ウィーン滞在の二日目、この日は午前中にシェーンブルン宮殿を訪ね、午後はケルントナー通りで買い物をしようという予定であった。
まずは地下鉄にてシェーンブルン宮殿へ。カールスプラッツ駅から地下鉄4番線にて6駅目のシェーンブルン駅にて下車、そこから宮殿まで歩く。朝早かった(午前9時半)からか、観光客はまだそんなには多くない。ここも僕は38年ぶりの再訪である(そのときは宮殿内の見学はしなかった)。

iPhoneのシシィチケット(シェーンブルン宮殿への優先入場券)の画面を準備して宮殿内の受付へ。
手荷物を預け、入口を入ったところでトランシーバー様の音声ガイドを受け取る。僕らの前には中国人の団体客がいた。そのすぐ後に並んでいたからであろうが、音声ガイドは中国語仕様のものを渡されてしまった。どうチャンネルを合わせても、中国語しか聞こえてこないのである。すぐに音声ガイド窓口のところにいた係員に「僕ら中国人とちゃいます、日本人です。なので日本語の音声ガイドに設定し直してください」とお願いすると、なにやら音声ガイドのボタンを操作して日本語仕様に変更してくれた。

シェーンブルン宮殿内の見学には、二種類のコースが用意されている。「インペリアルツアー」と「グランドツアー」である。それぞれの違いは、「インペリアルツアー」が22室見学で14.2ユーロ(約1,800円)、「グランドツアー」は40室見学で17.5ユーロ(約2,250円)である。僕らのシシィチケットは、「グランドツアー」に対応していた。

中国人の団体客からできるだけ離れようと思い、最初のいくつかの部屋はほぼスルーして、静かに見学ができる部屋から、音声ガイドを聞きながらじっくり見ていった。宮殿内の写真撮影は禁止されている。ところが、ある部屋で急に警報が鳴り出した。見ると、中国人のオッさんがタブレットPCを持ち出して写真を撮っていたのである。警報を聞くと、そのオッさんはすぐにその場を立ち去った。また、壮麗なシャンデリアがある部屋では、中国人のオネーさんが持っていた水筒の中身をいきなりカーペットにこぼしたので、係員が慌てて駆けつけて来た。どうも中国の人は、団体で来ている気安さからか、マナーに欠ける行動を取りがちのように思う。このままでは、早晩世界各国から顰蹙を買うこと必定であろう。

最初の22室を見終わると、ルートはさらに奥の部屋へと続くコースと、そのまま出口へ向かうコースとに別れる。そこにはチケットを確認するオバちゃんがいて、グランドツアーのチケットをチェックしていた。僕らはiPhoneの画面を見せて、そのまま奥の部屋へ。ここからは中国人の団体客が一気に減ったので、落ち着いて一つ一つの部屋を見ていった。
奥の部屋は、それまでの部屋とは全く異なる部屋であった!琥珀ばかりでできている「琥珀の間」、ナポレオンが会議を行った「漆の間」、6歳のモーツァルトが演奏を披露した部屋や、インドとペルシャの細密画が飾られた部屋など、次から次へと思わずため息が出るような部屋ばかりを見ることができたのである。「インペリアルツアー」と「グランドツアー」は、わずかに450円ほどの違いである。この両者に関しては、迷わず「グランドツアー」を選択するべきだと、『地球の歩き方』にもぜひ書いておいていただきたい。

宮殿内の見学を終えて外へ出た。今度は庭園を見ようということで、宮殿受付の左側に回って、庭園内に入ろうと試みた。ところが、その入口がわからない。有料の入場口があったので、まさか庭園見学も有料か?と思い、その受付で聞いてみると、そこは有料の「皇太子の庭園」への入園口で、庭園へはそこから100メートルくらい先の入口から入れるとのことであった。
その入口と思しきところから中に入った。目指すは宮殿から正面の小高い丘の上にある「グロリエッテ」。ところが、行けども行けども宮殿は見えないし、広大な庭園も見えない。38年前に来たはずなのに、あまりの広大さに迷ってしまったのである。仕方がないので、Googleマップでグロリエッテを検索してみた。どうやら、僕らは庭園東側の林の中にいるらしい。Googleマップに従ってグロリエッテの方角を目指す。しかし、どちらを見回しても同じような景色が広がっているばかりで、自分たちのいるところがいまいちはっきりとしないのである。何度もGoogleマップを見直して、ようやく宮殿正面の庭園と大きな噴水のあるところに出ることができた。

ここからグロリエッテまでは、丘を登っていかなければならない。なるべく日陰の道を選んで、グロリエッテを目指す。だんだんと登っていくと、宮殿と庭園がいかにも美しく眺められる。
ようやくのことでグロリエッテへ。38年前と違って、グロリエッテの屋上まで上がるのは有料になっていた。屋上からでなくとも、そこからは遠くシュテファン寺院までもが望める絶景が見られた。しばし、その絶景に暑さを忘れた。
シェーンブルン宮殿を後にするころには、僕らが来たときとは違って、すごい数の観光客がチケット売り場に列をなしていた。早く来て良かったと思った。来たときと同じ地下鉄4番線にてホテルに戻る。

ケルントナー通り周辺にはいろんなレストランがある。こちらに来てから麺類を食べていなかったので、昼食はイタリアンのレストランにて、アラビアータのパスタとビール。日本で食べるパスタを思い出した。昼食後はケルントナー通りのスーパーにて買い物。ヨーグルトや100%果汁のジュース、日本へのお土産などをあれこれ購入してホテルへと戻る。

シャワーを浴びてのんびりしながら、お隣のオペラ座の見学ツアーのことをネットで調べていると、日本語のガイドによるツアーが一日に二回あるとわかった。時間は午後1時と3時である。時計を見るとちょうど2時半だった。シャワーを使っていた家内にそのことを告げ、急いで支度をしようということになった。
こういうときにオペラ座の近くのホテルはありがたかった。小走りでオペラ座へと向かい、日本語ガイドのツアーを申し込んだのが3時10分前。ツアーの待機場所には、既に10人以上の日本人が待っていた。
当然、日本人のガイドが案内するのだろうと思いきや、僕らの前に現れたのは日本で暮らしたこともあるという現地の青年であった。この青年の日本語はうまかった。全然現地の人であるという感じがしなかった。
この青年ガイドの案内で、皇帝の席や舞台裏などオペラ座の様々な場所を見学することができた。
中でも感激したのは、オペラ座内の「マーラーの間」であった。そこには、マーラーの胸像とともにマーラーがシーズンオフの作曲の際に使用していたという小さなピアノが展示されていた。まさかそんなものが見られるとは夢にも思っていなかったので、まるで身内のことを紹介されているかのような感動を覚えた。やっぱり、最後の最後までマーラーに導かれているのだと実感した。

マーラーのオペラ座監督在任中は、監督就任時から民族的偏見(マーラーはユダヤ人だった)による反感もあったが、何より芸術的レベルの高さを求めるあまり、歌手やオーケストラに厳しい練習を強いたり、縁故で採用された演奏者を出演させなかったりしたことで劇場側と折り合いが悪くなり、熱狂的な支持者もいたのだが、結局監督就任から10年後にマーラーは自らウィーンを去ることになる。
そんなウィーンのオペラ座が「マーラーの間」なる部屋を設けているということをマーラーが知ったら、いったいどんな顔をするのだろうということを想像した。
オペラ座出口のところのショップにて、マーラーの肖像写真の絵葉書を購入してホテルに戻った。

オーストリア最後の夜は、昨晩と同じくレストラン「ミュラーバイスル」へ。日本語メニューのあることがわかっていたので、「日本語メニューちょーだい」とお願いして、ウィーン名物の「ヴィーナーシュニッツェル(子牛肉のカツレツ)」をオーダーする。
会計時、昨晩の店員がやってきて、「ウチのお客さんの6割は日本人ですねん」と言う(その割には僕らの他に日本人客はいませんでしたが)。そのうちに、中国人の団体客が100人ほど!やって来た。そのまま店内に入って行ったが、さすがにこれだけの人数は入れないでしょと思っていたら、半分ほどの人が出て来て別の店へ行ってしまった。それでも50人ほどは店内に入ったのである。
件の店員に「よお儲かりますなあ。今度は中国語のメニューを用意しときなはれ」と冷やかしながら、「僕ら明日日本に帰るんやけど、もしこちらへ来るようなことがあったらまた寄せてもらいますわ」と話してお店を後にする。

ウィーンの最後の夜も、相変わらず暑かった。でも、翌朝はずいぶんと涼しくなっていた。スーツケースを転がしながら、ケルントナー通りをシュテファン寺院方面へ。またこの寺院を見ることはあるのかなあと思いつつ、その威容を目に焼き付けておく。
空港行きのバス乗り場であるモルツィンプラッツには、予定より30分ほど早く着いた。そのまま待機していたバスに乗り込み、ウィーン国際空港へ。モルツィンプラッツからは30分もかからずに空港へ到着した。
ウィーン国際空港は、思っていたよりも大きな空港であった。バスが到着したところからフィンエアーのチェックインカウンターがあるターミナルまではかなりの距離を移動した。
例によって、前日にウェブチェックインを済ませていたので、既に10人以上が列を作っていたチェックインカウンターには並ばず、すぐ隣のバゲージドロップ前にて受付を待つ。程なく係員が現れて受付をしてくれたので、荷物を預け航空券を受け取り、搭乗口の確認をする。ホッと一息である。
航空券をかざして中に入り、近くのカフェにて遅めの朝食を食べ、混雑するセキュリティゲートを抜けると、あとは搭乗を待つだけとなった。いよいよオーストリアともお別れである。

まさか、実際に訪れる日が来るとは思ってもいなかったシュタインバッハ・アム・アッターゼのマーラーの作曲小屋と、まさか現地で聴けるとは思ってもいなかったウィーン・フィルによるマーラーをザルツブルク祝祭大劇場にて聴き、ウィーンへの38年ぶりの再訪も果たした、まことに充実した旅であった。
それもこれも、すべてはミューズの神とマーラーのお導きであったように思う。
マーラーだけではなく、モーツァルトの生まれたザルツブルクの街に滞在し、ベートーヴェンが生活していたウィーンの家を訪れたことで、モーツァルトやベートーヴェンがより身近な存在として感じられるようになったことも、今回の旅の大きな収穫であった。

11:15ウィーン国際空港を発つ。14:40ヘルシンキ着。トランジットの間に軽食を取り、17:15ヘルシンキを発つ。ほとんど眠れないまま、翌朝8:15セントレア着。ポケットWiFiを返し、トゥインゴの待つ駐車場へ。途中、何度か眠りそうになりながらも、無事浜松まで帰り着く。
帰国して最初に食べたのは、味噌ラーメンだった。

感動冷めやらぬザルツブルクを後にして、ウィーンへと移動する。
今回の旅の大きな目的二つ(マーラーの作曲小屋を訪れることと、ザルツブルク祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーを聴くこと)は果たしたので、ウィーンはおまけの観光である。でも、ウィーンはマーラーが10年以上にわたってオペラ座の監督をしており、マーラーとは因縁浅からぬところだ。
ザルツブルクからウィーンへはレイルジェットで2時間22分。列車に乗り込むと、僕らの席には別の日本人と思しき夫婦が座っていたので「すみません、ここは予約席なんですけど」と声を掛けると、謝りながら慌てて別の席へと移動していった。

