スーさん、クラブの思い出を回顧する(その1)

2月9日(日)

私立大学入試たけなわである。
それに触発されたというわけではないが、たまたま大学時代に所属していたクラブがFacebookのページを立ち上げたということを知り、暫し学生時代のクラブのことを思い出すうちに、この得難い学生時代のクラブの経験を書き残しておきたいと思うようになった。
記憶はあやふやなところもあるのだが、4年間の大学でのクラブの思い出を、今でも印象に残っていることを中心に書いてみたい。

エピソード0(大学に入学するまで)

高校時代は、自分の将来について深く考えることもなく、帰りのHRが終わればすぐにテニスコートへと向かい、ひたすらボールを追いかけるテニスボーイの日々であったのだが、3年生になってインターハイの予選も終わってしまうと、さすがに自分の進路について多少なりとも考えるようになってきた。
特にこれといって就きたい職業もなかったので、中学校を卒業するときに漠然と考えていた希望(教員になること)を第一に考え、先生になるのなら高校の先生がいいなあと思い、教育学部で高校教員養成過程のある大学を探してみた。すると、当時の日本の大学で高校教員養成過程を開設していたのは、東京教育大学(現在の筑波大学)と広島大学の教育学部しかないことがわかった。共に、当時の国立大学の入試制度区分によれば、難関と言われる国立一期校に編制されている大学であった。

何となく、東京の大学は自分には合わないだろうと根拠もなく信じていたところがあったので、自然と第一希望は広島大学ということに定められた。一期校の入試は科目数が多い。数学は数Ⅲまであるし、社会と理科は2科目選択であった。
勉強するのは大変であったが、目標ができるとそれに向かって頑張れるものである。模試の結果は五分五分というところであったが、自分では何としても合格するぞとの意気込みで受験勉強に励んだのであった。

秋が過ぎ冬になると、周囲ではどこの大学を受験するのかということが話題になってくる。あそこはキャンパスがきれいだとか、ここは学費が安いなどという情報が交換されるようになってくるのである。
友人のシバタから、「私立は受けないのか?」と聞かれた。「決めてないんだけど、どこがいい?」と尋ねると、シバタは兵庫県にある関学というところを受けると言った。「カンガク?」「かんさいがくいん、って言うんだ。パンフとか見ると、きれいでいいところだぜ」と教えてくれた(今になって思えば、「かんさいがくいん」と言うほどに、彼の情報もテキトーなところがあったのである)。初めて聞く名前の大学だった。「ふーん。そんなにいいところなら、オレも受けてみるわ」と、深く考えもせずに受験することにした。
他には、社会科の教科書に執筆者として多く名前が乗せられていた東京の私立大学と、当時は最も学費が安いとされていた関西の私立大学も受けることにした。

入試の日が近づいてきた。
最初に受けるのが、関学だった。父親が旅行社に行って列車と旅館の手配をしてきてくれた。泊まる旅館は宝塚温泉。電車は、大阪(か新大阪)から福知山線に乗り換えて行く切符だった。
今から思えば、わざわざ福知山線で行くことないでしょと思うところだが、当時は自分も自分の父親も知らなかったのだ、「阪急」という私鉄のあることを。
とにかく、福知山線を乗り継いで宝塚駅に着いた。その日に下見に行ったのかどうかは覚えていない。着いた旅館は、ひどく古めかしい旅館であった。他の受験生たちといっしょに、大部屋に案内された。最初は誰とも話をしなかったが、そのうちに秋田から来たという受験生と仲良くなった。夕食後、一緒にお風呂に入りに行こうということになった。
そんなに大きな風呂ではなかった。湯はひどく熱かった。蒸気が濛々とするお風呂場であれこれ話をしながら、つい長湯をしてしまった。そのうちに、頭がボーッとして耳が聞こえなくなってきた。意識がだんだんと薄れてきた。一緒に入浴していた秋田の受験生が部屋まで運んでくれて、旅館の人に通報してくれた。どうなったのかはよく覚えていない。ただ、あまりに暑かったので、ほぼ半裸の状態で大部屋に転がっていいたような気がする。もちろん、前日に勉強するなどということは一切できないままに、試験当日の朝を迎えたのであった。

