きになるかもしれないし、「ターボルとかブラニークって何?」と疑問に思って調べてみることで、フス教徒の事跡を知ることだってある。
そうやって、クラシック音楽を介した文化の裾野は確実に広がる。

クラシック音楽愛好者の裾野が広がれば、そのうちにオーディエンスの「聴き方」のレベルも上がってくるであろう。
残念ながら、この日の演奏会では、演奏の最中にもかかわらず、ずっと話をしていたカップルもいた。そんなことも、演奏を聴く際のマナーとして少しずつ改善されていくことであろう。

どうすればクラシック音楽愛好者の裾野を広げるか。
浜松市は「音楽の街づくり」を標榜している。ならば、「一人一音楽家愛好運動」などはどうであろう。
まず、市民一人一人が、自分の好きな作曲家を登録する。そうして、年に何度かその愛好者たちが集まって、プログラムの検討もして、その作曲家の演奏会(「ベートーヴェンの夕べ」とか、「モーツァルトの夕べ」など)を開催するのである。
もちろん、聴衆はその作曲家に愛好者登録している人たち。あまり登録が少ない作曲家は、数人の作曲家の合同演奏会とかにすればいい。

演奏は、オーケストラならば地元のアマオケやプロの楽団、小編成ならば、地元の高校音楽科の生徒や、浜松出身の音大生やプロの演奏家にお願いする。
そうやって、毎月のようにいろんな作曲家の演奏会が開催されていれば、自分の登録していない作曲家の演奏会も、じゃあ行ってみようかなと思う人が出てくるかもしれない。
そうして、とにかくクラシック音楽を聴く機会を増やしていくのである。

演奏会の機会が増え、聴衆の耳も肥えてくれば、そんな噂を聞きつけた著名なオーケストラや演奏者たちが浜松を訪れてくれるようになるかもしれない。
「いつかは浜松でベルリン・フィルを聴こう」を合言葉に、「音楽の街づくり」をするのも一考と思うが、どうであろうか。

6月11日(火)

気がつけば6月もそろそろ半ばである。
この1ヶ月間というもの、日記を更新していなかった。
特に忙しかったというわけではない。その間、音楽を聴いていなかったわけでもない。
たぶん、積ん読本をせっせと読んでいて、日記を書こうという気が起こらなかったのだと思う。読むことと書くことが、自分の中ではうまくバランスしていないのであろう。

この1ヶ月、職場への行き帰りにずっと聴いていたのは、ヴォーン・ウィリアムズの「揚げひばり」だった。
「揚げひばり」をわざわざ選んだわけではない。エルガーのヴァイオリン協奏曲を聴こうと思って選んだCDに、たまたま「揚げひばり」がカップリングされていたからである。

「揚げひばり」を初めて聴いたのは、ネヴィル・マリナーがアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを指揮したレコード(1972年)であった。
そのレコードには、他に「タリスの主題による幻想曲」、「グリーンスリーブズによる幻想曲」、「「富める人とラザロ」の5つの異版」が入っていた。
もともと「グリーンスリーブズによる幻想曲」を聴きたくて購入したレコードだったので、この「揚げひばり」については、ヴァイオリンの独奏が静かで美しい曲というような印象しか持っていなかった。

ところが、今回久しぶりに「揚げひばり」を聴いたところ、ひどく心に染みたのである。
時期的に、実際ひばりの鳴き声を聞くこともあるし、5月の爽やかな空気にはぴったりの曲だったからかもしれない。
演奏は、ナイジェル・ケネディのヴァイオリン、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市響である。

「揚げひばり」は、ヴォーン・ウィリアムズが42歳(1914年)のとき草稿が書き上げられ、第一次世界大戦による中断を経て、戦後の1920年に完成してピアノ伴奏版として初演された。
管弦楽用に編曲されたのは翌1921年。「ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス」と副題が付けられて、マリー・ホールのヴァイオリン、エイドリアン・ボールトの指揮により、ロンドンにて再初演された。

作曲者は、イギリスの作家ジョージ・メレディスによる同名の詩に触発されてこの曲を作ったとのことで、スコアの冒頭には実際にその詩が引用されている。
以下の詩である。
“ひばりは舞い上がり 周り始め
銀色の声の鎖を落とす
切れ目無く沢山の声の輪がつながっている
さえずり 笛の音 なめらかな声 震えるような声
天が満ちるまで歌うひばりが
伝えるのは地上の愛
そしてどこまでも羽ばたき続ける 上へ上へと
我らが谷はひばりの黄金の杯
そしてひばりは杯からあふれる葡萄の酒
ひばりは我らをともに空へと引き上げる
ひばりが天空に描かれた光の輪の中に
姿を消すと 幻が歌い始める”(訳は、http://yu-napicvid.jugem.jp/?eid=71による)