10:08ザルツブルク発。車窓の風景を楽しみながら、12:30ウィーン中央駅着。
ホテルは国立オペラ座のすぐ近くだったので、日本で事前に購入しておいた地下鉄・トラム・バス用の48時間フリーパスを取り出し、地下鉄1番線のプラットホームへ。中央駅から二つ目のカールスプラッツ駅にて下車。例によって地下鉄にも改札はないので何だかヘンな感じがする。

僕は38年ぶりのウィーン再訪であった。もちろん、38年前には地下鉄はなかった。だからというわけではなかろうが、駅から出ると方向感覚を失った。あまりの都会化に狼狽して、ホテルとは反対方向へと行ってしまったのである。いつまでたってもオペラ座が見えてこないのでGoogleマップで確認すると、進行方向とは逆方向の通り沿いにオペラ座の屋根が見えた。

こんな感じだったかなあとオペラ座の前を通過して、そろそろホテルが見えてくるはずだと思っていたのだが、これまたそれらしき建物が見えてこない。事前に調べておいた地図では、ホテルはオペラ座のすぐ北側にあるはずだった。しかし、そこには美術館らしき建物があるだけで、目指すホテルの姿は見えない。再びGoogleマップで確認してみるのだが、どうも自分のいる位置がはっきりしない。辺りを徘徊して途方に暮れつつあったのだが、やっとのことでホテルの入口を見つけることができた。

宿泊先のホテルは、オペラ座のすぐ近くという一等地にあったためか、古くからの格式を感じさせるホテルであった。
チェックインを済ませ、部屋へと上がるエレベーターに乗り込む。なんとも旧式なエレベーターであった。宿泊する4階に到着、蛇腹式の内側のドアがまったりと開く。でも、そのすぐ外側のドアが開かない。「あれ?」とか言っているうちに、エレベーターは1階まで戻ってしまった。もう一度4階のボタンを押して、エレベーターが上がる。蛇腹式のドアが開く。やはりその先のドアが開かない。すると家内が「これ、押すんじゃない?」と目の前のドアをぐっと押してみた。なんと外側のドアは自動ドアではなかったのである。

部屋に入ろうとすると、このドアも二重になっていた。外側のドアには鍵は付いておらず、内側のドアを開錠して部屋に入った。どうしてドアが二重になっていたのかは今もって謎である。
暑かったので、とりあえずシャワーを浴びることにした。と、あることに気がついた。シャワーを使っていると、お湯がどんどんバスタブに溜まっていくのである。排水栓が閉まっているんだと思い、栓開閉のための大きなダイヤル様のものを開く方向に回してみたのだが、手を離すとすぐに元に戻って栓は閉まってしまう。何度やっても変わらなかったので、ひょっとして排水のためにはダイヤルをずっと手で持っていなければならない構造になっているのかとも思ったのだが、まさかそんなことはなかろうとフロントに事情を話してみた。
ホテルマンが部屋にやってきて栓の様子を見ていたのだが、「これは私たちの手には負えない。部屋を代わってもらうようフロントに話をするのでしばし待たれよ」と言い残して部屋を出ていった。待つこと数分、僕らを別の部屋に案内してくれた。念のためバスタブの栓の様子も見てみたが、こちらは正常に機能した。

昼食もまだだったので、市内見物へと出かける前にホテル近くのレストランにてランチ。初めは店内で食べようと思っていたのだが、とにかく暑くていられないので外のテーブル席へ。ビールの追加を頼んだのだがいつまでたっても持ってきてくれないので、店員のおっちゃんに「おお、びいる、びいるをくれ〜」と喉を抑えながらジェスチャーすると、笑って謝りながらビールを持ってきてくれた。会計の際には、ビールを忘れていたことに配慮してくれたのか、50セントほど減額してくれた。

昼食を済ませ、まずは双頭の鷲の門をくぐってホーフブルク(王宮)へ。38年前には訪れなかった場所である。
あまりの大きさに圧倒される。
事前にシシィ・チケット(王宮とシェーンブルン宮殿の優先入場券)を購入しておいたので、iPhoneの画面のQRコードを見せて博物館へ。こんなにたくさんの食器が本当に必要だったのだろうか?と思えるほどの多数の食器に圧倒された。

ホーフブルクを出て、リンク(外周道路)を市庁舎方面へ。それにしても暑い。日陰を選んで歩かないと、すぐに汗まみれになってしまう。ヨーロッパはもっと涼しいと思っていたのだが、日向は日本とそう変わらない暑さであった。
なにやら修復作業中らしく一部カバーのかけられた国会議事堂、巨大なブルク劇場などを見ながら市庁舎へ。最近はここで夏の間だけ「フィルム・フェスティバル」という音楽祭のようなもの(コンサートなどの多彩な映画が上映される)が開かれているとのことで、市庁舎前には巨大なスクリーンが設置され、観賞用の椅子も多数用意されていた。飲食の露店も軒を連ねていたが、値段を見ると飲み物などもけっこう高価に設定されているものばかりであった。
あまりに暑いので、近くのスーパーマーケットを探して何か飲み物を買おうとしたのだが、検索されたスーパーまで行ってみると、その日が日曜日だったためか、ほとんどが営業していなかった。背に腹はかえられなかったので、足元を見られているとは思いつつ、高価な飲料水を買わざるを得なかった。

ウィーン大学の近くには、ベートーヴェンの住んでいた家があるというので訪れてみようと思っていた。
確かにこの建物だということはわかったのだが、入口がどこかわからない。ぐるりと一周してみると、どうやらここが入口ではないかと思われる場所があった。
大きなドアを押して中に入ると、中は真っ暗である。電灯のスイッチらしきものを探して明かりをつけると、すぐ目の前が螺旋階段であった。「ベートーヴェンの住んでいた部屋は4階である」との表示がされている。日曜日だから見学はできないかもしれないと訝りつつ階段を登ると、受付にオッちゃんとオバはんがいた。「見学は可能ですか?」と尋ねると、「どうぞどうぞ、でも入場料は現金のみで支払ってくださいな」と言われた。
いくつかの部屋を回りながら、この部屋にベートーヴェンが住んでいたのかと思うと感無量であった。
オバはんは私たちの様子をずっとモニターしていたらしく、ちょっとでも展示ケースのガラスに顔を近づけたりすると、「触ったらアカン」などといちいち注意をしてくれるのであった。
それにしても、なんという商売っ気のなさであろうか。かのベートーヴェンが住んでいた家ですよ?立派な観光資源じゃないですか!なのに、入口の表示もよくわからず、ドアは開いておらず、階段は真っ暗。なんだかなあという感じで見学を終えた。

さすがに歩き疲れたので、あとは帰るときの空港行きバス乗り場だけを確認してホテルに帰ろうということで、そのバス乗り場近くまで行くトラムへ乗ることにした。
トラムが来たので乗車した。エアコンが効いた涼しい車内を期待した僕らが甘かった。窓は開いていたが、そこからは熱風が入ってくるだけだったのである。もうトラムに乗るのはやめようと思った。

空港行きのバス乗り場は、ドナウ運河のすぐ近くであった。運河を見ると、壁という壁いちめんに落書きがしてある。とても芸術などとは言えない単なる落書きであった。そこからホテルまでは歩いて行くしかないので、シュテファン寺院を目指して歩く。シュテファン寺院からホテルまではほんの5分ほどなのである。
多少は迷いながらも、なんとかシュテファン寺院までたどり着くことができた。いやはや、その大きさときたら!中に入ることもできたので、38年前には見られなかった寺院内へ。多くの見学客がいたが、やはり寺院の中には厳粛な空気が流れていた。

ようやくのことでホテルへと戻り、シャワーで汗を流す。それにしても、ウィーンは暑い。もちろん、部屋にエアコンはなかった。
部屋にいるより外に出ている方が涼しいので、しばらく休憩してから夕食を食べに行くことにした。事前に調べておいた「ミュラーバイスル」というケルントナー通りから少し南に入ったところのレストランである。メニューを見て注文を終えると、別の店員が「日本語のメニューもありまっせ」と日本語メニューを持ってきてくれた。早く言ってよ!
こちらに来てから肉やソーセージばかり食べていたので、この日はお魚のフライを注文。こちらのレストランは一皿の量が多いので、二人で一皿がちょうどいい分量である。

ホテルに帰り、疲れていたのでお風呂に入ってすぐに床に就いたのだが、扇風機だけでは暑くて眠れない。仕方がないので、扇風機側に枕を移動してようやく眠ることができた。夜まで暑いウィーンであった。

いよいよ祝祭大劇場でウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番を聴くときがやってきた。この演奏会を聴くために、はるばるザルツブルクまでやってきたのだ。
演奏会は午前11時からなので、時間的には少しゆとりがあった。ホテル近くで朝早くから営業しているカフェにて簡単な朝食を済ませ、歩いて5〜6分のところにあるミラベル宮殿へ行ってみることにした。

ミラベル宮殿に入るための入場料などは特にないので、東側の入口から庭園に入ると、中央の噴水のある池の右手に宮殿、左手に庭園が広がっている。宮殿側から見ると、正面の小高い山(メンヒスベルク)の頂にあるホーエンザルツブルク城が庭園の借景となって、まことに見事な景観を呈している。
宮殿の中から庭園を見られるだろうかと宮殿の建物内に入ってみたりしたが、残念ながら宮殿内から庭園が見られる部屋はなかった。その代わり、この日音楽祭の一環としてこの宮殿内で予定されていた、室内楽のコンサート会場を見ることができた。
宮殿内を歩いていて気が付いたことがある。それは、どの扉もひどく大きいことだ。ドアノブがちょうど僕の頭くらいの高さについている。しかも、扉自体はオーク材か何かでできているのだろうか、とにかくひどく重い。昔のオーストリア人は巨人だったのかと錯覚してしまうほどであった。

ミラベル宮殿の見学からホテルに戻り、僕は夏用のブレザーにネクタイ、家内はベージュのワンピースという出で立ちに着替えて、祝祭大劇場へと向かう。石畳の道をザルツァッハ川へ向かって下ると、橋の向こうに旧市街地が見えた。
その橋(シュターツ橋)の欄干には、オーストリア国旗とザルツブルク音楽祭のシンボルマークが風に揺れ、いかにも華やかな雰囲気が感じられる。橋を渡り、旧市街地の市壁をくぐると、中世さながらの狭い通りに所狭しと露店が軒を連ねている。

まずは祝祭大劇場の場所を確認しておこうと歩いていると、いきなり後ろから「祝祭大劇場へ行くのかね?」と老爺に声を掛けられた。「ついて来なさい」と言われるままにその後をついて行くと、「ここが祝祭大劇場だよ。まだ扉は開いていないけど、開演時間が近づいたら開けてくれる。それまではモーツァルトの生家とか見てきたらいい。ここからまっすぐ通りを二つ越えて右に曲がったところだ。ところで、今日は確かウィーン・フィルの演奏会だったな。マーラーをやるんだろ?指揮者は誰だっけ?マリス・ヤンソンス?」と言われたので、「いえ、アンドリス・ネルソンスです」と答えると、笑いながら「そうか、ヤンソンスじゃなくてネルソンスか!」と言い、「コンサートを楽しみなさい、じゃあね!」と行ってしまった。

