スーさん、コリン・デイヴィスを悼む

4月22日(月)

一週間前の今月14日、指揮者のサー・コリン・デイヴィスが亡くなった。

初めてコリン・デイヴィスの演奏を聴いたのは、彼がボストン・シンフォニーを振ったシベリウスの交響曲第5番のレコード(1975年録音)であった。
第1楽章冒頭のホルンの主題提示とそれに続く部分を聴くほどに、もうこんなすばらしい演奏が聴けないかと思うと、やるせない寂しさで思わず胸が塞がる思いにさせられる。

コリン・デイヴィスは、1927年9月25日 生まれのイギリスの指揮者である。
“生まれた家が貧しく、指揮者になるためのピアノを買うお金がなくて、まず一番安い楽器のクラリネットから始める。王立音楽大学で更にクラリネットを学ぶが、ピアノの演奏能力の欠如を理由に指揮法の履修は禁じられていた。しかし、同級生とカルマー管弦楽団を結成し、しばしば指揮を執っていた。
1950年代後半からBBCスコティッシュ交響楽団を指揮する。1959年に病身のオットー・クレンペラーの代理でモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を指揮して一躍名声を馳せる。(…)
1960年代は、サドラーズ・ウェルズ・オペラやロンドン交響楽団、BBC交響楽団を指揮。1971年には、ゲオルグ・ショルティの後任として、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の首席指揮者に就任。1986年までそのポストを務める。この間、ボストン交響楽団の首席客演指揮者も務め、シベリウスの交響曲全集・管弦楽曲選集を録音した。
1977年には、イギリス人指揮者として初めてバイロイト音楽祭に出演。
1980年にナイトに叙される。その後は、バイエルン放送交響楽団首席指揮者、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団名誉指揮者などを歴任し、1995年に母国イギリスのロンドン交響楽団首席指揮者に就任した。
”(@Wikipedia)

そのシベリウスの交響曲第5番。
シベリウス生誕50年の年に祝賀演奏会が行われることになり、その演奏会で初演される交響曲として作曲された3楽章から成る交響曲は、シベリウス自身が散歩の途中で、近づいてくる春の気配にこの交響曲のインスピレーションを得たことを書き記しているほどで、全体的に明るいトーンが支配的である。
また、シベリウス自身が喉の腫瘍の手術から回復して、死の恐怖から解放された喜びが表現されているとも言われている。

第1楽章は、速さの異なる二つの部分(前半はモルト・モデラート、後半はアレグロ・モデラート)から構成されている。形式面でも、前半はソナタ形式、後半がスケルツォとなっている。これは、初稿の段階では二つの楽章となっていたものが、改訂されて融合されたとのことである。冒頭のホルンのソロが、曲全体の明るさを象徴している。
第2楽章は変奏曲である。弦のピチカートで奏される美しい旋律が、都合6回変奏される。
第3楽章は、二つの主題に、ホルンが奏する鐘の音のようなモチーフが加わってのフィナーレ。最後は、休符を置いた6つの和音が力強く連打されて曲を閉じる。

コリン・デイヴィス指揮のこの第5交響曲の演奏を何度か聴くうちに、曲の途中で聞こえてくるノイズのようなものは、どうやら指揮者が発しているらしいということに気がついた。コリン・デイヴィスは、曲の途中で唸っていたのだ。
これは、指揮者にはよくあることらしい。つまり、実際に自身が鼻唄を歌うようにしながら指揮しているというものである。
例えば第1楽章、ソナタ形式の展開部に入ってすぐ、弦楽器が第2主題を奏するところで。また、展開部後半、弦楽器が長き引き伸ばした旋律をユニゾンで弾くところで。
第2楽章では、第3変奏で弦楽器が主題を弾くところで。
第3楽章では、第2主題が弦楽器群に引き継がれるところで。

指揮者が、その曲の感情移入してしまって、我を忘れて指揮をするというのは、曲全体を統括するという役目を負っていることを考えれば、あまり褒められたことではないのかもしれない。あくまで、スコアに表現されていることが忠実に再現されているのかを監督するのが、指揮者の大切な役目の一つだからだ。
でも、指揮者が曲に感情移入できなくて、どうして100人もの人数で構成されるオーケストラの団員に、熱い演奏をさせることができよう。まるでコンピュータが管理しているかのような、杓子定規の演奏というのは、概ね聴衆に感動をもたらすことができない。

指揮者が、「ここはこうして演奏してほしい!」というメッセージを伝えるからこそ、楽団員はそんな指揮者の思いを表現しようとするのではないか。
そうして、指揮者とオーケストラとが一体となって熱い演奏を繰り広げるとき、それを聴いていた聴衆は、曲そのもののすばらしさと、演奏者たちのすばらしさを同時に感じ取ることができ、そのことが深い感動につながっていくのではないか。
機械ではなく、人間が演奏するというのは、そんな意義を持っているのだと思う。

確かに、「笛吹けども踊らず」ということわざがあるように、ただ指揮者一人が舞い上がってしまって、逆に演奏者たちが冷めてしまっていては、感動的な演奏などできるはずはない。感動的どころか、演奏そのものが崩壊してしまうことだってある。
指揮者の難しいところは、そんなところでもある。ただ機械的に演奏するわけにはいかない、かと言って、自分一人だけ全体から浮き上がってしまうわけにもいかない。
でも、それをきちんとやれる指揮者こそが、所謂マエストロと言われる指揮者たちである。

コリン・デイヴィスは、まちがいなく、そんな「マエストロ」の一人であった。彼が唸り声を挙げているところでは、特に弦楽器群が得も言われぬ音色を奏でているのである。つまりは、楽団員たちの心を燃え上がらせているのである。

もう一つ、サー・コリンのすばらしさを挙げておきたい。
それは、スコアに表現されている音符の一つ一つが、とても大切に扱われているということである。まるで、「スコアには無駄な音など一つとして書かれていないのです」とでも言っているかのように。
このシベリウスの第5交響曲で言えば、全体的にメロディーラインと伴奏の区別があまりはっきりと付けられていないように聞こえること。例えば、第3楽章では、弦楽器のトレモロの伴奏に木管楽器が旋律を吹くところがあるのだが、次には弦楽器の伴奏の音形が旋律に変わってゆくところなど、どちらが旋律でどちらが伴奏なのか判然としない。どちらも、とても「よく聞こえる」のである。
でも、それが「交響的」ということなのではないか。いろんな音が混ざり合って聞こえることこそが、交響曲の交響曲たる所以なのである。

自然の中では、いろいろな音が聞こえる。
この第5交響曲にも、明らかに自然の音を模倣したと思わるパッセージが随所に聞ける。
例えば、第1楽章で頻繁に鳴らされるティンパニは遠くで鳴っている雷のようだし、第3楽章で弱音器を付けた弦楽器のトレモロは、明らかに凍った北の大地を吹き渡る風の音に聞こえる。
演奏の成果は、それらが遠雷や風の音に聞こえるかどうかだ。
サー・コリンの演奏では、それらの音が正しくそのとおりに聞こえるのである。

シベリウスの第5交響曲は、最後に休符を挟んで6つの和音が連打されて終わる。サー・コリンのレコードでは、その一つ一つの和音が聴こえる前に、たぶん体全体を使ってその和音を紡ぎ出そうとしているサー・コリンの、指揮台を踏み鳴らす音が聞こえる。
それは、まるで音楽の神ミューズに、サー・コリンが全身全霊を捧げているかのようだ。

そのミューズの御許にサー・コリン・デイヴィスは召された。
すばらしい指揮者だった。謹んでご冥福をお祈りしたい。