スーさんの「今は昔」エピソード2

3月31日(月)

エピソード2(「ホルンパートの人たちと、近づく定期演奏会」)

毎日のクラブは、練習の開始が2時45分からであった。
何だか中途半端な時間と思われるかもしれないが、4限の講義の開始時刻が2時45分で、大切な必修の講義はほとんど2限か3限に行われるので、さほど勉学には影響なかろうということから決められたのであろう。

4、5限の講義に出る部員は、団室にある黒板に名前を記入することになっていた。それ以外の部員は、2時45分になると、団室のすぐ外にあるベランダに集合し、幹部(わがクラブでは、4回生のことをこう呼び習わしていた)と、それ以外の部員とが向かい合わせになって挨拶をするところから練習が始まる。
まず、3回生の出席係が出欠の確認をする。一人一人名前を呼ばれ、講義に出ている部員はその旨が報告される。
出欠確認が済むと、部長または指揮者がその日の練習のあらましを述べ、「では、がんばっていきましょう!」という掛け声で、それぞれのパート別の練習に入っていくのである。

入部してからしばらく、自分はトランペットのパートに所属していたのだが、途中からホルンのパートへと移ることになった。
熱心にホルンパートへの勧誘してくださったのは、ホルンパート3回生のフジワラ先輩であった。フジワラさんは、サブ・コンダクター(副指揮者)も兼ねていて、サブコンは1年生の面倒を見る役目(教育係)でもあったので、自然とお話をする機会も多かったのである。細面で、いつもニコニコ楽しそうにしている先輩であった。
「ホルンもトランペットも、マウスピースの大きさはほぼおんなじやし、すぐ吹けるようになるわ。何より、ウチのパートは練習よりもお茶(休憩)が優先やし。」
パート移籍の決め手になったのは、そのひと言であった。実際ホルンパートで練習をするようになると、他のパートがまだ練習をしていても、ホルンパートだけは学生会館1階のロビーでコーヒーを飲みながら休憩することがよくあった。

ホルンのパートリーダーは、4回生のコーイチ先輩であった。体格がよく、大学生というよりは、どこかの会社の営業マンのような印象であった。細かいところにこだわらず、常に「練習は短かめに、休憩は長めに」と、早めに練習を切り上げて「お茶行こ」と言ってくださるすばらしいパートリーダーであった。

もう一人の4回生は、学生服姿で500ccのバイクに跨ってさっそうと学生会館にやってくるキンジョー先輩であった。強面で、ちょっと見どこかの組の人に見えなくもない雰囲気を持っておられた。
今でこそ、大学生の喫煙率は相当に下がっているのであろうが、当時は「大学生になったら煙草を吸うのが当たり前」というような時代であった。それまで煙草を吸ったことはなかったのだが、パートの休憩時間に「まあ吸ってみいや」と勧められたのが、このキンジョー先輩であった。
「い、いえ、ぼ、ボクはタバコは…」などとはとても断れない雰囲気の先輩であったから、言われるままに煙草を吸ってみた。口先でちょっと蒸すだけだと、「ちゃうちゃう、ちゃんと胸の中まで吸い込むんや」と何度も「練習」させられた。
おかげで、以来30年近くの長きに亘って、煙草を吸い続けるようになったのである。

3回生は、フジワラ先輩の他に、クロミヤ先輩がおられた。ローンで舶来の新品のホルンを購入されたとかで、練習熱心な先輩であった。この方は、その後部長となり、練習態度も一変してとても厳しい先輩になるのだが、このときはまだそんな片鱗も見られない、とても楽しい先輩であった。

2回生の先輩は、ヨコイ先輩であった。このヨコイ先輩とフジワラ先輩が寮生であった。フジワラ先輩は清修寮、ヨコイ先輩は啓明寮に入寮しておられた。
ヨコイ先輩は、身体も大きく、一見豪快なおアニイさんという感じであったが、実際はとても心根の優しい頼りがいのある先輩であった。すぐ上の先輩ということもあって、いろんなことを教えていただいた。

