2月9日(日)

私立大学入試たけなわである。
それに触発されたというわけではないが、たまたま大学時代に所属していたクラブがFacebookのページを立ち上げたということを知り、暫し学生時代のクラブのことを思い出すうちに、この得難い学生時代のクラブの経験を書き残しておきたいと思うようになった。
記憶はあやふやなところもあるのだが、4年間の大学でのクラブの思い出を、今でも印象に残っていることを中心に書いてみたい。

エピソード0(大学に入学するまで)

高校時代は、自分の将来について深く考えることもなく、帰りのHRが終わればすぐにテニスコートへと向かい、ひたすらボールを追いかけるテニスボーイの日々であったのだが、3年生になってインターハイの予選も終わってしまうと、さすがに自分の進路について多少なりとも考えるようになってきた。
特にこれといって就きたい職業もなかったので、中学校を卒業するときに漠然と考えていた希望(教員になること)を第一に考え、先生になるのなら高校の先生がいいなあと思い、教育学部で高校教員養成過程のある大学を探してみた。すると、当時の日本の大学で高校教員養成過程を開設していたのは、東京教育大学(現在の筑波大学)と広島大学の教育学部しかないことがわかった。共に、当時の国立大学の入試制度区分によれば、難関と言われる国立一期校に編制されている大学であった。

何となく、東京の大学は自分には合わないだろうと根拠もなく信じていたところがあったので、自然と第一希望は広島大学ということに定められた。一期校の入試は科目数が多い。数学は数Ⅲまであるし、社会と理科は2科目選択であった。
勉強するのは大変であったが、目標ができるとそれに向かって頑張れるものである。模試の結果は五分五分というところであったが、自分では何としても合格するぞとの意気込みで受験勉強に励んだのであった。

秋が過ぎ冬になると、周囲ではどこの大学を受験するのかということが話題になってくる。あそこはキャンパスがきれいだとか、ここは学費が安いなどという情報が交換されるようになってくるのである。
友人のシバタから、「私立は受けないのか?」と聞かれた。「決めてないんだけど、どこがいい?」と尋ねると、シバタは兵庫県にある関学というところを受けると言った。「カンガク?」「かんさいがくいん、って言うんだ。パンフとか見ると、きれいでいいところだぜ」と教えてくれた(今になって思えば、「かんさいがくいん」と言うほどに、彼の情報もテキトーなところがあったのである)。初めて聞く名前の大学だった。「ふーん。そんなにいいところなら、オレも受けてみるわ」と、深く考えもせずに受験することにした。
他には、社会科の教科書に執筆者として多く名前が乗せられていた東京の私立大学と、当時は最も学費が安いとされていた関西の私立大学も受けることにした。

入試の日が近づいてきた。
最初に受けるのが、関学だった。父親が旅行社に行って列車と旅館の手配をしてきてくれた。泊まる旅館は宝塚温泉。電車は、大阪(か新大阪)から福知山線に乗り換えて行く切符だった。
今から思えば、わざわざ福知山線で行くことないでしょと思うところだが、当時は自分も自分の父親も知らなかったのだ、「阪急」という私鉄のあることを。
とにかく、福知山線を乗り継いで宝塚駅に着いた。その日に下見に行ったのかどうかは覚えていない。着いた旅館は、ひどく古めかしい旅館であった。他の受験生たちといっしょに、大部屋に案内された。最初は誰とも話をしなかったが、そのうちに秋田から来たという受験生と仲良くなった。夕食後、一緒にお風呂に入りに行こうということになった。
そんなに大きな風呂ではなかった。湯はひどく熱かった。蒸気が濛々とするお風呂場であれこれ話をしながら、つい長湯をしてしまった。そのうちに、頭がボーッとして耳が聞こえなくなってきた。意識がだんだんと薄れてきた。一緒に入浴していた秋田の受験生が部屋まで運んでくれて、旅館の人に通報してくれた。どうなったのかはよく覚えていない。ただ、あまりに暑かったので、ほぼ半裸の状態で大部屋に転がっていいたような気がする。もちろん、前日に勉強するなどということは一切できないままに、試験当日の朝を迎えたのであった。

若いときは、回復も早いものである。翌朝は、昨晩のことなどけろりと忘れて、朝ごはんをしっかり食べ、件の秋田の受験生と一緒に試験会場へと向かったのであった。
そのとき、たぶん初めて阪急電車に乗った。降りた駅は甲東園。そこから、多くの受験生たちと一緒に坂道を上った。坂を上り切ったところに高校があった。そのずっと奥に、関学の正門が見えた。いいところだなあと思った。
試験のことはほとんど記憶にない。とにかく、無事に試験を終え、再び宝塚まで戻って、福知山線にて帰途に就いたはずである。

後日、合格通知が来た。もう一つの関西の私大は不合格であったが、東京の私立は合格した。あとは、目標の広島大学に挑むだけとなった。
広島行きは勝負なので、父親に「いいところへ泊まりたい」と要望した。宝塚の旅館は言うに及ばず、東京の宿も、まるで普通の家のような旅館だったのである。
宝塚も東京も、それぞれJ社に頼んだようだったが、父親は今度はK社に頼んでくれた。「ヒロデン」とかいうホテルだった。名前からして、どうも期待できそうにない感じがした。

当時、新幹線は岡山までしか開通していなかった。岡山からは山陽本線の特急に乗り換えて広島まで。途中の窓から見える中国路の景色が、なんとものどかでいい感じであった。
広島駅に着き、さっそくホテルへと向かった。ホテルは駅のすぐ近くだった。行ってびっくりした。大きくてすばらしくきれいなホテルだったのである。
ホテルの夕食はフルコースのディナーだった。それまでフルコースディナーなどというものなど一度も食べたことがなかったため、ナイフとフォークをどう使ったものやら、さっぱりわからなかった。周囲を見ながら見よう見まねで食べたが、何を食べたのか全く記憶には残らなかった。
試験を終えてホテルに戻ると、テレビで試験の解答を放送していた。数学があまりできていないという印象であった。合格は難しいかもと思った。

案の定、広島大学は不合格であった。
当時の学級担任であったウチヤマ先生からは、地元の国立二期校を受験するよう勧められたので、友人と一緒に受けることにしたが、既に心は関学に行くことを決めていた。
そんな気持ちで受験した二期校は、もちろん合格しなかった。

3月の下旬になって、関学の下宿を探しに行くことになった。父親が同行してくれた。まずは大学の学生課へ行き、下宿の物件を探したのであったが、そんな時期にはもう手頃な下宿など残ってはいなかった。
数少ない下宿の中から、宝塚の山中にある普通の家庭の離れを下宿に提供しているところへ行ってみることにした。宝塚の駅から温泉街を通り、山を中腹くらいまで上ったところにある家だった。
離れには下宿生4人が寝泊まりできる部屋と、簡単なダイニングがあった。便は悪いが、もう選択の余地はなかった。

4月、家を離れ、宝塚での下宿生活が始まった。
すぐに講義が始まるわけではなかったが、あれこれ手続きを済ませるために大学へは毎日通った。
キャンパス内は、あらゆるところに新入生勧誘のためのクラブの「出店」が出ていた。どこのクラブも、けっこう積極的な勧誘ぶりだった。

クラブは、テニス部に入ろうと思っていた。
しかし、どこをどう探しても、テニス部の「出店」はなかった。仕方がないので、社会学部の裏にあったテニスコートへも行ってみた。部員たちが一生懸命練習していた。誰か声を掛けてくれるのかと期待していたが、誰にも声を掛けられることはなかった。
高等部のファームがあるから新入部員は勧誘しないのかと、やや失意のうちに正門を出ようとしたとき、図体の大きなお兄さんに声を掛けられた(あとからわかったことだが、この声を掛けてくれた先輩は、部内でも評判の怪力の持ち主である4回生カメイ先輩であった)。
「キミ、高校時代は何部に入っていたの?」
「テ、テニス部ですけど」
「あ、そう。んじゃ、中学んときは?」
「す、吹奏楽でした」
「吹奏楽??」
とたんにそのお兄さんの目の色が変わった。
手をがっしりと組まれ、「ちょ、ちょっと、ウチの部室まで来ない?」と言われて、学生会館の「応援團」と書かれた木札が掲げられている部屋まで連れて行かれた。

