スーさん、バーンスタインを語る

4月15日(月)

かつては、日曜の夜9時からNHK Eテレにて放送されていた「N響アワー」をよく視聴していた。
NHKの女性アナ(または女優)と作曲家の組み合わせで、管弦楽曲を中心とした様々な曲が、作曲家の解説とともに、基本的にはNHK交響楽団の演奏で紹介されるという番組であった。
調べてみると、この番組はなんと1980年から2012年まで、32年の長きにわたって放送されていた長寿番組なのであった。

その「N響アワー」が昨年の3月末に終了した。後の番組は、どうも司会者たちのおしゃべりばかりが目立ち、演奏中心の番組ではなくなってしまったような感じがして、最初の一、二回を見ただけで視聴しなくなってしまっていた。

それが、この4月から、同時間帯で「クラシック音楽館」なる番組が放送されるようになったのである。放送時間枠も従来の倍の2時間に増やし、解説は極力少なめにして、曲目中心の番組に変わったのである。
放送時間枠が拡大されたことで、長い曲もカットされることなく放送されるようになったし、実際の演奏会でのプログラムほとんどそのままに再現してくれることで、まるで演奏会場にいるような感じを味わえることが何よりうれしい。

第1回は、デーヴィッド・ジンマンの指揮で、シェーンベルクの「浄夜」、エレーヌ・グリモーのピアノでブラームスのピアノ協奏曲第2番、第2回では、バーンスタインの交響曲第2番が放送された。
バーンスタインとは、もちろんレナード・バーンスタインのことである。指揮者として著名であることは言うまでもないが、作曲者としてもミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」や「キャンディード」などの曲で人気を博した。

そのバーンスタインの第2交響曲。「不安の時代」と題されるこのシンフォニーを指揮したのは、若き新鋭ジョン・アクセルロッド。いずれは、世界のメジャー・オーケストラの音楽監督になるであることを予感させられたほどの、すばらしい指揮ぶりであった。
こうやって、新しい指揮者や聴いたことのない曲の演奏に触れることができるのも、この番組のよいところである。

さて、バーンスタインの交響曲のことである。
今回演奏された第2番もそうだが、実はバーンスタインの3つの交響曲は、残念ながらミュージカルほどには知られていない。
3曲とも表題が付されているが、一つには、それらがあまりにユダヤ教の宗教的色彩を帯びていることや、取り上げられているテクストが難解なイメージを与えることなどが、演奏機会の寡少につながっているのであろうか。
確かに、そういう意味では、2番と3番の交響曲はやや玄人好みのような印象もあるのだが、第1番はそんなことはない。
今までバーンスタインの交響曲を聴いたことがないという方は、まずその第1交響曲を聴いてみてほしい。

バーンスタインの「エレミヤ」と命名された最初の交響曲は、彼が24歳の時に完成された。作曲家としてのデビュー曲である。全3楽章から構成され、最後の第3楽章にはソプラノの独唱が加わる。
表題の『エレミヤ」とは、旧約聖書の『エレミヤ書』に登場する古代ユダヤの預言者のことである。
この曲について、バーンスタイン自身はインタビューに次のように答えている。
“『エレミア』では、ひとりの人間のドラマが繰り広げられます。彼は、自分の生きる社会の頽廃や堕落を悟り、自分の民族を、彼らが陥ってしまった道徳の崩壊から救い出そうとします。けれども、その人間はたったひとりで、絶望しているのです。”(バーンスタイン、カスティリオーネ『バーンスタイン 音楽を生きる』青土社)

紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半、エレミヤのユダ王国は、台頭してきたバビロニアの勢いに恐れをなしていた。そこで、ユダ国王はエジプトと手を結んで自国の生き残りを図り、だんだんとエホバへの信仰も失っていった。このとき王を諌めたのがエレミヤであった。しかし、王はむしろエレミヤ疎んじて殺そうとしたため、彼は身を隠した。
それからしばらくしてバビロニアがユダ王国に侵攻、王国は滅んだ。多くの捕虜がバビロンの都に連れて行かれた(バビロンの虜囚)。エレミヤはこれを神罰だと叫び、今こそ信仰を取り戻して正しい生活を送る時だと説いた。しかし、誰もエレミヤの言葉に耳を貸す者はなかった。
混迷の時代にひたすら正しい道を説いた生涯であった。

曲は、そんなエレミヤの生涯を、「予言」、「冒涜」、「哀歌」の3楽章で象徴的に表現する。
第1楽章:「予言」
音楽は、エレミヤの将来への不安を象徴するようなホルンのソロで始まり、そのテーマが弦楽器群に受け継がれる。そのテーマに合いの手のように入る金管楽器の印象的な8分音符の連打。エレミヤが自らの予言への確信を強めているかのようである。
しかし、いくらエレミヤが説こうとも、耳を貸そうとしない民衆たち。どうしようもない悲しみに沈むエレミヤの姿が、美しくも悲痛な音楽で綴られる。
最後は、低弦の不気味なフェルマータ。まるで予言の成就を思わせるかのようである。

第2楽章:「冒涜」
表題からすると、異教の神を崇め奉る民衆の姿が描かれているか。そんな異教の神を讃えて踊る人々。ないがしろにされるエホバ。こんなことをしてはいけないと説くエレミヤ。しかし、エレミヤの声は異教の神に熱狂する人々にかき消される。
後のバーンスタインのリズミカルな音楽を予感させる楽章である。

第3楽章:「哀歌」
旧約聖書の「エレミヤ哀歌」からの歌詞によるメゾ・ソプラノ独唱で始まる。
自らの予言が成就し、バビロニアに侵攻され、荒れ果てた故国を前に、為す術がなかった自身の無力さを嘆くエレミヤ。
「エホバよ、願わくば我らをして汝にかえしたまえ」というエレミヤの絶望が歌われる。
しかし、音楽は、そんなエレミヤの生涯が未来に多くの共感を呼ぶことを暗示して終わる。

自らの信じることが、世になかなか実現されないと託つ人も多かろう。
どうしてこんな為政者の元に生まれてしまったのかと、自らの不条理を嘆く人もいよう。
エレミヤの生涯は、今に生きるそんな人たちの大いなる励ましとなるのではないか。バーンスタインのそんな確信が、この第1交響曲から聴こえてくるような気がする。

演奏は、もちろん作曲者でもあるバーンスタインが、手勢であるニューヨーク・フィルを指揮して自作自演したもの(1961年)。メゾ・ソプラノ独唱はジェニー・トゥーレル。思いのこもった感動的な演奏である。
バーンスタインとニューヨーク・フィルの60年代の録音群は、このコンビにおける一つの頂点を極めているとの印象で、個人的にもたいそう好きなのである。