5月10日(金)
5月12日は、「チェコ国民音楽の父」と呼ばれるベドルジハ・スメタナの命日である。
チェコでは、毎年この日に「プラハの春音楽祭」が開幕する。チェコ・フィルハーモニーがホストとなって、著名な音楽家やオーケストラも招かれ、管弦楽や室内楽の演奏会がおよそ3週間にわたって開かれるのである。
この「プラハの春音楽祭」では、忘れられない演奏会がある。1990年のオープニング・コンサートである。
指揮をしたのは、ラファエル・クーベリック。何と、42年ぶりに祖国の土を踏んでの演奏会であった。
ラファエル・クーベリックは、1941年チェコ生まれ。父親は、世界的ヴァイオリニストであったヤン・クーベリックである。指揮者を志したのは、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルターの演奏に感銘を受けてのことであったという。
プラハ音楽院でヴァイオリン、作曲、指揮を学び、卒業すると同年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューする。そのチェコ・フィルの首席指揮者に就任したのが1936年。
記念すべき第1回の「プラハの春音楽祭」が開催されたのは、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団創設50周年にあたる1946年。オープニングに演奏されたスメタナの「わが祖国」を指揮したのは、もちろんクーベリックであった。
しかし大戦終結後の1948年にチェコスロバキアでチェコスロバキア共産党を中心とした政権が成立すると、チェコの共産化に反対したクーベリックは、同年のエディンバラ音楽祭へ参加するために渡英、そのままイギリスへと亡命したのであった。(@Wikipedia)
クーベリックがチェコに戻ってきたのは、1989年11月に、「ビロード革命」と称される民主化革命が共産党の一党支配を倒したからであった。ベルリンの壁崩壊の年である。
このオープニング・コンサートに先立って、クーベリックは1ヶ月前からチェコに入り、父の墓を詣でるなどして、チェコ・フィルとのゲネプロに臨んだとのことである。
かつて首席指揮者を務めたチェコ・フィルの指揮台に、42年ぶりに立ったクーベリックの感慨は、いかばかりであったろう。
この日の演奏は、日本でもFM東京系民放FM各局により日本でも生中継され、大きな話題を呼んだ。
実際にこの演奏会に立ち会った歌崎和彦氏は、その日の感動を以下のように記している。
“5月12日のオープニング・コンサートは、クーベリックとチェコ・フィルにとっても、また会場の美しいスメタナ・ホールをぎっしりと埋めつくしたチェコの人々にとっても、やはり特別のものであったにちがいない。
ファンファーレとともにハヴェル大統領夫妻が入場し、チェコ国歌が演奏されると、クーベリックがまだ祖国を去った時にはまだ生まれていなかったような若い女性までが、感きわまったようにハンカチで目蓋を押さえていたのも印象的だった。そして、そうした感激と興奮を抑えるように固唾を飲んで見守る聴衆に静かに語りかけ、万感の思いを噛みしめるようにじっくりとしたテンポではじまった「ヴィシェフラト(高い城)」の演奏には、クーベリックの長年にわたる望郷の念と、42年ぶりに祖国の土を踏んだ感慨が交差しているように思わずにはいられなかった。”
そんな記念すべき「わが祖国」のライブ演奏を、わたしたちはCDで聴くことができるし、DVDで試聴することもできる。
「わが祖国」は、6つの曲から成るスメタナの連作交響詩である。
1、ヴィシェフラト(高い城)
ヴィシェフラトとは、プラハの南部にある古城のこと。かつてボヘミア国王が居城としていたこともあった城跡で、吟遊詩人がいにしえの王国の栄枯盛衰を歌うという曲である。
2、モルダウ
3、シャールカ
シャールカとは、チェコの伝説に登場する女戦士のことである。恋人に裏切られ、全男性への復讐を誓ったシャールカの戦いが描かれている。
4、ボヘミアの森と草原から
5、ターボル
ターボルとは南ボヘミア州の古い町で、フス派の重要な拠点であった。フス派とは、チェコのヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)信者たちのことである。
6、ブラニーク
ブラニークとは中央ボヘミア州にある山で、ここにはフス派の戦士たちが眠っており、また讃美歌に歌われる聖ヴァーツラフの率いる戦士が眠るという伝説もあるのだそうだ。
さて、クーベリックの演奏である。
実際の演奏会でも、前半の3曲が終わったところで休憩が入るのが通例であるが、前半の3曲は会場の興奮に呑み込まれまいとしているかのような、どちらかと言えば「抑え気味」の演奏である。
でも、やはりチェコに生を享けた血は争えないのであろう、「モルダウ」での農民の踊りの場面や、「シャールカ」での宴会の場面などでは、いかにも「ご当地ソング」を歌うかのような「乗り」が聴ける。当日、会場にいたチェコの聴衆は、思わず踊り出したくなったことであろう。
後半なると、ぐいぐいとクーベリックのドライブが始まる。
前半の「乗り」は、「ボヘミアの森と草原から」の中の、農民たちの収穫の踊りや、喜びの歌でも存分に披露される。
しかし、なんと言っても白眉は最後の2曲である。
フス教徒たちの厳しい戦いを暗示するかのような「ターボル」の冒頭。フス教徒の賛美歌から取られたというモチーフが繰り返されながら、曲は実際の戦いを描写するような音楽となっていく。
その音楽に、クーベリックは亡命後の自身の姿を重ね合わせていたのであろう。鬼気迫る演奏である。
そんな雰囲気は、「ターボル」からアタッカで続く最後の「ブラニーク」に入っても維持されている。だんだん明るさを帯びてくる音楽は、最後のフィナーレに入って金管楽器によって奏される「ヴィシェフラト」のテーマによって最高潮に達する。感動的な演奏である。
この「プラハの春音楽祭」の翌年、クーベリックとチェコ・フィルは来日公演を行った。そのときの演奏がNHKで放映された。録画して何度も視聴した。演奏そのものとしては、前年の「プラハの春音楽祭」でのライブ録音より、演奏の質は高いように思った。「こなれて」いたのである。
このときは、演奏が終わってクーベリックが楽団員を立たせようとしても、楽団員たちがひたすらクーベリックに拍手を贈っていて、立たずにいた場面が印象的だった。いかにクーベリックが楽団員たちから深く尊敬されているかということがよくわかる感動的なシーンであった。
そのクーベリックも、この歴史的な音楽祭から6年後の1996年8月11日にこの世を去った。今は、父と共にチェコのヴィシェフラット民族墓地に眠っている。
きっと、父子ともに、泉下で今年の「プラハの春音楽祭」をさぞや楽しみにしていることであろう。