中に入ると、学生服を着たオカッパ頭のお兄さんが応対してくれた。
「まあ、メシでも食べて話しようや」と、階下にある学生食堂まで誘われた。
これが、疾風怒濤の大学クラブ生活のプロローグだった。

(つづく)

12月28日(土)

今年も残すところ3日あまり。というわけで、恒例の10大ニュースを。

1)旅行
2月、けいぞうさんのお誘いで、内田先生たちと信州は白馬村のスキー場でのスパルタン・スキーに参加。スキーをしたのは、たぶん15年ぶりくらいで、転んでばかりだった。「スパルタン」の名に恥じぬハードな3日間で、一生分のスキーをしたような気持ちになった。
伊豆は、3月の河津桜、9月の伊東温泉、10月の雲見温泉海賊料理祭りへ。宿は、伊東温泉以外が西伊豆のまつざき荘。ほぼ定宿となりつつある、たいへんによい宿である。
京都は、4月は修学旅行の引率と、8月の五山送り火と川床料理、11月の紅葉見物へ。貴船の川床料理は、まるで別世界のような涼しさを堪能した。紅葉見物も、毎年違うところを見に行く楽しみがある。京都は懐が深い。
東京へは、8月の終わりにお台場のサンダーバード博へ。娘と合流して、新宿にて家内の誕生日祝いの小宴。
12月は、大阪にて開催された「数学の演奏会」へ。独立研究者である森田さんの貴重なお話や、釈先生との対談を拝聴することができた。翌日は甲子園ボウルへ。その日の夜は、神戸ルミナリエを初めて見た。帰りは、近江八幡市へ。甲南合気会の福井さんのご紹介で、琵琶湖が一望できるフレンチレストランを訪ねてみた。今まで味わったことのないような美味しい料理をいただくことができた。
そして、甲南麻雀連盟の今年最後の例会。本部の例会は、ほとんど日曜日に開催されるので、長期休業中くらいしか参加することが叶わなくなったが、内田先生をはじめ、久しぶりに本部のいろいろな人たちと再会でき、たいへんに楽しいひとときを過ごすとともに、たくさんの元気をいただいた。
これらの旅行は、家内も同行してプリウスで行くことがほとんどであった。しかし、そのプリウスも購入してから早8年。車はどこも悪くはないのだが、いかんせんナビの地図が古くなってあまり使い物にならなくなっていたので、この年末に新しくポータブルナビを購入して取り付けた。これで、来年以降も迷うことなくどこへでも行けるようになったのである。

2)武道
5月、大阪にて、初めて光岡導師の韓氏意拳講習会を受講。光岡先生は、物腰は穏やかなのだが、その全身から発するオーラがひしひしと感じられ、講習そのものよりも、そのオーラに圧倒された。
同月、初めて全日本合気道演武大会に参加するために、東京の日本武道館へ。全国の合気道愛好者たちの演武を見るだけでなく、自分もその演武の一部に参加して、あらためて合気道のすばらしさを実感した。
6月、毎月一回、指導に来てくださっている北総合気会山田師範より、合気道の技の上達のために剣の理合を知るという目的で、香取神道流の剣術を教えていただけるようになった。こんな剣の使い方もあるのだと驚くことばかりであった。

3)インバル、都響のマーラー
1月の5番、11月の6番と7番、都合3回の演奏会を聴きに、横浜はみなとみらいホールへ。
特に、6番と7番は、ほとんど実演の機会がないので、貴重な演奏会であった。もちろん、3曲ともすばらしい演奏で、特に5番のアダージェットの冒頭部分は、今でも脳裏にしっかりと焼き付けられている。

4)読書
今年の読んだ本のベスト3は、以下の3冊。
①『聴衆の誕生』(渡辺裕、中公文庫)音楽を言葉でどう表現するかということについて、蒙を啓かれた。
②『京都の平熱』(鷲田清一、講談社)京都という街のことを語っていながら、人間論へと展開されていく自然さが、いかにも京都の町並みとぴったり符合しているすばらしい著作である。
③『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子、講談社現代詩書)日本語が持つ言語的特性を正確にとらえつつ、「人が生きるということ」はどういうことなのかということを、現代詩を手掛かりにして考えている。その姿勢がいかにも真摯である。こんなすばらしい書き手のいることを今まで知らずにいた不明を恥じたい。
こうして挙げてみると、著者はみんな「わ行」の人たちであった。

5)電子書籍
昨年末に購入したスキャナー(ScanSnap S1500M)を有効活用しようと思い、本の「自炊」をしてみた。初めは、古くなって、紙の質も劣化しつつあった本から始めたが、やっていくうちにコツも覚えて、あまり時間をかけずにできるようになった。スキャンした本は、iPadの「i文庫HD」というアプリで読んでいるのだが、このアプリはまさに「神アプリ」である。このアプリを使えば、どんな「自炊本」も快適に読むことができる。
電子書籍リーダーも購入した。KindlePaperWhiteである。このリーダーのよいところは、読みたい本がたちどころにAmazonのKindle本ストアからダウンロードできてしまうところである。無料本のラインナップも、同様の電子書籍ストアの中では最も充実しているのではなかろうか。ただし、このKindlePaperWhiteにも弱点はある。日本のほとんどの書籍は左開きなのだが、自炊本については左開きができないのである。
その左開きができるリーダーが、SONYのReaderであった。購入しようかどうか迷っていたところ、大阪の仲野先生から譲渡していただけることになった。さっそく、自炊した『海辺のカフカ』を読んだ。これが、自炊本初の読了本となった。
かように、自分にとっては「電子書籍元年」とも言うべき年であった。

6)MacとiPhoneの新しいシステム
9月、iPhoneのOSが新しくなった。フラットデザインと呼ばれる、たいへんすっきりした画面で、操作性も向上した。何より、一つのフォルダに、たくさんのアプリをまとめることができるようになったのがありがたい。
10月、Macも新しいOSであるMarvericksにアップデートされた。まだ、どこがどう新しくなったのか使いこなせていないけれども。

7)K.G.ファイターズ
正月3日のライスボウルから始まって、今年も母校のアメリカンフットボール部の応援に駆けつけた。
ライスボウルは、試合終了間際までリードしていたにもかかわらず、最後の土壇場で逆転負けを喫してしまった。でも、KGらしいすばらしいフットボールを見せてくれた。
11月は関西学生リーグ最終戦の立命戦へ。0-0スコアレスドローという試合を初めて見た。
12月は甲子園ボウルへ。KGの3連覇のかかった試合だったが、攻守で日大を圧倒して、見事3連覇を果たしてくれた。見応えのある試合だった。

8)表彰
2月、日本ソフトテニス連盟から、ジュニア指導者の表彰状をいただいた。畏れ多いことである。
11月、市中体連からは、「優秀指導者功労賞」をいただいた。表彰式には出られなかったが、後日中体連ソフトテニス部の先生たちが集まって、お祝いの会を開いてくださった。ありがたかった。

9)訃報
8月、家内の母が亡くなった。昨年11月に足を骨折して以来、ずっと病院での生活が続いていたが、暑い日が続いた夏に帰らぬ人となった。京都五山の送り火を見に行ったのは、その母を送る意味もあった。
4月には、イギリスの名指揮者、コリン・デイヴィスが亡くなった。彼の振ったシベリウスはすばらしかった。
12月、同じくイギリスの著述家、コリン・ウィルソンが亡くなった。彼の音楽についての著作を読んだばかりだった。

10)ウォーキング
夏休みから、ウォーキングを始めた。平日は帰宅してから、休日は早朝、雨で外に出られない日以外は、ほとんど毎日続けている。しかし、その効果はうかがい知れず、たまに会う人からは決まって「太ったでしょう」と言われる始末。精進せねばならない。

こんな一年であった。

それでは、みなさまよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

12月21日(土)