しかし、何度も何度もこの曲を聴いていると、そのうち「田園風景の中、高く飛ぶひばりの姿を描いた曲」という、どの解説書にも書いてあるようなイメージが浮かばなくなってきた。
ヴァイオリンの音色が、中国の二胡(二本の弦を間に挟んだ弓で弾く楽器)のように聞こえるのである。
二胡の名曲として広く知られているのは、「二泉映月」であろう。二胡の最高傑作の一つとされ、ほとんどの中国人に知られている名曲中の名曲で、二胡を独奏楽器として高めた不朽の名作と言われる。
泉に映る月を見ながら、自らのそれまでの人生の歩みを振り返るという情感溢れる曲である。

「揚げひばり」が二胡の独奏で演奏されているかのように想像すると、急にその音楽は郷愁に満ち溢れた曲に変わる。
故郷を遠く離れ、片時も忘れたことのない自分の故郷の風景と、ふるさとの人々を思い出す音楽に聞こえるのである。

さらにイメージは膨らむ。
中国風の音階と二胡、そして故郷への郷愁となれば、思い出すのは中島みゆきの1994年の「夜会」である。「シャングリラ」と名付けられた舞台で歌われた「シャングリラ」や「生きてゆくおまえ」の世界に繋がっていくのである。
母親を陥れ「シャングリラ」に住む母の敵(名は美齢。母の友人だったが、裏切って母の代わりに大金持ちの家に嫁いだ)への復讐のために、その家にメイドとして潜り込んだ娘の物語である。舞台はマカオに設定されている。
ヴァイオリンが奏でる哀愁を帯びたメロディーは、シャングリラから自分の娘と友人のことを思い出す「美齢」の得も言われぬ切なさのようにも聞ける。

名曲は、作り手の思いから離れて、オーディエンスにいろいろな想像を許容する。
それが名曲の名曲たる所以なのだと思う。

5月10日(金)

5月12日は、「チェコ国民音楽の父」と呼ばれるベドルジハ・スメタナの命日である。
チェコでは、毎年この日に「プラハの春音楽祭」が開幕する。チェコ・フィルハーモニーがホストとなって、著名な音楽家やオーケストラも招かれ、管弦楽や室内楽の演奏会がおよそ3週間にわたって開かれるのである。

この「プラハの春音楽祭」では、忘れられない演奏会がある。1990年のオープニング・コンサートである。
指揮をしたのは、ラファエル・クーベリック。何と、42年ぶりに祖国の土を踏んでの演奏会であった。

ラファエル・クーベリックは、1941年チェコ生まれ。父親は、世界的ヴァイオリニストであったヤン・クーベリックである。指揮者を志したのは、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターの演奏に感銘を受けてのことであったという。
プラハ音楽院でヴァイオリン、作曲、指揮を学び、卒業すると同年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューする。そのチェコ・フィルの首席指揮者に就任したのが1936年。
記念すべき第1回の「プラハの春音楽祭」が開催されたのは、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団創設50周年にあたる1946年。オープニングに演奏されたスメタナの「わが祖国」を指揮したのは、もちろんクーベリックであった。
しかし大戦終結後の1948年にチェコスロバキアでチェコスロバキア共産党を中心とした政権が成立すると、チェコの共産化に反対したクーベリックは、同年のエディンバラ音楽祭へ参加するために渡英、そのままイギリスへと亡命したのであった。(@Wikipedia)

クーベリックがチェコに戻ってきたのは、1989年11月に、「ビロード革命」と称される民主化革命が共産党の一党支配を倒したからであった。ベルリンの壁崩壊の年である。
このオープニング・コンサートに先立って、クーベリックは1ヶ月前からチェコに入り、父の墓を詣でるなどして、チェコ・フィルとのゲネプロに臨んだとのことである。
かつて首席指揮者を務めたチェコ・フィルの指揮台に、42年ぶりに立ったクーベリックの感慨は、いかばかりであったろう。

この日の演奏は、日本でもFM東京系民放FM各局により日本でも生中継され、大きな話題を呼んだ。
実際にこの演奏会に立ち会った歌崎和彦氏は、その日の感動を以下のように記している。
“5月12日のオープニング・コンサートは、クーベリックとチェコ・フィルにとっても、また会場の美しいスメタナ・ホールをぎっしりと埋めつくしたチェコの人々にとっても、やはり特別のものであったにちがいない。
ファンファーレとともにハヴェル大統領夫妻が入場し、チェコ国歌が演奏されると、クーベリックがまだ祖国を去った時にはまだ生まれていなかったような若い女性までが、感きわまったようにハンカチで目蓋を押さえていたのも印象的だった。そして、そうした感激と興奮を抑えるように固唾を飲んで見守る聴衆に静かに語りかけ、万感の思いを噛みしめるようにじっくりとしたテンポではじまった「ヴィシェフラト(高い城)」の演奏には、クーベリックの長年にわたる望郷の念と、42年ぶりに祖国の土を踏んだ感慨が交差しているように思わずにはいられなかった。”
そんな記念すべき「わが祖国」のライブ演奏を、わたしたちはCDで聴くことができるし、DVDで試聴することもできる。

