スーさんの「あの頃僕は若かった」その3

8月3日(日)

エピソード3「初めての夏休みと定期演奏会」

7月に入ると同時に、大学は夏休みに入った。
仄聞するに、今は7月の終わりに前期試験を行う大学がほとんどらしい。自分たちの時代は、前期試験は9月終わりに実施していた。9月の中旬から後期が始まるので、それまでが夏休みだったのである。
「大学って、何ていいところなのだろう!」高校時代までの夏休みのことを思うと、大学はまるで天国のように感じられた。

しかし、そんなのんびりとした雰囲気に浸っている暇はなかった。定期演奏会が迫っていたのである。
第14回定期演奏会は、昭和50年7月11日(金)18:30より、大阪フェスティバルホールにて開催の予定であった。
大阪フェスティバルホールのことは、大学に入る前からその名称くらいは知っていた。かの大阪万博に合わせて、手勢のクリーブランド管弦楽団を率いて来日したジョージ・セルが、空前絶後の名演を残したと聞いていたのが、この大阪フェスティバルホールだった。
そのフェスティバルホールの舞台に立てるのである!いきおい、練習に熱が入るのは至極当然な成り行きなのであった。

当時でも、大阪フェスティバルホールを借りるのにはひどくお金がかかった。そのお金を工面するために、部員全員でバイト演奏などを行っていた。どこかの商店街のオープニングセールとか、会社の運動会のパレードなどに借り出されて、部員個人には無報酬で演奏を行ったりしたのである。これが結構しんどかった。
また、部員にはチケット販売のノルマがあり、これが地元に知人が少ない下宿生には、なかなかの負担であった。ほとんどは、売り切ることができないままに、残った分を自分で支払っていたのである。
夏休みに入る前には、下級生が当番制で学生会館前にチケット販売用の「出店」を出したりもしたが、はかばかしい売れ行きではなかったと記憶している。
そんな思いをしての大阪フェスティバルホールでの定期演奏会だったのである。

既に、6月の20日過ぎからは、練習は毎日夜の9時までに延長されていた。夕方までパート練習や金管・木管に分かれてのセクション別練習などを行い、夕食を食べてから9時まで合奏を行うのである。
当時の吹奏楽部の練習場は、学生会館屋上に設えられた509号室にて行われていた。たぶん、毎回利用申請等を出していたのだろうが、この部屋は吹奏楽部専用の練習場となっていた。残響のほとんどない部屋で、ある意味では自分の下手さ加減がはっきりと音に現れてしまうような場所であった。今になって思えば、この残響のない練習場で合奏していたことが、関学吹奏楽部を名門たらしめた大きな要因だったのかもしれない。

定期演奏会前直前には、合宿が組まれた。普段は、体育会に所属する部しか利用できない「スポーツセンター」なる合宿施設を、応援団の吹奏楽部だからということで特別に利用を許可してもらって、3泊4日の合宿を行ったのである。
合宿中の日程は、ほぼ以下のとおり。
7:00起床、7:20集合、8:30までパート別基礎練習、朝食後パート別曲練習、昼食後セクション別練習、15:00〜合奏、夕食を挟んで21:00まで、22:00スポーツセンター集合という、かなり日程的にはハードな4日間であった。
合宿3日目には、後に大阪市音楽団の団長を務められることになる永野慶作氏を招いて、曲の仕上がり具合を確認していただいくことになっていた。
最終日は、15:00くらいからリハーサルを行い、19:00には合宿を打ち上げた。

合宿が終わると、その2日後が定期演奏会であった。
この年のプログラムは以下のとおり。
第1部
1、「ファンファーレとソリロキー」(T.Lシャープ)英国コールドストリーム連隊軍楽隊指揮者であったシャープ大尉作曲の吹奏楽用オリジナル曲。
2、「ブラジリアン・フェスティバル」(H.ケイブル)ラテンの名曲をメドレー風にアレンジした曲。
3、「シンフォニエッタ」(R.E.ジェイガー)1939年ニューヨーク生まれの作曲家による吹奏楽用オリジナル曲。
4、「クラウン・インペリアル」(W.ウォルトン)1937年、英国ジョージ6世戴冠式のためにBBCから委嘱されて作曲されたグランドマーチ。
(休憩)
第2部
交響曲第6番「悲愴」(P.チャイコフスキー)