教えられたとおりに、モーツァルトの生家へ行ってみた。祝祭大劇場のすぐ近くだった。入場料を支払って中に入ると、実際にモーツァルトが生まれた部屋などがそのまま残されていた。部屋の窓からは、モーツァルトが洗礼を受けたザルツブルク大聖堂の塔が見える。幼いモーツァルトが弾いたとされる小さなピアノが印象的だった。

開演時間が近づいてきた。祝祭大劇場の前まで行ってみると、既に入口の扉は開けられていた。開演を待つ客が入口前のスタンドでワインなどを飲んでいる。日本人もちらほら見かけることができた。
チケットを出して、祝祭大劇場の中に入る。とりあえず席を確認しておこうと二階席まで行ってみたが、座席への扉は閉じられたままで、開けて入ろうとすると係員から「まだ入れません」と言われた。その間にトイレに行ったりして開場を待つ。
開演20分前くらいになって、ようやく扉が開けられた。係員にチケットを見せると、だいたいどの辺りの席か教えてくれた。言われたとおりに座席を探して着席する。ステージが右斜め下に見える。シートは木製。背もたれが高い。前の座席とは重ならないように配置されているのでステージがよく見える。

ステージでは、ギターやサックスの奏者が開演前の練習をしていた。マーラーをやるはずなのに、なんでギターやサックスが?と思っていたのだが、マーラーの交響曲の前にツィンマーマンの曲を演奏するということを忘れていた。
開演時間を知らせるチャイムが鳴り、楽団員が登場してきた。ウィーン・フィルの実際の演奏を聴くのはこれが初めてである。日本の音楽ホールと違って、客席の照明は多少は暗くなったかと思われるくらいで、ほとんど暗くはならない。指揮者のアンドリス・ネルソンスが登場して、ツィンマーマンの曲が始まった。

休憩を挟んで、いよいよマーラーである。ザルツブルクに行く前から、ぜひとも聴いてみたいと思っていたのは、8分の3拍子で演奏される第2楽章であった。3拍子のリズムはメヌエットやワルツのリズムと言われる。ウィンナ・ワルツの本場、ウイーン・フィルがどのように3拍子を演奏するのか楽しみにしていたのである。

第1楽章が始まって、終楽章の終わりまで約1時間半。身じろぎもせず、全身を耳にして聴いた。
およそ、今までのどの演奏会でも経験したことのない感動に包まれた。
個人的には、大きく三つの点が印象的だった。

一つめは、事前に聴きたいと思っていたウィーン・フィルによる3拍子のリズムである。
第2楽章の始まりから、いきなりその演奏に引き込まれた。
3拍子のリズムは、実際に演奏するときには、「イチ・ニイ・サン」ではない。第1拍にアクセントが置かれるから「イチ、ニッ、サンッ」となる。第1拍をどの程度のアクセントで鳴らすのか、続く第2、3拍をどの程度軽く演奏するのか、そしてそのリズムをベースにしてどうメロディを奏でるのかが、3拍子の音楽の聴かせどころである。
もちろん、指揮者がそれらを細かいところまで指示をすることもあろうが、例えばヴァイオリン・パートの全員がボウイング(弓の上げ下げ)を揃えて演奏するのは、パート全員がまるで一つの楽器であるかのように演奏しなければならないのだから、いくら指揮者が指示しようとも奏者がそれを揃えるためには、パートを構成する全員が「3拍子はこうやって演奏する」ということを身体化していなければ不可能であろう。
ウィーン・フィルの弦楽セクションは、これが絶妙だった。まるで船頭さんの手漕ぎの舟に乗って琵琶湖の水郷巡りをしているかのような、「3拍子の音楽はかくあるべし」という手本のような演奏であった。

二つめは、オーケストラのアンサンブルである。
ウィーン・フィルは、どんなに楽器数が少ない箇所でも、逆にフルオーケストラの大音響の箇所でも、ハーモニーとして響かせることを第一にして演奏しているようであった。
例えば、第4楽章冒頭のアルトのソロに続くトランペットの二重奏。通常の演奏だと、主旋律の音の方が際立つのだが、ウィーン・フィルの演奏は対旋律が主旋律とほぼ同様の音量で演奏されていた。
音の重ね方によって実際にどんなハーモニーとして響くのかということを、それぞれの演奏者が熟知しているのだ。まるで、画家がいろんな絵の具を混ぜ合わせることで、どんな色になるのかを知り抜いているかのように。

また、大音響でアンサンブルが破綻しないことに大きな役割を追っていたのは、ホルンであった。ウィーン・フィルのホルンセクションが使用している楽器は、「ウィンナ・ホルン」と言われるどちらかといえば古楽器に近いホルンである。古楽器に近いということは、あまり機能的ではない楽器ということである。もちろん、演奏技術も現代のホルンに比べれば格段に難しいに違いない。このホルンを使用しているオーケストラは、もちろん世界中でウィーン・フィルだけである。そんな楽器をどうして採用しているのか。それはもちろん、困難な演奏技術から得られる音色が捨てがたいからだ。
ウィンナ・ホルン独特の野太い音は、特に大オーケストラのテュッティ(全奏)の場面でその底力を発揮するということを、今回の演奏会で初めて知った。中音域のホルンが、弦楽器と管・打楽器の橋渡し役を果たすことで、全体のハーモニーが崩れることなく、バランスを保つことができていたのである。

三つめは、これが最大の感動であったが、ふだんの生活ではなかなか感じることができない崇高なもの、それによって自分が浄化されたと感じるものに触れることができたことである。
第4楽章のアルト独唱や、終楽章での「復活」の合唱が静かに始まったとき、そしてその合唱に続くトランペットのソロを聞いたとき、さらには終結部でオーケストラと合唱団にオルガンが加わってクライマックスを迎えたとき、悲しかったわけでもなく、もちろんうれしかったわけでもないのに、思わず涙が零れてきた。そうさせたものは、いったい何だったのであろうか。
悲しみでもなく、喜びでもない涙とは、人知を超えるものに出会ったとき流される涙である。
そんな「人知を超えるもの」を、ある人々は「神」と呼び、また別の人々は「イデア」とか「涅槃」とか呼び習わした。特定の宗派にとらわれることのない「宗教的法悦」を感じたとも言えるかもしれない。
まさしく、そのとき祝祭大劇場にはミューズの神が舞い降りていたのだ。

終演後のカーテンコールは、スタンディング・オベーションにもかかわらず、わずかに3回。3度目が済むと、コンサートマスターが合図して、楽団員たちはさっさと引き上げ始めた。日本での演奏会が5〜6度もカーテンコールされるのと違って、さっぱりして好印象だった。
興奮冷めやらぬままにロビーへ。もう生涯この劇場に来ることはないかもしれないと思い、出口近くにいた制服の男性に写真を撮ってもらうようお願いしてみたのだが、「それならあそこにいる警備員に頼め」と言われたので、出口のところでセキュリティのビブスを付けていた女性に頼んで写真を撮ってもらった。

劇場の外に出て、近くのレストランで遅めの昼食を取り、ホテルに帰って着替え、もう一度旧市街地へと出向いて、ホーエンザルツブルク城に登ってみた。登ると言っても、ケーブルカーであっという間に登れるのだが。このお城からは、ザルツブルクの街全体を見渡すことができた。
あらためて、美しい街だと思った。美しい街には、美しい音楽こそが相応しい。
そうやってザルツブルクの街並みを眼下に見渡している僕の耳には、この日に聴いたマーラーの交響曲第2番第2楽章のメロディが、いつまでもいつまでも聞こえているのだった。

ミュンヘンの朝は涼しかった。ホテル内にて朝食を済ませ、荷物を整えてホテルをチェックアウト。これからいよいよザルツブルクへと移動するのである。
ホテルフロントのお姉さんに、ミュンヘン駅構内の行き先を表示する電光掲示板について尋ねると、「大丈夫です、ちゃんと行き先から発着番線まで表示されてますから」とのお返事。「ザルツブルクまで行かれるんですね。とっても美しい街ですから、ぜひ滞在を楽しんできてください」と言われた。うれしかった。

ミュンヘン中央駅はプラットホームが36もある。改札口はなく、それぞれのプラットホームには入線している列車が間近に見られる。構内には、サンドイッチなどの軽食を売るスタンドや、雑誌などを売るお店、スーパーマーケットのような店まで、多種多様な店舗で賑わっている。
さすがに乗車1時間前にはまだ発着番線が表示されていない。とりあえず目にすることができるホームは、11番から始まって26番まで。それ以外のホームからの発着の可能性もあるので、ホームの位置を確認しておこうと思い、駅構内を端から端まで歩いてみた。1〜10番までと、27〜36番までのホームは、それぞれ駅の東と西の奥まったところにあった。もしザルツブルク行きがそれらのホームだったら、早めにプラットホームまで移動しておかなければならない。

駅の電光掲示板の下にはインフォメーションがあった。掲示板には表示されていなくても、そこなら発着番線を教えてもらえるかもしれないと思い、日本からプリントアウトしてきた切符を見せて、どの番線からの発着かを尋ねた。「12番です」と教えてくれた。ちょうどそのとき、電光掲示板にも僕たちが乗る列車レイルジェット63号が表示されたところだった。
12番プラットホームで待つことしばし。ほどなくレイルジェット63号が入線してきた。日本の新幹線に比べると「ゴツい車体」という印象だ。ホームにいた駅員と思しき制服のオッちゃんに、僕らが乗る予定の22号車はどの辺りに停車するか尋ねた(つもりだった)ところ、「ザ・ラスト・ワン」と言われたので、最後尾かと思って待っていたのだが、入線後の列車から降りてきた女性の乗務員に尋ねると「もっとずっと向こうですよ」と言われたので、慌ててキャリーを引きながらホームを移動する。

どの車両が22号車なのかよくわからないまま、とりあえず列車に乗り込んだ。事前に日本で予約した座席番号がわかっていたので、その番号の席を探すと、既にノートPCを前にしたおじさんが座っていた。「すみません、ここは僕らの席かと思うのですが」と問いかけると、「え?本当?そんなはずはないと思うんだけど」と言われるので、僕らの切符を見せると「ここは21号車です。あなたたちの席は隣の号車ですよ」と教えてくれた。平謝りに謝って22号車へ。
ところが、その22号車の席にも二人組の若者が座っていた。もう一度切符を確認して、「すみません、ここ僕らの席だと思うんですけど」と言うと、「オー、ソーリー」と言いながらすぐに席を空けてくれて、向かいの席に座り直してくれた。そればかりか、大きなキャリーを網棚に上げるのに手間取っていると、すぐに手伝ってくれた。ありがたかった。

ザルツブルクまでは1時間42分。ミュンヘンの市内を抜けると、車窓には北海道かと見紛う風景が広がっている。どこまでも続くかと思われる刈り込まれた牧草地。低い潅木。時おり見られる赤い屋根の町並みと教会の尖塔。旅をしている実感が湧いてくる。
レイルジェットは特急列車なので、ザルツブルクまで途中の駅には停車しない。向かいの二人組は途切れることなくひっきりなしにおしゃべりしている。よほど仲がいいのだろう。そんなおしゃべりを聞いているうちに、ザルツブルク駅に到着した。