「わが祖国」は、6つの曲から成るスメタナの連作交響詩である。
1、ヴィシェフラト(高い城)
ヴィシェフラトとは、プラハの南部にある古城のこと。かつてボヘミア国王が居城としていたこともあった城跡で、吟遊詩人がいにしえの王国の栄枯盛衰を歌うという曲である。
2、モルダウ
3、シャールカ
シャールカとは、チェコの伝説に登場する女戦士のことである。恋人に裏切られ、全男性への復讐を誓ったシャールカの戦いが描かれている。
4、ボヘミアの森と草原から
5、ターボル
ターボルとは南ボヘミア州の古い町で、フス派の重要な拠点であった。フス派とは、チェコのヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)信者たちのことである。
6、ブラニーク
ブラニークとは中央ボヘミア州にある山で、ここにはフス派の戦士たちが眠っており、また讃美歌に歌われる聖ヴァーツラフの率いる戦士が眠るという伝説もあるのだそうだ。

さて、クーベリックの演奏である。
実際の演奏会でも、前半の3曲が終わったところで休憩が入るのが通例であるが、前半の3曲は会場の興奮に呑み込まれまいとしているかのような、どちらかと言えば「抑え気味」の演奏である。
でも、やはりチェコに生を享けた血は争えないのであろう、「モルダウ」での農民の踊りの場面や、「シャールカ」での宴会の場面などでは、いかにも「ご当地ソング」を歌うかのような「乗り」が聴ける。当日、会場にいたチェコの聴衆は、思わず踊り出したくなったことであろう。

後半なると、ぐいぐいとクーベリックのドライブが始まる。
前半の「乗り」は、「ボヘミアの森と草原から」の中の、農民たちの収穫の踊りや、喜びの歌でも存分に披露される。
しかし、なんと言っても白眉は最後の2曲である。
フス教徒たちの厳しい戦いを暗示するかのような「ターボル」の冒頭。フス教徒の賛美歌から取られたというモチーフが繰り返されながら、曲は実際の戦いを描写するような音楽となっていく。
その音楽に、クーベリックは亡命後の自身の姿を重ね合わせていたのであろう。鬼気迫る演奏である。

そんな雰囲気は、「ターボル」からアタッカで続く最後の「ブラニーク」に入っても維持されている。だんだん明るさを帯びてくる音楽は、最後のフィナーレに入って金管楽器によって奏される「ヴィシェフラト」のテーマによって最高潮に達する。感動的な演奏である。

この「プラハの春音楽祭」の翌年、クーベリックとチェコ・フィルは来日公演を行った。そのときの演奏がNHKで放映された。録画して何度も視聴した。演奏そのものとしては、前年の「プラハの春音楽祭」でのライブ録音より、演奏の質は高いように思った。「こなれて」いたのである。
このときは、演奏が終わってクーベリックが楽団員を立たせようとしても、楽団員たちがひたすらクーベリックに拍手を贈っていて、立たずにいた場面が印象的だった。いかにクーベリックが楽団員たちから深く尊敬されているかということがよくわかる感動的なシーンであった。

そのクーベリックも、この歴史的な音楽祭から6年後の1996年8月11日にこの世を去った。今は、父と共にチェコのヴィシェフラット民族墓地に眠っている。
きっと、父子ともに、泉下で今年の「プラハの春音楽祭」をさぞや楽しみにしていることであろう。

4月22日(月)

一週間前の今月14日、指揮者のサー・コリン・デイヴィスが亡くなった。

初めてコリン・デイヴィスの演奏を聴いたのは、彼がボストン・シンフォニーを振ったシベリウスの交響曲第5番のレコード(1975年録音)であった。
第1楽章冒頭のホルンの主題提示とそれに続く部分を聴くほどに、もうこんなすばらしい演奏が聴けないかと思うと、やるせない寂しさで思わず胸が塞がる思いにさせられる。

コリン・デイヴィスは、1927年9月25日 生まれのイギリスの指揮者である。
“生まれた家が貧しく、指揮者になるためのピアノを買うお金がなくて、まず一番安い楽器のクラリネットから始める。王立音楽大学で更にクラリネットを学ぶが、ピアノの演奏能力の欠如を理由に指揮法の履修は禁じられていた。しかし、同級生とカルマー管弦楽団を結成し、しばしば指揮を執っていた。
1950年代後半からBBCスコティッシュ交響楽団を指揮する。1959年に病身のオットー・クレンペラーの代理でモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を指揮して一躍名声を馳せる。(…)
1960年代は、サドラーズ・ウェルズ・オペラやロンドン交響楽団、BBC交響楽団を指揮。1971年には、ゲオルグ・ショルティの後任として、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の首席指揮者に就任。1986年までそのポストを務める。この間、ボストン交響楽団の首席客演指揮者も務め、シベリウスの交響曲全集・管弦楽曲選集を録音した。
1977年には、イギリス人指揮者として初めてバイロイト音楽祭に出演。
1980年にナイトに叙される。その後は、バイエルン放送交響楽団首席指揮者、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団名誉指揮者などを歴任し、1995年に母国イギリスのロンドン交響楽団首席指揮者に就任した。
”(@Wikipedia)

