スーさん、マーラーを聴く

11月5日(火)

先週の土曜日(2日)は、エリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第6番を聴くために、横浜のみなとみらいホールへ。
開演は午後3時だったので、午前中に浜松を出発、お昼すぎに到着して娘と合流、家族揃ってランドマーク・プラザにて昼食を食べ、食後のコーヒーを飲んで、ゆっくりとホールへ向かった。

会場はほぼ満席。このコンビによるマーラーの人気の高さがうかがえる。
私たちのチケットは、今年の1月に苦労して手に入れた「セット券」。6番から9番まで4回の演奏会がセットになったチケットである(このセット券の購入に関しては、1月22日付の日記に書きました。入手するのがなかなかタイヘンでした)。

第6交響曲の実際の演奏を聴くのは、今回が初めてである。
この交響曲に関しては、合唱も入らない純粋の器楽曲なのであるが、特に管楽器を中心に演奏が難しいためか、マーラーの交響曲の中ではあまり実演の機会に接することの少ない曲である。
そんな事情もあって、とりわけ今回はチケットを入手した今年の初めから、楽しみにしていた演奏会であった。

マーラーの第6交響曲は、「悲劇的」と題されている。これは、マーラー自身が命名したとのことである。
何が「悲劇的」なのか。
人がこの世を生きていくということが、である。
それは「悲劇的」なことなのである、とマーラー自身がそう考えているように聴こえる曲である。

第1楽章は、低弦が力強く刻むリズムに乗って開始される。まるで人生という荒波に敢然と立ち向かっていく英雄の姿を彷彿とさせるような勇ましい行進曲である。
その英雄を支えてくれる人がいる。よき伴侶である(副次部の主題)。第1楽章を完成させたマーラーが、作曲小屋から下りてきて、妻のアルマに「ある主題の中で、きみを表現しようとした」と語った主題である。
英雄も時に休息することもある。癒してくれるのは山や湖などといった美しい自然のたたずまいである。
エネルギーを得た英雄は、再び人生という戦いに挑んでいく。そうして、高らかに勝利を宣言するのである。

第2楽章はスケルツォである。ティンパニの連打が、第1楽章の雰囲気を思い出させる。スケルツォ(諧謔曲)という名が相応しくないと思われるほどに、重々しい始まりである。人生の闘争はひたすら続いていくのだ。
しかし、家に帰れば子どもたちの無邪気な姿がある。変拍子のトリオでは、マーラー自身が「砂場をよちよち歩いている子どもたちのたどたどしい遊びを描いた」と彼の妻に語っている。
そんな家族とのふれあいもつかの間、英雄は再び闘争の場へと戻ってゆく。

第3楽章は、マーラーが作曲した全ての緩徐楽章の中でも、とりわけ美しく、そして哀しい曲である。
人生の闘争に疲れ果てた英雄は、ときにそんな闘争から身を引こうと考える。こんな人生に意味があるのかと自らに問う。過去を振り返り、思わず悔恨の情に苛まれる。
家族や友人たちと過ごす時間はかけがえのないものだ。これからは、そんな時間を大切にして生きていこうと思う。しかし、あらゆる人に等しく待っているのは死だ。死は、自分のかけがえのないものを容赦なく奪っていってしまう。そのいかんともしがたい不条理!
曲が高調したところで鳴らされるカウベルが何とも印象的である。

第4楽章は、不気味なチューバのつぶやくようなソロで始まる。打楽器群による「運命の打撃」を経て、闘争の行進曲は開始される。その頂点で「運命の打撃」が打ち下ろされる。そこから、さらに人生は混迷を深めてゆく。
闘争も終わりを迎え、最後の「運命の打撃」が人生の幕を下ろす。所詮人は死からは逃れられないのであるとでも諭されるかのように。

それにしても、この第4楽章は異様な力を持った音楽である。この音楽を駆動しているものは何であろうか。
この曲を作曲したとき、マーラーは自身の経歴の最高潮にあったと言ってよい。
作曲の前年には、生涯の伴侶となるアルマ・シントラーと結婚、長女が誕生している。第6交響曲を作曲した年には次女が生まれ、家庭生活が最も充実していた時期であった。
また、シェーンベルクやツェムリンスキーらと創造的音楽家協会を設立、その名誉会長に就いて若き芸術家たちのリーダーとして自他ともに認められていた。仕事の面でも、充実した毎日を過ごしていたのである。
そんな充実した生活ぶりが、この第4楽章の「表」の推進力となっているのではなかろうか。
そして、その背後にある「裏」の推進力とでも呼ぶべきものは、誰にでも確実にやってくる死というのものへの恐れの感情である。
やがて、その死への恐れは、「大地の歌」や第9交響曲となって結実してゆく。

インバルは、耽美的とも言えるほどにテンポを自由に動かして、情感溢れる指揮ぶりであった。
都響の面々も、特に高度の演奏技術を要求される打楽器と金管セクションを中心に、すばらしい熱演であった。
このコンビによるマーラーは、聴けば確実に感動することができるという、言わば「ブランド」としての演奏会として広く認知されるようになっていると思われる。
都響は、伝統的にマーラーの作品を重要なレパートリーとしてきた楽団である。1986年から10年以上音楽監督を務めた若杉弘や、98年から8年間音楽監督を務めたガリー・ベルティーニなどが、積極的にマーラーの交響曲の全曲演奏を行ってきた。
インバルも、フランクフルト放送交響楽団の音楽監督時代からマーラーの交響曲全集を録音するなど、マーラーの交響曲を得意としてきた。
指揮者、交響楽団ともに、マーラー演奏のブランドを確立してきていたのである。そんな両者がコンビを組んでのマーラーである。「ブランド」として認知されるのも当然の成り行きであったと言えよう。

その6番、CDで個人的に好きな演奏は、サイモン・ラトルが古巣のバーミンガム市響と入れた2枚組。最初の低弦の刻むリズムから、この曲の持つエネルギーを感じさせてくれる演奏である。
サイモン・ラトルのマーラーは、この6番と、続く7番、そして2番「復活」がマイ・ベストである。

さて、今週末(8日)には7番が待っている。この曲も、実際の演奏を聴くのは初めてである。
2週続けてマーラーの演奏会!何という贅沢な週末であろう。