コリン・ウィルソンが亡くなった。
“コリン・ウィルソン氏82歳(英国の著述家)。5日、英南西部コーンウォール州の病院で死去。
英中部レスターで労働者階級の家庭に生まれた。16歳で学業を放棄。哲学書などを読みあさり、昼はロンドンの大英博物館図書室で執筆し、夜は野宿した。1956年に発表した小説「アウトサイダー」がベストセラーとなった。犯罪・心理小説、戯曲も手がける多作の著述家として知られた。”(@読売新聞、12月10日)

コリン・ウィルソンのことは、内田先生が『アウトサイダー』を読まれていたということから、その名を知ることとなった。その『アウトサイダー』は、古本で購入したものの未読のままであった。
今年の夏、東京の娘の勤める店舗で、『コリン・ウィルソン音楽を語る』(河野徹訳、冨山房)という本を見つけた。かの『アウトサイダー』の筆者であるということはすぐにわかった。さっそく購入して読んでみた。

最初の「まったく個人的な前置き」にこうある。
「音楽に関する私の知識は、おそらくイギリス中のどんな批評家に比べても劣るだろう。私はただ、二十年間夢中で音楽を聴いてきた結果の一部を伝えたかっただけである。」と断り、この著作の基本的なスタンスを、「実存的批評」すなわち、「私にとっては、いかなる芸術作品も、芸術家のパーソナリティや彼の生活からはっきり切り離して考えることなどできない」として、「批評家の仕事は、芸術家がどの程度偉大な人間であるかを決定すること」であって、「芸術作品の本質は、それが芸術家の個人的真実を表現しているかということにあり、作品に関する唯一の重要な問題は、芸術家の真実にどれほどの価値と強烈さが伴っているか、ということ」を追究することであると述べている。

興味深いスタンスである。
作品そのものを批評するのではなく、その作品を生み出した作者の「個人的真実」の価値を測るというのである。

そんな視点で作品を聴いてみると、例えば「バルトークの作品は、人間バルトークに関してはほとんど語らない」ということになる。それは、バルトークの作品が、そのパーソナリティから生じる基本的な目的を、曲の背後に感じ取れないからだと言う。
音楽は、散文同様に物事を述べることできないが、それでも音楽は、作曲家が目下展開させている世界観と、彼自身のパーソナリティのなかで生成しつつある化学的変化を表現できるものであるから、「大作曲家というものは、なにかその語法を用いて述べるべき内容をもたなければならない」ということになる。
つまりは、バルトークは大作曲家ではない、ということになるのである。

このようにして、モーツァルト、ベートーヴェンから始まって、ロマン派、スクリャービンとブロッホ、果てはジャズ、そうして自国イギリスの音楽事情、オペラからアメリカの音楽までが幅広く論じられている。
中でも、蒙を啓かれたのは、自国イギリスの作曲家たちのことであった。

イギリスを代表する作曲家であるエルガーについては、ブラームスと同様に「微細画家」(ミニアチュリスト)で、「偉大なイギリスの作曲家が現れるまでは」との条件付きで、「ほぼ最上のおすすめ品」と評しているが、ヴォーン=ウィリアムズについては、はっきりと「厳粛でエリザベス朝風な表現法が気に入らない」として、その代表的な9つの交響曲についても「音楽的語法が局限されている」として、高くは評価していない。
ブリテンについては、管弦楽は「最上のできばえ」としているが、声楽は「射程の短さが判明してくる」として、「何かしら排他的で偏狭なところがあるように感じられる」と辛辣である。

ところが、今まで聞いたこともない作曲家については、かなりの高評価で紹介されている。
「お気に入り」として、まず紹介されていたのは、ジョージ・バターワス。特に、連作歌曲「シュロップシャーの若者」は、「英語で歌われるものとしては最も美しい」と評されている。

さらには、アーノルド・バックス。中でも、その7つの交響曲は「シベリウスのそれと同じくらいに非凡」と評され、特に第3番の交響曲は「最もりっぱな作品」として取り上げられている。ヴォーン=ウィリアムズなどと比べると、その取り上げられ方の違いが際立つのである。

そうして、ジョン・アイアランド。「彼の作品は、すべて繊細で、淡く、柔らかい色彩をもつ」と評され、「彼をイギリスのフォーレと呼べば、単純化しすぎることになろう」と言いつつ、しかしそう呼べば、「彼の音楽の微妙さ、繊細さがわかってもらえよう」と書いている。

有名な組曲「惑星」の作曲家ホルストについては、その「惑星」を「あまりに即時的な感銘を与えるため、深遠な作曲家が書いたものとは思われない」とこき下ろしてはいるものの、管弦楽曲「エグドン・ヒース」や、オーケストラ伴奏付き合唱曲「イエス賛歌」などを聴けば、「彼が、強烈かつ独特な個性を持つ作曲家で、レコード目録に、もっと彼の作品が掲載されて当然、と感じられる」と褒め称えている。

こんな風に褒められれば、どうしてもその作曲家の曲が聴きたくなってしまう。
さっそくネットで検索をかけてみると、どうやらこれらの作曲家の作品は、そのほとんどがNAXOSのレーベルでCD化されていることがわかった。ありがたいことである。

すぐに、バックスの交響曲第3番と、アイアランドのピアノ曲のCDを買い求めて聴いてみた。
バックスの交響曲はあまり印象的ではなかったが、アイアランドのピアノ曲は、とくに「サルニア」がよかった。フランス印象派風の抒情的で美しい旋律の組曲である。

コリン・ウィルソンの音楽批評は、「実存的批評」にこだわるのあまり、あまり一般的ではないと言われるのかもしれない。訳者のあとがきにも、「結局素人は素人にすぎない」と酷評されている。
でも、個人的にはこういう音楽批評もあっていいのではないかと思う。

どんな音楽がいいと感じるかは、人によって千差万別である。
だから、その作品から作曲者の実存を何とか聴き取ろうとする聴き方があってもよいと思う。
そんな聴き方の中から、新しいクラシック音楽が生まれ出てくるような気がするからだ。

「現代芸術の大部分は、いまだに文化的ニヒリズムの荒地のなかでもがいている。しかしそれが抱えている諸問題は、表現手段の枯渇ではなく、内容(あるいはむしろ、内容の欠如)に関する問題である。もしわれわれが、音楽の新しい黄金時代に入るとすれば、それは、シェーンベルクやジョン・ケージやエドガー・ヴァレーズの理論が、われわれに、問題解決の鍵を与えてくれたからではなく、われわれの文化が再び、新しいモーツァルト的、ベートーヴェン的な音楽家を育成し始めるだけの健康をとりもどせたから、ということになろう。」

コリン・ウィルソンの遺言として心に銘じておきたい。

11月12日(火)

先週の金曜日は、午後からお休みをもらって再び横浜へ。
その前の週に引き続いて、エリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第7番を聴くためである。

昨今のマーラー人気の高まりの中でも、この「夜の歌」と題されている7番のシンフォニーは、ほとんど実際の演奏機会に恵まれない曲として扱われてきた。
なぜか?
たぶん、「目玉」となる楽章がないからだ。
いや、そんなことはない、第1楽章のテナー・ホルンのソロも印象的だし、第4楽章のアンダンテ・アモローソ(愛情に満ちて)も魅力的な音楽だし、何より第5楽章のはじける明るさがあるではないか、と思われる向きもあろう。
確かに、どの楽章にも随所にマーラーらしい美しい旋律や印象的なパッセージは聴けるのだが、それが処々に散りばめられているだけなので、どうしても楽章全体としての印象が乏しくなってしまうのだ。

マーラーのそれまでの交響曲には、それぞれ目玉となるような楽章があった。
1、4、6番は第3楽章、2、3、9番は終楽章、5番は第4楽章、8番は第2部、大地の歌はほとんど全ての楽章が、何度も何度も繰り返し聴きたくなるような楽章であるのに対して、この7番にはそのような印象的な楽章がないのである。
どうしてなのだろう?