そのシベリウスの交響曲第5番。
シベリウス生誕50年の年に祝賀演奏会が行われることになり、その演奏会で初演される交響曲として作曲された3楽章から成る交響曲は、シベリウス自身が散歩の途中で、近づいてくる春の気配にこの交響曲のインスピレーションを得たことを書き記しているほどで、全体的に明るいトーンが支配的である。
また、シベリウス自身が喉の腫瘍の手術から回復して、死の恐怖から解放された喜びが表現されているとも言われている。

第1楽章は、速さの異なる二つの部分(前半はモルト・モデラート、後半はアレグロ・モデラート)から構成されている。形式面でも、前半はソナタ形式、後半がスケルツォとなっている。これは、初稿の段階では二つの楽章となっていたものが、改訂されて融合されたとのことである。冒頭のホルンのソロが、曲全体の明るさを象徴している。
第2楽章は変奏曲である。弦のピチカートで奏される美しい旋律が、都合6回変奏される。
第3楽章は、二つの主題に、ホルンが奏する鐘の音のようなモチーフが加わってのフィナーレ。最後は、休符を置いた6つの和音が力強く連打されて曲を閉じる。

コリン・デイヴィス指揮のこの第5交響曲の演奏を何度か聴くうちに、曲の途中で聞こえてくるノイズのようなものは、どうやら指揮者が発しているらしいということに気がついた。コリン・デイヴィスは、曲の途中で唸っていたのだ。
これは、指揮者にはよくあることらしい。つまり、実際に自身が鼻唄を歌うようにしながら指揮しているというものである。
例えば第1楽章、ソナタ形式の展開部に入ってすぐ、弦楽器が第2主題を奏するところで。また、展開部後半、弦楽器が長き引き伸ばした旋律をユニゾンで弾くところで。
第2楽章では、第3変奏で弦楽器が主題を弾くところで。
第3楽章では、第2主題が弦楽器群に引き継がれるところで。

指揮者が、その曲の感情移入してしまって、我を忘れて指揮をするというのは、曲全体を統括するという役目を負っていることを考えれば、あまり褒められたことではないのかもしれない。あくまで、スコアに表現されていることが忠実に再現されているのかを監督するのが、指揮者の大切な役目の一つだからだ。
でも、指揮者が曲に感情移入できなくて、どうして100人もの人数で構成されるオーケストラの団員に、熱い演奏をさせることができよう。まるでコンピュータが管理しているかのような、杓子定規の演奏というのは、概ね聴衆に感動をもたらすことができない。

指揮者が、「ここはこうして演奏してほしい!」というメッセージを伝えるからこそ、楽団員はそんな指揮者の思いを表現しようとするのではないか。
そうして、指揮者とオーケストラとが一体となって熱い演奏を繰り広げるとき、それを聴いていた聴衆は、曲そのもののすばらしさと、演奏者たちのすばらしさを同時に感じ取ることができ、そのことが深い感動につながっていくのではないか。
機械ではなく、人間が演奏するというのは、そんな意義を持っているのだと思う。

確かに、「笛吹けども踊らず」ということわざがあるように、ただ指揮者一人が舞い上がってしまって、逆に演奏者たちが冷めてしまっていては、感動的な演奏などできるはずはない。感動的どころか、演奏そのものが崩壊してしまうことだってある。
指揮者の難しいところは、そんなところでもある。ただ機械的に演奏するわけにはいかない、かと言って、自分一人だけ全体から浮き上がってしまうわけにもいかない。
でも、それをきちんとやれる指揮者こそが、所謂マエストロと言われる指揮者たちである。

コリン・デイヴィスは、まちがいなく、そんな「マエストロ」の一人であった。彼が唸り声を挙げているところでは、特に弦楽器群が得も言われぬ音色を奏でているのである。つまりは、楽団員たちの心を燃え上がらせているのである。