もちろん、メインは「悲愴」である。編曲してくださったのは、当時関学マンドリンクラブの指揮者を務められていた大栗裕先生であった。
オーケストラ曲を吹奏楽用に編曲するというのは、特に弦楽器群のパートをどう扱うかというところがたいへんに難しいところなのであるが、大栗先生の編曲は、そんな難しさを感じさせないばかりか、「悲愴」の持つ曲の雰囲気を損なわない見事な編曲であったと思う。

それにしても、指揮者も含め、学生だけでチャイコフスキーの「悲愴」を吹奏楽で全曲演奏しようというのは、今から考えればひどく無謀な試みであったろう。
特に、合奏時における曲作りなどは、もちろん指揮者の考えが反映されていくのであろうが、その指揮者とて、専門的な音楽教育はほとんど受けていないのであるから、それこそ4年生が中心になってあれこれ議論しながら曲作りをしていったのである。
そうやって、何でも学生だけでやっていこうという気運が当たり前のような時代だったのだ。

いよいよ当日を迎えた。
午前中に学校で基本練習を済ませ、昼食後にフェスティバルホールに集合、午後2時からステージにてリハーサルを行い、午後6時からの本番に備えた。
オープニングは、「A Song for KWANSEI」。英語の歌詞による校歌の一つである。この曲の途中で緞帳が上がる。ほぼ満員の客席が見える。緊張と誇らしさが入り混じった、なんとも言えない気分である。
指揮者のウエマツ先輩が登場して、まずは第1曲の「ファンファーレとソリロキー」。金管のファンファーレが、いかにも最初の曲に相応しい華やかさを印象づける。

個人的には、第1部最後の「クラウン・インペリアル」がしんどい曲であった。休符がほとんどなく、同じパッセージを何度も何度も繰り返さなければならないので、とても疲れる曲なのである。でも、こういう曲ほどオーディエンスには受けが良いようで、演奏会後のアンケートにもその好評ぶりがうかがえた。

あっという間に第1部が終わり、休憩を挟んで、いよいよ「悲愴」である。
暗く重苦しい出だしの第1楽章も、展開部に入るとぐいぐいドライブを始める。圧巻は第3楽章。当時の実況録音盤(LP)を聴いても、この第3楽章は名演であった。特に、マーチの要所で入るシンバルは、たぶんタニ先輩が鳴らしているのであろうが、すばらしい切れ味のシンバルなのであった。
大編成での演奏というのは、あるパートの演奏が他のパートの演奏に好影響をもたらして、全体として名演奏を生み出すということがある。第3楽章は、まさにタニ先輩の切れのいいシンバルがその役割を果たしたのであった。

この第3楽章を聴きながら、どうして当時の4回生が「悲愴」全曲に挑戦したのかが、何となくわかったような気がした。
関学の吹奏楽部は、「シンフォニー・バンド」の追求をモットーとしていた。日本語に訳すならば、「交響吹奏楽」とでも言えようか。まるで、オーケストラのような演奏のできる吹奏楽団を目指していたのである。だから、マーチングなどはほとんど練習すらしなかった。
その一つの答えが、この第3楽章の演奏から聴こえてくる。ユーフォニアムを筆頭とする中低音楽器群のレベルの高さに支えられて、華やかなトランペットやトロンボーンの咆哮に、柔らかな木管楽器群が加わって得も言われぬ交響的な響きを醸し出す。まるで、これが「シンフォニー・バンド」の音なのだよということを誇っているかのように聴こえるのである。

静かに第4楽章が終わった。大きな拍手。どの部員も、やり終えた充実感で満たされていた。
アンコールは、K.キングのサーカスマーチ「バーナムとベイリーのお気に入り」。それまでの緊張感から解放された喜びからか、このアンコールもゴキゲンの名演であった。練習では1回しか合奏しなかったというのに!自分で演奏しながら、「このバンドはなんてすごいバンドなんだ!」とあらためて実感していた。

クロージングは、賛美歌405番「神ともにいまして」。静かに緞帳が下がってくる。当時のツジオカ部長が号泣していたのが印象的だった。自分も、4回生になって最後の定演のときには泣けるのだろうかと思った。

こうして、初めての定期演奏会は終わった。
でも、これで晴れて夏休み!というわけにはいかなかった。
全国大会へと繋がるコンクールが控えていたのだ。
(つづく)