今回の演奏会のパンフレットで解説を書かれている岡田暁生氏は、それを「<物語>が見えてこない」からだと書かれていた。
“マーラーの作品というのは、一見難解そうに見えて、実は極めてベタなキャッチフレーズに回収することが可能なように、その進行が作られていることが多い。彼の作品の人気は、こうした「分かりやすい物語性」と決して無関係ではあるまい。(…)しかし、第7交響曲だけは例外だ。”
どうして第7交響曲だけが「例外」となってしまったのだろう?

岡田氏は、そんな「物語」の欠如を、「自然への揺り戻し」であると説明されている。
“この場合の「自然」とは一体何なのか?もちろん、野山や湖や小川や小鳥や動物たちといった、田園的な意味ではあるまい。(…)それは、人間の中の自然、つまり無意識や眠りや食欲や性欲などまでを含めた自然、意識によって加工されていないもののシンボルなのだ。”
つまり、人間の意識下にある「自然」の発露であえるから、それは「物語」にはならない、「物語」を必要としない、ということである。
だから、まるで自分の意識下のイメージをコラージュしたような音楽になってしまうということなのだろうか。

この第7交響曲の大きな特徴は、ポリフォニーだ。
ポリフォニーとは、複数の独立した声部(パート)からなる音楽=多声音楽のことである(これに対して、主声部の旋律に伴奏を付ける和声的な様式の音楽は、ホモフォニーと呼ぶ)。
マーラー自身は、友人に宛てて以下のような手紙を書き送っている。
“リズムもメロディーも完全に違ったものでなければならないのです(他のものはすべて多声になっているだけで、偽装されたホモフォニーにすぎません)。ただ、これらを芸術家が、一つの調和し協和する全体へと整理し統一することが必要なのです。”(1900年、ナターリエ・バウアー=レヒナー宛)
そういう意味では、コラージュに最もマッチするのはポリフォニーであったと言えよう。

そんなマーラーの思いの結実したのが、この第7交響曲だった。
マーラーは、この第7交響曲で、今まで誰も書いたことのなかったポリフォニーの交響曲を作曲したかったのだ。まるで、20世紀の交響曲はポリフォニーで書かれるのだ、と言わんばかりに。

第7交響曲は、1905年に完成された。
その頃のマーラーは、自身の経歴の絶頂にあった。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任して8年、斬新な演出でモーツァルトのオペラを連続公演したり、新しい作曲家のオペラを次々と取り上げては初演したりしていた。
新しい世紀、20世紀を迎えて5年、マーラーはウィーンに設立された「創造的音楽家協会」の名誉会長も務めていたことから、「20世紀の音楽はかくあるべし」という方向性を模索していたのではなかろうか。
そんなマーラーの頭の中にあったのは、究極のポリフォニーだった。
こうして生み出されたのが、交響曲第7番だったのである。
そうして、そんなマーラーの思いは、この第7交響曲を聴いて感激したシェーンベルクらへと確実に受け継がれた。
第7交響曲こそが、20世紀のクラシック音楽への扉を開いたのである。

インバルと都響の演奏は、まさにそんなポリフォニーを細部まで精密に再現した演奏であった。
ここはこんな響きだったのか!という新しい発見に満ちていたのである。それは、特に楽章の出来として評価の別れる第5楽章ロンド・フィナーレにおいて顕著であった。
とかく、「乱痴気騒ぎ」などと評される底抜けに明るいこの楽章の音楽を、インバルはブラスセクションと弦楽器群の掛け合いを見事にコントロールし、時に際立たせ、時に混ぜ合わせ、絢爛たる音楽絵巻を創出していた。
日本におけるマーラー第7交響曲の演奏史の残る、まさに歴史的な名演であったと思う。
そんな、すばらしい演奏に立ち会えることができた僥倖を、演奏会から数日が過ぎた今でも、しみじみと噛みしめている。

11月5日(火)

先週の土曜日(2日)は、エリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第6番を聴くために、横浜のみなとみらいホールへ。
開演は午後3時だったので、午前中に浜松を出発、お昼すぎに到着して娘と合流、家族揃ってランドマーク・プラザにて昼食を食べ、食後のコーヒーを飲んで、ゆっくりとホールへ向かった。

会場はほぼ満席。このコンビによるマーラーの人気の高さがうかがえる。
私たちのチケットは、今年の1月に苦労して手に入れた「セット券」。6番から9番まで4回の演奏会がセットになったチケットである(このセット券の購入に関しては、1月22日付の日記に書きました。入手するのがなかなかタイヘンでした)。

第6交響曲の実際の演奏を聴くのは、今回が初めてである。
この交響曲に関しては、合唱も入らない純粋の器楽曲なのであるが、特に管楽器を中心に演奏が難しいためか、マーラーの交響曲の中ではあまり実演の機会に接することの少ない曲である。
そんな事情もあって、とりわけ今回はチケットを入手した今年の初めから、楽しみにしていた演奏会であった。

マーラーの第6交響曲は、「悲劇的」と題されている。これは、マーラー自身が命名したとのことである。
何が「悲劇的」なのか。
人がこの世を生きていくということが、である。
それは「悲劇的」なことなのである、とマーラー自身がそう考えているように聴こえる曲である。

第1楽章は、低弦が力強く刻むリズムに乗って開始される。まるで人生という荒波に敢然と立ち向かっていく英雄の姿を彷彿とさせるような勇ましい行進曲である。
その英雄を支えてくれる人がいる。よき伴侶である(副次部の主題)。第1楽章を完成させたマーラーが、作曲小屋から下りてきて、妻のアルマに「ある主題の中で、きみを表現しようとした」と語った主題である。
英雄も時に休息することもある。癒してくれるのは山や湖などといった美しい自然のたたずまいである。
エネルギーを得た英雄は、再び人生という戦いに挑んでいく。そうして、高らかに勝利を宣言するのである。

第2楽章はスケルツォである。ティンパニの連打が、第1楽章の雰囲気を思い出させる。スケルツォ(諧謔曲)という名が相応しくないと思われるほどに、重々しい始まりである。人生の闘争はひたすら続いていくのだ。
しかし、家に帰れば子どもたちの無邪気な姿がある。変拍子のトリオでは、マーラー自身が「砂場をよちよち歩いている子どもたちのたどたどしい遊びを描いた」と彼の妻に語っている。
そんな家族とのふれあいもつかの間、英雄は再び闘争の場へと戻ってゆく。

第3楽章は、マーラーが作曲した全ての緩徐楽章の中でも、とりわけ美しく、そして哀しい曲である。
人生の闘争に疲れ果てた英雄は、ときにそんな闘争から身を引こうと考える。こんな人生に意味があるのかと自らに問う。過去を振り返り、思わず悔恨の情に苛まれる。
家族や友人たちと過ごす時間はかけがえのないものだ。これからは、そんな時間を大切にして生きていこうと思う。しかし、あらゆる人に等しく待っているのは死だ。死は、自分のかけがえのないものを容赦なく奪っていってしまう。そのいかんともしがたい不条理!
曲が高調したところで鳴らされるカウベルが何とも印象的である。

第4楽章は、不気味なチューバのつぶやくようなソロで始まる。打楽器群による「運命の打撃」を経て、闘争の行進曲は開始される。その頂点で「運命の打撃」が打ち下ろされる。そこから、さらに人生は混迷を深めてゆく。
闘争も終わりを迎え、最後の「運命の打撃」が人生の幕を下ろす。所詮人は死からは逃れられないのであるとでも諭されるかのように。

それにしても、この第4楽章は異様な力を持った音楽である。この音楽を駆動しているものは何であろうか。
この曲を作曲したとき、マーラーは自身の経歴の最高潮にあったと言ってよい。
作曲の前年には、生涯の伴侶となるアルマ・シントラーと結婚、長女が誕生している。第6交響曲を作曲した年には次女が生まれ、家庭生活が最も充実していた時期であった。
また、シェーンベルクやツェムリンスキーらと創造的音楽家協会を設立、その名誉会長に就いて若き芸術家たちのリーダーとして自他ともに認められていた。仕事の面でも、充実した毎日を過ごしていたのである。
そんな充実した生活ぶりが、この第4楽章の「表」の推進力となっているのではなかろうか。
そして、その背後にある「裏」の推進力とでも呼ぶべきものは、誰にでも確実にやってくる死というのものへの恐れの感情である。
やがて、その死への恐れは、「大地の歌」や第9交響曲となって結実してゆく。