プラットホームからエスカレーターを下ると、そこはさながらショッピングセンターかと思われるほどに現代的な駅の構内であった。南口からエスカレータを上がり、地図を見ながらホテルへと向かう。この日はこれから、ザルツカンマーグートのアッター湖畔にあるマーラーの作曲小屋を訪ねる予定になっているのである。
ホテルは駅から南東方向であったが、どうも道をまちがえたらしく、そのまま西の方へ向かってしまった。グーグルマップを見ながら、なんとかホテルへとたどり着く。チェックインはまだできないとのことだったので、荷物を預かってもらい、アッター湖畔の「ホテル・フェッティンガー」に電話をかけてもらって、午後3時半くらいにマーラーの作曲小屋を見学に行くから作曲小屋の鍵を貸してほしい旨の連絡をしてもらった(『地球の歩き方』に「ホテルへの事前連絡が必要」と書かれていたのである)。

アッター湖畔へ行くための列車の時間までは2時間ほど余裕があったので、ザルツブルク駅に戻り、駅近くのファストフード店にて軽い昼食。ザルツブルク駅は、南口は普通の出口なのだが、北口の駅舎は白亜のたいそう立派な建物である。
事前に北口のショッピングセンター内にT-Mobileの店舗があると調べておいたので、そこで1ヶ月限定のシムを手に入れることにした。日本で調べたときには10GBで15ユーロとのことであったが、お店でそのシムをお願いすると、8GBで10ユーロのものに変更されたとのことだった。もちろんそれで十分なので、その場で購入してファーウェイのSIMフリータブレットに装着してみた。4G-LTEでサクサク繋がる。テザリングもできるのでiPhoneのルーターとしても使用することにした。

アッター湖畔には、ザルツブルクからレイルジェットで40分のフェックラブルック駅にて下車、そこからバスにてマーラーの作曲小屋のあるアッター湖畔へと移動する。レイルジェットに乗車して気がつくのは、とにかく車内がたいへん静かなことだ。走行音がほとんど車内には聞こえない。座席のシート番号のところをよく見ると、僕らが指定した席は、特に静かにするエリア(サイレントエリア)だった。

フェックラブルック駅に到着、駅舎内のインフォメーションにてバス停の場所を確認して、バスを待つ。アッター湖の北端にあるカンマー・シェルフリンクというところまで行くバスである。乗客は僕らの他に一人だけ。ほとんど貸切状態である。
カンマー・シェルフリンクにて、すぐ隣に停車していたバスを乗り換える。今度はアッター湖畔を南へ下るバスである。途中、いくつかのバス停で乗降客もあったが、マーラーの作曲小屋のあるゼーフェルト(シュタインバッハ・アム・アッターゼの近く)に近づく頃には、僕らの他に一人が乗車しているだけだった。
バスの車窓からは、アッター湖畔で日光浴や湖水浴をする人たちが見える。対岸の山々が青い湖水面に映え、いかにも美しい風景が続く。

ゼーフェルトのガストホーフ・フェッティンガーのバス停にて下車、ホテル・フェッティンガーへと向かう。バス停からほんの数メートル先のホテルだ。このホテルに、マーラーは夏のシーズンオフの間ずっと滞在していた。そして、ホテルから湖畔へ下ったところに作曲小屋を建て、そこで交響曲第2番と3番を作曲したのである。

ふと見ると、湖とは反対側に高く白く聳える山々が見えた。
その瞬間、僕の頭にはマーラーの交響曲第3番第1楽章のトロンボーンのソロが鳴り始めた。
そうか、第1楽章の始まりは、あの山の姿を写したんだ!と確信した。
交響曲第3番の第1楽章は、8本のホルンの斉奏で始まる。どことなく厳しさを感じさせるパッセージだ。その前奏に続いて、遠くの雷鳴を思わせるバスドラムの弱い連打をバックに、トロンボーンがモノローグのようなソロを奏でる。時おり入る弱音器付きトランペットの三連符は、まるで広がってきた黒雲から放たれる稲妻のようだ。
すべては、あの白い岩石の露出した山々の威容、それも雷雲が立ち込めてその山々の頂までは見ることのできない様子が再現されていたのだ(帰国後にその山のことを調べたところ、「ヘレンゲビルゲ(地獄)」という名称の山であることがわかった)。
これは予想外の発見だった。
やはり現地へ実際に行かなければわからないことがあるのだ。しみじみ来てよかったと思った。

ホテルのフロントへ行き、「ザルツブルクのホテルから電話を入れてもらいましたが、マーラーの作曲小屋の鍵を借りにきました」と告げると、応対してくれた若いお姉さんは、そのことを知らされていなかったらしかったが、「ああ、作曲小屋の鍵ですね?これです」と言ってすぐに鍵を出してくれた。
ホテルのすぐ横の道を湖の方へ下ると、ゲートのようなものがあって、そこから先はキャンピングカー専用のキャンプ地になっていた。ゲートが少し開けてあったので、そこから湖畔へ。少し歩くと、「マーラーの作曲小屋」と書かれた小さな掲示板があった。そこを曲がると、すぐ目の前に作曲小屋があった!

赤い屋根に白い壁。バックにはアッター湖の青い湖面と対岸の緑の山が見える。鍵を開けて中に入ると、いきなり交響曲第3番の第1楽章が鳴り出した。そういう仕掛けになっていたのだ。やっぱり交響曲第3番の第1楽章なのだ!
小屋の中には、古びたピアノが一台置かれていて、四方の壁面にはマーラーの写真や楽譜の写し、当時の新聞記事などが所狭しと掲示されていた。ピアノ以外には、何も置くスペースがないほどの小さな小屋である。入口の他の三方の壁にはそれぞれ小さな窓が開いていて、湖と山がいつでも見られるようになっている。
入口左の窓から外を見ると、先ほど目にした白い岩石の山の頂が見えた。ブルーノ・ワルターも、あの山と眼下の湖とを見たに違いない。すべてはこの窓から見える景色だったのだ。

少しでも長くその場に居たかったのだが、この作曲小屋の周囲にも日光浴や湖水浴のためのサマーベッドが置かれていて、あまりその周辺をうろつくのもためらわれたので、ほどなくホテルへと戻り、お礼を言って鍵を返した。ちなみに、この作曲小屋の見学は無料である。
ホテルの反対側の道の奥には草原が広がっていた。もし、マーラーの時代からこの光景のままだったとしたなら、マーラーはこの光景を交響曲第3番の第2楽章にしたのかもしれない。山裾に広がる草原。ところどころに咲く花。シュタインバッハ・アム・アッターゼは美しい場所だった。

再びバスにてカンマーシェルフリンクまで戻り、そこで1時間に1本しかないローカル線の電車を待つ。待つ間、湖畔のカフェにてアイスクリームを食べながら、もう二度と訪れることはないであろうアッター湖畔の、湖岸近くを泳ぐ白鳥や湖水浴する人々をぼんやり眺めていた。

ローカル線にてフェックラブルック駅まで戻り、そこからはレイルジェットでザルツブルクへ。もう午後の7時近くだったので、ホテルへの帰り道にて夕食。
祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番が翌日に控えていた。

ザルツブルク音楽祭への旅路は、出発日前日の空港(中部国際空港セントレア)前ホテルへの宿泊から始まった。そのホテルに宿泊すると、10日間無料でホテル付設の駐車場を利用できるからだ。宿泊するのは二度目だが、ここはどこの国かと錯覚を起こすほどに、今回もホテルのロビーは某国の宿泊客で溢れていた。
ホテルのチェックインを済ませ、空港内のレストラン街にて夕食。空港内ということも手伝ってか、レストラン内は街なかのレストランとはちょっと違った空気に支配されている。食事客の服装も含め、どこか華やいだ感じがするのは、空港という場所が日常から非日常へと移行する境界に位置しているからなのであろう。

自宅を出発する前に、ジェットウェイ・トラベルのナカガワさんから、搭乗機であるフィンエアーはウェブで24時間前からチェックインができると聞いていた。実際に、出発日前日にはフィンエアーからオンラインチェックインの案内メールが入ったので、指示されるままに予約番号やパスポート番号等を入力すると、座席の指定と搭乗券の発券まで簡単に終えることができた。
これで、出発日当日はチェックインカウンターに並ばずに、いきなりバゲージドロップのカウンターで荷物を預けるだけになった。便利な時代になったものだ。

出発日当日の朝、某国の人たちの凄まじい喧騒の中でホテルの朝食を済ませ、空港へと向かう。レンタルWi-Fiのカウンターでルーターを受け取って、フィンエアーのバゲージドロップカウンターへ。
自宅でプリントアウトしてきた搭乗券のコピーを見せると、すぐにバーコードの入った通常の搭乗券と交換してくれた。荷物を預ける際、「僕の知り合いが最近パリからフィンエアーで帰ってきたんですけど、ロストバゲージだったんですよ。大丈夫ですかね?」と応対してくれた係員に尋ねると、「フィンエアーって、ロストバゲージが多いんですよね。ヘルシンキ空港がハブ空港なので、けっこう積み残しとかあるみたいで」などとおっしゃる。そんな人ごとみたいに言われても困るのである。
イミグレを通過して、搭乗を待つ。これからの旅路に思いを馳せ、いちばんわくわくする時間である。トランジットのヘルシンキまでは約10時間、1時間半後の便でミュンヘンまでは約2時間半。ミュンヘン空港から市内まではエアポートバスにて約40分。ホテルにチェックインするまで、トータルで少なくとも約15時間。長い旅路である。

10:30セントレアを発つ。
座席に座ったときから、前のシートに備え付けられているモニターが見られなかったので、CAにその旨を伝えると「再起動してみますからちょっとだけお待ちください」とのことであった。シートベルトサインが消えてもモニターの状態は変わらなかったので再びCAに伝えると、そこよりも前の4人掛けの席が空いているので、そちらの座席へと移動してはどうかと提案された。家内と相談して、提案に従うことにした。ベルトサインが消えてしばらくすると機内食が出た。フィンエアーの機内食は、はっきり言っておいしくない。狭い座席で、窮屈な思いをして食べるので、なおさらおいしくない。さっさと食事を終えて、持参したタブレットで電子書籍を読む。選んだ本は、釈先生と内田先生による『聖地巡礼リターンズ』。今回の旅は、グスタフ・マーラーをめぐる巡礼の旅である。巡礼の旅には巡礼の本が相応しい。

14:10(現地時間、日本との時差は6時間)ヘルシンキ空港着。
乗り継ぎ手続きへと向かう。セキュリティチェックを通り、パスポートコントロールへ。すると、後ろから「日本人の方はこっちですよ!」という声が聞こえた。振り返ると、日本人ではない男性が流暢な日本語で「日本人の人はこちらの入口です」と指差して教えてくれた。そこには、ちゃんと日本と韓国の国旗のマークが掲示されていた。お礼を言ってパスポートコントロールを通過。あとは、ミュンヘンまでの搭乗口近くで待機するだけである。
ほどなくミュンヘン行きの搭乗が始まった。この機では、機上でWi-Fiを使用することができた。フィンエアーのHPにアクセスして簡単な手続きをするだけである。いつでもどこでもWi-Fiが使用できるようになる時代が来るのも、そう遠い将来ではないと実感した。
16:15ヘルシンキ空港を発つ。

