スーさん、「あげひばり」を聴く。

6月11日(火)

気がつけば6月もそろそろ半ばである。
この1ヶ月間というもの、日記を更新していなかった。
特に忙しかったというわけではない。その間、音楽を聴いていなかったわけでもない。
たぶん、積ん読本をせっせと読んでいて、日記を書こうという気が起こらなかったのだと思う。読むことと書くことが、自分の中ではうまくバランスしていないのであろう。

この1ヶ月、職場への行き帰りにずっと聴いていたのは、ヴォーン・ウィリアムズの「揚げひばり」だった。
「揚げひばり」をわざわざ選んだわけではない。エルガーのヴァイオリン協奏曲を聴こうと思って選んだCDに、たまたま「揚げひばり」がカップリングされていたからである。

「揚げひばり」を初めて聴いたのは、ネヴィル・マリナーがアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを指揮したレコード(1972年)であった。
そのレコードには、他に「タリスの主題による幻想曲」、「グリーンスリーブズによる幻想曲」、「「富める人とラザロ」の5つの異版」が入っていた。
もともと「グリーンスリーブズによる幻想曲」を聴きたくて購入したレコードだったので、この「揚げひばり」については、ヴァイオリンの独奏が静かで美しい曲というような印象しか持っていなかった。

ところが、今回久しぶりに「揚げひばり」を聴いたところ、ひどく心に染みたのである。
時期的に、実際ひばりの鳴き声を聞くこともあるし、5月の爽やかな空気にはぴったりの曲だったからかもしれない。
演奏は、ナイジェル・ケネディのヴァイオリン、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市響である。

「揚げひばり」は、ヴォーン・ウィリアムズが42歳(1914年)のとき草稿が書き上げられ、第一次世界大戦による中断を経て、戦後の1920年に完成してピアノ伴奏版として初演された。
管弦楽用に編曲されたのは翌1921年。「ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス」と副題が付けられて、マリー・ホールのヴァイオリン、エイドリアン・ボールトの指揮により、ロンドンにて再初演された。

作曲者は、イギリスの作家ジョージ・メレディスによる同名の詩に触発されてこの曲を作ったとのことで、スコアの冒頭には実際にその詩が引用されている。
以下の詩である。
“ひばりは舞い上がり 周り始め
銀色の声の鎖を落とす
切れ目無く沢山の声の輪がつながっている
さえずり 笛の音 なめらかな声 震えるような声
天が満ちるまで歌うひばりが
伝えるのは地上の愛
そしてどこまでも羽ばたき続ける 上へ上へと
我らが谷はひばりの黄金の杯
そしてひばりは杯からあふれる葡萄の酒
ひばりは我らをともに空へと引き上げる
ひばりが天空に描かれた光の輪の中に
姿を消すと 幻が歌い始める”(訳は、http://yu-napicvid.jugem.jp/?eid=71による)

しかし、何度も何度もこの曲を聴いていると、そのうち「田園風景の中、高く飛ぶひばりの姿を描いた曲」という、どの解説書にも書いてあるようなイメージが浮かばなくなってきた。
ヴァイオリンの音色が、中国の二胡(二本の弦を間に挟んだ弓で弾く楽器)のように聞こえるのである。
二胡の名曲として広く知られているのは、「二泉映月」であろう。二胡の最高傑作の一つとされ、ほとんどの中国人に知られている名曲中の名曲で、二胡を独奏楽器として高めた不朽の名作と言われる。
泉に映る月を見ながら、自らのそれまでの人生の歩みを振り返るという情感溢れる曲である。

「揚げひばり」が二胡の独奏で演奏されているかのように想像すると、急にその音楽は郷愁に満ち溢れた曲に変わる。
故郷を遠く離れ、片時も忘れたことのない自分の故郷の風景と、ふるさとの人々を思い出す音楽に聞こえるのである。

さらにイメージは膨らむ。
中国風の音階と二胡、そして故郷への郷愁となれば、思い出すのは中島みゆきの1994年の「夜会」である。「シャングリラ」と名付けられた舞台で歌われた「シャングリラ」や「生きてゆくおまえ」の世界に繋がっていくのである。
母親を陥れ「シャングリラ」に住む母の敵(名は美齢。母の友人だったが、裏切って母の代わりに大金持ちの家に嫁いだ)への復讐のために、その家にメイドとして潜り込んだ娘の物語である。舞台はマカオに設定されている。
ヴァイオリンが奏でる哀愁を帯びたメロディーは、シャングリラから自分の娘と友人のことを思い出す「美齢」の得も言われぬ切なさのようにも聞ける。

名曲は、作り手の思いから離れて、オーディエンスにいろいろな想像を許容する。
それが名曲の名曲たる所以なのだと思う。