インバルは、耽美的とも言えるほどにテンポを自由に動かして、情感溢れる指揮ぶりであった。
都響の面々も、特に高度の演奏技術を要求される打楽器と金管セクションを中心に、すばらしい熱演であった。
このコンビによるマーラーは、聴けば確実に感動することができるという、言わば「ブランド」としての演奏会として広く認知されるようになっていると思われる。
都響は、伝統的にマーラーの作品を重要なレパートリーとしてきた楽団である。1986年から10年以上音楽監督を務めた若杉弘や、98年から8年間音楽監督を務めたガリー・ベルティーニなどが、積極的にマーラーの交響曲の全曲演奏を行ってきた。
インバルも、フランクフルト放送交響楽団の音楽監督時代からマーラーの交響曲全集を録音するなど、マーラーの交響曲を得意としてきた。
指揮者、交響楽団ともに、マーラー演奏のブランドを確立してきていたのである。そんな両者がコンビを組んでのマーラーである。「ブランド」として認知されるのも当然の成り行きであったと言えよう。

その6番、CDで個人的に好きな演奏は、サイモン・ラトルが古巣のバーミンガム市響と入れた2枚組。最初の低弦の刻むリズムから、この曲の持つエネルギーを感じさせてくれる演奏である。
サイモン・ラトルのマーラーは、この6番と、続く7番、そして2番「復活」がマイ・ベストである。

さて、今週末(8日)には7番が待っている。この曲も、実際の演奏を聴くのは初めてである。
2週続けてマーラーの演奏会!何という贅沢な週末であろう。

10月29日(火)

今年の全日本吹奏楽コンクールが終わった。
今月の19日には、福岡サンパレスホールにて大学の部が行われ、われらが大学の吹奏楽部が11年ぶりに出場、銀賞を得たとの報告に接した。
現役諸君の健闘と、指導にあたられた方々のご労苦をあらためて労いたいと思う。

もちろん、コンクールであるのだから、最上級の賞を得るに若くはない。
しかし、そのことばかりが目的になってしまうと、勝つためには手段を選ばないという勝利至上主義に囚われてしまい、大切なことが抜け落ちていくような気もする。
そのことについて、少し考えてみたい。

例えば、指揮者のことである。
全日本吹奏楽連盟の規定によれば、指揮者は職業演奏家でも問題はないとのことだ。
ということは、極端な話、小澤征爾氏が指揮をしてもよいということである(しないだろうけど)。一昨年、ベルリン・フィルを指揮した佐渡裕氏が指揮をしてもよい(たぶんしないだろうけど)ということである(実際、佐渡氏は学生時代に京都の高校のブラスバンド部を指揮していたこともある)。
もし、小澤征爾や佐渡裕が大学の吹奏楽部を指揮してコンクールに出場した際、最上級の賞をつけない審査員がはたして何人いるだろう。

全国大会での最上の結果を至上命令としている大学については、さすがに小澤征爾や佐渡裕というわけにはいかないが、それなりに知名度のある職業演奏家なり音楽大学の先生なりを指揮者に迎えて、実際のコンクールもその指揮者に指揮してもらえば全国大会で最上級の賞を得るための近道になる、と考えるのは自然な成り行きであろう。
実際、自分たちの学生時代(1970年代)には、某オーケストラの管楽器奏者が指揮してコンクールに出場している大学は存在した。もちろん、毎年のように連続して最上級の賞である金賞を受賞していた。

でも、それってどうなのだろう。
自分たちが学生の頃は、学生のクラブ活動の世界に大人が介入してきているようで、あまり気持ちがいいものではないと思っていたのだが、その気持は今でも変わっていない。

学生のクラブは、学生が自主的に活動するべきものである。
それでは、演奏も含めて、よりレベルの高い音楽活動ができないという向きもあるだろう。
でも、学生の活動というのはそういうものなのではなかろうか。
要は、何を「学生にとって大切なもの」と考えるかということだ。

学生の自主的な活動で、コンクールに関してならば、
①まず出場するかどうかの話し合いから始めて、出場するのなら何を目標とするかということや、具体的にどのように取り組むかということを話し合う。
②課題曲と自由曲の具体的な選曲はそれからだ。
③曲が決まったら、どう解釈するかを話し合う。曲づくりに関しては、この過程が最も重要と思われる。
④曲の解釈についてのコンセプトが決まったら、コンクールの地区予選に合わせて、具体的な練習計画を練る。
⑤あとは、ひたすら猛練習を積み重ねる。それも時間にゆとりのある学生の特権だからである。
⑥ひとしきり曲が仕上がってきたら、そこでようやく大人の出番だ。「この人なら」という人物に交渉し、実際に自分たちの演奏を聴きに来てもらって、具体的なアドバイスを受ける。
⑦そのアドバイスを受けて、さらに話し合いと練習を積み重ね、曲を仕上げていく。
⑧そうしてコンクールに臨む。もちろん、コンクール当日に指揮をするのは学生である。

結果はどうであれ、こんな取り組みが学生を成長させるのではなかろうか。
あれこれ話しあったり、練習を進めていく過程で、互いにぶつかり合うこともあるだろうし、その取り組みから袂を分かつ者が出てくることもあるだろう。
でも、その過程で、互いのコミュニケーション能力やマネジメント能力を磨いたり、自らの音楽性を高めたりというようなことが修得されていくであろう。
トップダウンで、指導者である大人の言われるがままにハイハイと言うことを聞いているだけでは得られない多くことを、コンクールへの取り組みの中で学んでいくのである。
大人が関わるのであれば、「大切なことは、結果よりも過程である」という、「大人の目」で学生たちの成長を見守ってほしいのである。

吹奏楽コンクール大学の部に限って言うなら、「その大学に在籍する学生が指揮するものとする」という規定を新たに設けてはどうだろうか。
「それなりの大人が指揮すれば、もっといい演奏ができるのに」というような思いを持つ人も多かろうと思われるので、連盟が中心になって、学生指揮者向けに指揮法クリニックを実施するようにしてはどうだろう。大学3年生の時から、連盟が推薦する指導者たちの中から、この人に教えてもらおうという指導者を学生が選び、個人的にレッスンを受けさせるのである。個人負担を減らすために、学生連盟から供託金を拠出して補助するようにしてもよいであろう。
そうやって、学生が自信を持って指揮できるようにするのである。

そんなことを考えながら、久しぶりに吹奏楽のCDを聴いてみた。
「LegendaryⅡ(吹奏楽の伝説)」と題されて、1998年にブレーン社から発売されたシリーズCDの中の一枚、「関西学院大学応援団総部吹奏楽部」の演奏である。
学生指揮でも、これだけすばらしい演奏ができるという好個の例である(もちろん身贔屓である)。

9月11日(水)

8月最後の週末は東京に行っていた。
家内の誕生日に合わせて休暇をもらい、一緒にお台場にある日本科学未来館で開催中の「サンダーバード博」を見に行き(それはほとんど夫の希望だったのであるが)、夜は娘とも合流して家族揃って家内の誕生祝いをしようとの目論見であった。

初めてレインボーブリッジを渡ってお台場へ。お目当ての「サンダーバード博」では、懐かしのメカ類の模型や展示を堪能してその日の宿へ。
宿泊は、お台場のちょうど西向かい、東品川の京浜運河沿いのハートンホテル東品川である。行ってみると、特別に予約したわけではなかったのに、最上階の部屋だった。ちょうど角部屋で景色はよし、家内が喜んでくれたのが何よりであった。

娘は、新宿にある中古クラシックレコード・CDを扱うお店に勤めている。仕事の終わるのが午後8時ということで、少し早めに行って実際にお店を見てみることにした。
ホテルから最寄りの駅はりんかい線の品川シーサイド駅。ここから新宿へは、りんかい線まで乗り入れている埼京線で乗り換えなしで行けることがわかった。そのまま新宿駅で下車、やや迷いつつもiPhoneのナビアプリで、何とかお店に辿り着く。