もう一つ、サー・コリンのすばらしさを挙げておきたい。
それは、スコアに表現されている音符の一つ一つが、とても大切に扱われているということである。まるで、「スコアには無駄な音など一つとして書かれていないのです」とでも言っているかのように。
このシベリウスの第5交響曲で言えば、全体的にメロディーラインと伴奏の区別があまりはっきりと付けられていないように聞こえること。例えば、第3楽章では、弦楽器のトレモロの伴奏に木管楽器が旋律を吹くところがあるのだが、次には弦楽器の伴奏の音形が旋律に変わってゆくところなど、どちらが旋律でどちらが伴奏なのか判然としない。どちらも、とても「よく聞こえる」のである。
でも、それが「交響的」ということなのではないか。いろんな音が混ざり合って聞こえることこそが、交響曲の交響曲たる所以なのである。

自然の中では、いろいろな音が聞こえる。
この第5交響曲にも、明らかに自然の音を模倣したと思わるパッセージが随所に聞ける。
例えば、第1楽章で頻繁に鳴らされるティンパニは遠くで鳴っている雷のようだし、第3楽章で弱音器を付けた弦楽器のトレモロは、明らかに凍った北の大地を吹き渡る風の音に聞こえる。
演奏の成果は、それらが遠雷や風の音に聞こえるかどうかだ。
サー・コリンの演奏では、それらの音が正しくそのとおりに聞こえるのである。

シベリウスの第5交響曲は、最後に休符を挟んで6つの和音が連打されて終わる。サー・コリンのレコードでは、その一つ一つの和音が聴こえる前に、たぶん体全体を使ってその和音を紡ぎ出そうとしているサー・コリンの、指揮台を踏み鳴らす音が聞こえる。
それは、まるで音楽の神ミューズに、サー・コリンが全身全霊を捧げているかのようだ。

そのミューズの御許にサー・コリン・デイヴィスは召された。
すばらしい指揮者だった。謹んでご冥福をお祈りしたい。

4月15日(月)

かつては、日曜の夜9時からNHK Eテレにて放送されていた「N響アワー」をよく視聴していた。
NHKの女性アナ(または女優)と作曲家の組み合わせで、管弦楽曲を中心とした様々な曲が、作曲家の解説とともに、基本的にはNHK交響楽団の演奏で紹介されるという番組であった。
調べてみると、この番組はなんと1980年から2012年まで、32年の長きにわたって放送されていた長寿番組なのであった。

その「N響アワー」が昨年の3月末に終了した。後の番組は、どうも司会者たちのおしゃべりばかりが目立ち、演奏中心の番組ではなくなってしまったような感じがして、最初の一、二回を見ただけで視聴しなくなってしまっていた。

それが、この4月から、同時間帯で「クラシック音楽館」なる番組が放送されるようになったのである。放送時間枠も従来の倍の2時間に増やし、解説は極力少なめにして、曲目中心の番組に変わったのである。
放送時間枠が拡大されたことで、長い曲もカットされることなく放送されるようになったし、実際の演奏会でのプログラムほとんどそのままに再現してくれることで、まるで演奏会場にいるような感じを味わえることが何よりうれしい。

第1回は、デーヴィッド・ジンマンの指揮で、シェーンベルクの「浄夜」、エレーヌ・グリモーのピアノでブラームスのピアノ協奏曲第2番、第2回では、バーンスタインの交響曲第2番が放送された。
バーンスタインとは、もちろんレナード・バーンスタインのことである。指揮者として著名であることは言うまでもないが、作曲者としてもミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」や「キャンディード」などの曲で人気を博した。

そのバーンスタインの第2交響曲。「不安の時代」と題されるこのシンフォニーを指揮したのは、若き新鋭ジョン・アクセルロッド。いずれは、世界のメジャー・オーケストラの音楽監督になるであることを予感させられたほどの、すばらしい指揮ぶりであった。
こうやって、新しい指揮者や聴いたことのない曲の演奏に触れることができるのも、この番組のよいところである。

さて、バーンスタインの交響曲のことである。
今回演奏された第2番もそうだが、実はバーンスタインの3つの交響曲は、残念ながらミュージカルほどには知られていない。
3曲とも表題が付されているが、一つには、それらがあまりにユダヤ教の宗教的色彩を帯びていることや、取り上げられているテクストが難解なイメージを与えることなどが、演奏機会の寡少につながっているのであろうか。
確かに、そういう意味では、2番と3番の交響曲はやや玄人好みのような印象もあるのだが、第1番はそんなことはない。
今までバーンスタインの交響曲を聴いたことがないという方は、まずその第1交響曲を聴いてみてほしい。

バーンスタインの「エレミヤ」と命名された最初の交響曲は、彼が24歳の時に完成された。作曲家としてのデビュー曲である。全3楽章から構成され、最後の第3楽章にはソプラノの独唱が加わる。
表題の『エレミヤ」とは、旧約聖書の『エレミヤ書』に登場する古代ユダヤの預言者のことである。
この曲について、バーンスタイン自身はインタビューに次のように答えている。
“『エレミア』では、ひとりの人間のドラマが繰り広げられます。彼は、自分の生きる社会の頽廃や堕落を悟り、自分の民族を、彼らが陥ってしまった道徳の崩壊から救い出そうとします。けれども、その人間はたったひとりで、絶望しているのです。”(バーンスタイン、カスティリオーネ『バーンスタイン 音楽を生きる』青土社)

紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半、エレミヤのユダ王国は、台頭してきたバビロニアの勢いに恐れをなしていた。そこで、ユダ国王はエジプトと手を結んで自国の生き残りを図り、だんだんとエホバへの信仰も失っていった。このとき王を諌めたのがエレミヤであった。しかし、王はむしろエレミヤ疎んじて殺そうとしたため、彼は身を隠した。
それからしばらくしてバビロニアがユダ王国に侵攻、王国は滅んだ。多くの捕虜がバビロンの都に連れて行かれた(バビロンの虜囚)。エレミヤはこれを神罰だと叫び、今こそ信仰を取り戻して正しい生活を送る時だと説いた。しかし、誰もエレミヤの言葉に耳を貸す者はなかった。
混迷の時代にひたすら正しい道を説いた生涯であった。

曲は、そんなエレミヤの生涯を、「予言」、「冒涜」、「哀歌」の3楽章で象徴的に表現する。
第1楽章:「予言」
音楽は、エレミヤの将来への不安を象徴するようなホルンのソロで始まり、そのテーマが弦楽器群に受け継がれる。そのテーマに合いの手のように入る金管楽器の印象的な8分音符の連打。エレミヤが自らの予言への確信を強めているかのようである。
しかし、いくらエレミヤが説こうとも、耳を貸そうとしない民衆たち。どうしようもない悲しみに沈むエレミヤの姿が、美しくも悲痛な音楽で綴られる。
最後は、低弦の不気味なフェルマータ。まるで予言の成就を思わせるかのようである。

第2楽章:「冒涜」
表題からすると、異教の神を崇め奉る民衆の姿が描かれているか。そんな異教の神を讃えて踊る人々。ないがしろにされるエホバ。こんなことをしてはいけないと説くエレミヤ。しかし、エレミヤの声は異教の神に熱狂する人々にかき消される。
後のバーンスタインのリズミカルな音楽を予感させる楽章である。

第3楽章:「哀歌」
旧約聖書の「エレミヤ哀歌」からの歌詞によるメゾ・ソプラノ独唱で始まる。
自らの予言が成就し、バビロニアに侵攻され、荒れ果てた故国を前に、為す術がなかった自身の無力さを嘆くエレミヤ。
「エホバよ、願わくば我らをして汝にかえしたまえ」というエレミヤの絶望が歌われる。
しかし、音楽は、そんなエレミヤの生涯が未来に多くの共感を呼ぶことを暗示して終わる。

自らの信じることが、世になかなか実現されないと託つ人も多かろう。
どうしてこんな為政者の元に生まれてしまったのかと、自らの不条理を嘆く人もいよう。
エレミヤの生涯は、今に生きるそんな人たちの大いなる励ましとなるのではないか。バーンスタインのそんな確信が、この第1交響曲から聴こえてくるような気がする。

演奏は、もちろん作曲者でもあるバーンスタインが、手勢であるニューヨーク・フィルを指揮して自作自演したもの(1961年)。メゾ・ソプラノ独唱はジェニー・トゥーレル。思いのこもった感動的な演奏である。
バーンスタインとニューヨーク・フィルの60年代の録音群は、このコンビにおける一つの頂点を極めているとの印象で、個人的にもたいそう好きなのである。

4月9日(火)

今日は矢代秋雄の命日である。

矢代秋雄(1929年9月10日~1976年4月9日)は、昭和の日本を代表する作曲家である。
“若い頃より英才として将来を期待され、東京音楽学校作曲科、東京藝術大学研究科を卒業した後、パリ国立高等音楽院に留学。和声法で一等賞を得る等、優秀な成績を修めて卒業。
晩年は、作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として、後進の指導にあたった。門下より、野田暉行、池辺晋一郎、西村朗など現在の日本を代表する作曲家を輩出している。
完璧主義、寡作主義で知られ、残された作品はどれも完成度が高く、再演も多い。”(@Wikipedia)

寡作主義とのことだが、確かに彼が生涯に作曲したのは全部で26曲。厳しい自己批判によって廃棄された作品が多かったことと、わずか47歳で生涯を閉じたことも与ってのことであろう。
その26曲の内訳は、以下のとおりである。
○交響曲1
○管弦楽曲1
○吹奏楽曲2
○協奏曲3(ピアノ2、チェロ1)
○室内楽曲6
○ピアノ曲11
○歌曲2