若いときは、回復も早いものである。翌朝は、昨晩のことなどけろりと忘れて、朝ごはんをしっかり食べ、件の秋田の受験生と一緒に試験会場へと向かったのであった。
そのとき、たぶん初めて阪急電車に乗った。降りた駅は甲東園。そこから、多くの受験生たちと一緒に坂道を上った。坂を上り切ったところに高校があった。そのずっと奥に、関学の正門が見えた。いいところだなあと思った。
試験のことはほとんど記憶にない。とにかく、無事に試験を終え、再び宝塚まで戻って、福知山線にて帰途に就いたはずである。

後日、合格通知が来た。もう一つの関西の私大は不合格であったが、東京の私立は合格した。あとは、目標の広島大学に挑むだけとなった。
広島行きは勝負なので、父親に「いいところへ泊まりたい」と要望した。宝塚の旅館は言うに及ばず、東京の宿も、まるで普通の家のような旅館だったのである。
宝塚も東京も、それぞれJ社に頼んだようだったが、父親は今度はK社に頼んでくれた。「ヒロデン」とかいうホテルだった。名前からして、どうも期待できそうにない感じがした。

当時、新幹線は岡山までしか開通していなかった。岡山からは山陽本線の特急に乗り換えて広島まで。途中の窓から見える中国路の景色が、なんとものどかでいい感じであった。
広島駅に着き、さっそくホテルへと向かった。ホテルは駅のすぐ近くだった。行ってびっくりした。大きくてすばらしくきれいなホテルだったのである。
ホテルの夕食はフルコースのディナーだった。それまでフルコースディナーなどというものなど一度も食べたことがなかったため、ナイフとフォークをどう使ったものやら、さっぱりわからなかった。周囲を見ながら見よう見まねで食べたが、何を食べたのか全く記憶には残らなかった。
試験を終えてホテルに戻ると、テレビで試験の解答を放送していた。数学があまりできていないという印象であった。合格は難しいかもと思った。

案の定、広島大学は不合格であった。
当時の学級担任であったウチヤマ先生からは、地元の国立二期校を受験するよう勧められたので、友人と一緒に受けることにしたが、既に心は関学に行くことを決めていた。
そんな気持ちで受験した二期校は、もちろん合格しなかった。

3月の下旬になって、関学の下宿を探しに行くことになった。父親が同行してくれた。まずは大学の学生課へ行き、下宿の物件を探したのであったが、そんな時期にはもう手頃な下宿など残ってはいなかった。
数少ない下宿の中から、宝塚の山中にある普通の家庭の離れを下宿に提供しているところへ行ってみることにした。宝塚の駅から温泉街を通り、山を中腹くらいまで上ったところにある家だった。
離れには下宿生4人が寝泊まりできる部屋と、簡単なダイニングがあった。便は悪いが、もう選択の余地はなかった。

4月、家を離れ、宝塚での下宿生活が始まった。
すぐに講義が始まるわけではなかったが、あれこれ手続きを済ませるために大学へは毎日通った。
キャンパス内は、あらゆるところに新入生勧誘のためのクラブの「出店」が出ていた。どこのクラブも、けっこう積極的な勧誘ぶりだった。

クラブは、テニス部に入ろうと思っていた。
しかし、どこをどう探しても、テニス部の「出店」はなかった。仕方がないので、社会学部の裏にあったテニスコートへも行ってみた。部員たちが一生懸命練習していた。誰か声を掛けてくれるのかと期待していたが、誰にも声を掛けられることはなかった。
高等部のファームがあるから新入部員は勧誘しないのかと、やや失意のうちに正門を出ようとしたとき、図体の大きなお兄さんに声を掛けられた(あとからわかったことだが、この声を掛けてくれた先輩は、部内でも評判の怪力の持ち主である4回生カメイ先輩であった)。
「キミ、高校時代は何部に入っていたの?」
「テ、テニス部ですけど」
「あ、そう。んじゃ、中学んときは?」
「す、吹奏楽でした」
「吹奏楽??」
とたんにそのお兄さんの目の色が変わった。
手をがっしりと組まれ、「ちょ、ちょっと、ウチの部室まで来ない?」と言われて、学生会館の「応援團」と書かれた木札が掲げられている部屋まで連れて行かれた。

中に入ると、学生服を着たオカッパ頭のお兄さんが応対してくれた。
「まあ、メシでも食べて話しようや」と、階下にある学生食堂まで誘われた。
これが、疾風怒濤の大学クラブ生活のプロローグだった。

(つづく)