娘が帰省の度に自慢していたとおり、確かにレコードもCDも品数は豊富であった。あれこれ見ているうちに、「おお、こんなCDが出ているのか」と思わず手に取ったのは、クリストファー・ホワイトなる編曲者兼演奏者による、マーラーの交響曲第10番(デリック・クック編曲の全曲版)のピアノ演奏のCDであった。
せっかく娘の働くお店に来たのだからという気持ちも手伝って、すかさずそのCDを買い求めることにした。

マーラーの交響曲をピアノ演奏したCDは、これまでにも何枚か購入していた。
シルビア・ゼンカーとエヴェリンデ・トレンカーの2手のピアノ・デュオによる6番と7番。
ブリギッテ・ファスベンダー(アルト)とトマス・モーザー(テノール)、シプリアン・カツァリスのピアノによる「大地の歌」である。
ピアノ演奏盤のおもしろいところは、大オーケストラでは聴けない音が聴けることだ。
ピアノ版では、いっぺんにたくさんの音は出せないから、いきおい主要な音に限って編曲がなされるはずである。もちろん、どの音をチョイスするかというのは、編曲者の考えによるところが大きいのであろうが、その編曲者がどの音を曲の構成上主要な音としてとらえたか、というところがたいへんに興味深いところなのである。時に「おお、この場面はこの音だったのか」という発見をすることもあるのだ。

東京から帰って、件のCDを何度か繰り返し聴いてみたが、やはり何箇所か「新たな発見」があった。
例えば、第4楽章の終結部での打楽器群の音。こんな音程だったのかと、やや意外な感じであった。さらには、最後に叩かれるバスドラムの音。音程はないはずなのだけれど、低音の不協和音での演奏は何の違和感もなく聞こえたりした。

マーラーの交響曲第10番は、マーラーの遺作である。オーケストレーションまで全て完成されているのは第1楽章のみ。国際マーラー協会によるスコアの全集版でも、10番は第1楽章しか出版されていない。
作曲が始められたのは、マーラーの死の前年である1910年の7月。しかし、それから1年も経たないうちにマーラーはこの世を去ってしまう(1911年5月)。

10番については、略式総譜(4段ないし5段のもの)が全5楽章の最後まで書かれており、そのうちの第1楽章と第2楽章については、オーケストレーションを施した総譜の草稿が作られていたとのことだ。
第3楽章は、最初の30小節までオーケストレーションされていたが、第4楽章以降は略式総譜の各所に楽器指定が書き込んである程度だったという。

マーラーは、完成できなかったこの10番については、妻のアルマにスコアを焼却するよう言い残していたそうだが、アルマはその楽譜を形見として所持していた。
以後、その残された楽譜をめぐって、さまざまな人たちが全曲補筆完成に取り組むことになった。
○マーラーの死後10年以上が経過した1924年、妻のアルマが娘婿であるエルンスト・クルシェネクに10番の補筆完成を依頼、第1楽章と第3楽章が総譜に仕立てられ、同年ウィーン・フィルが初演。
○1946年、クリントン・カーペンターが補筆に着手し、3年後に全曲版が完成。
○1951年、ジョー・フィーラーが補筆に着手、翌年全曲版が完成。
○1959年、デリック・クックがマーラーの自筆楽譜を研究、翌年のマーラー生誕100年を記念して完成したクック版(全曲完成版)をフィルハーモニア管が初演。
○1963年、アルマが欠落していた部分のコピーを提供、翌年それを取り入れたクック版第2稿が完成。その後、クック版は第3稿まで改訂される。
○1983年、レーモ・マゼッティが補筆に着手、6年後に初演。
○2000年、ニコラ・サマーレとジュゼッペ・マッツーカによる版が完成、2001年にウィーン響が初演。
○2001年、ルドルフ・バルシャイによる補筆完成版の初演。
○2011年、イスラエルの指揮者ヨエル・ガンツーによる補筆完成版の初演。
現在、最もよく演奏される全曲版はクック版であろうか。発売されているCDのラインナップを見ても、クック版(第3稿)が圧倒的である。

その10番とは、どんな曲であろうか。
第1楽章:アダージョ
マーラーが自身で完成した楽章である。印象的なのは、クライマックスで長く鳴らされるトランペットのA音。まるで絶叫するかのように聞こえる。
第2楽章:スケルツォ
レントラー(南ドイツの民族舞踊)風の変拍子の楽章である。
第3楽章:プルガトリオ(煉獄)
第2楽章と、続く第4楽章の2つのスケルツォをつなぐような短い楽章である。マーラーの初期の歌曲集である「少年の魔法の角笛」からモチーフが引用されている。
第4楽章:スケルツォ
「悪魔が私と踊る」と作曲者自身が書き込みしているように、金管楽器の強烈なトリルで始まる。印象的なのは、バスドラムが静かに連打するコーダ。最後に、そのバスドラムが強烈な一打を鳴らす。アルマによれば、ニューヨークのホテルの一室でマーラーと共に見た葬列で叩かれた太鼓の記憶だそうだ。
第5楽章
前楽章から続いてバスドラムが連打される中、低音楽器が上昇音を鳴らす。やがてフルートのソロに導かれて、限りなく美しい旋律が奏でられる。盛り上がったところで打たれるバスドラム。
テンポが速められて下降動機が現れる。そうして第1楽章のトランペットのA音が再び響き渡る。曲は静まり、終結部へと向かってゆく。マーラーが「君のために生き!君のために死す!」と、その妻の名とともに書き込んだ部分である。マーラーの書いた音楽の中でも、とりわけ美しい旋律が奏でられる。

演奏は、どの版で演奏されているかということもあるが、個人的に好きなのはマゼッティ版を使用したレナード・スラトキン指揮、セントルイス響によるCDである。
マゼッティ版は、クック版よりも厚めのオーケストレーションが特徴と言われているが、スラトキンの演奏は特に弦楽器をよく鳴らした名演である。

マーラーが完成していない楽曲を、補筆完成したものはどうなのかという議論もあろう。
でも、補筆完成版があるおかげで、マーラーが生涯の最後にたとえようもない美しい音楽を残してくれたということを知ることができる。
それはそれで、聴く者にとっては十分に幸せなことなのである。

8月28日(水)

気がつけば、今日が夏休み最後の日。
今年の夏休みもいろいろなことがあった。
いちばんのできごとは、家内の母が亡くなったことである。

昨年の11月、デイケアからの帰りに転倒して大腿骨を骨折、手術は成功したものの、その後のリハビリははかどらないままに介護老人保健施設へ入所、車椅子の生活となり、思うように身体が動かせない状態が続いていた。
仕事が休みのときには毎回様子を見に行っていた家内の話によれば、痛い痛いと訴えられるのだけれど、どうしてやることもできないので、見ていて辛いとのことだった。

今月に入って、感染症の治療のため総合病院へ転院していたが、異常とも思える猛暑日の続いたお盆前の9日、肺炎に罹って高熱を出した。幸いなことに、翌日には熱は下がったとのことだったので、11日の午後に家内が父親を伴って見舞いに訪れた。父親が声をかけると、まるで安心したかのように、そこから呼吸が止まってしまったとのことだった。
家内からのメールで、すぐに病院に駆けつけたものの、病室を訪れたときには、既に帰らぬ人となっていた。

悲しみに浸る余裕もなく、家内の姉夫婦とともに、葬祭センターと慌ただしく葬儀の段取りを進めていった。
亡くなったからといって、すぐに通夜や葬儀ができるわけではない。会場の空き状況などを見ながら、葬祭の日程を決めることになり、葬儀は神式、通夜祭は14日、神葬祭が15日ということになった。
実は、翌12日から3日間、県外チームが浜松に参集して例年開催されている研修大会が予定されていた。通夜祭は、大会最終日である。まるで、義母が「しょうがないねえ」と言ってくれているような気がした。