今回は、その中からピアノ協奏曲(1967年)を取り上げてみたい。
矢代は、ピアノ協奏曲を2曲作った。最初のピアノ協奏曲は、1948年に金子登指揮、東京音楽学校管弦楽部により初演され、ピアニストの園田高弘に献呈されている。しかし、この曲は生前には出版されなかった。
彼の名を一躍高めたのは、NHKから文部省芸術祭のために委嘱され、1964年から作曲が始められて1967年に完成して初演された2番目のピアノ協奏曲である。

第1楽章。ピアノの独奏で、変拍子の印象的な主題提示から始まる。
第2主題はピアノのアルペジオに乗ってフルートが奏する。この第2主題が提示された後のピアノのモノローグは印象的である。そのモノローグをオーケストラが受け継いでクライマックスを作ると、ピアノのカデンツァが入ってくる。
展開部は、提示部の主題が変奏されながら緊張感のある雰囲気が醸し出される。その緊張感を維持しつつ、冒頭の第1主題が再現され第1楽章が終わる。

第2楽章。雨だれのようなハ音のオスティナート。このオスティナートがこの楽章を最後まで支配する。それはまるで、何かが近づいてくる足音のようでもある。
だんだんとクレシェンドしながら「それ」は近づいてくる。何かのイメージが浮かぶような気もするのだが、それはとりとめのないイメージである。何だろうと思っているうちに、「それ」は遠ざかってゆく。

第3楽章。ピアノの動きのあるパッセージによって始まり、その楽想が自由に変奏されながらオーケストラにも受け継がれて曲が進行する。時折り、第1楽章冒頭主題が思い出したかのように顔を出す。
さらに動きのあるパッセージは変奏され、オーケストラと掛け合いながらクライマックスを作って曲が閉じられる。

この曲を聴いたことのない人に、誰が作曲したのかと問えば、バルトークやストラヴィンスキーなどの名前が挙げる人もいるかもしれない。それほどに(そうした偉大な作曲家の作品と見紛うほどに)、このピアノ協奏曲は佳曲である。
まず、曲の始まりに聴ける主題が印象的である。これは、名曲となり得る第一の条件と言ってもよいであろう。
それから、構成が緻密である。「次は?」と思わず耳を澄ませて続く楽想を聴きたくなるのである。これは、曲を繰り返し聴くことにつながるし、その繰り返しに耐えるものを担保している。
さらには、第2楽章の繰り返されるオスティナートのように、思い切った手法が使われていること。これは、意表をつくという目的で使用されれば陳腐に堕するが、必要に迫られての使用は深い印象を残す。このオスティナートは、正しく後者である。

とりわけ日本風の旋律を使用したというわけでもない。日本の伝統楽器を使っているわけでもない。むしろ、矢代はそういうことを意図的に避けたのではないか。「いかにも日本的」などという賛辞は、彼には必要なかったのだ。
彼はただ、自分が好きで好きでたまらない、そこから多くの恩恵を受けたであろう西洋古典音楽の作曲技法に忠実に則って、その歴史と伝統を受け継ぐ作品を作りたかったのだ。「日本的」などというレッテルは、逆に貼ってほしくはなかったに違いない。それは、このピアノ協奏曲が、第1楽章はソナタ形式、第3楽章はロンド形式という「枠」の中で書かれていることからも想像される。
例えて言うなら、英語で書かれた小説が好きで好きでたまらない日本人が、実際に英語で小説を書いてみたところ、実際に英語圏で書かれた傑作小説とも肩を並べる程の出来栄えであった、というところであろうか。

演奏は、初演者である中村紘子のピアノ、岩城宏之指揮、N響のレコード。初演の翌年に世田谷区民会館で録音されたものである。
初演の感動をそのままに残した感動的な演奏だが、残響の少ない録音は多少なりとも気になるところである。

もう少しいい録音が聴きたいとCDを検索してみたのだが、残念ながらこれだけの名曲であるのにCDはそう多く発売されてはいない。
あれこれ探しているうちに、NAXOSのレーベルから交響曲とのカップリングで出ているものを見つけた。さっそくネットで注文して聴いてみた。岡田博美のピアノ、湯浅卓雄指揮、アルスター管による演奏である。当然のことだが、オケが変わると受ける印象も違うものである。初めてこの曲を聴くような感じがして、たいへんに新鮮であった。

このピアノ協奏曲が初演されたのは、西洋音楽を日本人が学び始めてちょうど100年が経過した年である。その1世紀に亘った西洋音楽修得の精華を、矢代秋雄は西洋音楽への満腔の敬意と感謝を込めて作曲した。
そんな日本が世界に誇るべきピアノ協奏曲を、彼の37回忌にじっくりと聴く。

3月30日(土)

桜が満開である。
そんな満開の桜を愛でに外へ繰り出したいところだが、そろそろ終わりを迎えようとしている花粉症もまだまだ気になるところだ。
となると、満開の桜を想像しながら、あるいはニュース番組で各地の桜の様子を見ながら、部屋の中で桜を嘆賞するしかない。