17:50(現地時間、ヘルシンキとの時差1時間)ミュンヘン空港着。
荷物を受け取り(ロストバゲージしなくてよかった!)、ルフトハンザ・エアポートバス乗り場へ。ターミナル2にバス停があるとのことで、案内板に従ってターミナル2へ。しかし、行けども行けどもターミナル2には行き着かない。ようやくターミナル2なる場所までたどり着いたが、今度はエアポートバスの乗り場がどこかわからない。
近くのインフォメーションで尋ねると、そこに座っていたおっちゃんが「ストレイト・フォワード」とまっすぐ指差した。そこからすぐ近くの出口を出たところが、エアポートバスの乗り場だったのである。ホッと一息ついたものの、バス停は2箇所あった。出口右側のバス停に行こうとすると、家内が「こっちじゃない?」と左側のバス停を指差した。よく見ると、「ルフトハンザ・エアポートバス」の表示がされてあった。安心して、バスが来るのを待った。

バスがやって来てバス停の前で止まると、サングラスにヒゲのドライバーが下りてきて、バスの荷物室を開けて荷物を乗せ始めた。日本でプリントアウトしてきた乗車券を見せ、バスへと乗り込む。乗客は数人。バスは高速道路に入ってビュンビュン飛ばす。すぐ横をベンツやBMWがそれよりも早い速度で追い抜いていく。ドイツの高速道路は制限速度がないと聞いたことがあるが、まさしくそんな感じであった。
高速道を下り街なかに入ると、バスの車窓からドイツの家並みが見える。どの建物も、鋭角の屋根に屋根裏部屋と思しき窓が設えられている。壁はベージュか淡いグリーンで統一されているのが特徴的だ。

ミュンヘンのホテルは、中央駅のすぐ近くに取った。チェックインを済ませて部屋に入り、旅装を解く。暑いのでエアコンをつけようと思ったが、エアコンは設置されておらず、代わりに扇風機が置かれていた。窓を開けようと思ったが、どの窓も窓の上部が15センチほど斜めに開くだけで、開け放つことができないようになっていた。

とりあえず、夕食(夜食?)を食べに街へと繰り出した。事前に日本語メニューのあるレストランをチェックしておいたので、Googleマップを頼りにカールスプラッツへ。カールス門という大きくて立派な門をくぐると、そこからマリーエン広場までは広い歩行者天国となっている。
しばらく歩くと、大きな教会が見えてきた。Googleマップでは聖ミヒャエル教会とある。教会の壁には大きな羽根のある天使が剣で何者かを退治しているような大きなレリーフが飾られている。
さらに、その教会のすぐ隣には、聖母教会の二つの高いドームが聳え立っている。近くまで行ってみると、カメラのレンズには収まりきらないほどの高さだ。その聖母教会は中に入ることができた。ひっそりとした教会の内部では、静かに祈りを捧げている人もいた。

既に、この時点で起床から20時間以上経過している。早めに食事を済ませ、明朝のザルツブルクへの移動に備えなければならない。しかし、聖母教会近くの件のレストランは、閉店したか移転したかわからないが、とにかく営業していなかった。仕方がないので、そこまで来る途中にあったビヤホールへ行くことにした。
ミュンヘンでは、ヴァイスブルスト(白ソーセージ)とビールが飲めればいいと思っていたので、サラダとともに注文。ヴァイスブルストは、陶器の器の湯の中に沈められた状態で供された。直径4〜5センチ、長さは15センチほどだ。少しずつナイフで切って、別添えの辛子(のようなもの、全然辛くはない)をつけて食べるのである。ブルストを食べ、ビールを飲む。ああ、ミュンヘンまでやって来たという実感に浸る。
ミュンヘンのビールは、後味が日本のビールと全く違う。麦なのかホップなのかよくはわからないが、たぶんそのどちらかの味が立ち上ってくるのである。僕があまりにおいしそうに飲んだからか、ふだんはアルコールを一切口にしない家内も「一口飲ませてよ」と言ってきた。

ミュンヘンは、マーラーが自身の指揮で交響曲第8番を初演したところである。市内のドイツ博物館の敷地内には、実際に初演された建物が残されているとのことだが、とてもそこまで足を延ばす余裕はなかった。食事を済ませ、ホテルに戻り、入浴してすぐに就寝。眠いはずであったが、その日の夜は興奮してなかなか寝付けなかった。明朝はいよいよザルツブルクへと移動するのである。

僕がクラシック音楽を聴くようになったきっかけは、クラシック音楽が好きな父親の影響であった。父がどういう経緯でクラシック音楽に親しむようになったのかは知らないが、父はベートーヴェンが何よりもお気に入りであった。たぶん、父自身が難聴の持病を持っていたので、ベートーヴェンが後年難聴に苛まれたことを自身のそれに重ね合わせて、自然と親近感を持つようになったのではなかろうか。
大晦日、居間では家族が「紅白歌合戦」を見ているのに、父親は一人別の部屋のテレビでNHK交響楽団による「第九」を見ていて、途中「いいところだから見にこい」とその部屋に僕を呼んで、一緒に「第九」を見るというようなこともあった。

そんな父親の影響もあって、僕は小学生の頃から自然とクラシック音楽を聴くようになっていった。
小学6年生のときには、音楽好きの担任の先生が聴かせてくれたショパンの「英雄ポロネーズ」が聴きたくて、初めて自分の小遣いで安川加寿子が弾いたショパンのピアノ曲集のEP盤(外径17㎝の小型レコード盤)を買った。ターンテーブルとスピーカーが一体になった再生機器で、何度も何度も繰り返し聴いた覚えがある。

初めてLPレコードを買ったのは中学生のときで、アンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とエグモント序曲、シューベルトの「未完成」交響曲がカップリングされたレコードであった。もちろん、有名な「運命」を聴きたかったからだが、どうしてその演奏家のレコードを選んだのかはよく覚えていない。
アンドレ・クリュイタンスなどという指揮者のことなど、中学生の自分がもちろん知るはずはなかったので、どこかで耳にしたベルリン・フィルというオーケストラ名で購入を決めたのではないかと思われる。
このレコードも、それこそ「擦り切れる」ほど聴いた。たまたま父の購入した「運命」のポケット・スコア(オーケストラ・スコア)が家にあったので、そのページをめくりながら聴いたことを思い出す。

1970年代当時は、大盤のLPレコードは1枚2,000円もしたので、中学生や高校生の小遣いでは手軽に買える代物ではなかった。いきおい、LPレコードを買おうというときには、選びに選んで「極めつきの名盤」を買おうとするようになったのは自然な成り行きであった。
そんなときにレコード選びの参考になったのは、CBS・ソニーから出ていた「ベスト・クラシック100選」というカタログであった。交響曲から室内楽曲、器楽曲や歌曲まで、クラシック音楽の幅広いジャンルから、定評のある名盤が演奏者のカラー写真と楽曲解説付きで紹介されていたので、それを見ながら少しずつアルバムを買っていった。レナード・バースタインや、ブルーノ・ワルターという指揮者のことも、その「ベスト・クラシック100選」で知った。
バーンスタインが指揮するチャイコフスキーやシベリウスの交響曲、ワルターが指揮するブラームスの交響曲のアルバムなどを購入して聴きながら、次なる関心はグスタフ・マーラーの交響曲のアルバムへと向けられていった。

最初に買ったマーラーの交響曲のレコードは、バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した交響曲第1番であった。初めて聴いたときは、変わった曲だなあという印象であった。そもそも、第1楽章の出だしから変わっていた。弦楽器が、まるで霧が立ち込める森の朝のような雰囲気を弱音で醸し出す中、遠くから起床ラッパのような音や鳥の鳴き声が聞こえ、そんな中で目覚めた主人公がゆっくりと歩き始めるかのように主題が始まるのである。
しかし、この交響曲で最も印象的だったのは、第3楽章であった。静かな足音のようなティンパニの伴奏に乗って、ソロのコントラバスがすすり泣くようなメロディーを奏でる。まるで葬送行進曲のようだ。
作曲家の廣瀬量平は「音楽現代」1975年3月号のマーラーの特集で、この交響曲第1番の第3楽章について、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の一部を引き、「悔恨と郷愁としての陳腐な甘い調べというものがありうるのであり、それがたくみな配置と誘導によってこの自伝的青春小説のような長大な曲の一つのエピソードになっていて、少しの不自然もない」とし、「トーマス・マンの描く主人公の小説家は何とマーラー自身に似ているのだろう」と書いている。

廣瀬量平が引用した『トニオ・クレエゲル』の一部とは、以下の箇所である。
「彼はあの頃から今日までの歳月を顧みた。己の経て来た官能と神経と思想との、すさみ果てた冒険を思い起こした。風刺と精神とにむしばまれ、認識に荒らされ、しびらされ、創造の熱と悪寒とに半ば摩滅され、頼るところもなく、良心をさいなまれつつ、森厳と情欲という烈しい両極端の間をあっちこっちへ投げ飛ばされ、冷ややかな、わざとえりぬいた高揚のために、過敏にされ貧しくされ疲らされた揚句、乱れてすさみ切って責めぬかれて、病み衰えてしまった自分の姿を眺めた。そして、悔恨と郷愁にむせび泣いた。」(実吉捷郎訳、岩波文庫)

このマーラーの交響曲第1番の第3楽章によって、僕はすっかりマーラーの音楽の虜になってしまった。最も惹かれたのは、その音楽が濃厚な文学性を保持しているということを発見したことであった。1曲の交響曲が、まるで一編の小説を読むかのごとくに聴くことができると感じたのである。
それからは、件の「音楽現代」のマーラー特集号で紹介されていた他の交響曲も、ぜひ聴いてみたいと思うようになった。

ところが、70年代当時はマーラーの交響曲のレコードはほとんど手に入れることができなかった。比較的入手しやすかったレコードは、バーンスタインが指揮した1番・2番・4番・「大地の歌」、ワルターが指揮した1番と2番くらいで、他の交響曲はなかなか地方のレコード店の店頭では見かけることがなかった。
しかも、マーラーの交響曲は演奏時間が長時間にわたる曲が多いので、そのほとんどがLP2枚組だった。さすがに2枚組4,000円もするレコードを次から次へと購入することなど高校生の小遣いでは不可能であった。
それでも、どうしても聴きたいという思いは抑え難く、高校3年生の夏にはバーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した3番を、秋には同じくバーンスタインがイスラエル・フィルを指揮した「大地の歌」を入手して、大学受験の勉強の合間に何度も何度も聴いていた。

交響曲第3番は、全体が夏休みの雰囲気にぴったり(第1楽章には「牧神が目覚め、夏が行進してくる」という表題が付けられていたことがある)だったこともあり、特に第3楽章は夏の朝に聴くと、舞台裏で吹かれるポストホルン(トランペットのような音色の小型楽器)のソロと舞台上のホルンの掛け合いがいかにも清々しく、この長大なシンフォニーの中でもとりわけ好きな楽章になった。
「大地の歌」は、特に最終楽章が忘れられないものとなった。冬枯れの景色から少しずつ春に近づいていくという時節に、終楽章の最後の詩句(マーラー自身が特に付け加えたもの、「愛しい大地に春が来れば、至るところに花は咲き、緑は新たに萌え出でて、遥か彼方には輝く青い光。永遠に、永遠に...」)とその音楽は、これから地元を離れて大学生活を送るようになるという当時の自分の心情を代弁してくれているように響き、ひどく胸が締め付けられるように感じられた。こうして、マーラーの交響曲は僕にとってなくてはならないものとなっていった。

今回のザルツブルク音楽祭では、マーラーの交響曲第2番「復活」を聴く。オーケストラは、マーラーが指揮者を務めたこともあるウィーン・フィル。終楽章での「復活」の合唱も聴きどころだが、いちばん楽しみにしているのは第2楽章だ。ウィーン・フィルのいかにも艶やかなワルツの響きが聴けるのではないかと、今から期待に胸を膨らませているのである。

(その2)移動の手段とホテル

ザルツブルク音楽祭のチケット確定通知から2ヶ月後の4月、音楽祭のチケットセンターから国際郵便でチケットが郵送されてきた。
チケットを申し込む際には、チケットを郵送してもらうか、現地で受け取るかを選ぶことができるようになっている。現地で受け取ってもよかったのであるが、もしも当日何かトラブルがあったりする(ないと思うけど)と嫌なので、送料はかかる(12ユーロ、約1,500円)のだが、郵送してもらうことにしたのである。
チケットには、「私たちはあなた方の訪問を楽しみにしています」というメッセージが添えられていた!

