スーさん、コリン・ウィルソンを悼む

12月21日(土)

コリン・ウィルソンが亡くなった。
“コリン・ウィルソン氏82歳(英国の著述家)。5日、英南西部コーンウォール州の病院で死去。
英中部レスターで労働者階級の家庭に生まれた。16歳で学業を放棄。哲学書などを読みあさり、昼はロンドンの大英博物館図書室で執筆し、夜は野宿した。1956年に発表した小説「アウトサイダー」がベストセラーとなった。犯罪・心理小説、戯曲も手がける多作の著述家として知られた。”(@読売新聞、12月10日)

コリン・ウィルソンのことは、内田先生が『アウトサイダー』を読まれていたということから、その名を知ることとなった。その『アウトサイダー』は、古本で購入したものの未読のままであった。
今年の夏、東京の娘の勤める店舗で、『コリン・ウィルソン音楽を語る』(河野徹訳、冨山房)という本を見つけた。かの『アウトサイダー』の筆者であるということはすぐにわかった。さっそく購入して読んでみた。

最初の「まったく個人的な前置き」にこうある。
「音楽に関する私の知識は、おそらくイギリス中のどんな批評家に比べても劣るだろう。私はただ、二十年間夢中で音楽を聴いてきた結果の一部を伝えたかっただけである。」と断り、この著作の基本的なスタンスを、「実存的批評」すなわち、「私にとっては、いかなる芸術作品も、芸術家のパーソナリティや彼の生活からはっきり切り離して考えることなどできない」として、「批評家の仕事は、芸術家がどの程度偉大な人間であるかを決定すること」であって、「芸術作品の本質は、それが芸術家の個人的真実を表現しているかということにあり、作品に関する唯一の重要な問題は、芸術家の真実にどれほどの価値と強烈さが伴っているか、ということ」を追究することであると述べている。

興味深いスタンスである。
作品そのものを批評するのではなく、その作品を生み出した作者の「個人的真実」の価値を測るというのである。

そんな視点で作品を聴いてみると、例えば「バルトークの作品は、人間バルトークに関してはほとんど語らない」ということになる。それは、バルトークの作品が、そのパーソナリティから生じる基本的な目的を、曲の背後に感じ取れないからだと言う。
音楽は、散文同様に物事を述べることできないが、それでも音楽は、作曲家が目下展開させている世界観と、彼自身のパーソナリティのなかで生成しつつある化学的変化を表現できるものであるから、「大作曲家というものは、なにかその語法を用いて述べるべき内容をもたなければならない」ということになる。
つまりは、バルトークは大作曲家ではない、ということになるのである。

このようにして、モーツァルト、ベートーヴェンから始まって、ロマン派、スクリャービンとブロッホ、果てはジャズ、そうして自国イギリスの音楽事情、オペラからアメリカの音楽までが幅広く論じられている。
中でも、蒙を啓かれたのは、自国イギリスの作曲家たちのことであった。

イギリスを代表する作曲家であるエルガーについては、ブラームスと同様に「微細画家」(ミニアチュリスト)で、「偉大なイギリスの作曲家が現れるまでは」との条件付きで、「ほぼ最上のおすすめ品」と評しているが、ヴォーン=ウィリアムズについては、はっきりと「厳粛でエリザベス朝風な表現法が気に入らない」として、その代表的な9つの交響曲についても「音楽的語法が局限されている」として、高くは評価していない。
ブリテンについては、管弦楽は「最上のできばえ」としているが、声楽は「射程の短さが判明してくる」として、「何かしら排他的で偏狭なところがあるように感じられる」と辛辣である。

ところが、今まで聞いたこともない作曲家については、かなりの高評価で紹介されている。
「お気に入り」として、まず紹介されていたのは、ジョージ・バターワス。特に、連作歌曲「シュロップシャーの若者」は、「英語で歌われるものとしては最も美しい」と評されている。

さらには、アーノルド・バックス。中でも、その7つの交響曲は「シベリウスのそれと同じくらいに非凡」と評され、特に第3番の交響曲は「最もりっぱな作品」として取り上げられている。ヴォーン=ウィリアムズなどと比べると、その取り上げられ方の違いが際立つのである。

そうして、ジョン・アイアランド。「彼の作品は、すべて繊細で、淡く、柔らかい色彩をもつ」と評され、「彼をイギリスのフォーレと呼べば、単純化しすぎることになろう」と言いつつ、しかしそう呼べば、「彼の音楽の微妙さ、繊細さがわかってもらえよう」と書いている。

有名な組曲「惑星」の作曲家ホルストについては、その「惑星」を「あまりに即時的な感銘を与えるため、深遠な作曲家が書いたものとは思われない」とこき下ろしてはいるものの、管弦楽曲「エグドン・ヒース」や、オーケストラ伴奏付き合唱曲「イエス賛歌」などを聴けば、「彼が、強烈かつ独特な個性を持つ作曲家で、レコード目録に、もっと彼の作品が掲載されて当然、と感じられる」と褒め称えている。

こんな風に褒められれば、どうしてもその作曲家の曲が聴きたくなってしまう。
さっそくネットで検索をかけてみると、どうやらこれらの作曲家の作品は、そのほとんどがNAXOSのレーベルでCD化されていることがわかった。ありがたいことである。

すぐに、バックスの交響曲第3番と、アイアランドのピアノ曲のCDを買い求めて聴いてみた。
バックスの交響曲はあまり印象的ではなかったが、アイアランドのピアノ曲は、とくに「サルニア」がよかった。フランス印象派風の抒情的で美しい旋律の組曲である。

コリン・ウィルソンの音楽批評は、「実存的批評」にこだわるのあまり、あまり一般的ではないと言われるのかもしれない。訳者のあとがきにも、「結局素人は素人にすぎない」と酷評されている。
でも、個人的にはこういう音楽批評もあっていいのではないかと思う。

どんな音楽がいいと感じるかは、人によって千差万別である。
だから、その作品から作曲者の実存を何とか聴き取ろうとする聴き方があってもよいと思う。
そんな聴き方の中から、新しいクラシック音楽が生まれ出てくるような気がするからだ。

「現代芸術の大部分は、いまだに文化的ニヒリズムの荒地のなかでもがいている。しかしそれが抱えている諸問題は、表現手段の枯渇ではなく、内容(あるいはむしろ、内容の欠如)に関する問題である。もしわれわれが、音楽の新しい黄金時代に入るとすれば、それは、シェーンベルクやジョン・ケージやエドガー・ヴァレーズの理論が、われわれに、問題解決の鍵を与えてくれたからではなく、われわれの文化が再び、新しいモーツァルト的、ベートーヴェン的な音楽家を育成し始めるだけの健康をとりもどせたから、ということになろう。」

コリン・ウィルソンの遺言として心に銘じておきたい。