そんな桜を想像しながら聴く音楽は、アーロン・コープランドの「アパラチアの春」だ。
コープランド(1900年11月14日〜1990年12月2日)は、20世紀のアメリカを代表する作曲家の一人である。
“アメリカの古謡を取り入れた、親しみやすく明快な曲調で「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られる。指揮や著述、音楽評論にも実績を残した。”(@Wikipedia)とある。
代表作は、「エル・サロン・メヒコ」(1936年)、「ビリー・ザ・キッド」(1938年)、「ロデオ」(1942年)、「アパラチアの春」(1944年)などのバレエ音楽。他に、交響曲(5曲)、協奏曲、室内楽、ピアノ曲、声楽曲、さらには歌劇、映画音楽、吹奏楽曲など数多くの曲を残している。

さて、「アパラチアの春」である。
この曲は、もともと3人編成の室内楽オーケストラのための作品として、振付師でダンサーのマーサ・グレアムの依頼と、エリザベス・クーリッジ夫人の委嘱により作曲された。その後、作曲者自身の手によってオーケストラ用組曲として編曲(1945年)され、広く一般に親しまれるようになった。
バレエ音楽は、1800年代のペンシルベニア州で、アメリカ開拓民達が新しいファームハウスを建てた後の春の祝典の様子を描いている。中心となる人物は、新婚の夫婦、隣人、復興運動の説教者とその信徒たちである。

表題は、初演の直前にマーサ・グレアムが、ハート・クレインの詩の一節である(バレエの物語と直接関係はないが)、『アパラチアの春』という題を提案したことによって付された。
“タイトルはハート・クレインの偉大だが不完全な詩の連作『橋』、とくに「ダンス」のセクションから取られている。
ーおお、アパラチアの春!私は岩棚にたどり着いた
東へと曲がっていく険しく近寄りがたい微笑み
北に向かってはアディロンダック山地の
紫色のくさび形にまで達している…”(アレックス・ロス『20世紀を語る音楽』みすず書房)

コープランド自身は、人々が、まるで彼がアパラチア山脈の美しさを捉えて作曲をしたかのように語りかけてくると、しばしば笑ったという。
そう、この曲はアパラチア山脈の春の美しさを讃えた曲ではないのである。
オーケストラ組曲は、8つの部分から成っていて、それぞれに速度の指示と、いくつかの部分では簡単なコメントが付けられている。
1、非常にゆっくり。
2、アレグロ。
3、モデラート:花嫁とその婚約者。
4、かなり速く:復興運動主義者とその信徒たち。
5、アレグロ:一人で踊る花嫁。
6、メノ・モッソ。
7、穏やかに、流れるように:シェーカー派の主題の変奏曲。
8、モデラート:コーダ。
かように、この曲は、開拓民たちの居住地での新婚夫婦を囲んでの穏やかな日曜日を描いた音楽なのである。

それにしても、表題の力というものは大きい。
表題の経緯を詳しく知らずにこの曲を聴けば、誰しもが「アパラチア山脈の春の美しい風景と、麓に暮らす人々の素朴な生活」を思い描くのではないだろうか。

作曲者がバレエ音楽とは直接関係のない表題を付けたのなら、それを聴く者が自分で自由に連想を膨らませるのも許されるであろう。
そこで、「桜」をテーマに、以下のような連想をしてみる。
1、まだ寒さの残る春三月。春分の日を過ぎてだんだんと気温も上がり、桜の蕾が少しずつ膨らみ始める。
2、各地から桜の便り。暖かくなった春を実感する。桜の開花と同時に、新年度への新たな希望も湧いてくる。
3、花に無情の雨。夜桜を見ながら、咲き始めた花が散りはしないかと心配をする。
4、お花見に。桜の木の下では、お酒も入ってつい踊り出す人も。
5、花を散らす春疾風。春塵を巻き上げる南風。時折り雨も交じる。
6、風雨の収まったあとの静けさ。花が散らずに残った桜の凛としたたたずまい。夕桜の美しさ。
7、しきりに散る花びら。まるで雪のような花吹雪。そんなに急いで散らなくても、という人の気も知らないかのように。水たまりを赤く染める桜蘂。桜はいつしか葉桜に。
8、また来年の春の桜の美しさを想う。

演奏は、こういう曲を振らせたら右に出るものはないと思われるレナード・バーンスタインが、手勢のニューヨーク・フィルを振った旧盤。ロサンジェルス・フィルを振った新盤は未聴だが、きっとすばらしい演奏に違いない。
実際のバレエ音楽では、第7曲にかなり長い移行部があるそうだが、それはスラトキン&セントルイス響の盤で聴ける。こちらも、情感溢れる名演である。

さて、桜もこの週末が見頃である。
花粉症などと言っておらず、外に出て今年の桜を愛でてくることにしようか。