まずは航空券だ。
航空券は、地元浜松で個人営業をしているジェットウェイ・トラベルのナカガワさんにお願いすることにした。できるだけ安価に海外旅行ができるプランをあれこれアドバイスしてくれるので、過去二度のイタリア行きでも航空券や現地でのガイドさんの紹介などをお願いした経緯がある。
ナカガワさんが勧めるヨーロッパへの航空会社はフィンエアー。お勧めの理由は、最短時間(10時間)でヨーロッパ(ヘルシンキ)まで行けるからだそうだ。ヘルシンキ空港は、ヨーロッパでも有数のハブ空港である。ヘルシンキからは、ヨーロッパのほとんどの都市へ2時間ほどで行ける。
初めは、ウィーン空港からザルツブルクまで行こうと思っていたのであるが、地図を見るとウィーンよりは、お隣のドイツ・ミュンヘンからの方がザルツブルクに近いということがわかった。さっそく、ナカガワさんに連絡をして、行きはミュンヘンまでと、帰りはウィーンからの航空券をお願いすることにした。

ミュンヘン空港に到着してから、宿泊先のホテルがあるミュンヘン中央駅までは、安価だし所用時間も電車とほとんど変わらないとのことだったので、「ルフトハンザ・エアポートバス」というシャトルバスを利用することにした。チケットもオンラインで買うことができる(片道1人10.5ユーロ、約1,350円)。
チケットの有効期限がよくわからなかったので、日本のルフトハンザのお問い合わせ窓口に電話してみた。「すみません、ルフトハンザのエアポートバスのチケットについてお聞きしたいんですけど」
「フランクフルト空港からストラスブール駅までですね?日本語対応のホームページがありますよ」
「いえ、違います、ミュンヘン空港からミュンヘン中央駅までのエアポートバスのことですけど」
「ああ、それはウチではないです」
「え?でも、ルフトハンザのバスですよ?」
「すみません、ここではわかりません」(以下略)
やんぬるかな。
諦めて、もう一度ルフトハンザ・エアポートバスのホームページをドイツ語版から英語版にして、隅から隅まで見てみることにした。すると、FAQのところにチケットの有効期限についてもちゃんと書かれていた。それはいいのだが、どうもルフトハンザのお問い合わせ窓口の対応には、いささか憮然としたものを感じた(後日メールで同様のことを問い合わせたところ、「ご搭乗に関しましてのお問い合わせにつきましては、最寄の予約センターまでご連絡くださいますようお願い申し上げます」という、まことにトンチンカンな返信があったことを申し添えておく)。

問題は、マーラーの作曲小屋のあるザルツカンマーグートのシュタインバッハ・アム・アッターゼへの移動の手段であった。
シュタインバッハ・アム・アッターゼへは、ミュンヘンからザルツブルクへと移動した日の午後に行く予定であった。グーグルマップで経路を調べてみると、電車とバスを利用する場合は約2時間、車なら1時間弱で行けることがわかった。車なら電車&バスの約半分の時間で行けるのだ。
移動は午後からなので、移動時間の短縮を考えるのなら車の方が無駄がない。車で行くのなら、タクシーをチャーターするか、国際免許を取得してレンタカーを借りる必要がある。
国際免許は、国内の運転免許証があれば、パスポートと渡航を証明するもの(旅行計画書)等を提出して、案外簡単に手に入れることができる。しかし、通行区分の違う国で知らない道を走るというのは、事故などのリスクが大きいのではないかと心配されるし、レンタカーを借りたり返却したりする手続きの煩わしさもある。
タクシーをチャーターする場合でも、シュタインバッハ・アム・アッターゼまで、いったいどれほどの料金がかかるのかがわからなかった。
どうしようかと迷った。Facebookにその旨を呟くと、旧知である奈良のオーヤマ先生からは「ヘリコプターはないんですか?」というコメントが入った。困った人である。

でも、そのオーヤマ先生からのコメントから、ネットで質問してみれば返信してくれる人がいるかもしれないと思いついた。そこで、「地球の歩き方」サイトのFAQコーナーで、ザルツブルクからシュタインバッハ・アム・アッターゼまでの移動手段について質問してみることにした。
驚いたことに、投稿するとすぐにお二人の方から返信があった。タクシーでの移動は片道15,000円〜20,000円ほどかかること、オーストリア連邦鉄道のHPからなら詳しい行き方や移動時間まで調べられてチケットの予約もできること、だから電車とバスを利用して移動するのがよいこと、などをご教示していただいた(残念ながら、ヘリコプターでの移動については提案がなかった)。
これで、シュタインバッハ・アム・アッターゼへは、ご教示のとおり電車&バスで行くことが決定された。
さっそく、オーストリア連邦鉄道のHPにアクセスして、乗車可能の列車や料金などを検索してみた。その過程で、マーラーの作曲小屋のある場所は、シュタインバッハ・アム・アッターゼの中でもゼーフェルトのフェッティンガーというところにあって、近くのホテルがその小屋を管理しているということもわかった。ザルツブルクを出発するおおよその時間、そして出発地のザルツブルクと到着地ゼーフェルトを入力すると、利用できる電車・バス、指定席の予約可否までが全て検索できた。
行きは、レイルジェットという特急で、ザルツブルクから東のウィーンに向かって40分ほどのフェックラブルックという駅(アッターゼ湖の北東約15キロ)で乗り換え、そこからはちょうどよい乗り換えの電車がないので、バスでアッターゼ湖北端のカンマー・シェルフリンク駅まで。さらに今度は湖畔を南に向かって走るバスに乗り換えてゼーフェルトに到着する。所要時間は1時間40分ほどだ。
帰りはバスでカンマー・シェルフリンク駅まで戻り、そこからはローカル電車でフェックラブルックまで25分ほど。フェックラブルックからは、行きと同じくレイルジェットでザルツブルクまで40分。行きと同様に1時間40分ほどでザルツブルクまで戻ってこられる。
レイルジェットという特急列車は、ビジネスクラス・1等車・2等車で構成されていたが、2等車でも座席指定(座席指定券は一人3ユーロ、約390円)ができて十分快適らしいということがわかったので、行きも帰りも2等車の座席を指定した。往復の交通費は、指定席券も含めて二人で約84ユーロ(約10,800円)。タクシーよりもかなり安価であった(たぶんヘリコプターよりも)。
ついでに、ミュンヘン〜ザルツブルクと、コンサートが終わった翌朝にはウィーンへと移動するので、ザルツブルク〜ウィーン間の列車も予約した。ミュンヘン〜ザルツブルク間は二人で82ユーロ(約10,600円)、ザルツブルク〜ウィーン間は約54ユーロ(約7,000円)であった(共に、2等の座席指定)。
これで、旅行期間中の主な移動手段は確保することができた。

それにしても、マーラーの作曲小屋があるというだけで、たとえ日程がハードになっても、どうしてそれほどまでにシュタインバッハ・アム・アッターゼへ行きたいのか理解に苦しむ方もあろう。
それは、マーラーのファンにとっては、シュタインバッハ・アム・アッターゼが「聖地」の一つだからだ。つまり、今回の旅はマーラーの「聖地巡礼」の旅なのだ。巡礼の旅には、多少の苦労は付き物なのである。静岡県沼津市は、昨今とあるアニメの舞台となった「聖地」として、週末には多くのファンが訪れるようになっている。実際に、アニメに出てくる場所を訪れることで、アニメに描かれた世界を実感できるからであろう。
シュタインバッハ・アム・アッターゼもそれと同様である。そこを訪れ、周囲の自然の美しさを愛でたブルーノ・ワルターに、マーラーは「そのすべてを(第3交響曲に)作曲してしまったから」と語った。実際にその地へ行き、自分でシュタインバッハ・アム・アッターゼの風景を目にしたとき、第3交響曲のどんなパッセージが響いてくるのか、ただひたすらそれに耳を澄ませ、聴き取ってみたいのである。

旅支度で最も大切なことは想像力だ。
移動、宿泊、観光など、あらゆる場面で、実際に自分たちがそれを経験している場面をどれだけ想像できるかということである。
いろんな場面で、その場にいる自分たちをうまく想像することができなければ、その選択はしてはならない。レンタカーをチョイスしなかったのは、実際にレンタカーを借りて自分たちが現地を走るところをうまく想像できなかったからだ。うまく想像できないことをあえて選択すると、きっとその選択はよからぬ結果をもたらすような気がするのである。

ホテルは、全てジェットウェイ・トラベルにお願いした。荷物のこともあるので、できるだけ駅近くで、バスタブのあるホテルを探してもらうことにした。前回のイタリア旅行では、宿泊した全てのホテルがバスタブのないホテルばかりで、終日歩き回って疲れた体を癒すには、やはりゆっくりとお湯に浸かるのがいちばんだと実感させられたからである。
ジェットウェイ・トラベルのナカガワさんからは、ご自身がウィーンに滞在したこともあるとのことで、「ウィーンだけは国立歌劇場近くのちょっといいホテルになさってはいかがですか?」と提案されたので、駅からは少し離れてはいるが、そのホテルでお願いすることにした。
これでホテルも全て決まった。

あとは、それぞれの場所で食事をするところと、ウィーンの市内観光をどうするかを考えるくらいである。旅の計画で、いちばん楽しいところだ。ミュンヘンのビールとブルスト、ウィーンのザッハトルテが目に浮かんできた。

(その1)チケットを手に入れるまで

昨年秋、東京都交響楽団からのDMにて、大野和士指揮・東京都交響楽団によるグスタフ・マーラーの交響曲第3番の演奏会が、今年の4月に東京文化会館にて開催されることを知った。チケットが発売されたのは昨年の12月。発売日当日、さっそくネットにてチケットを買い求め、演奏会を楽しみに待っていた。