義母については、忘れらない思い出がある。そのことを記して、義母へのせめてもの追弔の辞にしたいと思う。

家内と知り合うことになったきっかけは、転勤してソフトテニス部の顧問になった際、前任の顧問の先生から、「ウチの家内の妹と会ってみないか」と誘われたことだった。
実際に会って話をしてみると、よく人の話を聞いてくれるいい人だなあと感じた。
しかし、その後しばらくして、相方は二人姉妹で姉は既に嫁入りをしていることから、結婚をするならば、できれば婿養子として迎えたいという意向であることを知らされた。
自分としては、別に婿養子でも構わないと思っていたのだが、そのことを自分の両親に話すと、確かにわが家は大した家系ではないが長男を養子に出すことはできない、と言われた。
仕方がないので、その旨を相方に伝えた。
それきり、この話はご破算になってしまった。

それからしばらくして、いつものように部活動の練習をしていたある日曜日、テニスコートにひょっこり義母があらわれた。
びっくりして、「どうしました?」と尋ねると、「先生、いまどなたかとお付き合いされています?」と聞かれたので、「いえ、ご覧のとおり部活動してます」と答えると、「よろしければ、もう一度ウチの娘とお付き合いしていただけますか?」と言われた。
咄嗟のことで、「でも、婿養子は無理だと思うんですけど」と答えると、「いえ、もうその話はいいんです」とのことだった。
どうやら、それまでに家庭内でいろいろと話し合われた末のことだろうと推察された。
すぐに、「こちらこそ、よろしくお願いします」と答えた。

そうして、今の家内と結婚した。
娘が生まれた。
娘は、典型的な「おばあちゃん子」だった。生まれたときから、たいそうかわいがってくれたのである。
あの日、義母がテニスコートに来なかったら、今の家内と結婚することもなかったし、娘が生まれてくることもなかった。
義母がご縁を紡いでくれたのである。

神葬祭が終わった週末の土日には、家内と京都へ行く予定にしていた。土曜日の午後から、大学のクラブのOB有志の会で、貴船の川床料理を楽しむことになっていたのである。でも、どうせ行くのならと、家内が葬祭の休みを取っていたこともあって、16日の金曜日から思い立って京都へ行くことにした。ちょうどその日が京都五山の送り火の日だったからである。
前日に神葬祭を終えたばかりの義母の霊を、五山の送り火とともに見送ることができればとの思いだった。

京都への往還の道すがら、車内で聴く音楽は、レクイエムとミサ曲だった。

①ドボルザーク「スターバト・マーテル」(ラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送響)
「悲しみの聖母」と呼ばれるミサ曲。わが子キリストの死を悲しむ聖母の姿が描かれる。第7曲がとりわけ美しい。

②ヤナーチェック「グラゴル・ミサ」(チャールズ・マッケラス指揮、チェコ・フィル)
レクイエムではないためか、いきなり金管のファンファーレから始まる。「グラゴル」とは、スラブ人が使った最古の文字という意味で、教会スラブ語の典礼文に曲付けされたのだそうだ。
特に、独唱・合唱・オーケストラの掛け合いが見事な第3曲「スラヴァ」(栄光の賛歌)は聴きものである。
この曲を聴いているうちに、死者を悼むというのは、悲しむだけではないということをあらためて実感させられた。

③フォーレ「レクイエム」(カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、フィルハーモニア管)
個人的には、レクエムといえばこの曲が定番である。

④カール・ジェンキンス「レクイエム」(カール・ジェンキンス指揮、西カザフスタン・フィル)
ロックバンド「ソフト・マシーン」に参加していたカール・ジェンキンスによるソロ・プロジェクト第6作。日本の俳句なども取り入れた新鮮な曲作りが印象的である。
中でも、ラテン語の歌詞で歌われる合唱曲の第5曲「Confutatis」。
“呪われた者たちが罰せられ
激しい炎に飲み込まれるとき
選ばれたものの一人として私を招きたまえ。
灰のように砕かれた心もて
ひざまずき、ひれ伏して願い奉る。
私の終わりの時をはからいたまえ。”
思わず頭を垂れて祈りを捧げたくなるような、心洗われる名曲である。

京都五山の送り火の夜は、たいそうな人出だった。
京都に住まう友人であるN氏と、ちょうど送り火が点火される時間近くまで久闊を叙し、人と車で混み合う三条大橋に出て大文字を探した。
と、人混みと建物の間から、「大」の字をはっきりと見ることができた。
亡き義母の御霊を無事に送り出せたような気がした。

7月8日(月)

ちょうど1週間前の今日、家内から「明日19時開演、プラハ放送交響楽団、ブーニンのピアノ、オンドレイ・レナルトの指揮、新世界よりなど。招待チケットあるって。行く?」とメールが入った。
曲目と演奏者から、どうしても聴きに行きたいという感じではなかったし、部活動の大会も迫っていたので、どうしようかと一瞬考えたが、最近はオケのコンサートも聴いていないし、ブーニンもピアノってどんなだろうという興味も少しあったので、「んじゃ、行く」と返事して、当日を迎えた。

会場は、浜松駅すぐ近くのアクト大ホール。座席は、1階席左寄りの前から18列目。指揮者もピアニストもよく見えるよい席であった。
会場を見渡してみると、自分たちの席の後ろは6列ほど空席。たぶん、席が高価だったからだろうと推測される。2,3階席はわからなかったが、1階席で見るかぎりではほぼ7割程度の入りかと思われた。

曲目は、最初が「モルダウ」。プラハ放送交響楽団とあらば、何をさておいても演奏されるべき曲なのであろう。
全体的に落ち着いた演奏で、クライマックスもそれなりの感動を味わうことができた。まあ、こんなものかという印象であった。

2曲めは、ブーニンが登場して、シューマンのピアノ協奏曲。会場内のポスターにはショパンのピアノ協奏曲第2番とあったが、入場時に「演奏者の都合により、シューマンのピアノ協奏曲に変更されました」とのプリントを渡された。
初めて見るブーニンは、ひどく長身のピアニストという印象であったが、舞台の袖から歩いてくる様子が、どこかしら変な感じがした。足か腰を痛めているような歩き方だったのである。

シューマンのピアノ協奏曲と言えば、知る人ぞ知る、かのウルトラセブンの最終回、モロボシ・ダンが自らをウルトラセブンだと告白する場面で流される音楽として、つとに有名である。そんな音楽であるから、曲の始まりは劇的である。
しかし。
どうもブーニンの演奏は、おとなしいのである。きれいに弾いているのだが、伝わってくるものがない。そんな演奏に指揮者も気を遣ったのか、終始オケの音量は抑え目でできるだけ目立たないようにしようとしているかのようであった。
これでは「協奏曲」にならない。協奏曲とは、ときに独奏楽器とオーケストラとが丁々発止のやり取りをするところがその醍醐味の一つである。そうではなくて、オケがただひたすら独奏楽器の裏方に回っているようでは、協奏曲たる面白味に欠けてしまうと言わざるを得ない。

演奏は、第2楽章に入ってもただ静かなだけで終始した。第3楽章では多少の盛り上がりは見せたものの、これがわずか19歳でショパン国際ピアノコンクールで優勝したピアニストの演奏だろうかと思ってしまった。
演奏直後、2階か3階席からかかった「ブラボー」の声が空々しく聞こえた。
拍手に応えつつ、舞台袖へと戻るブーニンは、舞台に出てきたときと同様に、長身の腰をかがめてひどく猫背で戻っていった。演奏中も、手の汗を気にするのか何度もハンカチを取り出しては神経質そうに手を拭っていたから、体調がすぐれなかったのかもしれない。

休憩が挟まって、最後はドボルザークの交響曲「新世界より」。
第2楽章の聴かせどころであるコールアングレのソロはよかったが、この曲もさしたる印象を残さないままに終わってしまった。

オーケストラの演奏レベルは決して低くはない。なのに、このような印象しか残せないのは、多分に指揮者の所為であったろうか。
まさかアンコールなどあるまいと思っていたのだが、二度目のカーテンコールで、いきなりアンコールが始まった。ドボルザークのスラブ舞曲から第15番。これがこの夜の演奏ではいちばんよかった。

いろいろと考えさせられることが多い演奏会だった。
そんなことのあれこれを、演奏会が終わって遅い夕食を家内と取りながらあれこれと話をしたのだが、そのほとんどはプログラムについてであった。