同級生には、三重県からやってきたワダくんがいた。明るく愉快な人物で、高校時代には吹奏楽部でホルンを吹いていたとのことで、実際の楽器演奏のこともあれこれ教えてもらった。ただ、残念なことに、彼は夏の定期演奏会が終わってしまうと退部してしまった。
かように、ホルンパートは楽しい人たちばかりだった。いつも練習には笑いが絶えなかった。みんなそれぞれ仲が良く、このパートに移籍してほんとうによかったと実感していた。

それにしても、最近の吹奏楽事情に詳しい方ならば、「どうして女子部員がいないの?」と不思議に思われることであろう。そう、かつて(1950年〜1970年代)は、吹奏楽部は「男子部」だったのである。中高の吹奏楽部が女子ばかりの部員になったのは、たぶん1980年代に入ってからである。
ご多分に漏れず、われらが吹奏楽部も、自分が入部した当時は部員50人中、女子部員は5名だけであった。たった1割だったのである(まあ、これは「応援団の吹奏楽部」という事情も手伝ってのことと思われる)。

閑話休題。パート練習は、ロングトーンから始まる。その名の通り、一つ一つの音をできるだけ長く吹き伸ばすスケール練習である。
次は、リズムを刻みながらのスケール練習。だんだんとリズムを細かくしていきながら、何度もスケール練習を繰り返す。
このスケール練習が終わったところで休憩(お茶)となる。

それぞれのパートが練習する場所は、基本的に木管楽器は学生会館内、金管楽器は外で練習をすることになっていた(ただし、楽器の大きいチューバと、外にはなかなか持ち出せないパーカッションは練習場)。
どのパートも、ロングトーンを含むスケール練習が終わると、学生会館1階のロビーへ集まってきて、コーヒーや紅茶を飲みながら休憩するのである。
演奏会やコンクールが近くなければ、そのままパート別に曲の練習などをして、5時半には終了ということが多かった。

練習の最後には、全員が団室に集まってミーティングが行われる。出席の確認と連絡事項の伝達、最後に部長が訓示をして終了となる。
だいたい、平日の練習はこんな感じで行われていた。

こうして練習が早く終わる日はいいのだけれど、練習の終わりが遅くなってくると、宝塚の下宿まで帰るのはしんどかった。何しろ、下宿は山の中の住宅地の中だったので、駅からの登りがきつかった。
ある夜などは、さて寝ようと思ってふとカーテンのところを見ると、何やらUの字の黒いモノがついていたので、「ん?なんだなんだ」と思って近くに寄って見ると、何と大きなムカデがお出まししていたこともあった。

そんなこともあったから、できれば大学近くの下宿に替わりたいと思い続けてきたのであったが、幸いなことに、新入生歓迎コンパでお世話になった2回生のニシカワ先輩の下宿に空き部屋ができて、夏休みからはそこへ移れそうだということを教えていただいた。
下宿は、高等部のテニスコートのすぐ裏、水上競技部の合宿所も兼ねていた、通称「田中マンション」という下宿であった。
その下宿には、ニシカワ先輩の他に、京都嵯峨野出身でユーホニウム(最近では、「ユーフォニアム」などと宣わるらしい)担当の3回生モリ先輩も入っておられた。

夏休みが近づいていた。
当時の関学は、7月1日から夏休みに入った。夏休みに入って2週間後には、定期演奏会が控えていた。コンクールと並んで、クラブの重要イベントの一つである。
既に、演奏する曲目については、5月中旬くらいからパート練習が始まっていた。

その年の定期演奏会のメインとなる曲目は、何とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」全曲であった。
吹奏楽で「悲愴」の全曲演奏に挑もうというのである(今から思えば、この無謀とも言える挑戦に、当時の4回生たちの並々ならぬ自負があったのだと思う)。
はたして、ほんとうに吹奏楽で「悲愴」が演奏できるのであろうか。交響曲の弦楽セクションの部分を、どうやって管楽器だけで演奏するのであろうか。ましてや、「悲愴」の終楽章は弦楽器によるアダージョである。
管楽器だけでも、弦楽器同様の雰囲気を醸し出すことが、はたしてできるのであろうか。
夏休みを目前に控えて、練習も熱気を帯びてきつつあった。

(つづく)