グスタフ・マーラーは、19世紀末から20世紀のはじめに活躍した指揮者・作曲家である。存命中は指揮者として高く評価され、ヨーロッパ各地の歌劇場指揮者を経て、ウィーン宮廷歌劇場(当時)の終身芸術監督にも任命されたほどであった。
18歳でウィーン学友協会音楽院を卒業したマーラーは、生活のために各地の歌劇場で指揮活動をするかたわら作曲にも着手、20歳を過ぎてからはいくつかの歌曲集(「若き日の歌」、「さすらう若人の歌」)や、管弦楽を伴う大規模な合唱曲(カンタータ「嘆きの歌」)などを次々と完成させていった。
マーラーは生涯に11曲の交響曲(未完成作品を含む)を遺したが、交響曲第1番の作曲を始めたのは24歳のときで、5年後の29歳のときにマーラー自身の手で初演された。以降、マーラーの作曲活動は交響曲が中心となった。

交響曲第3番の作曲が始められたのはマーラーが33歳、ハンブルク市立劇場の指揮者をしていたころである。当時は、コレラの流行もあってハンブルクでも多数の死者が出たためか、マーラーは劇場の休暇を利用してハンブルクを離れ、2千メートル級の山々と70以上の湖が点在する風光明媚なザルツカンマーグート(オーストリア)のシュタインバッハ・アム・アッターゼ(アッターゼ湖畔のシュタインバッハ)に滞在、湖畔に小さな作曲小屋を建てて、作曲に明け暮れていた。
ちょうど交響曲第3番を作曲していた折、マーラーの弟子であるブルーノ・ワルターがシュタインバッハ・アム・アッターゼにマーラーを訪れた。周囲の風光に感嘆するワルターに向かって、マーラーは「君はもう何も見なくてもいい。僕がその全てを作曲してしまったから」と言ったそうだ(これは、マーラー・ファンであれば周知のエピソードである)。
休暇中は毎年のようにシュタインバッハ・アム・アッターゼを訪れたマーラーは、ここで34歳のときに交響曲第2番を、36歳のときに第3番を完成させた。

大野和士指揮・東京都交響楽団による交響曲第3番の演奏会を待つあいだ、そんなシュタインバッハ・アム・アッターゼを、機会があればぜひ一度訪れてみたいという思いはいっそう強くなった。
地図で見ると、シュタインバッハ・アム・アッターゼは、オーストリア国内では、ウィーンよりはザルツブルクからの方が近い。ザルツブルクと言えば、そのモーツァルト生誕の地で開催される音楽祭が有名である。もし、シュタインバッハ・アム・アッターゼを訪れるのならば、せっかくなのでザルツブルク音楽祭も鑑賞できないものだろうかと考え始めていた。

クラシック音楽を聴くのが趣味とは言え、実際にザルツブルク音楽祭については、その開催時期からプログラムまで、詳しいことはほとんど知らなかった。学生時代、FM放送のクラシック音楽番組のエアチェックをしている際、「今年のザルツブルク音楽祭から...」というアナウンスで、その音楽祭がクラシック音楽界では由緒ある音楽祭であることを知っていたくらいだ。
そこで、今年の音楽祭はどんなプログラムで開催されるのだろうとネットを検索してみた。すると、7月28日〜29日の両日にわたって、祝祭大劇場にてウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番「復活」が演奏されることを知った!
驚いた。
シュタインバッハ・アム・アッターゼへ行くことを考えていたところに、その場所で作曲された交響曲第2番の演奏会がザルツブルクで開催されるのだ!
3番ではなかったが、「これはきっとマーラーからのお導きである」と思った。
まるで、ふと手に取ったジグソーパズルのピースが空白の部分にぴったりとはまったときのように事態が生起するときには、躊躇することなくその流れに乗らなくてはならない。
7月の終わりならば、今の職場は夏休みに入っている。
行くしかない!と思った。

さっそく、ザルツブルク音楽祭のツアーをネットで検索してみた。例えばJ社の場合は、オペラとコンサートの2種類のチケット付きで1人70〜80万円であった。家内と二人で行けば140〜150万円!とても手を出せる代物ではなかった。
さらにあれこれ調べてみると、ツアーではなく自分でチケットを手配する方法もあるということがわかった。音楽祭の公式ホームページから直接チケットを購入するのである。これならJ社ほどのツアー料金はかからない。往復の航空券と電車等による移動の交通費、ホテル等の滞在費、さらにはチケット代を加えても、J社のツアーの約半額で済みそうであった。もっとも参考になったのは、以下のサイトである。
http://ヨーロッパ音楽の旅.com/salzburgerfestspiele-ticket/

2月、件のザルツブルク祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番の演奏会のサイトにアクセスしてみた。
7月28日は午前11時から、29日は午後8時からのコンサートであることがわかった。夜のコンサートよりは、初日の午前中からのコンサートの方がチケットは取りやすいかもしれないと思った。
28日のコンサートをチョイスして、座席を選ぶところまで進んだ。いちばん高い席は220ユーロ(約2万8千円)。もちろん、日本でウィーン・フィルを聴くことを考えれば安いのかもしれないが、二人で5万円以上もするチケットはあまりに贅沢であった。二階席ならば80ユーロ(約1万円)の席があったので、そちらを選ぶことにした。サイトでは、その座席からは舞台がどう見えるのかも確認することができた。鑑賞には特に支障のない座席であった。
二人分の席を選び、支払いのページに移った。クレジットカードの番号を入力し、エイヤッと気合いを入れて申し込み確定ボタンをクリックした。すると、公式ホームページのチケットセンターからは、以下のような返信が送られてきた。曰く、「汝の予約を受け付けた。しかし、確実にチケットが手配できたわけではない。チケットが確約できるかどうかは3月末日までには連絡するので、それまで待たれよ」とのことであった。
3月末まで猶予がある理由はよくわからなかったが、世界的に人気のある音楽祭だから応募者の中から抽選するのかもしれないなどと思っていた。もちろん、チケットが入手できなければ、ザルツブルク行きは諦めるつもりでいたのである。

すると、そのメールが来てからわずか2週間後、Salzburger Festspieleというところからメールが入っていた。
ザルツブルク音楽祭のチケットセンターからだ!
ドキドキしながらメールを開いてみた。
「汝の申し込んだチケットは確定した」とのメールであった。
ミューズ神は舞い降りたのである。
天にも上る気分であった。
こうして、ザルツブルク音楽祭への旅支度が始まった。

12月28日(木)

今年も年の瀬が押し迫ってきたということで、この一年を振り返って恒例の10大(重大)ニュースを。

1.定年退職
3月、産休補助教員時代を含めると、都合37年と6ヶ月間務めた中学校教員を定年退職した。
退職後は特に何もせず、のんびり過ごそうと思っていたのだが、とあるところからのご紹介もあって、4月からは自宅からそう遠くないところにあるキリスト教系の中・高一貫校に、非常勤講師として週4日午前中のみ10時間だけ勤務させてもらうことになった。高校生を教えるのは初めての経験で、最初は戸惑うところもあったのだが、半年間ほど過ぎるといろいろ様子もわかってきて、なかなか楽しく勤めることができた。学校からは来年も続けてほしいと言われているし、まだ基礎年金も支給されないので、とりあえずはもう一年お世話になろうと思っている。
また、地元のテニスクラブでソフトテニスのスクールを開催することになり、5月から週2回、小学生の部と中学生の部の2本立てで2時間半、そのコーチを務めることにもなった。こちらもまだ来年は続ける予定である。

2.眼窩骨折
2月、合気道浜名湖道場で稽古中、自分の不注意で前受け身から立ち上がろうとして、反対方向から前受け身をしていた道場生の顔面に右眼が激突、すぐに帰宅途中にある眼科医を受診したのだが、「軽い打撲」との診断で目薬だけ処方してもらって帰宅した。
その2週間後、友人の結婚式のため帰省した娘と娘の友人たちを乗せて二次会の会場へと向かう車中、ミキちゃんという総合病院で看護師をしている娘の友人が、右目の状態を見て「それ、ウチの科に来て診てもらった方がいいですよ、たぶん手術になると思いますけど」と言った。なんでも、「眼形成眼窩外科」という科らしい。すぐに最初に受信した眼科医から紹介状を書いてもらって、眼形成眼窩外科を受診。担当の先生からは「右目の周囲の骨が2箇所折れているので、明日にでも入院してすぐに手術した方がいいです」と言われた。自分の職業と、これから公立高校入試と卒業式を控えているのでとても仕事は休めない旨を話し、入院と手術は3月の春休みにしてほしいと依頼した。その春休み、個人的には50年ぶりとなる入院・手術。ちょうど1週間入院して無事退院した。
3ヶ月後の6月、プレートを取り除くために再入院・再手術。今度は2泊3日の入院で済んだ。先生からは「今度同じようなことがあったら、眼球破裂するかもしれません」と言われた。
今年は厄年だったことを思い出し、さっそく井伊直虎ゆかりの井伊谷宮にて厄払いのご祈祷をしていただいた。

3.旅あちこち
4月、退職したらどうしても見たいと思っていた京都・妙心寺退蔵院の枝垂れ桜。妙心寺に着いたときには降っていた雨も、お昼ご飯を食べている間に上がって、青空の下、満開の枝垂れ桜を堪能することができた。
5月、ソフトテニスの顧問仲間と一緒に、京都のミヤタ先生のご実家である京丹後市へ。成相寺から見た天橋立の絶景は忘れられない。伊根の舟屋も風情があってよかった。
8月、昨年末に亡くなった義父の追悼も兼ねて京都五山の送り火へ。マスヤマ先生のご厚意で、特別な場所にて送り火を見ることができた。京都のホテル近くにあった「鳳泉」で食べた「エビかしわそば」が絶品だった。
恒例の城崎温泉麻雀は、本部のカンキくんが不参加であったが、今年も内田先生からいろんなお話をうかがうことができ、濃密な時間を過ごすことができた。
月末の家内の誕生日小旅行は三度目の北海道へ。今年は道東(釧路湿原、阿寒湖、オンネトー、摩周湖、知床)を中心に廻った。特に知床の自然はとても一日で堪能できるものではない。ぜひまた行きたい。
10月、今年の大学時代のクラブの同期会は、ヒロセくんの住む札幌にて開催。以前、京都の百練先斗町店で仲良くなった札幌在住のオノデラさんにメールをすると、「一緒にラーメンでも食べに行きましょう」と駅までお迎えに来てくださった。持つべきものは友である。
同期会が終わった後、もう1泊して定山渓の紅葉見物に。地元の観光協会が運営する「かっぱバス」に乗って紅葉の名所巡りをしたあと、レンタカーにて豊平峡へ。そのあまりのスケールの大きさと紅葉に心から感動した。
12月、大阪でのウェスタンジャパンボウルの帰りに、滋賀県の永源寺と湖東三山を巡った。どこのお寺もたいへんに立派なお寺さんばかりで感心させられた。今度は紅葉の時期に訪れてみたい。
4.プリウスからトゥインゴへ
7月、プリウスのCDプレーヤーが故障して動かなくなったのをきっかけに、プリウスの次の車を考えるようになった。はじめはイタリア車を考えていたのだが、フィアットなどけっこう乗ってる人が多いのと、アルファロメオは値段が高いこともあったりして、どうしようかと考えていたとき、とあるネットの記事で見たルノーのトゥインゴが目に止まった。さっそく実車を見に行ってみた。家内もひどく気に入ったようだったので、迷わず8月に注文。ディーラーからは「納車までに3ヶ月ほどかかります」と言われていた。
11月、その3ヶ月が過ぎたが、ディーラーからは何の音沙汰もない。こちらから聞いてみると、「車を積んだ船はフランスを出たとのことです」と何とも不確かな返事。
明日がクリスマス・イブという12月、ようやくトゥインゴが納車された。実際に乗ってみると、直列3気筒DOHCターボエンジンを積んだRRのドライブは快適。とても0.9Lの車とは思えない走りである。
プリウスに乗ったのは12年と3か月。走行距離は159,131キロ。地球を約4周ほどした距離になる。よく走ってくれた。いい車だった。プリウスもいい跡継ぎができたと思ってくれていることと思う。