「モルダウ」とショパン(シューマンに変更されたが)と「新世界から」とは、クラシック音楽の愛好者には、あまりにポピュラー過ぎる選曲である。
「モルダウ」や「新世界より」ならば、CDで聴ける名演奏はそれこそ数限りなくある。レコードの時代と違って、今では安価な、それこそ100円ショップでもポピュラーなクラシック音楽のCDを手に入れることができるようになった。
チケット代を支払って、わざわざコンサート会場まで足を運ぼうとするのは、そんな名曲を聴きたいからと言うよりは、あまり実演を聴く機会に恵まれない曲を聴きたいということもあるのではなかろうか。
例えば、今回のようなチェコのオーケストラの演奏であれば、スメタナの「わが祖国」全曲とか、スラブ舞曲を演奏してくれるならその全16曲など(実際に、福岡での演奏会では「わが祖国」全曲のプログラムが組まれていたとのことだ)のプログラムとか。

オケ団員の滞在費や、会場費、宣伝費を含めると、相当な費用がかかることは想像されるから、主催者としては、何とか集客を図っていろいろなことを勘案されることであろう。
そういう意味では、広く集客するためのポピュラー曲中心のプログラムということもあるだろう。
でも、そこを何とか考えてほしいのである。
例えば、スメタナの「わが祖国」全曲を聴くことによって、「モルダウより次のシャールカの方がかっこいい」と感じて、モルダウ以外の曲が好きになるかもしれないし、「ターボルとかブラニークって何?」と疑問に思って調べてみることで、フス教徒の事跡を知ることだってある。
そうやって、クラシック音楽を介した文化の裾野は確実に広がる。

クラシック音楽愛好者の裾野が広がれば、そのうちにオーディエンスの「聴き方」のレベルも上がってくるであろう。
残念ながら、この日の演奏会では、演奏の最中にもかかわらず、ずっと話をしていたカップルもいた。そんなことも、演奏を聴く際のマナーとして少しずつ改善されていくことであろう。

どうすればクラシック音楽愛好者の裾野を広げるか。
浜松市は「音楽の街づくり」を標榜している。ならば、「一人一音楽家愛好運動」などはどうであろう。
まず、市民一人一人が、自分の好きな作曲家を登録する。そうして、年に何度かその愛好者たちが集まって、プログラムの検討もして、その作曲家の演奏会(「ベートーヴェンの夕べ」とか、「モーツァルトの夕べ」など)を開催するのである。
もちろん、聴衆はその作曲家に愛好者登録している人たち。あまり登録が少ない作曲家は、数人の作曲家の合同演奏会とかにすればいい。

演奏は、オーケストラならば地元のアマオケやプロの楽団、小編成ならば、地元の高校音楽科の生徒や、浜松出身の音大生やプロの演奏家にお願いする。
そうやって、毎月のようにいろんな作曲家の演奏会が開催されていれば、自分の登録していない作曲家の演奏会も、じゃあ行ってみようかなと思う人が出てくるかもしれない。
そうして、とにかくクラシック音楽を聴く機会を増やしていくのである。

演奏会の機会が増え、聴衆の耳も肥えてくれば、そんな噂を聞きつけた著名なオーケストラや演奏者たちが浜松を訪れてくれるようになるかもしれない。
「いつかは浜松でベルリン・フィルを聴こう」を合言葉に、「音楽の街づくり」をするのも一考と思うが、どうであろうか。

6月11日(火)

気がつけば6月もそろそろ半ばである。
この1ヶ月間というもの、日記を更新していなかった。
特に忙しかったというわけではない。その間、音楽を聴いていなかったわけでもない。
たぶん、積ん読本をせっせと読んでいて、日記を書こうという気が起こらなかったのだと思う。読むことと書くことが、自分の中ではうまくバランスしていないのであろう。

この1ヶ月、職場への行き帰りにずっと聴いていたのは、ヴォーン・ウィリアムズの「揚げひばり」だった。
「揚げひばり」をわざわざ選んだわけではない。エルガーのヴァイオリン協奏曲を聴こうと思って選んだCDに、たまたま「揚げひばり」がカップリングされていたからである。

「揚げひばり」を初めて聴いたのは、ネヴィル・マリナーがアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズを指揮したレコード(1972年)であった。
そのレコードには、他に「タリスの主題による幻想曲」、「グリーンスリーブズによる幻想曲」、「「富める人とラザロ」の5つの異版」が入っていた。
もともと「グリーンスリーブズによる幻想曲」を聴きたくて購入したレコードだったので、この「揚げひばり」については、ヴァイオリンの独奏が静かで美しい曲というような印象しか持っていなかった。

ところが、今回久しぶりに「揚げひばり」を聴いたところ、ひどく心に染みたのである。
時期的に、実際ひばりの鳴き声を聞くこともあるし、5月の爽やかな空気にはぴったりの曲だったからかもしれない。
演奏は、ナイジェル・ケネディのヴァイオリン、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市響である。

「揚げひばり」は、ヴォーン・ウィリアムズが42歳(1914年)のとき草稿が書き上げられ、第一次世界大戦による中断を経て、戦後の1920年に完成してピアノ伴奏版として初演された。
管弦楽用に編曲されたのは翌1921年。「ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス」と副題が付けられて、マリー・ホールのヴァイオリン、エイドリアン・ボールトの指揮により、ロンドンにて再初演された。

作曲者は、イギリスの作家ジョージ・メレディスによる同名の詩に触発されてこの曲を作ったとのことで、スコアの冒頭には実際にその詩が引用されている。
以下の詩である。
“ひばりは舞い上がり 周り始め
銀色の声の鎖を落とす
切れ目無く沢山の声の輪がつながっている
さえずり 笛の音 なめらかな声 震えるような声
天が満ちるまで歌うひばりが
伝えるのは地上の愛
そしてどこまでも羽ばたき続ける 上へ上へと
我らが谷はひばりの黄金の杯
そしてひばりは杯からあふれる葡萄の酒
ひばりは我らをともに空へと引き上げる
ひばりが天空に描かれた光の輪の中に
姿を消すと 幻が歌い始める”(訳は、http://yu-napicvid.jugem.jp/?eid=71による)

しかし、何度も何度もこの曲を聴いていると、そのうち「田園風景の中、高く飛ぶひばりの姿を描いた曲」という、どの解説書にも書いてあるようなイメージが浮かばなくなってきた。
ヴァイオリンの音色が、中国の二胡(二本の弦を間に挟んだ弓で弾く楽器)のように聞こえるのである。
二胡の名曲として広く知られているのは、「二泉映月」であろう。二胡の最高傑作の一つとされ、ほとんどの中国人に知られている名曲中の名曲で、二胡を独奏楽器として高めた不朽の名作と言われる。
泉に映る月を見ながら、自らのそれまでの人生の歩みを振り返るという情感溢れる曲である。

「揚げひばり」が二胡の独奏で演奏されているかのように想像すると、急にその音楽は郷愁に満ち溢れた曲に変わる。
故郷を遠く離れ、片時も忘れたことのない自分の故郷の風景と、ふるさとの人々を思い出す音楽に聞こえるのである。

さらにイメージは膨らむ。
中国風の音階と二胡、そして故郷への郷愁となれば、思い出すのは中島みゆきの1994年の「夜会」である。「シャングリラ」と名付けられた舞台で歌われた「シャングリラ」や「生きてゆくおまえ」の世界に繋がっていくのである。
母親を陥れ「シャングリラ」に住む母の敵(名は美齢。母の友人だったが、裏切って母の代わりに大金持ちの家に嫁いだ)への復讐のために、その家にメイドとして潜り込んだ娘の物語である。舞台はマカオに設定されている。
ヴァイオリンが奏でる哀愁を帯びたメロディーは、シャングリラから自分の娘と友人のことを思い出す「美齢」の得も言われぬ切なさのようにも聞ける。

名曲は、作り手の思いから離れて、オーディエンスにいろいろな想像を許容する。
それが名曲の名曲たる所以なのだと思う。