5.展覧会と演奏会
7月、久しぶりにインバル・都響がマーラー「大地の歌」を演奏するとのことで、東京の芸術劇場へ。せっかく東京へ行くのならばと、以前NHKEテレの日曜美術館で見て以来気になっていた吉田博展も見られると思い、演奏会の前に新宿の東郷青児記念美術館へ。期待に違わず、木版画の風景画はどれもため息が出るほどにすばらしい作品ばかりだった。
11月、久しぶりに大学のクラブの定期演奏会を聴くため兵庫県立芸術文化センターへ。せっかく関西に行くのならばと、京都で途中下車して国宝展も見ていくことにした。しかし、国宝展は平日だというのにものすごい人であった。とても一つ一つをじっくり見ている余裕などなかった。感動したのは平家納経。祈るというのはこういうことかと感動させられた。
定演については、あれこれ思うところがあった。まるで招聘した常任指揮者のための演奏会のような感じがして、もっと学生が学生らしくやればいいのにと思った演奏会であった。OBとしてはいささか淋しい感じがした。

6.光回線
自宅で後付けナビ用の地図更新をしようとしたのだが、あまりにダウンロードに時間がかかったことに業を煮やし、それまでのADSL回線を光回線に替えようと思い立った。あれこれ検討した結果、同じプロバイダーならばケータイの料金が安くなると聞き、SBの光回線を導入することにした。しかし、これがあれこれトラブル続きで、そのために夏休みの前半はほとんどその対応に追われた感じだった。
トラブルとは、光回線導入の前に、光回線と同様のスピードで接続できるとの触れ込みのSBAirとを試用したことで、実際はSBAirがとても使用に耐えるシロモノではなく、そのキャンセルに手間取ったことや、光回線導入に伴い固定電話もひかり電話に替えたため、NTTとの契約解除がうまくいかなかったり、わが家には光回線用の回線工事が行われていないのに、光回線に接続するためのキットだけが送られてきて、それを送り返したりというようなことであった。
それでも、ともかく8月の中旬以降にはめでたく光回線が開通した。とりあえず、今は快適なIT環境である。

7.K.G.ファイターズ
8月の終わりの秋のリーグ戦の開始とともに、毎年その経過をモニターしている関西学生アメリカンフットボールリーグ。最近は、rtvというサイトがインターネットで試合のライブ中継を配信してくれるので、自宅に居ながらにして試合観戦ができるのでたいへんにありがたい。
11月、全勝同士で対戦したファイターズとパンサーズ。残念ながらファイターズは負けてしまった。しかし、昨年から西日本代表校決定戦(ウエスタンジャパンボウル)には関西2位校も出場できることになって、パンサーズとは12月に再戦が決まった。ファイターズの執念が見たくて、大阪万博記念競技場まで足を運んだ。試合は、開始直後からファイターズがリード。モメンタムを掴んだファイターズはその後も着々と得点を重ねて、見事甲子園ボウル(全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝)出場を獲得した。
その甲子園ボウル、相手は因縁のフェニックス。ここ10年はずっと関西が勝っていたので今年も大丈夫だろうと思いきや、フェニックスの1年生QBに翻弄されての敗戦。でも、ファイターズは3年生が中心のチームだったので、来年はきっと今年よりも強くなった姿を見せてくれるだろうと期待したい。

8.役満
1月、支部例会にて緑一色を和了。普通に染めようとしていたら、いつの間にか赤の入っていない索子ばかりになっていた。振り込んだ人は、この年末年始をパリで過ごしている。
8月、本部例会にて大三元と小四喜を和了。大三元は、嶺上牌で白を引いて自摸。観戦していたマエダくん曰く「まるで劇画みたいだ!」と。小四喜は、立直をかけていた某氏がラス東を「あっ!」と言いながら場に落として栄。しかしその後、某氏は四暗刻を自摸。半荘で役満が3回も出たのには驚いた。

9.読んだ本
今年読んだ本の中でベストワンは、立花隆「武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋)。武満徹が何を考え感じながら作曲していたかという核心に迫ろうとしているだけでなく、何より筆者の武満徹への愛情がひしひしと感じられる。武満徹について書かれた本の中ではベストのものであろう。
次点は、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)。太平洋戦争後の日本の状況を、これだけ克明に描いた著作はなかったのではないか。日本人の自分ですら知らなかった事実が多々あった。
もう一点、アレックス・ロス『これを聴け」(みすず書房)。とにかく、こういう音楽評論を読んだことがなかった。日本にもこんな書き手が現れてほしい。

10.映画
もちろんベストワンは、「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」。今までのスター・ウォーズの物語へのオマージュを忘れることなく、新たな物語の始まりを予感させるものとなっていたと思う。今からエピソード9が楽しみである。

今年は、共謀罪の成立をはじめとして、国会を軽視する現政権の横暴ぶりが目立った一年だった。しかし、衆院選挙では現与党が再び政権党となった。日本の政治は劣化しているのだろうか。自分にできることは多くないであろうが、少なくとも権力の横暴にはでき得る限り対峙していく姿勢を持ち続けたい。

それではみなさま、どうぞよいお年お迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2016年も残すところ数日ということで、恒例の10大ニュースで今年一年を振り返ってみたい。

1.イタリア再訪と北海道小旅行
10月、甲南麻雀連盟の山本浩二画伯のミラノでの個展開催に合わせ、2年ぶりにイタリアを再訪。ローマから入り、フィレンツェ、ヴェネチアを回ってミラノへ。
特に印象深かったのはヴェネチア。まだまだ行ってみたいところがたくさんあるので、いつの日かまた再訪を果たしたい。
8月、家内の誕生日小旅行は今年も北海道へ。ニセコの神仙沼、羊蹄山と大沼公園・駒ケ岳の絶景、函館の夜景と朝市、どれも忘れられない思い出である。

2.娘の結婚と義父の葬儀
7月、娘が入籍した。お相手は、川崎市出身でN社に勤務するエンジニア。披露宴は来年の1月、東京にて開催予定である。よき伴侶を得て、これから幸せな家庭を築いていってほしい。
12月、家内の父親が亡くなった。7回にも及ぶ手術を乗り越えての強靭な生命力は、眠りながら安らかに最後の時を迎えたとのことであった。できうれば、あと1ヶ月待って娘の晴れ姿を見てほしかった。

3.部活動最後のベンチ
9月の新人大会をもって、34年間に及んだ部活動監督も現役最後のベンチとなった。昨今は、小学校からのジュニア選手の活躍ばかりが目立つ中体連大会である。中学校から競技を始めた選手を育てる楽しみも魅力も、なくなりつつあるように感じる。そういう意味では、ひとつの時代が終わる時期のタイムリーな引退ということなのであろう。

4.甲南麻雀連盟川床宴会
8月、京都先斗町の歌舞練場近くにオープンした「百練先斗町店」に、甲南麻雀連盟の面々が集合して川床宴会を開催。直前に内田総長が令兄を亡くされたとのことで、一時は開催を見合わせることになったのだが、内田総長から「兄の供養のために愉快な席にしたいと思います」とのご連絡をいただき、当日は鷲田先生もご参加くださって、何とも盛り上がった会になった。今年の忘れられない大切な思い出の一日であった。

5.寿荘閉店
6月、われらが甲南麻雀連盟浜松支部のホームグラウンドであった寿荘が閉店した。格安、禁煙、飲み物・食べ物持ち込み自由という、まことに快適な雀荘であった。通い始めて四半世紀。街の雀荘がなくなっていくのは、まことに寂しいかぎりである。

6.アップルウォッチとiPhone7
4月、SoftBankの「3月中なら20Kオフ」という惹句に誘われてアップルウォッチを購入。最初はどんな使い方ができるか半信半疑であったが、毎日のウォーキングの計測や、バス・電車の時間確認、メールの確認等で、今ではなくてはならない必需品である。何より、いちいちiPhoneを持ち出さなくてもあれこれ確認できるところが便利なのである。
11月、それまで絶好調だったiPhone6の電源が、残り30%くらいからいきなりダウンするようになってしまった。原因は不明。ちょうどそんなときに、SoftBankから「11月中なら15Kオフ」のDMが来たので、思い切ってiPhone7に機種変。どうやら僕は、「今月中なら◯◯オフ」という文句に弱いらしい。
12月、甲子園ボウルに行った際、iPhone7にSuicaを入れて阪神電車の改札を通ってみた。すんなり通れた(当然です!)ので感動した。

7.KGUSB同期会
5月、学生時代のクラブの同期会を今年は福岡にて開催。九州でのKGの集いに合わせての開催だったので、同期ばかりでなく、先輩や後輩など懐かしい顔ぶれに会うことができた。みんなで大宰府を回ったり、夜は博多のとんこつラーメンを食べたりして、まことに楽しいひとときを過ごすことができた。来年は北海道で開催とか。楽しみである。

8.K.G.ファイターズの応援
11月、関西学生アメリカンフットボールリーグ最終戦、対パンサーズ戦の応援で大阪万博記念競技場へ。万博公園の駐車場は当日のイベントの関係でかなり混み合うとのことだったのだが、阪大ナカノ先生のご厚意で阪大構内に駐車させてもらうことができた。早めに着いたので、万博公園内を散策。国立民族学博物館も見学することができた。
試合はファイターズが気迫のこもった試合運びでパンサーズを圧倒。西日本代表決定戦では、パンサーズを再び破って、甲子園ボウルへと駒を進めた。
12月の甲子園ボウルでは、東日本代表の早稲田大学ビッグ・ベアーズを撃破して、2年ぶりに王座奪還を果たした。来年1月のライスボウルが楽しみである。

9.ひもトレ・バランスボード講習会
4月、小関先生による浜松で初の「ひもトレ講習会」が開かれた。小関先生は、物静かで淡々とヒモの効果をあれこれ実践して見せてくださった。驚きだった。
11月には、バランスボードを中心とした講習会も開いてくださった。人の身体の持つ不思議さをあらためて実感させられた。

10.本と映画
今年読んだ本のベストワンは、小坂井敏晶『社会心理学講義』(筑摩選書)。久しぶりに知的興奮を掻き立てられた。
次点は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)。原発稼働を支持する人には、ぜひ読んでほしい著作である。
見た映画のベストワンは、マリー・カスティーユ・マンシオン・シャール監督『軌跡の教室』。教育に携わるすべての人に見てほしい映画である。
次点は、エディ・ホニグマン監督『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』。ベルリン・フィルと並ぶ世界最高のオーケストラの演奏旅行を中心としたドキュメンタリー映画である。ロシアの老人がマーラーの『復活』を聴いて涙するラストシーンが印象的だった。

定年退職まで、残すところあと3ヶ月となった。最後まできちんと勤めて、37年間の教職生活を締めくくりたい。

では、どちらさまもよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。